善蔵ぜんぞうを思う

       太宰 治

1

――はっきり言ってごらん。ごまかさずに言ってごらん。冗談じょうだんも、にやにや笑いも、たまえ。うそでないものを、一度でいいから、言ってごらん。

2

――君の言うとおりにすると、私は、もういちど牢屋ろうやへ、はいって来なければならない。もういちど入水をやり直さなければならない。もういちど狂人にならなければならない。君は、その時になっても、逃げないか。私は、うそばかりついている。けれども、一度だって君をあざむいたことが無い。私の嘘は、いつでも君に易々やすやすと見破られたではないか。ほんものの凶悪の嘘つきは、かえって君の尊敬そんけいしている人の中に在るのかも知れぬ。あの人は、いやだ。あんな人にはなりたくないと反発のあまり、私はとうとう、本当の事をさえ、嘘みたいに語るようになってしまった。ささにごり。けれども、君を欺かない。底までんでいなくても、私はきょうも、嘘みたいな、まことの話を君に語ろう。

3

暁雲ぎょううんは、あれは夕焼から生れた子だと。夕陽なくして、暁雲は生れない。夕焼は、いつも思う。「わたくしは、疲れてしまいました。わたくしを、そんなに見つめては、いけません。わたくしを愛しては、いけません。わたくしは、やがて死ぬる身体からだです。けれども、明日の朝、東の空から生れ出る太陽を、必ずあなたの友にしてやって下さい。あれは私の、手塩にかけた子供です。まるまる太ったいい子です。」夕焼けは、それを諸君にうったえて、そうして悲しく微笑ほほえむのである。そのとき諸君は夕焼を、不健康、頽廃たいはい、などの暴言ぼうげんののしあざわらうことが、できるであろうか。できるとも、と言下げんかに答えて腕まくり、一歩まえに進み出た壮士そうしふうの男は、この世の大馬鹿野郎である。君みたいな馬鹿がいるから、いよいよ世の中が住みにくくなるのだ。

4

おゆるし下さい。言葉が過ぎた。私は、人生の検事でもなければ、判事でもない。人をめる資格しかくは、私に無い。私は、悪の子である。私は、ごうが深くて、おそらくは君の五十倍、百倍の悪事をした。現に、いまも、私は悪事を為している。どんなに気をつけていても、駄目なのだ。一日として悪事を為さぬ日は、無い。神にいのり、自分の両手をなわしばって、地にひれしていながらも、ふっと気がついた時には、すでに重大の悪事を為している。私は、むち打たれなければならぬ男である。血潮ちしお噴くまで打たれても、私はだまっていなければならぬ。

5

夕焼も、生れながらにみにくい、含羞がんしゅうの笑をもってこの世に現われたのではなかった。まるまる太って無邪気むじゃきに気負い、おのれ意欲すれば万事かならず成ると、のんのん燃えて天駈あまがけた素晴らしい時刻じこくも在ったのだ。いまは、弱者。もともと劣勢れっせいの生れでは無かった。悪の、おのれの悪の自覚ゆえに弱いのだ。「われ、かつて王座にありき。いまは、庭の、薔薇ばらの花を見て居る。」これは友人の、山樫やまがし君のつくった言葉である。

6

私の庭にも薔薇が在るのだ。八本である。花は、咲いていない。心細げの小さい葉だけが、ちりちり冷風にふるえている。この薔薇は、私が、だまされて買ったのである。その欺きかたが、浅墓あさはかな、ほとんど暴力的なものだったので、私は、そのとき実に、言いよう無く不愉快ふゆかいであった。私が九月のはじめ、甲府こうふから三鷹みたかの、畑の中の家に引越して来て、四日目の昼ごろ、ひとりの百姓女がひょっこり庭に現われ、ごめん下さいましい、と卑屈ひくつ猫撫声ねこなでごえを発したのである。私はその時、部屋で手紙を書いていたのであるが、手を休めて、女のさまを、よく見た。三十五、六くらいの太った百姓女である。顔はくりのように下ぶくれで蒼黒あおぐろく、針のように細い眼が、いやらしく光って笑い、歯は真白である。私は、いやな気持がしたから、黙っていた。けれども女は、私にむかって丁寧ていねいにお辞儀じぎをして、私の顔をはすのぞき込むようにしながら、ごめん下さいましい、とまた言った。あたしら、ここの畑の百姓でございますよ。こんど畑に家が建つのですのよ。薔薇を、な、これだけ植えて育てていたのですけんど、家が建つので可哀かわいそうに、抜いて捨てなけれやならねえのよ。もったいないから、ここのお庭に、ちょっとえさせて下さいましい。植えてから、六年になりますのよ。ほら、こんなに根株ねかぶが太くなって、毎年、いい花が咲きますよ。なあに、そこの畑で毎日はたらいている百姓でございますもの、ちょいちょい来ては手入れして差し上げます。旦那だんなさま、あたしらの畑にはダリヤでも、チュウリップでも、草花たくさんございます、こんどまた、お好きなものを持って来て植えてあげますよ。あたしらも、きらいなおうちにはお願いしないだ。お家がいいから、好きだから、こうしてお願い申すのよ。薔薇ばらをこれだけ、ちょっと植えさせて下さいましい、とやや声を低めて一生懸命けんめいである。私には、それがうそであることがわかっていた。この辺の畑全部は、私の家の、おおやさんの持物なのである。私は、家を借りるとき、おおやさんから聞いて、ちゃんと知っていた。おおやさんの家族をも、私は正確に知っている。じいさんと、息子と、息子のよめと、まごが一人である。こんな不潔ふけつな、人ずれした女なぞは、いないはずである。私がこの三鷹みたかに引越して来て、まだ四日しか経っていないのだから何も知るまいと、多寡たかをくくって出鱈目でたらめを言っているのに違いない。服装ふくそうからしていい加減だ。よごれの無い印半纏しるしばんてん藤色ふじいろ伊達巻だてまきをきちんと締め、手拭てぬぐいをあねさんかぶりにして、こん手甲てっこうに紺の脚絆きゃはん、真新しい草蛙わらじ刺子さしこ肌着はだぎ、どうにも、余りに完璧かんぺきであった。芝居に出て来るような、すこぶ概念的がいねんてきな百姓風俗ふうぞくである。贋物にせものに違いない。極めて悪質の押売りである。その態度、音声に、おろかなこびさえ感ぜられ、実に胸くそが悪かった。けれども私にはその者を叱咤しったし、追いかえすことが出来なかったのである。 「それは、御苦労さまでした。薔薇を拝見しましょうね。」と自分でも、おや、と思ったほど丁寧ていねいな言葉が出てしまって、見こまれたのが、不運なのだという無力な、だるいあきらめも感ぜられ、いまは仕方なく立ち上り、無理な微笑さえ浮べて縁側えんがわに出たのである。私も、いやらしく弱くて、人を、とがめることが出来ないのである。薔薇は、こもに包まれて、すべて一尺二、三寸の背丈で、八本あった。花は、ついていなかった。 「これからでも、くでしょうか。」つぼみさえ無いのである。 「咲きますよ。咲きますよ。」私の言葉の終らぬさきから、ひったくるように返事して、涙にうるんでいるような細い眼を、精一ぱいに大きく見開いた。疑いもなく、詐欺師さぎしの眼である。嘘をついている人の眼を見ると、例外なく、このように、涙でうすく潤んでいるものである。 「いいにおいが、ぷんぷんしますぞ、へえ。これが、クリイム。これが、うす赤。これが、白。」ひとりで何かと、しゃべっている。嘘つきは、習性として一刻も、無言で居られないものである。 「この辺は、みんな、あなたの畑なんでしょうか。」かえって私のほうが、腫物はれものにでもさわるような、冷や冷やした気持で聞いてみた。 「そうです。そうです。」すこしとがった口調で答えて、二度も三度も首肯しゅこうした。 「家が建つのだそうですね。いつごろ建つの?」 「もう、間も無く建ちますよ。立派な、お屋敷やしきが建つらしいですよ。ははは。」男みたいに不敵に笑った。 「あなたがたのお家じゃないんですね。それじゃ、畑をお売りになっちゃったというわけですね。」 「ええ、そういうわけです。売っちまったというわけですよ。」 「この辺は、つぼいくらしましょう。相当いい値でしょうね。」 「なあに、坪、二三十円も、しますかね。へっへ。」低く笑って、けれどもその顔を見ると、あせひたいに、にじみ出ている。懸命けんめいなのである。

7

私は、負けた。この上いじめるのは、よそうと思った。私だって、っては、このように、見えいたうそを、見破られているのを知っていながらも一生懸命に言い張ったことがあったのだ。その時も、やはり、あの不思議な涙で、まぶたがひどく熱かったことを覚えている。 「植えていって下さい。おいくらですか?」早くこの者に帰ってもらいたかった。 「あれま、売りに来たわけじゃ無いですよ。薔薇ばらが、可哀かわいそうだから、お願いするのですもの。」満面に笑をたたえてそう言い、ひょいと私のほうに顔を近づけ、声を落して、「一本、五十せんずつにして置いて下さいましい。」 「おい、」と私は、奥の三畳間で、いものをしている家内を呼んだ。「この人に、お金をやってくれ。薔薇を買ったんだ。」

8

にせ百姓は落ちついて八本の薔薇を植え、白々しいお礼を述べて退去したのである。私は植えられた八本の薔薇を、縁側に立ってぼんやり眺めながら家内に教えた。 「おい、いまのは贋物だぜ。」私は自分の顔が真赤になるのを意識した。耳朶みみたぶまで熱くなった。 「知っていました。」と家内は、平気であった。「私が出て、お断りしようと思っていたのに、あなたが、拝見はいけんしましょうなんて言って、出てゆくんだもの。あなただけ優しくて、私ひとりが鬼婆おにばばみたいに見られるの、いやだから、私、知らん振りしていたの。」 「お金が、惜しいんだ、四円とは、ひどいじゃないか。え湯をませられたようなものだ。詐欺さぎだ。僕は、へどが出そうな気持だ。」 「いいじゃないの。薔薇は、ちゃんと残っているのだし。」

9

薔薇は、残って在る。その当りまえの考えが、私を異様に勇気づけた。それからの四、五日間、私は、この薔薇に夢中になった。米のとぎ水をやった。かやで添木を作ってやった。れた葉を一枚一枚むしりとってやった。枝をはさんでやった。浮塵子うんかに似た緑色の小さい虫が、どの薔薇にも、うようよついていたのを、一匹残さず除去してやった。枯れるな、枯れるな、根を、おろせ。胸をわくわくさせて念じた。薔薇は、どうやら枯れずに育った。

10

私は、朝、昼、晩、みれんがましく、縁側に立って垣根の向うの畑地をながめる。あの、中年の女のひとが、贋物でなくて、ひょっこり畑に出て来たら、どんなにうれしいだろう、と思う。「ごめんなさい。僕は、あなたを贋物だとばかり思っていました。人を疑うことは、悪いことですね。」と私は、心からの大歓喜だいかんきで、おびを言って、神へ感謝の涙を流すかも知れぬ。チュウリップも、ダリヤも要らない。そんなもの欲しくない。ただ、ひょっと、畑で立ち働いている姿を見せてくれさえすれば、いいのだ。私は、それで助かるのだ。出て来い、出て来い、顔を出せ、と永いこと縁側に立ちつくし、畑を見まわしてみるのだが、畑には、いもの葉が秋風に吹かれて一斉にゆさゆさ頭を振ってさわいでいるだけで、時々、おおやのじいさんが、ゆったり両手をうしろに組んで、畑を見回って歩いている。

11

私は、だまされたのである。それに、きまった。今は、この見窄みすぼらしい薔薇が、どんな花をひらくか、それだけに、すべての希望をつながなければならぬ。無抵抗主義むていこうしゅぎの成果、見るべし、である。たいした花も咲くまい、と私はなかば諦めていたのである。ところが、それから十日ほど後、あまり有名でない洋画家の友人が、この三鷹の草舎に遊びにやって来て、る、意外の事実を知らせてくれたのである。

12

そのころ、私は故郷の、やや有名な新聞社の東京支局から招待状しょうたいじょうをもらっていたのである。――いつも御元気にてお暮しの事と思います。いよいよ秋に入りまして郷里は、さいわいに黄金色の稲田いなだと真紅な苹果りんごに四年連続の豊作をむかえようとしています。の際、本県出身の芸術方面に関係ある皆様にお集り願って、一夜ゆっくり東京のこと、郷里の津軽、南部のことなどお話ねがいたいと存じますので御多忙中ごたぼうちゅう迷惑めいわくでしょうが是非ぜひ御出席、云々うんぬんというやさしい招待の言葉が、その往復葉書に印刷いんさつされて在り、日時と場所とが指定されていた。私は、出席、と返事を出した。かねがね故郷を、あんなに恐れていながら、なぜ、出席と返事したのか。それには理由が、三つ在るのである。その一つには、私が小さい時から人なかへ出ることを億劫おっくうがり、としとってからもその悪癖あくへきが直るどころか、いっそう顕著けんちょになって、どうしても出席しなければならぬ会合にも、何かと事を構えて愚図愚図ぐずぐずしぶって欠席し、人には義理を欠くことの多く、ついには傲慢ごうまん誤解ごかいされ、なかなかそんな場合もあるので、これからは努めて人なかへも顔を出し、誠実の挨拶あいさつして、市民としての義務を果そうと、ひそかに決意していた矢先であったからである。その二つには、れいの新聞社の本社に、主幹しゅかんとしてつとめている河内という人に、私が五年まえの病気の時、少し御心配をおけしているからである。河内さんとは、私が高等学校のときからの知り合いである。いつもかげで、私の評判ひょうばんわるい小説を支持してくれていたのである。六年まえの病気のとき私は、ほうぼうから滅茶苦茶めちゃくちゃ借銭しゃくせんして、その後すこしずつお返ししても、未だに全部は返却へんきゃくすることの出来ない始末なのであるが、そのとき河内さんへも、半狂乱で借銭の手紙を書いたのである。河内さんから御返事が来て、それは結局、借銭拒否きょひのお手紙であったが、けれども、拒否されても、私は河内さんを有難ありがたいと思った。私のような言わば一介の貧書生に、河内さんのお家の事情を全部、率直そっちょくに打ち明けて下され、このような状態であるから、とても君の希望にうことのできないのが明白であるのに、なおぐずぐずしているのも本意ないゆえ、この際きっぱりお断りいたします、とおっしゃる言葉の底に、男らしいとおといものが感ぜられ、私は苦しい中でも有難く思った。私は、それを忘れていない。新聞社の今度の招待は、きっと河内さんたちの計画に違いない。事を構えて欠席したら、或いは、金を貸さなかったから出て来ないのだと、まさかそんなことは有るまいけれど、もし万一そのような疑惑ぎわくを少しでも持たれたなら、私は死ぬる以上に苦しい。決して、そんなことは無いのだ。あの時のことは、かえって真実ありがたく思っているのだ。私は、いまは是が非でも出席しなければならぬ。それが、理由の二つ。その三つは、招待状の文章に在った。――黄金色の稲田と真紅の苹果りんごに四年連続の豊作をむかえようとしています、と言われて、私もやはり津軽の子である。ふらふら、出席、と書いてしまった。眼のまえに浮ぶのである。ふるさとの山河が浮ぶのである。私は、もう十年も故郷を見ない。八年まえの冬、考えると、あの頃も苦しかったが、私は青森の検事局けんじきょくから呼ばれて、一人こっそり上野から、青森行の急行列車に乗り込んだことがある。浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っていて、浅虫の濃灰色の海は重くうねり、なみがガラスの破片のように三角の形で固く飛び散り、墨汁ぼくじゅうを流した程に真黒い雲が海を圧しつぶすように低くれこめて、ああ、もう二度と来るところで無い! とその時、覚悟を極めたのだ。青森へ着いて、すぐに検事局へ行き、さまざま調べられて、帰宅の許可を得たのは夜半であった。裁判所の裏口から、一歩そとへ出ると、たちまち吹雪が百本の矢のごと両頬りょうほほに飛来し、ぱっとマントのすそがめくれあがって私の全身はみ苦茶にされ、かんかんにこおった無人の道路の上に、私は、自分の故郷にいま在りながらも孤独こどくの旅芸人のような、マッチ売りの娘のような心細さで立ちすくみ、これが故郷か、これが、あの故郷か、とえくり返る自問自答を試みたのである。深夜、人っ子ひとり通らぬ街路を、吹雪だけが轟々ごうごうの音を立て白く渦巻うずまき荒れ狂い、私は肩をすぼめ、からだを斜めにして停車場へ急いだ。青森駅前の屋台店で、支那しなそば一ぱい食べたきりで、そのまま私は上野行の汽車に乗り、ふるさとの誰ともわず、まっすぐに東京へ帰ってしまったのだ。十年間、ちらと、たった一度だけ見たふるさとは、私にこんなに、つらかった。いまは、何やら苦しみにほうけ、めっきり弱くなっているので、「黄金の波、苹果の頬。」しという甘い言葉に乗せられ、故郷へのむかしの憎悪ぞうおも、まるで忘れて、つい、うかうか、出席、と書いてしまった。それが、理由の三つ。

13

出席、と返事してしまってから、私は、日ましに不安になった。それは、「出世」という想念にいてであった。故郷の新聞社から、郷土出身の芸術家として、招待を受けるということは、これは、衣錦還郷いきんかんきょうの一種なのではあるまいか。ずいぶん、名誉めいよなことなのでは無いか。名士、というわけのことになるのかも知れぬ、と思えば卒然そつぜん狼狽ろうばいせずには居られなかったのである。沢山の汚名おめいを持つ私を、たちの悪い、いたずら心から、わざと鄭重ていちょうに名士扱いにして、そうして、かげで舌を出してたがいに目まぜそで引き、くすくす笑っている者たちが、確かにふすまのかげに、うようよ居るように思われ、私はすこぶる落ちつかなかったのである。故郷の者は、ひとりも私の作品を読まぬ。読むとしても、主人公の醜態しゅうたいを行っている描写びょうしゃ箇所かしょだけを、憫笑びんしょうもっひろい上げて、大いにあきれて人に語り、郷里のはじとして罵倒ばとう嘲笑ちょうしょうしているくらいのところであろう。四年まえ、東京で長兄とちょっと会った時にも長兄は、おまえの本を親戚しんせきの者たちへ送ることだけはせ。おれだって読みたくない。親戚の者たちは、おまえの本を読んで、どんなことを、と言いかけ、ふっと口をつぐんで顔をせたきりだったけれど、私には、すべての情勢が、ありありと判った。もう死ぬまで一冊も、郷里の者へ、本を送らぬつもりである。郷土出身の文学者だって、甲野嘉一こうのかいち君を除いては、こぞって私を笑っている。文学に縁の無い、画家、彫刻家ちょうこくかたちも、ときたま新聞に出る私の作品への罵言ばげんを、そのまま気軽に信じて、利口そうに、苦笑しているくらいのところであろう。私は、被害妄想狂ひがいもうそうきょうでは無いのである。決して、ことさらに、ひがんで考えているのでは無いのである。事実は、あるいは、もっと苛酷かこくな状態であるかも知れない。同じ芸術家仲間にいてすら、そうである。わんや、ふるさとの人々の炉辺ろへんでは、辻馬の家の(Dというのは私の筆名であって、辻馬というのが、私の家の名前である。)末弟は、東京でいいはじさらしをしているそうだのう、とただそれだけ、話題に上って、ふっと消え、火をき起してお茶を入れかえ、秋祭りの仕度したくに就いて話題が移ってゆく、という、そんな状態ではないかと思う。そのようなびしい状態に在るのも知らず、おろかな貧しい作家が、故郷の新聞社から招待を受け、さっそく出席と返事して、おれも出世したわいと、ほくそ笑んでいる図はあわれでないか。何が出世だ。衣錦之栄いきんのえいも、へったくれも無い。私の場合は、まさしく、馬子まご衣裳いしょうというものである。物笑いのたねである。それ等のことに気がついた時には、私は恥ずかしさのあまりに、きりきり舞いをしたのである。しまった! と思った。やっぱり、欠席、とすべきであったのである。いやいや、出席でも欠席でも、とにかく返事を出すということが、すでに卑劣ひれつのすけべいである。招待を受けても、聞えぬふりして返事も出さず、ひそかに赤面し、小さくなってふるえているのが、いまの私の状態に、正しく相応している作法であった。

14

自身の弱さが――うかうか出席と返事してしまった自身のだらし無さが、つくづく私にうらめしかった。いて及ばぬ事である。すべては、私の愚かさゆえである。いっそ、こうなれば、度胸をえて、堂々、はかまはいて出席し、人が笑ってもなんでも、てんとして名士の振りをよそおい、大演説でも、ぶってやろうかと、やけくそに似たすさんだ根性も頭をもたげ、世の中は、力だ、飽くまでもつよく押して行けば、やがてその人を笑わなくなり、ああ、浅墓あさはかだ、恥を知れ! てのひらを返すがごとくその人を賞賛しょうさんし、畏敬いけいの身振りもいやらしく、ひそかにびてみつぎものを送ったり何かするのだ。堂々、袴をはいて出席し、大演説、などといきり立ってみるのだが、私は、駄目だめだ。人に迷惑めいわくけている。善い作品を書いていない。みんな、ごまかしだ。不正直だ。卑屈ひくつだ。うそつきだ。好色だ。弱虫だ。神の審判しんぱんの台に立つまでも無く、私は、つねに、しどろもどろだ。告白する。私は、やっぱり袴をはきたかったのである。大演説なぞと、いきり立ち、天地もゆらぐ程の空想に、ひとりで胸をとどろかせ、はっとめては自身の虫けらを知り、首をちぢめて消えも入りたく思うのだが、またむくむくと、せめてはかまくらいは、と思う。俗世のみれんを捨て切れないのである。どうせ出るなら、袴をはいて、きちんとして、私は歯が欠けてみにくいから、なるべく笑わず、いつもきゅっと口を引きめ、そうして皆に、はっきりした言葉で御無沙汰ごぶさたのおびをしよう。すると、あるいは故郷の人も、辻馬の末弟、うわさに聞いていたよりは、ちゃんとしているでは無いかと、ひょっとしたら、そう思ってくれるかもわからない。出よう。やっぱり、袴をはいて出よう。そうして皆に、はきはきした口調で挨拶あいさつして、末席につつましく控えていたら、私は、きっと評判がよくて、話がそれからそれへと伝わり、二百里離れた故郷の町までもかすかにひびいて、病身の老母を、静かに笑わせることが、出来るのである。絶好のチャンスでは無いか。行こう、袴をはいて行こうと、またまた私は、胸が張りけるばかりに、いきり立つのだ。捨て切れないのである。ふるさとを、私をあんなにあざけったふるさとを、私は捨て切れないで居るのである。病気がなおって、四年このかた、私の思いは一つであって、いよいよ熾烈しれつになるばかりであったのである。私も、所詮しょせんは心のすみで、衣錦還郷いきんかんきょうというものを思っていたのだ。私は、ふるさとを愛している。私は、ふるさとの人、すべてを愛している!

15

招待の日が来た。その日は、朝から大雨であった。けれども私は、出席するつもりなのである。私は、袴を持っている。かなり、いい袴である。つむぎなのである。これは、私の結婚式の時に用いただけで、家内は、ものものしく油紙に包んで行李こうりの底にぞうしている。家内は之を仙台平せんだいひらだと思っている。結婚式の時にはいていたのだから仙台平というものに違い無いと、独断している様子なのである。けれども、私は貧しくて、とても仙台平など用意できない状態だったので、結婚式の時にも、この紬の袴で間に合せて置いたのである。それを家内が、どういうものだか、仙台平だとばかり思っている様子だから、今更いまさら、その幻想げんそうをぶち壊すのも気の毒で、私は、未だにその実相を言えないで居るのである。その袴を、はいて行きたかった。私にとって、せめて錦衣きんいのつもりなのであった。 「おい、あの、いい袴を出してくれ。」流石さすがに、仙台平を、とは言えなかった。 「仙台平を? およしなさい。紺絣こんがすりの着物に仙台平は、へんです。」家内は、反対した。私には、よそゆきの単衣ひとえとしては、紺絣のもの一枚しかないのである。夏羽織はおりが一枚あったはずであるが、いつの間にやら無くなった。 「へんな事は無い。出しなさい。」仙台平なんかじゃないんだ、と真相をぶちまけようかと思ったがこらえた。 「滑稽こっけいじゃないかしら。」 「かまわない。はいて行きたいのだ。」 「だめですよ。」家内は、頑固がんこであった。その仙台平なるものの思い出を大事にして、無闇むやみに外に出して粗末そまつにされたくないエゴイズムも在るようだ。「セルのが、あります。」 「あれは、いけない。あれをはいて歩くと、僕は活動の弁士べんしみたいに見える。もう、よごれて、用いられない。」 「けさ、アイロンをけて置きましたの。紺絣には、あのほうが似合うでしょう。」

16

家内には、私のその時の思いつめた意気込みのほどが、わからない。よく説明してやろうかと思ったが、面倒めんどう臭かった。 「仙台平、」と、とうとう私まで嘘をついて、「仙台平のほうが、いいのだ。こんなに雨が降っているし、セルならば、すぐよれよれになってしまう。」どうしても、あれを、はいて行きたかったのである。 「セルが、いいのよ。」家内は、嘆願たんがんの口調になった。「れないように風呂敷ふろしきにお包みになって持っていらっしゃったら? 向うに着いてから、おはきになればいい。」 「そうしょう。」私は、あきらめた。

17

風呂敷に、足袋たびと、セルのはかまとを包んでもらって、しりはしょりし、雨の中をかささして出掛でかけた。何だか悪い予感があった。

18

宴会えんかいの場所は、日比谷公園の中の、有名な西洋料理屋である。午後五時半と指定されていたのであるが、途中バスの連絡れんらくが悪くて、私は六時すぎに到着した。はきもの係りの青年に、こっそり頼んで玄関傍げんかんそばの小部屋を借り、そこで身なりを調えた。その部屋では、上品な洋服の、青白い顔をした十歳くらいの男の子が、だらし無くすわってもぐもぐ菓子を食いながら、家庭教師に算術を教えてもらっていた。この料理屋の秘蔵ひぞう息子なのかも知れない。家庭教師のほうは、二十七八の、白く太った、落ちついている女性で、ロイド眼鏡めがねけていた。私が部屋のすみおびめ直し、風呂敷包みをほどいて足袋をはき、それからもそもそ、セルの袴をいじくっているのを、あわれと思ったのか、黙って立って来て、袴はくのを手伝ってくれた。袴のひもを、まえにちょうの形にきちんと結んでくれた。私は、簡単にお礼を言って小走りにその部屋を出て、それから、わざとゆっくり正面の階段を昇り、途中で蝶の形をほどいてしまった。よごれたよれよれの紐で蝶の形は、てれくさく、みじめで閉口へいこうであったのである。

19

会場へ一歩、足をみ込むときは、私は、鼻じろむほどに緊張きんちょうしていた。今である。故郷にける十年来の不名誉ふめいよ回復かいふくするのは、いまである。名士の振りをしろ、名士の。とんと私の肩をたたいたものがある。見ると、甲野嘉一こうのかいち君である。私は、自分の歯の汚いのも忘れて、笑ってしまった。甲野嘉一君とは、十年来の友人である。同郷のゆえを以て交っているのでは無い。甲野君が、誠実の芸術家であるから、私が求めて友人にしてもらっているのである。甲野嘉一君も、笑った。私は、さらに笑った。つつましくひかえることを忘れてしまったのである。

20

宴会の席が定まった。私は、まさしく文字どおりの末席であった。どさくさして、まあまあなどと言い合っているうちに、私は末席になっていたのである。けれども、十のうち三分は、意識して、末席を選んだようなところもあった。それは、この会合への尊敬そんけいのゆえでは無くして、かえって反発のゆえであったような気もする。反発どころか、私は、不遜ふそん蔑視べっしの念をさえ持っていたような気もする。私にも、正確なところは判らない。とにかく、私は末席にいたのである。そうして私は、確かに居心地がよかった。これでよし、いまからでも名誉挽回めいよばんかいが出来るかも知れぬ、と私は素直に喜んでいた。ところが、それからが、いけなかった。私の、それからの態度は、実に悪かったのである。全然、駄目だめであったのである。

21

私は、よくよく、駄目な男だ。少しも立派で無いのである。私は故郷に甘えている。故郷の雰囲気ふんいきに触れると、まるで身体が、だるくなり、我儘わがままが出てしまって、ほとんど自制を失うのである。自分でも、おやおやと思うほど駄目になって、意志のブレーキがけて消えてしまうのである。ただ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジがゆるみ、どうしても気取ることが出来ないのである。次々と、山海の珍味が出て来るのであるが、私は胸が一ぱいで、食べることができない。何も食べずに、酒ばかりんだ。がぶ、がぶ呑んだのである。雨のため、部屋の窓が全部しめ切られて在るので、あつく、私は酒が全身に回って、ふうふう言い、私の顔は、茄蛸ゆでだこのように見えたであろう。いけない。こんな工合では、いよいよ故郷の評判が悪くなる。私のこんな情ない有様を、母や兄が見たなら、どんなに残念がることか、地団駄じたんだ踏んで口惜くやしがることだろう、としきりに悲しく思っても、もはや私は、意志のブレーキを失っている。ただ、酒ばかり呑むのである。私の態度は、稚拙ちせつであった。三十一にもなって、少しも可愛げが無くなっているのに、それでも、でれでれ甘えて、醜怪しゅうかいきわみである。いが進むに連れて、ひとりで悲愴ひそうがって、この会合全体を否定してみたり、きざに異端いたん誇示こじしようとたくらんだり、あるいは思い直して、いやいやここに列席している人たちは、みな一廉ひとかどの人物なのだ、優しく謙虚けんきょな芸術家なのだ、誠実に、苦労して生きて来た人たちばかりだ。卑劣ひれつなのは、僕だけだ。ああ、僕は臆病者おくびょうものだ、女のくさったみたいなものだ、そんなに、この会がいやならば、なぜはかまをはいて出席したりなどするのだ、お前のさもしい焦躁しょうそうは、見えいているぞ、と自分をしかったり、とにかく、その時の私の心境は、全然なっていなかったのである。ただ、そわそわして落ちつかず、絶えず身体をゆらゆら左右に動かして、酒ばかりんでいるのである。酒はおびただしく、からだに回って全身かっかと熱く、もはや頭から湯気が立ち昇るほどになっていた。

22

自己紹介がはじまっている。皆、有名な人ばかりである。日本画家、洋画家、彫刻家、戯曲ぎきょく家、舞踏ぶとう家、評論ひょうろん家、流行歌手、作曲家、漫画まんが家、すべて一流の人物らしい貫禄かんろくもって、自己の名前を、こだわりなくすずしげに述べ、軽い冗談じょうだんなども言いえる。私はやけくそで、突拍子とっぴょうしない時に大拍手はくしゅをしてみたり、ろくに聞いてもいないくせに、しかりとか何とか、矢鱈やたら合槌あいづち打ってみたり、きっと皆は、あのすみのほうにいる酔っぱらいは薄汚いやつだ、と内心不快、嫌悪けんおの情を覚え、顰蹙ひんしゅくなされていたに違いない。私は、それを知っていたが、どうにも意志のブレーキが、きかないのである。自己紹介が、めぐりめぐって、だんだん順番が、末席のほうに近くなって来た。今に私の番になったら、私はこんな状態で、一体なんと言って挨拶あいさつしたらいいのか。こんなに取乱してしまって、大演説なぞは、思いも寄らぬ事である。いよいよ酔漢すいかんの放言として、嘲笑ちょうしょうされるくらいのところであろう。唐突とうとつに、雪溶ゆきどけの小川が眼に浮ぶ。岸に、青々とせりが。あああ、私には言いたい事があるのだ。山々あったのである。けれども、急に、いやになった。なぜか、いやになった。いいのだ。私は永久に故郷に理解されないままで終っても、かまわないのだ。あきらめたのだ。衣錦還郷いきんかんきょうを、あきらめた。酔いがぐるぐるけめぐっている動乱の頭脳で、それでも、あれこれ考え悩み、きょうは、どうも、ごちそうさまでした、と新聞社の人にお礼を言って、それだけで引きさがろうと態度をきめた。その時の私の心で一ばん素直に、いつわりなく言える言葉は、ただそのお礼だけであったのだ。けれども、とまた考えて、ごちそうさまでした、とだけ言って、それで引きさがるのは、なんだか、ふだん自分のぜにでお酒を呑めない実相を露悪ろあくしているようで、いやしくないか、よせよせという内心の声も聞えて、私は途方に暮れていた。私の番が、来た。私は、くにゃくにゃと、どやしつけてやりたいほど不潔ふけつな、醜女しこめ媚態びたいもって立ち上り、とっさのうちに考えた。Dの名前は出したくない。Dって、なんだいと馬耳東風ばじとうふう軽蔑けいべつされるに違いない。私の作品が可哀かわいそうだ、読者にすまない。K町の辻馬の末弟です。と言えば、母や兄に赤恥かかせることになる、それにいま長兄は故郷のる事件で、つらい大災厄だいさいやくっているのを、私は知っている。私の家は、この五、六年、私の不孝ばかりでは無く、他の事でも、不仕合せの連続の様子なのである。おゆるし下さい。 「K町の、辻馬……」というには言ったつもりなのであるが、声がのどにひっからまり、ほとんど誰にも聞きとれなかったに違いない。 「もう、いっぺん!」というだみ声が、上席のほうから発せられて、私は自分の行きどころの無い思いを一時にその上席のだみ声に向けて爆発させた。 「うるせえ、だまっとれ!」と、確かに小声で言ったはずなのだが、すわってから、あたりを見回すと、ひどく座が白けている。もう、駄目なのである。私は、救い難き、ごろつきとして故郷に喧伝けんでんされるに違いない。

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その後の私の汚行にいては、もはや言わない。ぬけぬけ白状するということは、それは、かえって読者に甘えている所以ゆえんだし、私の罪を、少しでも軽くしようと計る卑劣ひれつな精神かも知れぬし、私は黙ってこらえて、神のきびしいさばきを待たなければならぬ。私が、悪いのだ。持っている悪徳のすべてを、さらけ出した。帰途きと、吉祥寺駅から、どしゃ降りの中を人力車に乗って帰った。車夫は、よぼよぼの老爺ろうやである。老爺は、びしょれになって、よたよた走り、ううむ、ううむと苦しげにうめくのである。私は、ただしかった。 「なんだ、苦しくもないのに大袈裟に呻いて、根性が浅間あさましいぞ! もっと走れ!」私は悪魔の本性を暴露ばくろしていた。

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私は、その夜、やっとわかった。私は、出世する型では無いのである。あきらめなければならぬ。衣錦還郷いきんかんきょうのあこがれを、の際はっきり思い切らなければならぬ。人間いたるところに青山、と気をゆったり持って落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍ろぼう辻音楽師つじおんがくしで終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷がんめいのこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅しめつする。

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あくる日、洋画を勉強している一友人が、三鷹のの草舎におとずれて来て、私は、やがて前夜の大失態だいしったいいて語り、私の覚悟のほども打ち明けた。この友人もまた、瀬戸内海の故郷の島から追放されているのである。 「故郷なんてものは、泣きぼくろみたいなものさ。気にかけていたら、きりが無い。手術したってあとが残る。」この友人の右の眼の下には、あずきつぶくらいの大きな泣きぼくろが在るのだ。

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私は、そんないい加減の言葉では、なぐさめられ切れず、鬱然うつぜんとして顔を仰向あおむけ、煙草たばこばかり吸っていた。

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その時である。友人は、私の庭の八本の薔薇ばらに眼をつけ、意外の事実を知らせてくれた。これは、なかなか優秀の薔薇だ、と言うのだ。 「ほんとうかね。」 「そうらしい。これは、もう六年くらいは経っています。ばらしんあたりでは、一本一円以上は取るね。」友人は、薔薇にいては苦労して来たひとである。大久保の自宅の、狭い庭に、四、五十本の薔薇を植えている。 「でも、これを売りに来た女は、贋物にせものだったんだぜ。」と私は、だまされた顛末てんまつを早速、物語って聞かせた。 「商人というものは、不必要な嘘までくやつさ。どうでも、買ってもらいたかったんだろう。奥さん、はさみを貸して下さい。」友人は庭へ降りて、薔薇のむだな枝を、熱心にぱちんぱちんとはさみ取ってくれている。 「同郷人だったのかな? あの女は。」なぜだか、ほおが熱くなった。「まんざら、嘘つきでも無いじゃないか。」

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私は縁側えんがわに腰かけ、煙草を吸って、ひとかたならず満足であった。神は、在る。きっと在る。人間到るところ青山。見るべし、無抵抗主義むていこうしゅぎの成果を。私は自分を、幸福な男だと思った。悲しみは、金を出しても買え、という言葉が在る。青空は牢屋ろうやの窓から見た時に最も美しい、とか。感謝である。この薔薇の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思った。




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