二十世紀旗手

       太宰 治

       ──(生れて、すみません。)

     序唱 神のほのお苛烈かれつを知れ

1

苦悩くのうたかきがゆえに尊からず。これでもか、これでもか、生垣いけがきへだてたる立葵たちあおいの二株、おたがい、高い、高い、ときそってびて、伸びて、ひょろひょろ、いじけた花の二、三輪、あかき色の華美かびほこりし昔わすれ顔、黒くしなびた花弁のしわもかなしく、「九天たかき神の園生そのう、われは草鞋わらじのままにてあがりこみ、たしかに神域おかしたてまつりて、けれどもおそれず、この手でただいま、御園の花を手折たおって来ました。そればかりでは、ない。神の昼寝の美事な寝顔までも、これ、この目で、たしかにのぞき見してまいりましたぞ。」などと、旗取り競争第一着、駿足しゅんそくの少年にも似たる有頂天うちょうてんの姿には、いまだ愛くるしさも残りて在り、見物人も微笑びしょう、もしくは苦笑もて、ゆるしていたが、一夜、この子は、相手もあろに氷よりも冷い冷い三日月さまにれられて、あやしくくるい、「神も私も五十歩百歩、大差ござらぬ。あの日、三伏さんぷく炎熱えんねつ、神もまたオリンピック模様の浴衣ゆかたいちまい、うでまくりのお姿でござった。」聞くもの大笑せぬはなく、意外、望外の拍手はくしゅ大喝采だいかっさい。ああ、かの壇上だんじょうの青黒き皮膚ひふ痩狗そうくそのままに、くちばし突出とっしゅつ、身のたけひょろひょろと六尺にちかき、かたち老いたる童子、実は、れいの高い高いの立葵の精は、この満場の拍手、叫喚きょうかん怒涛どとうを、目に見、耳に聞き、この現象、すべて彼が道化どうけ役者そのままの、おかしの風貌ふうぼうゆえとも気づかず、ぶくぶくの鼻うごめかして、いまは、まさしく狂喜きょうき、目のいろ、いよいよ奇怪きっかいに燃え立ちて、「今宵七夕こよいたなばたまつりにえて宣言、私こそ神である。九天たかくおわします神は、来る日も来る日も昼寝のみ、まったくの怠慢たいまん。私いちど、しのび足、かれの寝所にすべんで神のかんむり、そっとこの大頭おおあたませてみたことさえございます。神罰しんばつなんぞ恐れんや。はっはっは。いっそ、その罰、拝見したいものではある!」予期の喝采、起らなかった。しんとなった。つづいてざわざわの潮ざい、「身のほど知らぬふざけたやつ。」「神さま、これこそ夢であるように。きゃっ! この劇場にはねずみがいますね。」「賎民せんみんの増長傲慢ごうまん、これで充分じゅうぶんとの節度を知らぬ、いやしき性よ、ああ、あのかお、ふためと見られぬ雨蛙あまがえる。」一瞬いっしゅん、はっし! なかば喪心そうしんの童子の鼻柱めがけて、石、投ぜられて、そのとき、そもそも、かれの不幸のはじめ、おのれの花の高さほこらむプライドのみにて仕事するから、このような、痛い目に会うのだ。芸術は、旗取り競争じゃないよ。それ、それ。きたない。鼻血。見るがいい、君の一点の非なき短編集「晩年」とやらの、冷酷れいこく、見るがいい。傑作けっさくのお手本、あかはだか苦しく、どうかがま穂敷ほしきつめた暖き寝所つくって下さいね、とねむられぬ夜、蚊帳かやのそとに立って君へお願いして、寒いのであろう、二つ三つ大きいくしゃみ残して消え去った、とか、いうじゃないか。わが生涯しょうがいの情熱すべてこの一巻に収め得たぞ、と、ほっと溜息ためいきもらすまも無し、ばつだ、罰だ、神の罰か、市民の罰か、困難不運、愛憎あいぞう転変、かの黄金のかんむりを誰知るまいとこっそりかぶって鏡にむかい、にっとひとりで笑っただけの罪、けれども神はゆるさなかった。君、神様は、天然の木枯こがらしと同じくらいに、いやなものだよ。峻厳しゅんげん執拗しつよう、わが首すじおさえては、ごぼごぼしずめて水底わせ、人の子まさに溺死できしせんとの刹那せつな、すこし御手ゆるめ、そっとかせていただいての目うれしく、ほうと深い溜息、せめて、五年ぶりのこの陽を、なお念いりにおがみましょうと、両手合せた、とたん、首筋の御手のちから加わりて、また、また、五百何十回めかの沈下ちんか泥中でいちゅうかめの子のお家来になりに沈んでゆきます。身を捨ててこそ浮ぶ瀬あるものでして、と苦労人の忠告、その忠告は、まちがっています。いちど沈めば、ぐうとそれきり沈みきりに沈んで、まさに、それっきりのぱあ、浮ぶお姿、ひとりでもあったなら、拝みたいものだよ。われより若き素直の友に、この世のまことの悪を教えむものと、座り直したときには、すでに、神の目、ぴかと光りて御左手なるタイムウオッチ、そろそろ沈下の刻限を告げて、「ああ、また、また、五年は水の底、ふたたびお目にかかれますかどうか。」神の胴間声どうまごえ、「用意!」「こいしくば、たずねきてみよ、みずの底、ああ、せめて、もう一言、あの、──」聞ゆるは、ただ、波の音のみにて。
     壱唱いっしょう ふくろうのく夜かたわの子うまれけり

2

さいさきよいぞ。いま、壱唱、としたためて、まさしく、奇跡きせきあらわれました。ニッケル小型五銭だまくらいの豆スポット。朝日が、いまだあけ放たぬ雨戸の、釘穴をくぐって、ちょうど、この、「壱唱」の壱の字へ、さっと光を投入したのだ。奇跡だ、奇跡だ、握手あくしゅ、ばんざい。ばからしく、あさまし、くだらぬさわぎやめて、神聖の仕事はじめよ。はいと答えて、みち問えば、女、おしなり、かれ野原。問うだけ損だよ、めくらめっぽう、私はひとり行くのだと悪ふざけしている間に、ゼラチンそろそろかたまって、何か一定の方向を指示してくれないものでもない、心もとなきつえをたよりに、一人二役のけ合いまんざい、孤立こりつの身の上なれども仲間大勢のふりして、かつうたい、且かたり、むずかしき一編のロマンスの周囲を、およそ百日のあいだ、ぬき足、さし足、カナリヤねらう黒きひとみれたる小猫こねこの様にて、そろりそろり、めぐりあるいて、およろこび下さい、ようやく昨夜、語る糸口見つけましたぞ、お茶を一ぱい飲んで、それから、ゆっくり。

3

お話のまえに、一こと、おことわりして置きたいこと、ほかではございませぬ、ここには、私すべてを出し切っていませんよ、という、これはまた、おそろしく陳腐ちんぷの言葉、けれどもこれは作者の親切、正覚坊しょうがくぼう甲羅こうらほどの氷のかけら、どんぶりこ、どんぶりこ、のどかに海上ながれて来ると、老練の船長すかさずさっと進路をかえて、危い、危い、き当ったら沈没ちんぼつ、氷山の水中にかくれてある部分は、そうですねえ、あのまんじゅうかさくらいのものにしたところで、水の中の根は、河馬かば五匹の体積、充分じゅうぶんにございます。きみもまた、まこと、われを知りたく思ったときには、わが家たずねてわれと一週間ともに起居して、ねむるまも与えぬわがそよぐ舌の盛観にしたしく接し、そうして、太宰の能力、それも十分の一くらい、やっと、さぐり当てることができるのじゃないか、とこの言葉の、ほぼ正確なることを信じてよろしい。一語はっするということは、すなわち、二、三千の言葉をがす冷酷れいこくむざんの損失を意味しております。そうして、以上の、われにも似合わぬ、幼き強がりの言葉の数々、すべてこれ、わが肉体滅亡めつぼうの予告であること信じてよろしい。二度とふたたびおいできぬだろう心もとなさ、言わば私のゴルゴタ、けば髑髏されこうべ、ああ、この荒涼こうりょうの心象風景への明確なる認定が言わせた老いのりごと。れいの、「いのち」の、もてあそびではない。すでに神のばつうけて、与えられたる暗たんの命数にしたがい、今さら誰をうらもう、すべては、おのれひとりの罪、この小説書きながらも、つくづくと生き、もて行くことのものく、まったくもって、ささの葉のしも、いまは、せめて佳品かひんの二、三もつくりお世話になったやさしき人たちへの、わが分相応のささやかなお礼奉公ぼうこう、これぞ、かの、死出の晴着のつもり、夜々、ねむらず、心くだいてつづり重ねし一編のロマンス、よし、下品のできであろうと、もうそのときは私も知らない。罪、誕生の時刻に在り。
     唱 段数漸減ぜんげんの法

4

だんだん下に落ちて行く。だんだん上にのぼったつもりで、得意満面、扇子せんすをさっとひらいて悠々ゆうゆう涼を納めながらも、だんだん下に落ちて行く。五段落して、それから、さっと三段あげる。人みな同じ、五段おとされたこと忘れ果て、三段の進級、おめでとう、おめでとうと言いかわして、だらしない。十年ほどって一夜、おやおや? と不審ふしん、けれどもその時は、もうおそい。にがく笑って、これが世の中、とつぶやいて、きれいさっぱりあきらめる。それこそは、世の中。
     さん唱 同行二人

5

巡礼じゅんれいしようと、なんど真剣しんけんに考えたか知れぬ。ひとり旅して、菅笠すげがさには、同行二人と細くしたためて、私と、それからもう一人、道づれの、その、同行の相手は、姿見えぬ人、うなだれつつ、わが背後にしずかにつきしたがえるもの、水の精、嫋々じょうじょうかげくちびる赤き少年か、ねずみいろの明石あかし着たる四十のマダムか、レモン石鹸せっけんにて全身の油を洗い流して清浄せいじょうの、やわらかき乙女おとめか、誰と指呼しこできぬながらも、やさしきもの、同行二人、わが身に病いさえなかったなら、とうの昔、よきの鈴もちていわくありげの青年巡礼、かたちだけでも清らにまして、まず、誰さん、なにがしさん、おいとまいにお宅の庭さきに立ちて、ちりりんと鈴の音にさえわが千万無量のかなしみこめて、庭にしげれる一木一草、これが今生こんじょうの見納め、断絶の思いくるしく、泣き泣き巡礼、秋風と共に旅立ち、いずれは旅の土にめられるおのが果なきさだめ、手にとるように、ありありと、わかっております。そうして、そのうちに、私は、どうやら、おぼつかなき恋をした。名は言われぬ。恋をした素ぶりさえ見せられぬ、くるしく、──口くさっても言われぬ、──不義。もう一言だけ、告白する。 私は、巡礼志願の、それから後に恋したのではないのだ。わが胸のおもい、消したくて、消したくて、巡礼思いついたにすぎないのです。私のほっしていたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼しんらいしくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒にった。
     四唱 信じて下さい

6

東郷平八郎の母上は、わが子のまくらもと歩かなかった。この子は、将来きっと百千の人のかしらに立つ人ゆえ、かならず無礼あってはならぬと、わが子ながらも尊敬、つつしみ、つつしみ、奉仕ほうしした。けれども、わが家の事情は、ちがっていた。七ツ、八ツのころより私ずいぶんわびしく、客間では毎夜、祖母をかしらに、母、それから親戚しんせきのもの二、三ちらほら、夏と冬には休暇きゅうかの兄や姉、ときどき私の陰口かげぐちたたいて、私が客間のまえの廊下ろうかとおったときに、「いまから、あんなにできるのは、中学、大学へはいってから急に成績落ちるものゆえ、あまりめないほうがよろしい。」など、すぐ上の兄のふんべつくさき言葉、ちらと小耳にはさんで、おのれ! 親兄弟みんなたばになって、七ツのおれをいじめている、とひがんでしまって、そのころから、家族の客間の会議をきらって、もっぱら台所の石の炉縁ろぶちに親しみ、冬は、馬鈴薯ばれいしょの灰にめて焼いて、四、五の作男と一緒いっしょにたべた。一日わが孤立こりつの姿、黙視もくしねてか、ひとりの老婢ろうひ、わがかたに手を置き、へんな文句を教えてくれた。いわく、見どころがあって、稽古けいこがきびしすぎ。

7

不眠症ふみんしょうは、そのころから、芽ばえていたように覚えています。私のすぐ上の姉は、私と仲がよかった。私、小学四、五年のころ、姉は女学校、夏と冬と、年に二回の休暇きゅうかにて帰省のとき、姉の友人、萱野かやのさんという眼鏡めがねかけて小柄こがら、中肉の女学生が、よく姉につれられて、遊びに来ました。色白くふっくりふくれた丸ぽちゃの顔、おとがい二重、まつげ長くて、ねむっているときの他には、いつもくるくるお道化どうけものらしく微笑ほほえんでいる真黒い目、眼鏡とってぱしぱしまたたきながらぐようにして雑誌を読んでいる顔、くまの子のように無心に見えて、愛くるしく思いました。私より三つも年上だったのに。

8

もっとさきから、お目にかからぬさきから、私は、あなたのお名前知っていた。姉からの手紙には、こんなことが書かれていました。「梅組の組長さん、萱野アキさん、おまえがこうしてグミや、ほしもち、季節季節わすれず送ってよこすのを、ほめていました。やさしい弟さんを持って、仕合せね、とうらやんでいます。おまえの手紙の中の津軽なまり、仮名ちがいなかったなら、姉は、もっともっとたくさんのお友達に威張いばれるのに、ねえ、──」

9

あなたはあのころ、画家になるのだと言って、たいへん精巧せいこうのカメラを持っていて、ふるさとの夏の野道を歩きながら、パチリパチリだまって写真とる対象物、それが不思議に、私の見つけた景色けしきと同一、そっくりそのまま、北国の夏は、南国の初秋、まっかにふるえて杉の根株にまつわりついている一列のつたの葉に、私がちらと流し目くれた、とたんに、パチリとあなたのカメラのまばたきの音。私は、そのたびごとに小さい溜息吐ためいきつかなければならなかった。けれども一日、うらめしい思いに泣かされたことございました。そのころも、いまも、私やっぱり一村童、大正十年、カメラめずらしく、カメラ納めた黒鞁くろかわ胴乱どうらん、もじもじ恥じらいつつも、ぼくに持たせて、とたのんで肩にかつがせてもらって、青い浴衣ゆかたに赤いしぼり染めの兵古帯へこおびすがたのあなたのお供、その日、樹陰こかげでそっとネガのプレートあけて見て、そこには、ただ一色の乳白、首ふって不満顔、知らぬふりしてもとのさやにおさめていたのに、その夜の現像室は、阿鼻叫喚あびきょうかん、種板みごとに黒一色、無知の犯人たちまちばれて、その日より以後、あなたは私に、胴乱もたせてはくれなかった。わが既往きおうの失敗とがめず、もいちど信じてだまって持たせてくれたなら、私いのち投げてもプレート守ったにちがいない。また、あの頃に、かくれんぼ、あなたはおに、みんなかくれてしまうのを待つ間ひとり西洋間のソファに埋まり、つまらなそうに雑誌読んでいたゆえ、同じように、かくれんぼつまらない思いの私、かくれなければならぬ番の当の私、ところもあろうに、あなたのソファのかげにかくれた。いいよう、と遠く弟の声して、あなたは雑誌もったまま立っていってさがしに出かけた。知っている? わすれているだろうな。すぐに、みんな捜し出されて、ぞろぞろ西洋間へひきあげて、「おさむさんは、まだだよ。」
「いいえ。そのソファのかげにいます。」

10

私はソファのかげからあらわれた。あなたは、知っている? 冷くつぶやいた。「だって、あたしはおにだもの。」

11

二十年、私は鬼を忘れない。先日、浅田夫人恋の三段飛という見出しの新聞記事を読みました。あなたは、二科の新人。有田教授の、──いや、いうまい。思えば、あのころ、十六才の夏から、あなたの眉間みけんに、きょうの不幸を予言する不吉のしわがございました。「お金持ちの人ほど、お金にあこがれるのね。お金かせいでこさえたことがないから、お金、とうとく、こわいのね。」あなたのお言葉、わすれていませぬ。公言ゆるせ。萱野かやのさん、あなたは私の兄に恋していました。

12

先夜、あの新聞の記事読んで、あなたのさびしさ思って三時間ほど、ひとりで蚊帳かやの中で泣いたものだ。一策なし、一計なし、純粋じゅんすいに、君のくるしみに、なみだながした。一銭の報酬ほうしゅういらぬ。その晩、あなたに、強くなってもらいたく、あなたの純潔信じているものの在ることお知らせしたく、あなたに自信もって生きてもらいたくて、ただ、それだけの理由で、おたよりしようと、インクびんのキルクのくちいて、つまずいた。福田蘭童らんどう、あの人、こんな手紙、女のひとへ幾枚いくまいも、幾枚も、書いたのだ。寸分すんぶんちがわぬ愛の手紙を。

     五唱 うそつきと言われるほどの律儀者りちぎもの

13

まちを歩けば、あれ嘘つきが来た。夕焼あかきかりの腹雲、両手、着物のやつくちに不精者ぶしょうものらしくつっこみ、おのおの固き乳房ちぶさをそっとおさえて、土蔵の白壁しらかべによりかかって立ちならんでいる一群の、それも十四、五、六の娘たち、たがいに目まぜ、こっくり首肯うなずき、くすぐったげに首筋ちぢめて、くつくつ笑う、その笑われるほどの嘘つき、この世の正直者ときわまった。今朝、ふるさとの新聞にて、なんとか家なる料亭りょうてい、けしからぬ宿をねて、それも歌舞伎かぶきのすっぽん真似まねてボタンひとつせば、電気仕掛じかけ、するすると大型ベッド出現のよし、読みながらき出した。あきらかに善人、女将おかみあるいはギャング映画の影響えいきょううけて、やがて、わが悪のはな、ひそかに実現はかったのではないのか、そんな大型の証拠しょうこ、つきつけられては、ばからしきくらいに絶体絶命、一言も弁解できないじゃないか、ばかだなあ、田舎いなかの悪人は、愛嬌あいきょうあって、たのもしいね。まこと本場の悪人は、不思議や、生き神、生き仏、良心あって、しっかりもの。しかも裏の事実は一人の例外なしに、堂々、不正の天才、おしゃかさんでさえ、これら大人物に対しては旗色わるく、えんなき衆生しゅじょう陰口かげぐちきいた。

     六唱 ワンと言えなら、ワンと言います
「前略。手紙で失礼ですがお願いいたします。本社発行の『秘中の秘』十月号に現代学生気質ともいうべき学生々活の内容を面白おもしろい読物にして、世の遊学させている父兄達に、なるほどと思わせるようなものをせたいと思うのです。で、代表的な学校、(帝大、早稲田わせだ慶応けいおう、目白女子大学、東京女子医専など)をえらび、毎月連載れんさいしたいと思います。ついては、先ず来月は帝大の巻にしたいと思いますが、貴方あなた様にお願いできないかと思うのです。四百字詰原稿づめげんこう十五枚前後、内容はリアルに面白くお願いしたいと存じます。締切しめきりは、かならず、厳守して頂きたいと存じます。はなはだ手紙で失礼ですが、ぜひ御承諾しょうだく下さって御執筆しっぴつのほど懇願こんがんいたします。『秘中の秘』編集部。」

「ははあ、蝙蝠こうもりは、あれは、むかし鳥獣ちょうじゅう合戦の日に、あちこち裏切って、ずいぶん得して、のち、仕組みがばれて、昼日中は、義理がわるくて外出できず、日没とともに、こそこそ出歩き、それでもやはりはにかんで、ずいぶんすさんだ飛びかたしている。そう、そう、忘れていました、たしかに、それに、ちがいない、いや、あなたのことではございませぬ。私内心うち明けて申しましょう。実は、どうも、わが身、きたなき蝙蝠と、そんなに変らぬ思いがして、どうにも、こうにも、閉口しているのです。生きて行くためには、パンよりも、さきに、葡萄酒ぶどうしゅる。三日ごはん食べずに平気、そのかわり、あの、にぎりの部分にトカゲの顔をかざりつけたる八円のステッキ買いたい。失恋自殺の気持ちが、このごろになってやっとわかってまいりました。花束を持って歩くことと、それから、この、失恋自殺と、二つながら、中学校、高等学校、大学まで、思うさえ背すじに冷水はしるほど、気ずかしき行為こういと考えていましたところ、このごろは、白き花一輪にさえほっと救いを感じ、わが、こいこがれる胸の思いに、気も遠くなり、世界がしんとなって、砂が音なくくずれるように私の命も消えてゆきそうで、どうにもきゅうしております。からだのやり場がございません。私は、すさんだ遊びを覚えました。そうして、金につまった。いまも、ふと、蚊帳かやの中の蚊を追い、わびしさ、ふるさとの吹雪ふぶきと同じくらいに猛烈もうれつ、数十じょうの深さの古井戸に、ひとり墜落ついらく、呼べどもさけべども、誰の耳にもとどかぬ焦慮しょうりょ青苔せいたいぬらぬら、聞ゆるはわが木霊こだまのみ、うつろの笑い、手がかりなきかと、なまづめはげて血だるまの努力、かかる悲惨ひさん孤独地獄こどくじごく、お金がほしくてならないのです。ワンと言えなら、ワン、と言います。どんなにも面白おもしろく書きますから、一枚五円の割でお金下さい。五円、もとより、いちどだけ。このつぎには、五十銭でも五銭でも、お言葉にしたがいますゆえ、何卒なにとぞ、いちど、たのみます。五円の稿料こうりょういただいても、けっしてご損おかけせぬていの自信ございます。拙稿せっこうきっと、支払しはらったお金の額だけ働いてくれることと存じます。四日、深夜。太宰治。」

拝復はいふく。四日深夜付貴簡拝誦きかんはいしょう。稿料の件は御希望にはえませんが原稿は直ちに御りかかり下さる様お願い申します。普通ふつう稿料一円です。まずは御返事まで。匆々そうそう。『秘中の秘』編集部。」

「お葉書拝読。四日深夜、を、ことさらに引用して、少し意地がわるい。全文のかげにて、ぷんぷんおいかりの御様子。私、おのれ一個のプライドゆえに五円をお願いしたわけではなかったのです。わが身ひとつのための貧欲にあらず、名知らぬ寒しき人に投げ与えむため、または、かのよき人よろこばせむための金銭の必要。けれども、いまは、せんなし。急に小声で、──それでは、書かせていただきます。太宰治。」

     七唱 わが日わが夢
          ──東京帝国大学内部、秘中の秘。──

(内容三十枚。全文省略カット。)

     八唱 憤怒ふんぬは愛欲の至高の形貌けいぼうにして、云々うんぬん

「ちょっと旅行していました留守に原稿やら、度々たびたびの来信に接して、失礼しました。が、原稿は相当ひどい原稿ですね。あれではいくらひいき目に見ても使えません。書き直してもらっても駄目だめかと思います。貴兄にとってはあれが力作かも知れませんが、当方ではあれでは迷惑めいわくですし、あれで原稿料を要求されても困ると思います。いずれ、貴兄に機会があればおびするとして取敢とりあえず原稿を御返却へんきゃくいたします。匆々。『秘中の秘』編集部。」

14

月のない闇黒あんこくの一夜、湖心の波、ひたひたと船の横腹をめて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然ぎょうぜん恐怖きょうふ地獄じごくの底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却ぼうきゃくし果てた、あの夜の寒い北風が、この一葉のハガキのすみからひょうひょうきすさびて、これだから家へかえりたくないのだ、三界に家なき荒涼こうりょうの心もてあまして、ふらふら外出、電車の線路ふみえて、野原を行き、田圃たんぼを行き、やがて、私のまだ見ぬ美しき町へ行きついた。

15

行くところなき思いの夜は、三十八度の体温を、アスピリンにて三十七度二、三分までさげて、停車場へ行き、三、四十銭の切符きっぷを買い、どこか知らぬ名の町まで、ふらと出かけて、そうして、そこの薄暗うすぐらき盛り場のろのろ歩いて、みちのかたわら、唐突とうとつの一本の松の枝ぶり立ちどまって見あげなどして、それから、ふところの本を売って、活動写真館へはいる。入口の風鈴の音わすれがたく、小用はたしながら、窓外の縁日えんにち、カアバイド灯のまわりの浴衣ゆかた着たる人の群ながめて、ああ、みんな生きている、と思ってなみだが出て、けれども、「泣かされました」など、つまらぬことだ、市民は、その生活の最頂点の感激を表現するのに、涙にかきくれたる様を告白して、人もおのれも深く首肯うなずき、おお、お、かなしかろ、と底の底まで、割り切れたるていにて落ちついているが、それでは、私は、どうする。一日一ぱい、人に知られず、くやし泣きに泣いてばかりいる、この私は、どうする。その日も、私は、市川の駅へふらと下車して、兄いもうと、という活動写真を見もてゆくにしたがい、そろそろ自身狼狽ろうばい、歯くいしばっても歔欷きょきの声、そのうちに大声出そうで、出そうで、小屋からまろび出て、思いのたけ泣いて泣いて泣いてから考えた。弱い、みにじられたる、いまさらうらみ言えた義理じゃない人の忍びにしのんで、こらえにこらえて、足げにされたる塵芥じんかいくさった女の、いまわのきわの一すじの、神への抗議、おもんの憤怒ふんぬが、私を泣かせた、ここを忘れてはならない、人の子、その生涯しょうがいに、三たび、まことに憤怒することあるべし、とモオゼのつぶやき。

16

どのような人でも、生きている限りは、立派に尊敬、要求すべきである。生あるもの、すべて世の中になくてかなわぬ重要の歯車、人を非難し、その人の尊さ、かれのわびしさ、理解できぬとあれば、作家、みごとに失格である。この世に無用の長物ひとつもなし。蘭童らんどうあるがゆえに、一女優のひとすじの愛あらわれ、菊池寛きくちかん海容かいようの人情たたえられ、または蘭童かかりつけの××の閨房けいぼうに御夫人感謝のつつましき白い花いた。

17

──お葉書、拝見いたしましたが、ぼくの原稿げんこう、どうし ても、──だめですか?

18

──ええ。だめですねえ。これ、ほかの人書いて下さった原稿ですが、こんなのがいいの です。リアルに、統計的に、とにかく、あなたの原稿、もういちど、読んでみて下さい。そうして、考えて下さい。

19

──ぼく、もとから、へたな作家なんだ。くやし泣きに、泣いて書くより他に、てを知ら なかった。

20

──失恋自殺は、どうなりました。

21

──電車賃かして下さい。

22

──…………。

23

──あてにして来たので、一銭もないのです。うちへかえればございます。すぐお返し できます。一円でも、二円でも。

24

──市内に友人ないのか。

25

──赤羽あかばねにおじさんおります。

26

──そんなら歩いてかえりたまえ。なんだい、君、すぐそこじゃないか。
ほりをぐるっとめぐって、参謀さんぼう本部のとこから、日比谷ひびやへ出て、それから新橋駅へ出て、赤羽は、その裏じゃないか。

27

──そうですか、──じゃ、──ありがとう。

28

──や、しっけい。また、あそびに来たまえ。そのうち、何か、うめ合せしよう、ね。

29

やっぱりおこれず、そのまま炎天えんてん都塵とじん、三度も、四度も、めまいして、自動車にひかれたく思って、どんどん道路横断、三里のみちを歩きながら、思うことには、人間すべて善玉だ。豪雨ごううの一夜、郊外こうがいどろ道、うようにして荻窪おぎくぼの郵便局へたどりついて一刻争う電報たのんだところ、いまはすでに時間外、規定の時を七分すぎております。料金倍額いただきましょう。私はたと困惑こんわくねずみのすがたのまま、思い設けぬこの恥辱ちじょくのために満身かっかっとほてって、のなくがごとき声して、いま所持のお金きっちり三十銭、私の不注意でございました。なんとか助けて下さい、と懇願こんがんしても、その三十才くらいの黄色い歯の出たせこけた老婆、ろくろく返事もなく、規則は規則ですからねえ、とつぶやいて、そろばんぱちぱち、あまりのことに私は言葉を失い、しょんぼり辞去いたしましたが、しのつく雨の中、こんなばかげたことがあろうか、まごうかたなき悪玉、私うまれてこのかた二十八年、あとにもさきにも、かの女事務員ひとり、他は、すべて、私と同じくらいの無心の善人でございました。いまのあの編集人の無礼も、かれの全然無警戒けいかいのしからしめた外貌がいぼうにすぎない。作家というものは、なんでもわかって、こちとらの苦しみすべて呑みこんでいるのだ、怒りたもうことなし、ときめてしまってあまえている。可愛さあまってにくさが百倍とは、このことであろうか、などと一文の金もなき言わば賎民せんみん、人相よく、ひとりで呟いてひとりで微笑ほほえんでいた。私は、この世の愚昧ぐまいたみを愛する。

     九唱 ナタアリヤさん、キスしましょう

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その翌、翌日、まえの日の賎民せんみんとはちがって、これは又、帝国ホテルの食堂、本麻ほんあさがすり、ろのはかま、白足袋たびの、まごうかたなき、太宰治。ふといロイド眼鏡めがねかけて、ことし流行とやらのオリンピックブルウのドレス着ている浅田夫人、幼な名は、萱野かやのさん。ふたりすずしげに談笑しながら食事していた。きのう、私、さいごの手段、相手もあろうに、萱野さんから、二百円、いや、じゅう紙幣しへい二十枚お借りした。資生堂二階のボックスでおいして、私が二百円と言いもおわらぬうちに、三度も四度もあわてて首肯うなずき、さっと他の話にさらっていった。二時間のち、同じところで二十枚のばいきんだらけのくしゃくしゃきたなき紙片、できるだけむぞうさに手交しゅこうして、宅のサラリイ前借りしたのよ、と小さく笑った萱野さんの、にっくきうそ、そんな端々はしばしにまで、私の燃ゆるひとみの火を消そうと警戒けいかい伏線ふくせん、私はそれを悲しく思った。その夜、花の都、ネオンの森とやらの、その樹樹きぎのまわりを、くぐりけ、すり抜け、むなしくぐるぐるけずりまわった。使えないのだ。どうしても、そのお金を使えないのだ。奴婢ぬひの愛。女中部屋のへりのない赤ちゃけたたたみ、びんつけ油のにおい、竹の行李こうりの底からはずかしき三徳さんとく出して、一枚、二枚とくしゃくしゃの紙幣、わが目前にならべられて与えられたような気がして、夜明けと共に、電話した。思いがけぬ大金ころがりこんで、お金お返しできますから、と事務的の口調で言って、場所は、帝国ホテル、と付け加えた。華麗豪壮かれいごうそうの、せめて、おわかれの場をつくりあげたかった。

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その日、快晴、談笑の数刻の後、私はお金をとり出し、昨夜の二十枚よりは、新しい、別な二十枚であることを言外ににおわせながら、しかも昨夜この女から受けとったままに、うちの三枚の片隅かたすみに赤インキのシミあったことに、はっと気づいて、もうおそい、萱野さん気づかぬように、気づかぬように、人知れぬ深いいのり、ミレエの晩鐘ばんしょうにおとらず深き、人生の幕のかげの祈り。 「萱野さん、かぞえて下さい。きちんとして置こうよ。気まずさも、一時の気まずさも、生きて行くために、どうしても必要なことなのだから。」

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言葉のままに、わかる女だ。こちらの気持ちを、そのまま正確にキャッチ、やや口ひきしめて首肯き、おぼつかなき風の手つきで、かぞえた。十七枚。ふと首かしげて、とっさに了解りょうかい薔薇ばら蘇生そせいした。ゆっくり真紅含羞がんしゅうの顔をあげて、私の、ずるい、平気な笑顔を見つけて、小娘のような無染の溜息ためいき、それでも、「むずかしいのねえ、ありがとう。」とかしこい一言、小声でいうのを忘れなかった。そうして、わかれた。一万五千円の学費つかって、学問して、そうして、おぼえたものは、ふたり、同じはげしき片思いのまま、やはりこのまま、わかれよ、という、味気ない礼儀れいぎ、むざんの作法。ああ、まこと、憤怒ふんぬは、愛欲の至高の形貌けいぼうにして、云々うんぬん

     十唱 あたしも苦しゅうございます

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おい、ふすまあけるときには、気をつけておくれ、いつ何時、敷居しきいにふらっと立っているか知れないから、と某日ぼうじつ、笑いながら家人に言いつけたところ、家人、何も言わず、私の顔をつくづく見つめて、あきらかにかれ、発狂はっきょうせむほどの大打撃だげき、口きけぬほどの恐怖きょうふくちびるまでまっしろになって、一尺、二尺、座ったままで後ずさりして、ついにはとなりの六じょうまで落ちのびて、はじめて人ごこち取りかえした様子、声を出さずに慟哭どうこくはじめた。家人の緊張きんちょうは、その日より今にいたるまで、なかなか解止せず、いつの間にやら衣紋竹えもんだけを全廃していた。なるほどな、とそのときはじめて気づいたことだが、かの衣紋竹にぞろっと着物かかっているかたちは、そっくり、あの姿そのままでございました。そのほかにも、かれ、蚊帳吊かやつるため部屋の四隅よすみに打ちこまれてある三寸くぎかばやと、もともと四尺八寸の小女、高所のくぎと背のびしながらの悪戦苦闘くとう、ちらと拝見したこともございました。

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いま庭の草むしっている家人の姿を、われ籐椅子とういすに寝ころんだまま見つめて、純白のホオムドレス、いよいよ看護婦に似て来たな、と可哀かわいそうに思っています。わが家の悪癖あくへき、かならず亭主ていしゅ早死はやじにして、一時は、曾祖母そうそぼ祖母おば、母、叔母、と四人の後家さんそろって居ました。わけても叔母は、二人の亭主を失った。

     終唱 そうして、このごろ

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芸術、もともとにぎやかな、華美かびの祭礼。プウシュキンもとより論を待たず、芭蕉ばしょう、トルストイ、ジッド、みんなすぐれたジャアナリスト、釣船つりぶねの中に在っては、われのみみのを着して船頭ならびに爾余じよの者とは自らかたち分明の心得わすれぬ八十才ちかき青年、××おうの救われぬ臭癖しゅうへき見たか、けれども、あれでよいのだ。芸術、もとこれ、不倫ふりんの申しわけ、──余談は、さて置き、萱野かやのさんとは、それっきりなの? ああ、どのようなロマンスにも、神をおそれぬ低劣ていれつの結末が、宿命的に要求される。悪かしこい読者は、はじめ五、六行読んで、そっと、結末の一行をのぞき読みして、ああ、まずいまずいと大あくび。よろしい、それでは一つ、しんじつ未曾有みぞう、雲散霧消むしょうの結末つくって、おまえのくさった腹綿をえくりかえさせてあげるから。

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そうして、それから、──私たちはあきらめなかった。帝国ホテルの黄色い真昼、たくをへだてて立ちあがり、にごりなき目で、つくづく相手のひとみを見合った。強くなれ、なれ。烈風れっぷう、衣服はおろか、骨も千切れよ、と私たち二人の身のまわりをすさぶ思い、見ゆるは、おたがいの青いマスク、ほかは万じょう黄塵こうじんに飲まれて一物もなし。この暴風に抗して、よろめきよろめき、たくしのけ、手をにぎり、うでつかみ、どういた。抱き合った。二十世紀の旗手どのは、まず、行為こういをさきにする。健全の思念は、そのあとから、ぞろぞろついて来てくれる。あまになるお光よりは、お染を、お七を、お舟を愛する。まず、試みよ。声の大なる言葉のほうが、「真理」に化す。ばか、と言われた時には、その二倍、三倍の大声で、ばか、と言い返せよ。論より証拠しょうこ、私たちの結婚をさまたげる何物もなかった。 「これが、おまえとの結婚ロマンス。すこし色艶いろつやつけて書いてみたが、もし不服あったら、その個所かしょだけ特別に訂正ていせいしてあげてもいい。」

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かの白衣の妻が答えた。 「これは、私ではございませぬ。」にこりともせず、きっぱり頭を横にった。「こんなひと、いないわ。こんな、ありもしない影武者かげむしゃつかって、なんとかして、ごまかそうとしているのね。どうしても、あのおかたのことは、お書きになれないお苦しさ、わかるけれど、他にも苦しい女、ございます。」

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だから、はじめから、ことわってある。名は言われぬ、恋をした素ぶりさえ見せられぬ、くるしく、──口くさっても言われぬ、──不義、と。

39

ああ、あざむけ、あざむけ。ひとたびあざむけば、君、死ぬるとも告白、ざんげしてはいけない。胸の秘密、絶対ひみつのまま、狡知こうち極致きょくち、誰にも打ちあけずに、そのまま息を静かにひきとれ。やがて冥途めいどとやらへ行って、いや、そこでもだまって微笑ほほえむのみ、誰にも言うな。あざむけ、あざむけ、たくみにあざむけ、神より上手じょうずにあざむけ、あざむけ。

40

もののみごとにだまされたまえ。人、七度の七十倍ほどだまされてからでなければ、まことの愛の微光びこうをさぐり当て得ぬ。うそ、わが身に快く、充分じゅうぶんに美しく、たのしく、しずかに差し出された美事のデッシュ、果実山盛り、だまって受けとり、たのしみたまえ。世の中、すこしでもにぎやかなほうがいいのだ。知っているだろう? 田舎芝居いなかしばい、菜の花畑に鏡立て、よしずで囲った楽屋の太夫たゆうに、十円の御祝儀ごしゅうぎ、こころみに差し出せば、たちまち表の花道にすみくろぐろと貼り出されていわく、一金壱千円也いっせんえんなり、書生様より。景気をつくる。はからずも、わが国古来の文学精神、ここにいた。

41

あの言葉、この言葉、三十にちかき雑記帳それぞれにくしゃくしゃ満載まんさい、みんな君への楽しきお土産みやげ、けれども非運、関税のべら棒に高くて、あたら無数の宝物、お役所の、青ペンキでりつぶされたるトタン屋根の倉庫へ、どさんとほうりまれて、ぴしゃんとじょうをおろされて、それっきり、以来、十箇月じっかげつ、桜の花吹雪はなふぶきより薮蚊やぶかを経て、しおから蜻蛉とんぼ、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着てちまたをうろつく師走しわすにいたり、やっと金策成って、それも、三十にちかき荷物のうち、もっとも安直の、ものの数ならぬ小さい小さいバスケット一個だけ、きらきら光る真鍮しんちゅうの、南京錠なんきんじょうぴちっとあけて、さて皆様の目のまえに飛び出したものは、おや、おや、これは慮外りょがい、百千の思念の小蟹こがに、あるじあわてふためき、あれを追い、これを追い、一行書いては破り、一語書きかけては破り、しだいに悲しく、たそがれの部屋のすみにてペンにぎりしめたまんま、めそめそ泣いていたという。




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太宰治全作品集 1
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変更終了:平成14年2月