逆行

       太宰 治

蝶蝶

1

老人ではなかった。二十五歳をしただけであった。けれどもやはり老人であった。ふつうの人の一年一年を、この老人はたっぷり三倍三倍にして暮したのである。二度、自殺をしそこなった。そのうちの一度は情死であった。三度、留置場にぶちこまれた。思想の罪人としてであった。ついに一編も売れなかったけれど、百編にあまる小説を書いた。しかし、それはいずれもこの老人の本気でした仕業しわざではなかった。言わば道草であった。いまだにこの老人のひしがれた胸をとくとく打ち鳴らし、そのこけたほおをあからめさせるのは、酔いどれることと、ちがった女をながめながらあくなき空想をめぐらすことと、二つであった。いや、その二つの思い出である。ひしがれた胸、こけた頬、それはうそでなかった。老人は、この日に死んだのである。老人の永い生涯しょうがいに於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。死ぬる間際まぎわまで嘘をいていた。

2

老人は今、病床びょうしょうにある。遊びから受けた病気であった。老人には暮しに困らぬほどの財産があった。けれどもそれは、遊びあるくのには足りない財産であった。老人は、いま死ぬることを残念であるとは思わなかった。ほそぼそとした暮しは、老人には理解できないのである。

3

ふつうの人間は臨終りんじゅうちかくなると、おのれの両のてのひらをまじまじと眺めたり、近親のひとみをぼんやり見あげているものであるが、この老人は、たいてい眼をつぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけてまぶたをぷるぷるそよがせてみたり、おとなしくそんなことをしているだけなのである。蝶蝶が見えるというのであった。青い蝶や、黒い蝶や、白い蝶や、黄色い蝶や、むらさきの蝶や、水色の蝶や、数千数万の蝶蝶がすぐ額のうえをいっぱいにむれ飛んでいるというのであった。わざとそういうのであった。十里とおくは蝶のかすみ。百万の羽ばたきの音は、真昼のあぶのうなりに似ていた。これは合戦をしているのであろう。つばさの粉末が、折れたあしが、眼玉が、触角が、長い舌が、降るように落ちる。

4

食べたいものは、なんでも、と言われて、あずきかゆ、と答えた。老人が十八歳で始めて小説というものを書いたとき、臨終の老人が、あずきかゆ、を食べたいとつぶやくところの描写びょうしゃをなしたことがある。

5

あずきかゆは作られた。それは、おかゆにゆで小豆あずきを散らして、塩で風味をつけたものであった。老人の田舎いなかのごちそうであった。眼をつぶって仰向あおむけのまま、二さじすすると、もういい、と言った。ほかになにか、と問われ、うす笑いして、遊びたい、と答えた。老人の、ひとのよい無学ではあるが利巧りこうな、若く美しい妻は、居並ぶ近親たちの手前、嫉妬しっとでなくほおをあからめ、それから匙をにぎったまま声しのばせて泣いたという。     盗賊

6

ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐かいない努力の美しさ。われはその美に心をひかれた。今朝こそわれは早く起き、まったく一年ぶりで学生服にうでをとおし、菊花きっか御紋章ごもんしょうかがやく高い大きい鉄の門をくぐった。おそるおそるくぐったのである。すぐに銀杏いちょうの並木がある。右側に十本、左側にも十本、いずれも巨木である。葉のしげるころ、このみちはうすぐらく、地下道のようである。いまは一枚の葉もない。並木路のつきるところ、正面に赤い化粧煉瓦けしょうれんがの大建築物。これは講堂である。われはこの内部を入学式のとき、ただいちど見た。寺院の如き印象を受けた。いまわれは、この講堂のとうの電気時計をあおぐ。試験には、まだ十五分の間があった。探偵たんてい小説家の父親の銅像に、いつくしみのひとみをそそぎつつ、右手のだらだら坂を下り、庭園に出たのである。これは、むかし、さるお大名のお庭であった。池にはこい緋鯉ひごいとすっぽんがいる。五六年まえまでには、ひとつがいのつるが遊んでいた。いまでも、この草むらにはへびがいる。がん野鴨のがもわたり鳥も、この池でその羽を休める。庭園は、ほんとうは二百つぼにも足りないひろさなのであるが、見たところ千坪ほどのひろさなのだ。すぐれた造園術のしかけである。われは池畔ちはん熊笹くまざさのうえにこしをおろし、背をかし古木こぼくの根株にもたせ、両あしをながながと前方になげだした。小径こみちをへだてて大小凸凹でこぼこの岩がならび、そのかげからひろびろと池がひろがっている。曇天どんてんの下の池の面は白く光り、小波さざなみしわをくすぐったげにたたんでいた。右足を左足のうえに軽くのせてから、われはつぶやく。

7

――われは盗賊。

8

まえの小径を大学生たちが一列に並んで通る。ひきもきらず、ぞろぞろと流れるように通るのである。いずれは、ふるさとの自慢じまんの子。えらばれた秀才しゅうさいたち。ノオトのおなじ文章を読み、それをみんなみんなの大学生が、一律に暗記しようと努めていた。われは、ポケットから煙草たばこを取りだし、一本、口にくわえた。マッチがないのである。

9

――火を借して呉れ。

10

ひとりの美男の大学生をえらんで声をかけてやった。うすみどり色の外套がいとうにくるまった、その大学生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くわえていた金口の煙草たばこをわれに与えた。与えてそのままのろのろと歩み去った。大学にもわれに匹敵する男がある。われはその金口の外国煙草からおのが安煙草に火をうつして、おもむろに立ちあがり、金口の煙草を力こめて地べたへ投げ捨てくつの裏でにくしみにくしみみにじった。それから、ゆったり試験場へ現れたのである。

11

試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込しりごみしていた。前方の席に座るならば、思うがままに答案を書けまいと懸念けねんしているのだ。われは秀才しゅうさいらしく最前列の席にこしをおろし、少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、たがいに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。

12

やがて、あから顔の教授が、ふくらんだかばんをぶらさげてあたふたと試験場へけ込んで来た。この男は、日本一のフランス文学者である。われは、きょうはじめて、この男を見た。なかなかのがらであって、われは彼の眉間みけんしわに不覚ながら威圧いあつを感じた。この男の弟子には、日本一の詩人と日本一の評論家がいるそうな。日本一の小説家、われはそれを思い、ひそかにほおをほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐっている間に、われの背後の大学生たちは、学問の話でなく、たいてい満洲の景気の話をささやき合っているのである。ボオルドには、フランス語が五六行。教授は教壇きょうだん肘掛椅子ひじかけいすにだらしなく座り、さもさも不気嫌ふきげんそうに言い放った。

13

――こんな問題じゃ落第したくてもできめえ。

14

大学生たちは、ひくく力なく笑った。われも笑った。教授はそれから訳のわからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうえでなにやら書きものを始めたのである。

15

われはフランス語を知らぬ。どのような問題が出ても、フロオベエルはお坊ちゃんである、と書くつもりでいた。われはしばらく思索にふけったふりをして眼を軽くつぶったり短い頭髪とうはつのふけをはらい落したり、つめの色あいをながめたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。

16

――フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮しょせん、市民への奉仕ほうしの美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。フロオベエルはおのれの処女作、聖アントワンヌの誘惑ゆうわくに対する不評判の屈辱くつじょくをそそごうとして、一生を棒にふった。所謂刳磔いわゆるこたくの苦労をして、一作、一作を書き終えるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈げきれつにうずき、痛み、彼の心の満たされぬ空洞くうどうが、いよいよひろがり、深まり、そうして死んだのである。傑作けっさく幻影げんえいにだまくらかされ、永遠の美にせられ、かされ、とうとうひとりの近親はおろか、自分自身をさえ救うことができなんだ。ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。以上。

17

先生、及第きゅうだいさせて、などとは書かないのである。二度くりかえして読み、書き誤りを見出さず、それから、左手に外套がいとう帽子ぼうしを持ち右手にそのいちまいの答案を持って、立ちあがった。われのうしろの秀才しゅうさいは、われの立ったために、あわてふためいていた。われの背こそは、この男の防風林になっていたのだ。ああ。そのうさぎに似た愛らしい秀才の答案には、新進作家の名前が記されていたのである。われはこの有名な新進作家の狼狽ろうばい不憫ふびんに思いつつ、かのじじむさげな教授に意味ありげに一礼して、おのが答案を提出した。われはしずしずと試験場を、出るが早いかころげ落ちるように階段をけ降りた。

18

戸外へ出て、わかい盗賊とうぞくは、うら悲しき思いをした。この憂愁ゆうしゅうは何者だ。どこからやって来やがった。それでも、外套のかたを張りぐんぐんと大股おおまたつかって銀杏いちょうの並木にはさまれたひろい砂利じゃり道を歩きながら、空腹のためだ、と答えたのである。二十九番教室の地下に、大食堂がある。われは、そこへと歩をすすめた。

19

空腹の大学生たちは、地下室の大食堂からあふれ、入口よりして長蛇ちょうだの如き列をつくり、地上にはみ出て、列の尾の部分は、銀杏の並木のあたりにまで達していた。ここでは、十五銭でかなりの昼食が得られるのである。一丁ほどの長さであった。

20

――われは盗賊。希代きたいのすね者。かつて芸術家は人を殺さぬ。かつて芸術家はものをぬすまぬ。おのれ。ちゃちな小利巧こりこうの仲間。

21

大学生たちをどんどん押しのけ、ようよう食堂の入口にたどりつく。入口には小さい貼紙はりがみがあって、それにはこう書きしたためられていた。

22

――きょう、みなさまの食堂も、はばかりながら創業満三箇年かねんの日をむかえました。それを祝福する内意もあり、わずかではございますが、奉仕ほうしさせていただきたく存じます。

23

その奉仕の品品が、入口の傍の硝子棚ガラスだなのなかにかざられている。赤い車海老くるまえびはパセリの葉のかげいこい、ゆで卵を半分に切った断面には、青い寒天の「寿ことぶき」という文字がハイカラにくずされてえがかれていた。試みに、食堂のなかをのぞくと、奉仕の品品の饗応きょうおうにあずかっている大学生たちの黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少女たちが、くぐりぬけすりぬけしてひらひら舞い飛んでいるのである。ああ、天井てんじょうには万国旗ばんこくき

24

大学の地下ににおう青い花、こそばゆい毒消しだ。よき日に来合せたるものかな。ともに祝わむ。ともに祝わむ。

25

盗賊は落葉の如くはらはらと退却たいきゃくし、地上に舞いあがり、長蛇のしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。     決闘

26

それは外国の真似まねではなかった。誇張こちょうでなしに、相手を殺したいと願望したからである。けれどもその動機は深遠でなかった。私とそっくりおなじ男がいて、この世にひとつものがふたつらぬという心からにくしみ合ったわけでもなければ、その男が私の妻の以前のいろであって、いつもいつもその二度三度の事実をこまかく自然主義ふうに隣人りんじんどもへ言いふらして歩いているというわけでもなかった。相手は、私とその夜はじめてカフェで落ち合ったばかりの、犬の毛皮の胴着どうぎをつけた若い百姓ひゃくしょうであった。私はその男の酒をぬすんだのである。それが動機であった。

27

私は北方の城下まちの高等学校の生徒である。遊ぶことが好きなのである。けれども金銭には割にけちであった。ふだん友人の煙草たばこばかりをふかし、散髪さんぱつをせず、辛抱しんぼうして五円の金がたまれば、ひとりでこっそりまちへ出てそれを一銭のこさず使った。一夜に、五円以上の金も使えなかったし、五円以下の金も使えなかった。しかも私はその五円でもって、つねに最大の効果を収めていたようである。私のめたつぶ粒の小金を、まず友人の五円紙幣しへい交換こうかんするのである。手の切れるほどあたらしい紙幣であれば、私の心はいっそうおどった。私はそれを無雑作らしくポケットにねじこみ、まちへ出掛でかけるのだ。月に一度か二度のこの外出のために、私は生きていたのである。当時、私は、わけの判らぬ憂愁ゆうしゅうにいじめられていた。絶対の孤独こどく一切いっさい懐疑かいぎ。口に出して言ってはきたない! ニイチェやビロンや春夫よりも、モオパスサンやメリメや鴎外おうがいのほうがほんものらしく思えた。私は、五円の遊びに命を打ちむ。

28

私がカフェにはいっても、決して意気込んだ様子を見せなかった。遊びつかれたふうをした。夏ならば、冷いビールを、と言った。冬ならば、熱い酒を、と言った。私が酒を呑むのも、単に季節のせいだと思わせたかった。いやいやそうに酒をみくだしつつ、私は美人の女給には眼もくれなかった。どこのカフェにも、色気にとぼしい欲気ばかりの中年の女給がひとりばかりいるものであるが、私はそのような女給にだけ言葉をかけてやった。おもにその日の天候や物価について話し合った。私は、神も気づかぬ素早さで、飲みほした酒びんの数を勘定かんじょうするのが上手であった。テエブルに並べられたビイル瓶が六本になれば、日本酒の徳利とっくりが十本になれば、私は思い出したようにふらっと立ちあがり、お会計、とひくくつぶやくのである。五円をえることはなかった。私は、わざとほうぼうのポケットに手をつっこんでみるのだ。金の仕舞いどころを忘れたつもりなのである。いよいよおしまいにかのズボンのポケットに気がつくのであった。私はポケットの中の右手をしばらくもじもじさせる。五六枚の紙幣をえらんでいるかたちである。ようやく、私はいちまいの紙幣をポケットからきとり、それを十円紙幣しへいであるか五円紙幣であるか確かめてから、女給に手渡てわたすのである。釣銭つりせんは、少いけれど、と言って見むきもせず全部くれてやった。かたをすぼめ、大股おおまたをつかってカフェを出てしまって、学校のりょうにつくまで私はいちどもりかえらぬのである。あくる日から、またつぶ粒の小銭をめにとりかかるのであった。

29

決闘けっとうの夜、私は「ひまわり」というカフェにはいった。私は紺色こんいろの長いマントをひっかけ、純白の革手袋をはめていた。私はひとつカフェにつづけて二度は行かなかった。きまって五円紙幣を出すということに不審ふしんを持たれるのをおそれたのである。「ひまわり」への訪問は、私にとって二月ぶりであった。

30

そのころ私のすがたにどこやら似たところのある異国の一青年が、活動役者として出世しかけていたので、私も少しずつ女の眼をひきはじめた。私がそのカフェのすみ椅子いすに座ると、そこの女給四人すべてが、様様の着物を着て私のテエブルのまえに立ち並んだ。冬であった。私は、熱い酒を、と言った。そうしてさもさも寒そうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひとりの女給が、私がだまっていても、煙草たばこをいっぽんめぐんでくれたのである。 「ひまわり」は小さくてしかもきたない。束髪そくはつった一尺に二尺くらいの顔の女のぐったりと頬杖ほおづえをつき、くるみの実ほどの大きな歯をむきだして微笑ほほえんでいるポスタアが、東側のかべにいちまいられていた。ポスタアのすそにはカブトビイルと横に黒く印刷されてある。それと向い合った西側の壁には一坪ひとつぼばかりの鏡がかけられていた。鏡は金粉をった額縁がくぶちに収められているのである。北側の入口には赤と黒とのしまのよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうえの壁に、沼のほとりの草原にはだかで寝ころんで大笑いをしている西洋の女の写真がピンでとめつけられていた。南側の壁には、紙の風船玉がひとつ、くっついていた。それがすぐ私の頭のうえにあるのである。腹の立つほど、調和がなかった。三つのテエブルと十脚の椅子いす。中央にストオヴ。土間は板張りであった。私はこのカフェでは、とうてい落ちつけないことを知っていた。電気が暗いので、まだしも幸いである。

31

その夜、私は異様な歓待かんたいを受けた。私がその中年の女給にしゃくをされて熱い日本酒の最初の徳利とっくりをからにしたころ、さきに私に煙草をいっぽんめぐんで呉れたわかい女給が、突然とつぜん、私の鼻先へ右のてのひらを差し出したのである。私はおどろかずに、ゆっくり顔をあげて、その女給の小さいひとみおくをのぞいた。運命をうらなって呉れ、と言うのである。私はとっさのうちに了解りょうかいした。たとえ私が黙っていても、私のからだから予言者らしい高いにおいが発するのだ。私は女の手に触れず、ちらと眼をくれ、きのう愛人を失った、とつぶやいた。当ったのである。そこで異様な歓待がはじまった。ひとりのふとった女給は、私を先生とさえ呼んだ。私は、みんなの手相を見てやった。十九歳だ。とらのとし生れだ。よすぎる男を思って苦労している。薔薇ばらの花が好きだ。君の家の犬は、仔犬こいぬを産んだ。仔犬の数は六。ことごとく当ったのである。かのせた、眼のすずしい中年の女給は、ふたりの亭主ていしゅを失ったと言われて、みるみる首をうなだれた。この不思議の的中は、みんなのうちで、私をいちばん興奮させた。すでに六本の徳利とっくりをからにしていたのである。このとき、犬の毛皮の胴着どうぎをつけた若い百姓ひゃくしょうが入口に現われた。

32

百姓は私のテエブルのすぐとなりのテエブルに、こっちへ毛皮の背をむけて座り、ウイスキイと言った。犬の毛皮の模様は、ぶちであった。この百姓の出現のために、私のテエブルの有頂天うちょうてんは一時さめた。私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちくいはじめたのである。もっともっといたかった。こよいの歓喜かんきをさらにさらに誇張こちょうしてみたかったのである。あと四本しか飲めぬ。それでは足りない。足りないのだ。ぬすもう。このウイスキイを盗もう。女給たちは、私が金銭のために盗むのでなく、予言者らしい突飛とっぴ冗談じょうだんと見てとって、かえって喝采かっさいを送るだろう。この百姓もまた、酔いどれの悪ふざけとして苦笑をもらすくらいのところであろう。盗め! 私は手をのばし、隣りのテエブルのそのウイスキイのコップをとりあげ、おちついて飲みほした。喝采は起らなかった。しずかになった。百姓は私のほうをむいて立ちあがった。外へ出ろ。そう言って、入口のほうへ歩きはじめた。私も、にやにや笑いながら百姓のあとについて歩いた。金色の額縁がくぶちにおさめられてある鏡を通りすがりにちらとのぞいた。私は、ゆったりした美丈夫びじょうぶであった。鏡の奥底おくそこには、一尺に二尺の笑い顔がしずんでいた。私は心の平静をとりもどした。自信ありげに、モスリンのカアテンをぱっとはじいた。

33

THE HIMAWARI と黄色いロオマ字が書かれてある四角の軒灯の下で、私たちは立ちどまった。女給四人は、薄暗うすぐらい門口に白い顔を四つかせていた。

34

私たちは次のような争論をはじめたのである。

35

――あまり馬鹿ばかにするなよ。

36

――馬鹿にしたのじゃない。あまえたのさ。いいじゃないか。

37

――おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。

38

私は百姓の顔を見直した。短い角刈かくがりにした小さい頭と、うすいまゆと、一重瞼ひとえまぶた三白眼さんぱくがんと、蒼黒あおぐろ皮膚ひふであった。身丈みたけは私より確かに五寸はひくかった。私は、あくまで茶化してしまおうと思った。

39

――ウイスキイが飲みたかったのさ。おいしそうだったからな。

40

――おれだって飲みたかった。ウイスキイが惜しいのだ。それだけだ。

41

――君は正直だ。可愛い。

42

――生意気いうな。たかが学生じゃないか。つらにおしろいをぬたくりやがって。

43

――ところがぼくは、易者だということになっている。予言者だよ。おどろいたろう。

44

――ったふりなんかするな。手をついてあやまれ。

45

――僕を理解するには何よりも勇気がる。いい言葉じゃないか。僕はフリイドリッヒ・ニイチェだ。

46

私は女給たちのとめて呉れるのを、いまかいまかと待っていた。女給たちはしかし、そろって冷い顔して私のなぐられるのを待っていた。そのうちに私は殴られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで来たので、私は首筋を素早くすくめた。十間ほどふっとんだ。私の白線の帽子ぼうしが身がわりになって呉れたのである。私は微笑ほほえみつつ、わざとゆっくりその帽子を拾いに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けていた。しゃがんで、どろにまみれた帽子を拾ったとたんに、私はげようと考えた。五円たすかる。別のところで、もいちど飲むのだ。私は二あし三あし走った。すべった。仰向あおむけにひっくりかえった。みつぶされた雨蛙あまがえるの姿に似ていたようであった。自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになっている。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓ひゃくしょうのもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられていた。誰ひとり味方がない。その確信が私の兇暴きょうぼうさを呼びさましたのである。

47

――お礼をしたいのだ。

48

せせら笑ってそう言ってから、私は手袋をぎ捨て、もっと高価なマントをさえ泥のなかへかなぐり捨てた。私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや満足していた。誰かとめて呉れ。

49

百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着どうぎを脱ぎ、それを私に煙草たばこをめぐんで呉れた美人の女給に手渡てわたして、それからふところのなかへ片手をいれた。

50

――きたな真似まねをするな。

51

私は身構えて、そう注意してやった。

52

懐から一本の銀笛が出た。銀笛は軒灯の灯にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主ていしゅを失った中年の女給に手渡された。

53

百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうえでなく、真実、私はこの百姓を殺そうと思った。

54

――出ろ。

55

そうさけんで、私は百姓のむこずね泥靴どろぐつで力いっぱいにあげた。蹴たおして、それからんだ三白眼さんぱくがんをくりく。泥靴はむなしく空を蹴ったのである。私は自身の不恰好ぶかっこうに気づいた。悲しく思った。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまっかなほのおが噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳朶みみたぶからほおにかけてぴしゃっと平手が命中した。私はどろのなかに両手をついた。とっさのうちに百姓ひゃくしょう片脚かたあしをがぶとんだ。脚は固かった。路傍ろぼう白楊はこやなぎくいであった。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい声をたてて泣こう泣こうとあせったけれど、あわれ、一滴いってきなみだも出なかった。     くろんぼ

56

くろんぼはおりの中にはいっていた。檻の中は一坪ひとつぼほどのひろさであって、まっくらい奥隅おくすみに、丸太でつくられた腰掛こしかけがひとつ置かれていた。くろんぼはそこに座って、刺繍ししゅうをしていた。このような暗闇くらやみのなかでどんな刺繍ができるものかと、少年はけめのない紳士しんしのように、鼻の両わきへ深いしわをきざみこませ口まげてせせら笑ったものである。

57

日本チャリネがくろんぼを一匹つれて来た。村は、どよめいた。ひとを食うそうである。まっかな角がえている。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まったくそれを信じないのであった。少年は思うのだ。村のひとたちも心から信じてそんなうわさをしているのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしているゆえ、こんなときにこそ勝手な伝説を作りあげ、信じたふりしてっているのにちがいない。少年は村のひとたちのそんな安易なうそを聞くたびごとに、歯ぎしりをし耳をおおい、飛んで彼の家へ帰るのであった。少年は村のひとたちの噂話を間抜けていると思うのだ。なぜこのひとたちは、もっとだいじなことがらを話し合わないのであろう。くろんぼは、めすだそうではないか。

58

チャリネの音楽隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣伝しつくすことができた。一本道の両側に三丁ほど茅葺かやぶきの家が立ちならんでいるだけであったのである。音楽隊は、村のはずれに出てしまってもあゆみをとめないで、ほたるの光の曲をくりかえしくりかえし奏しながら菜の花畑のあいだをねってあるいて、それから田植まっさいちゅうの田圃たんぼへ出て、せまい畦道あぜみちを一列にならんで進み、村のひとたちをひとりも見のがすことなくかれさせ橋をわたって森を通り抜けて、半里はなれた隣村となりむらにまで行きついてしまった。

59

村の東端とうたんに小学校があり、その小学校のさらに東隣りが牧場であった。牧場は百坪ほどのひろさであってオランダげんげがきつめられ、二匹の牛と半ダアスの豚とが遊んでいた。チャリネはこの牧場にねずみ色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋なやに移転したのである。

60

夜、村のひとたちは頬被ほおかむりして二人三人ずつかたまってテントのなかにはいっていった。六、七十人のお客であった。少年は大人たちをなぐりつけてはしのけ押しのけ、最前列へ出た。まるい舞台のぐるりに張りめぐらされた太いロオプにあごをのせかけて、じっとしていた。ときどき眼を軽くつぶって、うっとりしたふりをしていた。

61

かるわざの曲目は進行した。たる。メリヤス。むちの音。それから金襴きんらんせた老馬。まのびた喝采かっさい。カアバイト。二十箇ほどのガスとうが小屋のあちこちにでたらめの間隔かんかくをおいてつるされ、夜の昆虫こんちゅうどもがそれにひらひらからかっていた。テントの布地が足りなかったのであろう、小屋の天井てんじょう十坪じゅっつぼほどのおおきな穴があけっぱなしにされていて、そこから星空が見えるのだ。

62

くろんぼのおりが、ふたりの男に押されて舞台へ出た。檻の底に車輪のあしがついているらしくからからと音たてて舞台へすべり出たのである。頬被りしたお客たちの怒号どごうと拍手。少年は、ものうげにまゆをあげて檻の中をしずかに観察しはじめた。

63

少年は、せせら笑いのかげを顔から消した。刺繍ししゅうは日の丸の旗であったのだ。少年の心臓は、とくとくとかすかな音たてて鳴りはじめた。兵隊やそのほか兵隊に似かよったような概念がいねんのためではない。くろんぼが少年をあざむかなかったからである。ほんとうに刺繍をしていたのだ。日の丸の刺繍は簡単であるから、やみのなかで手さぐりしながらでもできるのだ。ありがたい。このくろんぼは正直者だ。

64

やがて、燕尾服えんびふくを着た仁丹じんたんひげのある太夫たゆうが、お客に彼女のあらましの来歴を告げて、それから、ケルリ、ケルリ、と檻に向って二声さけび、右手のむちを小粋こいきった。むちの音が少年の胸をするどくつき刺した。太夫に嫉妬しっとを感じたのである。くろんぼは、立ちあがった。

65

むちの音におびやかされつつ、くろんぼはのろくさと二つ三つの芸をした。それは卑猥ひわいの芸であった。少年を置いてほかのお客たちはそれを知らぬのだ。ひとを食うか食わぬか。まっかな角があるかないか。そんなことだけが問題であったのである。

66

くろんぼのからだには、青い腰蓑こしみのがひとつ、つけられていた。油をりこくってあるらしく、すみずみまでつよく光っていた。おわりに、くろんぼはうたいをひとくさりうたった。伴奏ばんそうは太夫のむちの音であった。シャアボン、シャアボンという簡単な言葉である。少年は、その謡のひびきを愛した。どのようにぶざまな言葉でも、せつない心がこもっておれば、きっとひとを打つひびきが出るものだ。そう考えて、またぐっと眼をつぶった。

67

その夜、くろんぼを思い、少年はみずからをけがした。

68

翌朝、少年は登校した。教室の窓を乗り越え、背戸の小川を飛びえ、チャリネのテントめがけて走った。テントのすきまから、ほの暗い内部をのぞいたのである。チャリネのひとたちは舞台にいっぱい蒲団ふとんきちらし、ごろごろと芋虫いもむしのように寝ていた。学校のかねが鳴りひびいた。授業がはじまるのだ。少年は、うごかなかった。くろんぼは寝ていないのである。さがしてもさがしても見つからぬのである。学校は、しんとなった。授業がはじまったのであろう。第二課、アレキサンドル大王と医師フィリップ。むかしヨーロッパにアレキサンドル大王という英雄えいゆうがあった。少女の朗朗と読みあげる声をはっきり聞いた。少年は、うごかなかった。少年は信じていた。あのくろんぼは、ただの女だ。ふだんはおりから出て、みんなと遊んでいるのにちがいない。水仕事をしたり、煙草たばこをふかしたり日本語でおこったり、そんな女だ。少女の朗読がおわり、教師のだみ声が聞えはじめた。信頼しんらいは美徳であると思う。アレキサンドル大王はこの美徳をもっていたがために、一命をまっとうしたようであります。みなさん。少年は、まだうごかずにいた。ここにいないわけはない。檻は、きっとからっぽのはずだ。少年はかたを固くした。こうして覗いているうちに、くろんぼは、こっそりおれのうしろにやって来て、ぎゅっと肩をきしめる。それゆえ背後にも油断をせず、抱きしめられるに恰好かっこうのいいように肩を小さく固くしたのであった。くろんぼは、きっと刺繍ししゅうした日の丸の旗をくれるにちがいない。そのときおれは、弱味を見せずこう言ってやる。ぼく幾人目いくにんめだ。

69

くろんぼは現れなかった。テントからはなれ、少年は着物のそででせまい額のあせぬぐって、のろのろと学校へ引き返した。熱が出たのです。肺がわるいそうです。はかまに編みあげの靴をはいている男の老教師を、まんまとだました。自分の席についてからも、少年はごほごほとにせせきばらいにむせかえった。

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村のひとたちの話に依れば、くろんぼは、やはり檻につめられたまま、幌馬車ほろばしゃに積みこまれ、この村を去ったのである。太夫たゆうは、おのが身をまもるため、ピストルをポケットにしのばせていた。




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太宰治全作品集 1
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        :段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年2月