思い出

       太宰 治

一章

1

黄昏たそがれのころ私は叔母おばと並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路がいろの静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがおかくれになったのだ、と私に教えて、神様がみさま、と言いえた。いきがみさま、と私も興深げにつぶやいたような気がする。それから、私は何か不敬ふけいなことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものでない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったのだろう、と私は知っていながら、わざとそうたずねて叔母を笑わせたのを思い出す。

2

私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝たいてい崩御ほうぎょのときは数えどしの四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見たたきを忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々とこけえたがけからはばの広い滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれをながめた。何かのやしろが傍にあって、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬えまを見せたが私は段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んでいたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地くぼち毛氈もうせんいてさわいでいたが、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上った。そのとき毛氈が足にひっかかったらしく、お辞儀じぎでもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、った、酔ったと叔母をはやしたてた。私ははるかはなれてこれを見おろし、口惜くやしくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣きわめいた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたっていた。叔母は、お前がいやになった、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房ちぶさほおをよせて、そうしないでけんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔母が私をり起した時は、私はとこの中で叔母の胸に顔をしつけて泣いていた。が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかった。

3

叔母についての追憶ついおくはいろいろとあるが、そのころの父母の思い出は生憎あいにくと一つも持ち合せない。曾祖母そうそぼ、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母おばと叔母の娘四人の大家族だったはずであるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまではほとんど知らずにいたと言ってよい。広い裏庭に、むかし林檎りんごの大木が五六本あったようで、どんよりとくもった日、それらの木に女の子が多人数でのぼって行った有様や、そのおなじ庭の一隅いちぐうに菊畑があって、雨の降っていたとき、私はやはり大勢の女の子らとかささし合って菊の花の咲きそろっているのをながめたことなど、かすかに覚えて居るけれど、あの女の子らが私の姉や従姉いとこたちだったかも知れない。

4

六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読もくどくすることを覚えていたので、いくら本を読んでもつかれないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々しばしば連れて行って、地獄極楽じごくごくらく御絵掛地おえかけじを見せて説明した。火をけた人は赤い火のめらめら燃えているかごを背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青いへびにからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落むけんならくという白いけむりのたちこめた底知れぬ深い穴や、いたるところで、蒼白あおじろせたひとたちが口を小さくあけて泣きさけんでいた。うそけば地獄へ行ってこのように鬼のために舌をかれるのだ、と聞かされたときにはおそろしくて泣き出した。

5

そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹やまぶきかなにかの生垣いけがきに沿うてたくさんの卒塔婆そとばが林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶きおくするが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまをおさえつつ何十回となく執拗しつように回しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。

6

父母はそのころ東京にすまっていたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私は余程ながく東京に居たのだそうであるが、あまり記憶に残っていない。その東京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである。私は此の婆がきらいで、婆の来る度毎たびごとに泣いた。婆は私に赤い郵便自動車の玩具おもちゃをひとつ呉れたが、ちっとも面白くなかったのである。

7

やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶ついおくもそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へよめに行ったのであるが、私がそのあとを追うだろうという懸念けねんからか、私には何も言わずに突然とつぜんいなくなった。その翌年だかのおぼんのとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵ゆだんたいてきでせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。

8

同じころ叔母おばとも別れなければならぬ事情が起った。それまでに叔母の次女はとつぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとっていた。叔母はその長女夫婦と末娘とを連れて、遠くのまちへ分家したのである。私もついて行った。それは冬のことで、私は叔母と一緒にそりすみへうずくまっていると、橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が、婿むご婿むごと私をののしって橇のほろの外から私のしりを何辺もつついた。私は歯を食いしばって此の屈辱にこらえた。私は叔母にもらわれたのだと思っていたが、学校にはいるようになったら、また故郷へ返されたのである。

9

学校に入ってからの私は、もう子供でなかった。裏の空屋敷には色んな雑草がのんのんとしげっていたが、夏の或る天気のいい日に私はその草原の上で弟の子守から息苦しいことを教えられた。私が八つぐらいで、子守もそのころは十四五を越えていまいと思う。苜蓿うまごやしを私の田舎では「ぼくさ」と呼んでいるが、その子守は私と三つちがう弟に、ぼくさの四つ葉をさがして来い、と言いつけて追いやり私を抱いてころころと転げ回った。それからも私たちはくらの中だの押入おしいれの中だのにかくれて遊んだ。弟がひどく邪魔じゃまであった。押入のそとにひとり残された弟が、しくしく泣き出した為、私のすぐの兄に私たちのことを見つけられてしまった時もある。兄が弟から聞いて、その押入の戸をあけたのだ。子守は、押入へぜにを落したのだ、と平気で言っていた。

10

うそは私もしじゅういていた。小学二年か三年の雛祭ひなまつりのとき学校の先生に、うちの人が今日は雛さまをかざるのだから早く帰れと言っている、と嘘を吐いて授業を一時間も受けずに帰宅し、家の人には、きょうは桃の節句だから学校は休みです、と言って雛を箱から出すのに要らぬ手伝いをしたことがある。また私は小鳥の卵を愛した。すずめの卵は蔵の屋根瓦やねがわらをはぐと、いつでもたくさん手にいれられたが、さくらどりの卵やからすの卵などは私の屋根に転ってなかったのだ。その燃えるような緑の卵や可笑おかしい斑点はんてんのある卵を、私は学校の生徒たちから貰った。その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊とまとめて与えるのである。集めた卵は綿でくるんで机の引き出しに一杯いっぱいしまって置いた。すぐの兄は、私のその秘密の取引に感づいたらしく、ある晩、私に西洋の童話集ともう一冊なんの本だか忘れたが、その二つを貸して呉れと言った。私は兄の意地悪さをにくんだ。私はその両方の本とも卵に投資してしまってないのであった。兄は私がないと言えばその本の行先を追及するつもりなのだ。私は、きっとあったはずだからさがして見る、と答えた。私は、私の部屋は勿論もちろん、家中いっぱいランプをさげて捜して歩いた。兄は私についてあるきながら、ないのだろう、と言って笑っていた。私は、ある、と頑強がんきょうに言い張った。台所の戸棚とだなの上によじのぼってまで捜した。兄はしまいに、もういい、と言った。

11

学校で作る私の綴方つづりかたも、ことごとく出鱈目でたらめであったと言ってよい。私は私自身を神妙しんみょうないい子にして綴るよう努力した。そうすれば、いつも皆にかっさいされるのである。剽窃ひょうせつさえした。当時傑作けっさくとして先生たちに言いはやされた「弟の影絵かげえ」というのは、なにか少年雑誌の一等当選作だったのを私がそっくりぬすんだものである。先生は私にそれを毛筆で清書させ、展覧会に出させた。あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され、私はその生徒の死ぬことをいのった。やはりそのころ「秋の夜」というのも皆の先生にほめられたが、それは、私が勉強して頭が痛くなったから縁側えんがわへ出て庭を見渡みわたした、月のいい夜で池にはこいや金魚がたくさん遊んでいた、私はその庭の静かな景色を夢中でながめていたが、となり部屋から母たちの笑い声がどっと起ったので、はっと気がついたら私の頭痛がなおって居た、という小品文であった。此の中には真実がひとつもないのだ。庭の描写びょうしゃは、たしか姉たちの作文帳からき取ったものであったし、だいいち私は頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさっぱりないのである。私は学校がきらいで、したがって学校の本など勉強したことは一回もなかった。娯楽本ごらくぼんばかり読んでいたのである。うちの人は私が本さえ読んで居れば、それを勉強だと思っていた。

12

しかし私が綴方へ真実を書きむと必ずよくない結果が起ったのである。父母が私を愛して呉れないという不平を書き綴ったときには、受持訓導くんどうに教員室へ呼ばれてしかられた。「もし戦争が起ったなら。」という題を与えられて、地震雷じしんかみなり火事親爺おやじ、それ以上にこわい戦争が起ったなら先ず山の中へでもげ込もう、逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。どういう気持でこれを書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言った。次席訓導は手帖てちょうへ、「好奇心」と書き込んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが人間というものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。そう思う、と私はもじもじしながら答えた。私はいったいに口が重い方であった。それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながら、どうして給料が違うのだ、と彼に問われて私はしばらく考えた。そして、それは仕事がちがうからでないか、と答えた。鉄縁てつぶち眼鏡めがねをかけ、顔の細い次席訓導くんどうは私のその言葉をすぐ手帖てちょうに書きとった。私はかねてから此の先生に好意を持っていた。それから彼は私にこんな質問をした。君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。私は困って何とも答えなかった。

13

私の父は非常にいそがしい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父をおそれていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩にとこの中で眼をつぶったまま寝言ねごとのふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、ととなり部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論もちろんそれは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵こめだわらのぎっしり積まれたひろい米蔵こめぐらに入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主ぼうず、出ろ、出ろ、としかった。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖きょうふおもうと今でもいやな気がする。

14

母に対しても私は親しめなかった。乳母うばの乳で育って叔母おばふところで大きくなった私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかったのである。下男がふたりかかって私にそれを教えたのだが、ある夜、傍に寝ていた母が私の蒲団ふとんの動くのを不審ふしんがって、なにをしているのか、と私にたずねた。私はひどく当惑とうわくして、こしが痛いからあんまやっているのだ、と返事した。母は、そんならんだらいい、たたいてばかりいたって、とねむそうに言った。私はだまってしばらく腰をでさすった。母への追憶ついおくはわびしいものが多い。私が蔵から兄の洋服を出し、それを着て裏庭の花壇かだんの間をぶらぶら歩きながら、私の即興そっきょう的に作曲する哀調あいちょうのこもった歌を口ずさんでは涙ぐんでいた。私はその身装みなり帳場ちょうばの書生と遊びたく思い、女中を呼びにやったが、書生は仲々来なかった。私は裏庭の竹垣たけがき靴先くつさきでからからと撫でたりしながら彼を待っていたのであるが、とうとうしびれを切らして、ズボンのポケットに両手をつっんだまま泣き出した。私の泣いているのを見つけた母は、どうした訳か、その洋服をはぎ取ってしまって私のしりをぴしゃぴしゃとぶったのである。私は身を切られるような恥辱ちじょくを感じた。

15

私は早くから服装に関心を持っていたのである。シャツの袖口そでぐちにはボタンが付いていないと承知できなかった。白いフランネルのシャツを好んだ。襦袢じゅばんえりも白くなければいけなかった。えりもとからその白襟を一分いちぶ二分にぶのぞかせるように注意した。十五夜のときには、村の生徒たちはみんな晴衣はれぎを着て学校へ出て来るが、私も毎年きまって茶色の太いしまのある本ネルの着物を着て行って、学校のせま廊下ろうかを女のようになよなよと小走りにはしって見たりするのであった。私はそのようなおしゃれを、人に感付かれぬようひそかにやった。うちの人たちは私の容貌ようぼうを兄弟中で一番わるいわるい、と言っていたし、そのような悪いおとこが、こんなおしゃれをすると知られたら皆に笑われるだろう、と考えたからである。私は、かえって服装に無関心であるように振舞ふるまい、しかもそれは或る程度まで成功したように思う。誰の眼にも私は鈍重どんじゅう野暮やぼ臭く見えたにちがいないのだ。私が兄弟たちとおぜんのまえに座っているときなど、祖母や母がよく私の顔のわるい事を真面目まじめに言ったものだが、私にはやはりくやしかった。私は自分をいいおとこだと信じていたので、女中部屋なんかへ行って、兄弟中で誰が一番いいおとこだろう、とそれとなく聞くことがあった。女中たちは、長兄が一番で、その次が治ちゃだ、と大抵たいていそう言った。私は顔を赤くして、それでも少し不満だった。長兄よりもいいおとこだと言ってしかったのである。

16

私は容貌ようぼうのことだけでなく、不器用だという点で祖母たちの気にいらなかった。はしの持ちかたが下手で食事の度毎たびごとに祖母から注意されたし、私のおじぎはしりがあがって見苦しいとも言われた。私は祖母の前にきちんと座らされ、何回も何回もおじぎをさせられたけれど、いくらやって見ても祖母は上手だと言って呉れないのである。

17

祖母も私にとって苦手であったのだ。村の芝居しばい小屋の舞台開きに東京の雀三郎一座というのがかかったとき、私はその興業中いちにちも欠かさず見物に行った。その小屋は私の父が建てたのだから、私はいつでもただでいい席に座れたのである。学校から帰るとすぐ、私はやわらかい着物と着換きがえ、はしに小さい鉛筆えんぴつをむすびつけた細い銀鎖ぎんぐさりを帯にりさげて芝居小屋へ走った。生れて始めて歌舞伎かぶきというものを知ったのであるし、私は興奮して、狂言きょうげんを見ている間も幾度いくどとなく涙を流した。その興行が済んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやって見た。私は前からこんな催物もよおしものが好きで、下男や女中たちを集めては、昔話を聞かせたり、幻灯げんとうや活動写真を映して見せたりしたものである。そのときには、「山中鹿之助やまなかしかのすけ」と「はとの家」と「かっぽれ」と三つの狂言を並べた。山中鹿之助が谷河の岸の或る茶店で、早川あゆ之助という家来を得るくだりを或る少年雑誌からき取って、それを私が脚色きゃくしょくした。拙者せっしゃは山中鹿之助と申すものであるが、――という長い言葉を歌舞伎の七五調に直すのに苦心をした。「鳩の家」は私がなんべんり返して読んでも必ず涙の出た長編小説で、その中でもことあわれな所を二幕に仕上げたものであった。「かっぽれ」は雀三郎一座がおしまいの幕の時、いつも楽屋総出でそれをおどったものだから、私もそれを踊ることにしたのである。五六にち稽古けいこして愈々いよいよその日、文庫蔵ぶんこぐらのまえの広い廊下ろうかを舞台にして、小さい引幕などをこしらえた。昼のうちからそんな準備をしていたのだが、その引幕の針金に祖母があごをひっかけてしまった。祖母は、此の針金でわたしを殺すつもりか、河原乞食かわらこじき真似糞まねくそはやめろ、と言って私たちをののしった。それでもその晩はやはり下男や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやってみせたが、祖母の言葉を考えると私の胸は重くふさがった。私は山中鹿之助やまなかしかのすけや「はとの家」の男の子の役をつとめ、かっぽれもおどったけれど少しも気乗りがせずたまらなくさびしかった。そののちも私はときどき「牛盗人ぬすびと」や「皿屋敷やしき」や「俊徳丸しゅんとくまる」などの芝居しばいをやったが、祖母はその都度にがにがしげにしていた。

18

私は祖母を好いてはいなかったが、私のねむられない夜には祖母を有難ありがたく思うことがあった。私は小学三四年のころから不眠症ふみんしょうにかかって、夜の二時になっても三時になっても眠れないで、よく寝床ねどこのなかで泣いた。寝る前に砂糖をなめればいいとか、時計のかちかちを数えるとか、水で両足を冷せとか、ねむのきの葉をまくらのしたに敷いて寝るといいとか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教えられたが、あまり効目ききめがなかったようである。私は苦労性であって、いろんなことをほじくり返して気にするものだから、なおのこと眠れなかったのであろう。父の鼻眼鏡はなめがねをこっそりいじくって、ぽきっとその硝子ガラスを割ってしまったときには、幾夜いくよもつづけて寝苦しい思いをした。一軒いっけん置いてとなりの小間物屋では書物類もわずか売っていて、ある日私は、そこで婦人雑誌の口絵などを見ていたが、そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画がしくてならず、盗もうと考えて静かに雑誌から切り離していたら、そこの若主人に、おさこ、おさこ、と見とがめられ、その雑誌を音高く店のたたみに投げつけて家まで飛んではしって来たことがあったけれど、そういうやりそこないもまた私をひどく眠らせなかった。私はまた、寝床の中で火事の恐怖きょうふに理由なく苦しめられた。此の家が焼けたら、と思うと眠るどころではなかったのである。いつかの夜、私が寝しなにかわやへ行ったら、その厠と廊下ろうかひとつへだてた真暗い帳場の部屋で、書生がひとりして活動写真をうつしていた。白熊しろくまの、氷のがけから海へ飛びむ有様が、部屋のふすまヘマッチ箱ほどの大きさでちらちら映っていたのである。私はそれをのぞいて見て、書生のそういう心持がたまらなく悲しく思われた。床に就いてからも、その活動写真のことを考えると胸がどきどきしてならぬのだ。書生の身の上を思ったり、また、その映写機のフィルムから発火して大事になったらどうしようとそのことが心配で心配で、その夜はあけがた近くになるまでまどろむ事が出来なかったのである。祖母を有難く思うのはこんな夜であった。

19

まず、晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寝ながら付いていなければならなかったのだが、私は女中を気の毒に思い、床につくとすぐ眠ったふりをするのである。女中がこっそり私の床からけ出るのを覚えつつ、私は睡眠すいみんできるようひたすら念じるのである。十時ごろまで床のなかで転輾てんてんしてから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寝てしまっていて、祖母だけが起きているのだ。祖母は夜番のじじいと、台所の大きい囲炉裏いろりはさんで話をしている。私はたんぜんを着たままその間にはいって、むっつりしながら彼等の話を聞いているのである。彼等はきまって村の人々のうわさ話をしていた。或る秋の夜更よふけに、私は彼等のぼそぼそと語り合う話に耳かたむけていると、遠くから虫おくり祭の太鼓たいこの音がどんどんとひびいて来たが、それを聞いて、ああ、まだ起きている人がたくさんあるのだ、とずいぶん気強く思ったことだけは忘れずにいる。

20

音に就いて思い出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にいたが、暑中休暇きゅうかになって帰郷する度毎たびごとに、音楽や文学などのあたらしい趣味しゅみ田舎いなかへひろめた。長兄は劇を勉強していた。或る郷土の雑誌に発表した「うばい合い」という一幕物は、村の若い人たちの間で評判だった。それを仕上げたとき、長兄は数多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言って聞いていたが、私には判った。幕切の、くらい晩だなあ、という一言にふくまれた詩をさえ理解できた。私はそれに「奪い合い」でなく「あざみ草」と言う題をつけるべきだと考えたので、あとで、兄の書き損じた原稿げんこう用紙のすみへ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに気が付かなかったのであろう、題名をかえることなくそのまま発表してしまった。レコオドもかなり集めていた。私の父は、うちで何かの饗応きょうおうがあると必ず、遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つのころから、そんな芸者たちにかれたりした記憶きおくがあって、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だののうたおどりを覚えているのである。そういうことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽ほうがくの方に早くなじんだ。ある夜、私が寝ていると、兄の部屋からいいれて来たので、まくらから頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第しだいあれこれとレコオドを掛けて見た。そしてとうとう私は見つけた。前夜、私をねむらせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶らんちょうだった。

21

私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業学校を優等で出て、そのまま帰郷し、うちの銀行に勤めていたのである。次兄もまたうちの人たちに冷く取扱とりあつかわれていた。私は、母や祖母が、いちばん悪いおとこは私で、そのつぎに悪いのは次兄だ、と言っているのを聞いた事があるので、次兄の不人気もその容貌ようぼうがもとであろうと思っていた。なんにも要らない、おとこりばかりでもよく生れたかった、なあ治、と半分は私をからかうようにつぶやいた次兄の冗談口じょうだんぐちを私は記憶している。しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいいほうだと信じている。次兄は毎日のように酒をんで祖母と喧嘩けんかした。私はそのたんびひそかに祖母をにくんだ。

22

末の兄と私とはお互いに反目していた。私は色々な秘密を此の兄ににぎられていたので、いつもけむったかった。それに、末の兄と私の弟とは、顔のつくりが似て皆から美しいとほめられていたし、私は此のふたりに上下から圧迫あっぱくされるような気がしてたまらなかったのである。その兄が東京の中学に行って、私はようやくほっとした。弟は、末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬しっとしていて、ときどきなぐっては母にしかられ、母をうらんだ。私がとおか十一のころのことと思う。私のシャツや襦袢じゅばん縫目ぬいめ胡麻ごまをふりいたようにしらみがたかった時など、弟がそれを鳥渡ちょっと笑ったというので、文字通り弟をなぐり倒した。けれども私は矢張り心配になって、弟の頭に出来たいくつかのこぶ不可飲ふかいんという薬をつけてやった。

23

私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉はとつぎ、あとの二人の姉はそれぞれちがうまちの女学校へ行っていた。私の村には汽車がなかったので、三里ほど離れた汽車のあるまちとき来するのに、夏は馬車、冬はそり、春の雪解けのころや秋のみぞれの頃は歩くより他なかったのである。姉たちは橇にうので、冬やすみの時も歩いて帰った。私はそのつどつど村はずれの材木が積まれてあるところまで迎えに出たのである。日がとっぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村となりむらの森のかげから姉たちの提灯ちょうちんがちらちら現れると、私は、おう、と大声あげて両手をった。

24

上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあったので、お土産みやげも下の姉のそれにくらべていつも貧しげだった。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顔を赤くして言いつつ線香花火を五束六束いつたばむたばバスケットから出して私に与えたが、私はそのとき胸をしめつけられる思いがした。此の姉もまたきりょうがわるいとうちの人たちからいわれいわれしていたのである。

25

この姉は女学校へはいるまでは、そう祖母とふたりで離座敷はなれざしきに寝起していたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思っていたほどであった。曾祖母は私が小学校を卒業するころなくなったが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺のうかんの際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の目にこびりついたらどうしようと心配した。

26

私は程なく小学校を卒業したが、からだが弱いからと言うので、うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ通わせることにした。からだが丈夫になったら中学へいれてやる、それも兄たちのように東京の学校では健康に悪いから、もっと田舎いなかの中学へいれてやる、と父が言っていた。私は中学校へなどそれほど入りたくなかったのだけれどそれでも、からだが弱くて残念に思う、と綴方つづりかたへ書いて先生たちの同情を強いたりしていた。

27

この時分には、私の村にも町制がかれていたが、その高等小学校は私の町と付近の五六カ村と共同で出資して作られたものであって、まちから半里もはなれた松林の中に在った。私は病気のためにしじゅう学校をやすんでいたのだけれどその小学校の代表者だったので、他村からの優等生がたくさん集る高等小学校でも一番になるよう努めなければいけなかったのである。しかし私はそこでも相変らず勉強をしなかった。いまに中学生に成るのだ、という私の自矜じきょうが、その高等小学校をきたな不愉快ふゆかいに感じさせていたのだ。私は授業中おもに連続の漫画まんがをかいた。休憩きゅうけい時間になると、声色こわいろをつかってそれを生徒たちへ説明してやった。そんな漫画をかいた手帖てちょうが四五冊もたまった。机に頬杖ほおづえついて教室の外の景色けしきをぼんやりながめて一時間を過すこともあった。私は硝子窓がらすまどの傍に座席をもっていたが、その窓の硝子板にははえがいっぴきしつぶされてながいことねばりついたままでいて、それが私の視野の片隅かたすみにぼんやりと大きくはいって来ると、私にはきじ山鳩やまばとかのように思われ、いくたびとなく驚かされたものであった。私を愛している五六人の生徒たちと一緒に授業をげて、松林の裏にある沼の岸辺に寝ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくってそこにうっすり生えそめた毛をくらべ合ったりして遊んだのである。

28

その学校は男と女の共学であったが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかった。私は欲情がはげしいから、懸命けんめいにそれをおさえ、女にもたいへん臆病おくびょうになっていた。私はそれまで、二人三人の女の子から思われたが、いつでも知らないりをして来たのだった。帝展の入選画帳を父の本棚ほんだなから持ち出しては、その中にひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり、私の飼っていたひとつがいのうさぎにしばしば交尾こうびさせ、そのおす兎の背中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらえていた。私は見えぼうであったから、あの、あんまをさえ誰にも打ちあけなかった。その害を本で読んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目だめであった。そのうちに私はそんな遠い学校へ毎日あるいてかよったおかげで、からだも太って来た。額の辺にあわつぶのような小さい吹出物ふきでものがでてきた。之もはずかしく思った。私はそれへ宝丹膏ほうたんこうという薬を真赤にった。長兄はそのとし結婚して、祝言しゅうげんの晩に私と弟とはその新しいあによめの部屋へしのんで行ったが、嫂は部屋の入口を背にして座って髪をわせていた。私は鏡に映った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり、弟をひきずって逃げ帰った。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言った。薬で赤い私の額のためによけい気もひけて、なおのことこんな反発をしたのであった。

29

冬ちかくなって、私も中学校への受験勉強を始めなければいけなくなった。私は雑誌の広告を見て、東京へ色々の参考書を注文した。けれども、それを本箱にならべただけで、ちっとも読まなかった。私の受験することになっていた中学校は、県でだいいちのまちに在って、志願者も二三倍は必ずあったのである。私はときどき落第の懸念けねんおそわれた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第きゅうだいの確信がついて来るのだ。勉強するとなると、夜十二時ちかくまでとこにつかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみという女中を傍に置いて、火をおこさせたり茶をわかさせたりした。たみは、どんなにおそくまでよいっぱりしてもあくる朝は、四時になると必ず私を起しに来た。私が算術のねずみが子を産む応用問題などに困らされている傍で、たみはおとなしく小説本を読んでいた。あとになって、たみの代りに年とった肥えた女中が私へつくようになったが、それが母のさしがねである事を知った私は、母のその底意を考えて顔をしかめた。

30

その翌春、雪のまだ深く積っていたころ、私の父は東京の病院で血をいて死んだ。ちかくの新聞社は父のを号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸しがいは大きい寝棺ねかんに横たわりそりに乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村となりむら近くまでむかえに行った。やがて森のかげから幾台いくだいとなく続いた橇のほろが月光を受けつつすべって出て来たのをながめて私は美しいと思った。

31

つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。ひつぎふたが取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父はねむっているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。

32

私の家はそのひとつきもの間、火事のようなさわぎであった。私はその混雑にまぎれて、受験勉強を全くおこたったのである。高等小学校の学年試験にも殆ど出鱈目でたらめな答案を作って出した。私の成績は全体の三番かそれくらいであったが、これは明らかに受持訓導の私のうちに対する遠慮えんりょからであった。私はそのころすで記憶力きおくりょくの減退を感じていて、したしらべでもして行かないと試験には何も書けなかったのである。私にとってそんな経験は始めてであった。

二章

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いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格をした。私は、新しいはかまと黒い沓下くつしたとあみあげのくつをはき、いままでの毛布をよして羅紗ラシャのマントを洒落者しゃれものらしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚しんせきにあたるそのまちの呉服ごふく店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。

34

私は何ごとにも有頂天うちょうてんになりやすい性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽せいぼうかぶり、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子ガラスにでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈えしゃくをしたものである。

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それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちのはずれにあって、しろいペンキでられ、すぐ裏は海峡かいきょうに面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下ろうかも広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害はくがいしたのである。

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私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由からばっせられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫迦ばかげたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。

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私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山のかげに呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなになぐられてばかりいると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕然がくぜんとした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底くつぞこを波になめられつつ溜息ためいきついて歩いた。洋服のそでで額のあせいていたら、ねずみ色のびっくりするほど大きいがすぐ目の前をよろよろととおって行った。

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私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細ささいなさげすみを受けても死なんかなもだえた。私は、自分を今にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄えいゆうとしての名誉めいよをまもって、たとい大人のあなどりにでも容赦ようしゃできなかったのであるから、この落第という不名誉も、それだけ致命ちめい的であったのである。その後の私は兢兢きょうきょうとして授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには目に見えぬ百人の敵がいるのだと考えて、少しも油断をしなかった。朝、学校へ出掛でかけしなには、私の机の上ヘトランプを並べて、その日いちにちの運命を占った。ハアトは大吉であった。ダイヤは半吉、クラブは半きょう、スペエドは大凶であった。そしてそのころは、来る日も来る日もスペエドばかり出たのである。

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それから間もなく試験が来たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記してしまうように努めた。これは私のいちかばちかの潔癖けっぺきから来ているのであろうが、この勉強法は私の為によくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈きゅうくつでならなかったし、試験の際も、融通ゆうずうがきかなくて、殆ど完璧かんぺきに近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまずいて、思索しさくが乱れ、ただ意味もなしに答案用紙をよごしている場合もあったのである。

40

しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であった。操行もこうであった。落第の懸念けねんに苦しまされていた私は、その通告簿を片手ににぎって、もう一方の手でくつり下げたまま、裏の海岸まではだしで走った。うれしかったのである。

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一学期をおえて、はじめての帰郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけかがやかしく説明したく思って、私がその三四カ月間身につけたすべてのもの、座蒲団ざぶとんのはてまで行李こうりにつめた。

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馬車にゆられながら隣村となりむらの森をけると、幾里いくり四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根がそびえていた。私はそれをながめて十年も見ない気がした。

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私はその休暇きゅうかのひとつきほど得意な気持でいたことがない。私は弟たちへ中学校のことを誇張こちょうして夢のように物語った。その小都会の有様をも、つとめて幻妖げんように物語ったのである。

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私は風景をスケッチしたり昆虫こんちゅうの採集をしたりして、野原や谷川をはしり回った。水彩画を五枚えがくのとめずらしい昆虫の標本を十種あつめるのとが、教師に課された休暇中の宿題であった。私は捕虫網ほちゅうあみを肩にかついで、弟にはピンセットだの毒壼どくつぼだののはいった採集かばんを持たせ、もんしろちょうやばったを追いながら一日を夏の野原で過した。夜は庭園で焚火たきびをめらめらと燃やして、飛んで来るたくさんの虫を網やほうきで片っぱしからたたき落した。末の兄は美術学校の塑像そぞう科へ入っていたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土ねんどをいじくっていた。もう女学校をえていた私のすぐの姉の胸像を作っていたのである。私もまたその傍で、姉の顔を幾枚もスケッチして、兄とお互いの出来上り案配をけなし合った。姉は真面目まじめに私たちのモデルになっていたが、そんな場合おもに私の水彩画の方の肩を持った。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言って、私のあらゆる才能を莫迦ばかにしていた。私の文章をさえ、小学生の綴方つづりかた、と言ってあざけっていた。私もその当時は、兄の芸術的な力をあからさまに軽蔑けいべつしていたのである。

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ある晩、その兄が私の寝ているところへ来て、治、ちん動物だよ、と声を低くして言いながら、しゃがんで蚊帳かやの下から鼻紙に軽く包んだものをそっと入れて寄こした。兄は、私が珍らしい昆虫を集めているのを知っていたのだ。包の中では、かさかさと虫のもがく足音がしていた。私は、そのかすかな音に、肉親の情を知らされた。私が手暴てあらくその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるようにして言った。見ると普通のくわがたむしであった。私はその鞘翅類しょうしるいをも私の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した。

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休暇が終りになると私は悲しくなった。故郷をあとにし、その小都会へ来て、呉服ごふく商の二階で独りして行李こうりをあけた時には、私はもう少しで泣くところであった。私は、そんなさびしい場合には、本屋へ行くことにしていた。そのときも私は近くの本屋へ走った。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁ゆうしゅうは不思議に消えるのだ。その本屋のすみ書棚しょだなには、私のしくても買えない本が五六冊あって、私はときどき、その前へ何気なさそうに立ち止ってはひざをふるわせながらその本のページぬすみ見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりではなかったのである。その当時私にとって、どんな本でも休養と慰安いあんであったからである。

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学校の勉強はいよいよ面白くなかった。白地図に山脈や港湾こうわん河川かせんを水絵具で記入する宿題などは、なによりものろわしかった。私は物事にるほうであったから、この地図の彩色には三四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書き込めと言いつけたが、教師の講義は教科書を読むようなものであったから、自然とそのノオトヘも教科書の文章をそのまま書き写すよりほかなかったのである。私はそれでも成績にみれんがあったので、そんな宿題を毎日せい出してやったのである。秋になると、そのまちの中等学校どうしの色色なスポオツの試合が始った。田舎いなかから出て来た私は、野球の試合など見たことさえなかった。小説本で、満塁フルベエスとか、アタックショオトとか、中堅センタアとか、そんな用語を覚えていただけであって、やがての試合の観方をおぼえたけれど余り熱狂ねっきょうできなかった。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道じゅうどうでも、なにか他校と試合のあるたびに私も応援おうえん団の一人として、選手たちに声援を与えなければならなかったのであるが、そのことがなおさら中学生生活をいやなものにしてしまった。応援団長というのがあって、わざときたな恰好かっこうで日の丸の扇子せんすなどを持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼって演説をすれば、生徒たちはその団長の姿を、むさい、むさい、と言って喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあいまあいまに団長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アップとさけんだ。私たちは立ち上って、むらさきの小さい三角旗を一斉いっせいにゆらゆらりながら、よい敵よい敵けなげなれども、という応援歌をうたうのである。そのことは私にとってはずかしかった。私は、すきを見ては、その応援からげて家へ帰った。

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しかし、私にもスポオツの経験がない訳ではなかったのである。私の顔が蒼黒あおぐろくて、私はそれを例のあんまの故であると信じていたので、人から私の顔色を言われると、私のその秘密を指摘してきされたようにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思い、スポオツをはじめたのである。

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私はよほど前からこの血色を苦にしていたものであった。小学校四五年のころ、末の兄からデモクラシイという思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめっきり高くなって作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしているのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたえた。そして、夏は下男たちの庭の草刈くさかりに手つだいしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教えた。そうして、下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったのをやがて知った。私の刈った草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかったらしいのである。私は下男たちを助ける名のかげで、私の顔色をよくする事をも計っていたのであったが、それほど労働してさえ私の顔色はよくならなかったのである。

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中学校にはいるようになってから、私はスポオツにっていい顔色を得ようと思いたって、暑いじぶんには、学校の帰りしなに必ず海へはいって泳いだ。私は胸泳といって雨蛙あまがえるのように両脚りょうあしをひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から真直に出して泳ぐのだから、波の起伏きふくのこまかい縞目しまめも、岸の青葉も、流れる雲も、みんな泳ぎながらにながめられるのだ。私はかめのように頭をすっとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顔を太陽に近寄せて、早く日焼がしたいからであった。

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また、私のいたうちの裏がひろい墓地だったので、私はそこへ百メ―トルの直線コオスを作り、ひとりでまじめに走った。その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれていて、はしりつかれると私はそこの卒塔婆そとばの文字などを読み読みしながらぶらついた。月穿潭底げっせんたんていとか、三界唯一ゆいいつ心とかの句をいまでも忘れずにいる。ある日私は、銭苔ぜにごけのいっぱいえている黒くしめった墓石に、寂性清寥居士じゃくしょうせいりょうこじという名前を見つけてかなり心をさわがせ、その墓のまえに新しくかざられてあった紙の蓮華れんげの白い葉に、おれはいま土のしたで蛆虫うじむしとあそんでいる、と或る仏蘭西フランスの詩人から暗示された言葉を、どろふくませた私の人指ゆびでもって、さも幽霊ゆうれいが記したかのようにほそぼそとなすり書いて置いた。そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、先ずきのうの墓標へお参りしたら、朝の驟雨しゅうう亡魂ぼうこんの文字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗いさらわれて、蓮華の白い葉もところどころ破れていた。

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私はそんな事をして遊んでいたのであったが、走る事も大変うまくなったのである。両脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて来た。けれども顔色は、やっぱりよくならなかったのだ。黒い表皮の底には、にごったあおい色が気持悪くよどんでいた。

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私は顔に興味を持っていたのである。読書にあきると手鏡をとり出し、微笑ほほえんだりまゆをひそめたり頬杖ほおづえついて思案にくれたりして、その表情をあかず眺めた。私は必ずひとを笑わせることの出来る表情を会得えとくした。目を細くして鼻をしわめ、口を小さくとがらすと、児熊こぐまのようで可愛かったのである。私は不満なときや当惑とうわくしたときにその顔をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの県立病院の内科へ入院していたが、私は姉を見舞いに行ってその顔をして見せると、姉は腹をおさえて寝台の上をころげ回った。姉はうちから連れて来た中年の女中とふたりきりで病院に暮していたものだから、ずいぶんさびしがって、病院の長い廊下ろうかをのしのし歩いて来る私の足音を聞くと、もうはしゃいでいた。私の足音は並はずれて高いのだ。私がし一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使って私をむかいによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがって容態がよくない、とその女中が真顔で言っていた。

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そのころはもう私も十五六になっていたし、手のこうには静脈の青い血管がうっすりといて見えて、からだも異様におもおもしく感じられていた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った。学校からの帰りにはきっと二人してならんで歩いた。お互いの小指がすれあってさえも、私たちは顔を赤くした。いつぞや、二人で学校の裏道の方を歩いて帰ったら、せりやはこべの青々と伸びている田溝たみぞの中にいもりがいっぴきいているのをその生徒が見つけ、だまってそれをすくって私に呉れた。私は、いもりはきらいであったけれど、うれしそうにはしゃぎながらそれを手巾ハンケチへくるんだ。うちへ持って帰って、中庭の小さな池に放した。いもりは短い首をふりふり泳ぎ回っていたが、次の朝みたらげてしまっていなかった。

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私はたかい自矜じきょうの心を持っていたから、私の思いを相手に打ち明けるなど考えもつかぬことであった。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかったし、また同じころとなりの家のせた女学生をも私は意識していたのだが、此の女学生とは道でっても、ほとんどその人を莫迦ばかにしているようにぐっと顔をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があって、私も起きて外へ出て見たら、つい近くのやしろかげあたりが火の粉をちらして燃えていた。社の杉林がその炎を囲うようにまっくろく立って、そのうえを小鳥がたくさん落葉のようにくるい飛んでいた。私は、隣のうちの門口から白い寝巻の女の子が私の方を見ているのを、ちゃんと知っていながら、横顔だけをそっちにむけてじっと火事をながめた。炎の赤い光を浴びた私の横顔は、きっときらきら美しく見えるだろうと思っていたのである。こんな案配であったから、私はまえの生徒とでも、また此の女学生とでも、もっと進んだ交渉こうしょうを持つことができなかった。けれどもひとりでいるときには、私はもっと大胆だいたんだったはずである。鏡の私の顔へ、片目をつぶって笑いかけたり、机の上に小刀でうすくちびるをほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクをってみたが、みょうにどすぐろくなっていやな感じがして来たから、私は小刀ですっかりけずりとってしまった。

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私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらにしゅで染めた橋のまるい欄干らんかんへもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川すみだがわに似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑とうわくしててのひらながめた、彼は耳の裏をきながらつぶやいた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私はさびしさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかたわたりながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ためいきついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてにいて満足し切れなかったから、いつも空虚くうきょなあがきをしていた。私には十重二十重とえはたえの仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極みきわめをつけることができなかったのである。そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じように此のわけのわからぬおののきを見つめているように思われたのである。作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中学校へはいって、私とひとつ部屋に寝起していたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雑誌をつくった。私の居るうちの筋向いに大きい印刷所があったから、そこへたのんだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雑誌を配ってやった。私はそれへ毎月ひとつずつ創作を発表したのである。はじめは道徳に就いての哲学てつがく者めいた小説を書いた。一行か二行の断片的な随筆ずいひつをも得意としていた。この雑誌はそれから一年ほど続けたが、私はそのことで長兄と気まずいことを起してしまった。

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長兄は私の文学に熱狂ねっきょうしているらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化学には方程式あり幾何きかには定理があって、それを解する完全なかぎが与えられているが、文学にはそれがないのです、ゆるされた年齢ねんれい環境かんきょうに達しなければ文学を正当につかむことが不可能と存じます、と物堅ものがたい調子で書いてあった。私もそうだと思った。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言うことは本当だと思う、立派な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文学のために勉強をおこたることがない、その故にこそいっそう勉強しているほどである、と誇張こちょうした感情をさえところどころにまぜて長兄へ告げてやったのである。

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なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫きょうはくめいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になってからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席になることは困難であったが、私はそのようなあざけりを受けなかったばかりか、級友を手ならす術まで心得ていた。たこというあだなの柔道じゅうどうの主将さえ私には従順であった。教室のすみ紙屑入かみくずいれの大きなつぼがあって、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼへはいらないかと言えば、たこはそのつぼへ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壺にひびいて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔の吹出物ふきでものへ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏ばんそうこうをてんてんとり散らしても誰も可笑おかしがらなかった程なのである。

59

私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数もえて、毎朝、眼をさますたびにてのひらで顔をでまわしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と他人からたのまれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴しょうちょうと考えて眼の先が暗くなるほどはずかしかった。いっそ死んでやったらと思うことさえあった。私の顔にいてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへはよめに来るひとがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。

60

弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願っていたほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不気嫌ふきげんになった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちに三角になって女みたいなのをいまいましがっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はそのころ、人と対するときには、みんなかくしてしまうか、みんなさらけ出して了うか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。

61

秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋さんばしへ出て、海峡かいきょうわたってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長くびて一方のはしがきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである、ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往来でっても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳かたむけつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄げたをはいて、団扇うちわをもって、月見草をながめている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口をつぐんだ。海峡かいきょうわたって来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線からうかんで出た。

62

これだけは弟にもかくしていた。私がそのとしの夏休みに故郷へ帰ったら、浴衣ゆかたに赤い帯をしめたあたらしい小柄こがらな小間使が、乱暴な動作で私の洋服をがせて呉れたのだ。みよと言った。

63

私は寝しなに煙草たばこを一本こっそりふかして、小説の書き出しなどを考える癖があったが、みよはいつの間にかそれを知ってしまって、ある晩私のとこをのべてから枕元まくらもとへ、きちんと煙草ぼんを置いたのである。私はその次の朝、部屋を掃除そうじしに来たみよへ、煙草はかくれてのんでいるのだから煙草盆なんか置いてはいけない、と言いつけた。みよは、はあ、と言ってふくれたようにしていた。同じ休暇きゅうか中のことだったが、まちに浪花節なにわぶしの興行物が来たとき、私のうちでは、使っている人たち全部を芝居しばい小屋へ聞きにやった。私と弟も行けと言われたが、私たちは田舎いなかの興行物を莫迦ばかにして、わざとほたるをとりに田圃たんぼへ出かけたのである。隣村となりむらの森ちかくまで行ったが、あんまり夜露よつゆがひどかったので、二十そこそこを、かごにためただけでうちへ帰った。浪花節へ行っていた人たちもそろそろ帰って来た。みよに床をひかせ、蚊帳かやをつらせてから、私たちは電灯でんとうを消してその蛍を蚊帳のなかへ放した。蛍は蚊帳のあちこちをすっすっと飛んだ。みよもしばらく蚊帳のそとにたたずんで蛍を見ていた。私は弟と並んで寝ころびながら、蛍の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけいに感じていた。浪花節は面白かったろうか、と私はすこしかたくなって聞いた。私はそれまで、女中には用事以外の口を決してきかなかったのである。みよは静かな口調で、いいえ、と言った。私はふきだした。弟は、蚊帳のすそに吸いついている一匹の蛍を団扇でばさばさ追いたてながらだまっていた。私はなにやら工合がわるかった。

64

そのころから私はみよを意識しだした。赤い糸と言えば、みよのすがたが胸に浮んだ。

三章

65

四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒ぶどうしゅするめをふるまった。そうして彼等に多くの出鱈目でたらめを教えたのである。すみのおこしかたにいて一冊の書物が出ているとか、「けだものの機械」という或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油をって置いて、こうして発売されているのだが、めずらしい装幀そうていでないかとか、「美貌びぼうの友」という翻訳ほんやく本のところどころカットされて、そのブランクになっている箇所かしょへ、私のこしらえたひどい文章を、知っている印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって、これは奇書だとか、そんなことを言って友人たちを驚かせたものであった。

66

みよの思い出も次第しだいにうすれていたし、そのうえに私は、ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりすることを変にうしろめたく感じていたし、ふだんから女の悪口ばかり言って来ている手前もあったし、みよにいてたとえほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われるときさえあったほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである。

67

ところが、そのあたり私は、ある露西亜ロシヤの作家の名だかい長編小説を読んで、また考え直してしまった。それは、ひとりの女囚人しゅうじんの経歴から書き出されていたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人のおいにあたる貴族の大学生に誘惑ゆうわくされたことからはじまっていた。私はその小説のもっと大きなあじわいを忘れて、そのふたりがき乱れたライラックの花の下で最初の接吻せっぷんを交したペエジに私の枯葉かれは枝折しおりをはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができなかったのである。私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気分がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつかましかったら、いよいよ此の貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病おくびょうさがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦へいたんにしてしまったのだと考えた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。

68

私は此のことをまず弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛げんしゅくな態度で話すつもりであったが、そう意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔じゃまをして来て、結局うわついた。私は、頸筋くびすじをさすったり両手をもみ合せたりして、気品のない話かたをした。そうしなければかなわぬ私の習性を私は悲しく思った。弟は、うすい下唇したくちびるをちろちろめながら、寝がえりもせず聞いていたが、けっこんするのか、と言いにくそうにしてたずねた。私はなぜだかぎょっとした。できるかどうか、とわざとしおれて答えた。弟は、おそらくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたけったのである。蒲団ふとんから半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声をひそめて強く言い張った。弟は更紗染さらさぞめの蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしているらしかったが、私の方をぬすむようにして見て、そっと微笑ほほえんだ。私も笑い出した。そして、門出かどでだから、と言いつつ弟の方へ手を差し出した。弟もはずかしそうに蒲団ふとんから右手を出した。私は低く声を立てて笑いながら、二三度弟の力ない指をゆすぶった。

69

しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかった。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしているような恰好かっこうをして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果をえようためのものでしかないのを、私は知っていた。じじつその通りだったのである。

70

四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰った。うわべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであったが、みよを見せたい心も私にあって、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないようにいのった。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだったから、私の友のように金釦きんボタンのふたつしかない上着などを着てはいなかったのである。

71

裏の空屋敷あきやしきには、そのじぶん大きな鶏舎けいしゃが建てられていて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかば二坪ふたつぼほどの板の間で、まだ新しいワニスぬりの卓子や椅子いすがきちんとならべられていた。ひろいとびらが東側と北側に二つもついていたし、南側にも洋ふうの開窓ひらきまどがあって、それを皆いっぱいに明け放すと風がどんどんはいって来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるのだ。まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて、黄いろいひなが何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでいた。

72

私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であったのである。みよでない女中が来れば、私たちは卓をぱたぱたたたいたり舌打したりして大騒おおさわぎをした。みよが来ると、みんなしんとなった。そして、みよが立ち去るといっせいにき出したものであった。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが、ひるになって、きょうは誰が来るだろう、といつものように皆で語り合った。弟だけは話からはずれて、窓ぎわをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記していた。私たちは色んな冗談じょうだんを言って、書物を投げつけ合ったり足踏あしぶみして床を鳴らしていたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎてしまった。私は弟をも仲間にいれたく思って、お前はさっきからだまっているが、さては、とくちびるを軽くかんで弟をにらんでやったのである。すると弟は、いや、と短くさけんで右手を大きくった。持っていた単語のカアドが二三枚ぱっと飛び散った。私はびっくりして視線をかえた。そのとっさの間に私は気まずい断定を下した。みよの事はきょう限りよそうと思った。それからすぐ、なにごともなかったように笑いくずれた。

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その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑のあいだのせまい道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚いくまいも幾枚もむしりとった。

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犠牲ぎせいなどということは始めから考えてなかった。ただいやだったのだ。ライラックの白い茂みがどろを浴びせられた。ことにその悪戯者いたずらものが肉親であるのがいっそういやであった。

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それからの二三日は、さまざまに思いなやんだ。みよだって庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手あくしゅにほとんど当惑とうわくした。要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほどひどい恥辱ちじょくはなかったのである。

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おなじころ、よくないことが続いて起った。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向っていたが、その傍でみよが、あかさるの面の絵団扇うちわでぱさぱさと私たちをあおぎながら給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあおいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた。

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みんなして私をいじめるのだ、と思いんだ。友人たちだってまえから知っていたにちがいない、と無闇むやみに人を疑った。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。

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また二三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草たばこがまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元まくらもとへ置き忘れたままで番小屋へ出掛でかけ、あとで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗きれいに片づけられ箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたろう、としかるようにして聞いた。みよは真面目まじめな顔をして首をった。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつっこんだ。金色の二つの蝙蝠こうもりが飛んでいる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。

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私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがって、みよのわけで友人たちとさわぐことをもけたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮えんりょをした。自分から進んでみよを誘惑ゆうわくすることもひかえた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与えることができたのだ。私は屡々しばしばみよを部屋へ呼んでらない用事を言いつけた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好かっこうをして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばった。そのころになって私の顔の吹出物ふきでものもどうやら直っていたが、それでも惰性だせいで、私はなにかと顔をこしらえていた。私はそのふたのおもてにつたのような長くくねった蔓草つるくさがいっぱいり込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって私のきめを時折うめていたのだけれど、それをなおすこし心をいれてしたのである。

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これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこからけ出て、みよを見に母屋へ帰った。殆どあらっぽい程ばたんばたんとはき掃除そうじしているみよの姿を、そっとながめてはくちびるをかんだ。

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そのうちにとうとう夏やすみも終りになって、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめて此のつぎの休暇きゅうかまで私を忘れさせないで置くような何か鳥渡ちょっとした思い出だけでも、みよの心に植えつけたいと念じたが、それも駄目だめであった。

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出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗りんだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方も、見なかった。はずした萌黄もえぎのたすきを珠数じゅずのように両手でつまぐりながら下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。私はおおきい心残りを感じて故郷をはなれたのである。

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秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛でかけた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治とうじしていたのだ。私はずっとそこへ寝泊ねとまりして、受験勉強をつづけた。私は秀才しゅうさいというぬきさしならぬ名誉めいよのために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはそのころになって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途いちずに勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった、日曜ごとに友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋にくなべをこさえ、葡萄酒ぶどうしゅをのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上でねむって、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだったはずのその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢からめないでいるような気がするのである。

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私はこの友人たちと一日でもわなかったらさびしいのだ。そのころの事であるが、或る野分のわきのあらい日に、私は学校で教師につよく両頬りょうほほをなぐられた。それが偶然ぐうぜんにも私の仁侠的にんきょうてき行為こういからそんな処罰しょばつを受けたのだから、私の友人たちはおこった。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集って、その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽ろうばいした。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よして呉れ、私はあの教師をにくんでいない、事件は簡単なのだ、簡単なのだ、と生徒たちにたのみまわった。友人たちは私を卑怯ひきょうだとか勝手だとか言った。私は息苦しくなって、その教室から出てしまった。温泉場の家へ帰って、私はすぐ湯にはいった。野分のわきにたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉ばしょうの葉が、その庭のすみから湯槽ゆぶねのなかへ青いかげを落していた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた気もせず思いに沈んだ。

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はずかしい思い出におそわれるときにはそれをりはらうために、ひとりして、さて、とつぶやくせが私にあった。簡単なのだ、簡単なのだ、とささやいて、あちこちをうろうろしていた自身の姿を想像して私は、湯をてのひらすくってはこぼし掬ってはこぼししながら、さて、さて、と何回も言った。

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あくる日、その教師が私たちにあやまって、結局ストライキは起らなかったし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思い出された。ついには、みよとわねば自分がこのまま堕落だらくしてしまいそうにも、考えられたのである。

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ちょうど母も姉も湯治からかえることになって、その出立しゅったつの日が、あたかも土曜日であったから、私は母たちを送って行くという名目で、故郷へもどることが出来た。友人たちには秘密にしてこっそり出掛でかけたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言わずに置いた。言わなくても判っているのだと思っていた。

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みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になっている呉服ごふく商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向った。列車がプラットフオムをはなれるとき、見送りに来ていた弟が、列車の窓から青い富士額をのぞかせて、がんばれ、とひとこと言った。私はそれをうっかり素直に受けいれて、よしよし、と気嫌きげんよくうなずいた。

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馬車が隣村となりむらを過ぎて、次第しだいにうちへ近づいて来ると、私はまったく落ちつかなかった。日が暮れて、空も山もまっくらだった。稲田いなだが秋風にかれてさらさらと動く声に、耳かたむけては胸をとどろかせた。絶えまなく窓のそとのやみに眼をくばって、道ばたのすすきのむれが白くぽっかり鼻先にうかぶと、のけぞるくらいびっくりした。

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玄関のほの暗い軒灯けんとうの下でうちの人たちがうようよ出迎でむかえていた。馬車がとまったとき、みよもばたばた走って玄関から出て来た。寒そうにかたを丸くすぼめていた。

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その夜、二階の一間に寝てから、私は非常にさびしいことを考えた。凡俗ぼんぞくという観念に苦しめられたのである。みよのことが起ってからは、私もとうとう莫迦ばかになって了ったのではないか。女を思うなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがう、ひとくちには言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。しかし、と私は自身のたばこのけむりにむせびながら強情ごうじょうを張った。私の場合には思想がある!

92

私はその夜、みよと結婚するにいて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為こうい凡俗ぼんぞくでない、やはり私はこの世のかなりな単位にちがいないのだ、と確信した。それでもひどくさびしかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。

93

朝、眼をさますと、秋空がたかくんでいた。私は早くから起きて、むかいの畑へ葡萄ぶどうを取りに出かけた。みよに大きい竹籠たけかごを持たせてついて来させた。私はできるだけ気軽なふうでみよにそう言いつけたのだから、誰にもあやしまれなかったのである。葡萄だなは畑の東南のすみにあって、十坪ぐらいの大きさにひろがっていた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと囲った。私たちは片すみの小さい潜戸くぐりどをあけて、かこいの中へはいった。なかは、ほっかりと暖かった。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずをすかして明るくさしていて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ来る途中とちゅうには、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑ほほえんだりしたのであったが、こうしてたった二人きりになって見ると、あまりの気づまりから殆ど不気嫌ふきげんになってしまった。私はその板の潜戸をさえわざとあけたままにしていたものだ。

94

私は背が高かったから、踏台ふみだいなしに、ぱちんぱちんと植木鋏うえきばさみで葡萄のふさをんだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡てわたした。みよはその一房ひとふさ一房の朝露あさつゆを白いエプロンで手早くきとって、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかった。永い時間のように思われた。そのうちに私はだんだんおこりっぽくなった。葡萄がやっと籠いっぱいになろうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差しべて寄こした片手を、ぴくっとひっこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打した。

95

みよは、右手の付根を左手できゅっとにぎっていきんでいた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。ばか、と私はしかって了った。みよはだまって、笑っていた。これ以上私はそこにいたたまらなかった。くすりつけてやる、と言ってそのかこいから飛び出した。すぐ母屋へつれて帰って、私はアンモニアのびんを帳場の薬棚からさがしてやった。そのむらさき硝子ガラス瓶を、出来るだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、自分でってやろうとはしなかった。

96

その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通い出した灰色のほろのかかってあるそまつな乗合自動車にゆすぶられながら、故郷を去った。うちの人たちは馬車で行け、と言ったのだが、定紋じょうもんのついて黒くてかてか光ったうちの箱馬車は、殿様とのさまくさくて私にはいやだったのである。私は、みよとふたりして摘みとった一籠の葡萄をひざの上にのせて、落葉のしきつめた田舎道いなかみちを意味ぶかくながめた。私は満足していた。あれだけの思い出でもみよに植えつけてやったのは私として精いっぱいのことである、と思った。みよはもう私のものにきまった、と安心した。

97

そのとしの冬やすみは、中学生としての最後の休暇きゅうかであったのである。帰郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分いくぶんの気まずさをおたがいに感じていた。

98

いよいよ共にふるさとの家へ帰って来て、私たちは先ず台所の石のばたに向いあってあぐらをかいて、それからきょろきょろとうちの中を見わたしたのである。みよがいないのだ。私たちは二度も三度も不安なひとみをぶっつけ合った。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄にさそわれて彼の部屋へ行き、三人して火燵こたつにはいりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまっくろに見えていた。話の何かいいついでがあったから、思い切って次兄にたずねた。女中がひとり足りなくなったようだが、と手に持っている五六枚のトランプで顔をおおうようにしつつ、余念なさそうな口調で言った。もし次兄が突っこんで来たら、さいわい弟も居合せていることだし、はっきり言ってしまおうと心をきめていた。

99

次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷いながら、みよか、みよは婆様と喧嘩けんかして里さもどった、あれは意地っぱりだぜえ、とつぶやいて、ひらっと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟もだまって一枚捨てた。

100

それから四五日して、私は鶏舎けいしゃの番小屋をおとずれ、そこの番人である小説の好きな青年から、もっとくわしい話を聞いた。みよは、ある下男にたったいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくなったのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そのときはすでに私のうちから出されていた。それにしても、青年はすこし言い過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとでささやいた、とその男の手柄てがら話までえて。

101

正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいたころ、私は弟とふたりで、文庫蔵ぶんこぐらへはいってさまざまな蔵書や軸物じくものを見てあそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋のかざりつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くのを、私は帰郷の度毎たびごとに、興深く眺めていた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹やまぶきが水に散っている絵であった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息をきかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母おばの家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに座って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇ばらき乱れた花園はなぞのであった。私たちは、おたがいの頭をよせつつ、なお鳥渡ちょっとの間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきをよそおうてその写真をながめることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪廓りんかくがぼっとしていた。叔母おばは両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。




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