花燭かしょく

       太宰 治


       燭をともして昼をがむ。



1

祝言しゅうげんの夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋のふすまのそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわい出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台しまだいかざられてある伊勢海老いせえびが、まだ生きていて、大きなひげをゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。

2

私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑びしょうの初夜を得るように、私は衷心ちゅうしんから祈っている。

3

東京の郊外こうがい男爵だんしゃくと呼ばれる男がいた。としのころ三十二、三と見受けられるが、あるいは、もっと若いのかも知れない。帝大の経済科を中途ちゅうと退学して、そうして、何もしない。月々、田舎いなかから充分じゅうぶんの仕送りがあるので、四じょう半と六畳と八畳の、ひとり者としては、やや大きすぎるくらいの家を借りて、毎晩さわいでいる。もっとも、騒ぐのは、男爵自身ではなかった。訪問客が多いのである。実に多い。男爵と同じように、何もしないで、もっぱら考えてばかりいる種属の人たちである。例外なく貧しかった。なんらかの意味で、いずれも、世の中から背徳者の折紙をつけられていた。ほんの通りがかりの者ですけれども、お内があんまり面白おもしろそうなので、つい立ち寄らせていただきました、それでは、お邪魔じゃまさせていただきます、などと言い、一面識もないあかの他人が、のこのこ部屋へはいりんで来ることさえあった。そんな場合、さあ、さあ、と気軽に座蒲団ざぶとんをすすめる男は、男爵でなかった。よく思い切って訪ねて来てくれましたね、とほめながらお茶をいでやる別の男は、これも男爵でなかった。君の目は、うそつきの目ですね、と突然とつぜん言ってその新来の客を驚愕きょうがくさせるせた男は、これも男爵でなかった。それでは男爵はどこにいるか。その八畳の客間のすみに、消えるように小さく座って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵だんしゃくである。すこぶるぱっとしない。五尺二、三寸の小柄こがらの男で、しかもせている。つくづくその顔をながめてみても、別段これという顔でない。浅黒く油光りして、あごひげがすこしびている。丸顔というではなし、さりとて長い顔でもなし、ひどくえ切らない。かみの毛は、いくぶん長く、けれども蓬髪ほうはつというほどのものではなし、それかと言ってポマアドで手入れしている形跡けいせきも見えない。あたりまえの鉄縁てつぶち眼鏡めがねけている。はなはだ、非印象的である。それゆえ、訪問客たちは、おたがい談論にふけり男爵の存在を忘れていることが多いのである。談じて、笑って、つかれて、それからふと隅の男爵に気付いて、おや、君はまだそこにいたのか、などと言い大あくびしながら、 「煙草たばこがなくなっちゃったな。」 「ああ、」と男爵は微笑びしょうして立ちあがり、「ぼくもね、さっきから煙草吸いたくて。」うそである。男爵は、煙草を吸わないひとであった。「買って来よう。」気軽に出かける。

4

男爵というのは、言わば綽名あだなである。北国の地主のせがれに過ぎない。この男は、その学生時代、二、三の目立った事業をした。恋愛と、酒と、それからある種の政治運動。牢屋ろうやにいれられたこともあった。自殺を三度もくわだて、そうして三度とも失敗している。多人数の大家族の間に育った子供にありがちな、自分ひとりを余計者と思いみ、もっぱら自分を軽んじて、甲斐かいない命の捨てどころを大あわてにあわててさがしまわっているというような傾向けいこうが、この男爵と呼ばれている男の身の上にも、見受けられるのである。なんでもいい、一刻も早く、人柱にしてもらって、この世からおさらばさせていただき、そうして、できれば、そのことによって二、三の人のためになりたかった。自分の心のみにくさと、肉体の貧しさと、それから、地主の家に生れて労せずして様々の権利を取得していることへの気おくれが、それらにいての過度の顧慮こりょが、この男の自我を、散々に殴打おうだし、足蹶あしげにした。それは全く、奇妙きみょう歪曲わいきょくした。このあいそのつきた自分のあわのいのちを、お役に立ちますものなら、どうかどうか使って下さい。卑劣ひれつと似ていた。けれどもそれが、この男に残された唯一ゆいいつの、せめてもの、行為こういのスローガンになっていたのである。男は、それによって行為した。男の行為は、その行為の外貌がいぼうは、けれども多少はなやかであった。われは弱き者の仲間。われは貧しき者の友。やけくその行為は、しばしば殉教じゅんきょう者のそれと酷似こくじする。短い期間ではあったが、男は殉教者のそれとかわらぬ辛苦しんくめた。風にさからい、波に打たれ、雨をおかした。この艱難かんなんだけは、信頼しんらいできる。けれども、もともと絶望の行為である。おれは滅亡めつぼうたみであるという思念一つが動かなかった。早く死にたい願望一つである。おのれひとりの死場所をうろうろ捜し求めて、狂奔きょうほんしていただけの話である。人のためになるどころか、自分自身をさえ持てあました。まんまと失敗したのである。そんなにうまく人柱なぞという光栄の名の下に死ねなかった。言わば、人生の峻厳しゅんげんは、男ひとりの気ままな狂言きょうげんを許さなかったのである。虫がよいというものだ。所詮しょせん、人は花火になれるものではないのである。事実は知らず、転向という文字には、救いも光明も意味されているはずである。そんなら、かれの場合、これは転向という言葉さえ許されない。廃残はいざんである。破産である。光栄の十字架じゅうじかではなく、灰色の黙殺もくさつを受けたのである。ざまのよいものではなかった。幕切れの大見得おおみえ切っても、いつまでも幕が降りずに、閉口している役者に似ていた。かれは仕様がないので、舞台ぶたいの上に身をよこたえ、死んだふりなどして見せた。せっぱつまった道化どうけである。これが廃人としての唯一ゆいいつのつとめか。かれは、そのような状態にちても、なお、何かの「ため」を捨て切れなかった。私の身のうちに、まだ、どこか食えるところがあるならば、どうか勝手に食って下さい、と寝ころんでいる。食えるところがまだあった。かれは地主のせがれであり、月々のくらしには困っていない。なんらかの素因で等しく世に敗れ、廃人よ、背徳者よとゆび指され、そうしてかれより貧しい人たちは、水の低きにつくがごとく、大挙してかれの身のまわりにへばりついた。そうして、この男に、男爵だんしゃくという軽蔑けいべつふくめた愛称あいしょうを与えて、この男の住家をかれらの唯一の慰安いあん所とした。男爵はぼんやり、これら訪問客たちのために、台所でごはんをたき、わびしげにいもの皮をむいていた。

5

かれは、そんな男であった。訪問客のひとりが活動写真の撮影さつえい所につとめることになりそれがそのひとの自慢じまんらしく、誰かにその仕事りを見てもらいたげなのであるが、ほかの訪問客たちは鼻で笑って相手にせぬので、男爵は気の毒に思い、ぜひ私に見せて下さい、とたのんでしまった。男爵は、いったいに無趣味しゅみの男であった。弓は初段をとっていたが、これは趣味と言えるかどうか。じゃんけんさえ、はっきりは知らなかった。石よりもはさみが強いと、間違まちがって覚えている。そんな有様であるから、映画のことなどあまり知らなかった。毎日、毎日、訪問客たちの接待に朝から晩までいそがしく、中にはとまみの客もあって、遊び歩くひまもなかったし、また、たまにお客の来ない日があっても、そんなときには、家の大掃除そうじをはじめたり、酒屋や米屋へ支払しはらいの残りについて弁明してまわったりして、とても活動など見に行くひまはなかった。訪問客たちには、ひたかくしに隠しているが、無理な饗応きょうおうがたたって、諸方への支払いになかなかつらいところも多い様子であった。無趣味は、時間的乃至ないしは性格的な原因からでなくて、あるいはかれの経済状態からって来たものかも知れない。

6

その日、男爵は二時間ちかく電車にゆられて、撮影所のまちに到着とうちゃくした。草深い田舎いなかであったが、けれどもかれは油断をしなかった。金雀枝えにしだしげみのかげから美々しく着飾きかざったコサック騎兵きへいが今にも飛び出して来そうな気さえして、かれも心の中では、年甲斐としがいもなく、小桜おどしよろいに身をかためている様なつもりになって、一歩一歩自信ありげに歩いてみるのだが、春の薄日うすびを受けて路上に落ちているおのれの貧弱な影法師かげぼうしを見ては、どうにも、苦笑のほかはなかった。駅から一丁ほど田圃道たんぼみちを歩いて、撮影さつえい所の正門がある。白いコンクリートの門柱につたの新芽がいのぼり、文化的であった。正門のすぐ向いにかや屋根の、居酒屋ふうの店があり、それが約束のミルクホールであった。ここで待っておれ、と言われた。かれは、その飲食店の硝子ガラス戸をこじあけるのに苦労した。がたぴしして、なかなかあかないのである。あまの岩戸をけるような恰好かっこうして、うむと力こめたら、硝子戸はがらがらがら大きな音たてて一けん以上も滑走かっそうし、男爵だんしゃくは力あまってみにくく泳いだ。あやうくみとどまり、冷汗三斗ひやあせさんとの思いでこそこそ店内にんだ。ひどいほこりであった。六、七きゃく椅子いすも、三つのテエブルも、みんな白くほこりをかぶっていた。かれは躊躇ちゅうちょせず、入口にちかいすみの椅子に腰をおろした。いつも隅は、男爵に居心地がよかった。そこで、ずいぶん待たされた。客はひとりもはいって来なかった。はじめのうちは、あるいは役者などがはいって来ないとも限らぬ、とずいぶん緊張きんちょうしていたのであるが、あまりの閑散かんさんに男爵もあきれ、やがて緊張のつかれが出て来て、ぐったりなってしまった。牛乳を三ばいのんで、約束の午後二時はとっくに過ぎ、四時ちかくなって、その飲食店の硝子戸が夕日に薄赤く染まりかけて来たころ、がらがらがらとあのおそろしい大音響おんきょうがして、一個の男が、弾丸だんがんのように飛んで来た。 「や。しっけい、しっけい。煙草たばこあるかい?」

7

男爵は、にこにこ笑って立ちあがり、ポケットから煙草を二つ差し出し、 「ぼくも、やっと今しがた来たばかりで、どうも、おそくなって。」と変なあやまりかたをした。 「ま、いいさ。」相手の男は、気軽にゆるした。「僕もね、きょうから生田いくた組の撮影がはじまっているので、てんてこいさ。」言いながら落ちつきなく手をり足踏みして、てんてこ舞いをしてみせた。

8

男爵は、まじめになり、その男のてんてこ舞いを見つめ、一種の感動をもって、 「はり切っていますね。」そう不用意に言ってしまって、ひやとした。自分のそんな世俗せぞくの評語が、芸術家としての相手のほこりを傷けはせぬかと、案じられた。「芸術の制作衝動しょうどうと、」すこしとぎれた。あとの言葉を内心ひそかにあれこれと組み直し、やっと整理して、さいごにそれをもう一度、そっと口の中で復誦してみて、それから言い出した。「芸術の制作衝動と、日常の生活意欲とを、完全に一致いっちさせてすすむということは、なかなかまれなことだと思われますが、あなたはそれを素晴らしくやってのけておられるように見受けられます。美しいことです。ぼくは、うらやましくてならない。」たいへんなお世辞である。男爵だんしゃくは言い終って、首筋のあせをそっとハンケチでぬぐった。 「そんなでもないさ。」相手の男は、そう言って、ひひと卑屈ひくつに笑った。「うちの撮影さつえい所、見たいか?」

9

男爵は、もう、見たくなかった。 「ぜひとも。」と力こめてたのんでしまった。死ぬる思いであった。 「オーライ!」ばかばかしく大きい声でさけんで、「カムオン!」またばかばかしく叫んで、飲食店から飛んで出た。かれは仕方なく、とぼとぼ、そのあとを追うのである。

10

その男は、撮影監督かんとくの助手をつとめていた。バケツで水を運んだり、監督の椅子いすを持って歩いたり、さまざまの労役をするのである。そうして、そんな仕事をしている自分の姿を、得意げに、何時間でも見せていたい様子で、男爵もまた、その気持ちを察し、なんの興味もない撮影の模様を、阿呆あほうみたいにぽかんとつっ立って拝見しているのである。男爵の眼前には、くだらないことが展開していた。ひげをはやした立派な男が腹をへらして、めしを六はい食うという場面であった。喜劇の大笑いの場面のつもりらしかったけれども、男爵には、ちっともおかしくなかった。男がめしを食う。お給仕の令嬢れいじょうが、まあ、とあきれる。それだけの場面を二十回以上もりかえしてテストしているのである。どうにも、おかしくなかった。大笑いどころか、男爵は、にがにがしくさえなった。日本の喜劇には、きまったように、こんな、大めしを食うところや、まんじゅうを十個もたべて目を白黒する場面や、いちまいの紙幣しへいうばい合ってそうしてその紙幣を風にき飛ばされてふたりあわててそのあとを追うところなどあって、観客も、げらげら笑っているが、男爵には、すべて、ちっともおかしくないのである。陰惨いんさんな気がするだけであった。ことにもこの髭男の場面は、ひどいと思った。人間侮辱ぶじょく、という言葉さえ思い出された。そのうちに監督に名案がうかんだのである。めし食う男の髭の先に、めしつぶを付着させたら、というのであった。それは、名案ということになった。髭の男にふんしている立派な役者は、わかいお弟子の差し出す鏡に向い、その髭の先にめしつぶをくっつけようとあせるのだが、めしつぶは冷え切っていて粘着ねんちゃく力を失っているので、なかなか付かない。みんな、困った。はりきりの監督助手は、そのときすすみ出て、 「それはね、もう一つぶのごはんつぶをすりつぶし、それをのりにして、もう一粒のごはんつぶにってつけたらいいでしょう。」

11

男爵は、あまりのばからしさに、からだがだるくなった。ふっと目がしらが熱くなり、理由はわからぬが、泣きたくなった。わあ、と大声あげて叫び出したい思いなのである。けれども、立ち去るわけにいかない。それは、失礼である。なるほど、と感心したりをして厳粛げんしゅくにうなずき、なおも見つづけていなければならぬのである。

12

その撮影さつえいが、どうにか一くぎりすんで、男爵だんしゃくは、蘇生そせいの思いであった。むし熱い撮影室から転げるようにして出て、ほっと長大息した。とっぷり日が暮れて、星がにぶく光っている。「新やん。」うしろから、低くそう呼ばれて、ふりむくと、いままでひげの男のお給仕をしていて二十回以上も、まあ、とあきれていたあの小柄こがら令嬢れいじょうの笑顔が暗闇くらやみの中に黄色くうかんでいた。「新やん。ちっともお変りにならないのね。あたし、さっき、ひとめ見て、ちゃんとわかったわ。でも、撮影中でしょう、だもんだから、だまって、ごめんなさいね。」ひと息で言ってしまって、それから急に固くなり、「ほんとうに、おひさしぶりでございました。お国では、皆様おかわりございませぬでしょうか。」

13

男爵は、やっと思い出した。 「あ、とみ、とみだね。」田舎いなかなまりが少し出たほど、それほど男爵は、あわてていた。十年まえ、とみは、田舎の男爵の家で女中をしていた。かれが高等学校にはいったばかりのころで、暑中休暇きゅうかに帰省してみたら、せて小さく、かみがちぢれて、目のきびしい十六七の小間使いがいて、これが、かれの身のまわりを余りに親切に世話したがるので、男爵は、かえってうるさく、いやらしいことに思い、ことごとに意地悪く虐待ぎゃくたいした。愛犬ののみを一匹残さずとるよう命じたことさえあった。二年ほど、かれの家にいたろうか。ふっといなくなって、男爵は、いないな、と思っただけで、それ以上気にとめることはなかった。そのとみである。男爵は、ぶるっと悪感おかんを覚えた。髪が逆立さかだつとまでは言えないが、けれども、なにか、異様にからだがしびれた。たしかに畏怖いふの感情である。人生の冷酷れいこく悪戯いたずらを、奇跡きせきの可能を、峻厳しゅんげん復讐ふくしゅうの実現を、深山の精気のように、きびしくはだに感じたのだ。しどろもどろになり、声までしわがれて、 「よく来たねえ。」まるで意味ないことをつぶやいた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖くちぐせになっているのかも知れぬ。

14

相手の女も、多少、興奮こうふんしている様子であった。男爵のその白痴はくちめいた寝言を、気にもとめず、 「新やんこそ、よくおいで下さいました。あたし、ゆっくりお話申しあげたいのですけれど、いま、とっても、いそがしいので、あ、そうそう、九時にね、新橋駅のまえでお待ち申しております。ほんの、ちょっとでよろしゅうございますから、あの、ほんとに、お願い申しあげます。おいやでしょうけれど、ほんとに。」あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願こんがんする有様には、真剣しんけんなものがあった。ひとにものをたのまれて、拒否きょひできるような男爵ではなかった。 「ああ、いいよ。いいとも。」

15

撮影さつえい所から退去して、電車にゆられながら、男爵だんしゃくは、ひどく不愉快ふゆかいであった。もとの女中と、新橋駅でうということが、いやらしく下品に感じられてならなかった。破廉恥はれんちであると思った。不倫ふりんでさえあると考えた。行こうか行くまいか、さんざまよった。行くことにきめた。約束を平気で破れるほど、そんなに強い男爵ではなかった。

16

九時に新橋駅で、小さいとみをさがし出して、男爵は、まるで、口もきかずに、ずんずん歩いた。とみは、ほとんどけるようにしてそのあとを追いながら、右から左から、かれの顔をのぞんでは、際限なくいろいろの質問を発した。おもに、故郷のことにいてであった。男爵は、もう八年以上も国へ帰らずにいるので、故郷のことは、さっぱり存じなかった。それゆえ、さあ、とか、あるいは、とか、すこぶるいい加減な返答をしてこらえていたがおしまいには、それもめんどうくさく、めちゃめちゃになって As you see など、英語が飛び出したりして、もう一刻も早く、おわかれしたくなって来た。そのうちに、とみは、へんなことを言いはじめた。 「あたし、なんでも知っててよ。新やんのこと、あたし、残らず聞いて知っています。新やん、あなたはちっとも悪いことしなかったのよ。立派なものよ。あたし、昔から信じていたわ。新やんは、いいひとよ。ずいぶんお苦しみなさいましたのね。あたし、あちこちの人から聞いて、みんな知っているわ。でも、新やん、勇気を出して、ね。あなたは、負けたのじゃないわ。負けたとしたら、それは、神さまに負けたのよ。だって、新やんは、神さまになろうとしたんだ。いけないわ。あたしだって、苦労したわよ。新やんの気持ちも、よくわかるわ。新やんは、ある瞬間しゅんかん、人間としての一ばん高い苦しみをしたのよ。うんと誇っていいわ。あたし、信じてる。人間だもの、誰だって欠点あるわ。新やん、ずいぶんいいことなさいました。てれちゃだめよ。自信もって、当然のお礼を要求していいのよ。新やん、どうして、立派なものよ。あたし、きたない世界にいるから、そのこと、よくわかるの。」

17

男爵は、夢みるようであった。何を女が、と、とみの不思議なささやきを無理に拒否きょひしようと努めた。底知れぬほどの敗北感が、このようなほのかな愛のよろこびにおいてさえ、この男を悲惨ひさんな不能者にさせていた。ラヴ・インポテンス。飼いらされた卑屈ひくつ。まるで、白痴はくちにちかかった。二十世紀のお化け。ひげあとの青い、奇怪きっかい嬰児えいじであった。

18

とみにとんと背中をされて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って座ったら、ほかの客が、ちらちら男爵をぬすみ見る。男爵を見るのではなかった。そんな貧弱な青年の恰好かっこうながめたって、なんのたのしみにもならない。とみを見るのである。ずいぶん有名な女優であった。男爵は、無趣味しゅみの男ゆえ、それを知らない。人々のその無遠慮ぶえんりょな視線に腹を立て、仏頂づらをしていた。 「それごらん。おまえが、そんな鳥の羽根なんかつけた帽子ぼうしをかぶっているものだから、みんな笑っているじゃないか。みっともないよ。ぼくは、女の銘仙めいせんの和服姿が一ばん好きだ。」

19

とみは笑っていた。 「何がおかしい。おまえは、へんに生意気になったね。さっきも僕がだまって聞いていると、いい気になって、婦人雑誌でたったいま読んで来たようなきざなことを言いやがる。僕は、おまえなんかになぐさめてもらおうとは思っていない。女は、もっと女らしくするがいい。不愉快ふゆかいだ。僕は、もうかえる。話なんて、ほかに何もないんだろう?」言っているうちに、わけのわからぬ、ひどい屈辱くつじょくを感じて来た。失敬なやつだ。僕を遊び仲間にしようとしている。おまえなんかに、たのしまれてたまるものか。すっと立ちあがって、ひとりさっさと資生堂を出た。とみは落ちついて、母のような微笑びしょうで、そのうしろ姿をながめていた。        二

20

男爵だんしゃくは、資生堂を出て、まっすぐに郊外こうがいの家へかえった。その郊外の小さい駅に降り立って、男爵は、やっと人ごこちを取りもどした。たすかった。まず、怪我けがなくてすんだ、とほっとしていた。自分の勇気ある態度を、ひそかにほめて、少しうっとりして、それから駅のまえの煙草たばこ屋から訪問客用のバットを十個買い求めた。こんな男は、自分をあらわにののしる人に心服し奉仕ほうしし、自分を優しくいたわる人には、えらく威張いばって蹴散けちらして、そうしてすましているものである。男爵は、けれども、その夜は、流石さすがに自分の故郷のことなど思い出され、とこの中で転輾てんてんした。

21

──私は、やっぱり、私の育ちをほこっている。なんとか言いながらも、私は、私の家を自慢じまんしている。厳粛げんしゅくな家庭である。もし、いま、私の手許てもとに全家族の記念写真でもあったなら、私はこの部屋の床の間に、その写真をかざって置きたいくらいである。人々は、それを見て、きっと、私をうらやむだろう。私は、瞬時しゅんじどんなに得意だろう。私は、その大家族の一人一人にいて多少の誇張こちょうをさえまぜて、そのえらさ、美しさ、誠実、恭倹きょうけんを、聞き手があくびを殺してうかべたなみだを感激のそれと思いちがいしながらもくことなくそれからそれと語りつづけるにちがいない。けれども、聞き手はついにたまりかねて、 「なるほど君は幸福だ。」と悲鳴に似た賛辞をていして私の自慢話をさえぎり、それから一つの質問を発する。「けれども、この写真には、君がはいっていないね。どうしたの?」

22

それに就いて、私は答える。 「それは、当りまえだ。僕は、二、三の悪いことをしたから、この記念写真にはいる資格がないのだ。それは、当りまえだ。ぼくには、とても、その資格がないのだ。」

23

現在は、私もまだ、こんな工合ぐあいで、私の家の人たちも、あれは、わがままで、うそつきで、だらしがないから、もっともっと苦労させてあげよう。つらくても、みんな、だまって見ていよう。あれは、根がそんなにおとった子ではないのだから、そのうち、きっと目がさめる。そう信じて、そうしてその日を待っている。私は、それを知っているから、死にたく思う苦しい夜々はあっても、夜のつぎには朝が来る、夜のつぎには朝が来る、と懸命けんめいに自分に言い聞かせて、どうにか生きび、努力している。三年後には、私も、きっと、その記念写真の一隅いちぐうに立たせてもらえる。私は、からだが悪いから、ひょっとしたら、その写真にいれてもらうまえに、死ぬかも知れない。そのときには、私の家の人たちは、その記念写真の右上に白い花環はなわで囲んだ私の笑顔を写しむ。

24

けれども、それは、三年、いやいや、五年十年あとのことになるかも知れない。私は田舎いなかでは、相当に評判がわるい男にちがいないのだから、家ではみんな許したくても、なかなかそうはいかない場合もあろう。とつぜん私が、そのわるい評判を背負ったままで、帰郷しなければならぬことが起ったら、どうしよう。私はともかく、それよりも、家の人たちは、どんなにつらい思いであろう。去年の秋、私の姉が死んだけれど、家からはなんの知らせもなかった。むりもないことと思い、私はちっとも、うらまなかった。けれども、もし、これは、めっそうもない、不謹慎ふきんしんきわまる、もし、ではあるが、もし、母がそうなったら、どうしよう。ひょっとしたら、私は、知らせてもらえるかも知れない。知らせてもらえなくても、私は、我慢がまんしなければいけない。それは、覚悟かくごしている。うらみには思わない。けれども、──やはり私にも虫のよいところがあって、あるいは、知らせてもらえるのではないかしら、とも思っているのである。そうして故郷へ呼びかえされる。私は、もう、十年ちかく、故郷を見ない。こっそり見に行きたくても、見ることを許されない。むりもないことなのだ。けれども、母のその場合、もし私が故郷へ呼びかえされたら、そのときには、どんなことが起るか。

25

それを考えてみたい。

26

電報が来る。私は困る。部屋の中をうろうろ歩きまわる。大いに困る。困って困ってうなるかも知れない。お金がないのである。動きがつかないのである。私の訪問客たちは、みんな私よりも貧しく、そうして苦しい生活をしているのだから、こんな場合でも、とても、たのむわけにはいかない。知らせることさえ、私は、苦痛だ。訪問客たちは、そんな、まさかのときでも、役に立たないことを私以上に苦痛に思うにちがいない。私は、訪問客たちに、無益のはじをかかせたくない。それはかえって、私にとって、もっともっと苦痛だ。私は、ふと、死のうかと思う。ほかのこととはちがう。母の大事に接して、しかもこのふしだらでは、とてもこれは、人間の資格がない。もう、だめだ、と思う、そのとき、電報為替かわせが来る。あによめからである。それにきまっている。三十円。私はそのとき、五十円ほしかった。けれども、それは欲である。五十円と言えば大金である。五十円あれば、どこかの親子五人が、たっぷりひとつきにこにこして暮せるのである。どこかの女の子の盲目もうもくにちかい重い眼病をさえ完全になおせるのである。あによめも、できればもっと多くを送りたかったのであろうが、あによめ自身、そんなにお金がままになるわけでもなし、ぎりぎりの精一ぱいのところにちがいないので、また、よしんば、もっと多額を送れても、そこはたくさんの近親たちの手前もあり、さまざまの苦しい義理があるのだから、私がその三十円を不足に思うなど、とんでもないことである。私は、三十円の為替を拝むにちがいない。

27

私は、服装のことで思いなやむ。久留米絣くるめがすりにセルのはかまが、私の理想である。かたぎの書生の服装が、私の家の人たちを、最も安心させるだろう。そうでなければ、ごくじみな背広姿がよい。色つきのワイシャツや赤いネクタイなど、この場合、極力けなければならぬ。私のいま持っている衣服は、あのだぶだぶのズボンとそれから、ねずみいろのジャンパーだけである。それっきりである。帽子ぼうしさえ無い。私は、そんな貧乏びんぼう画家か、ペンキ屋みたいな恰好かっこうして、今夜も銀座でお茶を飲んだのであるが、もし、この服装のままで故郷へ現われるものなら、家の人たちは、はずかしさに身も世もあらぬ思いをするであろう。私は、服装にいて困窮こんきゅうする。そうして奇妙きみょうな決心をする。借衣かりぎである。私は、並より少し背が低いほうなので、こういう場合でも、なにかと不便な思いをする。私と同じくらいの背丈せたけの人間が、これはおかしな言いかたであるが日本にひとりしかいない。それは、私の訪問客ではなく、つねに私のふしだらの、真実の唯一ゆいいつの忠告者であるのだが、その親友は、また、私よりも、ずっとひどい貧乏で、洋服一着あるにはあるけれど、たいていかれの手許てもとにはない。よそにあずけてあるのだ。私は三十円を持って、かの友人の許へけつけ、簡単にわけを話し、十円でもって、そのあずけてあるところから取りもどし、それから、シャツ、ネクタイ、帽子、靴下くつしたのはてまで、その友人から借りて、そうして、どうやら服装が調ととのうた。似合うも似合わぬもない、常識どおりの服装ができれば、感謝である。私の頭は大きいから、灰色のソフト帽は、ちょこんと頭に乗っかって悲惨ひさんである。背広は、無地のこん、ネクタイは黒、ま、普通ふつうの服装であろう。私は、あたふた上野駅にいそぐ。土産みやげは、買わないことにしよう。めいおい、いとこたちたくさんいるのであるが、みんなぜいたくなお土産にれているのだから、私が、こっそり絵本一冊差し出しても、ただ単に、私を気の毒に思うだけのことであろうし、また、その母たちがある種の義理から、この品物は受け取れませぬ、と私にきかえさなければならぬようなことでも起れば、いよいよたいへんである。私は、お土産を買わないことにしよう。切符きっぷを買って汽車に乗る。

28

故郷に着いて、ほとんど十年ぶりで田舎いなかの風物を見て、私は、歩きながら、泣くかも知れない。気を取り直して、家へはいる。トランクひとつさげていない自身の姿を、やりきれなく思う。家の中は、小暗く、しんとしている。あによめが、いちばんさきに私の姿を見つけるにちがいない。私は、すでに針のむしろの思いである。私は、阿呆あほうのような無表情にちがいない。ただ、ぬっとつっ立っている。あによめの顔には、たしかに、恐怖きょうふの色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚うすぎたない中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと怜悧れいりあまえていた、あのせぎすの高等学校の生徒であろうか。いやらしい、いやらしい。目は黄色くにごって、かみは薄く、額は赤黒く野卑やひにでらでら油光りしてくちびるは、ほおは、鼻は、──あによめは、あまりの恐怖に、わなわなふるえる。

29

母の病室。ああ、これは、やっぱり困ったことだ。どうにも想像の外である。私の空想は必ずむざんに適中する。おそろしい。考えてはならぬところだ。ここは、けよう。

30

私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそにとついでいる私のすぐの姉も、しのび足でついて出て来て、 「よく来たねえ。」低く低くそう言う。

31

私は、てもなく、嗚咽おえつしてしまうであろう。

32

この姉だけは、私をおそれず、私の泣きやむのを廊下ろうかに立ったままで、しずかに待っていてくれそうである。    「姉さん、ぼくは親不孝だろうか。」

33

──男爵だんしゃくは、そこまで考えて来て、頭から蒲団ふとんをかぶってしまった。久しぶりで、なみだを流した。

34

すこしずつ変っていた。言わば赤黒い散文的な俗物ぞくぶつに、少しずつ移行していたのである。それは、人間の意志による変化ではなかった。一朝めざめて、ある偶然ぐうぜんの事件を目撃もくげきしたことによって起った変化でもなかった。自然のが、五年十年の風が、雨が、少しずつ少しずつかれの姿を太らせた。一茎いっけいの植物に似ていた。春は花き、秋は紅葉する自然の現象と全く似ていた。自然には、かなわない。ときどきかれは、そうつぶやいて、みにくく苦笑した。けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレッシュな気配を身辺に感じることも、たまにはあった。人間はここからだな、そう漠然ばくぜんと思うのであるが、さて、さしあたっては、なんの手がかりもなかった。

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このごろは、かれも流石さすがに訪問客たちの接待に閉口を感じはじめていた。かれらの夜々の談笑におとなしく耳をかたむけているのではあるが、どうにもやり切れない思いのすることがあった。かれには、訪問客たちの卑屈ひくつにゆがめられているエゴイズムや、刹那せつな主義的な奇妙きみょう虚栄きょえいを非難したい気持ちはなかった。すべては弱さから、と解していた。この人たちは皆、自分の愛情の深さを持てあまし、そうして世間的には弱くて不器用なので、どこにも他に行くところがなくなって、そうしてぼくのところに来ているのだ、気の毒である。せめて僕だけでも親切にもてなしてやらなければいけない、とそう思っていたのである。ところが、このごろ、ふっとある種の疑念がわいて出た。なぜ、この人たちは働かないのかしら。たいへん素朴そぼくな疑念であった。求めて職が得られないならば、そのときには、純粋じゅんすいに無報酬ほうしゅう行為こういでもよい。つたなくても、努力するのが、正しいのではないのか。世の中は、それをしなければ、とても生きておれないほどきびしいところではないのか。生活の基本には、そんな素朴な命題があって、思考も、探美も、挨拶あいさつも、みんなその上で行われているもので、こんなに毎晩毎晩、同じように、寝そべりながら虚栄きょえいの挨拶ばかり投げつけ合っているのは、ずいぶんおろかな、また盲目もうもく的に傲慢ごうまんな、あさましいことではないのか。ここに集る人たちより、もっと高潔のたましいを持ち、もっと有識の美貌びぼうの人たちでも、ささやかな小さい仕事に一生、身をにしてもらせているのだ。あの活動写真の助手は、まだこの仲間では、いちばん正しい。それを、みんながあざけって、僕まで、あの人のはり切りに閉口したのは、これはよくなかった。はり切りという言葉は、これは下品なものではなかった。滑稽こっけいなものではなかった。ここに集る人たちは、みんな貧しく弱い。けれども、一時代のこの世の思潮が、この種の人たちを変にあまえさせて、不愉快ふゆかいなものにしてしまった。一体、いまの僕には、この人たちを親切にもてなすほどの余裕が、あるのかしら。僕だって今では、同じ様に、貧しく弱い。ちっともちがっていないじゃないか。それに、いまでは、ブルジョアイデオロギーの悪徳が、かつての世の思潮に甘やかされて育った所謂いわゆる「ブルジョア・シッぺル」たちの間にだけ残っているので、かえって滅亡めつぼうのブルジョアたちは、その廃頽はいたいの意識を捨てて、少しずつ起き直っているのではないか。それゆえに現代は、いっそう複雑に微妙びみょうな風貌をしているのではないか。弱いから、貧しいから、といって必ずしも神はこれを愛さない。その中にも、サタンがいるからである。強さの中にも善が住む。神は、かえってこれを愛する。

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そうは思いながらも、やっぱりかれもくだらない男であった。自信がなかった。訪問客たちを拒否きょひすることができなかった。おそろしかった。坊主ぼうず殺せば、と言われているが、弱い貧しい人たちを、いちどでも拒否したならば、その拒否した指の先からじりじりくさって、そうして七代のちまでたたられるような気さえしていた。結局ずるずる引きずられながら、かれは何かを待っていた。        三

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とみから手紙が来た。

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三日まえから沼津の海ヘロケーションに来ています。私は、波のしぶきをじっと見つめていると、きっとラムネが飲みたくなります。富士山を見ていると、きっと羊羹ようかんをたべたくなります。心にもない、こんなおどけを言わなければならないほど、私には苦しいことがございます。私も、もう二十六でございます。もう、あれから、十年にもなりますのね。ずいぶん勉強いたしました。けれども、なんにもなりませぬ。きょうはきりのようにこまかい雨が降っていて、撮影さつえいが休みなので、おとなりの部屋では、皆さん陽気にさわいでいます。私には、女優がむかないのかも知れません。お目にかかりたく、私は十六、十七、十八の三日間、休暇きゅうかをもらって置きますから、どの日でも、新介しんすけ様のお好きな日においで下さい。いっそ、私のきたないうちへおいで願えたら、どんなにうれしいことでしょう。別紙に、うちまでの略図かきました。こんな失礼なことを申して、ずかしくむしゃくしゃいたします。字が汚くて、くるしゅう存じます。一生の大事でございます。ぜひとも御相談いたしたく、ほかにたのむ身寄りもございませぬゆえ、厚かましいとは存じながら、お願い。   坂井新介様。              とみ。

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助監督じょかんとくのSさんからも、このごろおうわさうけたまわっております。男爵だんしゃくというニックネームなんですってね。おかしいわ。

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男爵は、寝床ねどこの中でそれを読んだ。はじめ、まず、笑った。ひどく奇怪きっかいに感じたのである。とみも、都会のモダンガールみたいに、へんな言葉づかいの手紙を書く、ということが、異様にものめずらしく、なかなか笑いがとまらなかった。けれども、ふっと、厳粛げんしゅくになってしまった。与えられることは、かたく拒否きょひできても、ものをたのまれて決していやと言えないのは、この種類の人物の宿命である。男爵は、別紙の略図というものを見た。撮影所の在るまちの駅から、さらに二つ向うの駅で下車することになっていた。行かなければならない。男爵は、暗い気持ちになって、しぶしぶ起きた。きょうは、十六日、きょうこれからすぐ出かけて、かたづけてしまおうと思った。なまけものほど、気がかりの当座の用事を一刻も早く片付けてしまいたがるものらしい。

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電車から降りて、見ると、これは撮影所のまちよりも、もっとひどい田舎いなかだった。一望の麦畑、麦は五、六寸ほどにびて、やわらかい緑色がけるように、これはエメラルドグリンというやつだな、と無趣味しゅみの男爵は考えた。歩いて五、六分、家は、すぐわかった。なかなかハイカラな構えの家だったので、男爵には、一驚いっきょうだった。呼鈴よびりんす。女中が出て来る。ばかなやつだな、役者になったからって、なにも、こんなにもったいぶることはない、と男爵は、あさましく思った。 「坂井ですが。」

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けばけばしいなりをして、眉毛まゆげり落した青白い顔の女中が、あ、と首肯うなずき、それから心得顔ににっといやしく笑って引きみ、ほとんどそれと入れちがいに、とみが銘仙めいせんを着て玄関に現われた。男爵だんしゃくには、その銘仙にも気付かぬらしく、おこるような口調で言った。 「用事って、なんだい。あんな手紙よこしちゃいけないよ。ぼくは、これでも、いそがしいのだからね。」 「ごめんなさいまし。」とみは、うやうやしくお辞儀じぎをして、「よくおいで下さいましたこと。」深い感動をさえ、顔にあらわしていた。

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男爵は、それをあごで答えて、 「いい家じゃないか。やあ、庭もひろいんだね。これじゃ、家賃も高いだろう。」有名な女優は、借家などにはいなかった。これはとみが、働いて自分でたてた家である。「虚栄きょえいか。ふん。むりしないほうがいいぞ。」男爵は、もっともらしい顔してそう言った。

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応接室に通され、かれは、とみから、その一生の大事なるものに就いて相談を受けた。とみは、ことしの秋になると、いまの会社との契約けいやくの期限が切れる、もうことし二十六にもなるし、この機会に役者をよそうと思う。田舎いなかの老父母は、はじめからとみをあきらめ、東京のとみのところに来るように、いくら言ってやっても、田舎のわずかばかりの田畑に恋着して、どうしても東京に出て来ない。ひとり弟がいるのだが、こいつが、父母の反対をし切って、六年まえに姉のとみのところへけつけて来て、いまは、私立の大学にかよっている。どうしたらいいでしょう。それが相談である。男爵は、あきれた。とみを、ばかでないかと疑った。 「ふざけるのも、いい加減にしたまえ。」あまりのばからしさに、男爵は警戒心けいかいしんさえ起して、多少よそ行きの言葉を使った。「どこがいったい、一生の大事なんです。結構な身分じゃないか。わざわざ僕は、遠いところからやって来たんだぜ。どこをどう、聞けばいいのだ。田舎のものたちが、おまえをあきらめて、全然交渉こうしょうをたっているのなら、それはそれでいいじゃないか。弟が、どうなったって、男だ。どうにかやって行くだろう。おまえに責任は無い。あとは、おまえの自由じゃないか。なんだ、ばかばかしい。」散々の不気嫌ふきげんであった。 「ええ、それが、」さびしそうに笑って、少し言いよどんでいたが、すっと顔をあげ、「あたし、結婚しようかと、思っていますの。」 「いいだろう。僕の知ったことじゃない。」 「は、」とみはおそれて首をちぢめた。「あの、それにいて、──」 「さっさと言ったらいいだろう。おまえは一たい僕をなんだと思ってんだい。むかしからおまえには、こんな工合ぐあいに、なんのかのと、僕にうるさくかまいたがるくせがあったね。よくないよ。ぼくには、からかわれているとしか思われない。」むやみに腹が立つのである。 「いいえ。決してそんな。」必死に打ち消し、「お願いがございます。ひとつ、弟に説いてやって下さるわけには、──」 「僕が、かい。何を説くんだ。」

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とみは、途方とほうにくれた人のように窓外の葉桜をだまってながめた。男爵だんしゃくも、それにならって、葉桜を眺めた。にが虫をみつぶしたような顔をしていた。とみは、ちょっとかたをすくめ、いまは観念したかおそろしく感動の無い口調で、さらさら言った。弟が、何かと理屈りくつを言って、とみの結婚に賛成してくれぬ。私立大学の、予科にかよっているのだが、少し不良で、このあいだも麻雀賭博マージャンとばくで警察にやっかいをかけた。あたしの結婚の相手は、ずいぶんまじめな、堅気かたぎの人だし、あとあと弟がそのお方に乱暴なことでも仕掛しかけたら、あたしは生きていられない。 「それは、おまえのわがままだ。エゴイズムだ。」とみの話の途中とちゅうで、男爵だんしゃくは大声出した。女性の露骨ろこつな身勝手があさましく、へんに弟が可哀かわいそうになって、義憤ぎふんをさえ感じた。「虫がよすぎる。ばかなやつだ。大ばかだ。なんだと思っていやがんだ。」男爵このごろ、こんなに立腹したことはなかった。怒鳴どなり散らしているうちに、身のたけ一尺のびたような、不思議なちからをさえ体内に感じた。

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あまりの剣幕けんまくに、とみのくちびるまでがあおくなり、そっと立ちあがって、 「あの。とにかく。弟に。」聞きとれぬほど低くとぎれとぎれに言い、身をひるがえして部屋から飛び出た。 「おうい、とみや。」十年まえに呼びつけていた口調が、ついそのまま出て、「僕は知らんぞ。」たいへんなさわぎになった。

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ドアが音も無くあいて、目の大きい浅黒い青年の顔が、そっと室内をのぞんだのを、男爵は素早く見とがめ、 「おい、君。君は、誰だ。」見知らぬひとに、こんな乱暴な口のききかたをする男爵ではなかったのである。

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青年は悪びれずに、まじめな顔して静かに部屋へはいって来て、 「坂井さんですか。僕は、くにでいちどお目にかかったことがございます。お忘れになったことと思いますが。」 「ああ、君は、とみやの弟さんですね。」 「ええ、そうです。何か僕に、お話があるとか。」

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男爵は覚悟かくごをきめた。 「あるよ。あるとも。言って置くけれどもね、僕は、いま、非常に不愉快ふゆかいなんだ。実に、どうにも、不愉快ふゆかいだ。君の姉さんは、あれは、ばかだよ。僕は、君の味方だ。ぼくは、ものをかくして置けないたちだから、みんな言っちまうがね、君の姉さんは、ちかく結婚したいっていうんだ。相手は、なかなか立派な人なんだそうだ。いや、それは、いいんだ。結構なことだ。僕の知ったことじゃない。けれども、そのあとがいけない。さもしい。なんのことはない、君を邪魔じゃまにしているんだ。僕は君を信じている。ひとめ見て僕には、わかる。君たち学生は、いや、僕だって同じようなものだが、努力の方針を見失っているだけだ。いや、その表現を失っているだけだ。学問の持って行きどころが無いじゃないか。世の中が、君たちのその胸の中にもれている誠実を理解してくれないだけのことだ。姉に捨てられたら、僕のとこに来い。一緒いっしょにやって行こう。なに、僕だって、いつまでもうろうろしているつもりはないのだ。僕は、こんな無益な侮辱ぶじょくを受けたことはない。女中の走り使いなんか、やらされて、たまるものか。だいいち、その相手の男なるものも、だらしないじゃないか。女房にょうぼうの弟ひとり養えなくて、どうする。」 「いいえ。僕は、」青年は、立ったまま、きっぱり言った。「養ってもらおうなどと思いません。ただ、僕を不潔なものとして、遠ざけようとする精神が、たまらないのです。僕にだって理想があります。」 「そうだ。そうとも。どうせ、そいつは、ろくな男じゃない。」言ってしまって、へどもどした。「いずれにもせよ、僕の知ったことじゃない。勝手にするがいい、と、とみやにそう言って置いてくれ。僕は、非常に不愉快だ。かえります。僕を、なんだと思ってんだ。いいえ、かえります。弟がそんなにいやなら、僕がひきとるとそう言って置いてくれ。」 「失礼ですが、」青年は、かえろうとする男爵だんしゃくのまえに立ちふさがり、低い声で言った。「養うの、ひきとるのと、そんな問題は、古いと思います。だい一あなたには、人間ひとり養う余裕ございますか。」男爵は、どぎもをかれた。思わず青年の顔を見直した。「自身の行為こうい覚悟かくごが、いま一ばん急な問題ではないのでしょうか。ひとのことより、まずご自分の救済をして下さい。そうして僕たちに見せて下さい。目立たないことであっても、僕たちは尊敬します。どんなにささやかでも、個人の努力を、ちからを、信じます。むかし、ばらばらに取りこわし、渾沌こんとんふちしずめた自意識を、単純に素朴そぼくに強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。いまごろ、まだ、自意識の過剰かじょうだの、ニヒルだのを高尚こうしょうなことみたいに言っている人は、たしかに無知です。」 「やあ。」男爵は、歓声かんせいに似たさけびをあげた。「君は、君は、はっきりそう思うか。」 「僕だけでは、ございません。自己の中に、アルプスのけんにまさる難所があって、それを征服せいふくするのに懸命けんめいです。僕たちは、それをしとげた人を個人英雄えいゆうという言葉で呼んで、ナポレオンよりも尊敬しております。」

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来た。待っていたものが来た。新しい、全く新しい次のジェネレーションが、少しずつ少しずつ見えて来た。男爵だんしゃくは、胸が一ぱいになり、しばらくは口もきけない有様であった。 「ありがとう。それは、いいことだ。いいことなんだ。ぼくは、君たちの出現を待っていたのです。好人物と言われて笑われ、ばかと言われて指弾しだんされ、廃人はいじんと言われて軽蔑けいべつされても、だまってこらえて待っていた。どんなに、どんなに、待っていたか。」

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言っているうちになみだがこぼれ落ちそうになったので、あわてて部屋の外に飛び出した。

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男爵がそのままげるようにして、とみの家を辞し去ってから、青年は、応接室のソファに、どっかとこしをおろし、ひとりでにやにや笑った。とみが、こっそりドアをあけて、はいって来た。 「作戦、図にあたれり。」不良青年は、煙草たばこの輪を天井てんじょうにむけていた。「なかなか、いいひとじゃないか。僕も、あのひと好きだ。姉さん、結婚してもいいぜ。苦労したからね。十年の恋、報いられたり。」

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とみは、涙をうかべ、小さく弟に合掌がっしょうした。

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男爵は、何も知らず、おそろしくいきごんで家へかえり、さて、別にすることもなく、思案の果、家の玄関へ、忙中ぼうちゅう謝客の貼紙はりがみをした。人生の出発は、つねにあまい。まず試みよ。破局の次にも、春は来る。桜のそのを取りかえすすべなきや。




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