1 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
2 大庭葉蔵はベッドのうえに座って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた。
3 夢より醒め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰きわまったり。だいいち、大庭葉蔵とはなにごとであろう。酒でない、ほかのもっと強烈なものに酔いしれつつ、僕はこの大庭葉蔵に手を拍った。この姓名は、僕の主人公にぴったり合った。大庭は、主人公のただならぬ気魄を象徴してあますところがない。葉蔵はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんとうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉蔵とこう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに画期的ではないか。その大庭葉蔵が、ベッドに座り雨にけむる沖を眺めているのだ。いよいよ画期的ではないか。
4 よそう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から来るようだ。現に僕にしても、ひとから言われたくないゆえ、まずまっさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もっと素直にならなければいけない。ああ、謙譲に。
5 大庭葉蔵。
6 笑われてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだろうけれど、僕にはちょっとめんどうらしい。いっそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」という主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひょっくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかった、としたり顔して述懐する奇妙な男が出て来ないとも限らぬ。ほんとうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉蔵をやはり押し通す。おかしいか。なに、君だって。
7 一九二九年、十二月のおわり、この青松園という海浜の療養院は、葉蔵の入院で、すこし騒いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がいた。二人の重症患者と、十一人の軽症患者とがいて、あとの二十三人は回復期の患者であった。葉蔵の収容された東第一病棟は、言わば特等の入院室であって、六室に区切られていた。葉蔵の室の両隣りは空室で、いちばん西側のへ号室には、背と鼻のたかい大学生がいた。東側のい号室とろ号室には、わかい女のひとがそれぞれ寝ていた。三人とも回復期の患者である。その前夜、袂ヶ浦で心中があった。一緒に身を投げたのに、男は、帰帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであった。その女のひとを捜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乗り出して行く掛声を、三人は、胸とどろかせて聞いていた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。大学生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかった。あけがたになって、女の死体が袂ヶ浦の波打際で発見された。短く刈りあげた髪がつやつや光って、顔は白くむくんでいた。
8 葉蔵は園の死んだのを知っていた。漁船でゆらゆら運ばれていたとき、すでに知ったのである。星空のしたでわれにかえり、女は死にましたか、とまず尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答えた。なにやら慈悲ぶかい口調であった。死んだのだな、とうつつに考えて、また意識を失った。ふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにいた。狭くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいっぱいつまっていた。そのなかの誰かが葉蔵の身元をあれこれと尋ねた。葉蔵は、いちいちはっきり答えた。夜が明けてから、葉蔵は別のもっとひろい病室に移された。変を知らされた葉蔵の国元で、彼の処置につき、取りあえず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉蔵のふるさとは、ここから二百里もはなれていた。
9 東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寝ているということに不思議な満足を覚え、きょうからの病院生活を楽しみにしつつ、空も海もまったく明るくなった頃ようやく眠った。
10 葉蔵は眠らなかった。ときどき頭をゆるくうごかしていた。顔のところどころに白いガアゼが貼りつけられていた。波にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである。真野という二十くらいの看護婦がひとり付き添っていた。左の眼蓋のうえに、やや深い傷痕があるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこし大きかった。しかし、醜くなかった。赤い上唇がこころもち上へめくれあがり、浅黒い頬をしていた。ベッドの傍の椅子に座り、曇天のしたの海を眺めているのである。葉蔵の顔を見ぬように努めた。気の毒で見れなかった。
11 正午ちかく、警察のひとが二人、葉蔵を見舞った。真野は席をはずした。
12 ふたりとも、背広を着た紳士であった。ひとりは短い口鬚を生やし、ひとりは鉄縁の眼鏡を掛けていた。鬚は、声をひくくして園とのいきさつを尋ねた。葉蔵は、ありのままを答えた。鬚は、小さい手帖へそれを書きとるのであった。ひととおりの訊問をすませてから、鬚は、ベッドヘのしかかるようにして言った。「女は死んだよ。君には死ぬ気があったのかね。」
13 葉蔵は、だまっていた。
14 鉄縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺を二三本もりあがらせて微笑みつつ、鬚の肩を叩いた。「よせ、よせ。可愛そうだ。またにしよう。」
15 鬚は、葉蔵の眼つきを、まっすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣のポケットにしまい込んだ。
16 その刑事たちが立ち去ってから、真野は、いそいで葉蔵の室へ帰って来た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽している葉蔵を見てしまった。そのままそっとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした。
17 午後になって雨が降りだした。葉蔵は、ひとりで厠へ立って歩けるほど元気を回復していた。
18 友人の飛騨が、濡れた外套を着たままで、病室へおどり込んで来た。葉蔵は眠ったふりをした。
19 飛騨は真野へ小声でたずねた。「だいじょうぶですか?」 「ええ、もう。」 「おどろいたなあ。」
20 彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套を脱ぎ、真野へ手渡した。
21 飛騨は、名のない彫刻家で、おなじように無名の洋画家である葉蔵とは、中学校時代からの友だちであった。素直な心を持った人なら、そのわかいときには、おのれの身辺ちかくの誰かをきっと偶像に仕立てたがるものであるが、飛騨もまたそうであった。彼は、中学校へはいるとから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めていた。首席は葉蔵であった。授業中の葉蔵の一顰一笑も、飛騨にとっては、ただごとでなかった。また、校庭の砂山の陰に葉蔵のおとなびた孤独なすがたを見つけて、ひとしれずふかい溜息をついた。ああ、そして葉蔵とはじめて言葉を交した日の歓喜。飛騨は、なんでも葉蔵の真似をした。煙草を吸った。教師を笑った。両手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよい歩く法もおぼえた。芸術家のいちばんえらいわけをも知ったのである。葉蔵は、美術学校へはいった。飛騨は一年おくれたが、それでも葉蔵とおなじ美術学校へはいることができた。葉蔵は洋画を勉強していたが、飛騨は、わざと塑像科をえらんだ。ロダンのバルザック像に感激したからだと言うのであったが、それは彼が大家になったとき、その経歴に軽いもったいをつけるための余念ない出鱈目であって、まことは葉蔵の洋画に対する遠慮からであった。ひけめからであった。そのころになって、ようやく二人のみちがわかれ始めた。葉蔵のからだは、いよいよ痩せていったが、飛騨は、すこしずつ太った。ふたりの懸隔はそれだけでなかった。葉蔵は、或る直截な哲学に心をそそられ、芸術を馬鹿にしだした。飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎていた。聞くものが、かえってきまりのわるくなるほど、芸術という言葉を連発するのであった。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠っていた。そうしてふたりとも、よくない成績で学校を卒業した。葉蔵は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。絵画はポスタアでしかないものだ、と言っては、飛騨をしょげさせた。すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言って飛騨をけむに巻くのであった。飛騨は、むかしに変らず葉蔵を好いていたし、葉蔵のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じていたが、しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。いまに、いまに、と考えながら、ただそわそわと粘土をいじくっていた。つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。いや、それだからこそ、僕もこうしてやすやすと叙述できたのであろう。ほんとの市場の芸術家をお目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにげろを吐くだろう。それは保証する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。
22 飛騨もまた葉蔵の顔を見れなかった。できるだけ器用に忍びあしを使い、葉蔵の枕元まで近寄っていったが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めているだけであった。
23 葉蔵は、眼をひらいてうす笑いしながら声をかけた。「おどろいたろう。」
24 びっくりして、葉蔵の顔をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答えた。「うん。」 「どうして知ったの?」
25 飛騨はためらった。右手をズボンのポケットから抜いてひろい顔を撫でまわしながら、真野へ、言ってもよいか、と眼でこっそり尋ねた。真野はまじめな顔をしてかすかに首を振った。 「新聞に出ていたのかい?」 「うん。」ほんとは、ラジオのニウスで知ったのである。
26 葉蔵は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思った。もっとうち解けて呉れてもよいと思った。一夜あけたら、もんどり打って、おのれを異国人あつかいにしてしまったこの十年来の友が憎かった。葉蔵は、ふたたび眠ったふりをした。
27 飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリッパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉蔵の枕元に立っていた。
28 ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大学生が、ひょっくりその美しい顔を出した。飛騨はそれを見つけて、唸るほどほっとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追いはらいながら、わざとゆったりした歩調でドアのほうへ行った。 「いま着いたの?」 「そう。」小菅は、葉蔵のほうを気にしつつ、せきこんで答えた。
29 小菅というのである。この男は、葉蔵と親戚であって、大学の法科に籍を置き、葉蔵とは三つもとしが違うのだけれど、それでも、へだてない友だちであった。あたらしい青年は、年齢にあまり拘泥せぬようである。冬休みで故郷へ帰っていたのだが、葉蔵のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで来たのであった。ふたりは廊下へ出て立ち話をした。 「煤がついているよ。」
30 飛騨は、おおっぴらにげらげら笑って、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙が、そこにうっすりこびりついていた。 「そうか。」小菅は、あわてて胸のポケットからハンケチを取りだし、さっそく鼻のしたをこすった。「どうだい。どんな工合いだい。」 「大庭か? だいじょうぶらしいよ。」 「そうか。――落ちたかい。」鼻のしたをぐっとのばして飛騨に見せた。 「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大変な騒ぎだろう。」
31 ハンケチを胸のポケットにつっこみながら返事した。「うん。大騒ぎさ。お葬いみたいだったよ。」 「うちから誰か来るの?」 「兄さんが来る。親爺さんは、ほっとけ、と言ってる。」 「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。 「葉ちゃんは、ほんとに、よいのか。」 「案外、平気だ。あいつは、いつもそうなんだ。」
32 小菅は浮かれてでもいるように口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな気持ちだろうな。」 「わからん、――大庭に会ってみないか。」 「いいよ、会ったって、話することもないし、それに、――こわいよ。」
33 ふたりは、ひくく笑いだした。
34 真野が病室から出て来た。 「聞えています。ここで立ち話をしないようにしましょうよ。」 「あ。そいつあ。」
35 飛騨は恐縮して、おおきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議そうなおももちで真野の顔を覗いていた。 「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」 「まだです。」ふたり一緒に答えた。
36 真野は顔を赤くして噴きだした。
37 三人がそろって食堂へ出掛けてから、葉蔵は起きあがった。雨にけむる沖を眺めたわけである。 「ここを過ぎて空濛の淵。」
38 それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠嘆を、栄ある書きだしの一行にまつりあげたかったからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまったとて、僕は心弱くそれを抹殺する気はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のきょうまでの生活を消すことだ。 「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」
39 この言葉は間が抜けて、よい。小菅がそれを言ったのである。したり顔にそう言って、ミルクの茶碗を持ち直した。
40 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勲章を胸に三つ付けた肖像画が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひっそり並んでいた。食堂は、がらんとしていた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに座り、食事をとっていた。 「ずいぶん、はげしくやっていたよ。」小菅は声をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまわっていたのでは、死にたくもなるよ。」 「行動隊のキャップだろう。知っている。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかえしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶったのではない。左翼の用語ぐらい、そのころの青年なら誰でも知っていた。「しかし、――それだけでないさ。芸術家はそんなにあっさりしたものでないよ。」
41 食堂は暗くなった、雨がつよくなったのである。
42 小菅は、ミルクをひとくち飲んでから言った。「君は、ものを主観的にしか考えれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客観的な大きい原因がひそんでいるものだ、という。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまっていたが、僕は、そうでないと言って置いた。女はたた、みちづれさ。別なおおきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、変なことを言う。いかんぞ。」
43 飛騨は、あしもとの燃えているストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあったのだよ。」
44 ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は応じた。「知ってるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちゃんにとっては、屁でもないことさ。女に亭主があったから、心中するなんて、甘いじゃないか。」言いおわってから、頭のうえの肖像画を片眼つぶって狙って眺めた。「これが、ここの院長かい。」 「そうだろう。しかし、――ほんとうのことは、大庭でなくちゃわからんよ。」 「それあそうだ。」小菅は気軽く同意して、きょろきょろあたりを見回した。「寒いなあ。君は、きょうここへ泊るかい。」
45 飛騨は、パンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊る。」
46 青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!
47 さて、僕の小説も、ようやくぼけて来たようである。ここらで一転、パノラマ式の数齣を展開させるか。おおきいことを言うでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。
48 翌る朝は、なごやかに晴れていた。海は凪いで、大島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼっていた。よくない。僕は景色を書くのがいやなのだ。
49 い号室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であった。付添いの看護婦と、おはようを言い交し、すぐ朝の体温を計った。六度四分あった。それから、食前の日光浴をしにヴェランダヘ出た。看護婦にそっと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に号室のヴェランダを盗み見していたのである。きのうの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て籐椅子に座り、海を眺めていた。まぶしそうにふとい眉をひそめていた。そんなによい顔とも思えなかった。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いていた。日光浴用の寝台に横わって、薄目あけつつそれだけを観察してから、看護婦に本を持って来させた。ボヴァリイ夫人。ふだんはこの本を退屈がって、五六頁も読むと投げ出してしまったものであるが、きょうは本気に読みたかった。いま、これを読むのは、いかにもふさわしげであると思った。ぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから読み始めた。よい一行を拾った。「エンマは、炬火の光で、真夜中に嫁入りしたいと思った。」
50 ろ号室の患者も、眼覚めていた。日光浴をしにヴェランダヘ出て、ふと葉蔵のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かった。すぐ、ベッドヘもぐり込んでしまったのである。付添いの母親は、笑いながら毛布をかけてやった。ろ号室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話声に耳傾けた。 「美人らしいよ。」それからしのびやかな笑い声が。
51 飛騨と小菅が泊っていたのである。その隣りの空いていた病室のひとつベッドにふたりで寝た。小菅がさきに眼を覚まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴェランダヘ出た。葉蔵のすこし気取ったポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを捜しに、くるっと左へ首をねじむけた。いちばん端のヴェランダでわかい女が本を読んでいた。女の寝台の背景は、苔のある濡れた石垣であった。小菅は、西洋ふうに肩をきゅっとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠っている飛騨をゆり起した。 「起きろ。事件だ。」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちゃんの大ポオズ。」
52 彼等の会話には、「大」という形容詞がしばしば用いられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる対象が欲しいからでもあろう。
53 飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ。」
54 小菅は笑いながら教えた。 「少女がいるんだ。葉ちゃんが、それへ得意の横顔を見せているのさ。」
55 飛騨もはしゃぎだした。両方の眉をおおげさにぐっと上へはねあげて尋ねた。「美人か?」 「美人らしいよ。本の嘘読みをしている。」
56 飛騨は噴きだした。ベッドに腰かけたまま、ジャケツを着、ズボンをはいてから叫んだ。 「よし、とっちめてやろう。」とっちめるつもりはないのである。これはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさえ平気で吐く。その場の調子にまかせるのである。「大庭のやつ、世界じゅうの女をみんな欲しがっているんだ。」
57 すこし経って、葉蔵の病室から大勢の笑い声がどっとおこり、その病棟の全部にひびき渡った。い号室の患者は、本をぱちんと閉じて、葉蔵のヴェランダの方をいぶかしげに眺めた。ヴェランダには朝日を受けて光っている白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もいなかった。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだ。ろ号室の患者は、笑い声を聞いて、ふっと毛布から顔を出し、枕元に立っている母親とおだやかな微笑を交した。へ号室の大学生は、笑い声で眼を覚ました。大学生には、付添いのひともなかったし、下宿屋ずまいのような、のんきな暮しをしているのであった。笑い声はきのうの新患者の室からなのだと気づいて、その蒼黒い顔をあからめた。笑い声を不謹慎とも思わなかった。回復期の患者に特有の寛大な心から、むしろ葉蔵の元気のよいらしいのに安心したのである。
58 僕は三流作家でないだろうか。どうやら、うっとりしすぎたようである。パノラマ式などと柄でもないことを企て、とうとうこんなにやにさがった。いや、待ち給え。こんな失敗もあろうかと、まえもって用意していた言葉がある。美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る。つまり僕の、こんなにうっとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ悪魔的でないからである。ああ、この言葉を考え出した男にさいわいあれ。なんという重宝な言葉であろう。けれども作家は、一生涯のうちにたったいちどしかこの言葉を使われぬ。どうもそうらしい。いちどは、愛嬌である。もし君が、二度三度とくりかえして、この言葉を楯にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。 「失敗したよ。」
59 ベッドの傍のソファに飛騨と並んで座っていた小菅は、そう言いむすんで、飛騨の顔と、葉蔵の顔と、それから、ドアに寄りかかって立っている真野の顔とを、順々に見まわし、みんな笑っているのを見とどけてから、満足げに飛騨のまるい右肩へぐったり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。彼等はまた、よくひとを笑わす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑わせたがるのだ。それはいずれ例の虚無の心から発しているのであろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた気がまえを推察できないだろうか。犠牲の魂。いくぶんなげやりであって、これぞという目的をも持たぬ犠牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかってさえ美談と言い得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆえである。これらは僕の独断である。しかも書斎のなかの模索でない。みんな僕自身の肉体から聞いた思念ではある。
60 葉蔵は、まだ笑っている。ベッドに腰かけて両脚をぶらぶら動かし、頬のガアゼを気にしいしい笑っていた。小菅の話がそんなにおかしかったのであろうか。彼等がどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの或る名高い温泉場ヘスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがった。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡すれちがっただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ気がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、そのすれちがった瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本気になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる経緯を瞬間のうちに考えめぐらし、胸のはりさける思いをする。彼等は、そのような息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは経験する。だから彼等は油断をしない、ひとりでいるときにでも、おのれの姿勢を飾っている。小菅が、深夜、厠へ行ったそのときでさえ、おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たという。小菅がそのわかい女とすれちがったあとで、しみじみ、よかったと思った。外套を着て出てよかったと思った。ほっと溜息ついて、廊下のつきあたりの大きい鏡を覗いてみたら、失敗であった。外套のしたから、うす汚い股引をつけた両脚がにょっきと出ている。 「いやはや、」さすがに軽く笑いながら言うのであった。「股引はねじくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えているのさ。顔は寝ぶくれにふくれて。」
61 葉蔵は、内心そんなに笑ってもいないのである。小菅のつくりばなしのようにも思われた。それでも大声で笑ってやった。友がきのうに変って、葉蔵へ打ち解けようと努めて呉れる、その気ごころに対する返礼のつもりもあって、ことさらに笑いこけてやったのである。葉蔵が笑ったので、飛騨も真野も、ここぞと笑った。
62 飛騨は安心してしまった。もうなんでも言えると思った。まだまだ、と抑えたりした。ぐずぐずしていたのである。
63 調子に乗った小菅が、かえって易々と言ってのけた。 「僕たちは、女じゃ失敗するよ。葉ちゃんだってそうじゃないか。」
64 葉蔵は、まだ笑いながら、首を傾けた。 「そうかなあ。」 「そうさ。死ぬてはないよ。」 「失敗かなあ。」
65 飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであろうと、この年少の友をぎゅっと抱いてやりたい衝動を感じた。
66 飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃りつつ言いだした。 「失敗かどうかは、ひとくちに言えないと思うよ。だいいち原因が判らん。」まずいなあ、と思った。
67 すぐ小菅が助けて呉れた。「それは判ってる。飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨はこいつ、もったいぶってね、他にある、なんて言うんだ。」間髪をいれず飛騨は応じた。「それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬ筈がない。」
68 葉蔵になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気にひびいた。大出来だ、とひそかにほっとした。
69 葉蔵は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。悪徳の巣。疲労。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえって呟いた。 「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。」 「判る。判る。」小菅は葉蔵の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。気をきかせたのかしら。」
70 僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉蔵はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうっかり吐いてしまった本音ではなかろうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反発とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因をたずねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。
71 その日のひるすぎ、葉蔵の兄が青松園についた。兄は、葉蔵に似てないで、立派にふとっていた。袴をはいていた。
72 院長に案内され、葉蔵の病室のまえまで来たとき、部屋のなかの陽気な笑い声を聞いた。兄は知らぬふりをしていた。 「ここですか?」 「ええ。もう御元気です。」院長は、そう答えながらドアを開けた。
73 小菅がおどろいて、ベッドから飛びおりた。葉蔵のかわりに寝ていたのである。葉蔵と飛騨とは、ソファに並んで腰かけて、トランプをしていたのであったが、ふたりともいそいで立ちあがった。真野は、ベッドの枕元の椅子に座って編物をしていたが、これも、間がわるそうにもじもじと編物の道具をしまいかけた。 「お友だちが来て下さいましたので、賑やかです。」院長はふりかえって兄へそう囁きつつ、葉蔵の傍へあゆみ寄った。「もう、いいですね。」 「ええ。」そう答えて、葉蔵は急にみじめな思いをした。
74 院長の眼は、眼鏡の奥で笑っていた。 「どうです。サナトリアム生活でもしませんか。」
75 葉蔵は、はじめて罪人のひけ目を覚えたのである。ただ微笑をもって答えた。
76 兄はそのあいだに、几帳面らしく真野と飛騨へ、お世話になりました、と言ってお辞儀をして、それから小菅へ真面目な顔で尋ねた。「ゆうべは、ここへ泊ったって?」 「そう。」小菅は頭を掻き掻き言った。「となりの病室があいていましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらいました。」 「じゃ今夜から私の旅籠へ来給え。江の島に旅籠をとっています。飛騨さん、あなたも。」 「はあ。」飛騨はかたくなっていた。手にしている三枚のトランプを持てあましながら返事した。
77 兄は、なんでもなさそうにして葉蔵のほうを向いた。 「葉蔵、もういいか。」 「うん。」ことさらに、にがり切って見せながらうなずいた。
78 兄は、にわかに饒舌になった。 「飛騨さん。院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ましょうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ。先生に案内していただこうと思って。すぐ、出掛けましょう。自動車を待たせてあるのです。よいお天気だ。」
79 僕は後悔している。二人のおとなを登場させたばかりに、すっかり滅茶滅茶である。葉蔵と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかってせっかくよい工合いにもりあげた、いっぷう変った雰囲気も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰囲気のロマンスにしたかったのである。はじめの数頁でぐるぐる渦を巻いた雰囲気をつくって置いて、それを少しずつのどかに解きほぐして行きたいと祈っていたのであった。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて来た。しかし、土崩瓦解である。
80 許して呉れ! 嘘だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなって来て、僕がわざとぶちこわしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。悪趣味。いまになって僕の心をくるしめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、或いは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。
81 なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞえていた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言いたかった。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意していたような気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな。
82 僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。「復讐。」
83 つぎの描写へうつろう。僕は市場の芸術家である。芸術品ではない。僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニュアンスをもたらして呉れたら、それはもっけのさいわいだ。
84 葉蔵と真野とがあとに残された。葉蔵は、ベッドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考えごとをしていた。真野はソファに座って、トランプを片づけていた。トランプの札を紫の紙箱におさめてから、言った。 「お兄さまでございますね。」 「ああ、」たかい天井の白壁を見つめながら答えた。「似ているかな。」
85 作家がその描写の対象に愛情を失うと、てきめんにこんなだらしない文章をつくる。いや、もう言うまい。なかなか乙な文章だよ。 「ええ。鼻が。」
86 葉蔵は、声をたてて笑った。葉蔵のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かったのである。 「おいくつでいらっしゃいます。」真野も少し笑って、そう尋ねた。 「兄貴か?」真野のほうへ顔をむけた。「若いのだよ。三十四さ。おおきく構えて、いい気になっていやがる。」
87 真野は、ふっと葉蔵の顔を見あげた。眉をひそめて話しているのだ。あわてて眼を伏せた。 「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺が。」
88 言いかけて口を噤んだ。葉蔵はおとなしくしている。僕の身代りになって、妥協しているのである。
89 真野は立ちあがって、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行った。もとのように、また葉蔵の枕元の椅子に座り、編物をはじめながら、真野もまた考えていた。思想でもない、恋愛でもない、それより一歩てまえの原因を考えていた。
90 僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちっとも触れていないような気がする。それは当前であろう。たくさんのことを言い落している。それも当前であろう。作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の効果を期待した僕は馬鹿であった。ことにその効果を口に出してなど言うべきでなかった。口に出して言ったとたんに、また別のまるっきり違った効果が生れる。その効果を凡そこうであろうと推察したとたんに、また新しい効果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりいなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出来栄か、僕はそれをさえ知ろうと思うまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思いも及ばぬたいへんな価値を生むことであろう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい気にもなるのであろう。はっきり言えば、僕は自信をうしなっている。
91 電気がついてから、小菅がひとりで病室へやって来た。はいるとすぐ、寝ている葉蔵の顔へおっかぶさるようにして囁いた。 「飲んで来たんだ。真野へ内緒だよ。」
92 それから、はっと息を葉蔵の顔へつよく吐きつけた。酒を飲んで病室へ出はいりすることは禁ぜられていた。
93 うしろのソファで編物をつづけている真野をちらと横眼つかって見てから、小菅は叫ぶようにして言った。「江の島をけんぶつして来たよ。よかったなあ。」そしてすぐまた声をひくめてささやいた。「嘘だよ。」
94 葉蔵は起きあがってベッドに腰かけた。 「いままで、ただ飲んでいたのか。いや、構わんよ。真野さん、いいでしょう?」
95 真野は編物の手をやすめずに、笑いながら答えた。「よくもないんですけれど。」
96 小菅はベッドの上へ仰向にころがった。 「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ。」
97 葉蔵はだまっていた。 「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだ。すっかりかたをつけてしまうんだって。飛騨は馬鹿だなあ。興奮していやがった。飛騨は、きょうむこうへ泊るよ。僕は、いやだから帰った。」 「僕の悪口を言っていたろう。」 「うん。言っていたよ。大馬鹿だと言ってる。此の後も、なにをしでかすか、判ったものじゃないと言ってた。しかし親爺もよくない、と付け加えた。真野さん、煙草を吸ってもいい?」 「ええ。」涙が出そうなのでそれだけ答えた。 「波の音が聞えるね。――よき病院だな。」小菅は火のついてない煙草をくわえ、酔っぱらいらしくあらい息をしながらしばらく眼をつぶっていた。やがて、上体をむっくり起した。 「そうだ。着物を持って来たんだ。そこへ置いたよ。」顎でドアの方をしゃくった。
98 葉蔵は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包に眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言えば財産という単語を思い出すのには変りがないようだ。「おふくろには、かなわん。」 「うん。兄さんもそう言ってる。お母さんがいちばん可愛そうだって。こうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんとうだよ、君。――真野さん、マッチない?」真野からマッチを受け取り、その箱に画かれてある馬の顔を頬ふくらませて眺めた。「君のいま着ているのは、院長から借りた着物だってね。」 「これか? そうだよ。院長の息子の着物さ。――兄貴は、その他にも何か言ったろうな。僕の悪口を。」 「ひねくれるなよ。」煙草へ火を点じた。「兄さんは、わりに新らしいよ。君を判っているんだ。いや、そうでもないかな。苦労人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言い合ったんだが、そのときにね、おお笑いさ。」けむりの輪を吐いた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉蔵が放蕩をして金に窮したからだ。大真面目で言うんだよ。それとも、これは兄として言いにくいことだが、きっと恥かしい病気にでもかかって、やけくそになったのだろう。」酒でどろんと濁った眼を葉蔵にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ。」
99 今宵は泊るのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣りの病室を借りるにも及ぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寝ることにきめた。小菅は葉蔵とならんでソファに寝た。緑色の天鵞絨が張られたそのソファには、仕掛がされてあって、あやしげながらベッドにもなるのであった。真野は毎晩それに寝ていた。きょうはその寝床を小菅に奪われたので病院の事務室から薄縁を借り、それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちょうど葉蔵の足の真下あたりであった。それから真野は、どこから見つけて来たものか、二枚折のひくい屏風でもってそのつつましい寝所をかこったのである。 「用心ぶかい。」小菅は寝ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑った。「秋の七草が画れてあるよ。」
100 真野は、葉蔵の頭のうえの電灯を風呂敷で包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言い、屏風のかげにかくれた。
101 葉蔵は寝ぐるしい思いをしていた。 「寒いな。」ベッドのうえで輾転した。 「うん。」小菅も口をとがらせて合槌うった。「酔がさめちゃった。」
102 真野は軽くせきをした。「なにかお掛けいたしましょうか。」
103 葉蔵は眼をつむって答えた。 「僕か? いいよ。寝ぐるしいんだ。波の音が耳について。」
104 小菅は葉蔵をふびんだと思った。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉蔵ではなしに、葉蔵とおなじ身のうえにあったときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まず好意的に言って、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いったいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から? 「真野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない?」
105 葉蔵の気持ちを転換させてやろうというおせっかいから、小菅は真野へ甘ったれた。 「さあ。」真野は屏風のかげから、笑い声と一緒にただそう答えてよこした。 「すごい話でもいいや。」彼等はいつも、戦慄したくてうずうずしている。
106 真野は、なにか考えているらしく、しばらく返事をしなかった。 「秘密ですよ。」そうまえおきをして、声しのばせて笑いだした。「怪談でございますよ。小菅さん、だいじょうぶ?」 「ぜひ、ぜひ。」本気だった。
107 真野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺を謀った青年が、発見されて、ある病院に収容され、それへ真野が付添った。患者は薬品をもちいているのであった。からだいちめんに、紫色の斑点がちらばっていた。助かる見込がなかったのである。夕方いちど、意識を回復した。そのとき患者は、窓のそとの石垣を伝ってあそんでいるたくさんの小さい磯蟹を見て、きれいだなあ、と言った。その辺の蟹は生きながらに甲羅が赤いのである。なおったら捕って家へ持って行くのだ、と言い残してまた意識をうしなった。その夜、患者は洗面器へ二杯、吐きものをして死んだ。国元から身うちのものが来るまで、真野はその病室に青年とふたりでいた。一時間ほどは、がまんして病室のすみの椅子に座っていた。うしろに幽かな物音を聞いた。じっとしていると、また聞えた。こんどは、はっきり聞えた。足音らしいのである。思い切って振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がいた。真野はそれを見つめつつ、泣きだした。 「不思議ですわねえ。ほんとうに蟹がいたのでございますの。生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよそうと思いましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけっこう暮してゆけるのですし。お父さんにそう言って、うんと笑われましたけれど。――小菅さん、どう?」 「すごいよ。」小菅は、わざとふざけたようにして叫ぶのである。「その病院ていうのは?」
108 真野はそれに答えず、ごそもそと寝返りをうって、ひとりごとのように呟いた。 「私ね、大庭さんのときも、病院からの呼び出しを断ろうかと思いましたのよ。こわかったですからねえ。でも、来て見て安心しましたわ。このとおりのお元気で、はじめから御不浄へ、ひとりで行くなんておっしゃるんでございますもの。」 「いや、病院さ。ここの病院じゃないかね。」
109 真野は、すこし間を置いて答えた。 「ここです。ここなんでございますのよ。でも、それは秘密にして置いて下さいましね。信用にかかわりましょうから。」
110 葉蔵は寝とぼけたような声を出した。「まさか、この部屋じゃないだろうな。」 「いいえ。」 「まさか、」小菅も口真似した。「僕たちがゆうべ寝たベッドじゃないだろうな。」
111 真野は笑いだした。 「いいえ。だいじょうぶでございますわよ。そんなにお気になさるんだったら、私、言わなければよかった。」 「い号室だ。」小菅はそっと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い号室だ。君、少女のいる部屋だよ。可愛そうに。」 「お騒ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ。」
112 葉蔵は別なことを考えていた。園の幽霊を思っていたのである。美しい姿を胸に画いていた。葉蔵は、しばしばこのようにあっさりしている。彼等にとって神という言葉は、間の抜けた人物に与えられる揶揄と好意のまじったなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近しているからかも知れぬ。こんな工合いに軽々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きっと諸君は、浅薄とか安易とかいう言葉でもってきびしい非難をするであろう。ああ、許し給え。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがっているものだ。されば、言おう。彼こそ神に似ている。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこっそり笑って眺めている知慧の女神のミネルヴァに。
113 翌る日、朝から療養院がざわめいていた。雪が降っていたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松がいちように雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂浜にも、雪がうすく積っていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼頃までつづいた。
114 葉蔵は、ベッドの上で腹這いになり、雪の景色をスケッチしていた。木炭紙と鉛筆を真野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事にかかったのである。
115 病室は雪の反射であかるかった。小菅はソファに寝ころんで、雑誌を読んでいた。ときどき葉蔵の画を、首すじのばして覗いた。芸術というものに、ぼんやりした畏敬を感じているのであった。それは、葉蔵ひとりに対する信頼から起った感情である。小菅は幼いときから葉蔵を見て知っていた。いっぷう変っていると思っていた。一緒に遊んでいるうちに、葉蔵のその変りかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍でさえあった葉蔵を、小菅は少年のころから好きだったのである。殊に学生時代の葉蔵が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるような瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがって、観賞の態度であった。つまり利巧だったのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがえして傍観する。これが小菅の、葉蔵や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであろう。小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生になにか期待の対象を感じたい心からである。葉蔵ほどの男が、汗みどろになって作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう思っている。その点、やはり葉蔵を信頼しているのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉蔵のスケッチを盗み見しながらも、がっかりしている。木炭紙に画かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。
116 小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそりしていた。
117 真野は、いなかった。洗濯場で、葉蔵の毛のシャツを洗っているのだ。葉蔵は、このシャツを着て海へはいった。磯の香がほのかにしみこんでいた。
118 午後になって、飛騨が警察から帰って来た。いきおい込んで病室のドアをあけた。 「やあ、」葉蔵がスケッチしているのを見て、大袈裟に叫んだ。「やってるな。いいよ。芸術家は、やっぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」
119 そう言いつつベッドヘ近寄り、葉蔵の肩越しにちらと画を見た。葉蔵は、あわててその木炭紙を二つに折ってしまった。それを更にまた四つに折り畳みながら、はにかむようにして言った。 「駄目だよ。しばらく画かないでいると、頭ばかり先になって。」
120 飛騨は外套を着たままで、ベッドの裾へ腰かけた。 「そうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。芸術に熱心だからなのだ。まあ、そう思うんだな。――いったい、どんなのを画いたの?」
121 葉蔵は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしゃくった。 「海を画いた。空と海がまっくろで、島だけが白いのだ。画いているうちに、きざな気がして止した。趣向がだいいち素人くさいよ。」 「いいじゃないか。えらい芸術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人になって、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを狙った男だ。いや、そうでもないかな。」 「僕は画をよそうと思うのだ。」葉蔵は折り畳んだ木炭紙を懐にしまいこんでから、飛騨の話へおっかぶせるようにして言った。「画は、まだるっこくていかんな。彫刻だってそうだよ。」
122 飛騨は長い髪を掻きあげて、たやすく同意した。「そんな気持ちも判るな。」 「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな。」 「うん。詩も、いいよ。」 「しかし、やっぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやろうと思った。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をもうけて、飛騨みたいなよい芸術家をたくさん集めて、可愛がってやるのだ。それは、どうだろう。芸術なんて、恥かしくなった。」やはり頬杖ついて海を眺めながら、そう言い終えて、おのれの言葉の反応をしずかに待った。 「わるくないよ。それも立派な生活だと思うな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい。」言いながら飛騨は、よろめいていた。なにひとつ反駁できぬおのれが、さすがに幇間じみているように思われて、いやであった。彼の所謂、芸術家としての誇りは、ようやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構えた。このつぎの言葉を! 「警察のほうは、どうだったい。」
123 小菅がふいと言い出した。あたらずさわらずの答を期待していたのである。
124 飛騨の動揺はその方へはけぐちを見つけた。 「起訴さ。自殺幇助罪という奴だ。」言ってから悔いた。ひどすぎたと思った。「だが、けっきょく、起訴猶予になるだろうよ。」
125 小菅は、それまでソファに寝そべっていたのをむっくり起きあがって、手をぴしゃっと拍った。「やっかいなことになったぞ。」茶化してしまおうと思ったのである。しかし駄目であった。
126 葉蔵はからだを大きく捻って、仰向になった。
127 ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣を感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快哉を叫ぶだろう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!
128 飛騨はおのれの一言の効果におろおろして、葉蔵の足を蒲団のうえから軽く叩いた。 「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ。」
129 小菅は、またソファに寝ころんだ。 「自殺幇助罪か。」なおも、つとめてはしゃぐのである。「そんな法律もあったかなあ。」
130 葉蔵は足をひっこめながら言った。 「あるさ。懲役ものだ。君は法科の学生のくせに。」
131 飛騨は、かなしく微笑んだ。 「だいじょうぶだよ。兄さんが、うまくやっているよ。兄さんは、あれで、有難いところがあるな。とても熱心だよ。」 「やりてだ。」小菅はおごそかに眼をつぶった。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから。」 「馬鹿。」飛騨は噴きだした。
132 ベッドから降りて外套を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた。 「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがって言った。「女のひとのつれあいがねえ、」すこし躊躇してから、眼を伏せて語りつづけた。「そのひとが、きょう警察へ来たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちょっと打たれたよ。金は一文も要らない、ただその男のひとに会いたい、と言うんだそうだ。兄さんは、それを断った。病人はまだ昂奮しているから、と言って断った。するとそのひとは、情ない顔をして、それでは弟さんによろしく言って呉れ、私たちのことは気にかけず、からだを大事にして、――」口を噤んだ。
133 おのれの言葉に胸がわくわくして来たのである。そのつれあいのひとが、いかにも失業者らしくまずしい身なりをしていたと、軽侮のうす笑いをさえまざまざ口角に浮べつつ話して聞かせた葉蔵の兄へのこらえにこらえた鬱憤から、ことさらに誇張をまじえて美しく語ったのであった。 「会わせればよいのだ。要らないおせっかいをしやがる。」葉蔵は、右の掌を見つめていた。
134 飛騨は大きいからだをひとつゆすった。 「でも、――会わないほうがいいんだ。やっぱり、このまま他人になってしまったほうがいいんだ。もう東京へ帰ったよ。兄さんが停車場まで送って行って来たのだ。兄さんは二百円の香典をやったそうだよ。これからはなんの関係もない、という証文みたいなものも、そのひとに書いてもらったんだ。」 「やりてだなあ。」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たった二百円か。たいしたものだよ。」
135 飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顔を、けわしくしかめた。彼等は、おのれの陶酔に水をさされることを極端に恐れる。それゆえ、相手の陶酔をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあいだの黙契である。小菅はいまそれを破っている。小菅には、飛騨がそれほど感激しているとは思えなかったのだ。そのつれあいのひとの弱さが歯がゆかったし、それへつけこむ葉蔵の兄も兄だ、と相変らずの世間の話として聞いていたのである。
136 飛騨はぶらぶら歩きだし、葉蔵の枕元のほうへやって来た。硝子戸に鼻先をくっつけるようにして、曇天のしたの海を眺めた。 「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからじゃないよ。そんなことはないと思うなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壷を抱いてひとりで帰ったそうだ。汽車に乗ってる姿が眼にちらつくよ。」
137 小菅は、やっと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」 「美談だろう? いい話だろう?」飛騨は、くるっと小菅のほうへ顔をねじむけた。気嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きているよろこびを感ずるのさ。」
138 思い切って、僕は顔を出す。そうでもしないと、僕はこのうえ書きつづけることができぬ。この小説は混乱だらけだ。僕自身がよろめいている。葉蔵をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがって、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。
139 どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覚悟していた。書いているうちに、なにかひとつぐらい、むきなものが出るだろうと楽観していた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらい、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらいなにかひとつぐらいとそればかりを、あちこちひっくりかえして捜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばったのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る。なんという馬鹿な。この言葉に最大級のわざわいあれ。うっとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいのちがった意味をもっておのれの胸へはねかえって来るようでは、ペンをへし折って捨てなければならぬ。葉蔵にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく気取って見せなくてよい。どうせおさとは知れているのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。
140 その夜、だいぶ更けてから、葉蔵の兄が病室を訪れた。葉蔵は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでいた。きのう兄がここへはじめて来たときにも、彼等はトランプをしていた筈である。けれども彼等はいちにちいっぱいトランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがっている程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に発揮できないようなゲエムはきっと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもいおもいに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく。当ったためしのないのだが、それでもいつかはぴったり当るだろう、と彼等は考える。あたったら、どんなに愉快だろう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしていない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も来合せた。
141 兄は病室へはいって来て、ちょっと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである。このような不幸は人生にままある。葉蔵は美術学校時代にも、これと同じような不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたようにして、大声で言った。「君は、僕の時間にはあくびばかりしている。一時間に百回あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえてみたような気がしているらしかった。
142 ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いている。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いったいこれは、どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。
143 僕は、海浜の療養院を書いている。この辺は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むずかしい理屈はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる。なにも言うな。
144 兄は、みんなに軽く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなずいて、小菅と真野へ目くばせした。
145 三人が病室から出るのを待って、兄は言いだした。 「電気がくらいな。」 「うん。この病院じゃ明るい電気をつけさせないのだ。座らない?」
146 葉蔵がさきにソファヘ座って、そう言った。 「ああ。」兄は座らずに、くらい電球を気がかりらしくちょいちょいふり仰ぎつつ、狭い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こっちのほうだけは、片づいた。」 「ありがとう。」葉蔵はそれを口のなかで言って、こころもち頭をさげた。 「私はなんとも思っていないよ。だが、これから家へ帰るとまたうるさいのだ。」きょうは袴をはいていなかった。黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかった。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合いに手紙を出したほうがいい。お前たちは、のんきそうだが、しかし、めんどうな事件だよ。」
147 葉蔵は返事をしなかった。ソファにちらばっているトランプの札をいちまい手にとって見つめていた。 「出したくないなら、出さなくていい。あさって、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れていたのだ。きょうは私と飛騨とが証人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたずねられたから、おとなしいほうでしたと答えた。思想上になにか不審はなかったか、と聞かれて、絶対にありません。」
148 兄は歩きまわるのをやめて、葉蔵のまえの火鉢に立ちはだかり、おおきい両手を炭火のうえにかざした。葉蔵はその手のこまかくふるえているのを、ぼんやり見ていた。 「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言って置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたそうだ。私の答弁と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言えばいい。」
149 葉蔵には兄の言葉の裏が判っていた。しかし、そしらぬふりをしていた。 「要らないことは言わなくていい。聞かれたことだけをはっきり答えるのだ。」 「起訴されるのかな。」葉蔵はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまわしながらひくく呟いた。 「判らん。それは判らん。」語調をつよめてそう言った。「どうせ四五日は警察へとめられると思うから、その用意をして行け。あさっての朝、私はここへ迎えに来る。一緒に警察へ行くんだ。」
150 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく黙った。雪解けの雫のおとが波の響にまじって聞えた。 「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言いだした。それから、なにげなさそうな口調ですらすら言いつづけた。「お前も、ずっと将来のことを考えて見ないといけないよ。家にだって、そうそう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたってなんにもならぬだろうが、うちの銀行もいま危くなっているし、たいへんな騒ぎだよ。お前は笑うかも知れないが、芸術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考えなければいけないと思うな。まあ、これから生れ変ったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう帰ろう。飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるようにしたほうがいい。ここで毎晩さわいでいては、まずいことがある。」 「僕の友だちはみんなよいだろう?」
151 葉蔵は、わざと真野のほうへ背をむけて寝ていた。その夜から、真野がもとのように、ソファのベッドヘ寝ることになったのである。 「ええ。――小菅さんとおっしゃるかた、」しずかに寝がえりを打った。「面白いかたですわねえ。」 「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがうのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり真似していやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまえだよ。しっかりしている。」しばらく間を置いて、小声で付け加えた、「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたわるのだ。僕たちにむりして調子を合せているのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」
152 真野は答えなかった。 「あの女のことを話してあげようか。」
153 やはり真野へ背をむけたまま、つとめてのろのろとそう言った。なにか気まずい思いをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしゃらにその気まずさを徹底させてしまわなければかなわぬ悲しい習性を葉蔵は持っていた。 「くだらん話なんだよ。」真野がなんとも言わぬさきから葉蔵は語りはじめた。「もう誰かから聞いただろう。園というのだ。銀座のバアにつとめていたのさ。ほんとうに、僕はそこのバアヘ三度、いや四度しか行かなかったよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかったのだからな。僕も教えなかったし。」よそうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互いにまったくちがったことを考えていたらしい。園は海へ飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがった。内縁の夫があったのだよ。二三年まえまで小学校の先生をしていたのだって。僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やっぱり好きだったのだろうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだろう。「僕は、これでも左翼の仕事をしていたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやったり、柄にないことをしていたのさ。滑稽だ。でも、ずいぶんつらかったよ。われは先覚者なりという栄光にそそのかされただけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけじゃないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だろうな。」ああ、言えば言うほどおのれが嘘つきで不正直な気がして来るこの大きな不幸!「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、画をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑った。「よい画がかけたらねえ。」
154 よい画がかけたらねえ、と言った。しかも笑ってそれを言った。青年たちは、むきになっては、何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす。
155 夜が明けた。空に一抹の雲もなかった。きのうの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々の隅にだけ、鼠いろして少しずつのこっていた。海には靄がいっぱい立ちこめ、その靄の奥のあちこちから漁船の発動機の音が聞えた。
156 院長は朝はやく葉蔵の病室を見舞った。葉蔵のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言った。 「たいていだいじょうぶでしょう。でも、お気をつけてね。警察のほうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんとうのからだではないのですから。真野君、顔の絆創膏は剥いでいいだろう。」
157 真野はすぐ、葉蔵のガアゼを剥ぎとった。傷はなおっていた。かさぶたさえとれて、ただ赤白い斑点になっていた。 「こんなことを申しあげると失礼でしょうけれど、これからはほんとうに御勉強なさるように。」
158 院長はそう言って、はにかんだような眼を海へむけた。
159 葉蔵もなにやらばつの悪い思いをした。ベッドのうえに座ったまま、脱いだ着物をまた着なおしながら黙っていた。
160 そのとき高い笑い声とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむようにしてはいって来た。みんなおはようを言い交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。 「きょういちにちです。お名残りおしいですな。」
161 院長が去ってから、小菅がいちばんさきに口を切った。 「如才がないな。蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顔に興味を持つ。顔でもって、そのひとの全部の価値をきめたがる。「食堂にあのひとの画があるよ。勲章をつけているんだ。」 「まずい画だよ。」
162 飛騨は、そう言い捨ててヴェランダヘ出た。きょうは兄の着物を借りて着ていた。茶色のどっしりした布地であった。襟もとを気にしいしいヴェランダの椅子に腰かけた。 「飛騨もこうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もヴェランダヘ出た。「葉ちゃん。トランプしないか。」
163 ヴェランダヘ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。
164 勝負のなかば、小菅は真面目に呟いた。 「飛騨は気取ってるねえ。」 「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」
165 三人はくつくつ笑いだし、いっせいにそっと隣りのヴェランダを盗み見た。い号室の患者も、ろ号室の患者も、日光浴用の寝台に横わっていて、三人の様子に顔をあかくして笑っていた。 「大失敗。知っていたのか。」
166 小菅は口を大きくあけて、葉蔵へ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。彼等は、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉蔵も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい舞台装置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑い声は、彼等にさえ思い及ばなかったほどの大事件を生んだ。真野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑い声が起って五分も経たぬうちに真野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お静かになさいとずいぶんひどく叱られた。泣きだしそうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしている三人へ、このことを知らせた。
167 三人は、痛いほどしたたかにしょげて、しばらくただ顔を見合せていた。彼等の有頂天な狂言を、現実の呼びごえが、よせやいとせせら笑ってぶちこわしたのだ。これは、ほとんど致命的でさえあり得る。 「いいえ、なんでもないんです。」真野は、かえってはげますようにして言った。「この病棟には、重症患者がひとりもいないのですし、それにきのうも、ろ号室のお母さまが私と廊下で会ったとき、賑やかでいいとおっしゃって、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑わされてばかりいるって、そうおっしゃったわ。いいんですのよ。かまいません。」 「いや、」小菅はソファから立ちあがった。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言わないのだ。ここへ連れて来いよ。僕たちをそんなにきらいなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる。」
168 三人とも、このとっさの間に、本気で退院の腹をきめた。殊にも葉蔵は、自動車に乗って海浜づたいに遁走して行くはればれしき四人のすがたをはるかに思った。
169 飛騨もソファから立ちあがって、笑いながら言った。「やろうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行こうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿だ。」 「退院しようよ。」小菅はドアをそっと蹴った。「こんなけちな病院は、面白くないや。叱るのは構わないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考えていたにちがいないのさ。頭がわるくてブルジョア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思っているんだ。」
170 言い終えて、またドアをまえよりすこし強く蹴ってやった。それから、堪えかねたようにして噴きだした。
171 葉蔵はベッドヘどしんと音たてて寝ころがった。「それじゃ、僕なんかは、さしずめ色白な恋愛至上主義者というようなところだ。もう、いかん。」
172 彼等は、この野蛮人の侮辱に、尚もはらわたの煮えくりかえる思いをしているのだが、さびしく思い直して、それをよい加減に茶化そうと試みる。彼等はいつもそうなのだ。
173 けれども真野は率直だった。ドアのわきの壁に、両腕をうしろへまわしてよりかかり、めくれあがった上唇をことさらにきゅっと尖らせて言うのであった。 「そうなんでございますのよ。ずいぶんですわ。ゆうべだって、婦長室へ看護婦をおおぜいあつめて、歌留多なんかして大さわぎだったくせに。」 「そうだ。十二時すぎまできゃっきゃっ言っていたよ。ちょっと馬鹿だな。」
174 葉蔵はそう呟きつつ、枕元に散らばってある木炭紙をいちまい拾いあげ、仰向に寝たままでそれへ落書をはじめた。 「ご自分がよくないことをしているから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですって。」 「そうか。いいところがある。」小菅は大喜びであった。彼等はひとの醜聞を美徳のように考える。たのもしいと思うのである。「勲章がめかけを持ったか。いいところがあるよ。」 「ほんとうに、みなさん、罪のないことをおっしゃっては、お笑いになっていらっしゃるのに、判らないのかしら。お気になさらず、うんとおさわぎになったほうが、ようございますわ。かまいませんとも。きょう一日ですものねえ。ほんとうに誰にだってお叱られになったことのない、よい育ちのかたばかりなのに。」片手を顔へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた。
175 飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行ったって駄目だよ。よし給え。なんでもないじゃないか。」
176 顔を両手で覆ったまま、二三度つづけさまにうなずいて廊下へ出た。 「正義派だ。」真野が去ってから、小菅はにやにや笑ってソファヘ座った。「泣き出しちゃった。自分の言葉に酔ってしまったんだよ。ふだんは大人くさいことを言っていても、やっぱり女だな。」 「変ってるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまわった。「はじめから僕、変ってると思っていたんだよ。おかしいなあ。泣いて飛び出そうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行ったんじゃないだろうな。」 「そんなことはないよ。」葉蔵は平気なおももちを装ってそう答え、落書した木炭紙を小菅のほうへ投げてやった。 「婦長の肖像画か。」小菅はげらげら笑いこけた。 「どれどれ。」飛騨も立ったままで木炭紙を覗きこんだ。「女怪だね。けっさくだよ。これあ。似ているのか。」 「そっくりだ。いちど院長について、この病室へも来たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ。」小菅は、葉蔵から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加えた。「これへこう角を生やすのだ。いよいよ似て来たな。婦長室のドアヘ貼ってやろうか。」 「そとへ散歩に出てみようよ。」葉蔵はベッドから降りて背のびした。背のびしながら、こっそり呟いてみた。「ポンチ画の大家。」
177 ポンチ画の大家。そろそろ僕も厭きて来た。これは通俗小説でなかろうか。ともすれば硬直したがる僕の神経に対しても、また、おそらくはおなじような諸君の神経に対しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかった一齣であったが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は気が狂ったのかしら、――諸君は、かえって僕のこんな注釈を邪魔にするだろう。作家の思いも及ばなかったところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を大声で叫ぶだろう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらえている愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見当はずれの注釈ばかりつけている。そして、まずまず注釈だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつっぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やっぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩いをしている。ああ、もうどうでもよい。ほって置いて呉れ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだようだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそい。「もう沢山だ。奇跡の創造主。おのれ!」
178 真野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣こうと思った。しかし、そんなにも泣けなかったのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髪をなおしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた。
179 食堂の入口ちかくのテエブルにへ号室の大学生が、からになったスウプの皿をまえに置き、ひとりくったくげに座っていた。
180 真野を見て微笑みかけた。「患者さんは、お元気のようですね。」
181 真野は立ちどまって、そのテエブルの端を固くつかまえながら答えた。 「ええ、もう罪のないことばかりおっしゃって、私たちを笑わせていらっしゃいます。」 「そんならいい。画家ですって?」 「ええ。立派な画をかきたいって、しょっちゅうおっしゃって居られますの。」言いかけて耳まで赤くした。「真面目なんですのよ。真面目でございますから、真面目でございますからお苦しいこともおこるわけね。」 「そうです。そうです。」大学生も顔をあからめつつ、心から同意した。
182 大学生はちかく退院できることにきまったので、いよいよ寛大になっていたのである。
183 この甘さはどうだ。諸君は、このような女をきらいであろうか。畜生! 古めかしいと笑い給え。ああ、もはや憩いも、僕にはてれくさくなっている。僕は、ひとりの女をさえ、注釈なしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさえ、へまをする。 「あそこだよ。あの岩だよ。」
184 葉蔵は梨の木の枯枝のあいだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのうの雪がのこっていた。 「あそこから、はねたのだ。」葉蔵は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言うのである。
185 小菅は、だまっていた。ほんとうに平気で言っているのかしら、と葉蔵のこころを忖度していた。葉蔵も平気で言っているのではなかったが、しかしそれを不自然でなく言えるほどの伎倆をもっていたのである。 「かえろうか。」飛騨は、着物の裾を両手でぱっとはしょった。
186 三人は、砂浜をひっかえしてあるきだした。海は凪いでいた。まひるの日を受けて、白く光っていた。
187 葉蔵は、海へ石をひとつ抛った。 「ほっとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついたときは、僕はあの岩のうえで笑ったな。ほっとするよ。」
188 小菅は、昂奮をかくそうとして、やたらに貝を拾いはじめた。 「誘惑するなよ。」飛騨はむりに笑いだした。「わるい趣味だ。」
189 葉蔵も笑いだした。三人の足音がさくさくと気持ちよく皆の耳へひびく。 「怒るなよ。いまのはちょっと誇張があったな。」葉蔵は飛騨と肩をふれ合せながらあるいた。「けれども、これだけは、ほんとうだ。女がねえ、飛び込むまえにどんなことを囁いたか。」
190 小菅は好奇心に燃えた眼をずるそうに細め、わざと二人から離れて歩いていた。 「まだ耳についている。田舎の言葉で話がしたいな、と言うのだ。女の国は南のはずれだよ。」 「いけない! 僕にはよすぎる。」 「ほんと。君、ほんとうだよ。ははん。それだけの女だ。」
191 大きい漁船が砂浜にあげられてやすんでいた。その傍に直径七八尺もあるような美事な魚籃が二つころがっていた。小菅は、その船のくろい横腹へ、拾った貝を、力いっぱいに投げつけた。
192 三人は、窒息するほど気まずい思いをしていた。もし、この沈黙が、もう一分間つづいたなら、彼等はいっそ気軽げに海へ身を躍らせたかも知れぬ。
193 小菅がだしぬけに叫んだ。 「見ろ、見ろ。」前方の渚を指さしたのである。「い号室とろ号室だ!」
194 季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘がこっちへそろそろ歩いて来た。 「発見だな。」葉蔵も蘇生の思いであった。 「話かけようか。」小菅は、片足あげて靴の砂をふり落し、葉蔵の顔を覗きこんだ。命令一下駈けだそうというのである。 「よせ、よせ。」飛騨は、きびしい顔をして小菅の肩をおさえた。
195 パラソルは立ちどまった。しばらく何か話合っていたが、それからくるっとこっちへ背をむけて、またしずかに歩きだした。 「追いかけようか。」こんどは葉蔵がはしゃぎだした。飛騨のうつむいている顔をちらと見た。「よそう。」
196 飛騨はわびしくてならぬ。この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、いまはっきりと感じたのだ。生活からであろうか、と考えた。飛騨の生活はややまずしかったのである。 「だけど、いいなあ。」小菅は西洋ふうに肩をすくめた。なんとかしてこの場をうまく取りつくろってやろうと努めるのである。「僕たちの散歩しているのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。可愛そうだなあ。へんな心地になっちゃった。おや、貝をひろってるよ。僕の真似をしていやがる。」
197 飛騨は思い直して微笑んだ。葉蔵のわびるような瞳とぶつかった。二人ながら頬をあからめた。判っている。お互いがいたわりたい心でいっぱいなんだ。彼等は弱きをいつくしむ。
198 三人は、ほの温い海風に吹かれ、遠くのパラソルを眺めつつあるいた。
199 はるか療養院の白い建物のしたには、真野が彼等の帰りを待って立っている。ひくい門柱によりかかり、まぶしそうに右手を額へかざしている。
200 最後の夜に、真野は浮かれていた。寝てからも、おのれのつつましい家族のことや、立派な祖先のことをながながとしゃべった。葉蔵は夜のふけるとともに、むっつりして来た。やはり、真野のほうへ背をむけて、気のない返事をしながらほかのことを思っていた。
201 真野は、やがておのれの眼のうえの傷について話だしたのである。 「私が三つのとき、」なにげなく語ろうとしたらしかったが、しくじった。声が喉へひっからまる。「ランプをひっくりかえして、やけどしたんですって。ずいぶん、ひがんだものでございますのよ。小学校へあがっていたじぶんには、この傷、もっともっと大きかったんですの。学校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」すこしとぎれた。「そう呼ぶんです。私、そのたんびに、きっとかたきを討とうと思いましたわ。ええ、ほんとうにそう思ったわ。えらくなろうと思いましたの。」ひとりで笑いだした。「おかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡かけましょうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんじゃないかしら。」 「よせよ。かえっておかしい。」葉蔵は怒ってでもいるように、だしぬけに口を挟んだ。女に愛情を感じたとき、わざとじゃけんにしてやる古風さを、彼もやはり持っているのであろう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠ったらどうだろう。あしたは早いのだよ。」
202 真野は、だまった。あした別れてしまうのだ。おや、他人だったのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持とう。せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと乱暴に寝返りをうったりした。
203 葉蔵は素知らぬふりをしていた。なにを案じつつあるかは、言えぬ。
204 僕たちはそれより、浪の音や鴎の声に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思い起そう。みずからを現実主義者と称している人は言うかも知れぬ。この四日間はポンチに満ちていたと。それならば答えよう。おのれの原稿が、編集者の机のうえでおおかた土瓶敷の役目をしてくれたらしく、黒い大きな焼跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾をくぐるのに、それでも襟元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送っている。そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たった四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある。
205 真野のおだやかな寝息が聞えた。葉蔵は沸きかえる思いに堪えかねた。真野のほうへ寝がえりを打とうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい声を耳もとへささやかれた。
206 やめろ! ほたるの信頼を裏切るな。
207 夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまった。葉蔵はきょう退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れていた。それは愚作者のだらしない感傷であろう。この小説を書きながら僕は、葉蔵を救いたかった。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらいたかった。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であった。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる気配のふたたび葉蔵を、僕をしずかに襲うて来たのを覚えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり気にしすぎたようである。そのためにこの小説は下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと重要なことがらをたくさん言い落したような気がする。これはきざな言いかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るようなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだろう。おそらくは一頁も読まぬうちに僕は堪えがたい自己嫌悪におののいて、巻を伏せるにきまっている。いまでさえ、僕は、まえを読みかえす気力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉を繰りかえす。そして、承認を与えよう。
208 僕は文学を知らぬ。もいちど始めから、やり直そうか。君、どこから手をつけていったらよいやら。
209 僕こそ、渾沌と自尊心とのかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?
210 書こうか。青松園の最後の朝を書こう。なるようにしかならぬのだ。
211 真野は裏山へ景色を見に葉蔵を誘った。 「とても景色がいいんですのよ。いまならきっと富士が見えます。」
212 葉蔵はまっくろい羊毛の襟巻を首に纏い、真野は看護服のうえに松葉の模様のある羽織を着込み、赤い毛糸のショオルを顔がうずまるほどぐるぐる巻いて、いっしょに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。庭のすぐ北方には、赤土のたかい崖がそそり立っていて、それへせまい鉄の梯子がいっぽんかかっているのであった。真野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼった。
213 裏山には枯草が深くしげっていて、霜がいちめんにおりていた。
214 真野は両手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるようにして山路をのぼっていった。山路はゆるい傾斜をもってくねくねと曲っていた。葉蔵も、霜を踏み踏みそのあとを追った。凍った空気へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりいない山。どんなことでもできるのだ。真野にそんなわるい懸念を持たせたくなかったのである。
215 窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげっていた。真野は立ちどまった。葉蔵も五六歩はなれて立ちどまった。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。
216 真野はその小屋を指さして言った。 「これ、日光浴場。軽症の患者さんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」
217 テントにも霜がひかっていた。 「登ろう。」
218 なぜとは知らず気がせくのだ。
219 真野は、また駈け出した。葉蔵もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかった。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
220 葉蔵は肩であらく息をしながら、大声で話かけた。 「君、お正月はここでするのか。」
221 振りむきもせず、やはり大声で答えてよこした。 「いいえ。東京へ帰ろうと思います。」 「じゃ、僕のとこへ遊びに来たまえ。飛騨も小菅も毎日のように僕のとこへ来ているのだ。まさか牢屋でお正月を送るようなこともあるまい。きっとうまく行くだろうと思うよ。」
222 まだ見ぬ検事のすがすがしい笑い顔をさえ、胸に画いていたのである。
223 ここで結べたら! 古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉蔵も僕も、おそらくは諸君も、このようなごまかしの慰めに、もはや厭きている。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいったい、検事のことなどをはじめから気にかけていたのだろうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう。いささかの期待をそれにのみつないでいる。
224 ようよう頂上にたどりつく。頂上は簡単に地ならしされ、十坪ほどの赤土がむきだされていた。まんなかに丸太のひくいあずまやがあり、庭石のようなものまで、あちこちに据えられていた。すべて霜をかぶっている。 「駄目。富士が見えないわ。」
225 真野は鼻さきをまっかにして叫んだ。 「この辺に、くっきり見えますのよ。」
226 東の曇った空を指さした。朝日はまだ出ていないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたっては澱み、澱んではまたゆるゆると流れていた。 「いや、いいよ。」
227 そよ風が頬を切る。
228 葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの断崖になっていて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆらうごいていた。
229
そして、否、それだけのことである。
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使用権フリー作品集シリーズ
太宰治全作品集 1
制作・販売:マイクロ テクノロジー株式会社
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年2月