ろまん灯籠

       太宰 治


その一

1

八年まえにくなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族いかぞくは皆すこし変っているようである。いや、変調子というのではなく、案外あんがいそのような暮しかたのほうが正しいので、かえって私ども一般の家庭のほうこそ変調子になっているのかも知れないが、とにかく、入江の家の空気は、普通の家のそれとは少し違っているようである。この家庭の空気から暗示を得て、私は、よほど前に一つの短編たんぺん小説をつくってみた事がある。私は不流行の作家なので、創った作品を、すぐに雑誌ざっしせてもらう事も出来ず、その短編小説も永い間、私の机の引き出しの底にしまわれたままであったのである。その他にも、私には三つ、四つ、そういう未発表のままの、わば筐底きょうてい深く秘めたる作品があったので、おととしの早春、それらを一纏ひとまとめにして、いきなり単行本として出版したのである。まずしい創作集ではあったが、私には、いまでも多少の愛着があるのである。なぜなら、その創作集の中の作品は、一様にあまく、何の野心も持たず、ひどく楽しげに書かれているからである。いわゆる力作は、何だかぎくしゃくして、あとで作者自身が読みかえしてみると、いやな気がしたり等するものであるが、気楽な小曲には、そんな事が無いのである。れいにって、その創作集も、あまり売れなかったようであるが、私は別段その事を残念にも思っていない。売れなくて、よかったとさえ思っている。愛着は感じていても、その作品集の内容を、最上質のものとは思っていないからである。冷厳れいげん鑑賞かんしょうには、とてもえられる代物しろものではないのである。わば、だらしない作品ばかりなのである。けれども、作者の愛着は、またおのずから別のものらしく、私は時折、その甘ったるい創作集を、こっそり机上に開いて読んでいる事もあるのである。その創作集の中でも、最も軽薄けいはくで、しかも一ばん作者に愛されている作品は、すなわち、冒頭にいて述べた入江新之助氏の遺家族から暗示を得たところの短編小説であるというわけなのである。もとより軽薄けいはくな、たわいの無い小説ではあるが、どういうわけだか、私には忘れられない。

2

──兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。

3

長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大そんだいぶる悪癖あくへきがあるけれども、これは彼自身の弱さをかばう鬼のめんであって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作ださくだ、愚作ぐさくだと言いながら、その映画のさむらいの義理人情ぎりにんじょうにまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。映画館を出てからは、急に尊大に、むっと不機嫌ふきげんになって、みちみち一言も口をきかない。生れて、いまだ一度も嘘言うそというものをついた事が無いと、躊躇ちゅうちょせず公言している。それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直ごうちょく潔白けっぱくの一面は、たしかに具有ぐゆうしていた。学校の成績はあまりよくなかった。卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている。イプセンを研究している。このごろ「人形の家」をまた読み返し、重大な発見をして、すこぶ興奮こうふんした。ノラが、あのとき恋をしていた。お医者のランクに恋をしていたのだ。それを発見した。弟妹たちを呼び集めてそのところを指摘し、大声叱咤しった、説明に努力したが、徒労とろうであった。弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。いったいに弟妹たちは、この兄を甘く見ている。なめているふうがある。

4

長女は、二十六歳。いまだとつがず、鉄道省に通勤つうきんしている。フランス語が、かなりよく出来た。背丈せたけが、五尺三寸あった。すごく、せている。弟妹たちに、馬、と呼ばれる事がある。髪を短く切って、ロイド眼鏡をかけている。心が派手で、誰とでもすぐ友達になり、一生懸命に奉仕ほうしして、捨てられる。それが、趣味である。憂愁ゆうしゅう寂寥せきりょうの感を、ひそかに楽しむのである。けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏かんりに夢中になり、そうして、やはり捨てられた時には、その時だけは、流石さすがに、しんからげっそりして、の悪さもあり、肺が悪くなったとうそをついて、一週間も寝て、それからくび繃帯ほうたいを巻いて、やたらにせきをしながら、お医者に見せに行ったら、レントゲンで精細せいさいにしらべられ、まれに見る頑強がんきょう肺臓はいぞうであるといって医者にほめられた。文学鑑賞は、本格的であった。実によく読む。洋の東西を問わない。ちから余って自分でも何やら、こっそり書いている。それは本箱の右の引き出しに隠して在る。逝去せいきょ二年後に発表のこと、と書きしたためられた紙片が、その蓄積ちくせきされた作品の上に、きちんと載せられているのである。二年後が、十年後と書き改められたり、二ケ月後と書き直されたり、ときには、百年後、となっていたりするのである。

5

次男は、二十四歳。これは、俗物ぞくぶつであった。帝大の医学部に在籍ざいせき。けれども、あまり学校へは行かなかった。からだが弱いのである。これは、ほんものの病人である。おどろくほど、美しい顔をしていた。吝薔りんしょくである。長兄が、ひとにだまされて、モンテエニュの使ったラケットと称する、へんてつもない古いラケットを五十円に値切って買って来て、得々とくとくとしていた時など、次男は、陰でひとり、余りの痛憤つうふんに、大熱を発した。その熱のために、とうとう腎臓じんぞうをわるくした。ひとを、どんなひとをも、蔑視べっししたがる傾向けいこうが在る。ひとが何かいうと、けッという奇怪な、からす天狗てんぐの笑い声に似た不愉快ふゆかいきわまる笑い声を発するのである。ゲエテ一点張りである。これとても、ゲエテの素朴そぼくな詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒けいとうしているらしい、ふしが、無いでもない。あやしいものである。けれども、兄妹みんなで、即興そっきょうの詩など競作する場合には、いつでも一ばんである。出来ている。俗物ぞくぶつだけに、わば情熱の客観的把握きゃっかんてきはあくが、はっきりしている。自身その気で精進しょうじんすれば、あるいは二流の作家くらいには、なれるかも知れない。この家の、足のわるい十七の女中に、死ぬほど好かれている。

6

次女は、二十一歳。ナルシッサスである。ある新聞社が、ミス・日本をつのっていた時、あの時には、よほど自己推薦すいせんしようかと、三夜身悶みもだえした。大声あげて、わめき散らしたかった。けれども、三夜の身悶えの果、自分の身長が足りない事に気がつき、断念した。兄妹のうちで、ひとり目立って小さかった。四尺七寸である。けれども、決して、みっともないものではなかった。なかなかである。深夜、裸形らけいで鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻せっぷんして、うっとり眼をつぶってみたり、いちど鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱ゆううつのあまり、自殺を計った事がある。読書の撰定せんていに特色がある。明治初年の、佳人之奇遇かじんのきぐう経国美談けいこくびだんなどを、古本屋からさがして来て、ひとりで、くすくす笑いながら読んでいる。黒岩涙香るいこう、森田思軒しけんなどの翻訳ほんやくをも、好んで読む。どこから手に入れて来るのか、名の知れぬ同人雑誌をたくさん集めて、面白いなあ、うまいなあ、と真顔でつぶやきながら、端から端まで、たんねんに読破どくはしている。ほんとうは、鏡花きょうかをひそかに、最も愛読していた。

7

末弟は、十八歳である。ことし一高の、理科甲類に入学したばかりである。高等学校へはいってから、かれの態度が俄然がぜんかわった。兄たち、姉たちには、それが可笑おかしくてならない。けれども末弟は、大まじめである。家庭内のどんなささやかな紛争ふんそうにでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深しあんぶかげに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は一家中から敬遠の形である。末弟には、それが不満でならない。長女は、かれのぶっとふくれた不機嫌ふきげんの顔を見かねて、ひとりでは大人おとなになった気でいても、誰も大人と見ぬぞかなしき、という和歌を一首つくって末弟に与えかれの在野遺賢の無聊ぶりょうをなぐさめてやった。顔が熊の子のようで、愛くるしいので、きょうだいたちが、何かとかれにかまいすぎて、それがために、かれは多少おっちょこちょいのところがある。探偵たんてい小説を好む。ときどきひとり部屋の中で、変装へんそうしてみたりなどしている。語学の勉強と称して、和文対訳のドイルのものを買って来て、和文のところばかり読んでいる。きょうだい中で、家のことを心配しているのは自分だけだと、ひそかに悲壮ひそうの感に打たれている。──

8

以上が、その短編たんぺん小説の冒頭の文章であって、それから、ささやかな事件が、わずかに展開するという仕組みになっていたのであるが、それは、もとよりたわいの無い作品であった事は前にも述べた。私の愛着は、その作品に対してよりも、その作中の家族に対してのほうが強いのである。私は、あの家庭全体を好きであった。たしかに、実在の家庭であった。すなわち、故人こじん、入江新之助氏の遺家族のスケッチに違いないのである。もっとも、それは必ずしも事実そのままの叙述じょじゅつではなかった。大げさな言いかたで、自分でも少からず狼狽ろうばいしながら申し上げるのであるが、わば、詩と真実以外のものは、適度に整理して叙述した、というわけなのである。ところどころに、大嘘をさえ、まぜている。けれども、大体は、あの入江の家庭の姿を、写したものだ。一毛いちもういて差異はあっても、九牛きゅうぎゅうに於いては、リアルであるというわけなのだ。もっとも私は、あの短編たんぺん小説に於いて、兄妹五人と、それから優しく賢明な御母堂にいてだけ書いたばかりで、祖父ならびに祖母の事は、作品構成の都合上、無礼千万にも割愛かつあいしてしまっているのである。これは、たしかに不当なる処置であった。入江の家を語るのに、その祖父、祖母を除外しては、やはり、どうしても不完全のようである。私は、いまはそのお二人にいても語って置きたいのである。そのまえに一つお断りしなければならない事がある。それは、私のこれからの叙述の全部は、現在ことしの、入江の家の姿ではなく、四年前に私がひそかに短編小説に取りいれたその時の入江の家の雰囲気ふんいきに他ならないという一事である。いまの入江家は、少し違っている。結婚した人もある。亡くなられた人さえある。四年以前にくらべて、いささか暗くなっているようである。そうして私も、いまは入江の家に、昔ほど気楽に遊びに行けなくなってしまった。つまり、五人の兄妹も、また私も、みんなが少しずつ大人おとなになってしまって、礼儀れいぎも正しく、よそよそしく、いわゆる、あの「社会人」というものになった様子で、お互い、たまにっても、ちっとも面白くないのである。はっきり言えば、現在の入江家は、私にとって、あまり興味がないのである。書くならば、四年前の入江家を書きたいのである。それゆえ、私の之から叙述するのも、四年前の入江の家の姿である。現在は、少し違っている。それだけをお断りして置いて、さて、その頃の祖父は、──毎日、何もせずに遊んでばかりいたようである。もし入江の家系に、非凡ひぼん浪曼ろうまんの血が流れているとしたならば、それは、の祖父から、はじまったものではないかと思われる。もはや八十を過ぎている。毎日、用事ありげに、麹町こうじまちの自宅の裏門から、そそくさと出掛ける。実に素早すばやい。この祖父は、壮年そうねんの頃は横浜で、かなりの貿易商を営んでいたのである。令息れいそくの故新之助氏が、美術学校へ入学した時にも、少しも反対せぬばかりか、かえって身辺の者に誇ってさえいたというほどの豪傑ごうけつである。としとって隠居いんきょしてからでも、なかなか家にじっとしてはいない。家人のすきをうかがっては、ひらりと身をひるがえして裏門から脱出する。すたすた二、三丁歩いて、うしろを振り返り、家人が誰もついて来ないという事を見とどけてから、懐中かいちゅうより鳥打帽とりうちぼうをひょいと取出して、あみだにかぶるのである。派手はで格子縞こうしじまの鳥打帽であるが、ひどく古びている。けれども、これをかぶらないと散歩の気分が出ないのである。四十年間、愛用している。これをかぶって、銀座に出る。資生堂へはいって、ショコラというものを注文する。ショコラ一ぱいに、一時間も二時間も、ねばっている。あちら、こちらを見渡し、むかしの商売仲間が若い芸妓げいぎなどを連れて現れると、たちまち大声で呼び掛け、放すものでない。無理矢理、自分のボックスに座らせて、ゆるゆると厭味いやみを言い出す。これが、こらえられぬ楽しみである。家へ帰る時には、必ず、誰かにわずかなお土産みやげを買って行く。やはり、気がひけるのである。このごろは、めっきり又、家族の御機嫌ごきげんうかがうようになった。勲章くんしょうを発明した。メキシコの銀貨に穴をあけて赤い絹紐きぬひもを通し、家族にいて、その一週間もっとも功労こうろうのあったものに、これ贈呈ぞうていするという案である。誰も、あまり欲しがらなかった。その勲章をもらったが最後、その一週間は、家に在るとき必ず胸にり下げていなければいけないというのであるから、家族ひとしく閉口している。母は、しゅうとに孝行であるから、それをもらっても、ありがたそうな顔をして、帯の上に、それでもなるべく目立たないように吊り下げる。祖父の晩酌ばんしゃくのビイルを一本多くした時には、母は、いや応なしに、この勲章をその場で授与じゅよされてしまうのである。長兄も、真面目な性質であるから、たまに祖父の寄席よせのお伴の功などで、うっかり授与されてしまう事があっても、それでも流石さすがに悪びれず、一週間、胸にちゃんと吊り下げている。長女、次男は、逃げ回っている。長女は、私にはとてもその資格がありませんからと固辞こじして利巧りこうに逃げている。ことに次男は、その勲章を自分の引出しにしまい込んで、落したと嘘をついた事さえある。祖父は、たちまち次男の嘘を看破かんぱし、次女に命じて、次男の部屋を捜査そうささせた。次女は、運わるくそのメダルを発見したので、こんどは、次女に贈呈ぞうていされた。祖父は、この次女を偏愛へんあいしている様子がある。次女は、一家中で最もたかぶり、少しの功も無いのに、それでも祖父は、何かというと此の次女に勲章を贈呈したがるのである。次女は、その勲章をもらうと、たいてい自分の財布の中に入れて置く。祖父は、次女にだけは、そんな除外例を許可するのである。胸に吊り下げずとも、いいのである。一家中で、多少でも、その勲章を欲しいと思っているのは、末弟だけである。末弟も流石にそれを授与されて胸に吊り下げられると、何だか恥ずかしくて落ちつかない気がするのだけれど、それを取り上げられて誰か他の人に渡される時には、ふっとさびしくなるのである。次女の留守るすに、次女の部屋へこっそりはいっていって財布を捜し出し、その中のメダルをなつかしそうに眺めている時もある。祖母は、この勲章を一度も授与された事が無い。はじめから、きっぱり拒否しているのである。ひどく、はっきりした人なのである。ばからしい、と言っている。この祖母は、末弟を目にいれても痛くないほど可愛がっている。末弟が一時、催眠術さいみんじゅつの研究をはじめて、祖父、母、兄たち姉たち、みんなにその術をかけてみても誰も一向にかからない。みんな、きょろきょろしている。大笑いになった。末弟ひとり泣きべそかいて、汗を流し、最後に祖母へかけてみたら、たちまちにかかった。祖母は椅子いすに腰かけて、こくりこくりと眠りはじめ、術者じゅつしゃのおごそかな問いに、無心に答えるのである。 「おばあさん、花が見えるでしょう?」
「ああ、綺麗きれいだね。」
「なんの花ですか?」
「れんげだよ。」
「おばあさん、一ばん好きなものは何ですか?」
「おまえだよ。」

9

術者は、少し興覚きょうざめた。
「おまえというのは、誰ですか?」
「和夫(末弟の名)じゃないか。」

10

そば拝見はいけんしていた家族のものが、どっと笑い出したので、祖母は覚醒かくせいした。それでも、まず、術者の面目は、保ち得たのである。とにかく祖母だけは、術にかかったのだから。でも、あとで真面目な長兄が、おばあさん、本当にかかったのですか、とこっそり心配そうにたずねたとき、祖母は、ふんと笑って、かかるものかね、とつぶやいた。

11

以上が、入江家の人たち全部のだいたいの素描そびょうである。もっと、くわしく紹介したいのであるが、いまは、それよりも、この家族全部で連作した一つの可成かなり長い「小説」を、お知らせしたいのである。入江の家の兄妹たちは、みんな、多少ずつ文芸の趣味を持っている事は前にも言って置いた。かれらは時々、物語の連作をはじめる事がある。たいてい、曇天どんてんの日曜などに、兄妹五人、客間に集っておそろしく退屈たいくつして来ると、長兄の発案で、はじめるのである。ひとりが、思いつくままに勝手な人物を登場させて、それから順々に、その人物の運命やら何やらを捏造ねつぞうしていって、ついに一編いっぺんの物語を創造するという遊戯ゆうぎである。簡単にすみそうな物語なら、その場で順々に口で言って片付けてしまうのであるが、発端ほったんから大いに面白そうな時には、大事をとって、順々に原稿用紙に書いて回すことにしている。そのような、かれら五人の合作の「小説」が、すでに四、五編も、たまっているはずである。たまには、祖父、祖母、母もお手伝いする事になっている。このたびの、やや長い物語にも、やはり、祖父、祖母、母のお手伝いが在るようである。


その二

12

たいてい末弟が、よく出来もしないくせに、まず、まっさきに物語る。そうして、たいてい失敗する。けれども末弟は、絶望しない。こんどこそと意気込む。お正月五日間のお休みの時、かれらは、少し退屈して、れいの物語の遊戯ゆうぎをはじめた。その時も、末弟は、僕にやらせて下さい僕に、と先陣せんじんを志願した。まいどの事ではあり、兄姉たちは笑ってゆるした。このたびは、としのはじめの物語でもあり、大事をとって、原稿用紙にきちんと書いて順々に回すことにした。締切しめきりは翌日の朝。めいめいが一日たっぷり考えて書く事が出来る。五日目の夜か、六日目の朝には、一編いっぺんの物語が完成する。それまでの五日間、かれら五人の兄妹たちは、かすかに緊張し、ほのかに生き甲斐がいを感じている。

13

末弟は、れいにって先陣を志願し、ゆるされて発端ほったんを説き起す事になったが、さて、何の腹案も無い。スランプなのかも知れない。ひき受けなければよかったと思った。一月一日、他の兄姉たちは、それぞれ、よそへ遊びに出てしまった。祖父は勿論もちろん、早朝から燕尾服えんびふくを着て姿を消したのである。家に残っているのは、祖母と母だけである。末弟は、自分の勉強室で、鉛筆えんぴつをけずり直してばかりいた。泣きたくなって来た。万事窮ばんじきゅうして、とうとう悪事をたくらんだ。剽窃ひょうせつである。これより他は、無いと思った。胸をどきどきさせて、アンデルセン童話集、グリム物語、ホオムズの冒険などを読みあさった。あちこちから盗んで、どうやら、まとめた。

14

──むかし北の国の森の中に、おそろしい魔法使いのばあさんが住んでいました。実に、悪いみにくい婆さんでありましたが、一人娘のラプンツェルにだけは優しく、毎日、金のくしで髪をすいてやって可愛がっていました。ラプンツェルは、美しい子でした。そうして、たいへん活溌かっぱつな子でした。十四になったら、もう、婆さんの言う事をきかなくなりました。婆さんを逆に時々、しかる事さえありました。それでも、婆さんはラプンツェルを可愛くてたまらないので、笑って負けていました。森の樹々が、木枯こがらしに吹かれて一日一日、素肌をあらわし、魔法使いの家でも、そろそろ冬籠ふゆごもりの仕度したくに取りかかりはじめた頃、素張すばらしい獲物えものがこの魔法の森の中に迷い込みました。馬に乗った綺麗きれいな王子が、たそがれの森の中に迷い込んで来たのです。それは、この国の十六歳の王子でした。狩に夢中になり、家来たちにはぐれてしまい、帰りの道を見失ってしまったのでした。王子のきんよろいは、薄暗い森の中で松明たいまつのように光っていました。婆さんは、これを見のがすはずは、ありません。風のように家を飛び出し、たちまち王子を、馬からひきずり落してしまいました。 「この坊ちゃんは、えているわい。この肌の白さは、どうじゃ。胡桃くるみの実でやしたんじゃな!」とのどを鳴らして言いました。婆さんは長いこわひげを生やしていて、眉毛まゆげは目の上までかぶさっているのです。「まるで、ふとらした小羊そっくりじゃ。さて、味はどんなもんじゃろ。冬籠ふゆごもりには、こいつの塩漬けが一ばんいい。」とにたにた笑いながら短刀を引き抜き、王子の白いのどにねらいをつけた瞬間、
「あっ!」と婆さんは叫びました。婆さんは娘のラプンツェルに、耳をまれてしまったからです。ラプンツェルは婆さんの背中に飛びついて、婆さんの左の耳朶みみたぶを、いやというほど噛んで放さないのでした。 「ラプンツェルや、ゆるしておくれ。」と婆さんは、娘を可愛がって甘やかしていますから、ちっとも怒らず、無理に笑ってあやまりました。ラプンツェルは、婆さんの背中をゆすぶって、
「この子は、あたしと遊ぶんだよ。この綺麗きれいな子を、あたしにおくれ。」と、だだをこねました。可愛がられ、わがままに育てられていますから、とても強情ごうじょうで、一度言い出したら、もう後へは引きません。婆さんは、王子を殺して塩漬けにするのを一晩だけ、がまんしてやろうと思いました。
「よし、よし。おまえにあげるわよ。今晩は、おまえのお客様に、うんと御馳走ごちそうしてやろう。その代り、あしたになったら、婆さんにかえして下され。」

15

ラプンツェルは、首肯うなずきました。その夜、王子は魔法の家で、たいへん優しくされましたが、生きた心地もありませんでした。晩の御馳走は、かえる焼串やきぐし、小さい子供の指を詰めたまむしの皮、天狗茸てんぐだけ二十日鼠はつかねずみのしめった鼻と青虫の五臓とで作ったサラダ、飲み物は、沼の女の作った青みどろのお酒と、墓穴ぼけつから出来る硝酸酒しょうさんしゅとでした。びたくぎと教会の窓ガラスとが食後のお菓子でした。王子は、見ただけで胸が悪くなり、どれにも手をけませんでしたが、婆さんと、ラプンツェルは、おいしいおいしいと言って飲み食いしました。いずれも、この家の、とって置きの料理なのでありました。食事がすむと、ラプンツェルは、王子の手をとって自分の部屋へ連れて行きました。ラプンツェルは、王子と同じくらいの背丈せたけでした。部屋へはいってから、王子の肩を抱いて、王子の顔をのぞき、小さい声で言いました。 「お前があたしを嫌いにならないうちは、お前を殺させはしないよ。お前、王子さまなんだろ?」

16

ラプンツェルの髪の毛は、婆さんに毎日すいてもらっているおかげで、まるで黄金をつむいだように美事に光り、脚の辺まで伸びていました。顔は天使のように、ふっくりして、黄色い薔薇ばらの感じでありました。唇は小さくいちごのように真赤でした。目は黒くんで、どこか悲しみをたたえていました。王子は、いままで、こんな美しい女の子を見た事がない、と思いました。
「ええ。」と王子は低く答えて、少し気もゆるんで、涙をぽたぽた落しました。

17

ラプンツェルは、黒く澄んだ目で、じっと王子を見つめていましたが、ちょっと首肯うなずいて、
「お前があたしを嫌いになっても、人に殺させはしないよ。そうなったら、あたしが自分で殺してやる。」と言って、自分も泣いてしまいました。それから急に大声で笑い出して、涙を手の甲でぬぐい、王子の目をも同様に拭いてやって、「さあ、今夜はあたしと一緒に、あたしの小さな動物のところに寝るんだよ。」と元気そうに言って隣りの寝室に案内しました。そこには、わらと毛布がいてありました。上を見ますと、はりや止り木に、およそ百羽ほどのはとがとまっていました。みんな、眠っているように見えましたが、二人が近づくと、少しからだを動かしました。 「これは、みんな、あたしのだよ。」とラプンツェルは教えて、すばやく手近の一羽をつかまえ、足を持ってゆすぶりました。鳩は驚いて羽根をばたばたさせました。「キスしてやっておくれ!」とラプンツェルは鋭く叫んで、その鳩で王子のほおを打ちました。
「あっちのからすは、森のやくざ者だよ。」と部屋のすみの大きい竹籠たけかごあごでしゃくって見せて、「十羽いるんだが、何しろみんな、やくざ者でね、ちゃんと竹籠に閉じこめて置かないと、すぐ飛んでいってしまうのだよ。それから、ここにいるのは、あたしの古い友達のベエだよ。」と言いながら一ぴきの鹿を、角をつかんで部屋の隅から引きずり出して来ました。鹿のくびには銅の頸輪がはまっていて、それに鉄の太いくさりがつながれていました。「こいつも、しっかり鎖でつないで置かないと、あたし達のところから逃げ出してしまうのだよ。どうしてみんな、あたし達のところに、いつかないのだろう。どうでもいいや。あたしは毎晩、ナイフでもって、このベエの頸をくすぐってやるんだ。するとこいつは、とてもこわがって、じたばたするんだよ。」そう言いながらラプンツェルは壁のけ目からぴかぴか光る長いナイフを取り出して、それでもって鹿のくびをなでまわしました。可哀そうに、鹿は、せつながって身をくねらせ、油汗あぶらあせを流しました。ラプンツェルは、その様を見て大声で笑いました。 「君は寝る時も、そのナイフをそばに置いとくのかね?」と王子は少しこわくなって、そっと聞いてみました。
「そうさ。いつだってナイフを抱いて寝るんだよ。」とラプンツェルは平気な顔で答えました。「何が起るかわからないもの。それはいいから、さあもう寝よう。お前が、どうしてこの森へ迷い込んだか、それをこれから聞かせておくれ。」ふたりはわらの上に並んで寝ました。王子は、きょう森へ迷い込むまでの事の次第を、どもりどもり申しました。
「お前は、その家来たちとわかれて、さびしいのかい?」
さびしいさ。」
「お城へ帰りたいのかい?」
「ああ、帰りたいな。」
「そんな泣きべそをかく子は、いやだよ!」と言ってラプンツェルは急にね起き、「それよりか、うれしそうな顔をするのが本当じゃないか。ここに、パンが二つと、ハムが一つあるからね、途中でおなかがすいたら、食べるがいいや。何を愚図愚図ぐずぐずしているんだね。」

18

王子は、あまりの嬉しさに思わず飛び上りました。ラプンツェルは母さんのように落ちついて、
「ああ、この毛の長靴をおはき。お前にあげるよ。途中、寒いだろうからね。お前には寒い思いをさせやしないよ。これ、おばあさんの大きな指なし手袋さ。さあ、はめてごらん。ほら、手だけ見ると、まるであたしの汚いお婆さんそっくりだ。」

19

王子は、感謝かんしゃの涙を流しました。ラプンツェルは次に鹿を引きずり出し、その鎖をほどいてやって、
「ベエや、あたしは出来ればお前を、もっとナイフでくすぐってやりたいんだよ。とても面白いんだもの。でも、もう、どうだっていいや。お前を、逃がしてやるからね、この子をお城まで連れていっておくれ。この子は、お城へ帰りたいんだってさ。どうだって、いいや。うちのお婆さんより早く走れるのは、お前の他に無いんだからね。しっかりたのむよ。」

20

王子は鹿の背に乗り、
「ありがとう、ラプンツェル。君を忘れやしないよ。」
「そんな事、どうだっていいや。ベエや、さあ、走れ! 背中のお客さまを振り落したら承知しょうちしないよ。」
「さようなら。」
「ああ、さようなら。」泣き出したのは、ラプンツェルのほうでした。

21

鹿はやみの中を矢のように疾駆しっくしました。やぶを飛び越え森を突き抜け一直線に湖水を渡り、おおかみえ、烏が叫ぶ荒野を一目散いちもくさん、背後に、しゅっしゅっと花火の燃えて走るような音が聞えました。
「振り向いては、いけません。魔法使いのお婆さんが追い駆けているのです。」と鹿は走りながら教えました。「大丈夫です。私より早いものは、流れ星だけです。でも、あなたはラプンツェルの親切を忘れちゃいけませんよ。気象きしょうは強いけれども、淋しい子です。さあ、もうお城につきました。」

22

王子は、夢みるような気持で、お城の門の前に立っていました。

23

可哀そうなラプンツェル。魔法使いの婆さんは、こんどは怒ってしまったのです。大事な大事な獲物えものを逃がしてしまった。わがままにも程があります。と言ってラプンツェルを森の奥の真暗い塔の中に閉じこめてしまいました。その塔には、戸口も無ければ階段も無く、ただ頂上の部屋に、小さい窓が一つあるだけで、ラプンツェルは、その頂上の部屋にあけくれ寝起きする身のうえになったのでした。可哀そうなラプンツェル。一年経ち二年経ち、薄暗い部屋の中で誰にも知られず、むなしく美しさを増していました。もうすっかり大人おとなになって考え深い娘になっていました。いつも王子の事を忘れません。さびしさのあまり、月や星にむかって歌をうたう事もありました。淋しさが歌声の底にこもっているので、森の鳥や樹々もそれを聞いて泣き、お月さまも、うるみました。月に一度ずつ、魔法使いの婆さんが見回りに来ました。そうして食べ物や着物を置いて行きました。婆さんは、ラプンツェルを、やっぱり可愛くて、塔の中で飢え死させるのが、つらいのです。婆さんには魔法の翼があるので、自由に塔の頂上の部屋に出入りする事が出来るのでした。三年経ち、四年経ち、ラプンツェルも、自然に十八歳になりました。薄暗い部屋の中で、自分で気がかずに美しくかがやいていました。自分の花の香気こうきは、自分では気がつきません。そのとしの秋に、王子は狩に出かけ、またもや魔の森に迷い込み、ふと悲しい歌を耳にしました。何とも言えず胸にしみ入るので、たましいうばわれ、ふらふら塔の下まで来てしまいました。ラプンツェルではないかしら。王子は、四年前の美しい娘を決して忘れてはいませんでした。 「顔を見せておくれ!」と王子は精一ぱいの大声で叫びました。「悲しい歌は、やめて下さい。」

24

塔の上の小さい窓から、ラプンツェルは顔を出して答えました。「そうおっしゃるあなたは誰です。悲しい者には悲しい歌が救いなのです。ひとの悲しさもおわかりにならないくせに。」
「ああ、ラプンツェル!」王子は、狂喜しました。「私を思い出しておくれ!」

25

ラプンツェルの頬は一瞬さっと蒼白あおじろくなり、それからほのぼの赤くなりました。けれども、幼い頃の強い気象がまだ少し残っていたので、 「ラプンツェル? その子は、四年前に死んじゃった!」と出来るだけ冷い口調で答えました。けれども、それから大声で笑おうとして、すっと息を吸い込んだら急に泣きたくなって、笑い声のかわりに烈しい鳴咽おえつが出てしまいました。

26

あの子の髪は、きんの橋。

27

あの子の髪は、にじの橋。

28

森の小鳥たちは、一斉いっせいに奇妙な歌をうたいはじめました。ラプンツェルは泣きながらも、その歌を小耳にはさみ、ふっと素晴らしい霊感れいかんに打たれました。ラプンツェルは、自分の美しい髪の毛を、二まき三まき左の手にきつけて、右の手にはさみを握りました。もう今では、ラプンツェルの美事な黄金の髪の毛は床にとどくほど長く伸びていたのです。じょきり、じょきり、しげも無く切って、それから髪の毛を結び合せ、長い一本の綱を作りました。それは太陽のもとで最も美しい綱でした。窓の縁にその端を固くゆわえて、自分はその美しいきんの綱を伝って、するする下へ降りて行きました。
「ラプンツェル。」王子は小声でつぶやいて、ただ、うっとりと見惚みとれていました。

29

地上に降り立ったラプンツェルは、急に気弱くなって、何も言えず、ただそっと王子の手の上に、自分の白い手をかさねました。
「ラプンツェル、こんどは私が君を助ける番だ。いや一生、君を助けさせておくれ。」王子は、もはや二十歳です。とても、たのもしげに見えました。ラプンツェルは、かすかに笑って首肯うなずきました。

30

二人は、森を抜け出し、婆さんの気づかぬうちにと急ぎに急いで荒野を横切り、目出度く無事にお城にたどりつく事が出来たのです。お城では二人を、大喜びで迎えました。

31

末弟が苦心の揚句あげく、やっとここまで書いて、それから、たいへん不機嫌ふきげんになった。失敗である。これでは、何も物語の発端にならない。おしまいまで、自分ひとりで書いてしまった。またしても兄や 、姉たちに笑われるのは火を見るよりも明らかである。末弟は、ひそかに苦慮くりょした。もう、日が暮れて来た。よそへ遊びに出掛けた兄や、姉たちも、そろそろ帰宅した様子で、茶の間から大勢の陽気な笑い声が聞える。僕は孤独だ、と末弟は言い知れぬ寂寥せきりょうの感におそわれた。その時、救い主があらわれた。祖母である。祖母は、さっきから勉強室にひとり閉じこもっている末弟を、可哀かわいそうでならない。
「また、はじめたのかね。うまく書けたかい?」と言って、その時、祖母は末弟の勉強室にはいって来たのである。
「あっちへ行って!」末弟は不機嫌である。
「また、しくじったね。お前は、よく出来もしない癖に、こんな馬鹿げた競争にはいるからいけないよ。お見せ。」
「わかるもんか!」
「泣かなくてもいいじゃないか。馬鹿だね。どれどれ。」と祖母は帯の間から老眼鏡ろうがんきょうを取り出し、末弟のお伽噺とぎばなしを小さい声を出して読みはじめた。くつくつ笑い出して、「おやおや、この子は、まあ、ませた事を知っているじゃないか。面白い。よく書けていますよ。でも、これじゃ、あとが続かないね。」
「あたりまえさ。」
「困ったね? 私ならば、こう書くね。お城では、二人を大喜びで迎えました。けれども、これから不仕合せが続きます、と書きます。どうだろうね。こんな魔法使いの娘と、王子さまでは身分がちがいすぎますよ。どんなに好き合っていたって、末は、うまく行かないね。こんな縁談は、不仕合せのもとさ。どうだね?」と言って、末弟の肩を人指ゆびで、とんと突いた。
「知っていますよ、そんな事ぐらい。あっちへ行って! 僕には、僕の考えがあるんですからね。」
「おや、そうかい。」祖母は落ちついたものである。たいてい、末弟の考えというものがわかっているのである。「大急ぎで、あとを書いて、茶の間へおいで。おなかが、すいたろう。おぞうにを食べて、それから、かるたでもして遊んだらいいじゃないか。そんな、競争なんて、つまらない。あとは、大きい姉さんに頼んでおしまい。あれは、とても上手だから。」

32

祖母を追い出してから、末弟は、おもむろに所謂いわゆる、自分の考えなるものを書き加えた。
「けれども、これから不仕合せが続きます。魔法使いの娘と、王子とでは、身分があまりに違いすぎます。ここから不仕合せが起るのです。あとは大姉さんに、お願いいたします。ラプンツェルを大事にしてやって下さい。」と祖母の言ったとおりに書いて、ほっと溜息ためいきをついた。


その三

33

きょうは二日である。一家そろって、お雑煮ぞうにを食べてそれから長女ひとりは、すぐに自分の書斎しょさいへしりぞいた。純白じゅんぱくの毛糸のセエタアの、胸には、黄色い小さな薔薇ばらの造花をつけている。机の前に少しひざくずしてすわり、それから眼鏡をはずして、にやにや笑いながらハンケチで眼鏡の玉を、せっせといた。それが終ってから、また眼鏡をかけ、眼を大袈裟おおげさにぱちくりとさせた。急に真面目な顔になり、座り直して机に頬杖ほおずえをつき、しばらく思いにしずんだ。やがて、万年筆をって書きはじめた。

34

──恋愛の舞踏ぶとうの終ったところから、つねに、真の物語がはじまります。めでたく結ばれたところで、たいていの映画は、the end になるようでありますが、私たちの知りたいのは、さて、それからどんな生活をはじめたかという一事であります。人生は、決して興奮の舞踏の連続ではありません。白々しく興覚きょうざめの宿命の中に寝起きしているばかりであります。私たちの王子と、ラプンツェルも、お互い子供の時にちらと顔を見合せただけで、離れ難い愛着を感じ、たちまちわかれて共に片時も忘れられず、苦労の末に、再び成人の姿で相会う事が出来たのですが、この物語は決してこれだけでは終りませぬ。お知らせしなければならぬ事は、むしろその後の生活に在るのです。王子とラプンツェルは、手を握り合って魔の森からのがれ、広い荒野を飲まず食わず終始無言むごんで夜ひる歩いて、やっとお城にたどり着く事が出来たものの、さて、それからが大変です。

35

王子も、ラプンツェルも、死ぬほど疲れていましたが、ゆっくり休んでいるひまもありませんでした。王さまも、王妃も、また家来のしゅうも、ひとしく王子の無事を喜び矢継早やつぎばやに、の度の冒険にいて質問を集中し、王子の背後に頸垂うなだれて立っている異様に美しい娘こそ四年前、王子を救ってくれた恩人であるという事もやがて判明いたしましたので、城中の喜びも二倍になったわけでした。ラプンツェルは香水こうすい風呂ふろにいれられ、美しい軽いドレスを着せられ、それから、全身がうまってしまうほど厚く、ふんわりした蒲団ふとんに寝かされ、寝息も立てぬくらいの深い眠りに落ちました。ずいぶん永いこと眠り、やがて熟し切った無花果いちじくが自然にぽたりと枝から離れて落ちるように、眠り足りてぽっかり眼をましましたが、枕もとには、正装し、すっかり元気を回復かいふくした王子が笑って立って居りました。ラプンツェルは、ひどく恥ずかしく思いました。
「あたし、帰ります。あたしの着物は、どこ?」と少し起きかけて、言いました。
「ばかだなあ。」王子は、のんびりした声で、「着物は、君が着てるじゃないか。」
「いいえ、あたしが塔で着ていた着物よ。かえして頂戴ちょうだい。あれは、おばあさんが一等いい布ばかり寄せ集めてって下さった着物なのよ。」
「ばかだなあ。」王子は再び、のんびりした声で言いました。「もう、さびしくなったのかい?」

36

ラプンツェルは、思わずこっくり首肯うなずき、急に胸がふさがって、たまらなくなり、声を放って泣きました。お婆さんから離れて、他人ばかりのお城に居るのを淋しく思ったのではありません。それは、まえから覚悟かくごして来た事でございます。それに、あの婆さんは決していい婆さんで無いし、また、たといいお婆さんであっても、娘というものは、好きなひとさえそばにいて下さったら、肉親全部と離れたとて、ちっとも淋しがらず、まるで平気なものでございます。ラプンツェルの泣いたのは、淋しかったからではありませぬ。それはきっと恥ずかしく、くやしかったからでありましょう。お城へ夢中で逃げて来て、こんな上等の着物を着せられ、こんな柔かい蒲団ふとんに寝かされ、前後不覚に眠ってしまって、さてめて落ちついて考えてみると、あたしは、こんな身分じゃ無かった、あたしはいやしい魔法使いの娘だったという事が、はっきりわかって、それでいたたまらない気持になり、恥ずかしいばかりか、ひどい屈辱くつじょくさえ感ぜられ、帰ります等と唐突とうとつなことを言い出したのではないでしょうか。ラプンツェルには、やっぱり小さい頃の、勝気な片意地の性質が、まだ少し残っているようであります。苦労を知らない王子には、そんな事の判ろうはずがありませぬ。ラプンツェルが突然、泣き出したので、すこぶ当惑とうわくして、
「君は、まだ、疲れているんだ。」と勝手な判断を下し、「おなかも、すいているんだ。とにかく食事の仕度をさせよう。」と低くつぶやきながら、あたふたと部屋を出て行きました。

37

やがて五人の侍女がやって来て、ラプンツェルを再び香水の風呂にいれ、こんどは前の着物よりもっと重い、真紅しんくの着物を着せました。顔と手に、薄く化粧をほどこしました。少し短い金髪をも上手にたばねてくれました。真珠の頸飾くびかざりをゆったり掛けて、ラプンツェルがすっくと立ち上った時には、五人の侍女がそろって、深い溜息ためいきをもらしました。こんなに気高けだかく美しい姫をいままで見た事も無し、また、これからも此の世で見る事は無いだろうと思いました。

38

ラプンツェルは、食事の部屋に通されました。そこには王さまと、王妃と王子の三人が、晴れやかに笑って立っていました。
「おう綺麗きれいじゃ。」王さまは両手をひろげてラプンツェルを迎えました。
「ほんとうに。」と王妃も満足げに首肯うなずきました。王さまも王妃も、慈悲じひ深く、少しも高ぶる事の無い、とても優しい人でした。

39

ラプンツェルは、少しさびしそうに微笑ほほえんで挨拶あいさつしました。 「お座り。ここへおすわり。」王子は、すぐにラプンツェルの手をって食卓につかせ、自分もそのとなりにぴったりくっついて座りました。可笑おかしいくらいに得意な顔でした。

40

王さまも王妃も軽く笑いながら着席し、やがてなごやかな食事がはじめられたのでしたが、ラプンツェルひとりは、ただ、まごついて居りました。つぎつぎと食卓に運ばれて来るお料理を、どうして食べたらいいのやら、まるで見当がかないのです。いちいちとなりの王子のほうを盗み見て、こっそりその手つきを真似まねて、どうやら口に入れる事が出来ても、青虫の五臓のサラダやうじのつくだ煮などの婆さんのお料理ばかり食べつけているラプンツェルには、その王さまの最上級の御馳走ごちそうも、何だか変な味で胸が悪くなるばかりでありました。鶏卵けいらんの料理だけは流石さすがにおいしいと思いましたが、でも、やっぱり森のからすの卵ほどには、おいしくないと思いました。

41

食卓の話題は豊富でした。王子は、四年前の恐怖を語り、また此度の冒険をほこり、王さまはその一語一語に感動し、深く首肯うなずいてその度毎に祝盃しゅくはいかたむけるので、ついには、ひどく酔いを発し、王妃に背負われて別室に退きました。王子と二人きりになってから、ラプンツェルは小さい声で言いました。 「あたし、おもてへ出てみたいの。なんだか胸が苦しくて。」顔が真蒼まっさおでした。

42

王子は、あまりに上機嫌じょうきげんだったので、ラプンツェルの苦痛に同情する事を忘れていました。人は、自分で幸福な時には、他人の苦しみに気が付かないものなのでしょう。ラプンツェルのあおい顔を見ても、少しも心配せず、
「たべすぎたのさ。庭を歩いたら、すぐなおるさ。」と軽く言って立ち上りました。

43

外は、よいお天気でした。もう秋も、なかばなのに、ここの庭ばかりは様々の草花が一ぱい咲いて居りました。ラプンツェルは、やっと、にっこり笑いました。
「せいせいしたわ。お城の中は暗いので、私は夜かと思っていました。」
「夜なものか。君は、きのうの昼から、けさまで、ぐっすり眠っていたんだ。寝息も無いくらいに深く眠っていたので、私は、死んだのじゃないかと心配していた。」
「森の娘が、その時に死んでしまって、目がめてみると、上品なお姫さまになっていたらよかったのだけれど、目が醒めても、やっぱり、あたしはおばあさんの娘だったわ。」ラプンツェルは本気に残念がって、そう言ったのでしたが、王子はそれをラプンツェルのお道化と解して、大いに笑い興じ、 「そうかね。そうであったかね。それはお気の毒だったねえ。」と言って、また大声を挙げて笑うのでした。

44

なんという花か、たいへん匂いの強い純白の小さい花が見事に咲き競っているいばらの陰にさしかかった時、王子は、ふいと立ちどまり一瞬まじめな眼つきをして、それからラプンツェルの骨もくだけよとばかり抱きしめて、それから狂った人のような意外の動作どうさをいたしました。ラプンツェルはしのびました。はじめての事でもなかったのでした。森からのがれて荒野を夜ひる眠らず歩いている途中にいても、これに似た事が三度あったのでした。 「もう、どこへも行かないね?」と王子は少し落ちついて、ラプンツェルと並んでまた歩き出し、低い声で言いました。二人は白い花の茨の陰から出て、水蓮すいれんの咲いている小さい沼のほうへ歩いて行きます。ラプンツェルは、なぜだか急に可笑しくなって、ぷっと噴き出しました。
「何。どうしたの?」と王子は、ラプンツェルの顔をのぞき込んでたずねました。「何が可笑しいの?」
「ごめんなさい。あなたが、へんに真面目なので、つい笑っちゃったの。あたしが今さら、どこへ行けるの? あたしが、あなたを塔の中で四年も待っていたのです。」沼のほとりに着きました。ラプンツェルは、こんどは泣きたくなって、岸の青草の上にくずれるように座りました。王子の顔を見上げて、「王さまも、王妃さまも、おゆるし下さったの?」
「もちろんさ。」王子は再び以前の、こだわらぬ笑顔にかえってラプンツェルのそばに腰をおろし、「君は、私の命の恩人じゃないか。」

45

ラプンツェルは、王子のひざに顔を押しつけて泣きました。

46

それから数日後、お城では豪華ごうか婚礼こんれいの式がげられました。その夜の花嫁は、翼を失った天使のように可憐かれんふるえて居りました。王子には、この育ちの違った野性の薔薇ばらが、ただもう珍らしく、ひとつき、ふたつき暮してみると、いよいよラプンツェルの突飛な思考や、残忍なほどの活発な動作、何ものをも恐れぬ勇気、幼児のような無知な質問などに、たまらない魅力みりょくを感じ、おぼれるほどに愛しました。寒い冬も過ぎ、日一日と暖かになり、庭の早咲きの花が、そろそろ開きかけて来た頃、二人は並んで庭をゆっくり歩きまわって居りました。ラプンツェルは、みごもっていました。
「不思議だわ。ほんとうに、不思議。」
「また、疑問が生じたようだね。」王子は二十一歳になったので少し大人びて来たようです。「こんどは、どんな疑問が生じたのか、聞きたいものだね。先日は、神様が、どこにいるのかというえらい御質問だったね。」

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ラプンツェルは、うつむいて、くすくす笑い、
「あたしは、女でしょうか。」と言いました。

48

王子は、この質問には、まごつきました。
「少くとも、男ではない。」と、もったいぶった言いかたをしました。
「あたしも、やはり、子供を産んで、それからおばあさんになるのでしょうか。」
「美しいお婆さんになるだろう。」
「あたし、いやよ。」ラプンツェルは、かすかに笑いました。とてもさびしい笑いでした。「あたしは、子供を産みません。」
「そりゃ、また、どういうわけかね。」王子は余裕のある口調で尋ねます。
「ゆうべも眠らずに考えました。子供が生れると、あたしは急にお婆さんになるし、あなたは子供ばかりを可愛がって、きっと、あたしを邪魔じゃまになさるでしょう。誰も、あたしを可愛がってくれません。あたしには、よくわかります。あたしは、育ちのいやしい馬鹿な女ですから、お婆さんになって汚くなってしまったら、何の取りどころも無くなるのです。また森へ帰って、魔法使いにでもなるより他はありませぬ。」

49

王子は不機嫌ふきげんになりました。
「君は、まだ、あのいまわしい森の事を忘れないのか。君のいまの御身分を考えなさい。」
「ごめんなさい。もう綺麗きれいに忘れているつもりだったのに、ゆうべの様な淋しい夜には、ふっと思い出してしまうのです。あたしの婆さんは、こわい魔法使いですが、でも、あたしをずいぶん甘やかして育てて下さいました。誰もあたしを可愛がらないようになっても、森の婆さんだけは、いつでも、きっと、あたしを小さい子供のように抱いて下さるような気がするのです。」
「私がそばにいるじゃないか。」王子は、にがり切って言いました。
「いいえ、あなたは駄目だめ。あなたは、あたしを、ずいぶん可愛がって下さいましたが、ただ、あたしを珍らしがってお笑いになるばかりで、あたしは何だか淋しかったのです。いまに、あたしが子供を産んだら、あなたは今度は子供のほうを珍らしがって、あたしを忘れてしまうでしょう。あたしはつまらない女ですから。」 「君は、ご自分の美しさに気が付かない。」王子は、ひどく口をとがらせてうなるように言いました。「つまらない事ばかり言っている。きょうの質問は実にくだらぬ。」
「あなたは、なんにも御存ごぞんじ無いのです。あたしは、このごろ、とても苦しいのですよ。あたし、やっぱり、魔法使いの悪い血を受けた野蛮やばんな女です。生れる子供が、憎くてなりません。殺してやりたいくらいです。」と声をふるわせて言って、下唇をみました。

50

気弱い王子は戦慄せんりつしました。こいつは本当に殺すかも知れぬと思ったのです。あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。

51

長女は、自信たっぷりの顔つきで、とどこおる事なく書き流し、ここまで書いて静かに筆をいた。はじめから読み直してみて、時々、顔をあからめ、口をゆがめて苦笑した。少し好色すぎたと思われる描写が処々に散見さんけんされたからである。口の悪い次男に、あとで冷笑されるに違いないと思ったが、それも仕方がないとあきらめた。自分の今の心境が、そのまま素直にあらわれたのであろう、悲しいことだと思ったりした。でもまた、これだけでも女性の心のデリカシイを描けるのは兄妹中で、私の他には無いのだと、かすかに誇る気持もどこかにあった。書斎しょさいには火の気が無かった。いま急に、それに気付いて、おう寒い、と小声でつぶやき、肩をすぼめて立ち上り、書き上げた原稿を持って廊下ろうかへ出たら、そこに意味ありげに立っている末弟と危く鉢合はちあわせしかけた。
「失敬、失敬。」末弟は、ひどく狼狽ろうばいしている。
「和ちゃん、偵察ていさつしに来たのね。」
「いやいや、さにあらず。」末弟は顔を真赤にして、いよいよへどもどした。
「知っていますよ。私が、うまく続けたかどうか心配だったんでしょう?」
「実は、そうなんだよ。」末弟は小声であっさり白状した。
「僕のは下手だったろうね。どうせ下手なんだからね。」ひとりで、さかんに自嘲じちょうをはじめた。
「そうでもないわよ。今回だけは、大出来よ。」
「そうかね。」末弟の小さい眼は喜びにかがやいた。「ねえさん、うまく続けてくれたかね。ラプンツェルを、うまく書いてくれた?」
「ええ、まあ、どうやらね。」
「ありがたい!」末弟は、長女に向って合掌がっしょうした。


その四

52

三日目。

53

元日に、次男は郊外の私の家に遊びに来て、近代の日本の小説を片っ端からこきおろし、ひとりで興奮して、日の暮れるころ、「こりゃ、いけない。熱が出たようだ。」と呟き、大急ぎで帰っていった。果せるかな、その夜から微熱びねつが出て、きのうは寝たり起きたり、けさになっても全快せず、まだ少し頭が重いそうで蒲団ふとんの中で鬱々うつうつとしている。あまり、人の作品の悪口を言うと、こんな具合いに風邪かぜをひくものである。
「いかがです、お加減は。」と言って母が部屋へはいって来て、枕元にすわり、病人のひたいにそっと手をせてみて、「まだ少し、熱があるようだね、大事にして下さいよ。きのうは、お雑煮ぞうにを食べたり、お屠蘇とそを飲んだり、ちょいちょい起きて不養生ふようじょうをしていましたね。無理をしては、いけません。熱のある時には、じっとして寝ているのが一ばいいのです。あなたは、からだの弱いくせに、気ばかり強くていけません。」

54

さかんにしかられている。次男は、意気銷沈しょうちんていである。かえす言葉も無く、ただ、かすかに苦笑して母のこごとを聞いている。この次男は、兄妹中で最も冷静な現実主義者で、したがって、かなり辛辣しんらつ毒舌家どくぜつかでもあるのだが、どういうものか、母に対してだけは、蔓草つるくさのように従順じゅうじゅんである。ちっとも意気があがらない。いつも病気をして、母にお手数をかけているという意識が胸の奥に、しみ込んでいるせいでもあろう。
「きょうは一日、寝ていなさい。むやみに起きて歩いてはいけませんよ。ごはんも、ここでおあがり。おかゆを、こしらえて置きました。さと(女中の名)が、いま持って来ますから。」
「お母さん。お願いがあるんだけど。」すこぶる弱い口調である。「きょうはね、僕の番なのです。書いてもいい?」
「なんです。」母には一向わからない。「なんの事です。」
「ほら、あの、連作を、またはじめているんですよ。きのう、僕は退屈たいくつだったものだから、姉さんに頼んで無理に原稿を見せてもらって、ゆうべ一晩、そのつづきを考えていたのです。今度のは、ちょっと、むずかしい。」
「いけません、いけません。」母は笑いながら、「文豪ぶんごうも、風邪かぜをひいている時には、いい考えが浮びません。兄さんに代ってもらったらどう?」
「だめだよ。兄さんなんか、だめだよ。兄さんにはね、才能が、無いんですよ。兄さんが書くと、いつでも、演説みたいになってしまう。」
「そんな悪口を言っては、いけません。兄さんの書くものは、いつも、男らしくて立派じゃありませんか。お母さんなら、いつも兄さんのが一ばん好きなんだけどねえ。」
「わからん。お母さんには、わからん。どうしたって、今度は僕が書かなくちゃいけないんだ。あの続きは、僕でなくちゃ書けないんだ。お母さんお願い。書いてもいいね?」 「困りますね。あなたは、きょうは、寝ていなくちゃいけませんよ。兄さんに代ってもらいなさい。あなたは、明日でも、あさってでも、からだの調子が本当によくなってから書く事にしたらいいじゃありませんか。」
「だめだ。お母さんは、僕たちの遊びを馬鹿にしているんだからなあ。」大袈裟おおげさ溜息ためいきいて、蒲団ふとんを頭から、かぶってしまった。
「わかりました。」母は笑って、「お母さんが悪かったね。それじゃね、こうしたらどう?あなたが寝ながら、ゆっくり言うのを私が、そのまま書いてあげる。ね、そうしましょう。去年の春に、あなたがやはり熱を出して寝ていた時、何やらむずかしい学校の論文を、あなたの言うとおりに、お母さんが筆記できたじゃないの。あの時も、お母さんは、案外上手だったでしょう?」

55

病人は、蒲団をかぶったまま、返事もしない。母は、途方とほうに暮れた。女中のさとが、朝食のおぜんささげて部屋へはいって来た。さとは、十三の時から、この入江の家に奉公ほうこうしている。沼津辺の漁村の生れである。ここへ来て、もう四年にもなるので、家族のロマンチックの気風にすっかり同化している。令嬢れいじょうたちから婦人雑誌を借りて、仕事のひまひまに読んでいる。昔の仇討あだうち物語を、最も興奮して読んでいる。女はみさおが第一、という言葉も、たまらなく好きである。命をかけても守って見せると、ひとりでこっそり緊張している。柳行李やなぎごうりの中に、長女からもらった銀のぺ─パ─ナイフをかくしてある。懐剣のつもりなのである。色は浅黒いけれど、小さく引きしまった顔である。身なりも清潔せいけつに、きちんとしている。左の足が少し悪く、こころもち引きずって歩く様子も、かえって可憐かれんである。入江の家族全部を、神さまか何かのように尊敬している。れいの祖父の銀貨勲章くんしょうをも、眼がくらむ程に、もったいなく感じている。長女ほどの学者は世界中にいない、次女ほどの美人も世界中にいない、と固く信じている。けれども、とりわけ、病身の次男を、死ぬほど好いている。あんな綺麗きれいな御主人のお伴をして仇討ちに出かけたら、どんなに楽しいだろう。今は、昔のように仇討ちの旅というものが無いから、つまらない、などと馬鹿な事を考えている。

56

いま、さとは次男の枕元に、お膳をうやうやしく置いて、少しさびしい。次男は蒲団を引きかぶったままである。母堂ぼどうは、それを、ただ静かにながめて笑っている。さとは、誰にも相手にされない。ひっそり、そこに座って、しばらく待ってみたが、何という事も無い。おそるおそる母堂にたずねた。
「よほど、お悪いのでしょうか。」
「さあ、どうでしょうかねえ。」母は、笑っている。

57

突然、次男は蒲団をはねのけ、くるりと腹這はらばいになり、お膳を引き寄せてはしをとり、寝たまま、むしゃむしゃと食事をはじめた。さとはびっくりしたが、すぐに落ちついて給仕きゅうじした。次男の意外な元気の様子に、ほっと安心したのである。次男は、ものも言わず、猛烈もうれつな勢いでかゆすすり、憤然ふんぜんと梅干を頬張ほおばり、食欲は十分に旺盛おうせいのようである。 「さとは、どう思うかねえ。」半熟卵を割りながら、ふいと言い出した。「たとえば、だね、僕がお前と結婚したら、お前は、どんな気がすると思うかね。」実に、意外の質問である。

58

さとよりも、母のほうが十倍も狼狽ろうばいした。
「ま! なんという、ばかな事を言うのです。冗談にも、そんな、ねえ、さとや、お前をからかっているのです。そんな、乱暴な、冗談にも、そんな。」
「たとえば、ですよ。」次男は、落ちついている。先刻せんこくから、もっぱら小説の筋書ばかり考えているのである。そのたとえが、さとの小さい胸を、どんなに痛く刺したか、てんで気付かないでいるのである。勝手な子である。「さとは、どんな気がするだろうなあ。言ってごらん。小説の参考になるんだよ。実に、むずかしいところなんだ。」
「そんな、突拍子とっぴょうしない事を言ったって、」母は、ひそかにほっとして、「さとには、わかりませんよ、ねえ、さとや。たけし(次男の名)は、ばかげた事ばかり言っています。」
「わたくしならば、」さとは、次男の役に立つ事なら、なんでも言おうと思った。母堂の当惑とうわくそうな眼くばせをも無視して、ここぞと、こぶしを固くして答えた。「わたくしならば、死にます。」
「なあんだ。」次男は、がっかりした様子である。「つまらない。死んじゃったんでは、つまらないんだよ。ラプンツェルが死んじゃったら、物語も、おしまいだよ。だめだねえ。ああ、むずかしい。どんな事にしたらいいかなあ。」しきりに小説の筋書ばかり考えている。さとの必死の答弁も、一向に、役に立たなかった様子である。

59

さとは大いにしょげて、こそこそとおぜんを片付け、てれ隠しにわざと、おほほほと笑いながら、またお膳をささげて部屋から逃げて出て、廊下を歩きながら、泣いてみたいと思ったが、べつに悲しくなかったので、こんどは心から笑ってしまった。

60

母は、若い者の無心な淡泊たんぱくさに、そっとお礼を言いたいような気がしていた。自分のにごった狼狽振りを恥ずかしく思った。信頼していていいのだと思った。
「どう? 考えがまとまりましたか? おやすみになったままで、どんどん言ったらいい。お母さんが、筆記ひっきしてあげますからね。」

61

次男は、また仰向あおむけに寝て蒲団ふとんを胸まで掛けて眼をつぶり、あれこれ考え、くるしんでいる態である。やがて、ひどくもったい振ったおごそかな声で、
「まとまったようです。お願いいたします。」と言った。母は、ついふき出した。

62

以下は、その日の、母子協力の口述筆記全文である。

63

──玉のような子が生れました。男の子でした。城中は喜びにきかえりました。けれども産後のラプンツェルは、日一日と衰弱すいじゃくしました。国中の名医が寄り集り、さまざまに手をつくしてみましたが愈々いよいよはかなく、命のほども危く見えました。 「だから、だから、」ラプンツェルは、寝床ねどこの中で静かに涙を流しながら王子に言いました。「だから、あたしは、子供を産むのは、いやですと申し上げたじゃありませんか。あたしは魔法使いの娘ですから、自分の運命をぼんやり予感する事が出来るのです。あたしが子供を産むと、きっと何か、わるい事が起るような気がしてならなかった。あたしの予感は、いつでも必ず当ります。あたしが、いま死んで、それだけで、わざわいがむといいのですけれど、なんだか、それだけでは済まないような恐ろしい予感もするのです。神さまというものが、あなたのお教え下さったように、もしいらっしゃるならば、あたしは、その神さまにお祈りしたい気持です。あたしたちは、きっと誰かににくまれています。あたしたちは、ひどくいけない間違いをして来たのではないでしょうか。」
「そんな事は無い。そんな事は無い。」と王子は病床の枕もとを、うろうろ歩き回って、矢鱈やたらに反対しましたが、内心は、途方にくれていたのです。男子誕生の喜びもつか、いまはラプンツェルの意味不明の衰弱すいじゃくに、たましい動転どうてんし、夜も眠れず、ただ、うろうろ病床のまわりを、まごついているのです。王子は、やっぱり、しんからラプンツェルを愛していました。ラプンツェルの顔や姿の美しさ、または、ちがう環境かんきょうに育った花の、もの珍らしさ、あるいは、どこやら憐憫れんびんいざなうような、あわれな盲目の無知、それらの事がらにのみかれて王子が夢中で愛撫あいぶしているだけの話で、精神的な高い共鳴と信頼から生れた愛情でもなし、また、お互い同じ祖先の血筋を感じ合い、同じ宿命にじゅんじましょうという深い諦念ていねんと理解に結ばれた愛情でもないという理由から、この王子の愛情の本質を矢鱈やたら狐疑こぎするのも、いけない事です。王子は、心からラプンツェルを可愛いと思っているのです。仕様の無いほど好きなのです。ただ、好きなのです。それで、いいではありませんか。純粋じゅんすいな愛情とは、そんなものです。女性が、心の底で、こっそり求めているものも、そのような、ひたむきな正直な好意以外のものでは無いと思います。精神的な高い信頼だの、同じ宿命に殉じるだのと言っても、お互い、きらいだったら滅茶滅茶めちゃめちゃです。なんにも、なりやしません。何だか好きなところがあるからこそ、精神的だの、宿命だのという気障きざな言葉も、本当らしく聞えて来るだけの話です。そんな言葉は、互いの好意の氾濫はんらんを整理するためか、あるいは、情熱の行いの反省、弁解の為に用いられているだけなのです。わかい男女の恋愛にいて、そんな弁解ほど、胸くその悪いものはありません。ことに、「女を救うため」などという男の偽善ぎぜんには、がまん出来ない。好きなら、好きと、なぜ明朗めいろうに言えないのか。おととい、作家のDさんのところへ遊びに行った時にも、そんな話が出たけれどDさんは、その時、僕を俗物ぞくぶつだと言いやがった。そういうDさんだって、僕があの人の日常生活を親しくちょいちょいのぞいてみたところにると、なあに御自分の好き嫌いを基準にしてちゃっかり生活しているんだ。あの人は、うそつきだ。僕は俗物だって何だってかまわない。事実を、そのままはっきり言うのは、僕の好むところだ。人間は、好むところのものを行うのが一ばんいいのさ。脱線だっせんいたしました。僕は、精神的だの、理解だのの恋愛を考えられないだけの事です。王子の恋愛は正直です。王子のラプンツェルに対する愛情こそ、純粋なものだと思います。王子は、心からラプンツェルを愛していました。
「死ぬなんてばかな事を言ってはいけない。」と大いに不満そうに口をとがらせて言いました。
「私は君を、どんなに愛しているのか、わからないのか。」とも言いました。王子は、正直な人でした。でも、正直の美徳びとくだけでは、ラプンツェルの重い病気をなおす事は出来ません。
「生きていてくれ!」とうめきました。「死んでは、いかん!」と叫びました。他に何も、言うべき言葉が無いのです。
「ただ、生きて、生きてだけ、いてくれ。」と声を落してつぶやいた時、その時、
「ほんとうかね。生きてさえ居れば、いいのじゃな?」というしわがれた声を、耳元にささやかれ、愕然がくぜんとして振り向くと、ああ、王子の髪は逆立ちました。全身に冷水を浴びせられた気持でした。老婆が、魔法使いの老婆が、すぐ背後に、ひっそり立っていたのです。 「何しに来た!」王子は勇気のゆえではなく、あまりの恐怖の故に、思わず大声で叫びました。
「娘を助けに来たのじゃないか。」老婆は、平気な口調で答え、それから、にやりと笑いました。「知っていたのだよ。婆さんには、の世で、わからない事は無いのだよ。みんな知っていましたよ。お前さまが、わしの娘をの城に連れて来て、可愛いがっていなさる事は、とうから知っていましたよ。ただ、一時の、もて遊びものになさる気だったら、わしだってだまってはいなかったのだが、そうでもないらしいので、わしは今まで我慢がまんしてやっていたのだよ。わしだって、娘が仕合せに暮していると、少しはうれしいさ。けれども、もう、だめなようだね。お前さまは知るまいが魔法使いの家に生れた女の子は、男に可愛がられて子供を産むと、死ぬか、でもなければ、世の中で一ばんみにくい顔になってしまうか、どちらかに、きまっているのだよ。ラプンツェルは、その事を、はっきりは知っていなかったようだが、でも、何かしらかんでわかっていたはずだね。子供を産むのを、いやがっていたろうに。可哀そうな事になったわい。お前さまは、一体、ラプンツェルを、どうなさるつもりだね。見殺しにするか、それとも、わしのような醜い顔になっても、生かして置きたいか。お前さまは、さっき、どんな事があっても、生きてだけいておくれ、と念じていなさったが、どうかね、わしのような顔になっても、生きていたほうがよいのかね。わしだって、若い頃には、ラプンツェルに決して負けない綺麗きれいな娘だったが、旅の猟師りょうしに可愛がられラプンツェルを産んで、わしの母から死ぬか、生きていたいかとたずねられ、わしは何としても生きていたかったから、生かして置いてくれとたのんだら、母は、まじないをして、わしの命を助けてくれたが、おかげで、わしはごらんのとおりの美事みごとな顔になりましたよ。どうだね、さっきのお前さまの念願には、うそが無いかね?」
「死なせて下さい。」ラプンツェルは、病床びょうしょうかすかに身悶みもだえして、言いました。「あたしさえ死ねば、もう、みなさん無事にお暮し出来るのです。王子さま、ラプンツェルは、いままでお世話になって、もう何の不足もございません。生きて、つらい目にうのは、いやです。」
「生かしてやってくれ!」王子は、こんどは本当の勇気をもって、きっぱりと言いました。ひたいには苦悶くもんの油汗が浮いていました。「ラプンツェルは、この婆のような醜い顔になるはずが無い。」
「わしが、なんでうそなど言うものか。よろしい。そんならば、ラプンツェルを末永く生かして置いてあげよう。どんなに醜い顔になっても、お前さまは、変らずラプンツェルを可愛がってあげますか?」


その五

64

次男の病床の口述筆記は、短い割に、多少の飛躍ひやくがあったようである。けれども、さすがに病床の粥腹かゆばらでは、日頃、日本のあらゆる現代作家を冷笑している高慢無礼こうまんぶれい驕児きょうじも、その特異の才能の片鱗へんりんを、ちらと見せただけで、思案してまとめて置いたプランの三分の一も言い現わす事が出来ず、へたばってしまった。あたら才能も、風邪かぜの微熱には勝てぬと見える。飛躍が少しはじまりかけたままの姿で、むなしくバトンは次の選手にゆだねられた。次の選手は、これまた生意気な次女である。あっと一驚させずばまぬていの功名心に燃えて、四日目、朝からそわそわしていた。家族そろって朝ごはんの食卓についた時にも、自分だけは、特に、パンと牛乳だけで軽くすませた。家族のひとたちの様に味噌汁、お沢庵たくあんなどの現実的なるものを摂取せっしゅするならば胃腑いふにごって、空想も萎靡いびするに違いないという思惑おもわくからでもあろうか。食事をすませてから応接室に行き、つッ立ったまま、ピアノのキイを矢鱈やたらにたたいた。ショパン、リスト、モオツアルト、メンデルスゾオン、ラベル、滅茶滅茶めちゃめちゃに思いつき次第、いてみた。霊感を天降あまくだらせようと思っているのだ。この子は、なかなか大袈裟おおげさである。霊感を得た、と思った。すました顔をして応接室を出て、それから湯殿ゆどのに行き靴下を脱いで足を洗った。不思議な行為である。けれども次女は、此の行為にってみずからをきよくしているつもりなのである。変態へんたいのバプテスマである。これでもう、身も心も清浄せいじょうになったと、次女は充分に満足しておもむろに自分の書斎に引き上げた。書斎しょさいの椅子に腰をおろし、アアメン、とつぶやいた。これは、いかにも突飛とっぴである。この次女に、信仰しんこうなどあるはずはない。ただ、自分のいまの緊張を言いあらわすのに、ちょっと手頃な言葉だと思って、臨時りんじ拝借はいしゃくしてみたものらしい。アアメン、なるほど心が落ちつく。次女はもったい振り、足の下の小さい瀬戸の火鉢ひばちに、「梅花」というこうを一つべて、すうと深く呼吸して眼を細めた。古代の閨秀けいしゅう作家、紫式部の心境がわかるような気がした。春はあけぼの、という文章をちらと思い浮べていい気持であったが、それは清少納言の文章であった事に気付いて少し興覚きょうざめた。あわてて机の本立から引き出した本は、「ギリシャ神話」である。すなわち異教の神話である。ここにいて次女のアアメンは、真赤なにせものであったという事は完全に説明される。この本は、彼女の空想の源泉であるという。空想力が枯渇こかつすれば、この本をひらく。たちまち花、森、泉、恋、白鳥、王子、妖精ようせいが眼前に氾濫はんらんするのだそうであるが、あまりあてにならない。この次女の、する事、す事、どうも信用しがたい。ショパン、霊感、足のバプテスマ、アアメン、「梅花」、紫式部、春はあけぼの、ギリシャ神話、なんの連関も無いではないか。支離滅裂しりめつれつである。そうして、ただもう気取っている。ギリシャ神話をぱらぱらめくって、全裸のアポロの挿絵さしえを眺め、気味のわるい薄笑うすわらいをもらした。ぽんと本を投げ出して、それから机の引き出しをあけ、チョコレ─トの箱と、ドロップの缶を取りだし、実にどうにも気障きざな手つきで、──つまり、人さし指と親指と二本だけ使い、あとの三本の指は、ぴんと上にらせたままの、あの、くすぐったい手つきでチョコレ─トをつまみ、口に入れるより早く嚥下えんかし、間髪かんはつをいれずドロップを口中に投げ込み、ばりばりくだいて次は又、チョコレ─ト、瞬時しゅんじにしてドロップ、飢餓きがの魔物のごとくむさぼり食うのである。朝食の時、胃腑いふを軽快になさんがため、特にパンと牛乳だけですませて置いた事も、これでは、なんにもならない。この次女は、もともと、よほどの大食いなのである。上品ぶってパンと牛乳で軽くすませてはみたが、それでは足りない。とても、足りるものではない。すなわち、書斎に引きこもり、人目をけてたちまち大食いの本性ほんしょう発揮はっきしたというわけなのである。とかく、いつわりの多い子である。チョコレ─ト二十、ドロップ十個を嚥下えんかし、けろりとしてトラビヤタの鼻唄をはじめた。唄いながら、原稿用紙のちりを吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。すこぶる態度が悪いのである。

65

──あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。という初枝(長女の名)女史の暗示も、ここにいて多少の混乱に逢着ほうちゃくしたようでございます。ラプンツェルは魔の森に生れ、かえるの焼串や毒茸どくきのこなどを食べて成長し、老婆ろうばの盲目的な愛撫あいぶの中でわがまま一ぱいに育てられ、森のからすや鹿を相手に遊んで来た、わば野育ちの子でありますから、その趣味にいても、また感覚に於いても、やはり本能的な野蛮やばんなものが在るだろうという事は首肯しゅこうできます。また、その本能的な言動が、かえって王子を熱狂させる程の魅力になっていたのだというのも容易に推察すいさつできる事でございます。けれども、果してラプンツェルは、あきらめを知らぬ女性であろうか。本能的な、野蛮な女性であった事は首肯出来ますが、いまの此のいのちの瀬戸際せとぎわけるラプンツェルは、すべてをあきらめているように見えるではないか。死にます、とラプンツェルは言っているのです。死んだほうがよい、と言っているのです。すべてを諦めたひとの言葉ではないでしょうか。けれども初枝女史は、ラプンツェルをあきらめを知らぬ女性として指摘して居ります。軽率けいそつにそれに反対したら、しかられます。叱られるのは、いやな事ゆえ、筆者も、とにかく初枝女史の断案だんあんに賛意を表することにいたします。ラプンツェルは、たしかに、あきらめを知らぬ女性であります。死なせて下さい、等という言葉は、たいへんいじらしい謙虚けんきょな響きを持って居りますが、なおよく、考えてみると、これは非常に自分勝手な、自惚うぬぼれの強い言葉であります。ひとに可愛がられる事ばかり考えているのです。自分が、まだ、ひとに可愛がられる資格があると自惚れることの出来る間は、生き甲斐がいもあり、この世も楽しい。それは当り前の事であります。けれども、もう自分には、ひとに可愛がられる資格しかくが無いという、はっきりした自覚を持っていながらも、ひとは、生きて行かなければならぬものであります。ひとに「愛される資格」が無くっても、ひとを「愛する資格」は、永遠に残されているはずであります。ひとの真の謙虚とは、その、愛するよろこびを知ることだと思います。愛されるよろこびだけを求めているのは、それこそ野蛮な、無知な仕業しわざだと思います。ラプンツェルはいままで王子に、可愛がられる事ばかり考えていました。王子を愛する事を忘れていました。生れ出たわが子を愛する事をさえ、忘れていました。いやいや、わが子に嫉妬しっとをさえ感じていたのです。そうして、自分が、もはや誰にも愛され得ないという事を知った時には、死にたい、いっそひと思いに殺して下さい、等と願うのです。なんという、わがまま者。王子を、もっと愛してあげなければいけません。王子だって、さびしいお子です。ラプンツェルに死なれたら、どんなに力を落すでしょう。ラプンツェルは、王子の愛情にむくいなければいけません。生きていたい、なんとかして生きたい。自分が、どんなにつらい目にっても、子供のために生きたい。その子を愛して、まるまると丈夫に育てたいと一すじに願う事こそ、まさしく、諦めを知った人間の謙虚な態度ではないでしょうか。自分はみにくいから、ひとに愛される事は出来ないが、せめて人を、かげながら、こっそり愛して行こう、誰に知られずともよい、愛する事ほど大いなるよろこびは無いのだと、素直に諦めている女性こそ、まことに神の寵児ちょうじです。そのひとは、よし誰にも愛されずとも、神さまの大きい愛に包まれているはずです。幸福なるかな、なんて、筆者は、おそろしく神妙しんみょうな事を弁じ立てましたけれども、筆者の本心は、必ずしも以上の陳述ちんじゅつのとおりでもないのであります。筆者は、やはり人間は、美しくて、皆に夢中で愛されたら、それに越した事は無いとも思っているのでございますが、でも、以上のように神妙に言い立てなければ、あるいは初枝女史の御不興ごふきょうこうむるやも計り難いので、おっかな、びっくり、心にも無い悠遠ゆうえんな事どものみを申し述べました。そもそも初枝女史は、実に筆者の実姉にあたり、かつまた、筆者のフランス語の教師なのでありますから、筆者は、つねにその御識見ごしきけんにそむかざるよう、鞠躬如きっきゅうじょとして、もっぱらお追従ついしょうこれ努めなければなりませぬ。長幼ちょうよう、序ありとは言いながら、幼者たるもの、また、つらいかな。さて、ラプンツェルは、以上述べてまいりましたように、あきらめを知らぬ無知な女性でありますから、自分が、もはや、ひとから愛撫あいぶされる資格を失ったと思うより早く、いっそ死にたいと願っています。生きる事は、王子に愛撫される一事だと思い込んでいる様子なので手がつけられません。

66

けれども王子は、いまや懸命けんめいであります。人は苦しくなると、神においのりするものでありますが、もっと、ぎゅうぎゅう苦しくなると、悪魔にさえ狂乱の姿で取りすがりたくなるものです。王子は、いま、せっぱ詰まって、魔法使いの汚い老婆ろうばに、手を合せんばかりにして頼み込んでいるのであります。
「生かしてやってくれ!」と油汗を流して叫びました。悪魔にひざくっして頼み込んでしまったのであります。しんから愛している人のいのちを取りとめる為には、自分のプライドも何も、全部捨て売りにしてもいない王子さま。けなげでもあり、また純真可憐じゅんしんかれんな王子さま。老婆は、にやりと笑いました。 「よろしい。ラプンツェルを、末永く生かして置いてあげましょう。わしのような顔になっても、お前さまは、やっぱりラプンツェルを今までどおりに可愛がってあげるのだね?」

67

王子は、ひたいの油汗を手のひらで乱暴にぬぐって、 「顔。私には、いまそんな事を考えている余裕がない。丈夫なラプンツェルを、いま一度見たいだけだ。ラプンツェルは、まだ若いのだ。若くて丈夫でさえあったら、どんな顔でもみにくい筈は無い。さあ、早くラプンツェルを、もとのように丈夫にしてやっておくれ。」と、堂々と言ってのけたが、眼には涙が光っていました。美しいままで死なせるのが、本当の深い愛情なのかも知れぬ、けれども、ああ、死なせたくはない、ラプンツェルのいない世界は真暗闇まっくらやみだ、のろわれた宿命を背負っている女の子ほど可愛いものは無いのだ、生かして置きたい、生かして、いつまでも自分のそばにいさせたい、どんなに醜い顔になってもかまわぬ、私はラプンツェルを好きなのだ、不思議な花、森の精、嵐気らんきから生れた女体、いつまでも消えずにいてくれ、と哀愁あいしゅうやら愛撫あいぶやら、えられぬばかりに苦しくて、目前の老婆ろうばさえいなかったら、ラプンツェルのせた胸にしがみつき声をしまずに泣いてみたい気持でした。

68

老婆は、王子の苦しみの表情を、美しいものでも見るように、うっとり眼を細めて、気持よさそうにながめていました。やがて、「よいお子じゃ。」としわがれた声でつぶやきました。「なかなか正直なよいお子じゃ。ラプンツェル、お前は仕合せな女だね。」 「いいえ、あたしは不幸な女です。」と病床のラプンツェルは、老婆の呟きの言葉を聞きとってこたえました。「あたしは魔法使いの娘です。王子さまに可愛がられると、それだけ一そう強く、あたしは自分のいやしい生れを思い知らされ、恥ずかしく、つらくって、いつも、ふるさとがなつかしく森の、あの塔で、星や小鳥と話していた時のほうが、いっそ気楽だったように思われるのです。あたしは、此のお城から逃げ出して、あの森の、お婆さんのところへ帰ってしまおうと、これまで幾度いくど、考えたかわかりません。けれども、あたしは王子さまと離れるのが、つらかった。あたしは、王子さまを好きなのです。いのちを十でも差し上げたい。王子さまは、とても優しいいお方です。あたしは、どうしても王子さまとお別れする事が出来ず、きょうまで愚図愚図ぐずぐず、このお城にとどまっていたのです。あたしは、仕合せではなかった。毎日毎日が、あたしにとって地獄じごくでした。お婆さん。女は、しんから好きなおかたと連れうものじゃないわ。ちっとも、仕合せではありません。ああ、死なせて下さい。あたしは王子さまと生きておわかれする事は、とても出来そうもありませんから、死んでおわかれするのです。あたしがいま死ぬと、あたしも王子さまも、みんな幸福になれるのです。」
「それは、お前のわがままだよ。」と老婆は、にやにや笑って言いました。その口調くちょうにはじょうの深い母の響きがこもっていました。「王子さまは、お前がどんなにみにくい顔になっても、お前を可愛がってあげると約束したのだ。たいへんな熱のあげかたさ。えらいものさ。こんな案配あんばいじゃ、王子さまは、お前に死なれたら後を追って死ぬかも知れんよ。まあ、とにかく、王子さまの為にも、もう一度、丈夫になってみるがよい。それからの事は、またその時の事さ。ラプンツェル、お前は、もう赤ちゃんを産んだのだよ。お母ちゃんになったのだよ。」

69

ラプンツェルは、かすかな溜息ためいきをもらして、静かに眼をつぶりました。王子は激情げきじょうの果、いまはもう、すべての表情を失い、化石のように、ぼんやり立ったままでした。

70

眼前に、魔法の祭壇さいだんが築かれます。老婆は風のよう素早く病室から出たかと思うと、何かをひっさげてまた現れ、現れるかと思うと消えて、さまざまの品が病室に持ち込まれるのでした。祭壇は、四本のけものの脚にって支えられ、真紅の布でおおわれているのですが、その布は、五百種類の、蛇の舌をなめして作ったもので、その真紅の色も、舌からにじみ出た血の色でした。祭壇の上には、黒牛の皮で作られたおそろしく大きなかまが置かれて、その釜の中には熱湯が、火の気も無いのに、沸々ふつふつと煮えたぎって吹きこぼれるばかりの勢いでありました。老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やら呪文じゅもんをとなえながら駆けめぐり駆けめぐり、駆けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯こうほう根雪ねゆき、きらと光って消えかけた一瞬いっしゅんまえの笹の葉のしも、一万年生きた亀の甲、月光の中で一つぶずつ拾い集めた砂金さきん、竜のうろこ、生れて一度も日光に当った事のないどぶねずみの眼玉、ほととぎすの吐出はきだした水銀、ほたるの尻の真珠しんじゅ鸚鵡おうむの青い舌、永遠に散らぬ芥子けしの花、ふくろう耳朶みみたぶ、てんとう虫のつめ、きりぎりすの奥歯、海底に咲いた梅の花一輪、その他、とても此の世で入手でき難いような貴重な品々を、次から次と投げ込んで、およそ三百回ほど釜の周囲を駆けめぐり、釜から立ち昇る湯気ゆげが虹のように七いろの色彩をていして来た時、老婆は、ぴたりと足をとどめ、「ラプンツェル!」と人が変ったような威厳いげんのある口調で病床のラプンツェルに呼びかけました。「母が一生に一度の、難儀なんぎの魔法を行います。お前も、しばらく辛抱しんぼうして!」と言うより早くラプンツェルに躍りかかり、細長いナイフで、ぐさとラプンツェルの胸を突き刺し、王子が、「あ!」と叫ぶ間もなく、せ衰えて紙ほど軽いラプンツェルのからだを両手で抱きとって眼より高く差し挙げ、どぶんと大釜の中に投げ込みました。一声かすかに、かもめの泣き声に似た声が、釜の中から聞えた切りで、あとは又、お湯の煮えたぎる音と、老婆の低い呪文じゅもんの声ばかりでありました。

71

あまりの事に、王子は声もすぐには出ませんでした、ほとんどつぶやくような低い声でようやく、
「何をするのだ! 殺せとは、たのまなかった。釜で煮よとは、いいつけなかった。かえしてくれ。私のラプンツェルを返してくれ。おまえは、悪魔だ!」とだけは言ってみたものの、それ以上、老婆に食ってかかる気力もなく、ラプンソツェルの空のベッドにからだを投げて、わあ! と大声で、子供のように泣き出しました。

72

老婆は、それにおかまいなく、血走った眼で釜を見つめ、ひたいからほおからくびから、だらだら汗を流して一心に呪文をとなえているのでした。ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰ふっとうの音も、ぴたりと止みましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審ふしんそうに祭壇さいだんを見た時、鳴呼ああ、「ラプンツェル、出ておいで。」という老婆の勝ち誇ったようなんだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラプンツェルの顔。


その六

73

──美人であった。その顔は、輝くばかりに美しかった。──と長兄は、大いに興奮して 書きつづけた。長兄の万年筆は、実に太い。ソ─セ─ジくらいの大きさである。その堂々 たる万年筆を、しかと右手に握って胸を張り、きゅっと口を引きめ、まことに立派な態度で一字一字、はっきり大きく書いてはいるが、しい事には、この長兄には、弟妹ほどの物語の才能が無いようである。弟妹たちは、それゆえ此の長兄を少しく、なめているようなふうがあるけれども、それは弟妹たちの不遜ふそんな悪徳であって、長兄には長兄としての無類むるいのよさもあるのである。うそを、つかない。正直である。そうして所謂いわゆる人情には、もろい。いまも、ラプンツェルが、釜から出て来て、そうして魔法使いのばあさんの顔のようにみにくく恐ろしい顔をしていた等とは、どうしても書けないのである。それでは、あまりにラプンツェルが可哀想かわいそうだ。王子に気の毒だ、と義憤ぎふんをさえ感じて、美人であった、その顔は輝くばかりに美しかった、と勢い込んで書いたのであるが、さて、そのあとがつづかない。どうも長兄は、真面目すぎて、それゆえ空想力もはなはだ貧弱のようである。物語の才能というものは、出鱈目でたらめ狡猾こうかつな人間ほど豊富に持っているようだ。長兄は、謂わば立派な人格者なのであって、胸には高潔こうけつの理想の火が燃えて、愛情も深く、そこに何の駈引かけひきも打算も無いのであるから、どうも物語を虚構きょこうする事にいては不得手ふえてなのである。遠慮無く申せば、物語は、下手くそである。何を書いても、すぐ論文のようになってしまう。いまも、やはり、どうも、演説口調のようである。ただ、まじめ一方である。その顔は輝くばかりに美しかった、と書いて、おごそかに眼をつぶりしばらく考えてから、こんどは、ゆっくり次のように書きつづけた。物語にも、なんにもなっていないが、長兄の誠実と愛情だけは、さすがに行間ににじみ出ている。
──その顔は、ラプンツェルの顔ではなかった。いや、やっぱりラプンツェルの顔である。しかしながら、病気以前のラプンツェルの、うぶ毛の多い、野薔薇のばらのような可憐かれんな顔ではなく、(女性の顔を、とやかく批評ひひょうするのは失礼な事であるが)いま生き返って、かすかに笑っている顔は、之は草花にたとえるならば、(万物の霊長れいちょうたる人間の面貌めんぼうを、植物にたとえるのは無謀むぼうの事であるが)まず桔梗ききょうであろうか。月見草であろうか。とにかく秋の草花である。魔法の祭壇さいだんから降りて、さびしく笑った。品位。以前に無かった、しとやかな品位が、その身にそなわって来ているのだ。王子は、その気高い女王さまに思わず軽くお辞儀じぎをした。 「不思議な事もあるものだ。」と魔法使いの老婆は、首をかしげてつぶやいた。「こんなはずではなかった。蝦蟇がまのような顔の娘が、かまの中からって出て来るものとばかり思っていたが、どうもこれは、わしの魔法の力より、もっと強い力のものが、じゃまをしたのに違いない。わしは負けた。もう、魔法も、いやになりました。森へ帰って、あたりまえの、つまらぬ婆として余生よせいを送ろう。世の中には、わしにわからぬ事もあるわい。」そう言って、魔法の祭壇さいだんをどんと蹴飛けとばし、暖炉だんろにくべて燃やしてしまった。祭壇の諸道具は、それから七日七晩、あおい火を挙げて燃えつづけていたという。老婆は、森へ帰り、ふつうの、おとなしい婆さんとして静かに余生を送ったのである。

74

これを要するに、王子の愛の力が、老婆の魔法の力に打ち勝ったという事になるのであるが、小生の観察かんさつれば、二人の真の結婚生活は、いよいよこれから、はじまるもののようである。王子の、今日までの愛情は、極言きょくげんすれば、愛撫あいぶという言葉と置きかえてもいいくらいのものであった。青春の頃は、それもまた、やむを得まい。しかしながら、必ずそれは行き詰まる。必ず危機が到来とうらいする。王子と、ラプンツェルの場合も、たしかに、その懐妊かいにん、出産を要因として、二人の間の愛情が齟齬そごきたした。たしかに、それは神の試みであったのである。けれども王子の、無邪気むじゃきな懸命の祈りは、神のあわれみ給うところとなり、ラプンツェルは、肉感を洗い去った気高い精神の女性として蘇生そせいした。王子は、それに対して、思わずお辞儀じぎをしたくらいである。ここだ。ここに、新しい第二の結婚生活がはじまる。いわく、相互の尊敬である。相互の尊敬なくして、真の結婚は成立しない。ラプンツェルは、いまは、野蛮やばんの娘ではない。ひとの玩弄物がんろうぶつではないのである。深い悲しみと、あきらめと、思いやりのこもった微笑を口元に浮べて、生れながらの女王のように落ちついている。王子は、ラプンツェルと、そっと微笑を交しただけで、心も、なごやかになって楽しいのである。夫と妻は、その生涯しょうがいいて、幾度いくども結婚をし直さなければならぬ。お互いが、相手の真価を発見して行くためにも、次々の危機に打ち勝って、別離べつりせずに結婚をし直し、進まなければならぬ。王子と、ラプンツェルも、此の五年後あるいは十年後に、またもや結婚をし直す事があるかも知れぬが、互いの一筋の信頼と尊敬を、もはや失う事もあるまいから、まずまず万々歳ばんばんざいであろうと小生には思われるのである。

75

長兄は、あまり真剣に力をいれすぎて書いたので、自分でも何を言っているのやら、わけがわからなくなって狼狽ろうばいした。物語にも何も、なっていない。ぶちこわしになったような気もする。長兄は、太い万年筆を握ったまま、実にむずかしい顔をした。思い余って立ち上り、本棚ほんだなの本を、あれこれと取り出し、のぞいてみた。いいものを見つけた。パウロの書簡集しょかんしゅう。テモテ前書の第二章。このラプンツェル物語の結びの言葉として、おあつらいむきであると長兄は、ひそかに首肯うなずき、大いにもったいって書き写した。

76

──このゆえに、われは望む。男はいからず争わず、いずれの処にてもきよき手をあげて祈らん事を。また女は、羞恥しゅうちを知り、つつしみてよろしきに合う衣もて己をかざり、編みたる頭髪かみのけと金と真珠しんじゅあたいたかき衣もては飾らず、善きわざをもて飾とせん事を。これ神をうやまわんと公言する女にかなえる事なり。女はすべてのこと従順にして静かに道を学ぶべし。われ、女の、教うる事と、男の上に権をる事を許さず、ただ静かにすべし。それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。アダムはまどわされず、女は惑わされて罪に陥りたるなり。されど女もしつつしみて信仰しんこうと愛ときよきとに居らば、子を生む事によりて救わるべし。──

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まずこれでよし、と長兄は、思わず莞爾かんじと笑った。弟妹たちへの、よきいましめにもなるであろう。このパウロの句でも無かった事には、僕の論旨ろんしは、しどろもどろで甘ったるく、はなはだ月並みで、弟妹たちの嘲笑ちょうしょうの種にせられたかもわからない。危いところであった。パウロに感謝だ、と長兄は九死に一生を得た思いのようであった。長兄は、いつも弟妹たちへの教訓きょうくんという事を忘れない。それゆえ、まじめになってしまって、物語も軽くはずまず、必ずお説教の口調になってしまう。長兄には、やはり長兄としての苦しさがあるものだ。いつも、真面目でいなければならぬ。弟妹たちと、ふざけ合う事は、長兄としての責任感がゆるさないのである。

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さて、これで物語は、どうやら五日目に、長兄の道徳講義という何だか蛇足だそくに近いものにって一応は完結した様子である。きょうは、正月の五日である。次男の風邪かぜも、なおっていた。昼すこし過ぎに、長兄は書斎から意気揚々いきようようと出て来て、
「さあ、完成したぞ。完成したぞ。」と弟妹たちに報告して歩いて、皆を客間に集合させた。祖父も、にやにや笑いながら、やって来た。やがて祖母も、末弟に無理矢理、ひっぱられてやって来た。母と、さとは客間に火鉢ひばちを用意するやら、お茶、お菓子、昼食がわりのサンドイッチ、祖父のウイスキイなど運ぶのにいそがしい。まず末弟から、読みはじめた。祖母は、ひざをすすめ、文章の切れめ切れめに、なるほどなるほどという賛成の言葉をさしはさむので、末弟は読みながら恥ずかしかった。祖父は、どさくさまぎれに、ウイスキイのびんを自分のそばに引き寄せて、せんを抜き、勝手にひとりで飲みはじめている。長兄が小声で、おじいさん、量が過ぎやしませんかと注意を与えたら、祖父は、もっと小さい声で、ロオマンスはうて聞くのがつうなものじゃ、と答えた。末弟、長女、次男、次女、おのおの工夫くふうに富んだ朗読法ろうどくほうでもって読み終り、最後に長兄は、憂国ゆうこくの熱弁のような悲痛な口調で読み上げた。次男は、噴き出したいのをこらえていたが、ついに怺えかねて、廊下へ逃げ出した。次女は、長男の文才を軽蔑けいべつし果てたというような、おどけた表情をして、わざと拍手をしたりした。生意気なやつである。

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全部、読み終った頃には、祖父はすでに程度を越えて酔っていた。うまい、皆うまい、なかでもルミ(次女の名)がうまかった、とやはり次女を贔屓ひいきした。けれども、と酔眼すいがんを見ひらき意外の抗議こうぎを提出した。 「王子とラプンツェルの事ばかり書いて、王さまと、王妃さまの事には、誰もちっとも触れなかったのは残念じゃ。初枝が、ちょっと書いていたようだが、あれだけでは足りん。そもそも、王子がラプンツェルと結婚出来たのも、またそれから末永く幸福に暮せたのも、みなこれひとえに、王さまと王妃さまの御慈愛ごじあいのたまものじゃ。王さまと王妃さまに、もし御理解が無かったら、王子とラプンツェルとが、どんなに深く愛し合っていたとしても滅茶苦茶めちゃくちゃじゃ。だからして、王さまと王妃さまの深き御寛容ごかんようを無視しては、この物語は成立せぬ。お前たちは、まだ若い。そういう陰の御理解に気が付かず、ただもう王子さまやラプンツェルの恋慕れんぼの事ばかり問題にしている。まだ、いたらんようじゃ。わしは、ヴィクトル・ユ─ゴ─の作品を、せがれにすすめられて愛読したものだが、あれはさすがに隅々まで眼がとどいている。かの、ヴィクトル・ユ─ゴ─は、──」と一段と声を張り挙げた時、祖母にしかられた。子供たちが、せっかく楽しんでいるのに、あなたは何を言うのですか、と叱られ、おまけにウイスキイのびんとグラスを取り上げられた。祖父の批評ひひょうは、割合い正確なところもあったようだが、口調がはなはだ、だらしなかったので、誰にも支持されず黙殺もくさつされてしまった。祖父は急にしょげた。その様子を見かねて母は、祖父に、れいの勲章くんしょうを、そっと手渡した。去年の大晦日おおみそかに、母は祖父の秘密のわずかな借銭しゃくせんを、こっそり支払ってあげた功労にって、その銀貨の勲章を授与されていたのである。 「一ばん出来のよかった人に、おじいさんが勲章を授与じゅよなさるそうですよ。」と母は、子供たちに笑いながら教えた。母は、祖父にそんな事で元気を回復かいふくさせてあげたかったのである。けれども祖父は、へんに真面目な顔になってしまって、
「いや、これは、やっぱり、みよ(母の名)にあげよう。永久に、あげましょう。孫たちを、よろしくたのみますよ。」と言った。

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子供たちは、何だか感動した。実に立派な勲章のように思われた。




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