I can speak

       太宰 治

1

くるしさは、忍従にんじゅうの夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさのえか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷ろうこうの内に、見つけし、となむ。

2

わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食むいとしょくして、そのうちに、何か、歌でなく、言わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべきみちすこしずつ、そのおのれの作品によって知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。

3

昨年、九月、甲州こうしゅう御坂峠みさかとうげ頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と御坂みさか木枯こがらしつよい日に、勝手にひとりで約束した。

4

ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざまよった。自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒はかいのような気がして、峠のうえで、途方とほうに暮れた。甲府へ降りようと思った。甲府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫だいじょうぶすごせると思った。

5

甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって座ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。

6

おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳かたむける。下宿と小路こうじひとつへだて製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、うたうのだ。なかにひとつ、際立きわだっていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。けい群の一鶴いっかく、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場のへいをよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。

7

ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげましてくれたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、投文なげぶみしようかとも思った。

8

けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心のうたを、私のお礼が、かえってにごらせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。

9

恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場の小路こうじで、酔漢すいかんあらい言葉が、突然とつぜん起った。私は、耳をすました。

10

──ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を飲んだからって、おらあ笑われるような覚えはえ。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒ないしょで、こっそり夜学へかよっているんだ。えらくならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征しゅっせいするんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。うそだよ、まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English? Yes,I can. いいなあ、英語ってやつは。姉さん、はっきり言ってくれ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……

11

私は、障子しょうじを少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。

12

季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場のへいにひたと背中をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り出し、った弟を、見つめている。

13

月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。I can speak というその酔漢の英語が、くるしいくらい私をった。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これにりて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。

14

あの夜の女工さんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。ちがうだろうね。




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太宰治全作品集 1
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