創生記

       太宰 治


   ――愛ハシミナクウバウ。

1

太宰イツマデモ病人ノ感覚ダケニ興ジテ、高邁コウマイノ精神ワスレテハイナイカ、コンナ水族館ノめだかミタイナ、片仮名、読ミニククテカナワヌ、ナドト佐藤ジイサン、言葉ハイカリ、内心ウレシク、ドレドレ、ト眼鏡メガネカケナオシテ、エエト、ナニナニ?――海ノ底デネ、青イハカマハイタ女学生ガ昆布コブノ森ノ中、岩ニコシカケテ考エテイタソウデス、エエ、ホントニ。婦人雑誌ニ出テイタ、潜水夫センスイフタチノ座談会。ソノホカニモ水死人、サマザマノスガタデ考エテイルソウデス、白イ浴衣ユカタ着タ叔父オジサンガ、フトコロニ石ヲ一杯イッパイイレテ、ヤハリ海ノ底、砂地ヘドッカトアグラカイテ威張イバッテイタ。沈没チンボツシタ汽船ノ客室ノ、トビラヲアケタラ、五人ノ死人ガ、スットオクカラ出テ来タソウデス。ケレドモ、川ノ中ニイル水死人ハ、立ッタママ、男ハ、キマッテ、頭ヲマエニウナダレ、女ハ、コレモキマッテ、胸ヲ張リ、顔ヲ仰向アオムケニシテ、底ノ砂利ジャリニ、足ガ、カスカニレテイルクライ、スックトツマサキ立ッテイルソウデス、川ノ流レニシタガッテ、チョンチョン歩イテイルソウデス、丸マゲクズレヌヒトリノ女ハ、ゴム人形ダイテ歩イテイタ、ツカンデ見レバ、ソレハ人ノ乳房チブサフクンデネムッテイタ。

2

ココマデ書イテ、書ケナクナッタ。コンドハ、私ガ考エタ。カノ昆布ノ森ノ女学生ヨリモ、モット、シズカニ考エタ。四十日ホド考エタ。一日、一日、カク手ガ氾濫ハンランシテ来テ、何ヲ書イテモ、ドンナニ行儀ギョウギワルク書イテモ、ドンナニアマッタレテ書イテモ、ソレガ、ソンナニ悪イ文章デナシ、ヒトトオリ、マトマリ、ドウニカ小説、佳品カヒン、トシテノ体ヲシテイル様、コレハ危イ。スランプ。打チサエスレバ、カナラズ安打。走リサエスレバ、必ズ十秒四。十秒三、デモナケレバ、五デモナイ。スランプトハ、コノ様ナ、パッション消エタル白日ノ下ノ倦怠ケンタイ、真空管ノ中ノ重サ失ッタ羽毛、ナカナカ、ヤリキレヌモノデアル。時々刻々ノワガ姿、笑ッタ、オコッタ、マノワルキカッカッ燃ユルホオ、トウモロコシムシャムシャ、ヒトリシテメソメソ泣イテイル、スベテ記シテ、ノチノチノ弱キ、ケレドモ温キ若キ人ノタメニ、尊キ文字タルベキコト疑ワズ、ソコガソレ、スランプノモト。

3

もういい。太宰、いい加減にしたら、どうか。

4

過善症かぜんしょう

5

猛然もうぜん、書きたい朝が来る。その日まで待て。十年。おそしとせず。

6

彼失カレウシナワズ

7

ケサ、六時ロクジ林房雄氏ハヤシフサオシ一文イチブンンデ、ワタシカカナケレバナルマイトゾンジマシタ。多少タショウ悲痛ヒツウト、決断ケツダン、カノ小論ショウロン行間ギョウカンアラナガレテ清潔セイケツゾンジマシタ。文壇ブンダン、コノ四、五ネンナカッタコトダ。ヨキ文章ブンショウユエ、ワカ真実シンジツ読者ドクシャ、スナワチチテ、キミガタメ、マコト乾杯カンパイイタイッ! トビアガルホドノアツキ握手アクシュ

8

石坂氏イシザカシハダメナ作家サッカデアル。葛西善蔵先生カサイゼンゾウセンセイハ、旦那芸ダンナゲイウテフカ苦慮クリョシテマシタ。以来イライ十春秋ジッシュンジュウ日夜転輾ニチヤテンテン鞭影ベンエイキミヲコクシ、九狂一拝キュウキョウイッパイ精進ショウジン御懸念一掃ゴケネンイッソウノオ仕事シゴトシテラレルナラバ、ワタクシナニオウ、声高コエタカク、「アリガトウ」ト明朗メイロウ粛然シュクゼン謝辞シャジノミ。シカルニ、ゴロキミ、タイヘン失礼シツレイ小説ショウセツカイテラレル。家郷追放カキョウツイホウ吹雪フブキナカツマトワレ、三人サンニンヒシトイ、サダマラズ、ヨロヨロ彷徨ホウコウ衆人蔑視シュウジンベッシマトタル、誠実セイジツ小心ショウシン含羞ガンシュウ、オノレノヒャクウツクシサ、イチズ、高円寺コウエンジウロウロ、コーヒーンデ明日知アスシレヌ命見イノチミツメ、溜息タメイキホカ手段シュダンナキ、コレラ一万イチマン青年セイネンオモエ。貧苦ヒンクオススメシテイルノデハナイ。コレラ一万イチマン正直ショウジキ、シカモ、バカ、ウタガウコトサエラヌヨワヤサシキモノ、キミヲ畏敬イケイシ、キミノ五百枚ゴヒャクマイ精進ショウジン魂消タマシイキユルガゴトオドロキ、ハネキテ、兵古帯ヘコオビズルズルキズリナガラ書店ショテンケツケ、女房ニョウボウノヘソクリヌスンデ短銃買タンジュウカウガゴトキトキメキ、一読イチドク、ムセビイテ、三嘆サンタン、ワガクダラナクキタナカベ頭打アタマウチツケタキオモイ、アア、キミ姿スガタノミ燦然サンゼンマワリノハナ石坂君イシザカクン、キミハ鶴見祐輔ツルミユウスケワラエナイ。理解リカイノミ。生命イノチナシ。

9

ノッソリテ、ハエタタキノゴトク、バタットヤッテ、ウムヲワサヌ。五百枚ゴヒャクマイ良心リョウシンイマヨ、ナド匕首アイクチノゾカセタルテイノケチナ仇討アダウ精進ショウジン馬鹿バカテヨ。島崎藤村シマザキトウソン島木健作シマキケンサク出稼人根性デカセギニンコンジョウヤメヨ。フクロカツイデ見事ミゴト帰郷キキョウ被告ヒコクタル酷烈コクレツ自意識ジイシキダマスナ。ワレコソ苦悩者クノウシャ刺青イレズミカクシタ聖僧セイソウ。オ辞儀ジギサセタイ校長コウチョウサン。「ハナシ編集長ヘンシュウチョウチタイモノワラワレマイ努力ドリョク作家サッカドウシハ、片言満了ヘンゲンマンリョウ貴作キサクニツキ、御自身ゴジシン再検サイケンネガイマス。真偽看破シンギカンパ良策リョウサクハ、一作イッサクウシナエシモノノフカサヲハカレ。「二人殺フタリコロシタオヤモアル。」トカ。

10

ルヤ、キミ断食ダンジキクルシキトキニハ、カノ偽善者ギゼンシャゴトカナシキ面容オモモチヲスナ。コレ、カミゲン超人説チョウジントケル小心ショウシン恐々キョウキョウヒトワライナガラ厳粛ゲンシュクノコトヲカタレ、ト秀抜真珠シュウバツシンジュ哲人テツジンサケンデ自責ジセキ狂死キョウシシタ。自省直ジセイナオケレバ千万人センマンニンエドモ、―――イヤ、握手アクシュハマダマダ、ソノタテノウラノ言葉コトバヲコソ、「自省直ジセイナオカラザレバ、乞食コジキッテモ、赤面狼狽セキメンロウバイ被告ヒコク罪人ザイニン酒屋サカヤム。」

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カツテワタシハ、アイ哲人テツジン、ヘエゲルノデアッタ。哲学テツガクハ、ヘノアイデハナクテ、真実シンジツトシテ成立セイリツセシムベキサマ体系知タイケイチデアル、ヘエゲル先生センセイノコノ言葉コトバ一学兄イチガッケイオシエラレタ。的言マトイイアテルヨリハ、ワガ思念開陳シネンカイチン体系タイケイスジミチチテリ、アラワナル矛盾ムジュンモナシ、一応イチオウ首肯シュコウアタイスレバ、我事ワガコトオワレリ、白扇ハクセンサットヒライテ、スネノハラウ。「ナルホド、ソレモ一理屈ヒトリクツ。」日本ニッポン古来コライノコノ日常語ニチジョウゴガ、スベテヲカタリツクシテイル。首尾シュビ一貫イッカン秩序整然チツジョセイゼン。ケサノコノハシガキモマタ、純粋ジュンスイ主観的表白シュカンテキヒョウハクニアラザルコトハ、皆様承知ミナサマショウチ。プンクト、ナドノキミ気持キモチトオモアワセヨ。キュウキタクナクナッタ。

12

スベテノゲンタダシク、スベテノゲンウソデアル。所詮ショセンイカダウエンヅホツレツデアル、ヨロメキ、ヨロメキ、キミモ、ワタシモ、ソレカラ、マタ、林氏ハヤシシハゲシク一様イチヨウナガサレテルヨウダ。ナガレ、ヨドミテフチイカリテハ沸々フツフツカカリテハタキハテハ、ミナイツコントンノウミデアル。肉体ニクタイ死亡シボウデアル。キミノ仕事シゴトノコルヤ、ワレノ仕事シゴトノコルヤ。不滅フメツ真理シンリ微笑ホホエンデオシエル、「一長一短イッチョウイッタン。」ケサ、快晴カイセイ、ハネキテ、マコト、スパルタノ愛情アイジョウキミ右頬ミギホオフタツ、マタツ、ツヨツ。他意タイナシ。林房雄ハヤシフサオトイウ一陣涼風イチジンリョウフウニソソノカサレ、カレテナセルワザニスギズ。トリツク怒涛ドトウジツタノシキ小波サザナミ、スベテ、コレ、ワガイノチ、シバラクモビテミタイ下心シタゴコロ所為ショイ東京トウキョウノオリンピックテカラニタイ、読者ドクシャソウカトカルクウナズキ、フカキトガメダテ、シテハナラヌゾ。以上イジョウ

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山上の私語。 「おもしろく読みました。あと、あと、責任もてる?」 「はい。打倒だとうのために書いたのでございませぬ。ごぞんじでしょうか。憤怒ふんぬこそ愛の極点。」 「いかって、とくした人ないと古老のことばにもある。じたばた十年、二十年あがいて、古老のシンプリシティのあみの中。はははは。そうして、ふり仮名つけたのは?」 「はい。すこし、よすぎた文章ゆえ、わざと傷つけました。きざっぽく、どうしても子供のよろい、金糸銀糸。足ながばちの目さめるような派手はで縞模様しまもようは、蜂の親切。とげある虫ゆえ、気を許すな。この腹の模様めがけて、て、撃て。すなわち動物学の警戒色けいかいしょく先輩せんぱい、石坂氏への、せめて礼儀れいぎと確信ございます。」

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われとわが作品へ、一言の説明、半句の弁解、作家にとっては致命ちめい恥辱ちじょくふみいたらず、人いたらぬこと、深く責めて、他意なし、人をうらまず独り、われ、厳酷げんこくの精進、これわが作家行動十年来の金科玉条きんかぎょくじょう、苦しみの底に在りし一夜も、ひそかにわれをなぐさめ、しずかに微笑ほほえませたこと再三ならずございました。けれども、一夜、転輾てんてん、わが胸の奥底おくそこふかく秘め置きし、かの、それでもやっと一つ残し得たかなしい自矜じきょう、若きいのち破るとも孤城こじょう、まもりきますとバイロンきょうちかったおきて、苦しき手錠てじょう、重い鉄鎖てっさ、いま豁然かつぜん一笑、投げ捨てた。ぶた真珠しんじゅ、豚に真珠、未来永劫えいごう、ほう、真珠だったのか、おれはあざけって、はずかしい、など素直にわが過失みとめての謝罪どころか、おれはせんから知っていたねえ、このひと、ただの書生さんじゃないと見込みこんで、去年の夏、おれの畑のとうもろこし、七本ばっかくれてやったことがあります。まことは、二本。そのほか、処々の無知ゆえに情うす評定ひょうじょうの有様、手にとるがごとく、眼前に真しろきたきを見るよりも分明ぶんめい、知りつつもわれ、真珠の雨、のちのち、わがためのブランデス先生、おそらくは、わが死後、――いやだ!

15

真珠しんじゅの雨。無言の海容かいよう。すべて、これらのお慈悲じひ、ひねこびた倒錯とうさくの愛情、無意識の女々めめしき復讐心ふくしゅうしんより発するものと知れ。つね日頃ひごろより貴族のしゅつほこれる傲縦ごうしょうのマダム、かの女の情夫じょうふのあられもない、一路物欲、マダムの丸い顔、望見するより早く、お金くれえ、お金くれえ、と一語は高く、一語は低く、日毎夜毎ひごとよごとのお念仏。おのれの愛情の深さのほどに、多少、自負もっていたのが、破滅はめつのもと、腕環うでわ投げ、首飾くびかざり投げ、五個の指環の散弾さんだん、みんなあげます、私は、どうなってもいいのだ、と流石さすがなみだあふれて、私をだますなら、きっとたくみにだまして下さい、完璧かんぺきにだまして下さい、私はもっともっとだまされたい、もっともっと苦しみたい、世界中の弱き女性の、私は苦悩くのうの選手です、などすこし異様のことさえ口走くちばしり、それでも母のごときお慈悲の笑顔えがおわすれず、きゅっとつまんだしんこ細工ざいくのような小さい鼻の尖端せんたん、涙からまって唐辛子とうがらしのように真赤に燃え、絨毯じゅうたんのうえをのろのろって歩いて、先刻マダムの投げ捨てたどっさり金銀かなめのもの、にやにやうす笑いしながら拾い集めている十八歳、とらの年生れの美丈夫びじょうふ、ふとマダムの顔をぬすみ見て、ものの美事の唐辛子、少年、わあっと歓声かんせい、やあ、マダムの鼻はぶたのちんちん。

16

可愛そうなマダム。いずれが真珠、いずれが豚、つくづく主客しゅかくてんとうして、今は、やけくそ、お嫁入よめいり当時のかみ飾り、かの白痴はくちにちかき情人じょうじんの写真しのばせ在りしロケットさえも、バンドの金具のはてまで。すっからかん。与えるに、ものなき時は、安(とだけ書いて、ふと他のこと考えて、六十秒もかからなかったはずなれども、放心の夢さめてはっと原稿げんこう用紙に立ちかえり書きつづけようとしてはたと停とん、安というこの一字、いったい何を書こうとしていたのか、三つになったばかりの早春死んだ女児の、みめうるわしく心もやさしく、つりみ切ってげたなまずは呑舟どんしゅうの魚くらいにも見えるとか、忘却ぼうきゃくふちに引きずりまれた五、六行の言葉、たいへん重大のキイノオト。しくてならぬ。いて来い! 浮いて来い! 真実ならば浮いて来い! だめだ。)

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これでもか、これでもか、と豚に真珠の慈雨あたえる等の事は、右のほおならば、左の頬をも、というかの神の子の言葉の具象化でない。人の子の愛欲独占のきたな地獄絵じごくえ、はっきり不正の心ゆえ、きょうよりのち、私、一粒ひとつぶ真珠しんじゅをもおろそかに与えず、ぶたさん、これは真珠だよ、石ころや屋根のかわらとはちがうのだよ、と懇切こんせつていねい、理解させずば止まぬ工合ぐあいの、けちな啓蒙けいもう、指導の態度、もとより苦しきいばらみち、けれども、ここにこそ見るべき発芽、創生うごめく気配けはいのあること、確信、ゆるがず。

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きょうよりのちは堂々と自注その一。不文のうち、ところどころ片仮名のぺージ、これ、わが身の被告、審判しんぱんの庭、霏々ひひたる雪におおわれ純白のつるひな一羽、やはり寒かろ、首筋ちぢめて童子のごとく、あまえた語調、つぶらにめるひとみ、神をもおそれず、一点いつわらぬ陳述ちんじゅつの心ゆえに、一字一字、目なれずつづりにくき煩瑣はんさいとわず、かくは用いしものと知りたまえ。 「これは、あかい血、これは、くろい血。」ころされた、一匹、一匹、はらのふとい死骸しがいを、枕頭ちんとうの「晩年」の表紙の上にならべて、家人が、うたう。盗汗ねあせ洪水こうずいの中で、目をさまして家人の、そのような芝居しばいに顔をしかめる。「気のきいたふうの夕刊売り、やめろ。」夕刊売り。孝女白菊しらぎく。雪の日のしじみ売り、いそぐくるまにたおされてえ。風鈴声ふうりんごえ。そのほかの、あざ笑いの言葉も、このごろは、なくなって、まくらもとの電気スタンドぼっと灯って居れば、あれは五時まえ、消えていれば、しめた五時半、ものも言わず蚊帳かやけだし、兵古帯へこおびひきずり、一路、お医者へ。お医者。五時半になれば、看護婦ひとり起きて、玄関わきのに水をかけたり、砂利じゃり道、いたり、片目ねむって、おもい門を丁度ちょうどその時ぎいとあけていたり、こんなもの、人間の気がしない。うそです。あなたのねむさ、あなたの笑い、あの昼日中、エプロンのかな糸のくず、みんな、そのまんまにもらってしまって、それゆえ、小説も書けないのです。おまえに限ったことではない、書け、書け、苦しさわかって居る、ほんとうか! とおもわず大声たててひざのむきかえたら、きみ、にやにやいやしく笑って遠のいたくせに、おれの苦しさ、わかるものかい。

19

あかい血、くろい血。これ、わかるか。家人を食った蚊の腹は、あかくきとおり、私を食った蚊の腹は、くろくよどんで、白紙にこぼれて、かの毒物のにおいがする。「蚊も、まやくの血をのんでは、ふらふら。」というユウモラスな意味をふくんだ、あかい血、くろい血。おのれの、はじめの短編集、「晩年」の中の活字のほかの活字は、読まず、それもこのごろは、つまらないつまらない、と言いだして、内容のぞかず、それでも寝るときは忘れず枕もとへ置いて寝て、病気見舞いのひとりの男、蚊帳のそとに立ってその様を見て立ったままいて、鼻をかむ音で中の病人にそれとさとられてしまった一夜もある。 「一、起誓きしょうのこと。おそらく、生涯しょうがいに、いちど、の、ことでしょう。今夜、一夜、だまって、(笑わずに)ほんとに、だまって、お医者へいって、あと一つ、たのんで来て下さい。たのみます。生涯に、このようなこと、二度とございませぬ。私を信じて、そうして、私もおにでない以上、今夜のお前の寛大かんだいのためにだけでも、悪癖あくへきよさなければならぬ。以上、一言一句あやまちなし。この起誓の文章やぶらず、保存して置いて下さい。十年、二十年のちには、わが家の、いな、日本の文学史にとっての、宝となります。年、月、日。

20

なお、お医者へは、小切手、明日、お金にかえて支払しはらいますと言って下さい。明日、なんとかして、ほんとにお金こしらえるつもり。漸愧ざんき、うちに居ること不能ゆえ、海へ散歩にいって来ます。承知とならば、玄関の電灯ともして置いて下さい。」

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家人は、薬品に嫉妬しっとしていた。家人の実感に聞けば、二十年くらいまえに愛撫あいぶされたことございます、と疑わず断定できるほどのものであった。とき折その可能を、ふと眼前に、千里韋駄天いだてん、万里の飛翔ひしょう一瞬いっしゅん、あまりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天ぎょうてん、不吉なほどに大きな黒アゲハ、もしくは、なまあたたかき毛もの蝙蝠こうもり、つい鼻の先、ひらひら舞いくるい、かれ顔面蒼白そうはく、わなわなふるえて、はては失神せんばかりのはげしき歔欷きょき。婆さん、しだいに欲が出て来て、あの薬さえなければ、とつくづく思い、一夜、あるじへ、わが下ごころ看破かんぱされぬようしみじみ相談持ちけたところ、あるじ、はね起きて、病床端座びょうしょうたんざ、知らぬは彼のみ、太宰ならばこの辺で、襟掻えりかきなおして両眼とじ、おもむろに津軽なまり発したいところさ、など無礼の雑言、かの虚栄きょえいちまたの数百の喫茶店きっさてん、酒の店、おでん支那しなそば、下っては、やきとり、うなぎの頭、しょうちゅう、泡盛あわもり、どこかで誰か一人は必ず笑っている。これは十目の見るところ、百聞、万犬ばんけんじつ、その夜も、かれは、きゅっと口一文字かたく結んで、腕組うでぐみのまま長考一番ちょうこういちばん、やおら御異見開陳かいちん、言われるには、──おまえは、たてに両面あることを忘れてはいけません。金と銀と、二面あります。おまえは、この楯、ゴオルデンよ、とうその英語つかいながらも、おまえの見たままの実相あやまたず表現し得た。薬品の害については、おまえよりも私のほうが、よく知っております。けれども、おまえは、その楯に、もう一面のあることを、知って置かなければなりません。その楯は、金であるし銀でもある。また、同様に、金でもなければ銀でもない。金と銀と、両面の楯であって、おまえは、楯の片面の金色を、どんなに強く主張してもいいわけだ。けれども、その主張の裏に銀の面の存在をもちゃんと認めて、そのうえの主張でなければならない。狡猾こうかつけ引きのごとくに思われるだろうが、かまわないのだ、それが正しいのだ。決してうそいつわりの主張でもなければ、ごまかしの態度でもない。世の中、それでいいのだ。このような客観的の認識、自問自答の気の弱りの体験者をこそ、真に教養されたと言うてよいのだ。異国語の会話は、横浜の車夫、帝国ホテルの給仕人、船員、火夫に、──おい! 聞いているのか。はい、わたくし、急にあらたまるあなたの口調おかしくて、ふとんかぶってこらえてばかりいました。ああ、くるしい。家人のつつましいほのお、清潔の満潮、さっとすずしく引いた様子で、私も内心ほっとしていた。それは残念でしたねえ、もういちどり返して教えてもいいんだが、──。家人、右の手のひらをひくい鼻の先に立てて片手拝みして、もうわかった。いつも同じ教材ゆえ、たいてい暗誦あんしょうしております。お酒を飲めば血が出るし、この薬でもなかった日には、ぼくは、とうの昔に自殺している。でしょう? 私、答えて、うむ、わが論つたなくともたて半面の真理。

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このようにうまい結末を告げるときもあれば、また、──おれが、どのようにはずかしくて、この押入おしいれの前に呆然ぼうぜんたちつくしているか、穴あればはいりたき実感いまより一そう強烈きょうれつの事態にたちいたらば、のこのこ押入れにはいろう魂胆こんたん、そんなばかげた、いや、いや、それもある、けれども、その他にも何か、うむ、押入れには、おまえに見せたくない手紙か何かあるゆえ、そんな秘めたるいいことあるくらいなら、おれは、何を好んでこの狭小きょうしょうの家に日がな一日、ごろごろしていようぞ、そんなことじゃないのだ。おれはいま、目のさきまっくろになって、しいんと地獄じごくへ落ちてゆく身の上になってしまったのだ。おのれの意志では、みじんも動けぬ。うふふ、死骸しがいじゃよ。底のない墜落ついらく無間奈落むけんならくを知っているか、加速度、加速度、流星と同じくらいのはやさで、落下しながらも、少年は背丈せたけのび、暗黒の洞穴どうけつ、どんどん落下しながら手さぐりの恋をして、落下の中途ちゅうとにて分娩ぶんべん、母乳、病い、老衰ろうすい、いまわのきわの命、いっさい落下、死亡、不思議やかなしみの嗚咽おえつ、かすかに、いちどあれはかもめの声か。落下、落下、死体は腐敗ふはい蛆虫うじむしも共に落下、骨、風化されて無、風のみ、雲のみ、落下、落下──。など、多少、いやしく調子づいたおしゃべりはじめて、千里の馬、とどまるところなき言葉の洪水こうずい、性来、富者万灯ふしゃまんどうの御祭礼好む軽薄けいはくの者、とし甲斐がいもなく、夕食の茶碗ちゃわん塗箸ぬりばしもてたたいて、われとわが饒舌じょうぜつに、ま、たぬきばやしとでも言おうか、えたい知れぬチャンチャンの音えて、異様のはしゃぎかた、いいことないぞ、と流石さすがに不安、すこしずつ手綱たづな引きしめて、と思いいたった、とたんにわが家の他人、「てれかくしたくさん。たいした苦心ね。(たのむ、お医者へ)と一言でよかったのにねえ。」 「おい、おい。おめえ、──」 「かんにん、かんにん。」

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自分のちからでは、制止できぬおに、かなしいことには、制止できぬ泣きむし。めちゃめちゃめちゃ。「かんにんして、ね、声だけでも低く、ね。」 「おれのせいじゃないんだ。すべて神様のお思召ぼしめしさ。おれは、わるくないんだ。けれども、前生ぜんせ亭主ていしゅしかる女か何か、ひどくきたないものだったために、今そのばつを受けているのだ。だまって耳をすませば、おれのその前生の女の、わめき声が、地の底の底から、ここまで聞えて来るような気がするのだ。愛は言葉だ。おれたち、弱く無能なのだから、言葉だけでもよくして見せよう。その他のこと、人をよろこばせてあげうる何をおれたち持っているのか。口には言えぬが私は誠実でございます、か。牧野君から聞いたか? どんづまりのどん底、おのれの誠実だけは疑わず、いたる所、生命かけての誠実ひれきし、うったえても、ただ、一路ルンペンの土管の生活にまで落ちてしまって、目をぱちくり、三日三晩ねむらず考えてやっとわかった。おのれの誠実うたがわず、主観的なる盲目もうもくほこりが、あのいい人を土管のおくまで追いつめた。おのれ、一点みるべきものなし、日夜きょうきょうの厳酷げんこくの反省こそは、まことの誠実。ああ、やっぱり、愛は言葉だ。おれは、友人の不名誉ふめいよの病いなぐさめようと、一途いちずに、それのみ思いつめ、われからすすんで病気になった。けれども、そんなこと、みんなだめ。誰も信じてくれぬのだ。同じころ、突如とつじょ一友人にかなりの金額送って、酒か旅行に使いたまえ。今月の小使銭あまってしまったのです、と本心かきしたためたはずでございましたが、また失敗。友人、太宰にやましきことあり、そのうち御助力たのみに来るぞ、と思ったらしく、この推察は、のち、当の友人に聞いてたしかめ、そうで、それでも酒のんで遊んだそうだが、何だか不安で、愉快ゆかいでなかったよしにて、あれといい、これといい、その後ながいこと、友人たちの物笑いになっていた。その当の病気の友人さえ、おれの火の愛情を理解してはくれなかった。無言の愛の表現など、いまだこの世に実証ゆるされていないのではないか。その光栄の失敗の五年の後、やはり私の一友人おなじ病いで入院していて、そのころのおれは、巧言令色こうげんれいしょくの徳を信じていたので、一時間ほど、かの友人の背中さすって、尿器にょうきの世話、将来一点の微光びこうをさえともしてやった。わが肉体いちぶいちりん動かさず、すべて言葉で、おかゆ一口一口、銀のさじもてすすらせ、あつものにうかべる青い三つ葉すくって差しあげ、すべてこれ、わが寝そべって天井てんじょうながめながらの巧言令色、友人は、ありがとうと心からの謝辞、ただちにグルウプ間に美談として語りつがれて、うるさきことのみ多かった。それは、おまえも知っている筈。くやしいのだ。残念なのだ。おまえに聞かせる。いいか。ほんとうのことを、まさしくその通りに、美事に言い当てるものじゃないよ。わざとしくじる楽しさを知れ。キミガ美シキ失敗ヲ祝ス。ホントニ。ひとりずかしく日夜悶悶もんもんのめも見得ぬ自責の痩狗そうくあす知れぬいのちを、太陽、さんとかがやく野天劇場へわざわざ引っぱり出して神をおそれぬオオルマイティ、遅疑ちぎもなし、恥もなし、おのれひとりの趣味しゅみつえにて、わかきものの生涯しょうがいの行路を指定す。かつはばっし、かつは賞し、雲の無軌道むきどう、このようなポオズだけの化け物、ぬすみも、この大人物の悪にくらべて、さしつかえなし、殺人でさえ許されるいまの世、けれども、もっとも悪い、とうてい改悛かいしゅん見込みこみなき白昼の大盗、十万百万証拠しょうこ紙幣しへいを、つい鼻のさきにきつけられてさえ、ほう、たくさんあるのう、奉納金ほうのうきんかね? 党へ献上けんじょうの資金かね? わあっはっはっ、と無気味妖怪ようかいの高笑いのこして立ち去り、おそらくは、生れ落ちてこのかた、この検事局における大ポオズだけを練習して来たような老いぼれ、清水不住魚、と絹地にしたため、あわれこの潔癖けっぺき、ばんざいだのうと陣笠じんがさ、むやみ矢鱈やたらに手をにぎり合って、うろつき歩き、ついには相抱あいいだいて、なみださえうかべ、ば、ばんざい! 笑い話じゃないぞ、おまえはこの陣笠を笑えない。この陣笠は、立派だ。理知や、打算や策略には、それこそ愛の魚メダカ一匹住み得ぬのだ。教えてやる。愛は、言葉だ。山内一豊やまのうちかずとよ氏の十両、ほしいと思わぬ。もいちど言う、言葉で表現できぬ愛情は、まことに深き愛でない。むずかしきこと、どこにも無い。むずかしいものは愛でない。盲目もうもく戦闘せんとう狂乱きょうらんの中にこそより多くの真珠しんじゅが見つかる。『私、──なんにも、──』そうして、しとやかにお辞儀じぎして、それだけでも、かなりの思い伝えうるのだ。いまの世の人、やさしき一語にえている。ことにも異性のやさしき一語に。明朗完璧かんぺき虚言きょげんに、いちど素直にだまされてしまいたいものさね。このひそやかの祈願きがんこそ、そのまま大悲大慈だいじの帝王のいのりだ。」もうねむっている。ごわごわした固い布地の黒色パンツひとつ、あし、海草のごとくゆらゆら、突如とつじょ、かの石井ばく振付ふりつけ海浜かいひん乱舞の少女のポオズ、こぶし振あげ、両脚つよくひらいて、まさに大跳躍ちょうやく、そのような夢見ているらしく、蚊帳かやの中、蚊群襲来しゅうらいのうれいもなく、思うがままの大活躍。作家の妻、頭するどきこと見せてやろう、一言、口をはさんだのが失敗のもと、はっと気付いたときは、遅かった。散々の殴打おうだ。低く小さい、鼻よりも、上唇うわくちびる一、二センチ高くれあがり、別段、お岩様を気にかけず、昨夜と同じに熟睡じゅくすいうまそう、寝顔つくづく見れば、まごうかたなき善人、ひるやかましき、これも仏性の愚妻ぐさいの一人であった。      山上通信                        太宰 治

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けさ、新聞にて、マラソン優勝と、芥川あくたがわ賞と、二つの記事、読んで、なみだが出ました。孫という人の白い歯出して力んでいる顔を見て、この人の努力が、そのまま、肉体的にわかりました。それから、芥川賞の記事を読んで、これにいても、ながいこと考えましたが、なんだか、はっきりせず、病床びょうしょう腹這はらばいのまま、一文、したためます。

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先日、佐藤先生よりハナシガアルからスグコイという電報がございましたので、おうかがい申しますと、お前の「晩年」という短編集をみんなが芥川賞にしていて、私は照れくさく小田君など長い辛棒しんぼうの精進に報いるのも悪くないと思ったので、一応おことわりして置いたが、お前ほしいか、というお話であった。私は、五、六分、考えてから、返事した。話に出たのなら、先生、不自然の恰好かっこうでなかったら、もらって下さい。この一年間、私は芥川賞のために、人に知られぬ被害を受けております。原稿げんこうかいて、雑誌社へ持って行っても、みんな、芥川賞もらってからのほうが、市価数倍せむことを胸算して、二ケ月、三ケ月、日和見ひよりみ、そのうちに芥川賞素通すどおりして、拙稿せっこう返送という憂目うきめ、再三ならずございました。記者諸君。芥川賞と言えば、必ず、私を思いうかべ、または、逆に、太宰と言えば、必ず、芥川賞を思い浮べる様子にて、悲惨ひさんのこと、再三ならずございました。これは私よりも、家人のほうがよく知っております。川端かわばた氏も私のこととなると、言葉のままに受けずに裏あるかのごとく用心深くなってしまう様子で、私にはなんの匕首あいくちもなく、かの人のパッション疑わず、遠くから微笑ほほえみかけているのに、かなしく思うことございます。お気になさらず、もらって下さい、とお願いして、先生も、よし、それでは、不自然でなかったら言ってみます、ほかの多数の人からずいぶん強くされているのだから、不自然のこともなかろう、との御言葉いただき、帰途きと感慨かんがい、胸にあふれるものございました。それから、先生より、かくべつのお便りもなく、万事、自然に話すすんでいることとのみ考え、ちかき人々にも、ここだけの話と前置きして、よろこびわかち、家郷の長兄には、こんどこそ、お信じ下さい、と信じて下さるまい長兄のきびしさもどかしく思い、七日、借銭にてこの山奥やまおくの温泉に来り、なかば自炊じすい、粗末の暮しはじめて、文字どおり着た切りすずめ難症なんしょうの病い必ずなおしてからでなければ必ず下山せず、人類最高の苦しみくぐりけて、わがまことの創生記、(それも、はじめは、照れくさくて、そうせい記と平仮名で書いていたのが、今朝、建国会の意気にて、大きく、創生記。)きっと書いてあげます、芥川賞授賞者とあれば、かまえて平俗へいぞくの先生づら、承知、おとなしく、健康の文壇人ぶんだんじんになりましょう、と先生へおたより申し、よろしく御削除さくじょ、御加筆の上、文芸賞もらった感想文として使って、など苦しいこともあり、これは、あとあとの、笑い話、いまは、切実のこと、わが宿のはらい、家人に夏の着物、着換きがえ一枚くらいは、引きだしてやりたく、(ああ、五百円もらうのと、ちがうなあ。)家賃、それから諸支払い、借銭利息、船橋の家に在る女房にょうぼうどうしているか、ははは、オドチャには一銭もなし、いや、小使銭三十九銭、机の上にございます。いやだ。いやだ。こんなやつが、「芥川賞楽屋噺がくやばなし」など、面白おもしろくない原稿げんこうかいて、実話雑誌や、菊池寛きくちかんのところへ、持ちみ、なぐられて、つまみ出されて、それでも、全部見抜みぬいてしまってあるようなべっとり油くさいニヤニヤ笑いやめないきたないものになるのであろうと思いました。今から、また、また、二十人に余るご迷惑めいわくおかけしている恩人たちへおびのお手紙、一方、あらたに借銭たのむ誠実吐露とろの長い文、もう、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここへお金を送って下さい、私は、肺病をなおしたいのだ。(群馬県谷川温泉金盛館。)ゆうべ、コップでお酒を飲んだ。誰も知らない。   八月十一日。ま白き驟雨しゅうう

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なお、この四枚の拙稿せっこう、朝日新聞記者、杉山平助氏へ、正当の御配慮はいりょ、おねがい申します。

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右の感想、投函とうかんして、三日目に再び山へ舞いもどって来たのである。三日、のたうち回り、今朝快晴、苦痛全く去って、日の光まぶしく、野天風呂ぶろにひたって、谷底の四、五の民屋みんおく見おろし、このたび杉山平助氏、ただちに拙稿を御返送の労、素直にかれのこの正当の御配慮謝し、なお、私事、けさ未明、家人めずらしき吉報持参。山をのぼってやって来た。中外公論よりの百枚以上の小説かきたまえ、と命令、よき読者、杉山氏へのわが寛大かんだいの出来すぎた謝辞とを思い合せて、まこと健康の祝意示して、そっと微笑ほほえみ、作家へ黙々握手もくもくあくしゅの手、わずかに一市民の創生記、やや大いなる名誉めいよの仕事与えられて、ほのぼのよみがえることの至極しごく、フランク、穏当おんとうのことと存じます。

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幾日いくにちって、杉山平助氏が、まえの日ちらと読んだ「山上通信」の文章を、うろ覚えのままに、東京のみんなに教えて、中村地平君はじめ、井伏いぶせさんのお耳までけがし、一門、たいへん御心配にて、太宰のその一文にて、もしや、佐藤先生お困りのことあるまいかと、みなみな打ち寄りて相談、とにかく太宰を呼べ、と話まとまって散会、──のち、──荻窪おぎくぼの夜、二年ぶりにて井伏さんのお宅、お庭には、むかしのままに夏草しげり、書斎しょさい縁側えんがわにて象棋しょうぎさしながらの会話。 「もしや、先生へご迷惑かかったら、君、ねえ、───。」 「ええ、それは、──。けれども、先生、傷がつくにも、つけようございませぬ。山上通信は、私の狂躁きょうそう凡夫尊俗ぼんぷそんぞくの様などを表現しよう、他にこんたんございません。先生の愛情については、どんなことがあろうたって、疑いません。こんどの中外公論の小説なども、みんな、──」 「うん、まあ、──。」 「みんな、だまっておられても、ちゃんと、佐藤先生のお力なのです。」 「そうだ、そうだ。」 「忘れようたって、忘れないのだし、──」 「うん、うん、──」

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だんだん象棋しょうぎの話だけになっていった。




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太宰治全作品集 1
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変更終了:平成14年2月