居る竹筒の中から生蝋を取出して火に焙り、切りにそれを髮毛に塗りながら。
「忍藻いざ早來よ。蝋鎔けたぞや。和女も塗らずか」。
けれど一言の返辭も無い。
「忍藻よ、おしもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」莞爾わらッて口の裡、「昨夜は太う軍のことに胸なやませて居た體ぢやに、さても此處ぞまだ兒女ぢや。今はかほど迄に熟睡して、さばれ、いざ呼起さう」。
28
忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵にあッた薙刀も、床にあツた鎖帷子も、無論三郎が呉れた匕首も四邊には影も無い。
「すはや己がぬかッたよ。常より物に凝るならひ……如何も怪しい體であッたが、さても己は心注きながら心せなんだ愚さよ。慰言を聞かせたが猶も猶おもひわびて脱出でたよ。あゝら由々しや、由々しいことぢや。」
29
心の水は沸立ッた。それ朝餉の竈を跡に見て跡を追ひに出る庖廚の炊婢。サァ鋤を手に取ッたまゝ尋ねに飛出す畑の僕。家の中は大騷動。見る間に不動明王の前に燈明が點き、たちまち祈祷の聲が起る。をゝしく見たが流石は婦人,母は今更途方にくれた。「なまじひに心せぬ體でなぐさめたのが己の脱落よ。さてもあの儘鎌倉まで若しは追ふて出行いたか。いかに武藝をひとわたりは心得たとて……この血腥い世の中に……たゞの女の一人身で……たゞの少女の一人身で……夜をもいとはず一人身で……」。
30
思へば憎いやうで、可哀さうなやうで、また悲いやうで、くやしいやうで、今日はまた母が昨夜の忍藻になり、鳥の聲も忍藻の聲で誰の顏も忍藻の顏だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするやうだし、忍藻の手匣へ眼をとめれば忍藻が側に居るやうだ。「胸は騷ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王の御手にたよりて祈らうに……發矢、祈らうと心をば賺しても猶すかし甲斐もなく、心はいとゞ荒れに荒れて忍藻の事を思ひ出すよ」。心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出來ない。目をねむッて氣を落付け、一心に陀羅尼經を讀まうとしても(口の上にばかり聲は出るが)、腦の中には感じが無い。「有に非ず。無に非ず、動に非ず、靜に非ず、赤に非ず、白に非ず……」其句も忍藻の身に似て居る。
31
人の顏さへ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師でも無く、つまり何もわからぬとは知ッて居ながら猶それでも其人と膝を合はせて我子の身上を判斷したくなる。それでまた例の身贔負,内心の内心の内心に「多分は無難であらうぞ」と思ひながら變なもので、またそれを口には出さない。たゞ其處で先方の答が自身の考に似て居れば「實に左樣」とは信じぬながら不完全にもそれで僅に妄想をすかして居る。
32
世にいぢらしい物は幾許もあるが、愁歎の玉子ほどいぢらしい物は無い。既に愁歎と事がきまればいくらか愁歎に區域が出來るが、まだ正眞の愁歎が立起らぬ其前に、今にそれが起るだらうと想像するほど否に胸ぐるしいものはない。此樣な時には涙などもあながち出るとも決ッて居ず、時には自身の想像でわざと涙をもよほしながら(決して心でそれを好むのではないが)
なほ涙が出ることを愁歎の種として色々に心をくるしめることが有る。
33
だから母は不動明王と睨めくらで、經文が一句、妄想が一段,經文と妄想とがミドローシアンを爭ッて居る。處へ外からおとづれたのは居殘ッて居た(此母の言葉を借りていへば)懶惰者、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士が、たゞ一人從者をもつれず、此家に申すことあるとて來ておじやる。いかに呼入れ候ふか」。
「武士とや。打揃は」。
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男で……戰爭を經つらう疵を負ふて……」。
「聞くも忌まはしい。この最中に何とて人に逢ふ暇が……」。
34
一度は言放して見たが、思直せば夫や聟の身上も氣にかゝるのでふたゝび言葉を更めて、
「さばれ、否、呼入れよ。すこしく問はうこともあれば」。
35
畏まつて下男は起つて行くと、入代つて入つて來たのは三十前後の武士だ。
「御目にかゝるは今がはじめて。是は大内平太とて元は北畠の手の者ぢや。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしうした甲斐に、申殘されたことがあつて……」。
「申殘された」の一言が母の胸には釘であつた、
「おゝ如何に新田の君は愛でたう鎌倉に入りなされたか」。
「まだ、扨は傳聞きなさらぬか。堯寛にあざむかれなされて、あへなくも底の藻屑と……矢口で」。
「それ、さらば實でおじやるか。それ詐ではおじやらぬか」。
「何を……など詐僞でおじやらうぞ」。
36
よもやと思ひ固めたことが全く違ツてしまつたことゆゑ、今更母も仰天したが、流石にもはや新田の事よりは夫や聟の身上が心配の種になッて來た。
「さて其時に民部たちは」。
「そのこと、まこと其事におじやるは。己が是から鎌倉へ行かうぞと馳行いた途、武藏野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方は……」。
「さて秩父たち二人は」。
「はしなくも……」。
「もどかはしや。いざ、いざ、いざ」。
「はしなくも敵に探られて 、左樣ぢや、其儘斫斃されて……」。
「こはそゞろ、……斫斃されて……發矢そのまゝ斫斃されて……」。
「その驚は道理でおじやる。己も最初は左樣とも知らず『何やらん草中に呻いて居る者のあるは熊に噛まれた鹿ぢやらうか』と行いて見たら、おどろいたわ、それが那の二方でおじやッたわ」。
37
母ははや其跡を聞いて居られなくなッた。今まではしばらく堪へて居たが、もはや包むに包切れずたちまち其處へ泣き臥して、平太がいふ物語を聞入れる體も無い。如何にも昨夜忍藻に教訓して居た處などは天晴豪氣なやうに見えたが、是とて其身は木でも無ければ石でも無い。今朝忍藻が居なくなッた心配の矢先へこの凶音が傳はッたのには流石心を亂されてしまッた。今は其口から愚癡ばかりが出立する。
「ちえィ主を ……主たちを……あゝ忍藻が心苦しめたも、虫…虫が知らせたか。大聖我怒王も、ちえィ日頃の信心を……おのれ……こはこは平太の刀禰、など其時に馳付いて助…助太刀してはたもらんだぞ」。
38
怨がましく言ひながら、猶直に其言葉の下から、いぢらしい、手でさしまねいで涙を啜り、
「聞きなされ。あゝ何の不運ぞや。夫や聟は死果てたに……こや平太の刀禰、聞きなされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜……察しなされよ、平太の刀禰」。
「昨夜、そも如何に爲された」。
39
母は十分に口が利けなくなッたので仕方なく手眞似で仔細を告知らせた。告知らせると平太の顏はたちまちに色が變ッた。
「さらばあの鎖帷子の……」。
云掛たがはッと思ッて言葉を止めた。けれど這方は聞咎めた。
「和主はそも如何にして忍藻の鎖帷子を……」。
「鎖帷子とは何でおじやる」。
「何でおじやるとは平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮ぢや。今も其口から仰せられた」。
平太も今は包兼ね、
「あゝ術無い。いたはしいけれど、さらば仔細を申さうぞ 。歎に枝を添ふるがいたはしさに包まうとは力めたれど……何を匿さう、姫御前は鎖帷子を着なされたまゝ、手に薙刀を持ちなされたまゝ……母御前かならず強く歎きなされな……獸に追はれて殺されつらう 、脛の邊を噛切られて北の山間に斃れておじやッた」。
40
母は眼を見張ッたまゝであッた。平太はふたゝび言葉を繼いだ。「己が此處へ來る途ぢや、はからず今のを見留たのは。思へば不思議な縁でおじやるが、其時には姫御前とはつゆ知らず……いたはしい事には爲ッたぞや、僅少の間に三人まで」。
41
母はなほ眼を見張ッたまゝだ。唇は物言ひたげに動いて居たが、それから言葉は一ッも出ない。
折から門にはどやどやと人の音、
「忍藻御は熊に食はれてよ。」
――――――――――
序ながら此頃神田明神は芝崎村といッた村にあッて其村は今の駿河臺の東の降口の邊であッた。それゆゑ二人の武士が九段から眺めても直に其社の頭が見えた。もし此時其位置が只今の樣であッたなら決して見える譯は無い。
終
【このファイルについて】
標題:武藏野
著者:山田美妙
本文:「夏木立」
明治21年8月20日 出版
○漢字は可能な限り原文の字体を用いた。ただし、表記できないものについては「■」で示し、ルビをふっておいた。
○ふりがなは、原文通り総ルビとした。
○本文・ふりがなの仮名づかいは、底本通りとした。
○原文の段落冒頭一字下げは、一行下げに変更し、段落番号を追加した。
○繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」、漢字一字の場合は「々」を原文通りそのまゝ用いた。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記した。
○白ゴマ点は、通常の読点に変えた。
入力:里実福太朗
ファイル作成:里実工房
公開:2003年3月14日