1 二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな学帽を、たくさんの希望者の中でとくにへどもどとまごつきながら願い出たひとりの新入生へ、くれてやって、帰郷した。鷹の羽の定紋うった軽い幌馬車は、若い主人を乗せて、停車場から三里のみちを一散にはしった。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者の叱咤、蹄鉄のにぶい響、それらにまじって、ひばりの声がいくども聞えた。
2 北の国では、春になっても雪があった。道だけは一筋くろく乾いていた。田圃の雪もはげかけた。雪をかぶった山脈のなだらかな起伏も、むらさきいろに萎えていた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼっていた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそっと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。
3 そうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ回って歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は薬草の臭気がした。茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂いが。彼は、表二階や裏二階や、離れ座敷にもさまよい出た。いちまいの襖をするするあける度毎に、彼のよごれた胸が幽かにときめくのであった。それぞれの匂いはきっと彼に都のことを思い出させたからである。
4 彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をもひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻の花は彼も軽蔑して眺めることができたけれど、耳をかすめて通る春の風と、ひくく騒いでいる秋の満目の稲田とは、彼の気にいっていた。
5 寝てからも、むかし読んだ小型の詩集や、真紅の表紙に黒いハンマアの画かれてあるような、そんな書物を枕元に置くことは、めったになかった。寝ながら電気スタンドを引き寄せて、両のてのひらを眺めていた。手相に凝っていたのである。掌にはたくさんのこまかい皺がたたまれていた。そのなかに三本の際だって長い皺が、ちりちりと横に並んではしっていた。この三つのうす赤い鎖が彼の運命を象徴しているというのであった。それに依れば、彼は感情と知能とが発達していて、生命は短いということになっていた。おそくとも二十代に死ぬるというのである。
6 その翌る年、結婚をした。べつに早いとも思わなかった。美人でさえあれば、と思った。華やかな婚礼があげられた。花嫁は近くのまちの造り酒屋の娘であった。色が浅黒くて、なめらかな頬にはうぶ毛さえ生えていた。編物を得意としていた。ひとつき程は彼も新妻をめずらしがった。
7 そのとしの、冬のさなかに父は五十九で死んだ。父の葬儀は雪の金色に光っている天気のいい日に行われた。彼は袴のももだちをとり、藁靴はいて、山のうえの寺まで十町ほどの雪道をぱたぱた歩いた。父の柩は輿にのせられて彼のうしろへついて来た。そのあとには彼の妹ふたりがまっ白いヴエルで顔をつつんで立っていた。行列は長くつづいていた。
8 父が死んで彼の境遇は一変した。父の地位がそっくり彼に移った。それから名声も。
9 さすがに彼はその名声にすこし浮わついた。工場の改革などをはかったのである。そうして、いちどでこりこりした。手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になって、かわったのは、洋室の祖父の肖像画がけしの花の油画と掛けかえられたことと、まだある、黒い鉄の門のうえに仏蘭西風の軒灯をぼんやり灯した。
10 すべてが、もとのままであった。変化は外からやって来た。父にわかれて二年目の夏のことであった。そのまちの銀行の様子がおかしくなったのである。もしものときには、彼の家も破産せねばいけなかった。
11 救済のみちがどうやらついた。しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちを怒らせた。彼には、永いあいだ気にかけていたことが案外はやく来てしまったような心地がした。奴等の要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりむしろ腹立たしい気持ちで支配人に言いつけた。求められたものは与える。それ以上は与えない。それでいいだろう? と彼は自身のこころに尋ねた。小規模の整理がつつましく行われた。
12 その頃から寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうえでトタンの屋根を光らせていた。彼はそこの住職と親しくした。住職は痩せ細って老いぼれていた。けれども右の耳朶がちぎれていて黒い痕をのこしているので、ときどきは兇悪な顔にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼって寺へかようのである。庫裡の縁先には夏草が高くしげっていて、鶏頭の花が四つ五つ咲いていた。住職はたいてい昼寝をしているのであった。彼はその縁先からもしもしと声をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を振って出て来た。
13 彼はきょうもんの意味に就いて住職に問うのであった。住職はちっとも知らなかった。住職はまごついてから、あはははと声を立てて笑うのである。彼もほろにがく笑ってみせた。それでよかった。ときたま住職へ怪談を所望した。住職は、かすれた声で二十いくつの怪談をつぎつぎと語って聞せた。この寺にも怪談があるだろう、と追及したら、住職は、とんとない、と答えた。
14 それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮ばかりしていた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺を厭いた。母が死んでから始めて気がついたことだけれども、彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめていたのであった。
15 母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣りのまちの大きい割烹店へとついでいた。下のは、都の、体操のさかんな或る私立の女学校へかよっていて、夏冬の休暇のときに帰郷するだけであった。黒いセルロイドの眼鏡をかけていた。彼等きょうだい三人とも、眼鏡をかけていたのである。彼は鉄ぶちを掛けていた。姉娘は細い金ぶちであった。
16 彼はとなりまちへ出て行ってあそんだ。自分の家のまわりでは心がひけて酒もなんにも飲めなかった。となりのまちでささやかな醜聞をいくつも作った。やがてそれにも疲れた。
17 子供がほしいと思った。少くとも、子供は妻との気まずさを救えると考えた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなわなかった。鼻に付いたのである。
18 三十になって、少しふとった。毎朝、顔を洗うときに両手へ石鹸をつけて泡をこしらえていると、手の甲が女のみたいにつるつる滑った。指先が煙草のやにで黄色く染まっていた。洗っても洗っても落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱ずつ吸っていた。
19 そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまえ、妻が都の病院に凡そひとつきも秘密な入院をしたのであった。
20 女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かった。髪がうすくて、眉毛はないのと同じであった。腕と脚が気品よく細長かった。生後二箇月目には、体重が五瓩、身長が五十八糎ほどになって、ふつうの子より発育がよかった。
21 生れて百二十日目に大がかりな誕生祝いをした。 紙の鶴 「おれは君とちがって、どうやらおめでたいようである。おれは処女でない妻をめとって、三年間、その事実を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきでないかも知れぬ。いまは幸福そうに編物へ熱中している妻に対しても、むざんである。また、世の中のたくさんの夫婦に対しても、いやがらせとなるであろう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顔を、なぐりつけてやりたいからだ。
22 おれは、ヴァレリイもプルウストも読まぬ。おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっとほんとうのものを見つめている。人間を。人間という言わば市場の蒼蠅を。それゆえおれにとっては、作家こそすべてである。作品は無である。
23 どういう傑作でも、作家以上ではない。作家を飛躍し超越した作品というものは、読者の眩惑である。君は、いやな顔をするであろう。読者にインスピレエションを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗とか生野暮とかといやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきり言ってもよい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。君がまさしく聡明ならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑える筈だ。笑えないならば、今後、かしこそうに口まげる癖をよし給え。
24 おれは、いま、君をはずかしめる意図からこの小説を書こう。この小説の題材は、おれの恥さらしとなるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫の情を求めまい。君より高い立場に拠って、人間のいつわりない苦悩というものを君の横面にたたきつけてやろうと思うのである。
25 おれの妻は、おれとおなじくらいの嘘つきであった。ことしの秋のはじめ、おれは一編の小説をしあげた。それは、おれの家庭の仕合せを神に誇った短編である。おれは妻にもそれを読ませた。妻は、それをひくく音読してしまってから、いいわ、と言った。そうして、おれにだらしない動作をしかけた。おれは、どれほどのろまでも、こういう妻のそぶりの陰に、ただならぬ気がまえを見てとらざるを得なかったのである。おれは、妻のそんな不安がどこからやって来たのか、それを考えて三夜をついやした。おれの疑惑は、ひとつのくやしい事実にかたまって行くのであった。おれもやはり、十三人目の椅子に座るべきおせっかいな性格を持っていた。
26 おれは妻をせめたのである。このことにもまた三夜をついやした。妻は、かえっておれを笑っていた。ときどきは怒りさえした。おれは最後の奸策をもちいた。その短編には、おれのような男に処女がさずかった歓喜をさえ書きしるされているのであったが、おれはその箇所をとりあげて、妻をいじめたのである。おれはいまに大作家になるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。するとお前は、この小説とともに百年のちまで嘘つきとして世にうたわれるであろう、と妻をおどかした。無学の妻は、果しておびえた。しばらく考えてから、とうとうおれに囁いた。たったいちど、と囁いたのである。おれは笑って妻を愛撫した。わかいころの怪我であるゆえ、それはなんでもないことだ、と妻に元気をつけてやって、おれはもっとくわしく妻に語らせるのであった。ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正した。それから、三度、と言った。おれは尚も笑いつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない名前であった。妻がその男のことを語っているうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛欲である。同時に真実の愛情である。妻は、ついに、六度ほど、と吐きだして声を立てて泣いた。
27 その翌る朝、妻はほがらかな顔つきをしていた。あさの食卓に向い合って座ったとき、妻はたわむれに、両手あわせておれを拝んだ。おれも陽気に下唇を噛んで見せた。すると妻はいっそうくつろいだ様子をして、くるしい? とおれの顔を覗いたでないか。おれは、すこし、と答えた。
28 おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きっと卑俗で生野暮なものだということを。
29 その日を、おれはどうして過したか、これをも君に教えて置こう。
30 こんなときには、妻の顔を、妻の脱ぎ捨ての足袋を、妻にかかわり合いのある一切を見てはいけない。妻のそのわるい過去を思い出すからというだけでない。おれと妻との最近までの安楽だった日を追想してしまうからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの年少の洋画家を訪れることにきめたのである。この友人は独身であった。妻帯者の友人はこの場合ふむきであろう。
31 おれはみちみち、おれの頭脳がからっぽにならないように警戒した。昨夜のことが入りこむすきのないほど、おれは別な問題について考えふけるのであった。人生や芸術の問題はいくぶん危険であった。殊に文学は、てきめんにあのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねった。からたちは、灌木である。春のおわりに白色の花をひらく。何科に属するかは知らぬ。秋、いますこし経つと黄いろい小粒の実がなるのだ。それ以上を考えつめると危い。おれはいそいで別な植物に眼を転ずる。すすき。これは禾本科に属する。たしか禾本科と教わった。この白い穂は、おばな、というのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききょう、かるかや、なでしこ、それから、おばな。もう二つ足りないけれど、なんであろう。六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るようにして、足を早めた。いくたびとなく躓いた。この落葉は。いや、植物はよそう。もっと冷いものを。もっと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。
32 おれは、AプラスBの二乗の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乗の公式について、研究した。
33 君は不思議なおももちを装うておれの話を聞いている。けれども、おれは知っている。おそらくは君も、おれのような災難を受けたときには、いや、もっと手ぬるい問題にあってさえ君の日ごろの高雅な文学論を持てあまして、数学はおろか、かぶと虫いっぴきにさえとりすがろうとするであろう。
34 おれは人体の内臓器管の名称をいちいち数えあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。
35 友人の部屋の扉をノックしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでいる四つの金魚について、その鰭の数をしらべた。友人は、まだ寝ていたのであった。片眼だけをしぶくあけて、出て来た。友人の部屋へはいって、おれはようやくほっとした。
36 いちばん恐ろしいのは孤独である。なにか、おしゃべりをしていると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はこういう条件にかなっている。
37 おれは友人の近作について饒舌をふるった。それは二十号の風景画であった。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建っている画であった。友人は、それを内気らしくカンヴァスを裏がえしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひっくりかえして眺めたのである。おれはそのときどんな批評をしたであろうか。もし、君の芸術批評が立派なものであるとしたなら、おれのそのときの批評も、まんざらではなかったようである。なぜと言って、おれもまた君のように、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構図について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。能うかぎりの概念的な言葉でもって。
38 友人はいちいちおれの言うことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ余裕をさえ与えなかったほど、おしゃべりをつづけたのである。
39 しかし、こういう饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切って、この年少の友に将棋をいどんだ。ふたりは寝床のうえに座って、くねくねと曲った線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ、早い将棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであった。たとえ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思いをしたくなかったのである。
40 こんなせっぱつまった心がまえは所詮ながくつづかぬものである。おれは将棋にさえ危機を感じはじめた。ようやく疲労を覚えたのだ。よそう、と言って、おれは将棋の道具をとりのけ、その寝床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うっかり者。休止は、おれにとっては大敵なのだった。かなしい影がもうはや、いくどとなくおれの胸をかすめる。おれは、さて、さて、と意味もなく呟いては、その大きい影を追いはらっていた。とてもこのままではならぬ。おれは動いていなければいけないのだ。
41 君は、これを笑うであろうか。おれは寝床へ腹這いになって、枕元に散らばってあった鼻紙をいちまい拾い、折紙細工をはじめたのである。
42 まずこの紙を対角線に沿うて二つに折って、それをまた二つに畳んで、こうやって袋を作って、それから、こちらの端を折って、これは翼、こちらの端を折って、これはくちばし、こういう工合いにひっぱって、ここのちいさい孔からぷっと息を吹きこむのである。これは、鶴。」 水車
43 橋へさしかかった。男はここで引きかえそうと思った。女はしずかに橋を渡った。男も渡った。
44 女のあとを追ってここまで歩いて来なければいけなかったわけを、男はあれこれと考えてみた。みれんではなかった。女のからだからはなれたとたんに、男の情熱はからっぽになってしまった筈である。女がだまって帰り仕度をはじめたとき、男は煙草に火を点じた。おのれの手のふるえてもいないのに気が付いて、男はいっそう白白しい心地がした。そのままほって置いてもよかったのである。男は女と一緒に家を出た。
45 二人は土堤の細い道を、あとになりさきになりしながらゆっくり歩いた。初夏の夕暮のことである。はこべの花が道の両側にてんてんと白く咲いていた。
46 憎くてたまらぬ異性にでなければ関心を持てない一群の不仕合せな人たちがいる。男もそうであった。女もそうであった。女はきょうも郊外の男の家を訪れて、男の言葉の一つ一つに訳のわからぬ嘲笑を浴びせたのである。男は、女の執拗な侮辱に対して、いまこそ腕力を用いようと決心した。女もそれを察して身構えた。こういうせっぱつまったわななきが、二人のゆがめられた愛欲をあおりたてた。男の力はちがった形式で行われた。めいめいのからだを取り返したとき、二人はみじんも愛し合っていない事実をはっきり知らされた。
47 こうやって二人ならんで歩いているが、お互いに妥協の許さぬ反発を感じていた。以前にました憎悪を。
48 土堤のしたには、二間ほどのひろさの川がゆるゆると流れていた。男は薄闇のなかで鈍く光っている水のおもてを見つめながら、また、引きかえそうかしら、と考えた。女は、うつむいたまま道を真直に歩いていた。男は女のあとを追った。
49 みれんではない。解決のためだ。いやな言葉だけれど、あとしまつのためだ。男は、やっと言いわけを見つけたのである。男は女から十歩ばかり離れて歩きながら、ステッキを振ってみちみちの夏草を薙ぎ倒していた。かんにんして下さい、とひくく女に囁けば、何か月なみの解決がつきそうにも思われる。男はそれも心得ていた。が、言えなかった。だいいち時機がおくれている。これは、その直後にこそ効果のある言葉らしい。ふたりが改めて対陣し直したいまになって、これを言いだすのは、いかにも愚かしくないか。男は青蘆をいっぽん薙ぎ倒した。
50 列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふっと振りむいた。男もいそいで顔をうしろにねじむけた。列車は川下の鉄橋を渡っていた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の目の前をとおっていった。男は、おのれの背中にそそがれている女の視線をいたいほど感じていた。列車は、もう通り過ぎてしまって、前方の森の陰からその車両のひびきが聞えるだけであった。男は、ひと思いに、正面にむき直った。もし女と視線がかち合ったなら、そのときには鼻で笑ってこう言ってやろう。日本の汽車もわるくないね。
51 女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いていたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の目にしみた。このままうちへ帰るつもりかしら。いっそ、けっこんしようか。いや、ほんとうはけっこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。
52 男はステッキをぴったり小脇にかかえて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女は痩せた肩をすこしいからせて、ちゃんとした足どりで歩いていた。男は、女の二三歩うしろまではしって来て、それからのろのろと歩いた。憎悪だけが感ぜられるのだ。女のからだじゅうから、我慢できぬいやな臭いが流れて出てくるように思われた。
53 二人はだまって歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊が、ぽっかり浮んだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。
54 逃げよう。解決もなにも要らぬ。おれが女の心に油ぎった悪党として、つまりふつうの男として残ったとて、構わぬ。どうせ男はこういうものだ。逃げよう。
55 川楊のひとむれを通り越すと、二人は顔を合せずに、またより添って歩いた。たったひとこと言ってやろうか。おれは口外しないよ、と。男は片手で袂の煙草をさぐった。それとも、こう言ってやろうか。令嬢の生涯にいちど、奥様の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけっこんをなさい。すると、この女はなんと答えるのであろう。ストリンドベリイ? と反問してくるにちがいない。男はマッチをすった。女の蒼黒い片頬がゆがんだまま男のつい鼻の先に浮んだ。
56 とうとう男は立ちどまった。女も立ちどまった。お互いに顔をそむけたまま、しばらく立ちつくしていたのである。男は女が泣いてもいないらしいのをいまいましく思いながら、わざと気軽そうにあたりを見回した。じき左側に男の好んで散歩に来る水車小屋があった。水車は闇のなかでゆっくりゆっくりまわっていた。女は、くるっと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草をくゆらしながら踏みとどまった。呼びとめようとしないのだ。 尼
57 九月二十九日の夜更けのことであった。あと一日がまんをして十月になってから質屋へ行けば、利子がひと月分もうかると思ったので、僕は煙草ものまずにその日いちにち寝てばかりいた。昼のうちにたくさん眠った罰で、夜は眠れないのだ。夜の十一時半ころ、部屋の襖がことことと鳴った。風だろうと思っていたのだが、しばらくして、またことことと鳴った。おや、誰か居るのかなとも思われ、蒲団から上半身をくねくねはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、若い尼が立っていた。
58 中肉のやや小柄な尼であった。頭は青青していて、顔全体は卵のかたちに似ていた。頬は浅黒く、粉っぽい感じであった。眉は地蔵さまの三日月眉で、目は鈴をはったようにぱっちりしていて、睫がたいへん長かった。鼻はこんもりともりあがって小さく、両唇はうす赤く少し大きく、紙いちまいの厚さくらいあいていてそのすきまから真白い歯列が見えていた。こころもち受け口であった。墨染めのころもは糊つけしてあるらしく折目折目がきっちりとなっていて、いくらか短かめであった。脚が三寸くらい見えていて、そのゴム毬みたいにふっくりふくらんだ桃いろの脚にはうぶ毛が薄く生えそろい、足頸が小さすぎる白足袋のためにきつくしめつけられて、くびれていた。右手には青玉の珠数を持ち、左手には朱いろの表紙の細長い本を持っていた。
59 僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりと言った。尼は僕の部屋へはいり、静かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まで歩いて来て、それから、ちゃんと座った。僕は蒲団の中へもぐりこみ、仰向けに寝たままで尼の顔をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲った。息がとまって、目さきがまっくろになった。 「よく似ているが、あなたは妹じゃないのですね。」はじめから僕には妹などなかったのだな、とそのときはじめて気がついた。「あなたは、誰ですか。」
60 尼は答えた。 「私はうちを間違えたようです。仕方がありません。同じようなものですものね。」
61 恐怖がすこしずつ去っていった。僕は尼の手を見ていた。爪が二分ほども伸びて、指の節は黒くしなびていた。 「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。こうして寝ながら見ていると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに。」
62 尼は答えた。 「汚いことをしたからです。私だって知っています。だからこうして珠数やお経の本で隠そうとしているのです。私は色の配合のために珠数とお経の本とを持って歩いているのです。黒いころもには青と朱の二色がよくうつって、私のすがたもまさって見えます。」そう言いながら、お経の本のペエジをぱらぱらめくった。「読みましょうか。」 「ええ。」僕は眼をつぶった。 「おふみさまです。夫人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ観ズルニ、オオヨソハカナキモノハ、コノ世ノ始中終マボロシノゴトクナル一期ナリ、――てれくさくて読まれるものか。べつなのを読みましょう。夫女人ノ身ハ、五障三従トテ、オトコニマサリテカカルフカキツミノアルナリ、コノユエニ一切ノ女人ヲバ、――馬鹿らしい。」 「いい声だ。」僕は目をつぶったままで言った。「もっとつづけなさいよ。僕は一日一日、退屈でたまらないのです。誰ともわからぬひとの訪問を驚きもしなければ好奇心も起さず、なんにも聞かないで、こうして目をつぶってらくらくと話し合えるということが、僕もそんな男になれたということが、うれしいのです。あなたは、どうですか。」 「いいえ。だって、仕方がありませんもの。お伽噺がおすきですか。」 「すきです。」
63 尼は語りはじめた、 「蟹の話をいたしましょう、月夜の蟹の痩せているのは、砂浜にうつるおのが醜い月影におびえ、終夜ねむらず、よろばい歩くからであります。月の光のとどかない深い海の、ゆらゆら動く昆布の森のなかにおとなしく眠り、竜宮の夢でも見ている態度こそゆかしいのでしょうけれども、蟹は月にうかされ、ただ砂浜へ砂浜へとあせるのです。砂浜へ出るや、たちまちおのが醜い影を見つけ、おどろき、かつはおそれるのです。ここに男あり、ここに男あり、蟹は泡をふきつつそう呟き呟きよろばい歩くのです。蟹の甲羅はつぶれ易い。いいえ、形からして、つぶされるようにできています。蟹の甲羅のつぶれるときには、くらっしゅという音が聞えるそうです。むかし、いぎりすの或る大きい蟹は、生れながらに甲羅が赤くて美しかった。この蟹の甲羅は、いたましくもつぶされかけました。それは民衆の罪なのでしょうか。またはかの大蟹のみずから招いたむくいなのでしょうか。大蟹は、ひと日その白い肉のはみ出た甲羅をせつなげにゆさぶりゆさぶり、とあるカフェヘはいったのでした。カフェには、たくさんの小蟹がむれつどい、煙草をくゆらしながら女の話をしていました。そのなかの一匹、ふらんす生れの小蟹は、澄んだ目をして、かの大蟹のすがたをみつめました。その小蟹の甲羅には、東洋的な灰色のくすんだ縞がいっぱいに交錯していました。大蟹は、小蟹の視線をまぶしそうにさけつつ、こっそり囁いたというのです。『おまえ、くらっしゅされた蟹をいじめるものじゃないよ。』ああ、その大蟹に比較すれば、小さくて小さくて、見るかげもないまずしい蟹が、いま北方の海原から恥を忘れてうかれ出た。月の光にみせられたのです。砂浜へ出てみて、彼もまたおどろいたのでした。この影は、このひらべったい醜い影は、ほんとうにおれの影であろうか。おれは新しい男である。しかし、おれの影を見給え。もうはや、おしつぶされかけている。おれの甲羅はこんなに不恰好なのだろうか。こんなに弱弱しかったのだろうか。小さい小さい蟹は、そう呟きつつよろばい歩くのでした。おれには、才能があったのであろうか。いや、いや、あったとしても、それはおかしい才能だ。世わたりの才能というものだ。お前は原稿を売り込むのに、編集者へどんな色目をつかったか。あの手。この手。泣き落しならば目ぐすりを。おどかしの手か。よい着物を着ようよ。作品に一言も注釈を加えるな。退屈そうにこう言い給え。『もし、よかったら。』甲羅がうずく。からだの水気が乾いたようだ。この海水のにおいだけが、おれのたったひとつのとりえだったのに。潮の香がうせたなら、ああ、おれは消えもいりたい。もいちど海へはいろうか。海の底の底の底へもぐろうか。なつかしきは昆布の森。遊牧の魚の群。小蟹は、あえぎあえぎ砂浜をよろばい歩いたのでした。浦の苫屋のかげでひとやすみ。腐りかけたいさり舟のかげでひとやすみ。この蟹や。何処の蟹。百伝う。角鹿の蟹。横去う。何処に到る。……」口を噤んだ。 「どうしたのです。」僕はつぶっていた眼をひらいた。 「いいえ。」尼はしずかに答えた。「もったいないのです。これは古事記の、…………。罰があたりますよ。はばかりはどこでしょうかしら。」 「部屋を出て、廊下を右手へまっすぐに行きますと杉の戸板につきあたります。それが扉です。」 「秋にもなりますと女人は冷えますので。」そう言ってから、いたずら児のように首をすくめ両方の目をくるくると回して見せた。僕は微笑んだ。
64 尼は僕の部屋から出ていった。僕はふとんを頭からひきかぶって考えた。高邁なことがらについて思案したのではなかった。これあ、もうけものをしたな、と悪党らしくほくそ笑んだだけのことであった。
65 尼は少しあわてふためいた様子でかえって来て襖をぴたっとしめてから、立ったままで言った。 「私は寝なければなりません。もう十二時なのです。かまいませんでしょうか。」
66 僕は答えた。 「かまいません。」
67 どんなにびんぼうをしても蒲団だけは美しいのを持っていたいと僕は少年のころから心がけていたのであるから、こんな工合いに不意の泊り客があったときにでも、まごつくことはなかったのだ。僕は起きあがり、僕の敷いて寝ている三枚の敷蒲団のうちから一枚ひき抜いて、僕の蒲団とならべて敷いた。 「この蒲団は不思議な模様ですね。ガラス絵みたいだわ。」
68 僕は自分の二枚の掛蒲団を一枚だけはいだ。 「いいえ。掛蒲団は要らないのです。私はこのままで寝るのです。」 「そうですか。」僕はすぐ僕の蒲団の中へもぐりこんだ。
69 尼は珠数とお経の本とを蒲団のしたへそっとおしこんでから、ころものままで敷布のない蒲団のうえに横たわった。 「私の顔をよく見ていて下さい。みるみる眠ってしまいます。それからすぐきりきりと歯ぎしりをします。すると如来様がおいでになりますの。」 「如来様ですか。」 「ええ。仏様が夜遊びにおいでになります。毎晩ですの。あなたは退屈をしていらっしゃるのだそうですから、よくごらんになればいいわ。なにをお断りしたのもそのためなのです。」
70 なるほど、話おわるとすぐ、おだやかな寝息が聞えた。きりきりとするどい音が聞えたとき、部屋の襖がことことと鳴ったのである。僕は蒲団から上半身をはみ出させて腕をのばし襖をあけてみたら、如来が立っていた。
71 二尺くらいの高さの白象にまたがっていたのである。白象には黒く錆びた金の鞍が置かれていた。如来はいくぶん、いや、おおいに痩せこけていた。肋骨が一本一本浮き出ていて、鎧扉のようであった。ぼろぼろの褐色の布を腰のまわりにつけているだけで素裸であった。かまきりのように痩せ細った手足には蜘蛛の巣や煤がいっぱいついていた。皮膚はただまっくろであって、短い頭髪は赤くちぢれていた。顔はこぶしほどの大きさで、鼻も眼もわからず、ただくしゃくしゃと皺になっていた。 「如来様ですか。」 「そうです。」如来の声はひくいかすれ声であった。「のっぴきならなくなって、出て来ました。」 「なんだか臭いな。」僕は鼻をくんくんさせた。臭かったのである。如来が出現すると同時に、なんとも知れぬ悪臭が僕の部屋いっぱいに立ちこもったのである。 「やはりそうですか。この象が死んでいるのです。樟脳をいれてしまっていたのですが、やはり匂うようですね。」それから一段と声をひくめた。「いま生きた白象はなかなか手にはいりませんのでしてね。」 「ふつうの象でもかまわないのに。」 「いや、如来のていさいから言っても、そうはいかないのです。ほんとうに、私はこんな姿をしてまで出しゃばりたくはないのです。いやな奴等がひっぱり出すのです。仏教がさかんになったそうですね。」 「ああ、如来様。早くどうにかして下さい。僕はさっきから臭くて息がつまりそうで死ぬ思いでいたのです。」 「お気の毒でした。」それからちょっと口ごもった。「あなた。私がここへ現われたとき滑稽ではなかったかしら。如来の現われかたにしては、少しぶざまだと思わなかったでしょうか。思ったとおりを言って下さい。」 「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思いましたよ。」 「ほほ。そうですか。」如来は幾分からだを前へのめらせた。「それで安心しました。私はさっきからそれだけが気がかりでならなかったのです。私は気取り屋なのかも知れませんね。これで安心して帰れます。ひとつあなたに、いかにも如来らしい退去のすがたをおめにかけましょう。」言いおわったとき如来はくしゃんとくしゃみを発し、「しまった!」と呟いたかと思うと如来も白象も紙が水に落ちたときのようにすっと透明になり、元素が音もなくみじんに分裂し雲と散り霧と消えた。
72
僕はふたたび蒲団へもぐって尼を眺めた。尼は眠ったままでにこにこ笑っていた。恍惚の笑いのようでもあるし、侮蔑の笑いのようでもあるし、無心の笑いのようでもあるし、役者の笑いのようでもあるし、諂いの笑いのようでもあるし、喜悦の笑いのようでもあるし、泣き笑いのようでもあった。尼はにこにこ笑いつづけた。笑って笑って笑っているうちに、だんだんと尼は小さくなり、さらさらと水の流れるような音とともに二寸ほどの人形になった。僕は片腕をのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。浅黒い頬は笑ったままで凝結し、雨滴ほどの唇は尚うす赤く、けし粒ほどの白い歯はきっちり並んで生えそろっていた。粉雪ほどの小さい両手はかすかに黒く、松の葉ほど細い両脚は米粒ほどの白足袋を付けていた。僕は墨染めのころものすそをかるく吹いたりなどしてみたのである。
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使用権フリー作品集シリーズ
太宰治全作品集 1
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変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年2月