猿ケ島

       太宰 治

1

はるばると海をえて、この島に着いたときの私の憂愁ゆうしゅうを思い給え。夜なのか昼なのか、島は深いきりに包まれてねむっていた。私は目をしばたたいて、島の全貌ぜんぼうを見すかそうと努めたのである。はだかの大きい岩が急な勾配こうばいを作っていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞屈どうくつのくろい口のあいているのがおぼろに見えた。これは山であろうか。一本の青草もない。

2

私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。おおかみであろうか。くまであろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆だいたんになっていた。私はこういう咆哮ほうこうをさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。

3

私は島の単調さにおどろいた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手にはあら胡麻石ごまいしが殆ど垂直にそそり立っているのだ。そのあいだに、いま私の歩いている此の道が、六尺ほどのはばで、坦々たんたんとつづいている。

4

道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労ひろうから、なにものもおそれぬ勇気を得ていたのである。

5

ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解りょうかいした。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。私は島が思いのほかに小さいのを知った。

6

霧は次第しだいにうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額のうえにのしかかって見えだした。みねが三つ。まんなかの円い峯は、高さが三四じょうもあるであろうか、様様の色をしたひらたい岩でたたまれ、その片側の傾斜けいしゃがゆるく流れてとなりの小さくとがった峯へび、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖だんがいをなしてその峯の中腹あたりにまですべり落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。断崖と丘のはざまから、細いたきがひとすじ流れ出ていた。滝の付近の岩は勿論もちろん、島全体が濃い霧のためにあおぐろれているのである。木が二本見える。滝口に、一本。かしに似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。そうして、いずれもれている。

7

私はこの荒涼こうりょうの風景をながめて、しばらくぼんやりしていた。霧はいよいようすらいで、日の光がまんなかの峯にさし始めた。霧にぬれた峯は、かがやいた。朝日だ。それが朝日であるか、夕日であるか、私にはその香気こうきでもって識別することができるのだ。それでは、いまは夜明けなのか。

8

私は、いくぶんすがすがしい気持になって、山をよじ登ったのである。見た目には、けわしそうでもあるが、こうして登ってみると、きちんきちんと足だまりができていて、さほど難渋なんじゅうでない。とうとう滝口たきぐちにまでいのぼった。

9

ここには朝日がまっすぐに当り、なごやかな風さえほおに感ぜられるのだ。私はかしに似た木の傍へ行って、こしをおろした。これは、ほんとうに樫であろうか、それともならもみであろうか。私はこずえまでずっと見あげたのである。れた細い枝が五六本、空にむかい、手ぢかなところにある枝は、たいていぶざまにへし折られていた。のぼってみようか。   ふぶきのこえ   われをよぶ

10

風の音であろう。私はするするのぼり始めた。   とらわれの   われをよぶ

11

気疲きづかれがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二三度ばさばさゆすぶってみた。   いのちともしき   われをよぶ

12

足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。 「折ったな。」

13

その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、うつろな目で声のありかをさがしたのである。ああ。戦慄せんりつが私の背を走る。朝日を受けて金色にかがやく断崖だんがいを一匹のさるがのそのそと降りて来るのだ。私のからだの中でそれまでねむらされていたものが、いちどにきらっと光り出した。 「降りて来い。枝を折ったのはおれだ。」 「それは、おれの木だ。」

14

がけを降りつくした彼は、そう答えて滝口のほうへ歩いて来た。私は身構えた。彼はまぶしそうに額へたくさんのしわをよせて、私の姿をじろじろながめ、やがて、まっ白い歯をむきだして笑った。笑いは私をいらだたせた。 「おかしいか。」 「おかしい。」彼は言った。「海をわたって来たろう。」 「うん。」私は滝口たきぐちからもくもくいて出る波の模様をながめながらうなずいた。せま苦しい箱の中で過したながい旅路を回想したのである。「なんだか知れぬが、おおきい海を。」 「うん。」また、うなずいてやった。 「やっぱり、おれと同じだ。」

15

彼はそうつぶやき、滝口の水をすくって飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで座っていたのである。 「ふるさとが同じなのさ。一目、見ると判る。おれたちの国のものは、みんな耳が光っているのだよ。」

16

彼は私の耳を強くつまみあげた。私はおこって、彼のそのいたずらした右手をひっいてやった。それから私たちは顔を見合せて笑った。私は、なにやらくつろいだ気分になっていたのだ。

17

けたたましいさけび声がすぐ身ぢかで起った。おどろいてりむくと、ひとむれの尾の太い毛むくじゃらなさるが、丘のてっぺんにじんどって私たちへえかけているのである。私は立ちあがった。 「よせ、よせ。こっちへ手むかっているのじゃないよ。ほえざるというやつさ。毎朝あんなにして太陽に向って吠えたてるのだ。」

18

私は呆然ぼうぜんと立ちつくした。どの山のみねにも、猿がいっぱいにむらがり、背をまるくして朝日を浴びているのである。 「これは、みんな猿か。」

19

私は夢みるようであった。 「そうだよ、しかし、おれたちとちがう猿だ。ふるさとがちがうのさ。」

20

私は彼等を一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風にかせながら児猿こざるに乳を飲ませている者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌っている者。しまの美事な尾を振りながら日光のなかでつるんでいる者。しかめつらをして、せわしげにあちこちと散歩している者。

21

私は彼にささやいた。 「ここは、どこだろう。」

22

彼は慈悲じひふかげなまなざしで答えた。 「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないようだ。」 「そうか。」私は溜息ためいきをついた。「でも、この木は木曾樫きそがしのようだが。」

23

彼はりかえって枯木かれきの幹をぴたぴたとたたき、ずっとこずえを見あげたのである。 「そうでないよ。枝のえかたがちがうし、それに、木肌きはだの日の反射のしかただってにぶいじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」

24

私は立ったまま、枯木へ寄りかかって彼にたずねた。 「どうして芽が出ないのだ。」 「春から枯れているのさ。おれがここへ来たときにも枯れていた。あれから、四月、五月、六月、と三つきもっているが、しなびて行くだけじゃないか。これは、ことに依ったら挿木さしきでないかな。根がないのだよ、きっと。あっちの木は、もっとひどいよ。奴等やつらのくそだらけだ。」

25

そう言って彼は、ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もうきやんでいて、島は割合に平静であった。 「座らないか。話をしよう。」

26

私は彼にぴったりくっついて座った。 「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」彼は脚下きゃっかの小さいたきを満足げに見おろしたのである。「おれは、日本の北方の海峡かいきょうちかくに生れたのだ。夜になると波の音がかすかにどぶんどぶんと聞えたよ。波の音って、いいものだな。なんだかじわじわ胸をそそるよ。」

27

私もふるさとのことを語りたくなった。 「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山のおくの奥で生れたものだから。青葉のかおりはいいぞ。」 「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だから、この島にいる奴は誰にしたって、一本でも木のあるところに座りたいのだよ。」言いながら彼はまたの毛をわけて、深い赤黒い傷跡きずあとをいくつも私に見せた。「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」

28

私は、この場所から立ち去ろうと思った。「おれは、知らなかったものだから。」 「いいのだよ、構わないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないようにしろよ。」

29

きりはまったく晴れわたって、私たちのすぐ目のまえに、異様な風景が現出したのである。青葉。それがまず私の目にしみた。私には、いまの季節がはっきり判った。ふるさとでは、しいの若葉が美しいころなのだ。私は首をふりふりこの並木の青葉をながめた。しかし、そういう陶酔とうすい瞬時しゅんじに破れた。私はふたたび驚愕きょうがくの目を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利じゃり道がすずしげにかれていて、白いよそおいをしたひとみの青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。へびの皮のふといつえをゆるやかにって右左に微笑びしょうを送る男もいた。

30

彼は私のわななく胴体どうたいをつよくき、口早にささやいた。 「おどろくなよ。毎日こうなのだ。」 「どうなるのだ。みんなおれたちをねらっている。」山でとらわれ、この島につくまでの私のむざんな経歴が思い出され、私は下唇したくちびるみしめた。 「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。だまって見ていろ。面白いこともあるよ。」

31

彼はせわしげにそう教えて、片手ではなおも私のからだを抱きかかえ、もう一方の手であちこちの人間を指さしつつ、ひそひそ物語って聞かせたのである。あれは人妻と言って、亭主ていしゅのおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間のへそというものが、あんな形であるかも知れぬ。あれは学者と言って、死んだ天才にめいわくな注釈をつけ、生れる天才をたしなめながらめしを食っているおかしなやつだが、おれはあれを見るたびに、なんとも知れずねむたくなるのだ。あれは女優と言って、舞台にいるときよりも素面すがおでいるときのほうが芝居しばいの上手な婆で、おおお、またおれのおくの虫歯がいたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者しょうたんものだが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいにしらみって歩いているようなもどかしさを覚える。また、あそこのベンチにこしかけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ現われたら、もはや中天に、くさく黄色いふん竜巻たつまきが現われているじゃないか。

32

私は彼の饒舌じょうぜつをうつつに聞いていた。私は別なものを見つめていたのである。燃えるような四つの目を。青くんだ人間の子供の目を。先刻よりこの二人の子供は、島の外廓がいかくに築かれた胡麻石ごまいしへいからやっと顔だけをのぞきこませ、むさぼるように島を眺めまわしているのだ。二人ながら男の子であろう。短い金髪きんぱつが、朝風にぱさぱさおどっている。ひとりは、そばかすで鼻がまっくろである。もうひとりの子は、ももの花のようなほおをしている。

33

やがて二人は、同時に首をかしげて思案した。それから鼻のくろい子供が唇をむっととがららせ、はげしい口調で相手に何か耳うちした。私は彼のからだを両手でゆすぶってさけんだ。 「何を言っているのだ。教えて呉れ。あの子供たちは何を言っているのだ。」

34

彼はぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりを止し、私の顔と向うの子供たちとを見くらべた。そうして、口をもぐもぐ動かしつつしばらく思いにしずんだのだ。私は彼のそういう困却にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀いしべいの上からかげを消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻をきむしったりしながら、ひどく躊躇ちゅうちょをしていたが、やがて、口角に意地わるげな笑いをさえふくめてのろのろと言いだした。 「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ。」

35

変らない。私には一切いっさいがわかった。私の疑惑ぎわくが、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。 「そうか。すると、君はうそをついていたのだね。」ぶち殺そうと思った。

36

彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。 「ふびんだったから。」

37

私は彼のはばのひろい胸にむしゃぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤怒ふんぬよりも、おのれの無知に対する羞恥しゅうちの念がたまらなかった。 「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげにつぶやいた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう? おれたちには裏の薄汚うすぎたなく赤ちゃけた木目だけを見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本のさるだ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱ぶじょくが書かれてあるのかも知れないよ。」

38

私は聞きたくもなかった。彼のうでからのがれ、枯木かれきのもとへ飛んで行った。のぼった。こずえにしがみつき、島の全貌ぜんぼう見渡みわたしたのである。日はすでに高く上って、島のここかしこから白いもやがほやほやと立っていた。百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向ひなたぼっこして遊んでいた。私は、滝口たきぐちの傍でじっとうずくまっている彼に声をかけた。 「みんな知らないのか。」

39

彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。 「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」 「なぜげないのだ。」 「君は逃げるつもりか。」 「逃げる。」

40

青葉。砂利じゃり道。人の流れ。 「こわくないか。」

41

私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。

42

はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじって、低い歌声がひびいて来た。彼が歌っているのであろうか。目が熱い。さっき私を木から落したのは、この歌だ。私は目をつぶったまま耳かたむけたのである。 「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。」

43

彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。

44

ああ。この誘惑ゆうわくは真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育った私の馬鹿ばかな血は、やはり執拗しつようさけぶのだ。 ――いな

45

一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本ざる遁走とんそうが報ぜられた。行方ゆくえが知れぬのである。しかも、一匹でなかった。二匹である。




使用したテキストファイル
使用権フリー作品集シリーズ
太宰治全作品集 1
  制作・販売:マイクロ テクノロジー株式会社
変更箇所
  ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
  行間処理:行間180%
  段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
        :段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
        :段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年2月