秋風記

       太宰 治


     立ちつくし、
     ものを思へば、
     ものみなの物語めき、
          (生田長江いくたちょうこう

1

あの、私は、どんな小説を書いたらいいのだろう。私は、物語の洪水こうずいの中に住んでいる。役者になれば、よかった。私は、私の寝顔をさえスケッチできる。

2

私が死んでも、私の死顔を、きれいにお化粧けしょうしてくれる、かなしいひとだって在るのだ。Kが、それをしてくれるであろう。

3

Kは、私より二つ年上なのだから、ことし三十二才の女性である。

4

Kを、語ろうか。

5

Kは、私とは別段、血のつながりは無いのだけれど、それでも小さいころから私の家と往復して、家族同様になっている。そうして、いまはKも、私と同じ様に、「生れて来なければよかった。」と思っている。生れて、十年たたぬうちに、この世の、いちばん美しいものを見てしまった。いつ死んでも、いがない。けれども、Kは、生きている。子供のために生きている。それから、私のために、生きている。 「K、ぼくを、にくいだろうね。」 「ああ、」Kは、厳粛げんしゅくにうなずく。「死んでくれたらいいと思うことさえあるの。」

6

ずいぶん、たくさんの身内が死んだ。いちばん上の姉は、二十六で死んだ。父は、五十三で死んだ。末の弟は、十六で死んだ。三ばん目の兄は、二十七で死んだ。ことしになって、そのすぐ次の姉が、三十四で死んだ。おいは、二十五で、従弟いとこは、二十一で、どちらも私になついていたのに、やはり、ことし、相ついで死んだ。

7

どうしても、死ななければならぬわけがあるのなら、打ち明けておくれ、私には、何もできないだろうけれど、二人で語ろう。一日に、一語ずつでもよい。ひとつきかかっても、ふたつきかかってもよい。私と一緒いっしょに、遊んでいておくれ。それでも、なお生きてゆくあてがつかなかったときには、いいえ、そのときになっても、君ひとりで死んではいけない。そのときには、私たち、みんな一緒に死のう。残されたものが、可哀かわいそうです。君よ、知るや、あきらめのたみの愛情の深さを。

8

Kは、そうして、生きている。

9

ことしの晩秋、私は、格子縞こうしじまの鳥打ぼうをまぶかにかぶって、Kをおとずれた。口笛を三度すると、Kは、裏木戸をそっとあけて、出て来る。 「いくら?」 「お金じゃない。」

10

Kは、私の顔をのぞきこむ。 「死にたくなった?」 「うん。」

11

Kは、かるく下くちびるむ。 「いまごろになると、毎年きまって、いけなくなるらしいのね。寒さが、こたえるのかしら。羽織はおりないの? おや、おや、素足で。」 「こういうのが、いきなんだそうだ。」 「誰が、そう教えたの?」

12

私は溜息ためいきをついて、「誰も教えやしない。」

13

Kも小さい溜息をつく。 「誰か、いいひとがないものかねえ。」

14

私は、微笑びしょうする。 「Kとふたりで、旅行したいのだけれど。」

15

Kは、まじめに、うなずく。

16

わかっているのだ。みんな、みんな、わかっているのだ。Kは、私を連れて旅に出る。この子を死なせてはならない。

17

その日の真夜中、ふたり、汽車に乗った。汽車が動き出して、Kも、私も、やっと、なんだか、ほっとする。 「小説は?」 「書けない。」

18

まっくらやみの汽車の音は、トラタタ、トラタタ、トラタタタ。 「たばこ、のむ?」

19

Kは、三種類の外国煙草たばこを、ハンドバッグから、つぎつぎ取り出す。

20

いつか、私は、こんな小説を書いたことがある。死のうと思った主人公が、いまわのきわに、一本の、かおりの高い外国煙草を吸ってみた、そのほのかなよろこびのために、死ぬること、思いとどまった、そんな小説を書いたことがある。Kは、それを知っている。

21

私は、顔をあからめた。それでも、きざに、とりすまして、その三種類の外国煙草を、依怙贔屓えこひいきなく、一本ずつ、順々に吸ってみる。

22

横浜で、Kは、サンドイッチを買い求める。 「たべない?」

23

Kは、わざと下品に、自分でもりもり食べて見せる。

24

私も、落ちついて一きれほおばる。塩からかった。 「ひとことでも、ものを言えば、それだけ、みんなを苦しめるような気がして、むだに、くるしめるような気がして、いっそ、だまって微笑ほほえんでいれば、いいのだろうけれど、ぼくは作家なのだから、何か、ものを言わなければ暮してゆけない作家なのだから、ずいぶん、骨が折れます。僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかなにおいをずるだけでは、とても、がまんができません。突風とっぷうのごとく手折たおって、てのひらにのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、くちびるのあいだにんで、ぐしゃぐしゃにんで、き出して、下駄げたでもってみにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない。僕はこのごろ、ほんとうに、そう思うよ。僕は、あの、サタンではないのか。殺生石せっしょうせき。毒きのこ。まさか、吉田御殿ごてんとは言わない。だって、僕は、男だもの。」 「どうだか。」Kは、きつい顔をする。 「Kは、僕をにくんでいる。僕の八方美人はっぽうびじんを憎んでいる。ああ、わかった。Kは、僕の強さを信じている。僕の才を買いかぶっている。そうして、僕の努力を、ひとしれぬ馬鹿ばかな努力を、ごぞんじないのだ。らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない、このさるのかなしみ、わかる? ゆきあたりばったりの万人ばんにんを、ことごとく愛しているということは、誰をも、愛していないということだ。」

25

Kは、私のそでをひく。私の声は、人並はずれて高いのである。

26

私は、笑いながら、「ここにも、僕の宿命がある。」

27

湯河原ゆがわら。下車。 「何もない、ということ、うそだわ。」Kは宿のどてらに着換きがえながら、そう言った。「この、どてらのがらは、この青いしまは、こんなに美しいじゃないの?」 「ああ、」私は、つかれていた。「さっきの、らっきょうの話?」 「ええ、」Kは、着換えて、私のすぐ傍にひっそり座った。「あなたは、現在を信じない。いまの、この、刹那せつなを信じることできる?」

28

Kは少女のように無心に笑って、私の顔をのぞき込む。 「刹那は、誰の罪でもない。誰の責任でもない。それはわかっている。」私は、旦那だんな様のようにちゃんと座蒲団ざぶとんに座って、腕組うでぐみしている。「けれども、それは、ぼくにとって、いのちのよろこびにはならない。死ぬる刹那せつな純粋じゅんすいだけは、信じられる。けれども、この世のよろこびの刹那は、──」 「あとの責任が、こわいの?」

29

Kは、小さくはしゃいでいる。 「どうにも、あとしまつができない。花火は一瞬いっしゅんでも、肉体は、死にもせず、ぶざまにいつまでも残っているからね。美しい極光を見た刹那に、肉体も、ともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえば、たすかるのだが、そうもいかない。」 「意気地いくじがないのね。」 「ああ、もう、言葉は、いやだ。なんとでも言える。刹那のことは、刹那主義者に問え、だ。手をとって教えてくれる。みんな自分の料理法のご自慢じまんだ。人生への味付けだ。思い出に生きるか、いまのこの刹那に身をゆだねるか、それとも、──将来の希望とやらに生きるか、案外、そんなところから人間の馬鹿ばか利巧りこうのちがいが、できて来るのかも知れない。」 「あなたは、ばかなの?」 「およしよ、K。ばかも利巧もない。僕たちは、もっとわるい。」 「教えて!」 「ブルジョア。」

30

それも、おちぶれたブルジョア。罪の思い出だけに生きている。ふたり、たいへん興ざめして、そそくさと立ちあがり、手拭てぬぐい持って、階下の大浴場へ降りて行く。

31

過去も、明日も、語るまい。ただ、このひとときを、情にみちたひとときを、と沈黙ちんもくのうちに固く誓約せいやくして、私も、Kも旅に出た。家庭の事情を語ってはならぬ。身のくるしさを語ってはならぬ。明日の恐怖きょうふを語ってはならぬ。人の思惑おもわくを語ってはならぬ。きのうのはじを語ってはならぬ。ただ、このひととき、せめて、このひとときのみ、静謐せいひつであれ、と念じながら、ふたり、ひっそりからだを洗った。 「K、僕のおなかのここんとこに、傷跡きずあとがあるだろう? これ、盲腸もうちょうの傷だよ。」

32

Kは、母のように、やさしく笑う。 「Kのあしだって長いけれど、僕の脚、ほら、ずいぶん長いだろう? できあいのズボンじゃ、だめなんだ。何かにつけて不便な男さ。」

33

Kは、暗闇くらやみの窓を見つめる。 「ねえ、よい悪事って言葉、ないかしら。」 「よい悪事。」私も、うっとりつぶやいてみる。 「雨?」Kは、ふと、きき耳を立てる。 「谷川だ。すぐ、この下を流れている。朝になってみると、この浴場の窓いっぱい紅葉だ。すぐ鼻のさきに、おや、と思うほど高い山が立っている。」 「ときどき来るの?」 「いいえ。いちど。」 「死にに。」 「そうだ。」 「そのとき遊んだ?」 「遊ばない。」 「今夜は?」Kは、すましている。

34

私は笑う。「なあんだ、それがKの、よい悪事か。なあんだ。ぼくはまた、──」 「なに。」

35

私は決意して、「僕と、一緒いっしょに死ぬのかと思った。」 「ああ、」こんどは、Kが笑った。「わるい善行って言葉も、あるわよ。」

36

浴場のながい階段を、一段、一段、ゆっくりゆっくり上るごとに、よい悪事、わるい善行、よい悪事、わるい善行、よい悪事、わるい善行、……。

37

芸者をひとり、よんだ。 「私たち、ふたりで居ると、心中しそうで危いから、今夜は寝ないで番をして下さいな。死神が来たら、追っぱらうんですよ。」Kがまじめにそう言うと、 「承知いたしました。まさかのときには、三人心中というてもあります。」と答えた。

38

観世縒かんぜよりに火を点じて、その火の消えないうちに、命じられたものの名を言ってとなりの人に手渡てわたす、あの遊戯ゆうぎをはじめた。ちっとも役に立たないもの。はい。 「片方割れた下駄げた。」 「歩かない馬。」 「破れた三味線しゃみせん。」 「写らない写真機。」 「つかない電球。」 「飛ばない飛行機。」 「それから、──」 「早く、早く。」 「真実。」 「え?」 「真実。」 「野暮やぼだなあ。じゃあ、忍耐にんたい。」 「むずかしいのねえ、私は、苦労。」 「向上心。」 「デカダン。」 「おとといのお天気。」 「私。」Kである。 「ぼく。」 「じゃあ、私も、──私。」火が消えた。芸者のまけである。 「だって、むずかしいんだもの。」芸者は、素直にくつろいでいた。 「K、冗談じょうだんだろうね。真実も、向上心も、Kご自身も、役に立たないなんて、冗談だろうね。僕みたいな男だっても、生きている限りは、なんとかして、立派に生きていたいとあがいているのだ。Kは、ばかだ。」 「おかえり。」Kも、きっとなった。「あなたのまじめさを、あなたのまじめな苦しさを、そんなに皆に見せびらかしたいの?」

39

芸者の美しさが、よくなかった。 「かえる。東京へかえる。お金くれ。かえる。」私は立ちあがって、どてらをいだ。

40

Kは、私の顔を見上げたまま、泣いている。かすかに笑顔を残したまま、泣いている。

41

私は、かえりたくなかった。誰も、とめてはくれないのだ。えい、死のう、死のう。私は、着物に着換きがえて足袋たびをはいた。

42

宿を出た。走った。

43

橋のうえで立ちどまって、下の白い谷川の流れを見つめた。自分を、ばかだと思った。ばかだ、ばかだ、と思った。 「ごめんなさい。」ひっそりKは、うしろに立っている。 「ひとを、ひとをいたわるのも、ほどほどにするがいい。」私は泣き出した。

44

宿へかえると、とこが二つかれていた。私は、ヴェロナアルを一服のんで、すぐにねむったふりをした。しばらくして、Kは、そっと起きあがり、同じ薬を一服のんだ。

45

あくる日は、ひるすぎまで、床の中でうつらうつらしていた。Kはさきに起きて、廊下ろうかの雨戸をいちまいあけた。雨である。

46

私も起きて、Kと語らず、ひとりで浴場へ降りていった。

47

ゆうべのことは、ゆうべのこと。ゆうべのことは、ゆうべのこと。──無理矢理、自分に言いきかせながら、ひろい湯槽ゆぶねをかるく泳ぎまわった。

48

湯槽からい出て、窓をひらき、うねうね曲って流れている白い谷川を見おろした。

49

私の背中に、ひやと手を置く。裸身らしんのKが立っている。 「鶺鴒せきれい。」Kは、谷川の岸の岩に立ってうごいている小鳥を指さす。「せきれいは、ステッキに似ているなんて、いい加減の詩人ね。あの鶺鴒は、もっときびしく、もっとけなげで、どだい、人間なんてものを問題にしていない。」

50

私も、それを思っていたのだ。

51

Kは、湯槽ゆぶねにからだを、すべりこませて、 「紅葉もみじって、派手な花なのね。」 「ゆうべは、──」私が言いよどむと、 「ねむれた?」無心にたずねるKの目は、湖水のようにんでいる。

52

私は、ざぶんと湯槽に飛びみ、「Kが生きているうち、ぼくは死なない、ね。」 「ブルジョアって、わるいものなの?」 「わるいやつだ、と僕は思う。わびしさも、苦悩くのうも、感謝も、みんな趣味しゅみだ。ひとりよがりだ。プライドだけで生きている。」 「ひとのうわさだけを気にしていて、」Kは、すらと湯槽から出て、さっさとからだをきながら、「そこに自分の肉体が在ると思っているのね。」 「富めるものの天国に入るは、──」そう冗談じょうだんに言いかけて、ぴしとむち打たれた。「人なみの仕合せは、むずかしいらしいよ。」

53

Kはサロンで紅茶を飲んでいた。

54

雨のせいか、サロンはにぎわっていた。 「この旅行が、無事にすむと、」私は、Kとならんで、山の見える窓際まどぎわ椅子いすこしをおろした。「僕は、Kに何かおくり物しようか。」 「十字架じゅうじか。」そうつぶやくKの首は、細く、かよわく見えた。 「ああ、ミルク。」女中にそう言いつけてから、「K、やっぱりおこっているね。ゆうべ、かえるなんて乱暴なこと言ったの、あれ、芝居しばいだよ。僕、──舞台ぶたい中毒かも知れない。一日にいちど、何か、こう、きざに気取ってみなければ、気がすまないのだ。生きて行けないのだ。いまだって、ここにこうやって座っていても、死ぬほど気取っているつもりなのだよ。」 「恋は?」 「自分の足袋たびのやぶれが気にかかって、それで、失恋してしまった晩もある。」 「ねえ、私の顔、どう?」Kは、まともに顔をちか寄せる。 「どう、って。」私は顔をしかめる。 「きれい?」よそのひとのような感じで、「わかく見える?」

55

私は、なぐりつけたく思う。 「K、そんなに、さびしいのか。K、おぼえて置くがいい。Kは、良妻賢母けんぼで、それから、ぼくは不良少年、ひとのくずだ。」 「あなただけ、」言いかけたとき、女中がミルクを持って来る。「あ、どうも。」「くるしむことは、自由だ。」私は、熱いミルクをすすりながら、「よろこぶことも、そのひとの自由だ。」 「ところが、私、自由じゃない。両方とも。」

56

私は深い溜息ためいきをつく。 「K、うしろに五、六人、男がいるね。どれがいい?」

57

つとめ人らしい若いのが四人、麻雀マージャンをしている。ウイスキーソーダを飲みながら新聞を読んでいる中年の男が、二人。 「まんなかのが。」Kは、山々の面をいてあるいているきりの流れをながめながら、ゆっくりつぶやく。

58

ふりむいて、みると、いつのまにか、いまひとりの青年が、サロンのまんなかに立っていて、ふところ手のまま、入口の右すみにあるきく生花いけばなを見つめている。 「菊は、むずかしいからねえ。」Kは、生花の、なんとか流の、いい地位にいた。 「ああ、古い、古い。あいつの横顔、晶助しょうすけ兄さんにそっくりじゃないか。ハムレット。」その兄は、二十七で死んだ。彫刻ちょうこくをよくしていた。 「だって、私は男のひと、他にそんなに知らないのだもの。」Kは、ずかしそうにしていた。

59

号外。

60

女中は、みなに一枚一枚くばって歩いた。──事変以来八十九日目。上海シャンハイ包囲全く成る。敵軍潰乱かいらん全線に総退却たいきゃく

61

Kは号外をちらと見て、 「あなたは?」 「へい種。」 「私はこう種なのね。」Kは、びっくりするほど、大きい声で、笑い出した。「私は、山を見ていたのじゃなくってよ。ほら、この、目のまえの雨だれの形を見ていたの。みんな、それぞれ個性があるのよ。もったいぶって、ぽたんと落ちるのもあるし、せっかちに、せたまま落ちるのもあるし、気取って、ぴちゃんと高い音たてて落ちるのもあるし、つまらなそうに、ふわっと風まかせに落ちるのもあるし、──」

62

Kも、私も、くたくたにつかれていた。その日湯河原ゆがわらって熱海あたみについたころには、熱海のまちは夕靄ゆうもやにつつまれ、家家のは、ぼっと、ともって、心もとなく思われた。

63

宿について、夕食までに散歩しようと、宿の番傘ばんがさを二つ借りて、海辺に出て見た。雨天のしたの海は、だるそうにうねって、冷いしぶきをあげて散っていた。ぶあいそな、なげやりの感じであった。

64

ふりかえって、まちを見ると、ただ、ぱらぱらとが散在していて、 「こどものじぶん、」Kは立ちどまって、話かける。「絵葉書に針でもってぷつぷつ穴をあけて、ランプの光にかしてみると、その絵葉書の洋館や森や軍艦ぐんかんに、きれいなイルミネエションがついて、──あれを思い出さない?」 「ぼくは、こんなけしき、」私は、わざと感覚のにぶい言いかたをする。「幻灯げんとうで見たことがある。みんなぼっとかすんで。」

65

海岸通りを、そろそろ歩いた。「寒いね。お湯にはいってから、出て来ればよかった。」 「私たち、もうなんにもしいものがないのね。」 「ああ、みんなお父さんからもらってしまった。」 「あなたの死にたいという気持、──」Kは、しゃがんで素足のどろきながら、「わかっている。」 「僕たち、」私は十二、三才の少年の様にあまえる。「どうして独力で生活できないのだろうね。さかなやをやったって、いいんだ。」 「誰も、やらせてくれないよ。みんな、意地わるいほど、私たちを大切にしてくれるからね。」 「そうなんだよ、K。僕だって、ずいぶん下品なことをしたいのだけれど、みんな笑って、──」魚る人のすがたが、目にとまった。「いっそ、一生、釣りでもして、阿呆あほうみたいに暮そうかな。」 「だめさ。魚の心が、わかりすぎて。」

66

ふたり、笑った。 「たいてい、わかるだろう? 僕がサタンだということ。僕に愛された人は、みんな、だいなしになってしまうということ。」 「私には、そう思えないの。誰もおまえをにくんでいない。偽悪趣味ぎあくしゅみ。」 「あまい?」 「ああ、このお宮の石碑せきひみたい。」路傍ろぼうに、金色夜叉こんじきやしゃの石碑が立っている。 「僕、いちばん単純なことを言おうか。K、まじめな話だよ。いいかい? 僕を、──」 「よして! わかっているわよ。」 「ほんとう?」 「私は、なんでも知っている。私は、自分がおめかけの子だってことも知っています。」 「K。ぼくたち、──」 「あ、危い。」Kは私のからだをかばった。

67

ばりばりと音たててKのかさが、バスの車輪にひったくられて、つづいてKのからだが、水泳のダイヴィングのようにすらっと白く一直線に車輪の下に引きずりこまれ、くるくるっと花の車。 「とまれ! とまれ!」

68

私は丸太棒でがんと脳天をなぐられた思いで、激怒げきどした。ようやくとまったバスの横腹を力まかせに蹴上けあげた。Kはバスの下で、雨にたたかれた桔梗ききょうの花のように美しくしていた。この女は、不仕合せな人だ。 「誰もさわるな!」

69

私は、気を失っているKをきあげ、声を放って泣いた。

70

ちかくの病院まで、Kを背負っていった。Kは小さい声で、いたい、いたい、と言って泣いていた。

71

Kは、病院に二日いて、けつけて来たうちの者たちと一緒いっしょに、自動車で、自宅へかえった。私は、ひとり、汽車でかえった。

72

Kの怪我けがはたいしたこともないようだ。日に日に快方に向っている。

73

三日まえ、私は、用事があって新橋へ行き、かえりに銀座を歩いてみた。ふとある店のかざり窓に、銀の十字架じゅうじかの在るのを見つけて、その店へはいり、銀の十字架ではなく、店のたなの青銅の指輪を一個、買い求めた。その夜、私のふところには、雑誌社からもらったばかりのお金が少しあったのである。その青銅の指輪には、黄色い石で水仙すいせんの花がひとつ飾りつけられていた。私は、それをKあてに送った。

74

Kは、そのおかえしとして、ことし三歳になるKの長女の写真を送って寄こした。私はけさ、その写真を見た。




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