陰火

       太宰 治


誕生

1

二十五の春、そのひしがたの由緒ゆいしょありげな学帽がくぼうを、たくさんの希望者の中でとくにへどもどとまごつきながら願い出たひとりの新入生へ、くれてやって、帰郷した。たかの羽の定紋じょうもんうった軽い幌馬車ほろばしゃは、若い主人を乗せて、停車場から三里のみちを一散にはしった。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者ぎょしゃ叱咤しった蹄鉄ていてつのにぶいひびき、それらにまじって、ひばりの声がいくども聞えた。

2

北の国では、春になっても雪があった。道だけは一筋くろくかわいていた。田圃たんぼの雪もはげかけた。雪をかぶった山脈のなだらかな起伏きふくも、むらさきいろにえていた。その山脈のふもと、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突えんとつから晴れた空へけむりが青くのぼっていた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものういひとみをそっと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。

3

そうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ回って歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は薬草の臭気しゅうきがした。茶の間は牛乳。客間には、なにやらはずかしいにおいが。彼は、表二階や裏二階や、はな座敷ざしきにもさまよい出た。いちまいのふすまをするするあける度毎たびごとに、彼のよごれた胸がかすかにときめくのであった。それぞれの匂いはきっと彼に都のことを思い出させたからである。

4

彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をもひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻うきもの花は彼も軽蔑けいべつしてながめることができたけれど、耳をかすめて通る春の風と、ひくくさわいでいる秋の満目の稲田いなだとは、彼の気にいっていた。

5

寝てからも、むかし読んだ小型の詩集や、真紅の表紙に黒いハンマアのえがかれてあるような、そんな書物を枕元まくらもとに置くことは、めったになかった。寝ながら電気スタンドを引き寄せて、両のてのひらを眺めていた。手相にっていたのである。てのひらにはたくさんのこまかいしわがたたまれていた。そのなかに三本のきわだって長い皺が、ちりちりと横に並んではしっていた。この三つのうす赤いくさりが彼の運命を象徴しょうちょうしているというのであった。それに依れば、彼は感情と知能とが発達していて、生命は短いということになっていた。おそくとも二十代に死ぬるというのである。

6

そのあくる年、結婚をした。べつに早いとも思わなかった。美人でさえあれば、と思った。はなやかな婚礼があげられた。花嫁はなよめは近くのまちの造り酒屋の娘であった。色が浅黒くて、なめらかなほおにはうぶ毛さえ生えていた。編物を得意としていた。ひとつきほどは彼も新妻にいづまをめずらしがった。

7

そのとしの、冬のさなかに父は五十九で死んだ。父の葬儀そうぎは雪の金色に光っている天気のいい日に行われた。彼ははかまのももだちをとり、藁靴わらぐつはいて、山のうえの寺まで十町ほどの雪道をぱたぱた歩いた。父のひつぎ輿こしにのせられて彼のうしろへついて来た。そのあとには彼の妹ふたりがまっ白いヴエルで顔をつつんで立っていた。行列は長くつづいていた。

8

父が死んで彼の境遇きょうぐうは一変した。父の地位がそっくり彼に移った。それから名声も。

9

さすがに彼はその名声にすこしわついた。工場の改革などをはかったのである。そうして、いちどでこりこりした。手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になって、かわったのは、洋室の祖父の肖像画しょうぞうががけしの花の油画あぶらえけかえられたことと、まだある、黒い鉄の門のうえに仏蘭西フランス風の軒灯けんとうをぼんやりともした。

10

すべてが、もとのままであった。変化は外からやって来た。父にわかれて二年目の夏のことであった。そのまちの銀行の様子がおかしくなったのである。もしものときには、彼の家も破産せねばいけなかった。

11

救済のみちがどうやらついた。しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちをおこらせた。彼には、永いあいだ気にかけていたことが案外はやく来てしまったような心地がした。奴等やつらの要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりむしろ腹立たしい気持ちで支配人に言いつけた。求められたものは与える。それ以上は与えない。それでいいだろう? と彼は自身のこころにたずねた。小規模の整理がつつましく行われた。

12

そのころから寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうえでトタンの屋根を光らせていた。彼はそこの住職と親しくした。住職はせ細って老いぼれていた。けれども右の耳朶みみたぶがちぎれていて黒いあとをのこしているので、ときどきは兇悪きょうあくな顔にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼって寺へかようのである。庫裡くりの縁先には夏草が高くしげっていて、鶏頭けいとうの花が四つ五ついていた。住職はたいてい昼寝をしているのであった。彼はその縁先えんさきからもしもしと声をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾をって出て来た。

13

彼はきょうもんの意味にいて住職に問うのであった。住職はちっとも知らなかった。住職はまごついてから、あはははと声を立てて笑うのである。彼もほろにがく笑ってみせた。それでよかった。ときたま住職へ怪談かいだん所望しょもうした。住職は、かすれた声で二十いくつの怪談をつぎつぎと語ってきかせた。この寺にも怪談があるだろう、と追及ついきゅうしたら、住職は、とんとない、と答えた。

14

それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮えんりょばかりしていた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺をいた。母が死んでから始めて気がついたことだけれども、彼の寺沙汰てらざたは、母への奉仕ほうし幾分いくぶんふくめていたのであった。

15

母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、となりのまちの大きい割烹店かっぽうてんへとついでいた。下のは、都の、体操のさかんな或る私立の女学校へかよっていて、夏冬の休暇きゅうかのときに帰郷するだけであった。黒いセルロイドの眼鏡めがねをかけていた。彼等きょうだい三人とも、眼鏡をかけていたのである。彼は鉄ぶちをけていた。姉娘は細い金ぶちであった。

16

彼はとなりまちへ出て行ってあそんだ。自分の家のまわりでは心がひけて酒もなんにも飲めなかった。となりのまちでささやかな醜聞しゅうぶんをいくつも作った。やがてそれにも疲れた。

17

子供がほしいと思った。少くとも、子供は妻との気まずさを救えると考えた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなわなかった。鼻に付いたのである。

18

三十になって、少しふとった。毎朝、顔を洗うときに両手へ石鹸せっけんをつけてあわをこしらえていると、手のこうが女のみたいにつるつるすべった。指先が煙草たばこのやにで黄色く染まっていた。洗っても洗っても落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱ずつ吸っていた。

19

そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまえ、妻が都の病院におよそひとつきも秘密な入院をしたのであった。

20

女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かった。かみがうすくて、眉毛まゆげはないのと同じであった。うであしが気品よく細長かった。生後二箇月かげつ目には、体重が五キログラム、身長が五十八センチほどになって、ふつうの子より発育がよかった。

21

生れて百二十日目に大がかりな誕生祝いをした。     紙のつる 「おれは君とちがって、どうやらおめでたいようである。おれは処女でない妻をめとって、三年間、その事実を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきでないかも知れぬ。いまは幸福そうに編物へ熱中している妻に対しても、むざんである。また、世の中のたくさんの夫婦に対しても、いやがらせとなるであろう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顔を、なぐりつけてやりたいからだ。

22

おれは、ヴァレリイもプルウストも読まぬ。おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっとほんとうのものを見つめている。人間を。人間という言わば市場の蒼蠅あおばえを。それゆえおれにとっては、作家こそすべてである。作品は無である。

23

どういう傑作けっさくでも、作家以上ではない。作家を飛躍ひやく超越ちょうえつした作品というものは、読者の眩惑げんわくである。君は、いやな顔をするであろう。読者にインスピレエションを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗ひぞくとか生野暮きやぼとかといやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきり言ってもよい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。君がまさしく聡明そうめいならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑えるはずだ。笑えないならば、今後、かしこそうに口まげるくせをよしたまえ。

24

おれは、いま、君をはずかしめる意図からこの小説を書こう。この小説の題材は、おれのはじさらしとなるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫れんびんの情を求めまい。君より高い立場にって、人間のいつわりない苦悩くのうというものを君の横面にたたきつけてやろうと思うのである。

25

おれの妻は、おれとおなじくらいのうそつきであった。ことしの秋のはじめ、おれは一編の小説をしあげた。それは、おれの家庭の仕合せを神にほこった短編である。おれは妻にもそれを読ませた。妻は、それをひくく音読してしまってから、いいわ、と言った。そうして、おれにだらしない動作をしかけた。おれは、どれほどのろまでも、こういう妻のそぶりのかげに、ただならぬ気がまえを見てとらざるを得なかったのである。おれは、妻のそんな不安がどこからやって来たのか、それを考えて三夜をついやした。おれの疑惑ぎわくは、ひとつのくやしい事実にかたまって行くのであった。おれもやはり、十三人目の椅子いすに座るべきおせっかいな性格を持っていた。

26

おれは妻をせめたのである。このことにもまた三夜をついやした。妻は、かえっておれを笑っていた。ときどきはおこりさえした。おれは最後の奸策かんさくをもちいた。その短編には、おれのような男に処女がさずかった歓喜かんきをさえ書きしるされているのであったが、おれはその箇所かしょをとりあげて、妻をいじめたのである。おれはいまに大作家になるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。するとお前は、この小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたわれるであろう、と妻をおどかした。無学の妻は、果しておびえた。しばらく考えてから、とうとうおれにささやいた。たったいちど、と囁いたのである。おれは笑って妻を愛撫あいぶした。わかいころの怪我けがであるゆえ、それはなんでもないことだ、と妻に元気をつけてやって、おれはもっとくわしく妻に語らせるのであった。ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正ていせいした。それから、三度、と言った。おれはなおも笑いつづけながら、どんな男か、とやさしくたずねた。おれの知らない名前であった。妻がその男のことを語っているうちに、おれは手段でなく妻を抱擁ほうようした。これは、みじめな愛欲である。同時に真実の愛情である。妻は、ついに、六度ほど、ときだして声を立てて泣いた。

27

そのあくる朝、妻はほがらかな顔つきをしていた。あさの食卓しょくたくに向い合って座ったとき、妻はたわむれに、両手あわせておれを拝んだ。おれも陽気に下唇したくちびるんで見せた。すると妻はいっそうくつろいだ様子をして、くるしい? とおれの顔をのぞいたでないか。おれは、すこし、と答えた。

28

おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きっと卑俗ひぞく生野暮きやぼなものだということを。

29

その日を、おれはどうして過したか、これをも君に教えて置こう。

30

こんなときには、妻の顔を、妻のぎ捨ての足袋たびを、妻にかかわり合いのある一切いっさいを見てはいけない。妻のそのわるい過去を思い出すからというだけでない。おれと妻との最近までの安楽だった日を追想してしまうからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの年少の洋画家をおとずれることにきめたのである。この友人は独身であった。妻帯者の友人はこの場合ふむきであろう。

31

おれはみちみち、おれの頭脳がからっぽにならないように警戒けいかいした。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別な問題について考えふけるのであった。人生や芸術の問題はいくぶん危険であった。ことに文学は、てきめんにあのなまな記憶きおくを呼び返す。おれは途上とじょうの植物について頭をひねった。からたちは、灌木かんぼくである。春のおわりに白色の花をひらく。何科に属するかは知らぬ。秋、いますこしつと黄いろい小粒こつぶの実がなるのだ。それ以上を考えつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を転ずる。すすき。これは禾本科かほんかに属する。たしか禾本科と教わった。この白いは、おばな、というのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききょう、かるかや、なでしこ、それから、おばな。もう二つ足りないけれど、なんであろう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るようにして、足を早めた。いくたびとなくつまづいた。この落葉は。いや、植物はよそう。もっと冷いものを。もっと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容じんようをたて直したのである。

32

おれは、AプラスBの二乗の公式を心のなかでしょうした。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乗の公式について、研究した。

33

君は不思議なおももちをよそおうておれの話を聞いている。けれども、おれは知っている。おそらくは君も、おれのような災難を受けたときには、いや、もっと手ぬるい問題にあってさえ君の日ごろの高雅こうがな文学論を持てあまして、数学はおろか、かぶと虫いっぴきにさえとりすがろうとするであろう。

34

おれは人体の内臓器管の名称めいしょうをいちいち数えあげながら、友人の居るアパアトに足をみいれた。

35

友人の部屋のとびらをノックしてから、廊下ろうかの東南のすみにつるされてある丸い金魚ばちを見あげ、泳いでいる四つの金魚について、そのひれの数をしらべた。友人は、まだ寝ていたのであった。片眼だけをしぶくあけて、出て来た。友人の部屋へはいって、おれはようやくほっとした。

36

いちばんおそろしいのは孤独こどくである。なにか、おしゃべりをしていると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はこういう条件にかなっている。

37

おれは友人の近作について饒舌じょうぜつをふるった。それは二十号の風景画であった。彼にしては大作の部類である。水のんだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建っているであった。友人は、それを内気らしくカンヴァスを裏がえしにして部屋のかべへ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇ちゅうちょせずそれをまたひっくりかえしてながめたのである。おれはそのときどんな批評をしたであろうか。もし、君の芸術批評が立派なものであるとしたなら、おれのそのときの批評も、まんざらではなかったようである。なぜと言って、おれもまた君のように、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩しきさいについて、構図について、おれはひとわたり難癖なんくせをつけることができた。あたうかぎりの概念がいねん的な言葉でもって。

38

友人はいちいちおれの言うことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ余裕よゆうをさえ与えなかったほど、おしゃべりをつづけたのである。

39

しかし、こういう饒舌じょうぜつも、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切って、この年少の友に将棋しょうぎをいどんだ。ふたりは寝床ねどこのうえに座って、くねくねと曲った線のひかれてあるボオル紙へこまをならべ、早い将棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであった。たとえ一瞬時いっしゅんじでも、おれは手持ちぶさたな思いをしたくなかったのである。

40

こんなせっぱつまった心がまえは所詮しょせんながくつづかぬものである。おれは将棋にさえ危機を感じはじめた。ようやく疲労ひろうを覚えたのだ。よそう、と言って、おれは将棋の道具をとりのけ、その寝床のなかへもぐりんだ。友人もおれとならんで仰向あおむけにころがり煙草たばこをふかした。おれは、うっかり者。休止は、おれにとっては大敵なのだった。かなしいかげがもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなくつぶやいては、その大きい影を追いはらっていた。とてもこのままではならぬ。おれは動いていなければいけないのだ。

41

君は、これを笑うであろうか。おれは寝床へ腹這はらばいになって、枕元まくらもとに散らばってあった鼻紙をいちまい拾い、折紙細工をはじめたのである。

42

まずこの紙を対角線に沿うて二つに折って、それをまた二つにたたんで、こうやって袋を作って、それから、こちらのはしを折って、これはつばさ、こちらの端を折って、これはくちばし、こういう工合いにひっぱって、ここのちいさいあなからぷっと息をきこむのである。これは、つる。」     水車

43

橋へさしかかった。男はここで引きかえそうと思った。女はしずかに橋をわたった。男も渡った。

44

女のあとを追ってここまで歩いて来なければいけなかったわけを、男はあれこれと考えてみた。みれんではなかった。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからっぽになってしまったはずである。女がだまって帰り仕度じたくをはじめたとき、男は煙草に火を点じた。おのれの手のふるえてもいないのに気が付いて、男はいっそう白白しらじらしい心地がした。そのままほって置いてもよかったのである。男は女と一緒いっしょに家を出た。

45

二人は土堤どての細い道を、あとになりさきになりしながらゆっくり歩いた。初夏の夕暮のことである。はこべの花が道の両側にてんてんと白くいていた。

46

にくくてたまらぬ異性にでなければ関心を持てない一群の不仕合せな人たちがいる。男もそうであった。女もそうであった。女はきょうも郊外こうがいの男の家をおとずれて、男の言葉の一つ一つに訳のわからぬ嘲笑ちょうしょうを浴びせたのである。男は、女の執拗しつよう侮辱ぶじょくに対して、いまこそ腕力わんりょくを用いようと決心した。女もそれを察して身構えた。こういうせっぱつまったわななきが、二人のゆがめられた愛欲をあおりたてた。男の力はちがった形式で行われた。めいめいのからだを取り返したとき、二人はみじんも愛し合っていない事実をはっきり知らされた。

47

こうやって二人ならんで歩いているが、おたがいに妥協だきょうの許さぬ反発はんぱつを感じていた。以前にました憎悪ぞうおを。

48

土堤どてのしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れていた。男は薄闇うすやみのなかでにぶく光っている水のおもてを見つめながら、また、引きかえそうかしら、と考えた。女は、うつむいたまま道を真直に歩いていた。男は女のあとを追った。

49

みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やっと言いわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかりはなれて歩きながら、ステッキをってみちみちの夏草をたおしていた。かんにんして下さい、とひくく女にささやけば、何か月なみの解決がつきそうにも思われる。男はそれも心得ていた。が、言えなかった。だいいち時機がおくれている。これは、その直後にこそ効果のある言葉らしい。ふたりが改めて対陣たいじんし直したいまになって、これを言いだすのは、いかにもおろかしくないか。男は青蘆あおあしをいっぽん薙ぎ倒した。

50

列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふっと振りむいた。男もいそいで顔をうしろにねじむけた。列車は川下の鉄橋をわたっていた。あかりをともした客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の目の前をとおっていった。男は、おのれの背中にそそがれている女の視線をいたいほど感じていた。列車は、もう通り過ぎてしまって、前方の森のかげからその車両のひびきが聞えるだけであった。男は、ひと思いに、正面にむき直った。もし女と視線がかち合ったなら、そのときには鼻で笑ってこう言ってやろう。日本の汽車もわるくないね。

51

女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いていたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇をすかして男の目にしみた。このままうちへ帰るつもりかしら。いっそ、けっこんしようか。いや、ほんとうはけっこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。

52

男はステッキをぴったり小脇こわきにかかえて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女はせたかたをすこしいからせて、ちゃんとした足どりで歩いていた。男は、女の二三歩うしろまではしって来て、それからのろのろと歩いた。憎悪だけが感ぜられるのだ。女のからだじゅうから、我慢がまんできぬいやなにおいが流れて出てくるように思われた。

53

二人はだまって歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊かわやなぎが、ぽっかりうかんだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。

54

げよう。解決もなにもらぬ。おれが女の心に油ぎった悪党として、つまりふつうの男として残ったとて、構わぬ。どうせ男はこういうものだ。逃げよう。

55

川楊かわやなぎのひとむれを通りすと、二人は顔を合せずに、またよりって歩いた。たったひとこと言ってやろうか。おれは口外しないよ、と。男は片手でたもと煙草たばこをさぐった。それとも、こう言ってやろうか。令嬢れいじょう生涯しょうがいにいちど、おく様の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけっこんをなさい。すると、この女はなんと答えるのであろう。ストリンドベリイ? と反問してくるにちがいない。男はマッチをすった。女の蒼黒あおぐろい片ほおがゆがんだまま男のつい鼻の先にうかんだ。

56

とうとう男は立ちどまった。女も立ちどまった。おたがいに顔をそむけたまま、しばらく立ちつくしていたのである。男は女が泣いてもいないらしいのをいまいましく思いながら、わざと気軽そうにあたりを見回した。じき左側に男の好んで散歩に来る水車小屋があった。水車は闇のなかでゆっくりゆっくりまわっていた。女は、くるっと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草をくゆらしながらみとどまった。呼びとめようとしないのだ。     あま

57

九月二十九日の夜更よふけのことであった。あと一日がまんをして十月になってから質屋へ行けば、利子がひと月分もうかると思ったので、ぼくは煙草ものまずにその日いちにち寝てばかりいた。昼のうちにたくさんねむったばつで、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋のふすまがことことと鳴った。風だろうと思っていたのだが、しばらくして、またことことと鳴った。おや、誰か居るのかなとも思われ、蒲団ふとんから上半身をくねくねはみ出させてうでをのばし襖をあけてみたら、若い尼が立っていた。

58

中肉のやや小柄こがらな尼であった。頭は青青していて、顔全体は卵のかたちに似ていた。頬は浅黒く、粉っぽい感じであった。まゆは地蔵さまの三日月眉で、目は鈴をはったようにぱっちりしていて、まつげがたいへん長かった。鼻はこんもりともりあがって小さく、両くちびるはうす赤く少し大きく、紙いちまいの厚さくらいあいていてそのすきまから真白い歯列が見えていた。こころもち受け口であった。墨染すみぞめのころもはのりつけしてあるらしく折目折目がきっちりとなっていて、いくらか短かめであった。あしが三寸くらい見えていて、そのゴムまりみたいにふっくりふくらんだももいろの脚にはうぶ毛がうすく生えそろい、足頸あしくびが小さすぎる白足袋しろたびのためにきつくしめつけられて、くびれていた。右手には青玉の珠数じゅずを持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持っていた。

59

僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりと言った。尼は僕の部屋へはいり、静かにうしろの襖をしめ、木綿もめんの固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まくらもとまで歩いて来て、それから、ちゃんと座った。僕は蒲団の中へもぐりこみ、仰向あおむけに寝たままで尼の顔をまじまじとながめた。だしぬけに恐怖きょうふおそった。息がとまって、目さきがまっくろになった。 「よく似ているが、あなたは妹じゃないのですね。」はじめから僕には妹などなかったのだな、とそのときはじめて気がついた。「あなたは、誰ですか。」

60

あまは答えた。 「私はうちを間違まちがえたようです。仕方がありません。同じようなものですものね。」

61

恐怖きょうふがすこしずつ去っていった。ぼくは尼の手を見ていた。つめが二分ほどもびて、指の節は黒くしなびていた。 「あなたの手はどうしてそんなにきたないのです。こうして寝ながら見ていると、あなたののどや何かはひどくきれいなのに。」

62

尼は答えた。 「汚いことをしたからです。私だって知っています。だからこうして珠数じゅずやおきょうの本でかくそうとしているのです。私は色の配合のために珠数とお経の本とを持って歩いているのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつって、私のすがたもまさって見えます。」そう言いながら、お経の本のペエジをぱらぱらめくった。「読みましょうか。」 「ええ。」僕は眼をつぶった。 「おふみさまです。夫人間ソレニンゲン浮生フジョウナルソウヲツラツラカンズルニ、オオヨソハカナキモノハ、コノ始中終シチュウジュウマボロシノゴトクナル一期イチゴナリ、――てれくさくて読まれるものか。べつなのを読みましょう。夫女人ソレニョニンハ、五障三従ゴショウサムショウトテ、オトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリ、コノユエニ一切イチサイ女人ニョニンヲバ、――馬鹿らしい。」 「いい声だ。」僕は目をつぶったままで言った。「もっとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈たいくつでたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問をおどろきもしなければ好奇心こうきしんも起さず、なんにも聞かないで、こうして目をつぶってらくらくと話し合えるということが、僕もそんな男になれたということが、うれしいのです。あなたは、どうですか。」 「いいえ。だって、仕方がありませんもの。お伽噺とぎばなしがおすきですか。」 「すきです。」

63

尼は語りはじめた、 「かにの話をいたしましょう、月夜の蟹のせているのは、砂浜にうつるおのがみにく月影つきかげにおびえ、終夜ねむらず、よろばい歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布こんぶの森のなかにおとなしくねむり、竜宮りゅうぐうの夢でも見ている態度こそゆかしいのでしょうけれども、蟹は月にうかされ、ただ砂浜へ砂浜へとあせるのです。砂浜へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹はあわをふきつつそうつぶやき呟きよろばい歩くのです。蟹の甲羅こうらはつぶれやすい。いいえ、形からして、つぶされるようにできています。蟹の甲羅のつぶれるときには、くらっしゅという音が聞えるそうです。むかし、いぎりすの或る大きい蟹は、生れながらに甲羅が赤くて美しかった。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでしょうか。またはかの大蟹のみずから招いたむくいなのでしょうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフェヘはいったのでした。カフェには、たくさんの小蟹こがにがむれつどい、煙草たばこをくゆらしながら女の話をしていました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、んだ目をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅こうらには、東洋的な灰色のくすんだしまがいっぱいに交錯こうさくしていました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしそうにさけつつ、こっそりささやいたというのです。『おまえ、くらっしゅされた蟹をいじめるものじゃないよ。』ああ、その大蟹に比較ひかくすれば、小さくて小さくて、見るかげもないまずしい蟹が、いま北方の海原うなばらからはじを忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂浜へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。このかげは、このひらべったいみにくい影は、ほんとうにおれの影であろうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給え。もうはや、おしつぶされかけている。おれの甲羅はこんなに不恰好ぶかっこうなのだろうか。こんなに弱弱しかったのだろうか。小さい小さい蟹は、そうつぶやきつつよろばい歩くのでした。おれには、才能があったのであろうか。いや、いや、あったとしても、それはおかしい才能だ。世わたりの才能というものだ。お前は原稿げんこうを売りむのに、編集者へんしゅうしゃへどんな色目をつかったか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着ようよ。作品に一言も注釈ちゅうしゃくを加えるな。退屈たいくつそうにこう言い給え。『もし、よかったら。』甲羅がうずく。からだの水気がかわいたようだ。この海水のにおいだけが、おれのたったひとつのとりえだったのに。潮のかおりがうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはいろうか。海の底の底の底へもぐろうか。なつかしきは昆布こんぶの森。遊牧の魚の群。小蟹は、あえぎあえぎ砂浜をよろばい歩いたのでした。うら苫屋とまやのかげでひとやすみ。くさりかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何処いずくの蟹。百伝ももづたう。角鹿つぬがの蟹。横去よこさらう。何処にいたる。……」口をつぐんだ。 「どうしたのです。」ぼくはつぶっていた眼をひらいた。 「いいえ。」あまはしずかに答えた。「もったいないのです。これは古事記の、…………。はちがあたりますよ。はばかりはどこでしょうかしら。」 「部屋を出て、廊下ろうかを右手へまっすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それがとびらです。」 「秋にもなりますと女人は冷えますので。」そう言ってから、いたずら児のように首をすくめ両方の目をくるくると回して見せた。僕は微笑ほほえんだ。

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尼は僕の部屋から出ていった。僕はふとんを頭からひきかぶって考えた。高邁こうまいなことがらについて思案したのではなかった。これあ、もうけものをしたな、と悪党らしくほくそ笑んだだけのことであった。

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尼は少しあわてふためいた様子でかえって来てふすまをぴたっとしめてから、立ったままで言った。 「私は寝なければなりません。もう十二時なのです。かまいませんでしょうか。」

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僕は答えた。 「かまいません。」

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どんなにびんぼうをしても蒲団ふとんだけは美しいのを持っていたいとぼくは少年のころから心がけていたのであるから、こんな工合ぐあいに不意のとまり客があったときにでも、まごつくことはなかったのだ。僕は起きあがり、僕の敷いて寝ている三枚の敷蒲団のうちから一枚ひきいて、僕の蒲団とならべて敷いた。 「この蒲団は不思議な模様ですね。ガラス絵みたいだわ。」

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僕は自分の二枚のかけ蒲団を一枚だけはいだ。 「いいえ。掛蒲団はらないのです。私はこのままで寝るのです。」 「そうですか。」僕はすぐ僕の蒲団の中へもぐりこんだ。

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あま珠数じゅずとおきょうの本とを蒲団のしたへそっとおしこんでから、ころものままで敷布のない蒲団のうえに横たわった。 「私の顔をよく見ていて下さい。みるみるねむってしまいます。それからすぐきりきりと歯ぎしりをします。すると如来にょらい様がおいでになりますの。」 「如来様ですか。」 「ええ。仏様が夜遊びにおいでになります。毎晩ですの。あなたは退屈たいくつをしていらっしゃるのだそうですから、よくごらんになればいいわ。なにをお断りしたのもそのためなのです。」

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なるほど、話おわるとすぐ、おだやかな寝息が聞えた。きりきりとするどい音が聞えたとき、部屋のふすまがことことと鳴ったのである。僕は蒲団から上半身をはみ出させてうでをのばし襖をあけてみたら、如来が立っていた。

71

二尺くらいの高さの白象にまたがっていたのである。白象には黒くびた金のくらが置かれていた。如来はいくぶん、いや、おおいにせこけていた。肋骨ろっこつが一本一本き出ていて、鎧扉よろいどのようであった。ぼろぼろの褐色かっしょくの布をこしのまわりにつけているだけで素裸すはだかであった。かまきりのように痩せ細った手足には蜘蛛くもの巣やすすがいっぱいついていた。皮膚ひふはただまっくろであって、短い頭髪とうはつは赤くちぢれていた。顔はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしゃくしゃとしわになっていた。 「如来様ですか。」 「そうです。」如来の声はひくいかすれ声であった。「のっぴきならなくなって、出て来ました。」 「なんだかくさいな。」僕は鼻をくんくんさせた。臭かったのである。如来が出現すると同時に、なんとも知れぬ悪臭あくしゅうが僕の部屋いっぱいに立ちこもったのである。 「やはりそうですか。この象が死んでいるのです。樟脳しょうのうをいれてしまっていたのですが、やはりにおうようですね。」それから一段と声をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはいりませんのでしてね。」 「ふつうの象でもかまわないのに。」 「いや、如来のていさいから言っても、そうはいかないのです。ほんとうに、私はこんな姿をしてまで出しゃばりたくはないのです。いやな奴等やつらがひっぱり出すのです。仏教がさかんになったそうですね。」 「ああ、如来にょらい様。早くどうにかして下さい。ぼくはさっきからくさくて息がつまりそうで死ぬ思いでいたのです。」 「お気の毒でした。」それからちょっと口ごもった。「あなた。私がここへ現われたとき滑稽こっけいではなかったかしら。如来の現われかたにしては、少しぶざまだと思わなかったでしょうか。思ったとおりを言って下さい。」 「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思いましたよ。」 「ほほ。そうですか。」如来は幾分いくぶんからだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさっきからそれだけが気がかりでならなかったのです。私は気取り屋なのかも知れませんね。これで安心して帰れます。ひとつあなたに、いかにも如来らしい退去のすがたをおめにかけましょう。」言いおわったとき如来はくしゃんとくしゃみを発し、「しまった!」とつぶやいたかと思うと如来も白象も紙が水に落ちたときのようにすっと透明とうめいになり、元素が音もなくみじんに分裂ぶんれつし雲と散りきりと消えた。

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僕はふたたび蒲団ふとんへもぐってあまながめた。尼はねむったままでにこにこ笑っていた。恍惚こうこつの笑いのようでもあるし、侮蔑ぶべつの笑いのようでもあるし、無心の笑いのようでもあるし、役者の笑いのようでもあるし、へつらいの笑いのようでもあるし、喜悦きえつの笑いのようでもあるし、泣き笑いのようでもあった。尼はにこにこ笑いつづけた。笑って笑って笑っているうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の流れるような音とともに二寸ほどの人形になった。僕は片うでをのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。浅黒いほおは笑ったままで凝結ぎょうけつし、雨滴うてきほどのくちびるなおうす赤く、けしつぶほどの白い歯はきっちり並んで生えそろっていた。粉雪ほどの小さい両手はかすかに黒く、松の葉ほど細い両あしは米粒ほどの白足袋しろたびを付けていた。僕は墨染すみぞめのころものすそをかるくいたりなどしてみたのである。




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