古典風

       太宰 治


    ――こんな小説も、私は読みたい。(作者)




1

美濃みの十郎は、伯爵はくしゃく美濃英樹の嗣子ししである。二十八歳である。

2

一夜、美濃がいしれて帰宅したところ、家の中は、ざわめいている。さして気にもとめずに、廊下ろうかを歩いていって、母の居間のまえにさしかかった時、どなた、と中から声がした。母の声である。ぼくです、と明確に答えて、居間の障子しょうじをあけた。部屋には、母がひとりはなれてすわっていて、それと向い合って、召使めしつかいのものが五、六人、部屋の一隅ひとすみにひしとかたまって、座っていた。 「なんです。」と美濃は立ったままでたずねた。

3

母は言いにくそうに、 「あなたは、私のペーパーナイフなど、お知りでないだろうね。銀のが。なくなったんだがね。」

4

美濃は、いやな顔をした。 「存じて居ります。僕が頂戴ちょうだいいたしました。」

5

障子を閉めもせず、そのまま廊下をぶらぶら歩いていって、自分の寝室へはいった。ひどく酔っていた。上衣うわぎを脱いだだけで、ベッドに音高くからだをたたきつけ、それなり、眠ってしまった。

6

水を飲みたく、目があいた。夜が明けている。まくらもとに小さい女の子がうつむいて立っていた。美濃は、だまっていた。昨夜の酔が、まだそのままに残っていた。口をきくのも、物かった。女の子には見覚えがあった。このごろ新しくやといいれたわが家の下婢かひに相違なかった。名前は、記憶してなかった。

7

ぼんやり下婢の様を見ているうちに、むしゃくしゃして来た。 「何をしているのだ。」うす汚い気さえしたのである。

8

女の子は、ふっと顔をげた。真蒼まっさおである。ほおのあたりが異様な緊張きんちょうで、ひきつってゆがんでいた。みにくい顔ではなかったが、それでも、何だか、みじめな生き物の感じで、美濃は軽い憤怒ふんぬを覚えた。 「ばかなやつだ。」と意味なく叱咤しったした。 「あたし、」下婢は再びうなだれ、震え声で言った。「十郎様を、いけないお方だとばかり存じていました。」そこまで言って、くたくた座った。 「ぺーパーナイフかね?」美濃は笑った。

9

女はだまって二度も三度もうなずいた。そうして、エプロンの下から小さい銀のペーパーナイフをちらとのぞかせてみせた。 「ペーパーナイフを盗むなんて、へんなやつだ。でも、綺麗きれいだと思ったのなら仕様が無い。」

10

女の子は声を立てずに慟哭どうこくをはじめた。美濃は少し愉快ゆかいになる。よい朝だと思った。 「母上がよくない。ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んで、ただぺージを切って、それだけでお得意、たいへんなお道楽だ。」美濃は寝たままで思いきり大袈裟おおげさに背伸びした。 「いいえ、」女は上半身を起し、髪をきあげて、「奥様は、ご立派なお方です。あたし、親兄弟の陰口かげぐちきくかた、いやです。」

11

美濃みのはのそりと起き、ベッドの上にあぐらをかいた。ひそかに苦笑している。 「君は、いくつだね?」 「十九歳になります。」素直にそう答えて、顔を伏せた。うれしそうであった。 「もうお帰り。」美濃は、下婢かひのとしなど尋ねた自分を下品だと思った。

12

女は、マットに片手をついて横座りのまま、じっとしていた。 「誰にも言いやしない。いいから、早く出て行ってれないか。」

13

女の子には、何よりもナイフがしかった。光る手裏剣しゅりけんが欲しかった。流石さすがに、下さい。とは言い得なかった。汗でぐしょぐしょになるほど握りしめていた掌中しょうちゅうのナイフを、力一ぱいマットに投げ捨て、脱兎だっとごとく部屋から飛び出た。




14

尾上おのえてるは、含羞はにかむような笑顔えがおと、しなやかな四肢ししとを持った気性のつよい娘であった。浅草のる町の三味線職の長女として生れた。かなりの店であったが、てるが十三の時、父は大酒のために指がふるえて仕事がうまく出来なくなり、職人をたのんでも思うようにゆかず、ほとんど店は崩壊ほうかいしたのである。てるは、千住せんじゅ蕎麦そば屋に住込すみこみで奉公ほうこうする事になった。千住に二年つとめて、それから月島のミルクホールに少しいて、さらに上野の米久よねきゅうに移り住んだ。ここに三年いたのである。わずかなお給金の中から、二円でも三円でも毎月かかさず親元へ仕送りをつづけた。十八になって、向島の待合まちあいの下女をつとめ、そこの常客である新派のじいさん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえに勘蔵かんぞうという腕のよい実直な職人をさがし当て、すべて店をまかせ、どうやら回復かいふくしかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝しゅしょうらしく家事の手伝い、お針の稽古けいこなどをはじめた。てるには、弟がひとりあった。てるに似ず、無口で、弱気な子であった。勘蔵に教えられ、店の仕事に精出していた。てるの老父母は、この勘蔵にてるをめあわせ、末永く弟の後見をさせたい腹であった。てるも、勘蔵も、両親のその計画にうすうす感づいてはいたが、けれども、お互いに、いやでなかった。十九歳になった。てるも追々おいおいよめさんになれるとしごろになったのだから、ただ行儀ぎょうぎ見習いだけのつもりで、ひとつ立派なお屋敷やしきに奉公してみる気はないか、と老母にすすめられ、親の言う事には素直なてるは、ほんとうに、毎日こうしてうちで遊んでいるよりは、と機嫌きげんよく承知しょうちした。店のお得意筋に当るさる身分ある方の御隠居ごいんきょ口添くちぞえで、奉公先がきまった。美濃伯爵はくしゃく家である。

15

美濃家は、さびしい家であった。てるは、お寺に来たような気がした。奉公に来て二目目の朝、てるは庭先で手帖てちょうを一冊ひろった。それには、わけのわからぬ事が、いっぱい書かれて在った。美濃十郎の手帖である。   ○あれでもない、これでもない。   ○何も無い。   ○FNヘチップ五円わすれぬこと。薔薇ばら花束はなたば、白と薄紅うすべにがよからむ。水曜日。手渡す時の仕草が問題。   ○ネロの孤独こどくいて。   ○どんないい人の優しい挨拶あいさつにも、何か打算が在るのだと思うと、つらいね。   ○誰か殺してれ。   ○以後、洋服は月賦げっぷのこと。断行せよ。   ○本気になれぬ。   ○ゆうべ、うらないてもらった。長生ちょうせいするよし。子供がたくさん出来る由。   ○飼いごろし。   ○モオツァルト。Mozart.   ○人のためになって死にたい。   ○コーヒー八杯んでみる。なんともなし。   ○文化の敵、ラジオ。拡声器。   ○自転車一台購入こうにゅう。べつに使途しとなし。   ○もりたや女将おかみに六百円手交。借銭しゃくせんは人生の義務ぎむか。   ○駱駝らくだが針の穴をくぐるとは、それや無理な。出来ませぬて。   ○私を葬り去る事のやすかな。   ○公侯伯子男こうこうはくしだん。公、侯、伯、子、男。   ○銭湯せんとうよろし。   ○美濃十郎。美濃十郎。美濃十郎。初号活字の名刺めいしでも作りますか。   ○H、ばか。D、低能。ゴルフのカップは、よだれ受け。S、阿呆あほう。学校だけは出ました。U、半死。あの若さで守銭奴しゅせんどとは。O君はよい。男ぶりだけでも。   ○昼は消えつつものをこそ思う。   ○水戸黄門、諸国漫遊しょこくまんゆうは、余が一生の念願也。   ○私は尊敬そんけいにおびえている。   ○没落ぼつらくばんざい。   ○パスカルを忘れず。   ○芸娼妓しょうぎの七割は、精神病者であるとか。「道理で話が合うと思った。」   ○誰か見ている。   ○みんないいひとだと私は思う。   ○煙草たばこをたべたら、死ぬかしら。   ○机に向って端座たんざし、十円紙幣しへいをつくづく見つめた。不思議のものであった。   ○肉親地獄じごく。   ○安い酒ほど、ききめがいい。   ○鏡をのぞいてみて、きだした。所詮しょせん、恋愛を語る顔でなし。   ○もとをただせば、野山のすすきか。   ○あたりまえの人になりたい努力。   ○所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。   ○KR女史に、耳環みみわおくる約束。   ○人の子には、ひとつの顔しか無かった。   ○性欲せいよくを憎む。   ○明日。

16

読んでいって、てるには、ひどく不思議な気がした。庭をき掃き、幾度いくども首をふって考えた。この、言わば悪魔のおきょうが、てるの嫁入りまえの大事なからだに悪い宿命の影を投じた。




17

私をお笑い下さいませ、毎夜、毎夜、私は花とばかり語り合って居ります。あなたさまをも含めてみんなを、いやになりました。花は、万朶ばんだのさくらの花でも、一輪、一輪、おそろしいくらいの個性を持って居ります。私は、いま、ベッドに腹這はらばいになって、鉛筆えんぴつをなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかり苦しくなって、そうして、枕元の水仙すいせんの花を見つめて居ります。電気スタンドの下で水仙の花が三輪、ひとつは右を向き、ひとつは左を向き、もうひとつは、うつむいたまま、それぞれ私に語ります。右を向いている真面目の花は、わかっているわよ。けれども、生きなければなりませぬ。左を向いている活発の花は、どうせ、世の中って、こんなものさ。うつむいている少ししおれかけた花は、おひめさま、あなたは花ほどのこともないのね、申しました。生れながらの古典人、だまっていても歴史的な、床の間の置き物みたいな私たちの宿命を、花さえ笑ってながめて居ります。床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから賛嘆さんたんの声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、さわるものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです。滑稽こっけい極致きょくちでございます。文化のはてには、いつも大笑いのナンセンスが出現するようでございます。教養きょうようの、あらゆる道は、目的のない抱腹絶倒ほうふくぜっとうに通じて在るような気さえいたします。私はこの世で、いちばん不健康な、まっくらやみの女かも知れませぬけれど、また、そのゆえにこそ、最も高い、まことの健康、見せかけでない、たくましい朝を、知っているように存ぜられます。

18

なぜ生きていなければいけないのか、そのといに思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、出来ませぬ。そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問ひとつにきているようでございます。ああ、溜息ためいきごとに人は百歩ずつ後退する、とか。私はこのごろ、たいへん酷烈こくれつな結論を一つ発見いたしました。貴族はエゴイストだ、という動かぬ結論でございます。いいえ、なんにもおっしゃいますな。やっぱり、ご自分おひとりのことしか考えて居りませぬ。ご自分おひとりの恰好かっこうのためにのみ、死ぬるばかり苦しんで居ります。ご存じでございましょうけれど、私の枕元には、三輪の水仙のほかに小さい鏡台きょうだいがひとつ置かれてございます。私は花を眺め、それから、この鏡のなかをのぞいて、私の美しい顔に話しかけます。美しい、と申しあげました。私は、私の顔を愛して居ります。いいえ、哀惜あいせきして居ります。白状はくじょうなさい、あなたさまも全く同じような一夜をお持ちなさいましたことを。私たちの不幸は、私たちの苦悩はみんなここから、この鏡の中からいて出ているのではございませぬか。ひとのため、たいへんつまらぬ、ひとりの肉親のため、自身をどろめて、こなごなにする盲動もうどうが、なぜ私たちに、出来ないのでございましょう。それが出来たら。ゆるがぬ信仰しんこうもってそれが、出来たら。きざな事ばかり言って居ります。軽蔑けいべつなさいませ。私は、やぶれかぶれなの。私、いま、ほおをあかくして書いて居ります。私は、あなたさまを愛しています。

19

鉛筆えんぴつんだまま、永いこと考えました。愛しています、と書いて、消そうか、けれども、これは、やっぱりこのまま消さずに置いたほうがいいのだ。とまた思い直し、ああ、もうどうでも、御勝手になさいませ、けれども、やっぱり私は、あなたさまを愛して居ります。言葉がいけないのでございましょう。愛しています、というこの言葉は、言葉にすれば、なんとまあ白々しく、きざっぽい、もどかしい言葉なのか、私は、言葉をにくみます。

20

愛は、愛は、捕縛ほばくできない宇宙的な、いいえ先験せんけん的なヌウメンです。とんだ素晴らしいフェノメンも愛のほんの一部分の注釈ちゅうしゃくにすぎません。ああ、またもや甘ったるい事を言いました。お笑い下さいませ。愛は、人を無能にいたします。私は、まけました。

21

教養きょうようと、理知りちと、審美しんびと、こんなものが私たちを、私を、懊悩おうのうのどん底の、そのまた底までたたき込んじゃった。十郎様。この度の、全く新しい小さな愛人のために、およろこびもうし上げます。笑われても殺されてもいい、一生に一度のおねがい、お医者さまに行って来て下さい、わるい男にかれたことございます、とる朝、十郎様に泣き泣きお願いしたとかいう、そのおろかしい愛人のために、およろこび申上げます。おゆるし下さい。私は、それを、くだらないと存じました。そうして、そのような愚直ぐちょくの出来事を、有頂天うちょうてん喜悦きえつを以て、これは大地の愛情だ、とおっしゃる十郎様のお姿をさえ、あさましく滑稽こっけいなものと存じ上げます。私も、もう二十五歳になりました。一年、一年、みんな、ぞろぞろ私から離れて行きます。そうしてみんな、あの平民的とやらの群衆の中にまぎれこんで行きます。私は、せめて、のおばあちゃんひとりを、花火のように、はかなく華麗かれいに育ててゆきます。さようなら、おわかれの、いいえ、握手よ。私、自惚うぬぼれてもいいこと? あなたは、きっと、私のところに帰ってまいります。

22

お達者にお暮しなさいまし。                      KR。




23

雨降る日、美濃みの書斎しょさいで書きものをしていた。仔細しさいらしく顔をしかめて、書きものをしていた。

24

あそび仲間の詩人が、ひょっくりドアから首を出した。 「おい、何か悪い事をしに行こうか。も少し後悔こうかいしてみたい。」

25

振り向きもせず、 「きょうは、いやだ。」 「おや、おや。」詩人は部屋へはいって来た。「まさか、死ぬ気じゃないだろうね。」 「いいかい? 読むぞ。」美濃は、机に向ったままで、自分の労作を大声で読みはじめた。 「アグリパイナは、ロオマの王者、カリギュラの妹君として生れた。漆黒しっこく頭髪とうはつと、小麦色のほおと、せた鼻とを持った小柄こがら婦人ふじんであった。極端きょくたんりあがった二つの眼は、山中の湖沼のごとくつめたくんでいた。純白のドレスを好んで着した。

26

アグリパイナには乳房ちぶさが無い、と宮廷につど伊達だて男たちがささやき合った。美女ではなかった。けれどもその高慢こうまんにして利発りはつ、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態したいは、当時のみやびの一、二のものに、かえって狂おしいまで魅力みりょくを与えた。

27

アグリパイナは、おのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。兄は、一点非なき賢王けんおうとして、カイザアたる孤高ここうの宿命にさとくもじゅんぜむとする凄烈せいれつ覚悟かくごを有し、せめて、わがひとりの妹、アグリパイナにこそ、まこと人らしき自由を得させたいものと、無言の庇護ひごおこたらなかった。

28

アグリパイナの男性侮辱ぶじょくは、きわめて自然に行われ、しかも、歴史的なる見事さにまで達した。時の唇薄くちびるうすき群臣どもは、この事実をもって、アグリパイナのたぐいまれなる才女たる証左となし、いよいよ、やんやの喝采かっさいを惜しまなかった。

29

アグリパイナの不幸は、アグリパイナの身体の成熟せいじゅくと共にはじまった。彼女の男性嘲笑ちょうしょうは、その結婚にり、完膚かんぷ無きまでに返報せられた。婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲のはての思いつきに依り、新郎手飼てがいの数匹の老猿をけしかけられ、饗筵きょうえんにつらなれる好色の酔客すいきゃくたちを狂喜きょうきさせた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄せんりつに依ってのみ生命いのちの在りどころを知るたちの男であった。アグリパイナは、唇をんで、この陵辱りょうじょくえた。いつの日か、この目前の男性たちすべてに、今宵こよいの無礼をいさせてやるのだ、と心ひそかに神にちかった。けれども、その雪辱せつじょくの日は、なかなかに来なかった。ブラゼンバートの暴圧ぼうあつには、限りがなかった。こころよい愛撫あいぶのかわりに、歯齦はぐきから血の出るほどの殴打おうだがあった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濠々さじんごうごうの戦車の疾駆しっくがあった。相剋そうこくの結合は、含羞がんしゅうはなをひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。

30

アグリパイナは、ほとんど復讐ふくしゅうを断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼まひるに生れた。男子であった。はだやわらかく、唇赤き弱々しげの男子であった。ドミチウス(ネロの幼名)と呼ばれた。

31

父君ブラゼンバートは、嬰児えいじと初の対面をし、そのやわらかき片頬かたほおを、むずとつねりあげ、うむ、奇態きたいのものじゃ、ヒッポのよい玩具がんぐが出来たわ、と言い放ち、腹をゆすって笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気にいりの牝獅子めじしの名であった。アグリパイナは、産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。この子は、あなたのお子ではございませぬ。この子は、きっとヒッポの子です。

32

その、ヒッポの子、ネロが三歳の春をむかえて、ブラゼンバートは石榴ざくろを種子ごと食って、激烈げきれつの腹痛に襲われ、呻吟転輾しんぎんてんてんはて死亡した。アグリパイナはおりしも朝の入浴中にゅうよくちゅうなりしを、その死の確報かくほうに接し、ものも言わずに浴場からおどり出て、れた裸体らたいに白布一枚をまとい、息ひきとった婿君むこぎみの部屋のまえを素通りして、風のごとけ込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、とうめくがごとくささやき、涙と接吻せっぷんでネロの花顔かがんをめちゃめちゃにした。

33

その喜びも束の間つかのまであった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指くっしの暴君たるの栄誉えいよになった。かつて英知えいちに輝やける眉間みけんには、短剣で切り込まれたような無慙むざんに深い立皺たてじわがきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑こぎほのおが青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下ろうかの足音にも、許すことなく苛酷かこく刑罰けいばつを課した。陰鬱いんうつ冷括れいとうえずしてむ一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒へいそつは、アグリパイナの枕頭ちんとうにひっそり立った。一人は、死刑の宣告書せんこくしょを持ち、一人は、宝石ちりばめたる毒杯どくはいを、一人は短剣のさやを払って。 『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳いげんを失わず、きっと起き直って難詰なんきつした。こたえは無かった。

34

宣告書は手交せられた。

35

ちらと眼をくれ、『このような、死罪を言い渡されるような、理由は、ない。そこ退け、下賎げせんの者。』こたえは無かった。

36

理由は、おまえに覚えがあるはず、そう言ってカリギュラ王は、戸口に姿を現わした。今朝おまえは、ドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながら、ドミチウスや、私たちは、どうしてこんなに不仕合せなのだろうね、とうらみごとを並べて居った。わしは、それを聞いてしまった。かくすな。謀叛むほんの疑い充分。ドミチウスと二人で死ぬがよい。 『ドミチウスを殺しては、いけません。』アグリパイナの必死の抗議こうぎの声は、天来のそれのごと厳粛げんしゅくひびき渡る。『ドミチウスは、あなたのものでない。また、私のものでもございません。ドミチウスは、神の子です。ドミチウスは、美しい子です。ドミチウスは、ロオマの子です。ドミチウスを殺しては、いけません。』

37

疑懼ぎくのカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。

38

アグリパイナは、ネロと共にかんに乗せられ、南海の一孤島いちことうに流された。

39

単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、たけく美しく成長した。アグリパイナは、ネロの手をひいて孤島のなぎさ逍遥しょうようし、水平線のかなたを指さし、ドミチウスや、ロオマは、きっと、あの辺だよ。早く、ロオマヘ帰りたいね、ロオマは、この世で一ばん美しい都だよ、そう教えて、涙にむせた。ネロは無心に波とたわむれていた。

40

そのころ、ロオマは騒動そうどうであった。あおざめた、カリギュラ王は、その臣下しんかの手にってしいせられるところとなり、彼には世嗣よつぎは無く全く孤独こどくの身の上だったし、この後、誰が位にのぼるのか、群臣ぐんしん万民ふるえるほどの興奮こうふんを以て私議しぎし合っていた。後継こうけいは、さだめられた。カリギュラの叔父おじ、クロオジヤス。当時すでに、五十歳を越えていた。宮廷きゅうていける諸勢力に対し、過不足ないよう、ことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。クロオジヤスは、申しぶんなき好人物にして、その条件にかなっている如く見えた。ロオマ一ばんの貝殻蒐集かいがらしゅうしゅう家として知られていた。黒薔薇くろばら栽培さいばいにも一家言を持っていた。王位についてみても、かれには何だか居心地のわるい思いであった。恐縮きょうしゅくであった。むやみ矢鱈やたらに、特赦とくしゃ大赦を行った。わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上を恐ろしきものに思い、可哀かわいそうでならぬから、と誰にとも無き言いわけを、ほおあからめてつぶやきつつ、その二人への赦免しゃめん書状しょじょう署名しょめいした。

41

赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。凱旋がいせんの女王のごとく、ほこらしげに胸を張って、ドミチウスや、おまえの世の中が来た、と叫び、ネロを抱いて裸足はだしのまま屋外に駈け出し、花一輪無き荒磯あらいそを舞うが如く歩きまわり、それから立ちどまって永いことすすり泣いた。

42

アグリパイナはロオマヘ帰って来て、もう恐ろしい人はいないぞ、とのびのびと四肢をのばして、ふと、背後に痛い視線を感じた。クロオジヤスのきさきメッサライナ。メッサライナは、アグリパイナのひとみをひとめ見て、これは、あぶない、と思った。烈々れつれつの、野望のほのおを見てとった。メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子せいしがあった。父のクロオジャスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌びぼうを、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。

43

奇妙きみょうな事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔びこうと、口とを、水にれた薔薇の葉二枚でもっておおい、これを窒息ちっそくさせ死にいたらしめむとくわだてた。アグリパイナは、憤怒ふんぬあおざめ、――」 「待て、待て。」詩人は、悲鳴ひめいに似たさけびを挙げた。「ひとの忍耐にんたいにも限りがある。一体、それは何だね。」 「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚ふかくにもあおざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオジヤスのきさきになりすまして、そうしてクロオジヤスを毒殺どくさつする。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは位についた。それから、――」 「ネロも悪い事をする。」詩人は落ちついて言った。 「いや、アグリパイナは、ネロの恋を邪魔して、――」 「うむ、なるほど。」詩人、煙草をふかしながら、「ネロは、それゆえ、母をなくした。お母さん、おゆるし下さい、私は、あなたのものじゃない。母は、苦しい息の下からささやく。おまえ、お母さんが憎いかい?」

44

美濃は興覚きょうざめ顔に、「まあ、そんなところさ。」椅子いすから立ちあがって部屋の中を歩きまわり、「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」 「よせよ。どうも古い。大時代おおじだいだ。」詩人は、美濃ののような多少の文才も愛しているし、また、こんな物語をひとりでこっそり書いている美濃の身の上を、不憫ふびんにも思うのだが、けれども、美濃のこんどの無法な新手の恋愛には、わざと気づかぬ振りをしていようと思った。「まるで、映画物語じゃないか。」 「むか?」美濃は、机上のウイスキイのびんに手をかけた。 「えて辞さない。」詩人も立ちあがった。

45

これでいいのだ。 「ロオマの人のために。」ふたり同時に言い、かちっとグラスをれ合せる。「滅亡めつぼうの階級のために。チェリオ。」




46

人のこころも

47

まこと信じてもらうには

48

十字架に

49

のぼらなければ

50

なるまいか
               (イヴァン・ゴル)




51

てるは、解雇かいこされた。美濃とのあいだが露見ろけんしたからでは無い。ふたりは、ひとめをあざむく事にはたくみであった。てるは、その物腰の粗雑そざつにして、言語もまた無礼きわまり、敬語の使用法など、めちゃめちゃのゆえをもって解雇されたのである。

52

美濃みのは、知らぬ振りをしていた。

53

三日を経て、夜の九時頃、美濃十郎は、てるの家の店先にふらと立っていた。 「てるは、いますか? 僕は美濃です。」

54

出て来たのは、眼のするどいせがたの青年であった。勘蔵かんぞうである。 「あ、」勘蔵かんぞうっとなって、「てる坊!」と奥のほうへ呼びかけた。 「しつれいします。」そのまま美濃は、店先から離れて、蹌踉そうろうちまたへひきかえした。ぞろぞろ人がとおっていた。

55

息せき切って、てるが追いかけて来た。美濃のからだに、右から左からまつわりつくようにして歩きながら、 「え? なぜ、来たの? あたしは、手癖てくせがわるいのよ。追い出されたのよ。あたしの家、きたなくて、驚いたでしょう? でも、おねがい、ばかにしないで、ね。家の人たち、みんなやさしいのだもの。一生懸命けんめいやっているのよ。笑っているの? なぜ、だまっているの?」 「君には、おむこさんがあるのだね。」 「あら、あたし、こんな恰好かっこうして、みっとも無いのね。」急にけた口調でそんな事をつぶやき、顔をせた。「このごろ、ろくすっぽ髪もわないのよ。」 「あの人と、わかれること、出来ないか。僕は、なんでもする。どんな苦しい事でも、こらえる。」

56

てるは、答えなかった。 「いいんだ、いいんだ。」美濃は、逃げるように足を早めた。「いいんだ、だいじょうぶだ。お互い死なない事だけは、約束しよう。なんて言いながら、危いのは、僕のほうなんだからなあ。」

57

ふたり、まっすぐを見つめたまま、せっせと歩いた。ただ、歩いた。歩いた。千里も歩いた。




58

美濃十郎は、実業家三村圭造けいぞうの次女ひさと結婚けっこんした。帝国ホテルで華麗かれい披露宴ひろうえんを行った。その時の、新郎新婦しんろうしんぷの写真が、二、三の新聞に出ていた。十八歳の花嫁の姿は、月見草のように可憐かれんであった。




59

みんな幸福に暮した。




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