あさましきもの

       太宰 治


賭弓のりゆみに、わななくわななく久しうありて、はづしたる矢の、もてはなれてことかたへ行きたる。


1

こんな話を聞いた。

2

たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」とつぶやいて、うつむいた。うれしそうであった。「ぼくの意志の強さを信じてくれるね?」男の声も真剣しんけんであった。娘はだまって、こっくり首肯うなずいた。信じた様子であった。

3

男の意志は強くなかった。その翌々日、すでに飲酒をした。日暮れて、男は蹌踉そうろう、たばこ屋の店さきに立った。 「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。真実わるい、と思っていた。娘は、笑っていた。 「こんどこそ、飲まないからね」 「なにさ」娘は、無心に笑っていた。 「かんにんして、ね」 「だめよ、お酒飲みの真似まねなんかして」

4

男のいは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」 「たんと、たんと、からかいなさい」 「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」

5

あらためて娘のひとみ凝視ぎょうしした。 「だって」娘は、にごりなき笑顔で応じた。「ちかったのだもの。飲むわけないわ。ここではお芝居しばいおよしなさいね」

6

てんから疑ってくれなかった。

7

男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐じゅっかいして、行儀ぎょうぎよく紅茶を一口すすった。

8

また、こんな話も聞いた。

9

どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかったという。ひとけなき夜の道。女は、息もたえだえの思いで、幾度いくどとなくどうをくねらせた。けれども、大学生は、レインコオトのポケットに両手をつっこんだまま、さっさと歩いた。女は、その大学生のいかったかたに、おのれの丸いやわらかな肩をこすりつけるようにしながら男の後を追った。

10

大学生は、頭がよかった。女の発情を察知していた。歩きながらささやいた。 「ね、この道をまっすぐに歩いていって、三つ目のポストのところでキスしよう」

11

女は、からだを固くした。

12

一つ。女は、死にそうになった。

13

二つ。息ができなくなった。

14

三つ。大学生は、やはりどんどん歩いて行った。女は、そのあとを追って、死ぬよりほかはないわ、とつぶやいて、わが身が雑巾ぞうきんのように思われたそうである。

15

女は、私の友人の画家が使っていたモデル女である。花の衣服をするっといだら、おまもり袋が首にぷらんとさがっていたっけ、とその友人の画家が苦笑していた。

16

また、こんな話も聞いた。

17

その男は、はなはだ身だしなみがよかった。鼻をかむのにさえ、両手の小指をつんとそらして行った。洗練されている、と人もおのれも許していた。その男が、ある微妙びみょうな罪名のもとに、ろうへいれられた。牢へはいっても、身だしなみがよかった。男は、左肺を少し悪くしていた。

18

検事は、男を、病気も重いことだし、不起訴ふきそにしてやってもいいと思っていたらしい。男は、それを見抜みぬいていた。一日、男を呼び出して、訊問じんもんした。検事は、机の上の医師の診断書に目を落しながら、 「君は、肺がわるいのだね?」

19

男は、突然とつぜんせきにむせかえった。こんこんこん、と三つはげしく咳をしたが、これは、ほんとうの咳であった。けれども、それからさらに、こん、こん、と二つ弱い咳をしたが、それは、あきらかにうその咳であった。身だしなみのよい男は、その咳をしすましてから、なよなよとこうべをあげた。 「ほんとうかね」能面に似た秀麗しゅうれいな検事の顔は、薄笑うすわらいしていた。

20

男は、五年の懲役ちょうえきを求刑されたよりも、みじめな思いをした。男の罪名は、結婚詐欺さぎであった。不起訴ということになって、やがて出牢できたけれども、男は、そのときの検事の笑いを思うと、五年のちの今日こんにちでさえ、いても立ってもいられません、と、やはり典雅てんがに、なげいて見せた。男の名は、いまになっては、少し有名になってしまって、ここには、わざと明記しない。

21

弱く、あさましき人の世の姿を、冷く三つ列記したが、さて、そういう乃公だいこう自身は、どんなものであるか。これは、かの新人競作、幻灯げんとうのまちの、なでしこ、はまゆう、椿つばき、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一編たるべき運命の不文、知りつつも濁酒どぶろくごうを得たくて、ペン百かんつえよりも重き思い、しのびつつ、ようやく六枚、あきらかにこれ、破廉恥はれんち市井しせい売文のともがら、あさましとも、はずかしとも、ひとりでは大家のような気でおれど、誰も大家と見ぬぞ悲しき。一笑。




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