火の鳥

       太宰 治


   序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。

1

昔の話である。須々木乙彦すすきおとひこは古着屋へはいって、君のところに黒の無地の羽織はおりはないか、と言った。 「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけていた。 「まだセルでも、おかしくないか。」 「もっともっとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、おかしいことはございませぬ。」 「よし。見せてくれ。」 「あなたさまがおしになるので?」角帽かくぼうをあみだにかぶり、袖口そでぐちがぼろぼろの学生服を着ていた。 「そうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさっと羽織って、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、せてひょろ長い大学生であった。 「セルのお羽織なら、かえって少し短かめのほうが。」 「いきか。いくらだ。」

2

羽織を買った。これで全部、身仕度みじたくは出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまえに立っていた。ねずみいろのこまかい縞目しまめあわせに、黒無地のセルの羽織を着て立っていた。ドアをして中へはいり、 「部屋を貸してくれないか。」 「は、おとまりで?」 「そうだ。」

3

浴室付のシングルベッドの部屋を二晩借りることにきめた。持ちものは、とうのステッキ一本である。部屋へ通された。はいるとすぐ、窓をあけた。裏庭である。火葬場かそうば煙突えんとつのような大きい煙突が立っていた。曇天どんてんである。省線のガードが見える。

4

給仕人に背を向けて窓のそとをながめたまま、 「コーヒーと、それから、──」言いかけて、しばらくだまっていた。くるっと給仕人のほうへ向き直り、「まあ、いい。外へ出て、たべる。」 「あ、君。」乙彦おとひこは、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」十円紙幣しへいを一枚とり出して、にぎらせた。 「は?」四十歳ちかいボーイは、すこし猫背ねこぜで、気品があった。

5

乙彦は笑って、「お世話になる。」 「どうも。」給仕人は、そのめんのような端正たんせいの顔に、ちらとあいそ笑いをうかべて、お辞儀じぎをした。

6

そのまま、乙彦は外へ出た。ステッキをって日比谷ひびやのほうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かった。はきれぬフェルト草履ぞうりで、歩きにくいように見えた。日比谷。すきやばし。尾張おわり町。

7

こんどはステッキをずるずる引きずって、銀座を歩いた。何も見なかった。ぼんやり水平線を見ているような眼差まなざしで、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらわれたように、よろめき、資生堂へはいった。資生堂のなかには、もうがともっていて、ほの温かった。熱いコーヒーを、ゆっくりのんだ。サンドイッチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。

8

日が暮れた。

9

こんどはステッキをかたにかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアヘ立ち寄った。 「いらっしゃい。」

10

すみのソファにこしをおろした。深い溜息ためいきをついて、それから両手で顔をおおったが、はっと気を取り直して顔をしゃんと挙げ、 「ウイスキイ。」と低くつぶやくように言って、すこし笑った。 「ウイスキイは、」 「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」

11

ぱい、続けざまに、のんだ。 「おつよいのね。」

12

女が、両側に座っていた。 「そうか。」

13

乙彦は、少しあおくなって、そうして、なんにも言わなかった。

14

女たちは、手持ちぶさたの様子であった。 「かえる。いくらだ。」 「待って。」左手に座っていた断髪だんぱつの女が、乙彦のひざを軽くおさえた。「困ったわね。雨が降ってるのよ。」 「雨。」 「ええ。」

15

ったばかりの、あかの他人の男女が、一切いっさい警戒けいかい含羞がんしゅうとポオズを飛びえ、ぼんやり話をかわしている不思議な瞬間しゅんかんが、この世に、在る。 「いやねえ。あたし、この半襟はんえりかけてお店に出ると、きっと雨が降るのよ。」

16

ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸のすすきが、かりの列のように刺繍ししゅうされてある古めかしい半襟であった。 「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがえって来ていた。 「ええ。お草履ぞうりじゃ、たいへんでしょう。」 「よし。のもう。」

17

その夜は、ふたり、帝国ホテルにとまった。朝、中年の給仕人が、そっと部屋へはいって来て、ぴくっと立ちどまり、それから、おだやかに微笑びしょうした。

18

乙彦おとひこも、微笑して、 「バスは、」 「ご随意ずいいに。」

19

風呂ふろから出て、高野さちよは、健康な、小麦色のほおをしていた。乙彦は、どこかに電話をかけた。すぐ来い、という電話であった。

20

やがて、ドアが勢よくあき、花のように、ぱっと部屋を明るくするような笑顔をもって背広服着た青年が、あらわれた。 「おとやん、ばかだなあ。」さちよを見て、「こんちは。」 「あれは、」 「あ。持って来ました。」黒い箱を、うちポケットから出して、「みなのむと、死にますよ。」 「ねむれないので、ね。」乙彦は、みにくく笑った。 「もっと、いい薬も、あるんですけど。」 「きょうは、休め。」青年は、ある大学の医学部の研究室に、つとめていた。「遊ばないか。」

21

青年は、さちよと顔を見合せて、笑った。 「どうせ、休んで来たんです。」

22

三人で、ホテルを出て、自動車を拾い、浅草。レヴュウを見た。乙彦は、少しはなれて座っていた。 「ねえ、」さちよは、青年にささやく。「あのひと、いつでも、あんなに無口なの?」

23

青年は、快活に笑った。「いや、きょうは特別のようです。」 「でも、あたし、好きよ。」

24

青年は、ほおをあからめた。 「小説家?」 「いや。」 「画家?」 「いや。」 「そう。」さちよは、何かひとりでうなずいた。赤い襟巻えりまきき合せて、あごをうずめた。

25

レヴュウを見て、それから、外を歩いて、三人、とりやへはいった。静かな座敷ざしきで、たくをかこみ、お酒をのんだ。三人、血をわけたきょうだいのようであった。 「しばらく旅行に出るからね、」乙彦おとひこは、青年を相手に、さちよが、おや、と思ったほどやさしい口調で言っていた。「もう、ぼくあまえちゃ、いけないよ。君は、出世しなければいけない男だ。親孝行は、それだけで、生きることの立派な目的になる。人間なんて、そんなにたくさん、あれもこれも、できるものじゃないのだ。しのんで、しのんで、つつましくやってさえ行けば、わたる世間におにはない。それは、信じなければ、いけないよ。」 「きょうは、また、」青年は、美しい顔に泣きべその表情をうかべて、「へんですね。」 「ううん。」乙彦も、幼くかぶりを横にって、「それでいいのだ。僕の真似まねなんかしちゃ、いけないよ。君は、君自身のほこりを、もっと高く持っていていい人だ。それに価する人だ。」

26

十九のさちよは、うやうやしく青年のさかずきに、なみなみと酒をついだ。 「じゃ出よう。これで、おわかれだ。」

27

その料亭りょうていのまえで、わかれた。青年はズボンに両手をつっみ、秋風の中にさびしそうに立って二人を見送っていた。

28

ふたり切りになると、 「あなた、死ぬのね。」 「わかるか。」乙彦は、かすかに笑った。 「ええ。あたしは、不幸ね。」やっと見つけたと思ったら、もうこの人は、この世のものでは、なかった。 「あたし、くだらないこと言ってもいい?」 「なんだ。」 「生きていてくれない? あたし、なんでもするわ。どんな苦しいことでも、こらえる。」 「だめなんだ。」 「そう。」このひとと一緒いっしょに死のう。あたしは、一夜、幸福を見たのだ。「あたし、つまらないこと言ったわね。軽蔑けいべつする?」 「尊敬する。」ゆっくり答えて、乙彦の目に、なみだが光った。

29

その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソファに並んで座ったまま、冷くなっていた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察していたのである。落ちついて、その部屋からしのび出て、そっと支配人をゆり起した。すべて、静粛せいしゅくに行われた。ホテル全体は、朝までひっそりねむっていた。須々木乙彦すすきおとひこは、完全に、こと切れていた。

30

女は、生きた。         ☆

31

高野さちよは、奥羽おううの山の中に生れた。祖先の、よい血が流れていた。曾祖父そうそふは、医者であった。祖父は、白虎隊びゃっこたいのひとりで、若くして死んだ。その妹が家督かとくいだ。さちよの母である。気品高い、無表情の女であった。養子をむかえた。女学校の図画の先生であった。とうげえて八里はなれたとなりのまちの、造り酒屋の次男であった。からだも、心も、弱い人であった。高野の家には、土地が少しあった。女学校の先生をやめても、生活が、できた。犬を連れ、鉄砲てっぽうをしょって、山を歩きまわった。いいをかきたい。いい画家になりたい。その渇望かつぼうが胸の裏を焼きこがして、けれども、弱気に、だまっていた。

32

高野さちよは、山のきり木霊こだまの中で、大きくなった。谷間の霧の底を歩いてみることが好きであった。深海の底というものは、きっとこんなであろう、と思った。さちよが、小学校を卒業したとしに、父は、ふたたび隣りのまちの女学校に復職ふくしょくした。さちよの学費を得るためであった。さちよは、父のつとめているその女学校に受験して合格した。はじめ、父とふたり、父の実家に寄宿して、毎朝一緒いっしょに登校していたのであるが、それでは教育者として、ていさいが悪いのではないか、と父の実家のものが言い出し、弱気の父は、それもそうだ、と一も二もなく賛成して、さちよは、その女学校のりょうにいれられた。母は、ひとり山の中の家に残って、くらしていた。女学生たちに、さちよの父は、ウリという名で呼ばれて、あまり尊敬されては、いなかった。さちよは、おナスと呼ばれていた。ウリのつるになったナスビというわけであった。事実、さちよは、色が黒かった。自分でも、ひどくぶ器量だと信じていた。私はみにくいから、心がけだけでも、よくしなければならない、と一生懸命けんめい、努力していた。いつも、組長であった。図画を除いては、すべて九十点以上であった。図画は、六十点、ときたま七十三点なぞということもあった。気弱な父の採点である。

33

さちよが、四年生の秋、父はさちよのコスモスの写生に、めずらしく「優」をくれた。さちよは、不思議であった。木炭紙を裏返してみると、父の字で、女はやさしくあれ、人間は弱いものをいじめてはいけません、と小さくすみに書かれていた。はっ、と思った。

34

そうして、父は、消えるようにいなくなった。の勉強に、東京へげて行った、とも言われ、母との間に何かあった、いや、実家と母との間に何かあった、いや、先生には女ができたのだ、その他さまざまのうわさが、さちよの耳にひそひそはいった。間もなく、母が、自殺した。父の猟銃りょうじゅうでのどぶえを射って、即死そくしした。傷口が、石榴ざくろのようにわれていた。

35

さちよは、ひとり残った。父の実家が、さちよの一身と財産の保護を、引き受けた。女学校のりょうから出て、また父の実家にいもどって、とたんに、さちよは豹変ひょうへんしていた。

36

十七歳のみが持つ不思議である。

37

学校からのかえりみち、ふらと停車場に立寄り、上野までの切符きっぷを買い、水兵服のままで、汽車に乗った。東京は、さちよを待ちかまえていた。さちよをむかえいれるやいなや、せせら笑ってもみくちゃにした。投げ捨てられた鼻紙のように、さちよは転々してつかれていった。二年は、生きた。へとへとだった。討死うちじに覚悟かくごきめて、母のたった一つの形見の古い古い半襟はんえりずかしげもなくけて店に出るほど、そんなにも、せっぱつまって、そこへ須々木乙彦すすきおとひこが、あらわれた。

38

はじめ、ゆらゆら目ざめたときには、誰か男のうでにしっかりきかかえられていたように、思われる。その男の腕に力一ぱいしがみついて、わあ、わあ、声をはりあげて泣いたような、気がする。男も一緒いっしょに、たしかに、歔欷すすりなきの声をもらしていた。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」そう言った。誰か、はっきりしない。まさか、父ではなかろう。浅草でわかれた、あの青年ではなかったかしら。とにかく、霧中むちゅう記憶きおくにすぎない。はっきり覚醒かくせいして、みると、病院の中である。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」その声が、ふと耳によみがえって来て、ああ、あの人は死んだのだ、と冷くひとり首肯しゅこうした。おのれの生涯しょうがいの不幸が、相かわらず鉄のようにぶあいそに膠着こうちゃくしている状態を目撃もくげきして、あたしは、いつも、こうなんだ、と自分ながら気味悪いほどに落ちついた。

39

ドアの外で正服の警官がふたり見張りしていることをやがて知った。どうするつもりだろう。いまわしい予感を、ひやと覚えたとき、どやどやと背広服着た紳士しんしが六人、さちよの病室へはいって来た。 「須々木が、ホテルで電話をかけたそうだね。」 「ええ。」あわれに微笑ほほえんで答えた。 「誰にかけたか知ってるね?」

40

うなずいた。 「そいつは?」 「わかい人でした。」 「名前さ。」 「存じません。」

41

紳士しんしたちの私語が、ひそひそ室内に充満じゅうまんした。 「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらう。歩けないことは、あるまい。」

42

自動車に乗せられ、窓からちまたをながめると、人は、寒そうにかたをすくめて、いそがしそうに歩いていた。ああ、生きている人が、たくさん在るのだ、と思った。

43

留置場に入れられて、三日、そのまま、ほって置かれた。四日目の朝、調室に呼ばれて、 「やあ、君は、なんにも知らんのだねえ。ばかばかしい。かえってもよろしい。」 「はあ。」 「帰って、よろしい。これからは、気をつけろ。まともに暮すのだぞ。」

44

ふらふら調室から出ると、暗い廊下ろうかに、あの青年が立っていた。

45

さちよは少し笑いかけて、そのまま泣き出し、青年の胸に身を投げた。 「かえりましょう。ぼくには、なんのことやら、わけがわかりません。」

46

この人だ。あの昏睡こんすいのときの、おぼろげな記憶きおくがよみがえって来た。あのとき私は、この人に、しっかりかれていた。うなずいて、つと青年の胸からはなれた。

47

外へ出て、日のひかりが、まばゆかった。二人だまって、おほりに沿って歩いた。 「どう話していいのか、」青年は煙草たばこに火を点じた。ひょいと首をって、「とにかく、おどろいたなあ。」あきらかに興奮こうふんしていた。 「すみません。」 「いや、そのことじゃないんだ。いや、そのことも、たいへんだったが、それよりも、おとやんが、いや、須々木すすきさんのこと、あなただって何も知らんのでしょう?」 「知っています。」 「おや?」 「おなくなりに、」言いかけてなみだほおを走った。 「そのことじゃないんです。」青年は厳粛げんしゅくに口をひきしめ、まっすぐを見つめた。「それも僕には、いや、あなたにだって、おそろしい打撃だげきなんだが、」煙草を捨てた。「そのことよりも、ほかに、──須々木さんは、ね、たいへんなことをやったらしいんだ。あなたとのことも、まだ、新聞には、出ていませんよ。記事差止さしとめというやつらしいのです。あなたのことも、僕のことも、警察じゃ、ずいぶんくわしく調べていました。僕は、ひどいめにあっちゃった。それは、きびしく調べられました。あなただって、あの二日まえにはじめてっただけなんだそうだし、ぼくだって、須々木すすきさんとは親戚しんせきで、小さい時から一緒いっしょに遊んで、僕は、おとやんを好きだったし、」ちょっと、とぎれた。突風とっぷうのように嗚咽おえつがこみあげて来たのを、あやうくこらえた。「やっと、僕たち、なんにも知らなかったのだということがわかって、ひとまず釈放というところなのです。ひとまず、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚悟かくごをしていて下さいね。あなたは、からだも、まだ全快じゃないのだし、僕が、責任をもって、あなたの身柄みがらを引き受けました。」 「すみません。」ふたたび、消え入るようにわびを言った。 「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言っているうちに、この一週間、自分のめて来た苦悩くのうをまざまざと思い起し、流石さすがに少し不気嫌ふきげんになって、「あなたは、これからどうします? 僕の下宿に行きますか? それとも、──」

48

ふたりは、もう帝劇のまえまで来ていた。 「入船町へかえります。」入船町の露路ろじ髪結かみゆいさんの二階の一室を、さちよは借りていた。 「は、そうですか。」青年は、事務的な口調で言った。いよいよ不気嫌になっていた。「お送りしましょう。」

49

自動車を呼びとめ、ふたり乗った。 「おひとりでおられるのですか。」

50

さちよは答えなかった。

51

青年の、のんきな質問に、異様な屈辱くつじょくを感じて、ぐっと別ななみだが、くやし涙が、いて出て、それでも思い直して、かなしく微笑ほほえんだ。このひとは、なんにも知らないのだ。私たちが、どんなにみじめな、くるしい生活をしているのか、このおぼっちゃんには、なんにもわかっていないのだ。そう思ったら、微笑びしょうが、そのままこおりついて、みるみる悪鬼あっきの笑いに変っていった。                     ☆

52

男は、何人でも、います。そう答えてやりたかった。おのれはみにくいとじているのに、人から美しいと言われる女は、そいつは悲惨ひさんだ。風の音に、鶴唳かくれいに、おどかされおびやかされ、一生涯いっしょうがい滑稽こっけいな罪悪感とたたかいつづけて行かなければなるまい。高野さちよは、美貌びぼうでなかった。けれども、男は、熱狂ねっきょうした。精神の女人を、宗教でさえある女人をも、肉体から制御しうる、という悪魔あくまささやきは、しばしば男を白痴はくちにする。そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡まさおか亭主ていしゅについて考えてみたり、ジャンヌ・ダアクや一葉いちようなど、すべてを女体としてあつかつかれ果てた好色が、一群の男たちの間に流行していた。そのような極北の情欲は、言わばあの虚無きょむではないのか。しかもニヒルには、浅いも深いも無い。それはきまっている。浅いものである。さちよの周囲には、ずいぶんたくさんの男が蝟集いしゅうした。その青白い油虫の円陣えんじんのまんなかにいて、女ひとりが、何か一つの真昼のほのおの実現を、愚直ぐちょくに夢見て生きているということは、こいつは悲惨ひさんだ。 「あなたは、どうお思いなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考えた末、そんなことを言ってみた。「あたしは、ひとり、ひとり、みんなちがうと思うのだけれど。」 「心理ですか? 体質ですか?」わかい医学研究生は、学校の試験に応ずるような、あらたまった顔つきで、そう反問した。 「いいえ。あたし、きざねえ。ちょっと、気取ってみたのよ。」すこしまえに泣いていたひととも思われぬほど、かん高く笑った。歯が氷のようにかがやいて、美しかった。

53

その橋をせば、入船町である。 「寄って行かない?」あたしは、バアの女給だ。

54

部屋へはいると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて座っていた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈ひくつに、ひひと笑って、 「あなたも、おどろいたでしょう? おれだって、まさに、こしかしちゃった。さちよくんはね、いつでも、こんなこと、平気でやらかすものだから、弱るです。社へ情報がはいって、すぐ病院へ飛んでいったら、この先生、ただ、わあわあ泣いているんでしょう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦すすきおとひこって、あれは、ただのねずみじゃないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しゅうげきしちゃった。」

55

憮然ぶぜんと部屋のすみにつっ立っていた青年は、 「たしかですか?」あおざめていた。 「もう、五六日したら、記事も解禁になるだろうと思いますが。」善光寺は、新聞社につとめていた。

56

さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの善光寺助七のうでかれて泣いたのだ。 「あなたは、いつから来ていたの?」冷い語調であった。 「おれかい?」死んだ大倉喜八郎おうにそっくりの丸い顔を、ぱっとあからめ、子供のようにはにかんだ。「ほんの、少しまえです。けさ早く警視庁へ電話したら、あなたたちの出ることを知らせてくれたので、とにかく、ここへ来てみたわけです。したのおばさん心配していたぜ。留守に何度も何度も刑事が来て、この部屋をきまわしていったそうだ。おばさんには、おれから、うまく言って置きました。まあ、お座りなさい。」さちよの顔を笑ってそっと見上げ、「よかったね。よく、君は、無事で、──」なみだぐんでいた。

57

さちよは、机の上に片手をつき、くずれるように座って、 「よくもないわ。煙草たばこないの? おやおや、あたし、あなたの顔を見ると、急に、煙草ほしくなるのね。」 「これは、ごあいさつだな。」助七は、それでも、恐悦きょうえつであった。 「ぼくは、しつれいしましょう。」青年は、先刻からふすまにかるく寄りかかり、つっ立ったままでいた。 「そう?」さちよは、きょとんとした顔つきで青年を見上げ、煙草のけむりをふっといた。 「御自重なさいね。ぼくは、責任をもって、あなたを引き受けたのです。須々木すすきさんのためにも、しっかりしていて下さい。僕は、おとやんを信じているのだ。どんなことがあったって、僕は乙やんを支持する。じゃあまた、そのうち、来ます。」 「どうも、きょうは、ありがとう。」蓮葉はすっぱな口調で言って、顔をせ、そっと下唇したくちびるんだ。

58

青年を見送りに立とうともせず、顔を伏せたままで、じっとしていた。階段を降りて行く青年の足音が聞えなくなってから、ふっと顔をあげて、 「助七。あたしは、おまえと一緒いっしょにいる。どんなことがあってもはなれない。」 「よせやい。」助七は、めずらしくきびしい顔つきで、そう言った。「おれは、それほどばかじゃない。」つと立って、青年のあとを追った。 「君、君。」新富座のまえで、やっと追いついた。「話したいことがあるのだがねえ。」 青年は、りかえって、 「僕は、あなたをにくんでいません。好きです。」 「まあ、そう言うな。」にやにやして言ったのであるが、青年の、街路樹の下にすらと立っている絵のように美しい姿を見て、流石さすがにぐっと真面目まじめになった。いい男だなあ、と思った。「すこし、君に、話したいことがあるのだけれど、なに、ちょっとでいいのです。つき合ってくれませんか。おれだって、──」言いよどんで、「君を好きです。」

59

三好野みよしのへはいった。 「須々木乙彦おとひこ、というのは、あなたの親戚しんせきなんですってね?」あなた、といったり、君といったり、助七は、秩序ちつじょがなかった。 「いとこですが。」青年は、熱い牛乳をすすっていた。朝から、何もたべていなかった。 「どんな男です。」真剣しんけんだった。 「ぼくの、僕たちの、―─」青年は、どもった。 「英雄えいゆうですか?」助七は、苦笑した。 「いいえ。愛人です。いのちのかてです。」

60

その言葉が、助七をった。 「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋じゅんすいひびきの言葉を、聞いたことがなかった。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑うことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。 「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の目は、不眠ふみんのために充血じゅうけつしていた。「でも、ポオズのおくにも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木すすきさんを見て、いつも、それを感じていました。」 「おれだって、いのちの糧を持っている。」

61

低くそう言って、へんに親しげに青年の顔をしげしげながめた。 「存じております。」 「一言もない。おれは、もともと賎民せんみんさ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言いかけてふっと口をつぐみ、それからぐっと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思いますか?」 「気の毒な人だと思っています。」用意していたのではないかと思われるほど、すずしく答えた。 「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。奇妙きみょうな、何か、感じませんか?」

62

青年は、顔をあからめた。 「それごらん。」助七は、下唇したくちびるき出し、にやと笑った。「やっぱりそうだ。だけど、あなたは、まだいい。たった一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。そうだ。あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣げれつな血の中に在る。笑ってくれ。おれは、あの女に勝ちたい。あの人の肉体を、完全に、しい。それだけなんだ。おれは、あの人に、ずいぶんひどく軽蔑けいべつされて来ました。憎悪ぞうおされて来た。けれども、おれには、おれの、念願があるのだ。いまに、おれは、あの人に、おれの子供を生ませてやります。玉のような女の子を、生ませてやります。いかがです。復讐ふくしゅうなんかじゃ、ないんだぜ。そんなけちなことは、考えていない。そいつは、おれの愛情だ。それこそ愛の最高の表現です。ああ、そのことを思うだけでも、胸がける。くるうようになってしまいます。わかるかね。われわれ賎民せんみんのいうことが。」ねちねち言っているうちに、くちびるの色も変り、口角には白いあわがたまって、凶悪きょうあくな顔にさえ見えて来た。「こんどの須々木乙彦すすきおとひことのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだって、それは、わかっています。はらわたがえくりかえるようだってのは、これは、まさしく実感だね。けれどもおれは、おれを軽蔑けいべつする女を、そんな虚傲きょごうの女を、たまらなく好きなんだ。蝶々ちょうちょうのように美しい。因果だね。うんと虚傲になるがいい。どうです、これからも、あの女と、遊んでやってくれませんか。それは、おれから、たのむのだ。卑屈ひくつからじゃない。おれは、もともと高尚こうしょうな人間を、好きなんだ。賛美する。君は、とてもいい。素晴らしい。皮肉でも、いやみでも、なんでもない。君みたいないい人と、おとなしく遊んでいれば、だいじょうぶ、あいつは、もっと、か弱く、美しくなる。そいつは、たしかだ。」たらとよだれが、テエブルのうえに落ちて、助七あわててそれをてのひらき消し、「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないような素晴らしい女にして下さい。ね、たのむ。あいつには、あなたが、絶対に必要なんだ。おれの直感にくるいはない。畜生ちくしょうめ。おれにだって、ほこりがあらあ。おれは、地べたに落ちたかきなんか、食いたくねえのだ。」

63

青年は陰鬱いんうつえかねた。                     ☆

64

さちよは、ふたたび汽車に乗った。須々木乙彦のことが新聞に出て、さちよもその情婦として写真まで掲載けいさいされ、とうとう故郷の伯父おじが上京し、警察のものが中にはいり、さちよは伯父と一緒いっしょに帰郷しなければならなくなった。言わば、廃残はいざんの身である。三年ぶりに見る、ふるさとの山川が、骨身にてっする思いであった。 「ねえ、伯父さん、おねがい。あたしは、これからおとなしくするんだから、おとなしくしなければならないのだから、あたしをあまりしからないでね。まちのお友達とも、誰とも、顔を合せたくないの。あたしを、どこかへ、かくして、ね。あたし、なんぼでも、おとなしくしているから。」

65

十二、三歳のむすめのように、さちよは汽車の中で、りかえし繰りかえし懇願こんがんした。親戚しんせきの間で、この伯父だけは、さちよを何かと不憫ふびんがっていた。伯父は、承諾しょうだくしたのである。故郷のまちの二つ手前の駅で、伯父とさちよは、こっそり下車した。その山間の小駅から、くねくね曲った山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着とうちゃくした。 「いいか。当分は、ここにいろ。おれは、もう何も言わぬ。うちのやつらには、おれから、いいように言って置く。おまえも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆっくり湯治とうじしながら、よくよく将来のことを考えてみるがいい。おまえは、おまえの祖先のことを思ってみたことがあるか。おれの家とは、くらべものにならぬほど立派な家柄いえがらである。おまえがもし軽はずみなことでもしてくれたなら、高野の家は、それっきり断絶だ。高野の血を受けいで生きているのは、いいか、おまえひとりだ。家系は、これは、大事にしなければいけないものだ。いまにおまえにも、いろいろあきらめが出て来て、もっと謙遜けんそんになったとき、家系というものが、どんなに生きることへの張りあいになるか、きっとわかる。高野の家をおこそうじゃないか。自重しよう。これは、おれからのお願いだ。また、おまえのとうとい義務でもないのか。多くは無いが、おまえが一家を創生するだけの、それくらいの財産は、おれのうちで、ちゃんと保管してあります。東京での二年間のことは、これからのおまえの生涯しょうがいに、かえって薬になるかも知れぬ。過ぎ去ったことは、忘れろ。そういっても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも、えて、そ知らぬふりして生きているのではないのか。おれは、そう思う。まあ、当分、静かにしておれ。苦痛を、何か刺激で治そうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法りょうほうがいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここにおれ。おれは、これから、うちへ帰って、みなに報告しなければいけない。悪いようには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買いたいものが、あるなら、宿へそう言うがいい。おれから、宿のひとにたのんで置く。」

66

さちよは、ひとり残された。提灯ちょうちんをもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂ぶろにたどりつき、提灯を下に置いたら、すぐ傍を滔々とうとうと流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきにうかんだ。つかれていた。ひっそり湯槽ゆぶねにひたっていると、苦痛も、屈辱くつじょくも、焦躁しょうそうも、すべてうすぼんやりかすんでいって、白痴はくちのようにぽかんとするのだ。なんだかずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、こんなにうっとりしているということは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うっとりしていたって、いいではないか。水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊のぎくの花は提灯のわきでふるえていた。

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このままけてしまいたいほど、くたくたに疲れ、また提灯持って石の段々をひとつ、ひとつ、のぼって部屋へかえるのだ。宿は、かなり大きかった。まっ暗い長い廊下ろうかに十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子しょうじが、ぼっと明るく、その部屋部屋にだけは、客のいることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子しょうじがすっとあいて、 「さっちゃん。」 「どなた?」おどろく力も失っていた。 「ああ、やっぱりそうだ。ぼくだよ。三木、朝太郎。」 「歴史的。」 「そうさ。よく覚えているね。ま、はいりたまえ。」三木朝太郎は三十一歳、かみの毛はうすくなっているけれども、派手な仕事をしていた。劇作家である。多少、名前も知られていた。 「おどろきだね。」 「歴史的?」

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三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言うのがかれのっぱらったときの口癖くちぐせであって、銀座のバアの女たちには、歴史的さんと呼ばれていた。 「まさに、歴史的だ。まあ、座りたまえ。ビイルでも飲むか。ちょっと寒いが、君、湯あがりに一杯いっぱい、ま、いいだろう。」

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歴史的さんの部屋には、原稿げんこう用紙が一ぱい散らばって、ビイルびんが五、六本、テエブルのわきに並んでいた。 「こうして、ひとりで飲んでは、少しずつ仕事をしているのだが、どうもいけない。どんなやつでも、僕より上手じょうずなような気がして、もう、だめだね、僕は。没落ぼつらくだよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもって七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さっきね、女中からあなたの来ていることを聞いたんだ。呆然ほうぜんとしたね。心臓が、ぴたと止ったね。夢では、ないか。」

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テエブルのむこうにひっそり座った小さいさちよの姿を、やさしくながめて、 「僕は、ばかなことばかり言ってるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと目を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで飲んだ。 「自信を、お持ちになっていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらい。」うそは、なかった。 「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかった。くるしかったろうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちゃんと知っている。みんな知っている。こんどの、あのことだって、僕は、ちっともおどろかなかった。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐりけなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちょっと驚異きょういだ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶あいさつで応対して、また、それでちょうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだろう。そんな例外は、ないはずなんだ。」 「いいえ。女は、」すすめられて茶飲茶碗ぢゃわんのビイルをのんだ。「みんな利巧りこうよ。それこそなんでも知っている。ちゃんと知っている。いい加減にあしらわれていることだって、なんだって、みんな知っている。知っていて、知らないふりして、子供みたいに、めすのけものみたいに、よそっているのよ。だって、そのほうが、とくだもの。男って、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気でいるらしいのね。犬は、つめかくせないのね。いつだったかしら、あたしが新橋駅のプラットフォームで、秋の夜ふけだったわ、電車を待っていたら、とてもスマートな犬が、フォックステリヤというのかしら、一匹あたしの前を走っていって、あたしはそれを見送って、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思ったら、犬の正直が、いじらしくて、男って、あんなものだ、と思ったら、なおのこと悲しくて、泣いちゃった。ったわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負ひいきするんだろ。男を、弱いと思うの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひとを、かばってやりたいとさえ思うわ。男は、だって、気取ってばかりいて可哀かわいそうだもの。ほんとうの女らしさというものは、あたし、かえって、男をかばう強さに在ると思うの。あたしの父は、女はやさしくあれ、とあたしに教えていなくなっちゃったけれど、女のやさしさというものは、──」言いかけて、ものにおどろいた鹿しかのように、ふっと首をもたげて耳をすまし、 「誰か来るわ。あたしを隠して。ちょっとでいいの。」にっと笑って、背後の押入おしいれのふすまをあけ、座りながらするするからだをすべませ、 「さあさ、あなたは、お仕事。」 「よしたまえ。それも女の擬態ぎたいかね?」歴史的は、流石さすが聡明そうめいな笑顔であった。「この部屋へ来る足音じゃないよ。まあ、いいからそんな見っともない真似まねはよしなさい。ゆっくり話そうじゃないか。」自分でも、きちんと座り直してそう言った。せて小柄こがらな男であったが、鉄縁てつぶち眼鏡めがねの底の大きい目や、高い鼻は、典雅てんが陰影いんえいを顔に与えて、教養人らしい気品は、在った。 「あなた、お金ある?」押入れのまえに、ぼんやり立ったままで、さちよは、そんなことをつぶやいた。 「あたし、もう、いやになった。あなたを相手に、こんなところで話をしていると、死ぬるくらいに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのこうのと、きざに、あたしをいじくり回すものだから、あたし、いいあんばいに忘れていた、あたしの不幸、あたしのきたなさ、あたしの無力、みんな一時に思い出しちゃった。東京は、いいわね。あたしより、もっと不幸な人が、もっとずかしい人が、おたがい説教しないで、笑いながら生きているのだもの。あたし、まだ、十九よ。あきらめ切ったエゴの中で、とても、冷く生きておれない。」 「脱走だっそうする気だね。」 「でも、あたし、お金がないの。」

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三木は、ちらといやしく笑い、そのまま頭をたれて考えた。ずいぶん大袈裟おおげさな永い思案の素振そぶりであった。ふと顔をあげて、 「十円あげよう。」ほとんどおこっているような口調で、「君は、ばかだ。ぼくは、ずいぶん、あなたを高く愛して来た。あなたは、それを知らない。僕には、あなたの、ちょっとした足音にもびくついて、こそこそ押入おしいれにかくれるような、そんなあさましい恰好かっこうを、とても、だまって見ておれない。いまのあなたにお金をあげたら、僕は、ものの見事に背徳漢かも知れない。けれども、これは僕の純粋衝動じゅんすいしょうどうだ。僕は、それに従う。僕には、この結果が、どうなるものか、わからない。それは、神だけが知っている。生きるものに権利あり。君の自由にするがいい。罪は、われらに無い。」 「ありがとう。」くすと笑って、「あなたは、ずいぶんうそつきね。それこそ、歴史的よ。ごめんなさい。じゃ、また、あとで、ね。」

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三木朝太郎は、くるしく笑った。                    ☆

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東京では、昭和六年の元旦に、雪が降った。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木ぞうきの林のかげに、外套がいとうえりを立て、無ぼうで、煙草たばこをふかしながら、いらいら歩きまわっている男が在った。これは、どうやら、善光寺助七である。

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ひょっくり木立のかげから、もうひとり、二重まわし着た小柄こがらな男があらわれた。三木朝太郎である。 「ばかなやつだ。もう来てやがる。」三木はっている様子である。「ほんとうに、やる気なのかね。」

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助七は、答えず、煙草を捨て、外套をいだ。 「待て。待て。」三木は顔をしかめた。「うす汚い野郎だ。君は一たい、さちよをどうしようというのかね。ただ、うでずくでも取る、戸山が原へ来い、片輪かたわにしてやる、では、ぼくは君の相手になってあげることができない。」

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ものも言わず、助七うってかかった。 「よせ!」三木は、飛びのいた。「逆上してやがる。いいか。僕の話を、よく聞け。ゆうべは、僕も失礼した。らないことを言った。」

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ゆうべは、新宿のバアで一緒いっしょにのんだ。かねて、顔見知りの間柄あいだがらである。ふと、三木が、東北の山宿のことにいて、口をすべらせた。さちよの肉体を、ちらと語った。それから、やい、さちよはどこにいる。知らない。うそつけ、貴様がかくした。よせやい、見っともねえぞ、意馬心猿いばしんえん。それから、よし、うでずくでも取る、戸山が原へ来い、片輪かたわにしてやる、ということになったのである。三木も、あおざめて承知した。元旦、正午を約して、ゆうべはわかれた。 「さちよの居どころは、僕は、知っている。」三木は、落ちつきを見せるためか、煙草たばこをとりだし、マッチをすった。雪の原をでて来るそよ風が、二度も三度もマッチのほのおき消し、やっと煙草に火をつけて、「だけど、僕とは、なんでも無い。あのひとは、いま、一生懸命けんめい、勉強している。学問している。僕は、それは、あのひとのために、いいことだと思っている。あのひとに在るのは、氾濫はんらんしている感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為こういに移すのには、僕は、やっぱり教養が、必要だと思う。英知が必要だと思う。山中の湖水のように冷くくもりない一点の英知が必要だと思う。あのひとには、それがないから、いつも行為がめちゃめちゃだ。たとえば、君のような男にみこまれて、それで身動きができずに、―─」 「ずかしくないかね。」助七は、せせら笑った。「けさから考えに考えて暗記して来たような、せりふを言うなよ。学問? 教養? 恥ずかしくないかね。」

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三木は、どきっとした。われにもあらず、ほおがほてった。こいつ、なんでも知っている。 「不愉快ゆかいな野郎だ。よし、相手になってやる。僕は、君みたいなやつは、感覚的に憎悪ぞうおする。宿命的に反発する。しかし、最後に聞くが、君は、さちよを、どうするつもりだ。」煙草の火は消えていた。消えているその煙草を、すぱすぱ吸って、指はぶるぶるふるえていた。 「どうするも、こうするも無いよ。」こんどは、助七のほうが、かえって落ちついた。「いまに居どころをつきとめて、おれは、おれの仕方しかたで大事にするんだ。いいかい。あの女は、おれでなければ、だめなんだ。おれひとりだけが知っている。おめえは山の宿で、たった一晩、それだけを手がら顔に、きゃあきゃあ言っていやがる。あとは、もう、おめえなんかに鼻もひっかけないだろう。あいつは、そんな女だ。」

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三木は思わず首肯うなずいた。まさに、そのとおりだったのである。 「だが、おい。」助七は、さらに勢よく一歩み出し、「その一晩だって、おめえには、ゆるさぬ。がまんできない。よくも、よくも。」 「そうか、わかった。相手になる。ぼくも君には、がまんできない。よくよく思いあがった野郎だ。」煙草たばこをぽんとほうって、二重まわしをぎ、さらに羽織を脱ぎ、ちょっと思案してから兵古帯へこおびをぐるぐるほどき、着物まですっぽり脱いで、シャツと猿又さるまただけの姿になり、 「女を肉体でしか考えることができないとは、気の毒なものさ。こちらにまで、その薄汚うすぎたなさのにおいが移ら。君なんかと取組んで着物をよごしたら、洗っても洗ってもしみがとれまい。やっかいなことだ。」言いながち、足袋たびを脱ぎ、高足駄たかあしだを脱ぎ捨て、さいごに眼鏡めがねをはずし、「来い!」

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ぴしゃあんと雪の原、木霊こだまして、右のほおなぐられたのは、助七であった。間髪かんはつを入れず、ぴしゃあんと、ふたたび、こんどは左。助七は、よろめいた。意外の強襲きょうしゅうであった。うむ、とふんばって、こしを落し、両うでをひろげて身構えた。取組めば、こっちのものだと、助七にはまだ、自信があった。 「なんだい、それあ。田舎いなか草角力くさずもうじゃねえんだぞ。」三木は、そう言い、雪をってぱっと助七の左腹にまわり、ぐわんと一突ひとつき助七のあごに当てた。けれども、それは失敗であった。助七は三木のそのこぶしを素早くつかまえ、とっさに背負投、あざやかにきまった。三木の軽いからだは、雪空に一回転して、どさんと落下した。 「ちきしょう。味なことを。」三木は、尻餅しりもちつきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。 「うっ。」助七は、下腹をおさえた。

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三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間みけんをめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひっくりかえり、しばらく、うごこうともしなかった。鼻孔びこうからは、鼻血がどくどく流れ出し、両の目縁まぶちがみるみるむらさき色にれあがる。

82

はるか遠く、ならの幹のかげに身をかくし、真赤な、ひきずるように長いコオトを着て、じゃ目傘めがさを一本胸にしっかりきしめながら、この光景をこわごわ見ている女は、さちよである。

83

さちよは、あのあくる日に出京して、そうして別段、勉強も、学問も、しなかった。もと銀座の同じバアにつとめていて、いまは神田のダンスホオルで働いている友人がひとり在って、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯せんたくをしたり、食事の手伝いをしてやったり、毎日そんなことで日を送っていた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかった。流石さすがに、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であった。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所をさがし当て、にやにやしながら、どうだい、女優になってみないか、などと言うのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑って相手にしなかった。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄っては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲ぎきょく集を一冊二冊と置いていった。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子おどりこの友だちと話合い、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀なんぎしながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シャツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力かいりきって、宙に一回転しているところであった。さちよは、ひとりで大笑いした。見ていると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたわむれているようで、期侍していた決闘の凛烈りんれつさは、少しもなかった。二人の男も、なんだか笑いながらしているようで、さちよは、へんに気抜きぬけがした。間もなく、助七は、ひっくりかえり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになって、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑ほととぎすに似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰こかげからおどり出て、小走りに走って三木の背後にせまり、かさを投げ捨て、ぴしゃと三木のほおをぶった。

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三木は、ふりかえって、 「なんだ、君か。」やさしく微笑びしょうした。立ちあがって、さっさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛しているのか。」

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さちよは、はげしく首をった。 「それじゃ、そんな、おセンチな正義感は、よしたまえ。いいかい。憐憫れんびんと愛情とは、ちがうものだ。理解と愛情とは、ちがうものだ。」言いながら、身なりを調ととのい、いつもの、ちょっと気取った歴史的さんにかえって、「さあ、帰ろう。君は、君の好ききらいに、もっとわがままであって、いいんだぜ。きらいなやつは、これは、だめさ。どんなに、つき合ったって、好きになれるものじゃない。」 助七は、仰向あおむけに寝ころんだまま、両手で顔をおおい、異様にうなって泣いていた。

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三木の二重まわしの中にかくれるようにぴったり寄りい、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎょっとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れたやなぎの絵模様の青いじゃの目傘を、焚火たきびがわりに、ぼうぼう燃やしてあたっていた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はっきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬かそうされているような思いであった。    本編には、女優高野幸代の女優としての生涯しょうがいを記す。

87

高野さちよを野薔薇のばらとしたら、八重田数枝やえだかずえは、あざみである。大阪の生れで、もともと貧しい育ちの娘であった。お菓子かし屋をしている老父母は健在である。多くの弟妹があって、数枝はその長女である。小学校を出たきりで、そのうちに十九歳、問屋からしばしばやって来るお菓子職人と遊んで、ふたり一緒いっしょに東京へ出て来た。父母も、はんぶんは黙許もっきょのかたちであった。お菓子職人、二十三歳。上京して、早速さっそく、銀座のベエカリイにやとわれた。薄給はっきゅうである。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり上品でないバアである。少しずつはなれて、たちまち加速度をもって、離れてしまった。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡へいぼんな女給である。人生は、こんなものだ。ひとは、たよりにならない。幼いころから、そう教えられ、そうして、そのとおりに思いこんでいた。二十四になって銀座のバアをよして、踊子おどりこになった。このほうが、いくらか余計お金がとれるからである。そのとしの十一月下旬げじゅん、朝ふと目をますと、以前おなじ銀座のバアにつとめていた高野さちよが、しょんぼりまくらもとに座っていた。 「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝ている数枝の顔をぴたとはさんだ。

88

数枝には、何もかもわかった。 「ばかなことばかりして。」そう言いながら起きあがり、小さいさちよを、ひしといた。何事もなかったようにすぐ離れて、 「おかずは? やはり納豆なっとうかね。」

89

さちよも、いそいそ襟巻えりまきをはずして、 「あたし買って来よう。数枝は、つくだだったね。海老えびのつくだ煮買って来てあげる。」

90

出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスのせんをひねって、ごはんのなべをのせ、ふたたび蒲団ふとんの中にもぐりんだ。

91

そうして、その日から、さちよの寄棲きせい生活がはじまった。年の瀬、お正月、これといういいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まっくらい部屋で寝ながら話した。 「さちよの伯父おじさんは、でも、いいひとだと思うよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だって、みんな、深い傷を背負って、そ知らぬふりして生きているのだ。いいなあ。なかなかわかった人じゃないか。あたしは、れたね。」ねむそうな声でそう言って、数枝は、しずかに寝返りを打った。 「かえれっていうの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまって、心細げに反問した。 「まあね。」数枝は大人びた口調で言って、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もっとわるい。婦女誘拐罪ゆうかいざい咎人とがにんだよ、あれは。ろくなことを、しやしない。らないことを、そそのかして、そうしてまたのこのこ、平気でここへしかけて来て、まるで恩人か何かのように、あの、きざな口のききようったら。どこまで、しょってるのか、わかりゃしない。阿呆あほや。あの目つきを、ごらんよ。どうしたって、ふつうじゃないからね。」

92

さちよは、くすくす笑った。

93

数枝かずえも、こらえ切れず笑ってしまって、それでも、 「いやなやつさ。笑いごとじゃないよ。言わば、女性の敵だね。」 「でも、あたし、知ってるよ。数枝は、はじめから歴史的を好きだった。」 「こいつ。」

94

女ふたり、腹をおさえて、笑いころげた。 「かえらぬ昔さ。」てれかくしに数枝は、わざと下手へたな言葉を言って、「どうも、なんだね、あたしたち、男運がわるいようだね。」 「いいえ、」ときどきさちよは、ふっと水のように冷い語調にまし帰ることがある。大笑いのあとにでも、あたりの雰囲気ふんいきにおかまいなしに、一瞬いっしゅん、もう静かな口調で、ものを言い出す。へんなくせである。「あたしは、そうは思わない。あたしは、どんな男の人でも、尊敬している。」

95

数枝は、流石さすがに気まずくなった。われにも無く、むりにしんみりした口調で、 「わかいからねえ。」言ってしまって、いよいよいけないと思った。どうにも、自分が、ぶざまである。閉口して、とうとうやけに、っとなってしまって、「ばかなこと、お言いでないよ。ギャングだの、低脳記者だの、ろくなものありゃしない。さちよを、ちっとでも仕合せにしてくれた男が、ひとりだって、無いやないか。それを、尊敬しています、なんて、きざなこと。」 「それは、少しちがうね。」こんどは、さちよは、おどけた口調にかえって、「男にしなだれかかって仕合せにしてもらおうと思っているのが、そもそも間違まちがいなんです。虫が、よすぎるわよ。男には、別に、男の仕事というものがあるのでございますから、その一生の事業を尊敬しなければいけません。わかりまして?」

96

数枝は、不愉快ふゆかいで、だまっていた。

97

さちよは調子に乗って、 「女ひとりの仕合せのために、男の人を利用するなんて、もったいないわ。女だって、弱いけれど、男は、もっと弱いのよ。やっとのところでみとどまって、どうにか努力をつづけているのよ。あたしには、そう思われて仕方がない。そんなところに、女のひとが、どさんと思いからだを寄りかからせたら、どんな男の人だって、当惑とうわくするわ。気の毒よ。」

98

数枝かずえは、あきれて、蛮声ばんせいを発した。 「白虎隊びゃっこたいは、ちがうね。」さちよの祖父が白虎隊のひとりだったことを数枝は、さちよから聞かされて知っていた。 「そんなんじゃないのよ。」さちよは、暗闇くらやみの中で、とてもやさしく微笑ほほえんだ。「あたし、巴御前ともえごぜんじゃない。薙刀なぎなたもって奮戦ふんせんするなんて、いやなこった。」 「似合うよ。」 「だめ。あたし、ちびだから、薙刀に負けちゃう。」

99

ふふ、と数枝は笑った。数枝の気嫌きげんが直ったらしいので、さちよはうれしく、 「ねえ。あたしの言うこと、もすこしだまって聞いていてくれない? ご参考までに。」 「いうことが、いちいち、きざだな。歴史的氏の悪影響あくえいきょうです。」数枝は、気をよくしていた。 「あたしは、ね、歴史的さんでも、助七でも、それから、ほかのひとでも、みんな好きよ。わるい人なんて、あたしは、見たことがない。お母さんでも、お父さんでも、みんな、やさしくいいひとだった。伯父おじさんでも、伯母おばさんでも、ずいぶんえらいわ。とても、頭があがらない。はじめから、そうなのよ。あたし、ひとりが、おとっているの。そんなに生れつき劣っている子が、みんなに温く愛されて、ひとり、幸福にふとっているなんて、あたし、もうそんなだったら、死んだほうがいい。あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立って、死にたい。男のひとに、立派なよそおいをさせて、行く路々みちみち薔薇ばらの花を、いいえ、すみれくらいの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいにいてやって、その上を堂々と歩かせてみたい。そうして、その男のひとは、それをちっとも恩に着ない。これは、はじめからこうなんだと、のんきに平気で、行きう人、行き会う人にのんびり挨拶あいさつをかえしながらまして歩いていると、まあ、男は、どんなに立派だろう。どんなに、きれいだろう。それを、あたしは、ものかげにかくれて、誰にも知られずに、そっとおがんで、うれしいだろうなあ。女の、一ばん深いよろこびというものは、そんなところにあるのではないのかしら。そう思われて仕方がない。」 「わるくないね。」数枝も、耳をかたむけた。「参考になる。」

100

さちよは、一息ひといきついて、 「それを、男ったら、ひとがいいのねえ。だれもかれも、みんな、おぼっちゃんよ。お金と、肉体だけが、女のよろこびだと、どこから聞いて来たのか、ひとりできめてしまって、おかげで自分が、ずいぶんあくせく無理をして、女のほうでは、男のそんなひとりぎめを、ぶちこわすのが気の毒で、いじらしさに負けてしまうのね。だまって虚栄きょえいと、肉体の本能と二つだけのような顔をしてあげてやっているのに、そうすると、いよいよ男はさとり顔してそれにきめてしまうもんだから、すこし、おかしいわ。女のひとは、誰でも、男のひとを尊敬しているし、なにかしてあげたいと一心に思いつめているのに、ちっともそんなことに気がつかないで、ただ、あなたを幸福にできるとか、できないとか言っては、お金持ちのふりをしたり、それから、──おかしいわ、自信たっぷりで、へんなことするんだもの。女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教えたのかしら。自然に愛情が、それを求めたら、それに従えばいいのだし、それを急に、顔いろを変えたり、色んなどぎつい芝居しばいをして、ばかばかしい。女は肉体のことなんか、そんなに重要に思っていないわ。ねえ、数枝かずえなんかだって、そうなんだろう? いくらひとりでお金をためたって、男と遊んだって、いつでもさびしそうじゃないか。あたし、男のひと皆に教えてやりたい。女にほんとうに好かれたいなら、ほんとうに女を愛しているなら、ほんの身のまわりのことでもいいから、何か用事を言いつけて下さい。権威けんいをもって、お言いつけ下さい、って。地位や名聞を得なくたって、お金持ちにならなくたって、男そのものが、立派に尊いのだから、ありのままの御身に、その身ひとつに、ちゃんと自信を持っていてくれれば、女は、どんなにうれしいか。おたがい、ちょっとの思いちがいで、男も女も、ずいぶんくるってしまったのね。歯がゆくって、仕方がない。お互い、それに気がついて、笑い合ってやり直せば、──幸福なんだがなあ。世の中は、きっと住みよくなるだろうに。」 「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦すすきおとひこは、よかったのかね。」

101

数枝の無礼を、気にもかけず、 「あのひと、ね、おかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、ぼくは、乳房ちぶさって、おふくろにだけあるものだと思っていた、というのよ。それが、ちっとも、気取りでも、なんでもないの。ずかしそうにしていたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思ったら、あたし、うれしいやら、有難ありがたいやら、可愛いやら、胸が一ぱいになって、泣いちゃった。一生、この人のお傍にいよう、と思った。永遠の母親、っていうのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になってしまって、あのひと、いい人だったな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちっとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだって、もののお役に立つことができる。人の心の奥底おくそこを、ほんとうに深く温めてあげることができると、そう思ったら、もう、そのよろこびのままで、死にたかった。でも、こんなに、まるまるとふとって生きかえって来て、醜態しゅうたいね。生きかえって、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声でさけび出したく思うことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立ってあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらえる。」そっと頭をもたげて、「ねえ、数枝かずえ。聞いているの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとじゃないと思うわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気んでいるんだけれど、どんなものだろうねえ、数枝だって、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候いそうろうしていたら、やっぱり、気持が重いでしょう? また、あたしが女優になって、歴史的さんがそれで張り合いのあるお仕事できるようなら、あたし、女優になっても、いいと思うの。あたしがその気になりさえすれば、あとは、手筈てはずが、ちゃんときまっているんだって、そう言っていたわ。」 「おまえの好きなようにするさ。名女優になれるだろうよ。」数枝は、ふたたび不気嫌ふきげんである。「それは、ね、あたしだって、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにいて、いったいどうするつもりだろうと、さちよの図々ずうずうしさがにくくなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分さんぷん以上かんがえないことに、昔からきめているの。めんどうくさい。どんなに永く考えたって、結局は、なんのこともない。あたってみなければわからないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだって、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考えて、解決も何もおかまいなしに、すぐつぎに移って、そいつを三分間だけ考えて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目ひとめ調べてみて、すぐにぴたっとしめて、そうして、ねむるの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだって、相当の哲学てつがくがあるだろう。」 「ありがとう。数枝、あなたは、いいひとね。」

102

数枝は、てれて、わざと他のことを言った。 「やんだね、みぞれが。」 「ええ。」さちよは、言いたいだけ言って、あとは無心であった。「あした、お天気だといいわね。」 「うん。目がさめてみると、からっと晴れているのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、そう合槌あいづちうって、朝の青空を思えば、やはりき浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんということもないのに、とひとりで笑いたくなって、蒲団ふとんを引きかぶり、目尻めじりからなみだが、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いているのかしら、と流石さすがにあわて、とにかく、この子が女優になるというし、これは、ひとつ、後援こうえん会でも組織せずばなるまい。                    ☆

103

成功であった。劇団は、「かもめ座。」劇場は、築地つきじ小劇場。狂言きょうげんは、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬げじゅん、七日間の公演であった。青年、高須隆哉たかすたかやは、三日目に見に行った。幕があく。オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台ぶたいにいる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかった。青年は、暗い観客席の一隅いちぐうで、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。

104

──あの日、寒かったわね。雪が降っていたんだもの。──あたし、とても生きていられないような、──でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思い出せるようになったし、―─(時計が十二時を打つ。)

105

ゆっくり打つ舞台の時計の音を、聞いているうちに青年は、急にきょろきょろしはじめて、ちえっ、ちえっと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立って廊下ろうかに出た。

106

ぼくは、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮しょせんナルシッサスだ。あの女は、謙虚けんきょを知らない。自分さえその気になったら、なんでもできると思っている。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになったのだろう。もう、あの様子では、須々木乙彦おとひこのことなんか、ちっとも、なんとも、思っていない。悪魔あくま、でなければ、白痴はくちだ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰しんこうも、感謝も、苦悩くのうも、狂乱も、憎悪ぞうおも、愛撫あいぶも、みんな刹那せつなだ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしている。じるがいい。それが純粋じゅんすいな人間性だ、と僕も、かつては思っていた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知しっちしている。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、あまいものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決する。僕は、聖母受胎じゅたいをさえ、そのまま素直に信じている。そのために、科学者としての僕が、破産したって、かまわない。僕は、純粋の人間、真正の人間で在りさえすれば、―─

107

などとあらぬ覚悟かくごを固めたりしはじめて、全身、異様な憤激ふんげきにがくがくふるえ、寒い廊下を大胯おおまたで行きつもどりつ、何か自分が、いま、ひどい屈辱くつじょくを受けているような、世界のひとみんなからあざ笑われているような、いても立ってもおられぬ気持で、こんなときに乙やんが生きていたらな、といまさらながら死んだ須々木乙彦がなつかしく、興奮こうふんがそのままくるりと裏返って悲愁断腸ひしゅうだんちょうの思いに変じ、あやうく落涙らくるいしそうになって、そのとき、 「よう、」とかたたたいたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかったね?」 ―――あたし、あなたの心持が、よくわかってよ、マーシャ。さちよのオリガが、なみだ声でそういうのが、廊下ろうかにまで聞えて来る。 「素晴らしいね。」助七は、目を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、笑っちゃいけません。ほんとうなんですよ。おれのとこでは、梶原かじわら剛氏に劇評たのんだのだが、どうです、あのおじいさんなみだを流さんばかり、オリガの苦悩くのうを、この女優によってはじめて知らされた、と、いやもう、流石さすがのじいさん、まいってしまった。どれ、どれ、拝見。」背後のドアをそっと細めにあけ、舞台ぶたいのぞいて、「何か、こう、貫禄かんろくとでも、いったようなものが在りますね。まるで、別人の感じだ。ああ、退場した。」ドアをぴたとしめて、青年の顔をちらと見て、不敵に笑い、「うまい! 落ちついていやがる。あいつは、まだまだ、大物おおものになれる。しめたものさ。なにせ、あいつは、こわいものを知らない女ですからな。」 「あなたは、毎日、見に来ているの?」 「そうさ。」青年の無表情な質問に、助七は、むっとしたらしく、語調を変えた。「おれは、てれかくしに、こうしてはしゃいでいるんじゃないんだぜ。君たちとちがって、おれは正直だ。感情をいつわることが、できない。うれしいのだ。ほんとうに、うれしいのだ。おどり出したいくらいだ。社の用事なんか、どうにでも、ごまかせるのだから、毎日ここへやって来て、廊下の評判を聞いている次第しだいです。軽蔑けいべつしたまうな。」 「それは、あなたは、うれしいだろうな。」高須たかすは軽く首肯しゅこうし、それでもやはり無表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になってゆくし。」 「えっへっへ。」助七は、急に相好そうごうをくずした。「知っていやがる。それを言われちゃ、一言もない。あなたは、まだ忘れていないんだね。おれが、あいつを立派な気高い女にしてくれ、って、あなたにたのんだこと、まだ、忘れていないんだね。こいつあ、まいった。いや、ありがとう、ありがとう。こののちともに、よろしくたのむぜ。」言いながら、そっとドアに耳を寄せて、「あ、いけない。ヴェルシーニンの登場だ。おれは、あのヴェルシーニンの性格は、がまんできないんだ。背筋が、寒くなる。いやな、やつだ。」青年のかたきかかえるようにして、「ね、むこうへ行こう。楽屋にでも遊びに行ってみるか。」歩きながら、「ヴェルシーニン。鼻もちならん。おれは、とうとう、せりふまで覚えちゃった。」えへんと軽くせきばらいして、「──そうです。忘れられてしまうでしょう。それが私たちの運命なんですから。どうにも仕方がないですよ。私たちにとって厳粛げんしゅくな、意味の深い、非常に大事のことのように考えられるものも、時がたつと、──忘れられて了うか、それとも重大でなくなってしまうのです。──ちえっ、まるで三木朝太郎そっくりじゃねえか。──そして、我々がこうやって忍従にんじゅうしている現在の生活が、やがてそのうちに奇怪きっかいで、不潔で、無知で、滑稽こっけいで、事によったら、罪深いもののようにさえ思われるかも知れないのです。―─いよいよ、三木だ。へどが出そうだ。」 「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。 「あのう、これを、高野さんから。」小さく折りたたまれた紙片である。 「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。 「いいえ。」青白い顔の目の大きいその女の子は、名女優のようにっと威厳いげんを示して、「あなたでは、ございません。」 「ぼくだ。」高須たかすは、傍から、ひったくるようにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆えんぴつでくっきり色くしたためられていた。

108

―─さっき、あたしの舞台ぶたいに、ずいぶん高い舌打なげつけて、そうして、さっさと廊下ろうかに出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまでわかります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はっきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでしょう。自分がまるで、こんにゃくの化け物のように、きたなくて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着ている青い衣裳いしょうを、ずたずた千切ちぎきたいほど、不安で、いたたまらない思いでございました。あたしは、ちっとも、鉄面皮てつめんぴじゃない。生けるしかばね、そんなきざな言葉でしか言い表わせませぬ。あたし、ちっとも有頂天うちょうてんじゃない。それを知って下さるのは、あなただけです。あたしを、やっつけないで下さい。おねがい。見ないふりしていて下さい。あたしは、精一ぱいでございます。生きてゆかなければならない。誰があたしに、そう教えたのか。チエホフ先生ではありませぬ。あなたのおとやんです。須々木すすきさんが、あたしにそれを教えてくれました。けれども、あなたも教えて下さい。一こと、教えて下さい。あたし、間違まちがっていましょうか。聞かせて下さい。あたしは、あまい水だけを求めて生きている女でしょうか。あたしを軽蔑けいべつして下さい。ああ、もう、めちゃめちゃになりました。あたしを呼んでいます。舞台に出なければなりません。十時に―─

109

と、書きかけて、そのままになっていた。

110

高須は顔をあおくして、少し笑い、紙片を二つにいた。 「見せろ。あいびきの約束かね?」 「君には、これを読む資格がない。」はっきりした語調で言って、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代という役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居しばいをひろげております。」 「そんなこと言うもんじゃないよ。」助七は当惑気とうわくげに、両手を頭のうしろに組んで、「いやだぜ。さちよも、一生懸命けんめいに書いたんだろう? ってやれよ。よろこぶぜ。」

111

助七に、ぐんと背中をされ、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめて見る楽屋。                    ☆  

112

高野さちよは、そのひとつきほどまえ、三木と同棲どうせいをはじめていた。数枝かずえいいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言えない、かもめは、あれは、おしの鳥です、とやや錯乱さくらんに似た言葉を書き残して、八重田やえだ数枝のアパアトから姿を消した。淀橋よどばしの三木の家をおとずれたのは、その日の夜、八時ごろである。三木は不在であったが、小さく太った老母がいた。家賃三十円くらいの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言うと、おお、と古雅こがに合点して、おうわさ、朝太郎から承っております、何やら、会があるとかで、ひるから出かけておりますが、もう、そろそろ、帰りましょう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆ろうばであった。さちよは、張りつめていた気もゆるんで、まるで、わが家に帰ったよう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさっさとはいって、あたかも、これは生きかえった金魚、ひらひら真紅しんくのコオトをいで、 「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀じぎして、どうにもあまえた気持になり、両手そろえてお辞儀しながら、ぷっとき出す仕末であった。

113

老母は、平気で、 「はい、こんばんは。朝太郎、お世話になります。」と挨拶あいさつかえして、これものんきな笑顔である。

114

不思議な蘇生そせいの場面であった。

115

長火鉢ながひばちへだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗きれいに、ちんまり座って、伏目ふしめがち、やがて物語ることには、―─あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まえに死にました。まあ、昔自慢じまんしてあわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます、前橋でも一流中の一流の割烹かっぽう店でございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまっていました。あのころは、よかった。わたくしも、毎日毎日、張り合いあって、身をにして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。くずれるとなったら、早いものでした。ふっと気のついた朝には、すっからかん。きれい、さっぱり。可笑おかしいようですよ。父は、みんなに面目ないのですね。そうなっても、まだ見栄みえ張っていて、なあに、おれには、内緒ないしょでかくしている山がある。きんの出る山ひとつ持っている、とまるで、子供みたいな、とんでもないうそを言い出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れうて来たばばにまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくわしく細々とその金の山のこと真顔になって教えるのです。嘘とわかっているだけに、聞いているほうが、情ないやら、あさましいやら、いじらしいやら、なみだが出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いていないのに感付いて、いよいよ、むきになって、こまかく、ほんとうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命けんめいにひそひそ説明して、とうとう、これから皆でその山に行こうではないか、とまで言い出し、これには、わたくし、当惑とうわくしてしまいました。まちの誰かれ見さかいなくつかまえて来ては、その金山のこと言って、わたくしはずかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑い草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはいったばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困って、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやってしまいました。そのときに、朝太郎はえらかった。すぐに東京からけつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら、なぜぼくにいままでかくしていたのです、そんないい事あるんだったら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、その山の金鉱しらべに行こう、と、もう父の手をひっぱるようにしてせきたて、また、わたくしを、こっそりものかげに呼んで、お母さん、いいか、お父さんは、もうさきが長くないのだ、おちぶれた人に、はじをかかせちゃいけない、とわたくしを、きつくしかりました。わたくしも、そう言われて、はじめて、ああそうだったと気がついて、お恥ずかしい、わが子ながら、両手合せて拝みたいほどでございました。嘘、とはっきり知りながら、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、わたくしたち親子三人、信濃しなのおくまで、まいりました。いま、思い出しても、せつなくなります。信濃の山奥の温泉に宿をとり、それからまる一年間、あの子は、降っても照っても父のおともして山を歩きまわり、日が暮れて宿へかえっては、父の言うこと、それは芝居しばいと思えないほど、熱心に聞いて、ふたりで何かと研究し、相談し、あしたは大丈夫だいじょうぶだ、あしたは大丈夫だと、おたがい元気をつけ合って、そうして寝て、また朝早く、山へ出かけて、ほうぼう父に引っぱりまわされ、さんざ出鱈目でたらめの説明聞かされて、それでも、いちいち深くうなずいて、へとへとになって帰って来ました。何もかも、朝太郎のおかげです。父は、山宿で一年、張り合いのある日をつづけることができて、女房にょうぼう、子供にも、立派に体面保って、恥を見せずに安楽な死に方をいたしました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みこみがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張いばって、死んでゆきました。まえから、心臓が、ひどく悪かったのです。木枯こがらしのおそろしく強い朝でしてな。あわれな話ですね。けれども、あの子は、見どころあります。それから母子ふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持って豆腐とうふいっちょう買いに行くのが、一ばんつらかった。いまでは、どうやら、朝太郎も、皆様のおかげで、もの書いてお金いただけるようになって、わたくしは、朝太郎が、もう、どんな、ばかをしても、信じている。むかし、あれの父をあんなに大事にかばってくれたこと思えば、あの子が、ありがたくて、もったいなくて、あの子のことだったら、どんなことがあっても、たとえあれが、人殺ししたって、わたくしは、あれを信じている。あれは、情の深い子です。ほんとに、よろしくお願いします。

116

そう言って、軽くお辞儀じぎをし、さちよも思わずそっとお辞儀をかえして、ゆくりなく顔を見合せ、ほ、ほと同時にはなやかに笑って、それから二人、気持よく泣いた。

117

十時に三木が、ってかえった。久留米絣くるめがすりに、白っぽいごわごわしたはかまをはいて、明治維新いしんの書生の感じであった。のっそり茶の間へはいって来て、ものも言わず、長火鉢ながひばちおくに座っている老母を蹴飛けとばすようにして追いたて、自分がそのあとにどっかと座って、袴のひもをほどきながら、 「何しに来たんだい?」座ったままで袴をいでそれを老母にほうってやって、「ああ、お母さん。あなたは、ちょっと二階へ行ってろ。ぼくは、この子に話があるんだ。」

118

二人きりになると、さちよは、 「自惚うぬぼれちゃ、だめよ。あたし、仕事の相談に来たの。」 「かえれ。」家に在るときの歴史的さんは、どこか憂鬱ゆううつで、けわしかった。 「御気嫌ごきげん、わるいのね。」さちよは、平気だった。「あたし、数枝かずえのアパアトからげて来たの。」 「おや、おや。」三木は冷淡れいたんだった。がぶがぶ番茶を飲んでいる。 「あたし、働く。」そう言って、自分にも意外な、なみだがあふれて落ちて、そのまま、めそめそ泣いてしまった。 「もう、僕は、君をあきらめているんだ。」三木は、しんからいまいましそうに顔をしかめて、「君には、手のつけられない横着おうちゃくなところがある。君は、君自身の苦悩くのうに少し自惚れ持ち過ぎていやしないか? どうも、僕は、君を買いかぶりすぎていたようだ。君の苦しみなんざ、てのひらに針たてたくらいのもので、苦しいには、ちがいない、飛びあがるほど苦しいさ、けれども、それでわあわあさわぎまわったら、人は笑うね。はじめのうちこそ愛嬌あいきょうにもなるが、そのうちに、人は、てんで相手にしない。そんなものに、かまっている余裕なんて、かなしいことには、いまの世の中の人たち、誰にもないのだ。僕は知っているよ。君の思っていることくらい、見透みとおせないでたまるか。あたしは、虫けらだ。精一ぱいだ。命をあげる。ああ、信じてもらえないのかなあ。そうだろう? いずれ、そんなところだ。だけど、いいかい、真実というものは、心で思っているだけでは、どんなに深く思っていたって、どんなに固い覚悟かくごを持っていたって、ただ、それだけでは、虚偽きょぎだ。いんちきだ。胸を割ってみせたいくらい、まっとうな愛情持っていたって、ただ、それだけで、だまっていたんじゃ、それは傲慢ごうまんだ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為こういだ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありゃしない。愛情は胸のうち、言葉以前、というのは、あれも結局、修辞じゃないか。だまっていたんじゃ、わからない、そう突放つっぱなされても、それは、仕方のないことなんだ。真理は感ずるものじゃない。真理は、表現するものだ。時間をかけて、努力して、つくりあげるものだ。愛情だって同じことだ。自身のしらじらしさや虚無をこらえて、やさしい挨拶あいさつ送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は、最高の奉仕ほうしだ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。」また、番茶を、がぶがぶ飲んで、「君は一たい、いままで何をして来た。それを考えてみるがいい。言えないだろう。言えないはずだ。何もしやしない。ぼくは、君を、もう少し信頼しんらいしていた。あの山宿をげるときだって、僕は、気まぐれから君に手伝いしたのじゃないのだぜ。君に、たしかな目的があって、制止できない渇望かつぼうがあって、そうして、ちゃんと聡明そうめいな、具体的な計画があっての、出京だとばかり思っていた。それが、どうだ、八重田数枝やえだかずえのとこに、ころがりこんで、そのまんま、何もしやしない。八重田数枝は、あんな、気のいいやつだから、だまって、のんきそうに君を世話していたようだったが、でも、ずいぶん迷惑めいわくだったろうと思うよ。君が精一ぱいなら、八重田数枝だって、自分ひとりを生かすのだけで、それだけで精一ぱい、やっとのところで生きているのだ。少しは、人の弱さを、大事にしろよ。君の思いあがりは、おそろしい。僕だって、君に、いくどはじをかかされているかわからない。あんな、薄汚うすぎたない新聞記者と、喧嘩けんかさせて、だまって面白おもしろがって見ていやがって、僕は、あんなやつとは、口きくのさえいやなんだぜ。僕は、プライドの高い男だ。どんなえら先輩せんぱいにでも、呼び捨にされると、いやな気がする。僕は、ちゃんと、それだけの仕事をしている。あんなやつと、決闘けっとうして、あとで、僕は、どんなに恥ずかしく、くるしい思いしたか、君は知るまい。生れてはじめて、あんなぶざまな真似まねをした。君は、一たい僕をなんだと思っているのだ。八重田数枝のところに居辛いづらくなって、そうして、こんどは僕の家へ飛びんで来て、自惚うぬぼれちゃだめよ、仕事の相談に来たの、なんて、いつもの僕なら、君はいまごろ横っつらの二つや三つぶんなぐられている。」三木は流石さすがに、あおくなっていた。

119

さちよは、ぼんやり顔をあげて、 「殴らないの?」 「寝て起きて来たようなこと言うなよ。」苦笑して、煙草たばこのけむりを、ゆっくりいた。「かえりたまえ。ぼくは、言いたいだけのことは、言ったんだ。あとは、もっぱら敬遠主義だ。君も少しは考えるがいい。かえれ。路頭にまよったって、僕の知ったことじゃない。」

120

もじもじして、 「路頭は、寒くて、いや。」

121

三木は、あやうくき出しそうになり、 「笑わせようたって、だめさ。」言いながら、はっきり負けたのを意識した。 「さちよ、ここにいるか。」 「いる。」 「女優になるか。」 「なる。」 「勉強するか。」 「する。」

122

三木のうでの中で、さちよは、小声で答えていた。 「ばかなやつ。」三木は、さちよのからだからはなれて、「おふくろと、どんな話をしていた?」いつもの、やさしい歴史的さんに、かえっていた。 「あたし、お母さん好きよ。」さちよは、かみきあげて、「これから、うんと孝行するの。」

123

そうして、三木との同棲どうせいがはじまった。三木は劇壇げきだんに、奇妙きみょうな勢力を持っていた。背後に、元老の鶴屋北水つるやほくすい頑強がんきょうな支持もあって、その特異な作風が、劇壇の人たちに敬遠にちかいほどの畏怖いふの情をもって見られていた。さちよの職場は、すぐにきまった。かもめ座である。そのころの鴎座は、素晴しかった。日本の知識人は、一様に、鴎座の努力を尊敬していた。一座の指導者は、尾沼おぬま栄蔵、由緒ゆいしょ正しき貴族である。俳優も、一流の名優が競って参加し、外国の古典やら、また、日本の無名作家の戯曲ぎきょくをも、大胆だいたんに採用して、毎月一回一週間ずつの公演を行い、日本の文化を、たしかに高めた。元老、鶴屋北水の推薦すいせんと、三木朝太郎の奔走ほんそうのおかげで、さちよは、いきなり大役をふられた。すなわち、三人姉妹の長女、オリガである。いいかい、オリガは、センチメントおさえて、おさえて、おさえ切れなくなるまでおさえて、幕切れで、どっとせきあげる、それだけ心掛こころがけていればいいのだ、あとは尾沼君の言うこと信仰しんこうしたまえ、あれはえらい男だ。それから、ほかの役者の邪魔じゃまをしないように、ね。三木は、それだけ言って、あとは、何も教えなかった。三木には、また、三木の仕事があるのである。二階の六じょうに閉じこもって、原稿げんこう用紙、少し書きかけては、くしゃくしゃに丸めてかべに投げつけ、寝ころんで煙草たばこ吸ったり、また起き上って、こつこつ書いたり、毎夜、おそくまで、ねむらずにいる。何か大きい仕事にでも、とりかかった様子である。さちよも、なまけてはいなかった。毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古けいこに出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかなほおが、細くなるほど、心労つづけた。

124

初日が、せまった。三木は、こっそり尾沼おぬま栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行った。帰って来てからさちよに、君がうまいんじゃないんだ、他の役者が下手へたくそなんだ、尾沼君は、そう言っていた。君は、こんどの公演で、きっと評判になるだろう、けれども、それは、君がうまいからじゃないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれているということなんだ、そう言っていた。いいかい、ちっとも君がすぐれているわけじゃないんだから、かならず、人の賛辞なんかに受けちゃいけないよ。しかりつけるような語調で言って聞かせて、それでも、その夜は、めずらしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん飲んだ。

125

初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であった。三日目、つまずいた。青年、高須隆哉たかすたかやの舌打が、高野幸代の完璧かんぺきの演技に、小さい深い蹉跌さてつを与えた。

126

高須隆哉が楽屋をおとずれたときには、ちょうど一幕目がおわって、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて座って、大口あいて笑っていた。煙草たばこのけむりが濛々もうもうと部屋に立ちこもり、誰か一こと言い出せば、どっと大勢のひとの笑いの波が起って、和気あいあいの風景である。高須は、その入口に佇立ちょりつした。

127

さちよは、高須に気がつかず、まだ演技直後の興奮こうふんからさめ切らぬ様子で、天井てんじょうあおいでヒステリックな金切声たてて笑いこけていた。 「ちょっと、あなた、ごめんなさい。」

128

耳もとでささやき、大きい黒揚羽くろあげはちょうが、ひたと、高須の全身をおおいかくし、そのまま、すっと入口からさらっていって、廊下ろうかすみまで、ものも言わず、とっととしかえして、 「まあ。ごめんなさい。」ほっそりした姿の女である。目が大きく鼻筋の長いさびしい顔で、黒いドレスが似合っていた。「さちよと、わせたくなかったの。あの子は、とても、あなたのことを気にしている。せっかく評判も、いいところなんだし、ね、おねがい、あの子を、そっとして置いてやって。あの子、いま、一生懸命けんめいよ。つらいのよ。あたしには、それがわかる。あら、あなたは、あたしをご存じない。」顔を赤くして、「ごめんなさい。あなた、高須さんね。そうでしょう? あたし、ひと目見て、はっと思ったの。ほんとうに、あたし、はじめてなのに、でも、すぐわかった。須々木乙彦おとひこの、御親戚しんせき。どう? あたし、なんでも知っているでしょう?」数枝かずえである。芝居しばいがはじまって、この二、三日、何かと気がもめて、きょうはホオルを休んで楽屋に来ている。                    ☆

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その夜、ああ、知っているものが見たら、ぎょっとするだろう。須々木乙彦すすきおとひこは、生きている。生きて、ウイスキイを飲んでいる。昨年の晩秋に、須々木乙彦は、この銀座裏のバアにふらと立ち寄った。そうして、この同じソファにこしをおろし、十九のさちよと、雨の話をした。あのときと、同じ姿勢で、少しまえこごみの姿勢で、ソファに深く腰をおろし、いま、高須隆哉たかやは、八重田数枝やえたかずえと、ウイスキイ飲みながら、ひそひそ話をかわしている。ソファの傍には、鉢植はちうえ、むかしのままに、ばさと葉をひろげて、乙彦が無心につめ千切ちぎりとったあとまで、その葉に残っている。室内の鈍い光線も八つ手の葉にさえぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらいに、かすかに輪廓りんかくが分明して、目の下や、両ほおに、真黒い陰影いんえいがわだかまり、げっそりせて、おそろしくけて見えて、数枝も、話ながら、時おり、ちらと高須の顔を横目で見ては、それが全く別人だ、ということを知っていながら、やはり、なんだか、いやな気がした。似ているのである。数枝も、乙彦を、あの夜ここで一緒いっしょに飲んで、知っていた。乙彦は、すさんだ皮膚ひふをして、そうして顔が、どこか奇形きけいの感じで、決して高須のような美男ではなかった。けれども、いま、このバアの薄暗闇うすくらやみで、ふと見ると、やはり、似ている。数枝には、血のつながりというものが、ひどく、いやらしく、気味わるいものに思われた。

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高須には、まだ気がつかない。数枝に、無理矢理、劇場から引っぱり出され、そうして数枝の悪意ない、ちょっとした巫山戯ふさけた思いつきが、高須をここへ連れこんだ、この薄暗いバアは、乙彦と、さちよが、奇態な邂逅かいこうしたところ、いま自分の腰かけているこの灰色のソファは、乙彦が追いつめられて、追いつめられて、天地にたった一つの、最後に見つけた、鳥の巣、きつねの穴、一夜のいこいの椅子いすであったこと、高須は、なんにも知らなかった。

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しずかにって、 「かえらせたら、いいのだ。女優なんて、そんな派手なことさせちゃ、いけないのだ。国へかえらせなければ、いけないのだ。」 「でも、──」言いよどんで、「いいえ、酔ってからむわけじゃないのよ。ごめんなさいね。でも、──男の人って、どうして皆そんなに、女のこととなると変に責任、持ちたがるのかしら。どうして皆、わかり切ったお説教したがるのかしら。あなたは、さちよが、いままで、どんなに苦しい生活を、くぐりけ、切り抜けして生きて来たか、ご存じ? さちよだって、もう、おとなよ。子供じゃない。ほって置いたって大丈夫だいじょうぶ。あたしだって、はじめは、あの子に腹が立った。女優なんて、とんでもない、と思っていた。やはり、あなたと同じように、国へかえったほうが、一ばん無事だと思っていた。だけど、それは、あたしの間違まちがい。だって、さちよが国へかえって、都合のよいのは、それは、あたしたちのほうよ。あの子は、ちっとも仕合せでない。あなただってそうよ。やっぱり、どこか、ずるいのよ。けちな、けちな、我利我利がりがりが、気持のどこかに、ちゃんと在るのよ。あなたが勝手に責任感じて、そうして、むしゃくしゃして、お苦しくて、こんどは誰か、遠いところに居る人に、その責任、かたがわりさせて、自身すずしい顔したいお心なのよ。そうなのよ。」言いながら、それでも気弱く、高須たかすの片手をそっとにぎって、顔色をうかがい、「ごめんなさいね。うち、失礼なことばかり言って。」さっと素早く、ウイスキイあおって、「でも、ねえ。あの子を、いま田舎いなかへかえすなんて、やっぱり、残酷ざんこくよ。よく、そんなこと、言えるのね。あの子を国へかえしちゃいけない。あなたは、あの子が、去年どんなことをしたか知ってるわね。どんなに笑われたか、知っているわね。東京は、いそがしくて、もう、そんなこと忘れたような顔していてくれるけど、田舎は、うるさい。あの子は、きっと座敷牢ざしきろうよ。一生涯いっしょうがい、村の笑われもの。田舎の人ったら、三代まえににわとりぬすまれたことだって、ちゃんと忘れずに覚えていて、にくしみ合っているんだもの。」 「ちがう。」高須は、落ちついて否定した。「ふるさとは、そんなものじゃない。肉親は、そんなものじゃない。ぼくは、ふるさとを失った人の悲劇を知っている。乙やんには、ふるさとが無かった。君も、ごぞんじだろうと思うが、おとやんは、僕の伯父おじの、おめかけの子だ。生みの母親と一緒いっしょに転々した。それは苦労した。僕は知っている。あの人は、えらくなることに努めた。自分を捨てた父親を、見かえしてやろうと思っていた。ずばけて、秀才しゅうさいだった。全く、すばらしかったなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思っていたのだ。歴史に名を残そうと考えた。けれども、矢き、刀折れて、死ぬる前の日、僕に、親孝行しろ、と言った。しのんで、しのんで、つつましく生きろ、と言った。僕は、はじめ冗談じょうだんか、と思った。けれども、このごろになって、あ、あ、と少しずつ合点できる。」 「いいえ、そんなんじゃない。」数枝は、なかなかゆずらない。いと興奮こうふんほおを染めて、「あなたは、それでいいの。ご立派な御家庭に、なに不自由なくお育ちになって、立派に学問もおありなさることだし、ちゃんと御両親もそろっておいでのことでしょうし、それは須々木乙彦でなくったって、あなたには、親孝行なさるよう、お家を大事になさるよう、誰だって、しんからそれをおすすめするわ。だけど、あたしたちは、ちがうの。そんなんじゃない。一日一日、食って生きてゆくことに追われて、借銭かえすことに追われて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついていながら、どんどんし流されてしまって、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印やきいん頂戴ちょうだいしてしまっているの。さちよなんか、もっとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しっきゃくしちゃったのよ。くずよ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなってしまったの。したくても、ゆるされない。名誉めいよ回復。そんな言葉おかしい? あわれな言葉ね。だけど、あたしたち、いちど、あやまちおかした人たち、どんなに、それにあこがれているか。そのためには、いのちもらない。どんなことでも、する。」ふっと声を落して「さちよは、可愛そうに、いま一生懸命けんめいなのよ。あたしには、わかる。あの子を少しでもえらくしてあげたい。」 「待て。」青年は、その言葉を待ちかまえていた。ゆっくり、煙草たばこに火を点じて、「君は、いま、あの子を偉くしてあげたい、と言ったね。それは、間違まちがい、書取デクテーションのミステークみたいに、はっきり、間違い。人は、人を偉くすることができない。いまの、この世の中は、きびしいのだ。一朝にして名誉回復、万人ばんにん喝采かっさいなんて、そいつは、無知なロマンチシズムだ。昔の夢だ。須々木乙彦すすきおとひこほどの男でも、それができずに、死んだのだ。いまは人間、誰にもめいわくかけずに、自分ひとりを制御することだけでも、それだけでも、大事業なんだ。それだけでも、できたら、そいつは新しい英雄えいゆうだ。立派なものだ。ほんとうの自信というものは、自分ひとりの明確な社会的な責任感ができて、はじめて生れて来るものじゃないのか。まず自分を、自分の周囲を、不安ないように育成して、自分の小さいふるさとの、自分のまずしい身内みうちの、堅実けんじつな一兵卒になって、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。けてもいい。高野幸代は、失敗する。いまのままですすめば、どん底に蹴落けおとされる。火を見るよりも、明らかだ。世の中は、つらいのだ。きびしいのだ。一日、一日、僕には、いまのこの世の中の苛烈かれつが、身にしみる。みじんも、でたらめを許さない。おたがい、の目、たかの目だ。いやなことだ。いやなことだが、仕方がない。」 「負けたのよ。あなたは、負けたのよ。」かん高くさけんで、多少、呂律ろれつがまわらなかった。よろめいて、耳をふさぎ、「ああ、聞きたくない、聞きたくない。あなたまで、そんな、情ないことおっしゃる。ずるい、ずるい。意気地いくじがない。臆病おくびょうだ。負けしみだ。ああ、もう理屈りくつは、いやいや。世の中の人たちは、みんな優しい。みんな手助けしてくれる。冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、うそついて気取っている男だけが、ひとのせっかくの努力を、せせら笑って蹴落すのだ。あなたは、いけない。あなたは、これから、さちよにさわっては、いけない。一指もふれては、いけない。なんて、嘘なのよ。あたしは、とてもリアリスト。知っているのよ。あなたの言うこと、わかっているのよ。知っていながら、それでも、もしや、という夢、持ちたいの。持っていたいの。笑わないでね。あたしたち、永遠にだめなの。わるくなって行くだけなの。知っている。ああ、いけない、はっきりきめないで、ね。死にたくなっちゃう。だけど、さちよだけは、ああ、えらくしたい、偉くしたい。あの子、頭がいい。あの子、可愛い。あの子、ふびんだ。知っている? さちよは、いま、ある劇作家のおめかけよ。偉くなれ、なれ。おめかけなんて、しなくてすむように、──」

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青年は、立ちあがっていた。 「誰です。どこの人です。案内したまえ。」さっさと勘定かんじょうすまして、いどれた数枝かずえのからだを、片うででぐいときあげ、「立ちたまえ。いずれ、そんなことだろうと思っていた。たいへんな出世だ。さ、案内したまえ。どこの男だ。さちよにそんなことさせちゃ、いけないのだ。」

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円タクひろった。淀橋よどばしに走らせた。

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自動車の中で、 「ばかだ。ばかも、ばかも、大ばかだ。君には、お礼を言う。よく知らせてくれた。」数枝は、不吉な予感に、気が遠くなりそうだった。「ぼくは、さちよを愛している。愛して、愛して、愛している。誰よりも高く愛している。忘れたことが、なかった。あのひとの苦しさは、僕が一ばん知っている。なにもかも知っている。あのひとは、いいひとだ。あのひとをくさらせては、いけない。ばかだ、ばかだ。ひとのめかけになるなんて。ばかだ。死ね! 僕が殺してやる。」 「火の鳥未完」




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