彼は昔の彼ならず

       太宰 治

1

君にこの生活を教えよう。知りたいとならば、ぼくの家のものほし場まで来るとよい。其処そこでこっそり教えてあげよう。

2

僕の家のものほし場は、よく眺望ちょうぼうがきくと思わないか。郊外こうがいの空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。気をつけ給え。君の足もとの板は、くさりかけているようだ。もっとこっちへ来るとよい。春の風だ。こんな工合ぐあいに、耳朶みみたぶをちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴とくちょうである。

3

見渡みわたしたところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃ふぞろいだと思わないか。君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵もくさくによりかかり、頬杖ほおづえついて、ちまたの百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては黴菌ばいきん車塵しゃじんとでうす赤くにごらされた巷のかすみのなかにそのはし沈没ちんぼつさせている。君はその屋根屋根のしたの百万の一律な生活を思い、眼をつぶってふかい溜息ためいきいたにちがいないのだ。見られるとおり、郊外の屋根屋根は、それとちがう。一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張しているようではないか。あの細長い煙突えんとつは、ももの湯という銭湯屋のものであるが、青いけむりを風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の真下の赤い西洋がわらは、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから毎夜、謡曲ようきょくのしらべが聞えるのだ。赤い甍からしいの並木がうねうねと南へびている。並木のつきたところに白壁しらかべにぶく光っている。質屋の土蔵である。三十歳をしたばかりの小柄こがら怜悧れいりな女主人が経営しているのだ。このひとは僕とみちで行きっても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶あいさつを受けた相手の名誉めいよ顧慮こりょしているのである。土蔵の裏手、つばさ骨骼こっかくのようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五六ぽん見える。あれは棕梠しゅろである。あの樹木におおわれているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。左官屋はいまろうのなかにいる。細君をぶち殺したのである。左官屋の毎朝のほこりを、細君が傷つけたからであった。左官屋には、毎朝、牛乳を半合ずつ飲むという贅沢ぜいたくな楽しみがあったのに、その朝、細君があやまって牛乳のびんをわった。そうしてそれをさほどの過失ではないと思っていた。左官屋には、それがむらむらうらめしかったのである。細君はその場でいきをひきとり、左官屋は牢へ行き、左官屋の十歳ほどの息子むすこが、このあいだ駅の売店のまえで新聞を買って読んでいた。僕はその姿を見た。けれども、僕の君に知らせようとしている生活は、こんな月並みのものでない。

4

こっちへ来給え。このひがしの方面の眺望ちょうぼうは、また一段とよいのだ。人家もいっそうまばらである。あの小さな黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、お稲荷いなりをまつったやしろがある。林のすそのぽっと明るいところは、菜の花畑であって、それにつづいて手前のほうに百つぼほどの空地が見える。りゅうという緑の文字が書かれてある紙凧かみだこがひっそりあがっている。あの紙凧から垂れさがっている長い尾を見るとよい。尾のはしからまっすぐに下へ線をひいてみると、ちょうど空地の東北のすみに落ちるだろう? 君はもはや、その箇所かしょにある井戸を見つめている。いや、井戸の水を吸上喞筒ポンプみだしている若い女を見つめている。それでよいのだ。はじめからぼくは、あの女を君に見せたかったのである。

5

まっ白いエプロンをけている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと歩きだす。どの家へはいるだろう。空地の東側には、ふとい孟宗竹もうそうちくが二三十本むらがってえている。見ていたまえ。女は、あの孟宗竹のあいだをくぐって、それから、ふっと姿をかき消す。それ。僕の言ったとおりだろう? 見えなくなった。けれど気にすることはない。僕はあの女の行くさきを知っている。孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。つぼみがふくらみはじめたにちがいない。あのうすあかいかすみの下に、黒い日本がわらの屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主ていしゅとが寝起している。なんのもない屋根のしたに、知らせて置きたい生活がある。ここへ座ろう。

6

あの家は元来、僕のものだ。三じょうと四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくないのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの百日紅さるすべりもあれば、霧島躑躅きりしまつつじが五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に南天燭なんてんしょくを植えてやった。それで屋賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらいもらいたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。高すぎるとは思わぬ。それでも一年、ためている。あの家の屋賃は、もともと、そっくり僕のお小使いになるはずなのであるが、おかげで、この一年間というもの、僕は様様のつきあいに肩身かたみのせまい思いをした。

7

いまの男に貸したのは、昨年の三月である。裏庭の霧島躑躅がようやく若芽を出しかけていたころであった。そのまえには、むかし水泳の選手として有名であった或る銀行員が、その若い細君とふたりきりで住まっていた。銀行員は気の弱弱しげな男で、酒ものまず、煙草たばこものまず、どうやら女好きであった。それがもとで、よく夫婦喧嘩げんかをするのである。けれども屋賃だけはきちんきちんと納めたのだから、ぼくはそのひとにいてあまり悪く言えない。銀行員は、あしかけ三年いて呉れた。名古屋の支店へ左遷させんされたのである。ことしの年賀状には、百合ゆりとかいう女の子の名前とそれから夫婦の名前と三つならべて書かれていた。銀行員のまえには、三十歳くらいのビイル会社の技師に貸していた。母親と妹の三人暮しで、一家そろって無愛想ぶあいそうであった。技師は、服装に無頓着むとんちゃくな男で、いつも青い菜葉服なっぱふくを着ていて、しかもよい市民であったようである。母親は白い頭髪とうはつを短く角刈かくがりにして、気品があった。妹は二十歳前後の小柄こがらせた女で、矢絣やがすり模様の銘仙めいせんを好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへしていったけれど、その後の消息を知らない。僕にとっては、その当時こそ何かと不満もあったのであるが、いまになって考えてみると、あの技師にしろ、また水泳選手にしろ、よい部類の店子たなこであったのである。ぞくにいう店子運がよかったわけだ。それが、いまの三代目の店子のために、すっかりマイナスにされてしまった。

8

いまごろはあの屋根のしたで、寝床ねどこにもぐりこみながらゆっくりホープをくゆらしているにちがいない。そうだ。ホープを吸うのだ。金のないわけはない。それでも屋賃をはらわないのである。はじめからいけなかった。黄昏たそがれに、木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま、書道を教えている、お宅の借家に住まわせていただきたい、というようなそれだけの意味のことをみょうにひとなつこくからんで来るような口調で言った。痩せていて背のきわめてひくい、細面の青年であった。かたから袖口そでぐちにかけての折目がきちんと立っているま新しい久留米絣くるめがすりあわせを着ていたのである。たしかに青年に見えた。あとで知ったが、四十二歳だという。僕より十も年うえである。そう言えば、あの男の口のまわりや眼のしたに、たるんだしわがたくさんあって、青年ではなさそうにも見えるのであるが、それでも、四十二歳はうそであろうと思う。いや、それくらいの嘘は、あの男にしては何もめずらしくないのである。はじめ僕の家へ来たときから、もうすでに大嘘をいている。僕は彼の申し出にたいして、お気にいったならば、と答えた。僕は、店子の身元についてこれまで、あまり深い詮索せんさくをしなかった。失礼なことだと思っている。敷金しききんのことについて彼はこんなことを言った。 「敷金は二つですか? そうですか。いいえ、失礼ですけれど、それでは五十円だけ納めさせていただきます。いいえ。私ども、持っていましたところで、使ってしまいます。あの、貯金のようなものですものな。ほほ。明朝すぐに引越ひっこしますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。いけないでしょうかしら?」

9

こんな工合ぐあいである。いけないとは言えないだろう。それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、それはだましたほうが悪いのだ。ぼくは、かまいません、あすでもあさってでもと答えた。男は、あまえるように微笑ほほえみながらていねいにお辞儀じぎをして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇せいせんとだけ平字で印刷され、その文字の右かたには、自由天才流書道教授とペンで小汚こぎたなく書きえられていた。僕は他意なく失笑した。あくる朝、青扇夫婦はたくさんの世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越ひっこして来たのであるが、五十円の敷金しききんはついにそのままになった。よこすものか。

10

引越してその日のひるすぎ、青扇は細君と一緒いっしょに僕の家へ挨拶あいさつしに来た。彼は黄色い毛糸の、ジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい塗下駄ぬりげたをはいていた。僕が玄関へ出て行くとすぐに、「ああ。やっとお引越しがおわりましたよ。こんな恰好かっこうでおかしいでしょう?」

11

それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと笑ったのである。僕はなんだかてれくさい気がして、たいへんですな、とよい加減な返事をしながら、それでも微笑びしょうをかえしてやった。 「うちの女です。よろしく。」

12

青扇は、うしろにひっそりたたずんでいたやや大柄おおがらな女のひとを、おおげさにあごでしゃくって見せた。僕たちは、お辞儀をかわした。麻の葉模様の緑がかった青い銘仙めいせんあわせに、やはり銘仙らしいしぼり染の朱色の羽織をかさねていた。僕はマダムのしもぶくれのやわらかい顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでもないのに、それでも強く、とむねをかれた。色がけるように白く、片方のまゆがきりっとあがって、それからもう一方の眉は平静であった。眼はいくぶん細いようであって、うすい下唇したくちびるをかるくんでいた。はじめ僕は、おこっているのだと思ったのである。けれどもそうでないことをすぐに知った。マダムはお辞儀をしてから、青扇にかくすようにして大型の熨斗袋のしぶくろをそっと玄関の式台にのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりした語調で言った。それからもいちどゆっくりお辞儀をしたのである。お辞儀をするときにもやはり片方の眉をあげて、下唇を噛んでいた。僕は、これはこのひとのふだんからのくせなのであろうと思った。そのまま青扇夫婦は立ち去ったのであるが、僕はしばらくぽかんとしていた。それからむかむか不愉快ふゆかいになった。敷金のこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたようないらだたしさにえられなくなったのである。僕は式台にしゃがんで、そのはずかしく大きな熨斗袋をつまみあげ、なかをのぞいてみたのである。お蕎麦そば屋の五円切手がはいっていた。ちょっとの間、僕には何も訳がわからなかった。五円の切手とは、莫迦ばかげたことである。ふと、僕はいまわしい疑念にとらわれた。ひょっとすると敷金のつもりなのではあるまいか。そう考えたのである。それならこれはいますぐにでもたたき返さなければいけない。ぼくは、我慢がまんできない胸くその悪さを覚え、その熨斗袋のしぶくろふところにし、青扇せいせん夫婦のあとを追っかけるようにして家を出たのだ。

13

青扇もマダムも、まだ彼等の新居に帰ってはいなかった。帰途きと、買い物にでもまわったのであろうと思って、僕はその不用心にもあけ放されてあった玄関からのこのこ家へはいりこんでしまった。ここで待ちせていてやろうと考えたのである。ふだんならば僕も、こんな乱暴な料簡りょうけんは起さないのであるが、どうやら懐中かいちゅうの五円切手のおかげで少し調子をくるわされていたらしいのである。僕は玄関の三畳間じょうまをとおって、六畳の居間へはいった。この夫婦は引越ひっこしにずいぶんれているらしく、もうはや、あらかた道具もかたづいていて、とこの間には、二三輪のうす赤い花をひらいているぼけの素焼のはちかざられていた。じくは、仮表装の北斗七星ほくとしちせいの四文字である。文句もそうであるが、書体はいっそう滑稽こっけいであった。糊刷毛のりはけかなにかでもって書いたものらしく、仰山ぎょうさんに肉の太い文字で、そのうえ目茶苦茶ににじんでいた。落款らっかんらしいものもなかったけれど、僕はひとめで青扇の書いたものだと断定を下した。つまりこれは、自由天才流なのであろう。僕はおくの四畳半にはいった。箪笥たんすや鏡台がきちんと場所をきめて置かれていた。首の細いあしの巨大な裸婦らふのデッサンがいちまい、まるいガラス張りの額縁がくぶちに収められ、鏡台のすぐ傍のかべにかけられていた。これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しいくわの長火鉢と、それとそろいらしい桑の小綺麗こぎれいな茶箪笥とが壁ぎわにならべて置かれていた。長火鉢には鉄瓶てつびんがかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍にこしをおちつけて、煙草たばこを吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを感傷的にするものらしい。僕も、あの額縁のについての夫婦の相談や、この長火鉢の位置についての争論を思いやって、やはり生活のあらたまった折の甲斐甲斐かいがいしいいきごみを感じたわけであった。煙草を一本吸っただけで、僕は腰をかせた。五月になったらたたみをかえてやろう。そんなことを思いながら僕は玄関から外へ出て、あらためて玄関の傍の枝折戸しおりどから庭のほうへまわり、六畳間の縁側えんがわに腰かけて青扇夫婦を待ったのである。

14

青扇夫婦は、庭の百日紅さるすべりの幹が夕日に赤く染まりはじめたころ、ようやく帰って来た。案のじょう買い物らしく、青扇はほうきをいっぽんかたかついで、マダムは、くさぐさの買いものをつめたバケツを重たそうに右手にさげていた。彼等は枝折戸をあけてはいって来たので、すぐに僕のすがたを認めたのであるが、たいしておどろきもしなかった。 「これは、おおやさん。いらっしゃい。」

15

青扇は箒をかついだまま微笑ほほえんでかるく頭をさげた。 「いらっしゃいませ。」

16

マダムも例のまゆをあげて、それでもまえよりはいくぶんくつろいだようにちかと白い歯を見せ、笑いながら挨拶あいさつした。

17

ぼくは内心こまったのである。敷金しききんのことはきょうは言うまい。蕎麦そばの切手についてだけたしなめてやろうと思った。けれど、それも失敗したのである。僕はかえって青扇せいせん握手あくしゅを交し、そのうえ、だらしのないことであるが、おたがいのために万歳ばんざいをさえとなえたのだ。

18

青扇のすすめるがままに、僕は縁側えんがわから六じょうの居間にあがった。僕は青扇と対座して、どういう工合ぐあいに話を切りだしてよいか、それだけを考えていた。僕がマダムのいれてくれたお茶を一口すすったとき、青扇はそっと立ちあがって、そうしてとなりの部屋から将棋盤しょうぎばんを持って来たのである。君も知っているように僕は将棋の上手である。一番くらいは指してもよいなと思った。客とろくに話もせぬうちに、だまって将棋盤を持ちだすのは、これは将棋のひとり天狗てんぐのよくやりたがる作法である。それではまず、ぎゅっと言わせてやろう。僕も微笑ほほえみながら、だまってこまをならべた。青扇の棋風きふうは不思議であった。ひどく早いのである。こちらもそれにられて早く指すならば、いつの間にやら王将をとられている。そんな棋風であった。言わば奇襲きしゅうである。僕は幾番いくばんとなく負けて、そのうちにだんだん熱狂ねっきょうしはじめたようであった。部屋が少しうすぐらくなったので、縁側に出て指しつづけた。結局は、十対六くらいで僕の負けになったのであるが、僕も青扇もぐったりしてしまった。

19

青扇は、勝負中は全く無口であった。しっかとあぐらのこしをおちつけて、つまりななめにかまえていた。 「おなじくらいですな。」彼は駒を箱にしまいこみながら、まじめにつぶやいた。「横になりませんか。あああ。つかれましたね。」

20

僕は失礼してあしをのばした。頭のうしろがちきちき痛んだ。青扇も将棋盤をわきへのけて、縁側へながながと寝そべった。そうして夕闇ゆうやみに包まれはじめた庭を頬杖ほおづえついてながめながら、「おや。かげろう!」ひくくさけんだ。「不思議ですねえ。ごらんなさいよ。いまじぶん、かげろうが。」

21

僕も、縁側にいつくばって、庭のしめった黒土のうえをすかして見た。はっと気づいた。まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうをさがしたりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて座り直した。 「木下さん。困りますよ。」そう言って、例の熨斗袋のしぶくろふところから出したのである。「これは、いただけません。」

22

青扇せいせんはなぜかぎょっとしたらしく顔つきを変えて立ちあがった。ぼくも身構えた。 「なにもございませんけれど。」

23

マダムが縁側えんがわへ出て来て僕の顔をのぞいた。部屋には電灯がぼんやりともっていたのである。 「そうか。そうか。」青扇は、せかせかした調子でなんども首肯うなずきながら、まゆをひそめ、何か遠いものを見ているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。お話は、それからゆっくりいたしましょうよ。」

24

僕はこのうえめしのごちそうになど、なりたくなかったのであるが、とにかくこの熨斗袋のしぶくろの始末だけはつけたいと思い、マダムについて部屋へはいった。それがよくなかったのである。酒を呑んだのだ。マダムに一杯いっぱいすすめられたときには、これは困ったことになったと思った。けれども二杯三杯とのむにつれて、僕はしだいしだいに落ちついて来たのである。

25

はじめ青扇の自由天才流をからかうつもりで、とこ軸物じくものをふりかえって見て、これが自由天才流ですかな、とたずねたものだ。すると青扇は、いですこし赤らんだ眼のほとりをいっそうぽっと赤くして、苦しそうに笑いだした。 「自由天才流? ああ。あれはうそですよ。なにか職業がなければ、このごろの大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたので、ま、あんな出鱈目でたらめをやったのです。おこっちゃいけませんよ。」そう言ってから、またひとしきりむせかえるようにして笑った。「これは、古道具屋で見つけたのです。こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて、三十銭かいくらで買いました。文句も北斗七星ほくとしちせいとばかりでなんの意味もないものですから気にいりました。私はげてものが好きなのですよ。」

26

僕は青扇をよっぽど傲慢ごうまんな男にちがいないと思った。傲慢な男ほど、おのれの趣味しゅみをひねりたがるようである。 「失礼ですけれど、無職でおいでですか?」

27

また五円の切手が気になりだしたのである。きっとよくない仕掛しかけがあるにちがいないと考えた。 「そうなんです。」さかずきをふくみながら、まだにやにや笑っていた。「けれども御心配はりませんよ。」 「いいえ。」なるたけよそよそしくしてやるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の切手がだいいちに気がかりなのです。」

28

マダムが僕におしゃくをしながら口を出した。 「ほんとうに。」ふくらんでいる小さい手で襟元えりもとを直してから微笑ほほえんだ。「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。ほんとうに。」 「そうですか。」ぼくは思わず笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金しききんの、」すべらせかけて口をつぐんだ。 「そうですか。」青扇せいせんが僕の口真似くちまねをした。「わかりました。あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです。」

29

そう言われてみるときょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合せて笑いこけた。

30

僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオやショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当がいとうするような人間をさがしあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、全校の生徒の姓名せいめいとそれぞれの出身中学校とをことごとくそらんじているという評判を聞いて、これは天才でなかろうかと注目していたのだが、それにしては講義がだらしなかった。あとで知ったことだけれど、生徒の姓名とその各々の出身中学校とを覚えているというのは、この教授の唯一ゆいいつほこりであって、それらを記憶きおくして置くために骨と肉と内臓とを不具にするほどの難儀なんぎをしていたのだそうである。いま僕は、こうして青扇と対座して話合ってみるに、その骨骼こっかくといい、頭恰好かっこうといい、ひとみのいろといい、それから音声の調子といい、まったくロンブロオゾオやショオペンハウエルの規定している天才の特徴とくちょう酷似こくじしているのである。たしかに、そのときにはそう思われた。蒼白痩削そうはくそうさく短躯猪首たんくいくび台詞せりふがかった鼻音声。

31

酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇にたずねたのである。 「あなたは、さっき職業がないようなことをおっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか?」 「研究?」青扇はいたずらのように、首をすくめて大きい眼をくるっとまわしてみせた。「なにを研究するの? 私は研究がきらいです。よい加減なひとり合点の注釈ちゅうしゃくをつけることでしょう? いやですよ。私はつくるのだ。」 「なにをつくるのです。発明かしら?」

32

青扇はくつくつと笑いだした。黄色い、ジャケツをいでワイシャツ一枚になり、 「これは面白おもしろくなったですねえ。そうですよ。発明ですよ。無線電灯の発明だよ。世界じゅうに一本も電柱がなくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、ちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。私は役者ですよ。」

33

マダムは眼をふたつながけむったそうに細めて、青扇のでらでら油光りしだした顔をぼんやり見あげた。 「だめでございますよ。っぱらったのですの。いつもこんな出鱈目でたらめばかり申して、こまってしまいます。お気になさらぬように。」 「なにが出鱈目だ。うるさい。おおやさん、私はほんとに発明家ですよ。どうすれば人間、有名になれるか、これを発明したのです。それ、ごらん。ひざを乗りだして来たじゃないか。これだ。いまのわかいひとたちは、みんなみんな有名病というやつにかかっているのです。少しやけくそな、しかも卑屈ひくつな有名病にね。君、いや、あなた、飛行家におなり。世界一周の早まわりのレコオド。どうかしら? 死ぬる覚悟かくごで眼をつぶって、どこまでも西へ西へと飛ぶのだ。眼をあけたときには、群集の山さ。地球の寵児ちょうじさ。たった三日の辛抱しんぼうだ。どうかしら? やる気はないかな。意気地いくじのない野郎だねえ。ほっほっほ。いや、失礼。それでなければ犯罪だ。なあに、うまくいきますよ。自分さえがっちりしてれあ、なんでもないんだ。人を殺すもよし、ものをぬすむもよし、ただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。大丈夫だいじょうぶ。見つかるものか。時効のかかったころ、堂々と名乗り出るのさ。あなた、もてますよ。けれどもこれは、飛行機の三日間にくらべると、十年間くらいの我慢がまんだから、あなたがた近代人には鳥渡ちょっとふむきですね。よし。それでは、ちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。君みたいな助平ったれの、小心ものの、薄志はくし弱行の徒輩とはいには、醜聞しゅうぶんという恰好かっこうの方法があるよ。まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駈落かけおちしたまえ。え?」

34

ぼくはどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇せいせんの顔は僕には美しく思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したのである。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしいまゆのうえに、老いつかれた深いしわいくきれも刻まれてあったあのプーシュキンの死面なのである。

35

僕もしたたかに酔ったようであった。とうとう、僕は懐中かいちゅうの切手を出し、それでもってお蕎麦そば屋から酒をとどけさせたのである。そうして僕たちはさらに更にのんだのである。ひとと始めて知り合ったときのあの浮気うわきに似たときめきが、ふたりを気張らせ、無知な雄弁ゆうべんによってもっともっとおのれを相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはおたがいに感じ合っていたようである。僕たちは、たくさんのにせの感激をして、幾度となくさかずきをやりとりした。気がついたときには、もうマダムはいなかった。寝てしまったのであろう。帰らなければなるまい、と僕は考えた。帰りしなに握手あくしゅをした。 「君を好きだ。」僕はそう言った。 「私も君を好きなのだよ。」青扇もそう答えたようである。 「よし。万歳ばんざい!」 「万歳ばんざい。」

36

たしかにそんな工合ぐあいであったようである。ぼくには、いどれると万歳とさけびたてる悪癖あくへきがあるのだ。

37

酒がよくなかった。いや、やっぱり僕がお調子ものだったからであろう。そのままずるずると僕たちのおかしなつきあいがはじまったのである。泥酔でいすいしたあくる日いちにち、僕はきつねたぬきにでも化かされたようなぼんやりした気持ちであった。青扇せいせんは、どうしても普通ふつうでない。僕もこのとしになるまで、まだ独身で毎日毎日をぶらりぶらり遊んですごしているゆえ、親類縁者えんじゃたちから変人あつかいを受けていやしめられているのであるが、けれども僕の頭脳はあくまで常識的である。妥協だきょう的である。通常の道徳をほうじて生きて来た。言わば、健康でさえある。それにくらべて青扇は、どうやら、けたがはずれているようではないか。断じてよい市民ではないようである。僕は青扇の家主として、彼の正体のはっきり判るまではすこし遠ざかっていたほうがいろいろと都合がよいのではあるまいか、そうも考えられて、それから四五日のあいだは知らぬふりをしていた。

38

ところが、引越ひっこして一週間くらいたったころに、青扇とまたってしまった。それが銭湯屋せんとうや湯槽ゆぶねのなかである。僕が風呂ふろの流し場に足をみいれたとたんに、やあ、と大声をあげたものがいた。ひるすぎの風呂には他のひとのかげがなかった。青扇がひとり湯槽につかっていたのである。僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸せっけんをてのひらにり無数のあわを作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。 「先晩はどうも。」僕は流石さすがはずかしい思いであった。 「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川きそがわの上流ですよ。」

39

僕は、青扇のひとみの方向によって、彼が湯槽のうえのペンキについて言っているのだということを知った。 「ペンキ画のほうがよいのですよ。ほんとうの木曾川よりはね。いいえ。ペンキ画だからよいのでしょう。」そう言いながら僕をふりかえってみて微笑ほほえんだ。 「ええ。」僕も微笑んだ。彼の言葉の意味がわからなかったのである。 「これでも苦労したものですよ。良心のある画ですね。これをえがいたペンキ屋のやつ、この風呂へは、決して来ませんよ。」 「来るのじゃないでしょうか。自分の画をながめながら、しずかにお湯にひたっているというのもわるくないでしょう。」

40

僕のそういったような言葉はどうやら青扇の侮蔑ぶべつを買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手のこうをそろっと並べ、十枚のつめながめていた。

41

青扇せいせんは、さきに風呂ふろから出た。ぼく湯槽ゆぶねのお湯にひたりながら、脱衣だつい場にいる青扇をそれとなく見ていた。きょうはねずみいろのつむぎあわせを着ている。彼があまりにも永く自分のすがたを鏡にうつしてみているのには、おどろかされた。やがて、僕も風呂から出たのであるが、青扇は、脱衣場のすみ椅子いすにひっそり座って煙草たばこをくゆらしながら僕を待っていてくれた。僕はなんだか息苦しい気持ちがした。ふたり一緒いっしょに銭湯屋を出て、みちみち彼はこんなことをつぶやいた。 「はだかのすがたを見ないうちは気を許せないのです。いいえ。男と男とのあいだのことですよ。」

42

その日、僕はさそわれるがままに、また青扇のもとをおとずれた。途中とちゅう、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭髪とうはつの手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入日のあたる縁側えんがわで夕刊を読んでいたのである。僕は玄関のわきの枝折戸しおりどをあけて、小庭をつき切り、縁先に立った。いないのですか、と聞いてみると、 「ええ。」新聞から眼をはなさずにそう答えた。下唇したくちびるをつよくんで、不気嫌ふきげんであった。 「まだ風呂から帰らないのですか?」 「そう。」 「はて。僕と風呂で一緒になりましてね。遊びに来いとおっしゃったものですから。」 「あてになりませんのでございますよ。」はずかしそうに笑って、夕刊のペエジをった。 「それでは、しつれいいたします。」 「あら。すこしお待ちになったら? お茶でもめしあがれ。」マダムは夕刊をたたんで僕のほうへのべてよこした。

43

僕は縁側にこしをおろした。庭の紅梅の粒々つぶつぶつぼみは、ふくらんでいた。 「木下を信用しないほうがよござんすよ。」

44

だしぬけに耳のそばでそうささやかれて、ぎょっとした。マダムは僕にお茶をすすめた。 「なぜですか?」僕はまじめであった。 「だめなんですの。」片方のまゆをきゅっとあげて小さい溜息ためいきいたのである。

45

僕は危く失笑しかけた。青扇が日頃ひごろ、へんな自矜じきょう怠惰たいだにふけっているのを真似まねて、この女も、なにかしら特異な才能のある夫にかしずくことの苦労をそれとなくほこっているのにちがいないと思ったのである。爽快そうかいうそを吐くものかなと僕は内心おかしかった。けれどこれしきの嘘には僕も負けてはいないのである。 「出鱈目でたらめは、天才の特質のひとつだと言われていますけれど。その瞬間しゅんかん瞬間の真実だけを言うのです。豹変ひょうへんという言葉がありますね。わるくいえばオポチュニストです。」 「天才だなんて。まさか。」マダムは、ぼくのお茶の飲みさしを庭に捨てて、代りをいれた。

46

ぼくは湯あがりのせいで、のどがかわいていた。熱い番茶をすすりながら、どうして天才でないことを言い切れるか、と追及ついきゅうしてみた。はじめから、少しでも青扇せいせんの正体らしいものをさぐり出そうとかかっていたわけである。 「威張いばるのですの。」そういう返事であった。 「そうですか。」僕は笑ってしまった。

47

この女も青扇とおなじように、うんと利巧りこうかうんと莫迦ばかかどちらかであろう。とにかく話にならないと思ったのだ。けれど僕は、マダムが青扇をかなり愛しているらしいということだけは知り得たつもりであった。黄昏たそがれもやにぼかされて行く庭をながめながら、僕はわずかの妥協だきょうをマダムに暗示してやった。 「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂ふろにはいっているときでも、つめを切っているときでも。」 「まあ。だからいたわってやれとおっしゃるの?」

48

僕には、それが相当むきな調子に聞えたので、いくぶんせせら笑いの意味をこめて、なにか喧嘩けんかでもしたのですか、と反問してやった。 「いいえ。」マダムは可笑おかしそうにしていた。

49

喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。 「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」

50

夕闇ゆうやみがせまっていて百日紅さるすべりの幹だけが、やわらかにきあがって見えた。僕は庭の枝折戸しおりどに手をかけ、りむいてマダムにもいちど挨拶あいさつした。マダムは、ぽつんと白く縁側えんがわに立っていたが、ていねいにお辞儀じぎを返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っているのだ、とわびしげにつぶやいたことである。

51

愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな男にうっかり家を貸したことを後悔こうかいしはじめたのだ。

52

そのうちに、僕の不吉の予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても、青扇からなんの音沙汰おとさたもないのである。家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金しききんのことも勿論もちろんそのままになっていた。しかしぼくは、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇せいせんも言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでもよかった。けれども屋賃をいれてくれないのには、弱ったのである。僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着むとんちゃく寛大かんだいから来ているという工合ぐあいに説明したいところであるが、ほんとうを言えば、僕には青扇がこわかったのである。青扇のことを思えば、なんとも知れぬけむったさを感じるのである。いたくなかった。どうせ会って話をつけなければならないとは判っていたが、それでも一寸のがれに、明日明日とのばしているのであった。つまりは僕の薄志弱行はくしじゃっこうのゆえであろう。

53

五月のおわり、僕はとうとう思い切って青扇のうちへ訪ねて行くことにした。朝はやくでかけたのである。僕はいつでもそうであるが、思い立つと、一刻も早くその用事をすましてしまわなければ気がすまぬのである。行ってみると、玄関がまだしまっていた。寝ているらしいのだ。わかい夫婦の寝ごみを襲撃しゅうげきするなど、いやであったから、僕はそのまま引返して来たのである。いらいらしながら家の庭木の手入れなどをして、やっと昼頃ひるごろになってから僕はまたでかけたのだ。まだしまっていたのである。こんどは僕も庭のほうへまわってみた。庭の五株の霧島躑躅きりしまつつじの花はそれぞれはちの巣のようにきこごっていた。紅梅は花が散ってしまっていて青青した葉をひろげ、百日紅さるすべりは枝々のまたからささくれのようなひょろひょろした若葉を生やしていた。雨戸もしまっていた。僕は軽く二つ三つ戸をたたき、木下さん、木下さん、とひくく呼んだ。しんとしているのである。僕は雨戸のすきまからこっそりなかをのぞいてみた。いくつになっても人間には、すき見の興味があるものなのであろう。まっくらでなんにも見えなかった。けれど、誰やら六じょうの居間に寝ているような気はいだけは察することができた。僕は雨戸からからだをはなし、もいちど呼ぼうかどうかを考えたのであるが、結局そのまま、また僕の家へひきかえして来たのである。覗いたという後悔こうかいからの気おくれが、僕をそんなにしおしお引返えさせたらしいのだ。家へ帰ってみると、ちょうど来客があって、そのひとと二つ三つの用談をきめているうちに、日も暮れた。客を送りだしてから、僕はまた三度目の訪問をくわだてたのである。まさかまだ寝ているわけはあるまいと考えた。

54

青扇のうちにはあかりがついていて、玄関もあいていた。声をかけると、誰? という青扇のかすれた返事があった。 「僕です。」 「ああ。おおやさん。おあがり。」六畳の居間にいるらしかった。

55

うちの空気が、なんだか陰気いんきくさいのである。玄関に立ったままで六畳間じょうまのほうを首かしげてのぞくと、青扇せいせんは、どてら姿で寝床ねどこをそそくさと取りかたづけていた。ほのぐらい電灯の下の青扇の顔は、おやと思ったほどけて見えた。 「もうおやすみですか。」 「え。いいえ。かまいません。一日いっぱい寝ているのです。ほんとうに。こうして寝ているといちばん金がかからないものですから。」そんなことを言い言い、どうやら部屋をかたづけてしまったらしく、走るようにして玄関へ出て来た。「どうも、しばらくです。」

56

ぼくの顔をろくろく見もせず、すぐうつむいてしまった。 「屋賃は当分だめですよ。」だしぬけに言ったのである。

57

僕は流石さすがにむっとした。わざと返事をしなかった。 「マダムがげました。」玄関の障子しょうじによりそってしずかにしゃがみこんだ。電灯のあかりを背面から受けているので青扇の顔はただまっくろに見えるのである。 「どうしてです。」僕はどきっとしたのだ。 「きらわれましたよ。ほかに男ができたのでしょう。そんな女なのです。」いつもに似ず言葉の調子がはきはきしていた。 「いつごろです。」僕は玄関の式台にこしをおろした。 「さあ、先月の中旬ちゅうじゅんごろだったでしょうか。あがらない?」 「いいえ。きょうは他に用事もあるし。」僕には少し薄気味うすきみがわるかったのである。 「はずかしいことでしょうけれど、私は、女の親元からの仕送りで生活していたのです。それがこんなになって。」

58

せかせか言いつづける青扇の態度に、一刻もはやく客を追いかえそうとしている気がまえを見てとった。僕はわざわざたもとから煙草たばこをとりだし、マッチがありませんか? と言ってやったのである。青扇はだまって勝手元のほうへ立って行って、大箱の徳用マッチを持って来た。 「なぜ働かないのかしら?」僕は煙草をくゆらしながら、いまからゆっくり話込はなしこんでやろうとひそかに決意していた。 「働けないからです。才能がないのでしょう。」相変らずてきぱきした語調であった。 「冗談じょうだんじゃない。」 「いいえ。働けたらねえ。」

59

僕は青扇が思いのほかに素直な気質を持っていることを知ったのである。胸もつまったけれど、このまま彼に同情していては、屋賃のことがどうにもならぬのだ。僕はおのれの気持ちをはげました。 「それでは困るじゃないですか。僕のほうも困るし、あなただっていつまでもこうしている訳にいきますまい。」吸いかけの煙草たばこを土間へ投げつけた。赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。 「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」

60

ぼくは二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった。さっきから気にかかっていた青扇せいせんの顔をそのマッチのあかりでちらとのぞいてみることができた。僕は思わずぽろっと、燃えるマッチをとり落したのである。悪鬼あっきの面を見たからであった。 「それでは、いずれまた参ります。ないものは頂戴ちょうだいいたしません。」僕はいますぐここからのがれたかった。 「そうですか。どうもわざわざ。」青扇は神妙しんみょうにそう言って、立ちあがった。それからひとりごとのようにつぶやくのである。「四十二の一白水星。気の多いとしまわりで弱ります。」

61

僕はころげるようにして青扇の家から出て、夢中で家路をいそいだものだ。けれど少しずつ落ちつくにつれて、なんだか莫迦ばかをみたというような気がだんだんと起って来たのである。また一杯いっぱいくわされた。青扇の思いめたようなはっきりした口調も、四十二歳をそれとなく呟いたことも、みんなたまらないほどわざとらしくきざっぽく思われだした。僕はどうも少しあまいようだ。こんなゆるんだ性質では家主はとてもつとまるものではないな、と考えた。

62

僕はそれから二三日、青扇のことばかりを考えてくらした。僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐じゅっかいも、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとすれば、それだけでもすでにありふれた精神でない。いや、精神などというと立派に聞えるが、とにかくそうとう図太い根性である。もうこうなったうえは、どうにかしてあいつの正体らしいものをつきとめてやらなければ安心ができないと考えたのだ。

63

五月がすぎて、六月になっても、やはり青扇からはなんの挨拶あいさつもないのであった。僕はまた彼の家に出むいて行かなければならなかったのである。

64

その日、青扇はスポオツマンらしく、えり付きのワイシャツに白いズボンをはいて、何かてれくさそうにはじらいながら出て来た。家ぜんたいが明るい感じであった。六畳間じょうまにとおされて、見ると、部屋のとこの間寄りのすみにいつ買いいれたのかねずみいろの天鵞絨ビロードが張られた古ものらしいソファがあり、しかもたたみのうえには淡緑色たんりょくしょく絨氈じゅうたんかれていた。部屋のおもむきが一変していたのである。青扇は僕をソファに座らせた。

65

庭の百日紅さるすべりは、そろそろ猩々緋しょうじょうひの花をひらきかけていた。 「いつも、ほんとうに相すみません。こんどは大丈夫だいじょうぶですよ。しごとが見つかりました。おい、ていちゃん。」青扇せいせんぼくとならんでソファにこしをおろしてから、となりの部屋へ声をかけたのである。

66

水兵服を着た小柄こがらな女が、四じょう半のほうから、ぴょこんと出て来た。丸顔の健康そうなほおをした少女であった。眼もおそれを知らぬようにきょとんとんでいた。 「おおやさんだよ。ご挨拶あいさつをおし。うちの女です。」

67

僕はおやおやと思った。先刻の青扇のはじらいをふくんだ微笑ほほえみの意味がとけたのであった。 「どんなお仕事でしょう。」

68

その少女がまた隣りの部屋にひっこんでから、僕は、ことさらに生野暮きやぼをよそって仕事のことをたずねてやった。きょうばかりは化かされまいぞと用心をしていたのである。 「小説です。」 「え?」 「いいえ。むかしから私は、文学を勉強していたのですよ。ようやくこのごろ芽が出たのです。実話を書きます。」澄ましこんでいた。 「実話と言いますと?」僕はしつこくたずねた。 「つまり、ないことを事実あったとして報告するのです。なんでもないのさ。何県何村何番地とか、大正何年何月何日とか、そのころの新聞で知っているであろうがとかいう文句を忘れずにいれて置いてあとは、必ずないことを書きます。つまり小説ですねえ。」

69

青扇は彼の新妻にいづまのことで流石さすがにいくぶん気おくれしているのか、僕の視線を避けるようにして、長い頭髪とうはつのふけをき落したりひざをなんども組み直したりなどしながら、少し雄弁ゆうべんをふるったのである。 「ほんとうによいのですか。困りますよ。」 「大丈夫、大丈夫。ええ。」僕の言葉をさえぎるようにして大丈夫を繰りかえし、そうしてほがらかに笑っていた。僕は、信じた。

70

そのとき、さきの少女が紅茶の銀盆をささげてはいって来たのだ。 「あなた、ごらんなさい。」青扇は紅茶の茶碗ちゃわんを受けとって僕に手渡てわたし自分の茶碗を受けとりしなに、そう言ってうしろをりむいた。とこの間には、もう北斗七星ほくとしちせい掛軸かけじくがなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏せっこうの胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭けいとうの花がいていた。少女は耳の付け根まであかくなった顔をびた銀盆で半分かくし、ひとみの茶色なおおきい眼をさらにおおきくして彼をにらんだ。青扇せいせんはその視線を片手ではらいのけるようにしながら、 「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです。」

71

少女は眼にもとまらぬくらいの素早さで部屋から飛び出た。 「どうしたのです。」僕には訳がわからなかった。 「なに。てい子のむかしのあれの胸像なんだそうです。たったひとつの嫁入よめいり道具ですよ。キスするのです。」こともなげに笑っていた。

72

僕はいやな気がした。 「おいやのようですね。けれども世の中はこんな工合ぐあいになっているのです。仕様がありませんよ。見ていると感心に花を毎日とりかえます。きのうは、ダリヤでした。おとといは蛍草ほたるそうでした。いや、アマリリスだったかな。コスモスだったかしら。」

73

この手だ。こんな調子にまたうかうか乗せられたなら、前のようにかたすかしを食わされるのである。そう気づいたゆえ、僕は意地悪くかかって、それにとりあってやらなかったのだ。 「いや。お仕事のほうは、もうはじめているのですか?」 「ああ、それは、」紅茶を一口すすった。「そろそろはじめていますけれど、大丈夫だいじょうぶですよ。私はほんとうは、文学書生なんですからね。」

74

僕は紅茶の茶碗ちゃわんの置きどころをさがしながら、 「でもあなたの、ほんとうは、は、あてになりませんからね。ほんとうは、というそんな言葉でまたひとつうそ上塗うわぬりをしているようで。」 「や、これは痛い。そうぽんぽん事実をきたがるものじゃないな。私はね、むかし森鴎外、ご存じでしょう? あの先生についたものですよ。あの青年という小説の主人公は私なのです。」

75

これは僕にも意外であった。僕もその小説は余程よほどまえにいちど読んだことがあって、あのかそけきロマンチシズムは、永く僕の心をとらえはなさなかったものであるが、けれどもあのなかのあまりにもよろずに綺麗きれいすぎる主人公にモデルがあったとは知らなかったのである。老人の頭ででっちあげられた青年であるから、こんなに綺麗すぎたのであろう。ほんとうの青年は猜忌さいきや打算もつよく、もっと息苦しいものなのに、と僕にとって不満でもあったあの水蓮すいれんのような青年は、それではこの青扇だったのか。そう興奮しかけたけれど、すぐいやいやと用心したのである。 「はじめて聞きました。でもあれは、失礼ですが、もっとおっとりしたお坊ちゃんのようでしたけれど。」 「これは、ひどいなあ。」青扇は僕が持ちあぐんでいた紅茶の茶碗をそっと取りあげ、自分のと一緒いっしょにソファの下へかたづけた。「あの時代には、あれでよかったのです。でも今ではあの青年も、こんなになってしまうのです。私だけではないと思うのですが。」

76

ぼく青扇せいせんの顔を見直した。 「それはつまり抽象ちゅうしょうして言っているのでしょうか。」 「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕のひとみのぞいた。「私のことを言っているのですけれど?」

77

僕はまたまた憐愍れんびんに似た情を感じたのである。 「まあ、きょうは僕はこれで帰りましょう。きっとお仕事をはじめて下さい。」そう言い置いて、青扇の家を出たのであるが、帰途きと、青扇の成功をいのらずにおれなかった。それは、青年についての青扇の言葉がなんだか僕のからだにしみついて来て、自分ながらおかしいほどしおれてしまったせいでもあるし、また、青扇のあらたな結婚によって何やら彼の幸福をいのってやりたいような気持ちになっていたせいでもあろう。みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活にきゅうするというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。

78

僕はどうも芸術家というものに心をひかれる欠点を持っているようだ。ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよい。彼の出世をたのしもう。僕は、そのときふと口をついて出た He is not what he was. という言葉をたいへんよろこばしく感じたのである。僕が中学校にはいっていたとき、この文句を英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせ、そしてこの文句はまた、僕が中学五年間を通じて受けた教育のうちでいまだに忘れられぬ唯一ゆいいつの知識なのであるが、おとずれるたびごとに何か驚異きょうい感慨かんがいをあらたにしてくれる青扇と、この文法の作例として記されていた一句とを思い合せ、僕は青扇に対してある異状な期待を持ちはじめたのである。

79

けれども僕は、この僕の決意を青扇に告げてやるようなことは躊躇ちゅうちょしていた。それはいずれ家主根性ともいうべきものであろう。ひょっとすると、あすにでも青扇がいままでの屋賃をそっくりまとめて、持って来てくれるかも知れない。そのようなひそかな期待もあって、僕は青扇に進んでこちらから屋賃をいらぬなどとは言わないのであった。それがまた青扇をはげますもとになってくれたなら、つまり両方のためによいことだとも思ったのである。

80

七月のおわり、僕は青扇のもとをまた訪れたのであるが、こんどはどんなによくなっているか、何かまた進歩や変化があるだろう。それを楽しみにしながら出かけたのであった。行ってみて呆然ぼうぜんとしてしまった。変っているどころではなかったのである。

81

ぼくはその日、すぐに庭から六じょう縁側えんがわのほうへまわってみたのであるが、青扇せいせん猿股さるまたひとつで縁側にあぐらをかいていて、大きい茶碗ちゃわんを股のなかにいれ、それを里芋さといもに似た短い棒でもって懸命けんめいにかきまわしていたのだ。なにをしているのですと声をかけた。 「やあ。薄茶うすちゃでございますよ。茶をたてているのです。こんなに暑いときには、これに限るのですよ。一杯いっぱいいかが?」

82

僕は青扇の言葉づかいがどこやら変っているのに気がついた。けれども、それをいぶかしがっている場合ではなかった。僕はその茶をのまなければならなかったのである。青扇は茶碗をむりやりに僕に持たせて、それから傍にぎ捨ててあった弁慶格子べんけいごうし小粋こいきなゆかたを座ったままで素早く着込きこんだ。僕は縁側にこしをおろし、しかたなく茶をすすった。のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。 「どうしてまた。風流ですね。」 「いいえ。おいしいからのむのです。わたくし、実話を書くのがいやになりましてねえ。」 「へえ。」 「書いていますよ。」青扇は兵古帯へこおびをむすびながら床の間のほうへいざり寄った。

83

床の間にはこのあいだの石膏せっこうの像はなくて、その代りに、牡丹ぼたんの花模様の袋にはいった三味線らしいものが立てかけられていた。青扇は床の間のすみにある竹の手文庫をかきまわしていたが、やがて小さく折りたたまれてある紙片をつまんで持って来た。 「こんなのを書きたいと思いまして、文献ぶんけんを集めているのですよ。」

84

僕は薄茶の茶碗をしたに置いて、その二三枚の紙片を受けとった。婦人雑誌あたりの切りきらしく、四季のわたり鳥という題が印刷されていた。 「ねえ。この写真がいいでしょう? これは、渡り鳥が海のうえで深いきりなどにおそわれたとき方向を見失い光りをしたってただまっしぐらに飛んだばつで灯台へぶつかりばたばたと死んだところなのですよ。何千万という死骸しがいです。渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。旅が生活なのですからねえ。ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。わたくし、これを一元描写びょうしゃでやろうと思うのさ。私という若い渡り鳥が、ただ東から西、西から東とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。仲間がだんだん死んでいきましてね。鉄砲てっぽうで打たれたり、波に呑まれたり、えたり、病んだり、巣のあたたまるひまもない悲しさ。あなた。おきかもめに潮どき聞けば、といううたがありますねえ。わたくし、いつかあなたに有名病についてお話いたしましたけど、なに、人を殺したり飛行機に乗ったりするよりは、もっと楽な法がありますわ。しかも死後の名声という付録つきです。傑作けっさくをひとつ書くことなのさ。これですよ。」

85

ぼくは彼の雄弁ゆうべんのかげに、なにかまたてれかくしの意図をいだ。果して、勝手口から、あの少女でもない、色のあさぐろい、日本がみったせがたの見知らぬ女のひとがこちらをこっそりのぞいているのを、ちらと見てしまった。 「それでは、まあ、その傑作をお書きなさい。」 「お帰りですか? 薄茶うすちゃを、もひとつ。」 「いや。」

86

僕は帰途きとまた思いなやまなければいけなかった。これはいよいよ、災難である。こんな出鱈目でたらめが世の中にあるだろうか。いまは非難を通りして、あきれたのである。ふと僕は彼のわたり鳥の話を思い出したのだ。突然とつぜん、僕と彼との相似を感じた。どこというのではない。なにかしら同じ体臭たいしゅうが感ぜられた。君も僕も渡り鳥だ、そう言っているようにも思われ、それが僕を不安にしてしまった。彼が僕に影響えいきょうを与えているのか、僕が彼に影響を与えているのか、どちらかがヴァンピイルだ。どちらかが、知らぬうちに相手の気持ちにそろそろ食いいっているのではあるまいか。僕が彼の豹変ひょうへんぶりを期待しておとずれる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化をして行かなければいけないように努めているのであるまいか。あれこれと考えれば考えるほど青扇せいせんと僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。南天燭なんてんしょくを植木屋に言いつけて彼の玄関の傍に植えさせてやったのは、そのころのことであった。

87

八月には、僕は房総ぼうそうのほうの海岸でおよそ二月をすごした。九月のおわりまでいたのである。帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は土産みやげかれい干物ひものを少しばかり持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ親睦しんぼくを彼に感じ、力こぶをさえいれていたのであった。

88

庭先からはいって行くと、青扇は、いかにもうれしげに僕をむかえた。頭髪とうはつを短くってしまって、いよいよ若く見えた。けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。紺絣こんがすり単衣ひとえを着ていた。僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せたかたにもたれかかるようにして部屋へはいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいがそなえられ、たくのうえには、一ダアスほどのビイルびんとコップが二つ置かれていた。 「不思議です。きょうは来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな仕度したくをして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ。」

89

やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。 「どうです。お仕事ができましたか?」 「それが駄目だめでした。この百日紅さるすべり油蝉あぶらぜみがいっぱいたかって、朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気がくるいかけました。」

90

ぼくは思わず笑わされた。 「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなにかみを短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよくおいでくださいました。」黒ずんでいるくちびるをおどけものらしくちょっととがらせて、コップのビイルをほとんど一息に呑んでしまった。 「ずっとこっちにいたのですか。」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。コップの中にはぶよに似た小さい虫が一匹いて、あわのうえでしきりにもがいていた。 「ええ。」青扇せいせんたくに両ひじをついてコップを眼の高さまでささげ、噴きあがるビイルの泡をぼんやりながめなから余念なさそうに言った。「ほかに行くところもないのですものねえ。」 「ああ。お土産みやげを持って来ましたよ。」 「ありがとう。」

91

何か考えているらしく、僕の差しだす干物には眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼が座っていた。もうっているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫をすくいあげてから、だまってごくごく呑みほした。 「ひんすればどんすという言葉がありますねえ。」青扇はねちねちした調子で言いだした。「まったくだと思いますよ。清貧なんてあるものか。金があったらねえ。」 「どうしたのです。へんにからみつくじゃないか。」

92

僕はひざをくずして、わざと庭を眺めた。いちいちとり合っていても仕様がないと思ったのである。 「百日紅さるすべりがまだいていますでしょう? いやな花だなあ。もう三月は咲いていますよ。散りたくても散れぬなんて、気のきかないだよ。」

93

僕は聞えぬふりして卓のしたの団扇うちわをとりあげ、ばさばさ使いはじめた。 「あなた。私はまたひとりものですよ。」

94

僕はりかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。 「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは莫迦ばか浮気うわきじゃないか。」 「いいえ。みんなげてしまうのです。どう仕様もないさ。」 「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、あなたは女の金で暮していたのでしょう?」 「あれはうそです。」彼はたくのしたのニッケルの煙草入たばこいれから煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。「ほんとうは私の田舎いなかからの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房にょうぼうをときどきかえるのがほんとうだと思うね。あなた。箪笥たんすから鏡台まで、みんな私のものです。女房は着のみ着のままで私のうちへ来て、それからまたそのままいつでも帰って行けるのです。私の発明だよ。」 「莫迦ばかだね。」ぼくは悲しい気持ちでビイルをあおった。 「金があればねえ。金がほしいのですよ。私のからだはくさっているのだ。五六じょうくらいのたきに打たせて清めたいのです。そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなくつき合えるのだし。」 「そんなことは気にしなくてよいよ。」

95

屋賃などあてにしていないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草がホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりないわけでもないな、と思ったのだ。

96

青扇せいせんは、僕の視線が彼の煙草にそそがれていることを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようであった。 「ホープはいいですよ。あまくもないし、からくもないし、なんでもない味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか。」ひとりでそんな弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼びよくの油をゆっくりぬぐった。「刺激がないからいけないのだと思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命けんめいに金をためて、十二三円たまったから、それを持ってカフェヘ行き、もっともばからしく使って来ました。悔恨かいこんの情をあてにしたわけですね。」 「それで書けましたか。」 「駄目だめでした。」

97

僕はきだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。 「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。せいぜい真似まねるだけだねえ。」 「そんなことはないだろう。あとのひとほどうまいと思うな。」 「どこからそんなだいそれた確信が得られるの? 軽々しくものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家はすぐれた独自の個性じゃないか。高い個性をつくるのだ。わたり鳥には、それができないのです。」

98

日が暮れかけていた。青扇せいせん団扇うちわでしきりにすねはらっていた。すぐ近くにやぶがあるので、蚊も多いのである。 「けれど、無性格は天才の特質だともいうね。」

99

ぼくがこころみにそう言ってやると、青扇は、不満そうに口をとがらせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕のよいがさめた。やっぱりそうだ。これは、きっと僕の真似まねだ。いつか僕がここの最初のマダムに天才の出鱈目でたらめを教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを掣肘せいちゅうして来たのではあるまいか。青扇のいままでのどこやら常人と異ったような態度は、すべて僕が彼になにげなく言ってやった言葉の期待を裏切らせまいとしてのもののようにも思われた。この男は、意識しないで僕にあまったれ、僕のたいこもちを勤めていたのではないだろうか。 「あなたも子供ではないのだから、莫迦ばかなことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕しゅうぜん費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢ごうまんの精神か、それとも乞食こじきの根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。」言い捨てて立ちあがった。 「あああ。こんな晩に私が笛でもけたらなあ。」青扇はひとりごとのようにつぶやきながら縁側えんがわへ僕を送って出て来た。

100

僕が庭先へおりるとき、暗闇くらやみのために下駄げたのありかがわからなかった。 「おおやさん。電灯をとめられているのです。」

101

やっと下駄をさがしだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっとのぞいた。青扇は縁先に立ってんだ星空の一端いったんが新宿辺の電灯のせいで火事のようにあかるくなっているのをぼんやり見ていた。僕は思い出した。はじめから青扇の顔をどこかで見たことがあると気にかかっていたのだが、そのときやっと思い出した。プーシュキンではない。僕の以前の店子たなこであったビイル会社の技師の白い頭髪とうはつを短く角刈かくがりにした老婆ろうばの顔にそっくりであったのである。

102

十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒いっしょになったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂ふろもしまいになりかけていたころであった。青扇は素裸すはだかのまま脱衣だつい場のたたみのうえにべったり座って足の指のつめを切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両かたから湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほどおどろかずに、 「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂ふろで誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは私、爪とかみばかりびて。」

103

にやにやうす笑いしてそんなことを言い言いぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいてどてらを着込きこみ、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。ぼくにはそれもまたさもしい感じで、ただ軽侮けいぶの念を増しただけであった。

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ことしのお正月、僕は近所へ年始まわりに歩いたついでにちょっと青扇せいせんのところへも立ち寄ってみた。そのとき玄関をあけたら赤ちゃけた胴の長い犬がだしぬけに僕にえついたのにびっくりさせられた。青扇は、卵いろのブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、みょうに若がえって出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか迷いこんで来たものであるが、二三日めしを食わせてやっているうちに、もう忠義顔をしてよそのひとに吠えたててみせているのだ、そのうちどこかへ捨てに行くつもりです、とつまらぬことを挨拶あいさつきにして言いたてたのである。おおかたまたてれくさい事件でも起っているのだろうと思い、僕は青扇のとめるのもりきってすぐおいとまをした。けれども青扇は僕のあとを追いかけて来たのである。 「おおやさん。お正月早々、こんな話をするのもなんですけれど、私は、いまほんとうに気がくるいかけているのです。うちの座敷ざしきへ小さい蜘蛛くもがいっぱい出て来て困っています。このあいだ、ひとりで退屈たいくつまぎれに火箸ひばしの曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢ひばちのふちにたたきつけていたら、あなた、女房にょうぼう洗濯せんたくし眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえ、てっきり気ちがいになったと思った、そう言うのですよ。かえって私のほうがぎょっとしました。あなた、お金ある? いや、いいんです。それで、もうこの二三日すっかりくさって、お正月も、うちではわざとなんの仕度したくもしないのですよ。ほんとうにわざわざおいで下さいましたのに。私たち、なんのおかまいもできませんし。」 「新しいおくさんができたのですか。」僕はできるだけ意地わるい口調で言ってみた。 「ああ。」子供みたいにはにかんでいた。

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おおかたヒステリイの女とでも同棲どうせいをはじめたのであろうと思った。

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ついこのあいだ、二月のはじめころのことである。僕は夜おそく思いがけない女のひとのおとずれを受けた。玄関へ出てみると、青扇の最初のマダムであったのである。黒い毛のショオルにくるまってあら飛白かすりのコオトを着ていた。白いほおがいっそうあおくすきとおって来たようであった。ちよっとお話したいことがございますから、一緒いっしょにそこらまでつきあってくれというのである。僕はマントも着ず、そのまま一緒にそとへ出た。しもがおりて、輪廓りんかくのはっきりした冷い満月が出ていた。僕たちはしばらくだまって歩いた。 「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ。」おこったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。 「それは。」ぼくにはほかに言いようがなかったのである。 「こっちが恋いしくなったものですから。」余念なげにそうささやいた。

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僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。 「木下さんはどうしています。」 「相変らずでございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭ひざがしらのあたりにまでさげた。 「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩けんかをしてしまいました。いったい何をしているのです。」 「だめなんでございます。まるで気ちがいですの。」

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僕は微笑ほほえんだ。曲った火箸ひばしの話を思い出したのである。それでは、あの神経過敏かびん女房にょうぼうというのはこのマダムだったのであろう。 「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、反駁はんばくして置きたいような気が起るのであった。

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マダムはくすくす笑いながら答えた。 「ええ。華族かぞくさんになって、それからお金持ちになるんですって。」

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僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、しもでふくれあがった土がうずらふくろうつぶやきのようなおかしい低音をたててくだけるのだ。 「いや。」僕はわざと笑った。「そんなことでなしに、何かお仕事でもはじめていませんか?」 「もう、骨のずいからのなまけものです。」きっぱり答えた。 「どうしたのでしょう。失礼ですが、いくつなのですか? 四十二歳だとか言っていましたが。」 「さあ。」こんどは笑わなかったのである。「まだ三十まえじゃないかしら。うんと若いのでございますのよ。いつも変りますので、はっきりは私にもわかりませんのですの。」 「どうするつもりかな。勉強なんかしていないようですね。あれで本でも読むのですか?」 「いいえ、新聞だけ。新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。ていねいに読むことよ。政治面をなんべんもなんべんもりかえして読んでいます。」

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僕たちはあの空地へ出た。原っぱの霜は清浄であった。月あかりのために、石ころや、ささの葉や、棒杭ぼうぐいや、めまで白く光っていた。 「友だちもないようですね。」 「ええ。みんなに悪いことをしていますから、もうつきあえないのだそうです。」 「どんな悪いことを。」ぼくは金銭のことを考えていた。 「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。それでも悪いことですって。あのひと、ものの善し悪しがわからないのでございますのよ。」 「そうだ。そうです。善いことと悪いことがさかさまなのです。」 「いいえ。」あごをショオルに深くうずめてかすかに首をふった。「はっきりさかさまなら、まだいいのでございます。目茶目茶なんですのよ、それが。だから心細いの。逃げられますわよ、あれじゃ。あのひと、それはごきげんを取るのですけれど。私のあとに二人も来ていましたそうですね。」 「ええ。」僕はあまり話を聞いていなかった。 「季節ごとに変えるようなものだわ。真似まねしましたでしょう?」 「なんです。」すぐには呑みこめなかった。 「真似をしますのよ、あのひと。あのひとに意見なんてあるものか。みんな女からの影響えいきょうよ。文学少女のときには文学。下町のひとのときには小粋こいきに。わかってるわ。」 「まさか。そんなチエホフみたいな。」

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そう言って笑ってやったが、やはり胸がつまって来た。いまここに青扇せいせんがいるなら彼のあの細いかたをぎゅっといてやってもよいと思ったものだ。 「そんなら、いま木下さんが骨のずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたを真似しているというわけなのですね。」僕はそう言ってしまって、ぐらぐらとよろめいた。 「ええ。私、そんな男のかたが好きなの。もすこしまえにそれを知ってくださいましたなら。でも、もうおそいの。私を信じなかったばつよ。」軽く笑いながら言ってのけた。

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僕はあしもとの土くれをひとつって、ふと眼をあげると、やぶのしたに男がひっそり立っていた。どてらを着て、頭髪とうはつもむかしのように長くのびていた。僕たちは同時にその姿を認めた。にぎり合っていた手をこっそりほどいて、そっとはなれた。 「むかえに来たのだよ。」

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青扇はひくい声でそう言ったのであるが、あたりの静かなせいか、僕にはそれが異様にちかちか痛くひびいた。彼は月の光りさえまぶしいらしく、まゆをひそめて僕たちをおどおどながめていた。

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僕は、今晩はと挨拶あいさつしたのである。 「今晩は。おおやさん。」あいそよく応じた。

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僕は二三歩だけ彼に近寄ってたずねてみた。 「なにかやっていますか。」 「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃあるまいし。」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえのあまったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやっていますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現われて来ています。ほら。ね、ね。運勢がひらける証拠しょうこなのです。」

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そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれとながめたのである。

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運勢なんて、ひらけるものか。それきりもうぼく青扇せいせんっていない。気がくるおうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由におそわれた。しかもいまになってみると、それはなんの面白おもしろさもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。ふつうの凡夫ぼんぷを、なにかと意味づけて夢にかたどり眺めて暮して来ただけではなかったのか。竜駿りゅうしゅんはいないか。麒麟児きりんじはいないか。もうはや、そのような期待には全くほとほと御免ごめんである。みんなみんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合ぐあいで少しばかり色あいが変って見えるだけのことだ。

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おい。見給え。青扇の御散歩である。あの紙凧かみだこのあがっている空地だ。横縞よこじまのどてらを着て、ゆっくりゆっくり歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ているというのか。――よし。それなら君に聞こうよ。空を見あげたりかたをゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。




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