燈籠

       太宰 治

1

言えば言うほど、人は私を信じてくれません。うひと、会うひと、みんな私を警戒けいかいいたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていっても、なにしに来たというような目つきでもってむかえてくれます。たまらない思いでございます。

2

もう、どこへも行きたくなくなりました。すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇ゆうやみの中に私のゆかたが白くうかんで、おそろしく目立つような気がして、死ぬるほど当惑とうわくいたしました。きのう、きょう、めっきりすずしくなって、そろそろセルの季節にはいりましたから、早速さっそく、黒地の単衣ひとえ着換きがえるつもりでございます。こんな身の上のままに秋も過ぎ、冬も過ぎ、春も過ぎ、またぞろ夏がやって来て、ふたたび白地のゆかたを着て歩かなければならないとしたなら、それは、あんまりのことでございます。せめて来年の夏までには、この朝顔の模様のゆかたをおくすることなく着て歩ける身分になっていたい、縁日えんにちの人ごみの中を薄化粧うすげしょうして歩いてみたい、そのときのよろこびを思うと、いまから、もう胸がときめきいたします。

3

ぬすみをいたしました。それにちがいはございませぬ。いいことをしたとは思いませぬ。けれども、──いいえ、はじめから申しあげます。私は、神様にむかって申しあげるのだ、私は、人をたよらない、私の話を信じられる人は、信じるがいい。

4

私は、まずしい下駄屋げたやの、それも一人娘でございます。ゆうべ、お台所に座って、ねぎを切っていたら、うらの原っぱで、ねえちゃん! と泣きかけて呼ぶ子供の声があわれに聞えて来ましたが、私は、ふっと手を休めて考えました。私にも、あんなにしたって泣いて呼びかけてくれる弟か妹があったならば、こんなわびしい身の上にならなくてよかったのかも知れない、と思われて、ねぎのにおいのみる目に、熱いなみだいて出て、手のこうで涙をいたら、いっそうねぎの匂いに刺され、あとからあとから涙が出て来て、どうしていいかわからなくなってしまいました。

5

あの、わがまま娘が、とうとう男ぐるいをはじめた、と髪結かみゆいさんのところからうわさが立ちはじめたのは、ことしの葉桜のころで、なでしこの花や、あやめの花が縁日の夜店に出はじめて、けれども、あのころは、ほんとうに楽しゅうございました。水野さんは、日が暮れると、私を迎えに来てくれて、私は、日の暮れぬさきから、もう、ちゃんと着物を着かえて、お化粧もすませ、何度も何度も、家の門口かどぐちを出たりはいったりいたします。近所の人たちは、そのような私の姿を見つけて、それ、下駄屋のさき子の男ぐるいがはじまったなど、そっと指さしささやかわして笑っていたのが、あとになって私にもわかってまいりました。父も母も、うすうす感づいていたのでしょうが、それでも、なんにも言えないのです。私は、ことし二十四になりますけれども、それでもおよめに行かず、おむこさんも取れずにいるのは、うちの貧しいゆえもございますが、母は、この町内での顔ききの地主さんのおめかけだったのを、私の父と話合ってしまって、地主さんの恩を忘れて父の家へけこんで来て間もなく私を産み落し、私の目鼻立ちが、地主さんにも、また私の父にも似ていないとやらで、いよいよ世間をせまくし、一時はほとんど日陰者ひかげものあつかいを受けていたらしく、そんな家庭の娘ゆえ、縁遠えんどおいのもあたりまえでございましょう。もっとも、こんな器量では、お金持の華族かぞくさんの家に生れてみても、やっぱり、縁遠いさだめなのかも知れませぬけれど。それでも、私は、私の父をうらんでいません。母をもうらんでおりませぬ。私は、父の実の子です。誰がなんと言おうと、私は、それを信じております。父も母も、私を大事にしてくれます。私もずいぶん両親を、いたわります。父も母も、弱い人です。実の子の私にさえ、何かと遠慮えんりょをいたします。弱いおどおどした人を、みんなでやさしく、いたわらなければならないと存じます。私は、両親のためには、どんな苦しいさびしいことにでも、しのんでゆこうと思っていました。けれども、水野さんと知り合いになってからは、やっぱり、すこし親孝行をおこたってしまいました。

6

申すもはずかしいことでございます。水野さんは、私より五つも年下の商業学校の生徒なのです。けれども、おゆるし下さい。私には、ほかに仕様がなかったのです。水野さんとは、ことしの春、私が左の目をわずらって、ちかくの眼医者へ通って、その病院の待合室で、知り合いになったのでございます。私は、ひとめで人を好きになってしまうたちの女でございます。やはり私と同じように左の目に白い眼帯がんたいをかけ、不快げにまゆをひそめて小さい辞書のペエジをあちこちってしらべておられる御様子は、たいへんお可哀かわいそうに見えました。私もまた、眼帯のために、うつうつ気がうっして、待合室の窓からそとのしいの若葉をながめてみても、椎の若葉がひどい陽炎かげろうに包まれてめらめら青く燃えあがっているように見え、外界のものがすべて、遠いお伽噺とぎばなしの国の中に在るように思われ、水野さんのお顔が、あんなにこの世のものならず美しくとうとく感じられたのも、きっと、あの、私の眼帯の魔法まほうが手伝っていたと存じます。

7

水野さんは、みなしなのです。誰も、しんみになってあげる人がないのです。もとは、仲々の薬種問屋で、お母さんは水野さんが赤んぼうのころになくなられ、またお父さんも水野さんが十二のときにおなくなりになられて、それから、うちがいけなくなって、兄さん二人、姉さん一人、みんなちりぢりに遠い親戚しんせきに引きとられ、末子の水野さんは、お店の番頭さんに養われることになって、いまは、商業学校に通わせてもらっているものの、それでもずいぶん気づまりな、わびしい一日一日を送っておられるらしく、私と一緒いっしょに散歩などしているときだけが、たのしいのだ、とご自分でもしみじみそうおっしゃっていたことがございます。身のまわりにいても、いろいろとご不自由のことがあるらしく、ことしの夏、お友達と海へ泳ぎに行く約束をしちゃったとおっしゃって、それでも、ちっとも楽しそうな様子が見えず、かえって打ちしおれておられて、その夜、私はぬすみをいたしました。男の海水着を一枚盗みました。

8

町内では、一ばん手広くあきなっている大丸の店へすっとはいっていって、女の簡単服をあれこれえらんでいるふりをして、うしろの黒い海水着をそっと手繰たぐり寄せ、わきの下にぴったりかかえこみ、静かに店を出たのですが、二三けんあるいて、うしろから、もし、もし、と声をかけられ、わあっと、大声発したいほどの恐怖きょうふにかられて気違きちがいのように走りました。どろぼう! という太いわめき声を背後うしろに聞いて、がんとかたを打たれてよろめいて、ふっとりむいたら、ぴしゃんとほおなぐられました。

9

私は、交番に連れて行かれました。交番のまえには、黒山のように人がたかりました。みんな町内の見知った顔の人たちばかりでした。私のかみはほどけて、ゆかたのすそからは膝小僧ひざこぞうさえ出ていました。あさましい姿だと思いました。

10

おまわりさんは、私を交番のおくたたみいてあるせまい部屋に座らせ、いろいろ私に問いただしました。色が白く、細面の、金縁きんぶち眼鏡めがねをかけた、二十七、八のいやらしいおまわりさんでございました。ひととおり私の名前や住所や年齢ねんれいたずねて、それをいちいち手帖てちょうに書きとってから、急ににやにや笑いだして、

11

──こんどで、何回めだね?

12

と言いました。私は、ぞっと寒気を覚えました。私には、答える言葉が思いうかばなかったのでございます。まごまごしていたら、牢屋ろうやへいれられる。重い罪名を負わされる。なんとかしてうまく言いのがれなければ、と私は必死になって弁解の言葉をさがしたのでございますが、なんと言い張ったらよいのか、五里霧中むちゅうをさまよう思いで、あんなにおそろしかったことはございません。さけぶようにして、やっと言い出した言葉は、自分ながら、ぶざまな唐突とうとつなもので、けれども一こと言いだしたら、まるできつねにつかれたようにとめどもなく、おしゃべりがはじまって、なんだかくるっていたようにも思われます。

13

──私を牢へいれては、いけません。私は悪くないのです。私は二十四になります。二十四年間、私は親孝行いたしました。父と母に、大事に大事に仕えて来ました。私は、何が悪いのです。私は、ひとさまから、うしろ指ひとつさされたことがございません。水野さんは、立派なかたです。いまに、きっと、おえらくなるおかたなのです。それは、私に、わかっております。私は、あのおかたにはじをかかせたくなかったのです。お友達と海へ行く約束があったのです。人並の仕度したくをさせて、海へやろうと思ったんだ、それがなぜ悪いことなのです。私は、ばかです。ばかなんだけれど、それでも、私は立派に水野さんを仕立したててごらんにいれます。あのおかたは、上品な生れの人なのです。他の人とは、ちがうのです。私は、どうなってもいいんだ、あのひとさえ、立派に世の中へ出られたら、それでもう、私はいいんだ、私には仕事があるのです。私をろうにいれては、いけません、私は二十四になるまで、何ひとつ悪いことをしなかった。弱い両親を一生懸命けんめいいたわって来たんじゃないか。いやです、いやです、私を牢へいれては、いけません。私は牢へいれられるわけはない。二十四年間、努めに努めて、そうしてたった一晩、ふっと間違まちがって手を動かしたからって、それだけのことで、二十四年間、いいえ、私の一生をめちゃめちゃにするのは、いけないことです。まちがっています。私には、不思議でなりません。一生のうち、たったいちど、思わず右手が一尺うごいたからって、それが手癖てくせの悪い証拠しょうこになるのでしょうか。あんまりです、あんまりです。たったいちど、ほんの二、三分の事件じゃないか。私は、まだ若いのです。これからの命です。私はいままでと同じようにつらい貧乏びんぼうぐらしを辛抱しんぼうして生きて行くのです。それだけのことなんだ。私は、なんにも変っていやしない。きのうのままの、さき子です。海水着ひとつで、大丸さんに、どんな迷惑めいわくがかかるのか、人をだまして千円二千円しぼりとっても、いいえ、一身代つぶしてやって、それで、みんなにほめられている人さえあるじゃございませんか。牢はいったい誰のためにあるのです。お金のない人ばかり牢へいれられています。あの人たちは、きっと他人をだますことの出来ない弱い正直な性質なんだ。人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、あんなばかげたことをして、二円、三円を強奪ごうだつして、そうして五年も十年も牢へはいっていなければいけない、はははは、おかしい、おかしい、なんてこった、ああ、ばかばかしいのねえ。

14

私は、きっとくるっていたのでしょう。それにちがいございませぬ。おまわりさんは、あおい顔をして、じっと私を見つめていました。私は、ふっとそのおまわりさんを好きに思いました。泣きながら、それでも無理して微笑ほほえんで見せました。どうやら私は、精神病者のあつかいを受けたようでございます。おまわりさんは、はれものにさわるように、大事に私を警察署へ連れていって下さいました。その夜は、留置場にとめられ、朝になって、父がむかえに来てくれて、私は、家へかえしてもらいました。父は家へ帰る途中とちゅう、なぐられやしなかったか、と一言そっと私にたずねたきりで、他にはなんにも言いませんでした。

15

その日の夕刊を見て、私は顔を、耳まで赤くしました。私のことが出ていたのでございます。万引にも三分の理、変質の左翼さよく少女滔々とうとう美辞麗句びじれいく、という見出しでございました。恥辱ちじょくは、それだけでございませんでした。近所の人たちは、うろうろ私の家のまわりを歩いて、私もはじめは、それがなんの意味かわかりませんでしたが、みんな私のさまのぞきに来ているのだ、と気付いたときには、私はわなわなふるえました。私のあの鳥渡ちょっとした動作が、どんなに大事件だったのか、だんだんはっきりわかって来て、あのとき、私のうちに毒薬があれば私は気楽に飲んだことでございましょうし、ちかくに竹藪たけやぶでもあれば、私は平気で中へはいっていって首をったことでございましょう。二、三日のあいだ、私の家では、店をしめました。

16

やがて私は、水野さんからもお手紙いただきました。

17

──ぼくは、この世の中で、さき子さんを一ばん信じている人間であります。ただ、さき子さんには、教育が足りない。さき子さんは、正直な女性なれども、環境かんきょうにおいて正しくないところがあります。僕はそこの個所かしょを直してやろうと努力して来たのであるが、やはり絶対のものがあります。人間は、学問がなければいけません。先日、友人とともに海水浴に行き、海浜かいひんにて人間の向上心の必要について、ながいこと論じ合った。僕たちは、いまにえらくなるだろう。さき子さんも、以後は行いをつつしみ、おかした罪の万分の一にてもつぐない、深く社会に陳謝ちんしゃするよう、社会の人、その罪をにくみてその人を憎まず。水野三郎。(読後かならず焼却しょうきゃくのこと。封筒ふうとうもともに焼却して下さい。必ず。)

18

これが、手紙の全文でございます。私は、水野さんが、もともと、お金持の育ちだったことを忘れていました。

19

針のむしろの一日一日がすぎて、もう、こんなにすずしくなってまいりました。今夜は、父が、どうもこんなに電灯が暗くては、気が滅入めいっていけない、と申して、六畳間じょうまの電球を、五十しょくのあかるい電球と取りかえました。そうして、親子三人、あかるい電灯の下で、夕食をいただきました。母は、ああ、まぶしい、まぶしいといっては、はし持つ手を額にかざして、たいへんき浮きはしゃいで、私も、父におしゃくをしてあげました。私たちのしあわせは、所詮しょせんこんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電灯をともした私たちの一家が、ずいぶん綺麗きれいな走馬灯のような気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。




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変更終了:平成14年2月