走れメロス

       太宰 治

1

メロスは激怒げきどした。必ず、かの邪知暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人ぼくじんである。ふえを吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪じゃあくに対しては、人一倍に敏感びんかんであった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の律気りちぎな一牧人を、近々、花婿はなむことしてむかえる事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁はなよめ衣裳いしょうやら祝宴しゅくえん御馳走ごちそうやらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬ちくばの友があった。セリヌンティウスである。今はのシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子をあやしく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけにさびしい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。みちで会った若いしゅうをつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちはにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺ろうやに会い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心をいだいている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后こうごうさまを。それから、賢臣けんしんのアレキス様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下しんかの心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令をこばめば十字架じゅうじかにかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」

2

聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。生かして置けぬ。」

3

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏じゅんら警吏けいり捕縛ほばくされた。調べられて、メロスの懐中かいちゅうからは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳いげんもって問いつめた。その王の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんしわは、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独こどくがわからぬ。」 「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁はんぱくした。「人の心を疑うのは、最もずべき悪徳だ。王は、民の忠誠ちゅうせいをさえ疑って居られる。」 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲しよくのかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんのための平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑ちょうしょうした。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 「だまれ、下賎げせんの者。」王は、さっと顔をげてむくいた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿はらわたの奥底が見えいてならぬ。おまえだって、いまに、はりつけになってから、泣いてびたって聞かぬぞ。」 「ああ、王は利巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いのちごいなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時しゅんじためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑しょけいまでに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主ていしゅを持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」 「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」

4

それを聞いて王は、残虐ざんぎゃくな気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑たっけいしょしてやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」

5

メロスは口惜くやしく、地団駄じだんだ踏んだ。ものも言いたくなくなった。

6

竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城にされた。暴君ディオニスの面前で、き友と佳き友は、二年ぶりで相会うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯うなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、なわ打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

7

メロスはその夜、一睡いっすいもせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群ようぐんの番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊こんぱいの姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問をびせた。 「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式をげる。早いほうがよかろう。」

8

妹はほおをあからめた。 「うれしいか。綺麗きれい衣裳いしょうも買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」

9

メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇さいだんかざり、祝宴しゅくえんの席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

10

眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿はなむこの家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押してたのんだ。婿の牧人も頑強がんきょうであった。なかなか承諾しょうだくしてくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓せんせいが済んだころ、黒雲が空をおおい、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸しゃじくを流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、せまい家の中で、むんむんあついのもこらえ、陽気に歌をうたい、手をった。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨ごううを全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このい人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身にむち打ち、ついに出発を決意した。あすの日没にちぼつまでには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図ぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練みれんの情というものは在る。今宵呆然こよいぼうぜん歓喜かんきっているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。目が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決してさびしい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、うそをつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶんえらい男なのだから、おまえもそのほこりを持っていろ。」

11

花嫁は、夢見心地で首肯うなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「仕度したくの無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

12

花婿はみ手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈えしゃくして、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

13

眼が覚めたのはあくる日の薄明はくめいの頃である。メロスはね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限こくげんまでには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上ってやる。メロスは、悠々ゆうゆう身仕度みじたくをはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。

14

私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞かんねい邪知じゃちを打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉めいよを守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度いくどか、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身をしかりながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村となりむらに着いたころには、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスはひたいの汗をこぶしではらい、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっとい夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無いはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達とうたつした頃、降っていた災難さいなん、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫はんらんし、濁流だくりゅう滔々とうとうと下流に集り、猛勢もうせい一挙に橋を破壊はかいし、どうどうとひびきをあげる激流げきりゅうが、木葉微塵こっぱみじん橋桁はしげたね飛ばしていた。彼は茫然ぼうぜんと、立ちすくんだ。あちこちとながめまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟けいしゅうは残らず波にさらわれて影なく、渡守わたしもりの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願あいがんした。「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々こくこくに過ぎて行きます。太陽もすでに真昼時です。あれがしずんでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」

15

濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しくおどり狂う。なみは波をみ、き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧しょうらんあれ! 濁流にも負けぬ愛とまこと偉大いだいな力を、いまこそ発揮はっきして見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇だいじゃのようにのた打ち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争とうそうを開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅ししふんじんの人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木じゅもくみきに、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震どうぶるいを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽はすでに西にかたむきかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながらとうげをのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊さんぞくおどり出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ちせしていたのだな。」

16

山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥ひちょうごとく身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠をけ降りたが、流石さすがに疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度いくどとなく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりとひざを折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天をあおいで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流だくりゅうを泳ぎ切り、山賊さんぞくを三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、希代きたいの不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分をしかってみるのだが、全身えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進がなわぬ。路傍ろぼうの草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心のすみ巣食すくった。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧しょうらん、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸をって、真紅の心臓をお目にけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根もきたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友をあざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、あざむかなかった。私たちは、本当にい友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑ぎわくの雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばんほこるべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破とっぱした。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠をりて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望みたまうな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣ひれつを憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉ふめいよの人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、みにくい裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

17

ふと耳に、潺々せんせん、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息をんで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目さけめから滾々こんこんと、何か小さくささやきながら清水がき出ているのである。その泉にい込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一くち飲んだ。ほうと長い溜息ためいきが出て、夢からめたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行ぎむすいこうの希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽しゃようは赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでおび、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼にむくいなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。

18

私は信頼されている。私は信頼されている。先刻せんこくの、あの悪魔あくまささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえのはじではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

19

みち行く人を押しのけ、ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴しゅえんの、その宴席のまっただ中をけ抜け、酒宴の人たちを仰天ぎょうてんさせ、犬をとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人とっとすれちがった瞬間しゅんかん、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、はりつけにかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態ふうていなんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体ぜんらたいであった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血がき出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼とうろうが見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。 「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フィロストラトスでございます。貴方あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あのかたをお助けになることは出来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたはおそかった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張りける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

20

言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力をつくして、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風しっぷうごとく刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆ぐんしゅうにむかってさけんだつもりであったが、のどがつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでにはりつけの柱が高々と立てられ、なわを打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃もくげきして最後の勇、先刻せんこく濁流だくりゅうを泳いだように群衆ぐんしゅうきわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台はりつけだいに昇り、り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスのなわは、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは目に涙を浮べて言った。「私をなぐれ。ちから一ぱいにほおを殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁ほうようする資格しかくさえ無いのだ。殴れ。」

21

セリヌンティウスは、すべてをさっした様子で首肯うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

22

メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。

23

群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚くうきょ妄想もうそうではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

24

どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」ひとりの少女が、のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体らたいを、皆に見られるのが、たまらなく口惜くやしいのだ。」

25

勇者は、ひどく赤面した。                        (古伝説と、シルレルの詩から。)




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