道化の華

       太宰 治



「ここを過ぎて悲しみのまち。」

1

友はみな、ぼくからはなれ、かなしき眼もて僕をながめる。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、そのを水にしずめた。僕は悪魔の傲慢ごうまんさもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。

2

大庭葉蔵おおばようぞうはベッドのうえに座って、おきを見ていた。沖は雨でけむっていた。

3

夢よりめ、僕はこの数行を読みかえし、そのみにくさといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰おおぎょうきわまったり。だいいち、大庭葉蔵とはなにごとであろう。酒でない、ほかのもっと強烈きょうれつなものにいしれつつ、僕はこの大庭葉蔵に手をった。この姓名せいめいは、僕の主人公にぴったり合った。大庭は、主人公のただならぬ気魄きはく象徴しょうちょうしてあますところがない。葉蔵はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底からき出るほんとうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉蔵とこう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに画期かっき的ではないか。その大庭葉蔵が、ベッドに座り雨にけむる沖を眺めているのだ。いよいよ画期的ではないか。

4

よそう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から来るようだ。現に僕にしても、ひとから言われたくないゆえ、まずまっさきにおのれのからだへくぎをうつ。これこそ卑怯ひきょうだ。もっと素直にならなければいけない。ああ、謙譲けんじょうに。

5

大庭葉蔵。

6

笑われてもしかたがない。のまねをするからす。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだろうけれど、僕にはちょっとめんどうらしい。いっそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」という主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひょっくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかった、としたり顔して述懐じゅっかいする奇妙きみょうな男が出て来ないとも限らぬ。ほんとうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉蔵をやはりし通す。おかしいか。なに、君だって。

7

一九二九年、十二月のおわり、この青松園という海浜の療養りょうよう院は、葉蔵の入院で、すこしさわいだ。青松園には三十六人の肺結核患者けっかくかんじゃがいた。二人の重症じゅうしょう患者と、十一人の軽症患者とがいて、あとの二十三人は回復かいふく期の患者かんじゃであった。葉蔵ようぞうの収容された東第一病棟びょうとうは、言わば特等の入院室であって、六室に区切られていた。葉蔵の室の両隣りょうどなりは空室で、いちばん西側のへ号室には、背と鼻のたかい大学生がいた。東側のい号室とろ号室には、わかい女のひとがそれぞれ寝ていた。三人とも回復期の患者である。その前夜、たもとヶ浦で心中があった。一緒いっしょに身を投げたのに、男は、帰帆きはんの漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであった。その女のひとをさがしに半鐘はんしょうをながいことはげしく鳴らして村の消防手どものいくそうもいく艘もつぎつぎと漁船をおきへ乗り出して行く掛声かけごえを、三人は、胸とどろかせて聞いていた。漁船のともす赤い火影ほかげが、終夜、江の島の岸を彷徨さまようた。大学生も、ふたりのわかい女も、その夜はねむれなかった。あけがたになって、女の死体が袂ヶ浦の波打際で発見された。短く刈りあげたかみがつやつや光って、顔は白くむくんでいた。

8

葉蔵はそのの死んだのを知っていた。漁船でゆらゆら運ばれていたとき、すでに知ったのである。星空のしたでわれにかえり、女は死にましたか、とまずたずねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答えた。なにやら慈悲じひぶかい口調であった。死んだのだな、とうつつに考えて、また意識を失った。ふたたび眼ざめたときには、療養りょうよう院のなかにいた。せまくるしい白い板壁いたかべの部屋に、ひとがいっぱいつまっていた。そのなかの誰かが葉蔵の身元をあれこれと尋ねた。葉蔵は、いちいちはっきり答えた。夜が明けてから、葉蔵は別のもっとひろい病室に移された。変を知らされた葉蔵の国元で、彼の処置につき、取りあえず青松園へ長距離ちょうきょり電話を寄こしたからである。葉蔵のふるさとは、ここから二百里もはなれていた。

9

東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寝ているということに不思議な満足を覚え、きょうからの病院生活を楽しみにしつつ、空も海もまったく明るくなったころようやく眠った。

10

葉蔵は眠らなかった。ときどき頭をゆるくうごかしていた。顔のところどころに白いガアゼがりつけられていた。波にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである。真野という二十くらいの看護婦がひとり付きっていた。左の眼蓋まぶたのうえに、やや深い傷痕しょうこんがあるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこし大きかった。しかし、みにくくなかった。赤い上唇うわくちびるがこころもち上へめくれあがり、浅黒いほおをしていた。ベッドの傍の椅子いすに座り、曇天どんてんのしたの海をながめているのである。葉蔵の顔を見ぬように努めた。気の毒で見れなかった。

11

正午ちかく、警察のひとが二人、葉蔵を見舞った。真野は席をはずした。

12

ふたりとも、背広を着た紳士しんしであった。ひとりは短い口鬚くちひげを生やし、ひとりは鉄縁てつぶち眼鏡めがねけていた。ひげは、声をひくくしてそのとのいきさつをたずねた。葉蔵ようぞうは、ありのままを答えた。鬚は、小さい手帖てちょうへそれを書きとるのであった。ひととおりの訊問じんもんをすませてから、鬚は、ベッドヘのしかかるようにして言った。「女は死んだよ。君には死ぬ気があったのかね。」

13

葉蔵は、だまっていた。

14

鉄縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額にしわを二三本もりあがらせて微笑ほほえみつつ、鬚のかたたたいた。「よせ、よせ。可愛そうだ。またにしよう。」

15

鬚は、葉蔵の眼つきを、まっすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣うわぎのポケットにしまいんだ。

16

その刑事たちが立ち去ってから、真野は、いそいで葉蔵の室へ帰って来た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽おえつしている葉蔵を見てしまった。そのままそっとドアをしめて、廊下ろうかにしばらく立ちつくした。

17

午後になって雨が降りだした。葉蔵は、ひとりでかわやへ立って歩けるほど元気を回復していた。

18

友人の飛騨ひだが、れた外套がいとうを着たままで、病室へおどり込んで来た。葉蔵はねむったふりをした。

19

飛騨は真野へ小声でたずねた。「だいじょうぶですか?」 「ええ、もう。」 「おどろいたなあ。」

20

彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套をぎ、真野へ手渡てわたした。

21

飛騨は、名のない彫刻家ちょうこくかで、おなじように無名の洋画家である葉蔵とは、中学校時代からの友だちであった。素直な心を持った人なら、そのわかいときには、おのれの身辺ちかくの誰かをきっと偶像ぐうぞうに仕立てたがるものであるが、飛騨もまたそうであった。彼は、中学校へはいるとから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれとながめていた。首席は葉蔵ようぞうであった。授業中の葉蔵の一顰一笑いっぴんいっしょうも、飛騨にとっては、ただごとでなかった。また、校庭の砂山のかげに葉蔵のおとなびた孤独なすがたを見つけて、ひとしれずふかい溜息ためいきをついた。ああ、そして葉蔵とはじめて言葉を交した日の歓喜かんき。飛騨は、なんでも葉蔵の真似まねをした。煙草たばこを吸った。教師を笑った。両手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよい歩く法もおぼえた。芸術家のいちばんえらいわけをも知ったのである。葉蔵は、美術学校へはいった。飛騨は一年おくれたが、それでも葉蔵とおなじ美術学校へはいることができた。葉蔵は洋画を勉強していたが、飛騨は、わざと塑像そぞう科をえらんだ。ロダンのバルザック像に感激したからだと言うのであったが、それは彼が大家になったとき、その経歴に軽いもったいをつけるための余念ない出鱈目でたらめであって、まことは葉蔵の洋画に対する遠慮えんりょからであった。ひけめからであった。そのころになって、ようやく二人のみちがわかれ始めた。葉蔵のからだは、いよいよせていったが、飛騨は、すこしずつ太った。ふたりの懸隔けんかくはそれだけでなかった。葉蔵は、或る直截ちょくせつ哲学てつがくに心をそそられ、芸術を馬鹿ばかにしだした。飛騨は、また、すこし有頂天うちょうてんになりすぎていた。聞くものが、かえってきまりのわるくなるほど、芸術という言葉を連発するのであった。つねに傑作けっさくを夢みつつ、勉強をおこたっていた。そうしてふたりとも、よくない成績で学校を卒業した。葉蔵は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。絵画はポスタアでしかないものだ、と言っては、飛騨をしょげさせた。すべての芸術は社会の経済機構から放たれたである。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下くつしたとおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言って飛騨をけむに巻くのであった。飛騨は、むかしに変らず葉蔵を好いていたし、葉蔵のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬いけいを感じていたが、しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。いまに、いまに、と考えながら、ただそわそわと粘土ねんどをいじくっていた。つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。いや、それだからこそ、ぼくもこうしてやすやすと叙述じょじゅつできたのであろう。ほんとの市場の芸術家をお目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにげろをくだろう。それは保証する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。

22

飛騨もまた葉蔵の顔を見れなかった。できるだけ器用にしのびあしを使い、葉蔵の枕元まくらもとまで近寄っていったが、硝子戸ガラスどのそとの雨脚あまあしをまじまじながめているだけであった。

23

葉蔵は、眼をひらいてうす笑いしながら声をかけた。「おどろいたろう。」

24

びっくりして、葉蔵の顔をちらと見たが、すぐ眼をせて答えた。「うん。」 「どうして知ったの?」

25

飛騨はためらった。右手をズボンのポケットからいてひろい顔をでまわしながら、真野へ、言ってもよいか、と眼でこっそりたずねた。真野はまじめな顔をしてかすかに首をった。 「新聞に出ていたのかい?」 「うん。」ほんとは、ラジオのニウスで知ったのである。

26

葉蔵は、飛騨のえ切らぬそぶりをにくく思った。もっとうち解けて呉れてもよいと思った。一夜あけたら、もんどり打って、おのれを異国人あつかいにしてしまったこの十年来の友が憎かった。葉蔵は、ふたたびねむったふりをした。

27

飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリッパでぱたぱたとたたいたりして、しばらく葉蔵の枕元に立っていた。

28

ドアが音もなくあき、制服を着た小柄こがらな大学生が、ひょっくりその美しい顔を出した。飛騨はそれを見つけて、うなるほどほっとした。ほおにのぼる微笑びしょうかげを、口もとゆがめて追いはらいながら、わざとゆったりした歩調でドアのほうへ行った。 「いま着いたの?」 「そう。」小菅こすげは、葉蔵ようぞうのほうを気にしつつ、せきこんで答えた。

29

小菅というのである。この男は、葉蔵と親戚しんせきであって、大学の法科にせきを置き、葉蔵とは三つもとしがちがうのだけれど、それでも、へだてない友だちであった。あたらしい青年は、年齢ねんれいにあまり拘泥こうでいせぬようである。冬休みで故郷へ帰っていたのだが、葉蔵のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで来たのであった。ふたりは廊下ろうかへ出て立ち話をした。 「すすがついているよ。」

30

飛騨は、おおっぴらにげらげら笑って、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙ばいえんが、そこにうっすりこびりついていた。 「そうか。」小菅は、あわてて胸のポケットからハンケチを取りだし、さっそく鼻のしたをこすった。「どうだい。どんな工合ぐあいだい。」 「大庭おおばか? だいじょうぶらしいよ。」 「そうか。――落ちたかい。」鼻のしたをぐっとのばして飛騨に見せた。 「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大変なさわぎだろう。」

31

ハンケチを胸のポケットにつっこみながら返事した。「うん。大騒ぎさ。おとむらいみたいだったよ。」 「うちから誰か来るの?」 「兄さんが来る。親爺おやじさんは、ほっとけ、と言ってる。」 「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあててつぶやいた。 「葉ちゃんは、ほんとに、よいのか。」 「案外、平気だ。あいつは、いつもそうなんだ。」

32

小菅はかれてでもいるように口角に微笑をふくめて首かしげた。「どんな気持ちだろうな。」 「わからん、――大庭にってみないか。」 「いいよ、会ったって、話することもないし、それに、――こわいよ。」

33

ふたりは、ひくく笑いだした。

34

真野が病室から出て来た。 「聞えています。ここで立ち話をしないようにしましょうよ。」 「あ。そいつあ。」

35

飛騨は恐縮きょうしゅくして、おおきいからだを懸命けんめいに小さくした。小菅こすげは不思議そうなおももちで真野の顔をのぞいていた。 「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」 「まだです。」ふたり一緒いっしょに答えた。

36

真野は顔を赤くしてきだした。

37

三人がそろって食堂へ出掛でかけてから、葉蔵ようぞうは起きあがった。雨にけむるおきながめたわけである。 「ここを過ぎて空濛くうもうふち。」

38

それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際ふてぎわである。だいいちぼくは、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみのまち。僕は、このふだん口馴くちなれた地獄じごくの門の詠嘆えいたんを、栄ある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを抹殺まっさつする気はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のきょうまでの生活を消すことだ。 「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」

39

この言葉は間がけて、よい。小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗ちゃわんを持ち直した。

40

四方の板張りのかべには、白いペンキがられ、東側の壁には、院長の銅貨大の勲章くんしょうを胸に三つ付けた肖像画しょうぞうがが高く掛けられて、十脚じゅっきゃくほどの細長いテエブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。飛騨と小菅は、東南のすみのテエブルに座り、食事をとっていた。 「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」小菅は声をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ。」 「行動隊のキャップだろう。知っている。」飛騨はパンをもぐもぐみかえしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼さよくの用語ぐらい、そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、――それだけでないさ。芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ。」

41

食堂は暗くなった、雨がつよくなったのである。

42

小菅こすげは、ミルクをひとくち飲んでから言った。「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だめだな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因がひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまっていたが、ぼくは、そうでないと言って置いた。女はたた、みちづれさ。別なおおきい原因があるのだ。うちの奴等やつらはそれを知らない。君まで、変なことを言う。いかんぞ。」

43

飛騨は、あしもとの燃えているストオブの火を見つめながらつぶやいた。「女には、しかし、亭主ていしゅが別にあったのだよ。」

44

ミルクの茶碗ちゃわんをしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、なんでもないよ。ようちゃんにとっては、でもないことさ。女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか。」言いおわってから、頭のうえの肖像画しょうぞうがを片眼つぶってねらってながめた。「これが、ここの院長かい。」 「そうだろう。しかし、――ほんとうのことは、大庭おおばでなくちゃわからんよ。」 「それあそうだ。」小菅は気軽く同意して、きょろきょろあたりを見回した。「寒いなあ。君は、きょうここへとまるかい。」

45

飛騨は、パンをあわてて呑みくだして、首肯うなずいた。「泊る。」

46

青年たちはいつでも本気に議論をしない。おたがいに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだなあなどりを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。いなという一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協だきょうひとみを交しているのだ。そしておしまいに笑って握手あくしゅしながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳ていのうめ!

47

さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一転、パノラマ式の数こまを展開させるか。おおきいことを言うでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。

48

あくる朝は、なごやかに晴れていた。海はいで、大島の噴火ふんかのけむりが、水平線の上に白くたちのぼっていた。よくない。僕は景色けしきを書くのがいやなのだ。

49

い号室の患者かんじゃが眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯いっぱいであった。付添つきそいの看護婦と、おはようを言い交し、すぐ朝の体温を計った。六度四分あった。それから、食前の日光浴をしにヴェランダヘ出た。看護婦にそっと横腹をこかれるさきから、もはや、に号室のヴェランダをぬすみ見していたのである。きのうの新患者は、紺絣こんがすりあわせをきちんと着て籐椅子とういすに座り、海をながめていた。まぶしそうにふといまゆをひそめていた。そんなによい顔とも思えなかった。ときどきほおのガアゼを手のこうでかるくたたいていた。日光浴用の寝台に横わって、薄目うすめあけつつそれだけを観察してから、看護婦に本を持って来させた。ボヴァリイ夫人。ふだんはこの本を退屈たいくつがって、五六ページも読むと投げ出してしまったものであるが、きょうは本気に読みたかった。いま、これを読むのは、いかにもふさわしげであると思った。ぱらぱらとペエジをり、百頁のところあたりから読み始めた。よい一行を拾った。「エンマは、炬火たいまつの光で、真夜中に嫁入よめいりしたいと思った。」

50

ろ号室の患者も、眼覚めていた。日光浴をしにヴェランダヘ出て、ふと葉蔵ようぞうのすがたを見るなり、また病室へけこんだ。わけもなくこわかった。すぐ、ベッドヘもぐりんでしまったのである。付添いの母親は、笑いながら毛布をかけてやった。ろ号室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇くらやみのなかで眼をかがやかせ、隣室りんしつの話声に耳かたむけた。 「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑い声が。

51

飛騨ひだ小菅こすげとまっていたのである。そのとなりの空いていた病室のひとつベッドにふたりで寝た。小菅がさきに眼を覚まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴェランダヘ出た。葉蔵のすこし気取ったポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとをさがしに、くるっと左へ首をねじむけた。いちばんはしのヴェランダでわかい女が本を読んでいた。女の寝台の背景は、こけのあるれた石垣いしがきであった。小菅は、西洋ふうにかたをきゅっとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、ねむっている飛騨をゆり起した。 「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造ねつぞうすることを喜ぶ。「葉ちゃんの大ポオズ。」

52

彼等の会話には、「大」という形容詞がしばしば用いられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる対象が欲しいからでもあろう。

53

飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」

54

小菅は笑いながら教えた。 「少女がいるんだ。葉ちゃんが、それへ得意の横顔を見せているのさ。」

55

飛騨もはしゃぎだした。両方の眉をおおげさにぐっと上へはねあげてたずねた。「美人か?」 「美人らしいよ。本のうそ読みをしている。」

56

飛騨はきだした。ベッドにこしかけたまま、ジャケツを着、ズボンをはいてからさけんだ。 「よし、とっちめてやろう。」とっちめるつもりはないのである。これはただ陰口かげぐちだ。彼等は親友の陰口をさえ平気でく。その場の調子にまかせるのである。「大庭おおばのやつ、世界じゅうの女をみんなしがっているんだ。」

57

すこしって、葉蔵ようぞうの病室から大勢の笑い声がどっとおこり、その病棟びょうとうの全部にひびきわたった。い号室の患者かんじゃは、本をぱちんと閉じて、葉蔵のヴェランダの方をいぶかしげにながめた。ヴェランダには朝日を受けて光っている白い籐椅子とういすがひとつのこされてあるきりで、誰もいなかった。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ号室の患者は、笑い声を聞いて、ふっと毛布から顔を出し、枕元まくらもとに立っている母親とおだやかな微笑びしょうを交した。へ号室の大学生は、笑い声で眼を覚ました。大学生には、付添つきそいのひともなかったし、下宿屋ずまいのような、のんきな暮しをしているのであった。笑い声はきのうの新患者の室からなのだと気づいて、その蒼黒あおぐろい顔をあからめた。笑い声を不謹慎ふきんしんとも思わなかった。回復期の患者に特有の寛大かんだいな心から、むしろ葉蔵の元気のよいらしいのに安心したのである。

58

ぼくは三流作家でないだろうか。どうやら、うっとりしすぎたようである。パノラマ式などとがらでもないことをくわだて、とうとうこんなにやにさがった。いや、待ち給え。こんな失敗もあろうかと、まえもって用意していた言葉がある。美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔あくま的でないからである。ああ、この言葉を考え出した男にさいわいあれ。なんという重宝ちょうほうな言葉であろう。けれども作家は、一生涯いっしょうがいのうちにたったいちどしかこの言葉を使われぬ。どうもそうらしい。いちどは、愛嬌あいきょうである。もし君が、二度三度とくりかえして、この言葉をたてにとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。 「失敗したよ。」

59

ベッドの傍のソファに飛騨と並んで座っていた小菅こすげは、そう言いむすんで、飛騨の顔と、葉蔵の顔と、それから、ドアにりかかって立っている真野の顔とを、順々に見まわし、みんな笑っているのを見とどけてから、満足げに飛騨のまるい右肩みぎかたへぐったり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつのころからそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細ささいな対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪どんらんな美食主義のはかない片鱗へんりんではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。彼等はまた、よくひとを笑わす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑わせたがるのだ。それはいずれ例の虚無きょむの心から発しているのであろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた気がまえを推察できないだろうか。犠牲ぎせいたましい。いくぶんなげやりであって、これぞという目的をも持たぬ犠牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかってさえ美談と言い得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆえである。これらはぼくの独断である。しかも書斎のなかの模索もさくでない。みんな僕自身の肉体から聞いた思念ではある。

60

葉蔵ようぞうは、まだ笑っている。ベッドにこしかけて両脚りょうあしをぶらぶら動かし、ほおのガアゼを気にしいしい笑っていた。小菅こすげの話がそんなにおかしかったのであろうか。彼等がどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を挿入そうにゅうしよう。小菅がこの休暇きゅうか中、ふるさとのまちから三里ほどはなれた山のなかの或る名高い温泉場ヘスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊いっぱくした。深夜、かわやへ行く途中とちゅう廊下ろうかで同宿のわかい女とすれちがった。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡ちょっとすれちがっただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ気がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、そのすれちがった瞬間しゅんかんに、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本気になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる経緯けいいを瞬間のうちに考えめぐらし、胸のはりさける思いをする。彼等は、そのような息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは経験する。だから彼等は油断をしない、ひとりでいるときにでも、おのれの姿勢をかざっている。小菅が、深夜、厠へ行ったそのときでさえ、おのれの新調の青い外套がいとうをきちんと着て廊下へ出たという。小菅がそのわかい女とすれちがったあとで、しみじみ、よかったと思った。外套を着て出てよかったと思った。ほっと溜息ためいきついて、廊下のつきあたりの大きい鏡をのぞいてみたら、失敗であった。外套のしたから、うすぎたな股引ももひきをつけた両脚がにょっきと出ている。 「いやはや、」さすがに軽く笑いながら言うのであった。「股引はねじくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えているのさ。顔は寝ぶくれにふくれて。」

61

葉蔵は、内心そんなに笑ってもいないのである。小菅のつくりばなしのようにも思われた。それでも大声で笑ってやった。友がきのうに変って、葉蔵へ打ち解けようと努めて呉れる、その気ごころに対する返礼のつもりもあって、ことさらに笑いこけてやったのである。葉蔵が笑ったので、飛騨ひだも真野も、ここぞと笑った。

62

飛騨は安心してしまった。もうなんでも言えると思った。まだまだ、とおさえたりした。ぐずぐずしていたのである。

63

調子に乗った小菅こすげが、かえって易々やすやすと言ってのけた。 「ぼくたちは、女じゃ失敗するよ。ようちゃんだってそうじゃないか。」

64

葉蔵は、まだ笑いながら、首をかたむけた。 「そうかなあ。」 「そうさ。死ぬてはないよ。」 「失敗かなあ。」

65

飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣いしがき微笑びしょうのうちにくずしたのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであろうと、この年少の友をぎゅっといてやりたい衝動しょうどうを感じた。

66

飛騨は、うすいまゆをはればれとひらき、どもりつつ言いだした。 「失敗かどうかは、ひとくちに言えないと思うよ。だいいち原因が判らん。」まずいなあ、と思った。

67

すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判ってる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨はこいつ、もったいぶってね、他にある、なんて言うんだ。」間髪かんはつをいれず飛騨は応じた。「それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬはずがない。」

68

葉蔵になにも臆測おくそくされたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気むじゃきにひびいた。大出来だ、とひそかにほっとした。

69

葉蔵は長いまつげせた。虚傲きょごう懶惰らんだ阿諛あゆ狡猾こうかつ。悪徳の巣。疲労ひろう忿怒ふんぬ。殺意。我利我利がりがり脆弱ぜいじゃく欺瞞ぎまん。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえってつぶやいた。 「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。」 「判る。判る。」小菅は葉蔵の言葉の終らぬさきから首肯うなずいた。「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。気をきかせたのかしら。」

70

僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、おたがいの思想を交換こうかんするよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉蔵はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうっかりいてしまった本音ではなかろうか。彼等のこころのなかには、渾沌こんとんと、それから、わけのわからぬ反発とだけがある。あるいは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風びふうにでもふるえおののく。侮辱ぶじょくを受けたと思いこむやいなや、死なんかなともだえる。葉蔵ようぞうがおのれの自殺の原因をたずねられて当惑とうわくするのも無理がないのである。――なにもかもである。

71

その日のひるすぎ、葉蔵の兄が青松園についた。兄は、葉蔵に似てないで、立派にふとっていた。はかまをはいていた。

72

院長に案内され、葉蔵の病室のまえまで来たとき、部屋のなかの陽気な笑い声を聞いた。兄は知らぬふりをしていた。 「ここですか?」 「ええ。もう御元気です。」院長は、そう答えながらドアを開けた。

73

小菅こすげがおどろいて、ベッドから飛びおりた。葉蔵のかわりに寝ていたのである。葉蔵と飛騨ひだとは、ソファに並んでこしかけて、トランプをしていたのであったが、ふたりともいそいで立ちあがった。真野は、ベッドの枕元まくらもと椅子いすに座って編物をしていたが、これも、間がわるそうにもじもじと編物の道具をしまいかけた。 「お友だちが来て下さいましたので、にぎやかです。」院長はふりかえって兄へそうささやきつつ、葉蔵の傍へあゆみ寄った。「もう、いいですね。」 「ええ。」そう答えて、葉蔵は急にみじめな思いをした。

74

院長の眼は、眼鏡めがねおくで笑っていた。 「どうです。サナトリアム生活でもしませんか。」

75

葉蔵は、はじめて罪人のひけ目を覚えたのである。ただ微笑をもって答えた。

76

兄はそのあいだに、几帳面きちょうめんらしく真野と飛騨へ、お世話になりました、と言ってお辞儀じぎをして、それから小菅へ真面目まじめな顔でたずねた。「ゆうべは、ここへとまったって?」 「そう。」小菅は頭をき掻き言った。「となりの病室があいていましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらいました。」 「じゃ今夜から私の旅籠はたごへ来給え。江の島に旅籠をとっています。飛騨さん、あなたも。」 「はあ。」飛騨はかたくなっていた。手にしている三枚のトランプを持てあましながら返事した。

77

兄は、なんでもなさそうにして葉蔵ようぞうのほうを向いた。 「葉蔵、もういいか。」 「うん。」ことさらに、にがり切って見せながらうなずいた。

78

兄は、にわかに饒舌じょうぜつになった。 「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ましょうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただこうと思って。すぐ、出掛でかけましょう。自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ。」

79

ぼく後悔こうかいしている。二人のおとなを登場させたばかりに、すっかり滅茶滅茶めちゃめちゃである。葉蔵と小菅こすげと飛騨と、それから僕と四人かかってせっかくよい工合ぐあいにもりあげた、いっぷう変った雰囲気ふんいきも、この二人のおとなのために、見るかげもなくえしなびた。僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかったのである。はじめの数ページでぐるぐるうずを巻いた雰囲気をつくって置いて、それを少しずつのどかに解きほぐして行きたいといのっていたのであった。不手際ふてぎわをかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて来た。しかし、土崩瓦解どほうがかいである。

80

許して呉れ! うそだ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなって来て、僕がわざとぶちこわしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思うつぼだ。悪趣味あくしゅみ。いまになって僕の心をくるしめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧いあつしようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、或いは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉をかざる。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。

81

なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の一こま一齣の描写びょうしゃの間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚うぬぼれていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞえていたはずである。できれば僕は、もすこしあとでそれを言いたかった。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意していたような気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな。

82

ぼくはなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気しばいけきにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしいうそいている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣ひれつな嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐ふくしゅう。」

83

つぎの描写びょうしゃへうつろう。僕は市場の芸術家である。芸術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニュアンスをもたらして呉れたら、それはもっけのさいわいだ。

84

葉蔵ようぞうと真野とがあとに残された。葉蔵は、ベッドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考えごとをしていた。真野はソファに座って、トランプを片づけていた。トランプの札をむらさきの紙箱におさめてから、言った。 「お兄さまでございますね。」 「ああ、」たかい天井てんじょう白壁しらかべを見つめながら答えた。「似ているかな。」

85

作家がその描写の対象に愛情を失うと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言うまい。なかなかおつな文章だよ。 「ええ。鼻が。」

86

葉蔵は、声をたてて笑った。葉蔵のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かったのである。 「おいくつでいらっしゃいます。」真野も少し笑って、そうたずねた。 「兄貴か?」真野のほうへ顔をむけた。「若いのだよ。三十四さ。おおきく構えて、いい気になっていやがる。」

87

真野は、ふっと葉蔵の顔を見あげた。まゆをひそめて話しているのだ。あわてて眼をせた。 「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺おやじが。」

88

言いかけて口をつぐんだ。葉蔵はおとなしくしている。僕の身代りになって、妥協だきょうしているのである。

89

真野は立ちあがって、病室のすみ戸棚とだなへ編物の道具をとりに行った。もとのように、また葉蔵ようぞう枕元まくらもと椅子いすに座り、編物をはじめながら、真野もまた考えていた。思想でもない、恋愛でもない、それより一歩てまえの原因を考えていた。

90

ぼくはもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちっとも触れていないような気がする。それは当前であろう。たくさんのことを言い落している。それも当前であろう。作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の効果を期待した僕は馬鹿ばかであった。ことにその効果を口に出してなど言うべきでなかった。口に出して言ったとたんに、また別のまるっきりちがった効果が生れる。その効果をおよそこうであろうと推察したとたんに、また新しい効果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及ついきゅうしてばかりいなければならぬを演ずる。駄作ださくかそれともまんざらでない出来栄できばえか、僕はそれをさえ知ろうと思うまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思いもおよばぬたいへんな価値を生むことであろう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい気にもなるのであろう。はっきり言えば、僕は自信をうしなっている。

91

電気がついてから、小菅こすげがひとりで病室へやって来た。はいるとすぐ、寝ている葉蔵の顔へおっかぶさるようにしてささやいた。 「飲んで来たんだ。真野へ内緒ないしょだよ。」

92

それから、はっと息を葉蔵の顔へつよくきつけた。酒を飲んで病室へ出はいりすることは禁ぜられていた。

93

うしろのソファで編物をつづけている真野をちらと横眼つかって見てから、小菅はさけぶようにして言った。「江の島をけんぶつして来たよ。よかったなあ。」そしてすぐまた声をひくめてささやいた。「うそだよ。」

94

葉蔵は起きあがってベッドにこしかけた。 「いままで、ただ飲んでいたのか。いや、構わんよ。真野さん、いいでしょう?」

95

真野は編物の手をやすめずに、笑いながら答えた。「よくもないんですけれど。」

96

小菅はベッドの上へ仰向あおむけにころがった。 「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ。」

97

葉蔵ようぞうはだまっていた。 「あす、兄さんと飛騨ひだが警察へ行くんだ。すっかりかたをつけてしまうんだって。飛騨は馬鹿ばかだなあ。興奮していやがった。飛騨は、きょうむこうへとまるよ。ぼくは、いやだから帰った。」 「僕の悪口を言っていたろう。」 「うん。言っていたよ。大馬鹿だと言ってる。此の後も、なにをしでかすか、判ったものじゃないと言ってた。しかし親爺おやじもよくない、と付け加えた。真野さん、煙草たばこを吸ってもいい?」 「ええ。」なみだが出そうなのでそれだけ答えた。 「波の音が聞えるね。――よき病院だな。」小菅こすげは火のついてない煙草をくわえ、っぱらいらしくあらい息をしながらしばらく眼をつぶっていた。やがて、上体をむっくり起した。 「そうだ。着物を持って来たんだ。そこへ置いたよ。」あごでドアの方をしゃくった。

98

葉蔵は、ドアの傍に置かれてある唐草からくさの模様がついた大きい風呂敷包ふろしきづつみに眼を落し、やはりまゆをひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌めんぼうをつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言えば財産という単語を思い出すのには変りがないようだ。「おふくろには、かなわん。」 「うん。兄さんもそう言ってる。お母さんがいちばん可愛そうだって。こうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんとうだよ、君。――真野さん、マッチない?」真野からマッチを受け取り、その箱にえがかれてある馬の顔をほおふくらませてながめた。「君のいま着ているのは、院長から借りた着物だってね。」 「これか? そうだよ。院長の息子むすこの着物さ。――兄貴は、その他にも何か言ったろうな。僕の悪口を。」 「ひねくれるなよ。」煙草へ火を点じた。「兄さんは、わりに新らしいよ。君を判っているんだ。いや、そうでもないかな。苦労人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言い合ったんだが、そのときにね、おお笑いさ。」けむりの輪をいた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉蔵が放蕩ほうとうをして金にきゅうしたからだ。大真面目おおまじめで言うんだよ。それとも、これは兄として言いにくいことだが、きっとはずかしい病気にでもかかって、やけくそになったのだろう。」酒でどろんとにごった眼を葉蔵にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ。」

99

今宵こよいとまるのが小菅こすげひとりであるし、わざわざとなりの病室を借りるにもおよぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寝ることにきめた。小菅は葉蔵ようぞうとならんでソファに寝た。緑色の天鵞絨ビロードが張られたそのソファには、仕掛しかけがされてあって、あやしげながらベッドにもなるのであった。真野は毎晩それに寝ていた。きょうはその寝床ねどこを小菅にうばわれたので病院の事務室から薄縁うすべりを借り、それを部屋の西北のすみいた。そこはちょうど葉蔵の足の真下あたりであった。それから真野は、どこから見つけて来たものか、二枚折のひくい屏風びょうぶでもってそのつつましい寝所をかこったのである。 「用心ぶかい。」小菅は寝ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑った。「秋の七草がえがかれてあるよ。」

100

真野は、葉蔵の頭のうえの電灯を風呂敷ふろしきで包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言い、屏風のかげにかくれた。

101

葉蔵は寝ぐるしい思いをしていた。 「寒いな。」ベッドのうえで輾転てんてんした。 「うん。」小菅も口をとがらせて合槌あいづちうった。「酔がさめちゃった。」

102

真野は軽くせきをした。「なにかお掛けいたしましょうか。」

103

葉蔵は眼をつむって答えた。 「僕か? いいよ。寝ぐるしいんだ。波の音が耳について。」

104

小菅は葉蔵をふびんだと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉蔵ではなしに、葉蔵とおなじ身のうえにあったときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象ちゅうしょうである。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれのなみだもろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まず好意的に言って、おのれの生活との妥協だきょうから得たものとすれば、青年たちは、いったいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から? 「真野さん、なにか話を聞かせてよ。面白おもしろい話がない?」

105

葉蔵の気持ちを転換てんかんさせてやろうというおせっかいから、小菅は真野へあまったれた。 「さあ。」真野は屏風のかげから、笑い声と一緒いっしょにただそう答えてよこした。 「すごい話でもいいや。」彼等はいつも、戦慄せんりつしたくてうずうずしている。

106

真野は、なにか考えているらしく、しばらく返事をしなかった。 「秘密ですよ。」そうまえおきをして、声しのばせて笑いだした。「怪談かいだんでございますよ。小菅さん、だいじょうぶ?」 「ぜひ、ぜひ。」本気だった。

107

真野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺をはかった青年が、発見されて、ある病院に収容され、それへ真野が付添つきそった。患者かんじゃは薬品をもちいているのであった。からだいちめんに、むらさき色の斑点はんてんがちらばっていた。助かる見込みこみがなかったのである。夕方いちど、意識を回復した。そのとき患者は、窓のそとの石垣いしがきを伝ってあそんでいるたくさんの小さい磯蟹いそがにを見て、きれいだなあ、と言った。その辺の蟹は生きながらに甲羅こうらが赤いのである。なおったらって家へ持って行くのだ、と言い残してまた意識をうしなった。その夜、患者は洗面器へ二はいきものをして死んだ。国元から身うちのものが来るまで、真野はその病室に青年とふたりでいた。一時間ほどは、がまんして病室のすみの椅子いすに座っていた。うしろにかすかな物音を聞いた。じっとしていると、また聞えた。こんどは、はっきり聞えた。足音らしいのである。思い切ってりむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がいた。真野はそれを見つめつつ、泣きだした。 「不思議ですわねえ。ほんとうに蟹がいたのでございますの。生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよそうと思いましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけっこう暮してゆけるのですし。お父さんにそう言って、うんと笑われましたけれど。――小菅こすげさん、どう?」 「すごいよ。」小菅は、わざとふざけたようにしてさけぶのである。「その病院ていうのは?」

108

真野はそれに答えず、ごそもそと寝返りをうって、ひとりごとのようにつぶやいた。 「私ね、大庭おおばさんのときも、病院からの呼び出しを断ろうかと思いましたのよ。こわかったですからねえ。でも、来て見て安心しましたわ。このとおりのお元気で、はじめから御不浄ごふじょうへ、ひとりで行くなんておっしゃるんでございますもの。」 「いや、病院さ。ここの病院じゃないかね。」

109

真野は、すこし間を置いて答えた。 「ここです。ここなんでございますのよ。でも、それは秘密にして置いて下さいましね。信用にかかわりましょうから。」

110

葉蔵ようぞうは寝とぼけたような声を出した。「まさか、この部屋じゃないだろうな。」 「いいえ。」 「まさか、」小菅も口真似くちまねした。「僕たちがゆうべ寝たベッドじゃないだろうな。」

111

真野は笑いだした。 「いいえ。だいじょうぶでございますわよ。そんなにお気になさるんだったら、私、言わなければよかった。」 「い号室だ。」小菅はそっと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い号室だ。君、少女のいる部屋だよ。可愛そうに。」 「おさわぎなさらず、おやすみなさいましよ。うそなんですよ。つくり話なんですよ。」

112

葉蔵ようぞうは別なことを考えていた。その幽霊ゆうれいを思っていたのである。美しい姿を胸にえがいていた。葉蔵は、しばしばこのようにあっさりしている。彼等にとって神という言葉は、間のけた人物に与えられる揶揄やゆと好意のまじったなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近しているからかも知れぬ。こんな工合ぐあいに軽々しく所謂いわゆる「神の問題」にふれるなら、きっと諸君は、浅薄せんぱくとか安易とかいう言葉でもってきびしい非難をするであろう。ああ、許し給え。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがっているものだ。されば、言おう。彼こそ神に似ている。寵愛ちょうあいの鳥、ふくろう黄昏たそがれの空に飛ばしてこっそり笑ってながめている知慧ちえの女神のミネルヴァに。

113

あくる日、朝から療養りょうよう院がざわめいていた。雪が降っていたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松そなれまつがいちように雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂浜にも、雪がうすく積っていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼頃ひるごろまでつづいた。

114

葉蔵は、ベッドの上で腹這はらばいになり、雪の景色けしきをスケッチしていた。木炭紙と鉛筆えんぴつを真野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事にかかったのである。

115

病室は雪の反射であかるかった。小菅こすげはソファに寝ころんで、雑誌を読んでいた。ときどき葉蔵のを、首すじのばしてのぞいた。芸術というものに、ぼんやりした畏敬いけいを感じているのであった。それは、葉蔵ひとりに対する信頼しんらいから起った感情である。小菅は幼いときから葉蔵を見て知っていた。いっぷう変っていると思っていた。一緒いっしょに遊んでいるうちに、葉蔵のその変りかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍ざんにんでさえあった葉蔵を、小菅は少年のころから好きだったのである。ことに学生時代の葉蔵が、その教師たちの陰口かげぐちをきくときの燃えるようなひとみを愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがって、観賞の態度であった。つまり利巧りこうだったのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿ばからしくなり身をひるがえして傍観ぼうかんする。これが小菅の、葉蔵や飛騨よりもさらになにやら新しいところなのであろう。小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套がいとうを着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生になにか期待の対象を感じたい心からである。葉蔵ようぞうほどの男が、あせみどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう思っている。その点、やはり葉蔵を信頼しんらいしているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅こすげが葉蔵のスケッチをぬすみ見しながらも、がっかりしている。木炭紙にえがかれてあるものは、ただ海と島の景色けしきである。それも、ふつうの海と島である。

116

小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそりしていた。

117

真野は、いなかった。洗濯せんたく場で、葉蔵の毛のシャツを洗っているのだ。葉蔵は、このシャツを着て海へはいった。いそかおりがほのかにしみこんでいた。

118

午後になって、飛騨ひだが警察から帰って来た。いきおいんで病室のドアをあけた。 「やあ、」葉蔵がスケッチしているのを見て、大袈裟おおげさに叫んだ。「やってるな。いいよ。芸術家は、やっぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」

119

そう言いつつベッドヘ近寄り、葉蔵の肩越かたごしにちらとを見た。葉蔵は、あわててその木炭紙を二つに折ってしまった。それをさらにまた四つに折りたたみながら、はにかむようにして言った。 「駄目だめだよ。しばらく画かないでいると、頭ばかり先になって。」

120

飛騨は外套がいとうを着たままで、ベッドのすそへ腰かけた。 「そうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。芸術に熱心だからなのだ。まあ、そう思うんだな。――いったい、どんなのを画いたの?」

121

葉蔵は頬杖ほおづえついたまま、硝子戸ガラスどのそとの景色をあごでしゃくった。 「海を画いた。空と海がまっくろで、島だけが白いのだ。画いているうちに、きざな気がしてした。趣向しゅこうがだいいち素人しろうとくさいよ。」 「いいじゃないか。えらい芸術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人くろうとになって、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさをねらった男だ。いや、そうでもないかな。」 「ぼくは画をよそうと思うのだ。」葉蔵は折り畳んだ木炭紙をふところにしまいこんでから、飛騨の話へおっかぶせるようにして言った。「画は、まだるっこくていかんな。彫刻ちょうこくだってそうだよ。」

122

飛騨は長いかみきあげて、たやすく同意した。「そんな気持ちも判るな。」 「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな。」 「うん。詩も、いいよ。」 「しかし、やっぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやろうと思った。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をもうけて、飛騨みたいなよい芸術家をたくさん集めて、可愛がってやるのだ。それは、どうだろう。芸術なんて、はずかしくなった。」やはり頬杖ほおづえついて海をながめながら、そう言い終えて、おのれの言葉の反応をしずかに待った。 「わるくないよ。それも立派な生活だと思うな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい。」言いながら飛騨は、よろめいていた。なにひとつ反駁はんばくできぬおのれが、さすがに幇間ほうかんじみているように思われて、いやであった。彼の所謂いわゆる、芸術家としてのほこりは、ようやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構えた。このつぎの言葉を! 「警察のほうは、どうだったい。」

123

小菅こすげがふいと言い出した。あたらずさわらずの答を期待していたのである。

124

飛騨の動揺どうようはその方へはけぐちを見つけた。 「起訴きそさ。自殺幇助罪ほうじょざいというやつだ。」言ってからいた。ひどすぎたと思った。「だが、けっきょく、起訴猶予ゆうよになるだろうよ。」

125

小菅は、それまでソファに寝そべっていたのをむっくり起きあがって、手をぴしゃっとった。「やっかいなことになったぞ。」茶化ちゃかしてしまおうと思ったのである。しかし駄目だめであった。

126

葉蔵ようぞうはからだを大きくひねって、仰向あおむけになった。

127

ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣ふんまんを感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快哉かいさいさけぶだろう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つきやす道化どうけはなを風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!

128

飛騨はおのれの一言の効果におろおろして、葉蔵の足を蒲団ふとんのうえから軽くたたいた。 「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ。」

129

小菅は、またソファに寝ころんだ。 「自殺幇助罪か。」なおも、つとめてはしゃぐのである。「そんな法律もあったかなあ。」

130

葉蔵は足をひっこめながら言った。 「あるさ。懲役ちょうえきものだ。君は法科の学生のくせに。」

131

飛騨は、かなしく微笑ほほえんだ。 「だいじょうぶだよ。兄さんが、うまくやっているよ。兄さんは、あれで、有難ありがたいところがあるな。とても熱心だよ。」 「やりてだ。」小菅はおごそかに眼をつぶった。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから。」 「馬鹿ばか。」飛騨ひだきだした。

132

ベッドから降りて外套がいとうぎ、ドアのわきのくぎへそれをけた。 「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢ひばちにまたがって言った。「女のひとのつれあいがねえ、」すこし躊躇ちゅうちょしてから、眼をせて語りつづけた。「そのひとが、きょう警察へ来たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちょっと打たれたよ。金は一文もらない、ただその男のひとにいたい、と言うんだそうだ。兄さんは、それを断った。病人はまだ昂奮しているから、と言って断った。するとそのひとは、情ない顔をして、それでは弟さんによろしく言って呉れ、私たちのことは気にかけず、からだを大事にして、――」口をつぐんだ。

133

おのれの言葉に胸がわくわくして来たのである。そのつれあいのひとが、いかにも失業者らしくまずしい身なりをしていたと、軽侮けいぶのうす笑いをさえまざまざ口角にうかべつつ話して聞かせた葉蔵ようぞうの兄へのこらえにこらえた鬱憤うっぷんから、ことさらに誇張こちょうをまじえて美しく語ったのであった。 「会わせればよいのだ。要らないおせっかいをしやがる。」葉蔵は、右のてのひらを見つめていた。

134

飛騨は大きいからだをひとつゆすった。 「でも、――会わないほうがいいんだ。やっぱり、このまま他人になってしまったほうがいいんだ。もう東京へ帰ったよ。兄さんが停車場まで送って行って来たのだ。兄さんは二百円の香典こうでんをやったそうだよ。これからはなんの関係もない、という証文みたいなものも、そのひとに書いてもらったんだ。」 「やりてだなあ。」小菅こすげうす下唇したくちびるを前へきだした。「たった二百円か。たいしたものだよ。」

135

飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顔を、けわしくしかめた。彼等は、おのれの陶酔とうすいに水をさされることを極端きょくたんおそれる。それゆえ、相手の陶酔をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあいだの黙契もっけいである。小菅はいまそれを破っている。小菅には、飛騨がそれほど感激しているとは思えなかったのだ。そのつれあいのひとの弱さが歯がゆかったし、それへつけこむ葉蔵の兄も兄だ、と相変らずの世間の話として聞いていたのである。

136

飛騨はぶらぶら歩きだし、葉蔵の枕元まくらもとのほうへやって来た。硝子戸ガラスどに鼻先をくっつけるようにして、曇天どんてんのしたの海をながめた。 「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからじゃないよ。そんなことはないと思うなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬かそうしたのだが、骨壷こつつぼいてひとりで帰ったそうだ。汽車に乗ってる姿が眼にちらつくよ。」

137

小菅こすげは、やっと了解りょうかいした。すぐ、ひくい溜息ためいきをもらすのだ。「美談だなあ。」 「美談だろう? いい話だろう?」飛騨ひだは、くるっと小菅のほうへ顔をねじむけた。気嫌けげんを直したのである。「ぼくは、こんな話に接すると、生きているよろこびを感ずるのさ。」

138

思い切って、僕は顔を出す。そうでもしないと、僕はこのうえ書きつづけることができぬ。この小説は混乱だらけだ。僕自身がよろめいている。葉蔵ようぞうをもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙ちせつな筆をもどかしがり、勝手に飛翔ひしょうする。僕は彼等の泥靴どろぐつにとりすがって、待て待てとわめく。ここらで陣容じんようを立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。

139

どだいこの小説は面白おもしろくない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覚悟かくごしていた。書いているうちに、なにかひとつぐらい、むきなものが出るだろうと楽観していた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらい、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいたくさい文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらいなにかひとつぐらいとそればかりを、あちこちひっくりかえしてさがした。そのうちに、僕はじりじり硬直こうちょくをはじめた。くたばったのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。なんという馬鹿ばかな。この言葉に最大級のわざわいあれ。うっとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいのちがった意味をもっておのれの胸へはねかえって来るようでは、ペンをへし折って捨てなければならぬ。葉蔵にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく気取って見せなくてよい。どうせおさとは知れているのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。

140

その夜、だいぶけてから、葉蔵の兄が病室をおとずれた。葉蔵は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでいた。きのう兄がここへはじめて来たときにも、彼等はトランプをしていたはずである。けれども彼等はいちにちいっぱいトランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがっているほどなのだ。よほど退屈たいくつしたときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分じゅうぶんに発揮できないようなゲエムはきっとける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。トランプの札をいちまいせて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。スペエドの女王。クラブの騎士きし。それぞれがおもいおもいに趣向しゅこうこらした出鱈目でたらめを述べる。札をひらく。当ったためしのないのだが、それでもいつかはぴったり当るだろう、と彼等は考える。あたったら、どんなに愉快ゆかいだろう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしていない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も来合せた。

141

兄は病室へはいって来て、ちょっとまゆをひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである。このような不幸は人生にままある。葉蔵ようぞうは美術学校時代にも、これと同じような不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間しゅんかん瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたようにして、大声で言った。「君は、ぼくの時間にはあくびばかりしている。一時間に百回あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえてみたような気がしているらしかった。

142

ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いている。さら陣容じんようを立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとてもくわだおよばぬ。いったいこれは、どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。

143

僕は、海浜かいひん療養りょうよう院を書いている。この辺は、なかなか景色けしきがよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄えいゆうだ。これだな。むずかしい理屈りくつはくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる。なにも言うな。

144

兄は、みんなに軽く挨拶あいさつした。それから飛騨ひだへなにか耳打ちした。飛騨はうなずいて、小菅こすげと真野へ目くばせした。

145

三人が病室から出るのを待って、兄は言いだした。 「電気がくらいな。」 「うん。この病院じゃ明るい電気をつけさせないのだ。座らない?」

146

葉蔵がさきにソファヘ座って、そう言った。 「ああ。」兄は座らずに、くらい電球を気がかりらしくちょいちょいふりあおぎつつ、せまい病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こっちのほうだけは、片づいた。」 「ありがとう。」葉蔵はそれを口のなかで言って、こころもち頭をさげた。 「私はなんとも思っていないよ。だが、これから家へ帰るとまたうるさいのだ。」きょうははかまをはいていなかった。黒い羽織はおりには、なぜか羽織ひもがついてなかった。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺おやじへよい工合ぐあいに手紙を出したほうがいい。お前たちは、のんきそうだが、しかし、めんどうな事件だよ。」

147

葉蔵ようぞうは返事をしなかった。ソファにちらばっているトランプの札をいちまい手にとって見つめていた。 「出したくないなら、出さなくていい。あさって、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れていたのだ。きょうは私と飛騨ひだとが証人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたずねられたから、おとなしいほうでしたと答えた。思想上になにか不審ふしんはなかったか、と聞かれて、絶対にありません。」

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兄は歩きまわるのをやめて、葉蔵のまえの火鉢ひばちに立ちはだかり、おおきい両手を炭火のうえにかざした。葉蔵はその手のこまかくふるえているのを、ぼんやり見ていた。 「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言って置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問じんもんされたそうだ。私の答弁と符合ふごうしたらしいよ。お前も、ありのままを言えばいい。」

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葉蔵には兄の言葉の裏が判っていた。しかし、そしらぬふりをしていた。 「らないことは言わなくていい。聞かれたことだけをはっきり答えるのだ。」 「起訴きそされるのかな。」葉蔵はトランプの札のへりを右手のひとさし指ででまわしながらひくくつぶやいた。 「判らん。それは判らん。」語調をつよめてそう言った。「どうせ四五日は警察へとめられると思うから、その用意をして行け。あさっての朝、私はここへむかえに来る。一緒いっしょに警察へ行くんだ。」

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兄は、炭火へひとみをおとして、しばらくだまった。雪解けのしずくのおとが波のひびきにまじって聞えた。 「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言いだした。それから、なにげなさそうな口調ですらすら言いつづけた。「お前も、ずっと将来のことを考えて見ないといけないよ。家にだって、そうそう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたってなんにもならぬだろうが、うちの銀行もいま危くなっているし、たいへんなさわぎだよ。お前は笑うかも知れないが、芸術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考えなければいけないと思うな。まあ、これから生れ変ったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう帰ろう。飛騨も小菅こすげも、私の旅籠はたごめるようにしたほうがいい。ここで毎晩さわいでいては、まずいことがある。」 「ぼくの友だちはみんなよいだろう?」

151

葉蔵は、わざと真野のほうへ背をむけて寝ていた。その夜から、真野がもとのように、ソファのベッドヘ寝ることになったのである。 「ええ。――小菅さんとおっしゃるかた、」しずかに寝がえりを打った。「面白おもしろいかたですわねえ。」 「ああ。あれで、まだ若いのだよ。ぼくと三つちがうのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり真似まねしていやがる。飛騨ひだはえらいのだ。もうひとりまえだよ。しっかりしている。」しばらく間を置いて、小声で付け加えた、「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命けんめいで僕をいたわるのだ。僕たちにむりして調子を合せているのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」

152

真野は答えなかった。 「あの女のことを話してあげようか。」

153

やはり真野へ背をむけたまま、つとめてのろのろとそう言った。なにか気まずい思いをしたときに、それをける法を知らず、がむしゃらにその気まずさを徹底てっていさせてしまわなければかなわぬ悲しい習性を葉蔵ようぞうは持っていた。 「くだらん話なんだよ。」真野がなんとも言わぬさきから葉蔵は語りはじめた。「もう誰かから聞いただろう。そのというのだ。銀座のバアにつとめていたのさ。ほんとうに、僕はそこのバアヘ三度、いや四度しか行かなかったよ。飛騨も小菅こすげもこの女のことだけは知らなかったのだからな。僕も教えなかったし。」よそうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まぎわまで、僕たちは、おたがいにまったくちがったことを考えていたらしい。園は海へ飛びむまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。内縁ないえんの夫があったのだよ。二三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだろう。「僕は、これでも左翼さよくの仕事をしていたのだよ。ビラをいたり、デモをやったり、がらにないことをしていたのさ。滑稽こっけいだ。でも、ずいぶんつらかったよ。われは先覚者せんかくしゃなりという栄光にそそのかされただけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、くずれて行くだけじゃないか。僕なんかは、いまに乞食こじきになるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だろうな。」ああ、言えば言うほどおのれがうそつきで不正直な気がして来るこの大きな不幸!「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」頭をごしごしいて、笑った。「よい画がかけたらねえ。」

154

よい画がかけたらねえ、と言った。しかも笑ってそれを言った。青年たちは、むきになっては、何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす。

155

夜が明けた。空に一抹いちまつの雲もなかった。きのうの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々のすみにだけ、ねずみいろして少しずつのこっていた。海にはもやがいっぱい立ちこめ、その靄のおくのあちこちから漁船の発動機の音が聞えた。

156

院長は朝はやく葉蔵ようぞうの病室を見舞った。葉蔵のからだをていねいに診察しんさつしてから、眼鏡めがねの底の小さい眼をぱちぱちさせて言った。 「たいていだいじょうぶでしょう。でも、お気をつけてね。警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだではないのですから。真野君、顔の絆創膏ばんそうこういでいいだろう。」

157

真野はすぐ、葉蔵のガアゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、ただ赤白い斑点はんてんになっていた。 「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど、これからはほんとうに御勉強なさるように。」

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院長はそう言って、はにかんだような眼を海へむけた。

159

葉蔵もなにやらばつの悪い思いをした。ベッドのうえに座ったまま、いだ着物をまた着なおしながらだまっていた。

160

そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨ひだ小菅こすげが病室へころげこむようにしてはいって来た。みんなおはようを言い交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶あいさつをして、それから口ごもりつつ言葉をけた。 「きょういちにちです。お名残りおしいですな。」

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院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った。 「如才じょさいがないな。たこみたいなつらだ。」彼等はひとの顔に興味を持つ。顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂にあのひとのがあるよ。勲章くんしょうをつけているんだ。」 「まずい画だよ。」

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飛騨は、そう言い捨ててヴェランダヘ出た。きょうは兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした布地であった。えりもとを気にしいしいヴェランダの椅子いすこしかけた。 「飛騨もこうして見ると、大家の風貌ふうぼうがあるな。」小菅もヴェランダヘ出た。「葉ちゃん。トランプしないか。」

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ヴェランダヘ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。

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勝負のなかば、小菅は真面目まじめつぶやいた。 「飛騨は気取ってるねえ。」 「馬鹿ばか。君こそ。なんだその手つきは。」

165

三人はくつくつ笑いだし、いっせいにそっととなりのヴェランダをぬすみ見た。い号室の患者かんじゃも、ろ号室の患者も、日光浴用の寝台に横わっていて、三人の様子に顔をあかくして笑っていた。 「大失敗。知っていたのか。」

166

小菅こすげは口を大きくあけて、葉蔵ようぞうへ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑いくずれた。彼等は、しばしばこのような道化どうけを演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉蔵も飛騨ひだもそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい舞台装置を見つけると、なぜか芝居しばいをしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑い声は、彼等にさえ思いおよばなかったほどの大事件を生んだ。真野がその療養りょうよう院の看護婦長にしかられたのである。笑い声が起って五分もたぬうちに真野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしている三人へ、このことを知らせた。

167

三人は、痛いほどしたたかにしょげて、しばらくただ顔を見合せていた。彼等の有頂天うちょうてん狂言きょうげんを、現実の呼びごえが、よせやいとせせら笑ってぶちこわしたのだ。これは、ほとんど致命的ちめいてきでさえあり得る。 「いいえ、なんでもないんです。」真野は、かえってはげますようにして言った。「この病棟びょうとうには、重症患者じゅうしょうかんじゃがひとりもいないのですし、それにきのうも、ろ号室のお母さまが私と廊下ろうかったとき、にぎやかでいいとおっしゃって、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑わされてばかりいるって、そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません。」 「いや、」小菅はソファから立ちあがった。「よくないよ。ぼくたちのおかげで君がはじかいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言わないのだ。ここへ連れて来いよ。僕たちをそんなにきらいなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる。」

168

三人とも、このとっさの間に、本気で退院の腹をきめた。ことにも葉蔵は、自動車に乗って海浜かいひんづたいに遁走とんそうして行くはればれしき四人のすがたをはるかに思った。

169

飛騨もソファから立ちあがって、笑いながら言った。「やろうか。みんなで婦長のところへしかけて行こうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿ばかだ。」 「退院しようよ。」小菅はドアをそっとった。「こんなけちな病院は、面白おもしろくないや。叱るのは構わないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考えていたにちがいないのさ。頭がわるくてブルジョアくさいぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思っているんだ。」

170

言い終えて、またドアをまえよりすこし強く蹴ってやった。それから、えかねたようにしてきだした。

171

葉蔵ようぞうはベッドヘどしんと音たてて寝ころがった。「それじゃ、ぼくなんかは、さしずめ色白な恋愛至上主義者というようなところだ。もう、いかん。」

172

彼等は、この野蛮人やばんじん侮辱ぶじょくに、なおもはらわたのえくりかえる思いをしているのだが、さびしく思い直して、それをよい加減に茶化そうと試みる。彼等はいつもそうなのだ。

173

けれども真野は率直だった。ドアのわきのかべに、両腕りょううでをうしろへまわしてよりかかり、めくれあがった上唇うわくちびるをことさらにきゅっととがらせて言うのであった。 「そうなんでございますのよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、婦長室へ看護婦をおおぜいあつめて、歌留多かるたなんかして大さわぎだったくせに。」 「そうだ。十二時すぎまできゃっきゃっ言っていたよ。ちょっと馬鹿ばかだな。」

174

葉蔵はそうつぶやきつつ、枕元まくらもとに散らばってある木炭紙をいちまい拾いあげ、仰向あおむけに寝たままでそれへ落書をはじめた。 「ご自分がよくないことをしているから、ひとのよいところがわからないんだわ。うわさですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですって。」 「そうか。いいところがある。」小菅こすげは大喜びであった。彼等はひとの醜聞しゅうぶんを美徳のように考える。たのもしいと思うのである。「勲章くんしょうがめかけを持ったか。いいところがあるよ。」 「ほんとうに、みなさん、罪のないことをおっしゃっては、お笑いになっていらっしゃるのに、判らないのかしら。お気になさらず、うんとおさわぎになったほうが、ようございますわ。かまいませんとも。きょう一日ですものねえ。ほんとうに誰にだっておしかられになったことのない、よい育ちのかたばかりなのに。」片手を顔へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた。

175

飛騨ひだはひきとめてささやいた。「婦長のとこへ行ったって駄目だめだよ。よし給え。なんでもないじゃないか。」

176

顔を両手でおおったまま、二三度つづけさまにうなずいて廊下ろうかへ出た。 「正義派だ。」真野が去ってから、小菅はにやにや笑ってソファヘ座った。「泣き出しちゃった。自分の言葉にってしまったんだよ。ふだんは大人くさいことを言っていても、やっぱり女だな。」 「変ってるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまわった。「はじめから僕、変ってると思っていたんだよ。おかしいなあ。泣いて飛び出そうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行ったんじゃないだろうな。」 「そんなことはないよ。」葉蔵は平気なおももちをよそおってそう答え、落書した木炭紙を小菅のほうへ投げてやった。 「婦長の肖像画しょうぞうがか。」小菅はげらげら笑いこけた。 「どれどれ。」飛騨ひだも立ったままで木炭紙をのぞきこんだ。「女怪だね。けっさくだよ。これあ。似ているのか。」 「そっくりだ。いちど院長について、この病室へも来たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆えんぴつを貸せよ。」小菅こすげは、葉蔵ようぞうから鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加えた。「これへこうつのやすのだ。いよいよ似て来たな。婦長室のドアヘってやろうか。」 「そとへ散歩に出てみようよ。」葉蔵はベッドから降りて背のびした。背のびしながら、こっそりつぶやいてみた。「ポンチ画の大家。」

177

ポンチ画の大家。そろそろぼくきて来た。これは通俗つうぞく小説でなかろうか。ともすれば硬直こうちょくしたがる僕の神経に対しても、また、おそらくはおなじような諸君の神経に対しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかった一齣ひとこまであったが、どうやら、これはあますぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は気が狂ったのかしら、――諸君は、かえって僕のこんな注釈ちゅうしゃく邪魔じゃまにするだろう。作家の思いもおよばなかったところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作けっさくである所以ゆえんを大声でさけぶだろう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらえている作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、あせを流して見当はずれの注釈ばかりつけている。そして、まずまず注釈だらけのうるさい駄作ださくをつくるのだ。勝手にしろ、とつっぱなす、そんな剛毅ごうきな精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やっぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時ざんじいこいをしている。ああ、もうどうでもよい。ほって置いて呉れ。道化どうけはなとやらも、どうやらここでしぼんだようだ。しかも、さもしくみにくくきたなくしぼんだ。完璧かんぺきへのあこがれ。傑作へのさそい。「もう沢山たくさんだ。奇跡きせき創造主つくりぬし。おのれ!」

178

真野は洗面所へしのびこんだ。心ゆくまで泣こうと思った。しかし、そんなにも泣けなかったのである。洗面所の鏡を覗いて、涙をき、かみをなおしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛でかけた。

179

食堂の入口ちかくのテエブルにへ号室の大学生が、からになったスウプの皿をまえに置き、ひとりくったくげに座っていた。

180

真野を見て微笑ほほえみかけた。「患者かんじゃさんは、お元気のようですね。」

181

真野は立ちどまって、そのテエブルのはしを固くつかまえながら答えた。 「ええ、もう罪のないことばかりおっしゃって、私たちを笑わせていらっしゃいます。」 「そんならいい。画家ですって?」 「ええ。立派なをかきたいって、しょっちゅうおっしゃって居られますの。」言いかけて耳まで赤くした。「真面目まじめなんですのよ。真面目でございますから、真面目でございますからお苦しいこともおこるわけね。」 「そうです。そうです。」大学生も顔をあからめつつ、心から同意した。

182

大学生はちかく退院できることにきまったので、いよいよ寛大かんだいになっていたのである。

183

このあまさはどうだ。諸君は、このような女をきらいであろうか。畜生ちくしょう! 古めかしいと笑い給え。ああ、もはやいこいも、ぼくにはてれくさくなっている。僕は、ひとりの女をさえ、注釈ちゅうしゃくなしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさえ、へまをする。 「あそこだよ。あの岩だよ。」

184

葉蔵ようぞうなしの木の枯枝かれえだのあいだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのうの雪がのこっていた。 「あそこから、はねたのだ。」葉蔵は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言うのである。

185

小菅こすげは、だまっていた。ほんとうに平気で言っているのかしら、と葉蔵のこころを忖度そんたくしていた。葉蔵も平気で言っているのではなかったが、しかしそれを不自然でなく言えるほどの伎倆ぎりょうをもっていたのである。 「かえろうか。」飛騨ひだは、着物のすそを両手でぱっとはしょった。

186

三人は、砂浜をひっかえしてあるきだした。海はいでいた。まひるの日を受けて、白く光っていた。

187

葉蔵は、海へ石をひとつほうった。 「ほっとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔こうかいも、傑作けっさくも、はじも、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついたときは、僕はあの岩のうえで笑ったな。ほっとするよ。」

188

小菅は、昂奮こうふんをかくそうとして、やたらに貝を拾いはじめた。 「誘惑ゆうわくするなよ。」飛騨はむりに笑いだした。「わるい趣味しゅみだ。」

189

葉蔵も笑いだした。三人の足音がさくさくと気持ちよく皆の耳へひびく。 「おこるなよ。いまのはちょっと誇張こちょうがあったな。」葉蔵は飛騨とかたをふれ合せながらあるいた。「けれども、これだけは、ほんとうだ。女がねえ、飛びむまえにどんなことをささやいたか。」

190

小菅こすげ好奇心こうきしんに燃えた眼をずるそうに細め、わざと二人からはなれて歩いていた。 「まだ耳についている。田舎いなかの言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は南のはずれだよ。」 「いけない! ぼくにはよすぎる。」 「ほんと。君、ほんとうだよ。ははん。それだけの女だ。」

191

大きい漁船が砂浜にあげられてやすんでいた。その傍に直径七八尺もあるような美事な魚籃ぎょらんが二つころがっていた。小菅は、その船のくろい横腹へ、拾った貝を、力いっぱいに投げつけた。

192

三人は、窒息ちっそくするほど気まずい思いをしていた。もし、この沈黙ちんもくが、もう一分間つづいたなら、彼等はいっそ気軽げに海へ身をおどらせたかも知れぬ。

193

小菅がだしぬけにさけんだ。 「見ろ、見ろ。」前方のなぎさを指さしたのである。「い号室とろ号室だ!」

194

季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘がこっちへそろそろ歩いて来た。 「発見だな。」葉蔵ようぞう蘇生そせいの思いであった。 「話かけようか。」小菅は、片足あげてくつの砂をふり落し、葉蔵の顔をのぞきこんだ。命令一下けだそうというのである。 「よせ、よせ。」飛騨ひだは、きびしい顔をして小菅のかたをおさえた。

195

パラソルは立ちどまった。しばらく何か話合っていたが、それからくるっとこっちへ背をむけて、またしずかに歩きだした。 「追いかけようか。」こんどは葉蔵がはしゃぎだした。飛騨のうつむいている顔をちらと見た。「よそう。」

196

飛騨はわびしくてならぬ。この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、いまはっきりと感じたのだ。生活からであろうか、と考えた。飛騨の生活はややまずしかったのである。 「だけど、いいなあ。」小菅は西洋ふうに肩をすくめた。なんとかしてこの場をうまく取りつくろってやろうと努めるのである。「僕たちの散歩しているのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。可愛そうだなあ。へんな心地になっちゃった。おや、貝をひろってるよ。僕の真似まねをしていやがる。」

197

飛騨は思い直して微笑ほほえんだ。葉蔵のわびるようなひとみとぶつかった。二人ながらほおをあからめた。判っている。おたがいがいたわりたい心でいっぱいなんだ。彼等は弱きをいつくしむ。

198

三人は、ほの温い海風にかれ、遠くのパラソルをながめつつあるいた。

199

はるか療養りょうよう院の白い建物のしたには、真野が彼等の帰りを待って立っている。ひくい門柱によりかかり、まぶしそうに右手を額へかざしている。

200

最後の夜に、真野はかれていた。寝てからも、おのれのつつましい家族のことや、立派な祖先のことをながながとしゃべった。葉蔵ようぞうは夜のふけるとともに、むっつりして来た。やはり、真野のほうへ背をむけて、気のない返事をしながらほかのことを思っていた。

201

真野は、やがておのれの眼のうえの傷について話だしたのである。 「私が三つのとき、」なにげなく語ろうとしたらしかったが、しくじった。声がのどへひっからまる。「ランプをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだものでございますのよ。小学校へあがっていたじぶんには、この傷、もっともっと大きかったんですの。学校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」すこしとぎれた。「そう呼ぶんです。私、そのたんびに、きっとかたきを討とうと思いましたわ。ええ、ほんとうにそう思ったわ。えらくなろうと思いましたの。」ひとりで笑いだした。「おかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡めがねかけましょうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんじゃないかしら。」 「よせよ。かえっておかしい。」葉蔵はおこってでもいるように、だしぬけに口をはさんだ。女に愛情を感じたとき、わざとじゃけんにしてやる古風さを、彼もやはり持っているのであろう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もうねむったらどうだろう。あしたは早いのだよ。」

202

真野は、だまった。あした別れてしまうのだ。おや、他人だったのだ。はじを知れ。恥を知れ。私は私なりにほこりを持とう。せきをしたり溜息ためいきついたり、それからばたんばたんと乱暴に寝返りをうったりした。

203

葉蔵は素知らぬふりをしていた。なにを案じつつあるかは、言えぬ。

204

僕たちはそれより、浪の音やかもめの声に耳かたむけよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思い起そう。みずからを現実主義者としょうしている人は言うかも知れぬ。この四日間はポンチに満ちていたと。それならば答えよう。おのれの原稿げんこうが、編集者へんしゅうしゃの机のうえでおおかた土瓶敷どびんしきの役目をしてくれたらしく、黒い大きな焼跡やけあとをつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂いちゆうしたこともポンチ。質屋の暖簾のれんをくぐるのに、それでも襟元えりもとき合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ふうさいただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送っている。そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢がまんの態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。ぼくは、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たった四日の思い出の、ああ、一生涯いっしょうがいにまさることがある。

205

真野のおだやかな寝息が聞えた。葉蔵ようぞうきかえる思いにえかねた。真野のほうへ寝がえりを打とうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。

206

やめろ! ほたるの信頼しんらいを裏切るな。

207

夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまった。葉蔵はきょう退院するのである。僕は、この日の近づくことをおそれていた。それは作者のだらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉蔵を救いたかった。いや、このバイロンに化けそこねた一匹の泥狐どろぎつねを許してもらいたかった。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願きがんであった。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼こうりょうたる気配のふたたび葉蔵を、僕をしずかにおそうて来たのを覚えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍ひやくもない、なんの解脱げだつもない。僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。そのためにこの小説は下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと重要なことがらをたくさん言い落したような気がする。これはきざな言いかたであるが、僕が長生きして、幾年いくねんかのちにこの小説を手に取るようなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだろう。おそらくは一ページも読まぬうちに僕は堪えがたい自己嫌悪けんおにおののいて、巻をせるにきまっている。いまでさえ、僕は、まえを読みかえす気力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉をりかえす。そして、承認を与えよう。

208

僕は文学を知らぬ。もいちど始めから、やり直そうか。君、どこから手をつけていったらよいやら。

209

僕こそ、渾沌こんとんと自尊心とのかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?

210

書こうか。青松園の最後の朝を書こう。なるようにしかならぬのだ。

211

真野は裏山へ景色けしきを見に葉蔵をさそった。 「とても景色がいいんですのよ。いまならきっと富士が見えます。」

212

葉蔵ようぞうはまっくろい羊毛の襟巻えりまきを首にまとい、真野は看護服のうえに松葉の模様のある羽織はおり着込きこみ、赤い毛糸のショオルを顔がうずまるほどぐるぐる巻いて、いっしょに療養りょうよう院の裏庭へ下駄げたはいて出た。庭のすぐ北方には、赤土のたかいがけがそそり立っていて、それへせまい鉄の梯子はしごがいっぽんかかっているのであった。真野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼった。

213

裏山には枯草かれくさが深くしげっていて、しもがいちめんにおりていた。

214

真野は両手の指先へ白い息をきかけて温めつつ、はしるようにして山路をのぼっていった。山路はゆるい傾斜けいしゃをもってくねくねと曲っていた。葉蔵も、霜をみ踏みそのあとを追った。こおった空気へたのしげに口笛をきこんだ。誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。真野にそんなわるい懸念けねんを持たせたくなかったのである。

215

窪地くぼちへ降りた。ここにも枯れたかやがしげっていた。真野は立ちどまった。葉蔵も五六歩はなれて立ちどまった。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。

216

真野はその小屋を指さして言った。 「これ、日光浴場。軽症けいしょう患者かんじゃさんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」

217

テントにも霜がひかっていた。 「登ろう。」

218

なぜとは知らず気がせくのだ。

219

真野は、またけ出した。葉蔵もつづいた。落葉松からまつの細い並木路へさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。

220

葉蔵はかたであらく息をしながら、大声で話かけた。 「君、お正月はここでするのか。」

221

りむきもせず、やはり大声で答えてよこした。 「いいえ。東京へ帰ろうと思います。」 「じゃ、ぼくのとこへ遊びに来たまえ。飛騨ひだ小菅こすげも毎日のように僕のとこへ来ているのだ。まさか牢屋ろうやでお正月を送るようなこともあるまい。きっとうまく行くだろうと思うよ。」

222

まだ見ぬ検事のすがすがしい笑い顔をさえ、胸にえがいていたのである。

223

ここで結べたら! 古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉蔵も僕も、おそらくは諸君も、このようなごまかしのなぐさめに、もはやきている。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいったい、検事のことなどをはじめから気にかけていたのだろうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう。いささかの期待をそれにのみつないでいる。

224

ようよう頂上にたどりつく。頂上は簡単に地ならしされ、十坪ほどの赤土がむきだされていた。まんなかに丸太のひくいあずまやがあり、庭石のようなものまで、あちこちにえられていた。すべてしもをかぶっている。 「駄目だめ。富士が見えないわ。」

225

真野は鼻さきをまっかにしてさけんだ。 「この辺に、くっきり見えますのよ。」

226

東のくもった空を指さした。朝日はまだ出ていないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、きたってはよどみ、澱んではまたゆるゆると流れていた。 「いや、いいよ。」

227

そよ風がほおを切る。

228

葉蔵ようぞうは、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの断崖だんがいになっていて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧あさぎり奥底おくそこに、海水がゆらゆらうごいていた。

229

そして、いな、それだけのことである。




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太宰治全作品集 1
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