仇
を 恩。仇を恩。
九歳十歳ばかりの女の子が眼に涙を溜めながら一人の老女に向ひ、
「叔母さんよウ、かへして御呉れよ、妾の雛児をさア。さア活かして返して御呉れよウ」。
「うるさいな、雛児はもう死んで居るわ」。
「さア何故、左様死なせたのだよ。よウ叔母さん。渠は妾が小使銭の残余を溜めて買ったのだからさア」。
「仕方が無いわ。悪いから殺されたのだ。垣根の下から潜っては家の畠へ来てにんじんをあらすから殺されたのだ。自業自得だ。様ア見ろ。しぶとい阿魔め」。
言捨てゝ老女は我家へ這入ツて仕舞ツたので女の子も仕方泣々家へ帰ツて来て姉の顔を見るより力限りの声をあげて泣出した。
「あら、花坊はどう為たの。また横町の峯ちやんにいぢめらてたのかえ」。
「うゝン、峯ちやんでは無アい」。
「そんなら留吉さんのところの犬にまた追蒐られたのだらう。なに左様でも無いと……好いよ、まア涙を拭いて御話しよ、静に。あの、ね、矢鱈に涙を流すものは宣い御新造とはなれないとさ」。
「本当かえ。あら笑ツて居るから……う…う…嘘だア」。
「嘘ではないよ、本当だよ。そして誰にどう為されたの」。
「あの……あの……御隣の叔母さんが……雛児を……こら、姉さん……叔母さんが」。
「おやおやまア可哀相にあんまりな」。
「ねエ、姉さん可哀相にあんかりな」。
「ほゝゝゝ、御前もをかしな子だよ、よく他の口真似をして。だが、御聞きよ、あの叔母さんは本当に歹るい人では無いのだよ。御前の鳥が歹かツたから殺されたのさ、叔母さんだとて腹も立つだらう畠をあらされては。花坊の姉様函を猫が掻回はしたら花坊はどう御為だ」。
「妾は猫を抱いて外へ連れて行くわ」。
「姉の眼には情の露が一滴。
「あゝ花坊、それでこそ好い花坊だ。だから雛児をころした叔母さんをも猫のやうにねエ」。
「抱くのかえ」。
「否さ、やさしく御為といふことさ」。
一二ケ月の後、老女は人参を抜いて洗ツて居ると此の罪の無い女の子は莞爾として其処へ来た。
「叔母さん、手伝ツて上げましょうねエ。妾は姉さんに吩附つけられたのでは、無いよ、え、叔母さん、誰にも吩附けられたのではないの」。
あどけなさ、あゝ姉の教育のほども思遣られて愛らしい。
其日は年の終りで、翌る日は新年だ。朝起きて門口を開けて見ると美しい籠の中に奇麗な雛児が入れて、其処にあるので……吃驚した。
「姉さん、御覧よ、この雛児を」。
姉は来て見て、思はず又も情の水を
「あゝ叔母さんが呉れたのか」。
■このファイルについて
標題:仇を恩
著者:山田美妙
本文:「夏木立」 明治21年8月20日 (復刻版)
表記:原文を尊重するが、コンピュータで扱える文字に限りがあること、また読みやすさを考慮して、以下の方針を採用しました。
○漢字は現行の字体にかえました。
○いわゆる「変体仮名」は、現行の仮名にかえました。
○本文の仮名づかいは、原文通りとしました。
○原文で使われている繰り返し記号は、ひらがな一字の場合は「ゝ」、漢字一字の場合は「々」をそのまま用いました。ただし二字以上の場合は、反復記号は用いず同語反復で表記しました。
○ルビ付きHTMLファイルに変換。
○行間処理(行間180%)。
○段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)。
入力:今井安貴夫
ファイル作成:里実工房
公開:2003年10月10日