有島武郎
一
1
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。と同時にどれほど苦しい事だったろう。私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火を燻らそうとする塵芥の堆積はまたひどいものだった。かきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。
2
寒い。原稿紙の手ざわりは氷のようだった。
3
陽はずんずん暮れて行くのだった。灰色からねずみ色に、ねずみ色から墨色にぼかされた大きな紙を目の前にかけて、上から下へと一気に視線を落として行く時に感ずるような速さで、昼の光は夜の闇に変わって行こうとしていた。午後になったと思うまもなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日がいち早く蝕まれるこの気味悪いさびしさは想像がつくまい。ニセコアンの丘陵の裂け目からまっしぐらにこの高原の畑地を目がけて吹きおろして来る風は、割合に粒の大きい軽やかな初冬の雪片をあおり立てあおり立て横ざまに舞い飛ばした。雪片は暮れ残った光の迷子のように、ちかちか[#「ちかちか」に傍点]した印象を見る人の目に与えながら、いたずら者らしくさんざん飛び回った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるや否や、寒い薄紫の死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪片だけがさらさらさらさら[#「さらさらさらさら」に傍点]とささやかに音を立てるばかりで、他のすべてのやつらは残らず唖だ。快活らしい白い唖の群れの舞踏――それは見る人を涙ぐませる。
4
私はさびしさのあまり筆をとめて窓の外をながめてみた。そして君の事を思った。
二
5
私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川という川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きなりんご園の中に建ててあった。
6
そこにある日の午後君は尋ねて来たのだった。君は少しふきげんそうな、口の重い、癇で背たけが伸び切らないといったような少年だった。きたない中学校の制服の立て襟のホックをうるさそう[#「うるさそう」に傍点]にはずしたままにしていた、それが妙な事にはことにはっきり[#「はっきり」に傍点]と私の記憶に残っている。
7
君は座につくとぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。君は自分自身を平気で虐げる人のように、ふろしき包みの中から乱暴に幾枚かの絵を引き抜いて私の前に置いた。そしてじっ[#「じっ」に傍点]と探るように私の顔を見つめた。明らさまに言うと、その時私は君をいやに高慢ちきな若者だと思った。そして君のほうには顔も向けないで、よんどころなくさし出された絵を取り上げて見た。
8
私は一目見て驚かずにはいられなかった。少しの修練も経てはいないし幼稚な技巧ではあったけれども、その中には不思議に力がこもっていてそれがすぐ私を襲ったからだ。私は画面から目を放してもう一度君を見直さないではいられなくなった。で、そうした。その時、君は不安らしいそのくせ意地っぱりな目つきをして、やはり私を見続けていた。
9
「どうでしょう。それなんかはくだらない出来だけれども」
10
そう君はいかにも自分の仕事を軽蔑するように言った。もう一度明らさまに言うが、私は一方で君の絵に喜ばしい驚きを感じながらも、いかにも思いあがったような君の物腰には一種の反感を覚えて、ちょっと皮肉でも言ってみたくなった。「くだらない出来がこれほどなら、会心の作というのはたいしたものでしょうね」とかなんとか。
11
しかし私は幸いにもとっさにそんな言葉で自分を穢すことをのがれたのだった。それは私の心が美しかったからではない。君の絵がなんといっても君自身に対する私の反感に打ち勝って私に迫っていたからだ。
12
君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、軽川あたりの泥炭地を写したと覚しい晩秋の風景画だった。荒涼と見渡す限りに連なった地平線の低い葦原を一面におおうた霙雲のすきまから午後の日がかすかに漏れて、それが、草の中からたった二本ひょろひょろ[#「ひょろひょろ」に傍点]と生い伸びた白樺の白い樹皮を力弱く照らしていた。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとり[#「べとり」に傍点]となすり付けてあったりしたが、それでもじっ[#「じっ」に傍点]と見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかり[#「しっかり」に傍点]とまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱――十六七の少年には哺めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
13
「たいへんいいじゃありませんか」
14
絵に対して素直になった私の心は、私にこう言わさないではおかなかった。
15
それを聞くと君は心持ち顔を赤くした――と私は思った。すぐ次の瞬間に来ると、君はしかし私を疑うような、自分を冷笑うような冷ややかな表情をして、しばらくの間私と絵とを等分に見くらべていたが、ふいと庭のほうへ顔をそむけてしまった。それは人をばかにした仕打ちとも思えば思われない事はなかった。二人は気まずく黙りこくってしまった。私は所在なさに黙ったまま絵をながめつづけていた。
16
「そいつはどこん所が悪いんです」
17
突然また君の無愛想な声がした。私は今までの妙にちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になった気分から、ちょっと自分の意見をずばずばと言い出す気にはなれないでいた。しかし改めて君の顔を見ると、言わさないじゃおかないぞといったような真剣さが現われていた。少しでもまに合わせを言おうものなら軽蔑してやるぞといったような鋭さが見えた。よし、それじゃ存分に言ってやろうと私もとうとうほんとうに腰をすえてかかるようにされていた。
18
その時私が口に任せてどんな生意気を言ったかは幸いな事に今はおおかた忘れてしまっている。しかしとにかく悪口としては技巧が非常にあぶなっかしい事、自然の見方が不親切な事、モティヴが耽情的過ぎる事などをならべたに違いない。君は黙ったまままじまじ[#「まじまじ」に傍点]と目を光らせながら、私の言う事を聞いていた。私が言いたい事だけをあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に言ってしまうと、君はしばらく黙りつづけていたが、やがて口のすみだけに始めて笑いらしいものを漏らした。それがまた普通の微笑とも皮肉な痙攣とも思いなされた。
19
それから二人はまた二十分ほど黙ったままで向かい合ってすわりつづけた。
20
「じゃまた持って来ますから見てください。今度はもっといいものをかいて来ます」
21
その沈黙のあとで、君が腰を浮かせながら言ったこれだけの言葉はまた僕を驚かせた。まるで別な、初な、素直な子供でもいったような無邪気な明るい声だったから。
22
不思議なものは人の心の働きだ。この声一つだった。この声一つが君と私とを堅く結びつけてしまったのだった。私は結局君をいろいろに邪推した事を悔いながらやさしく尋ねた。
23
「君は学校はどこです」
24
「東京です」
25
「東京? それじゃもう始まっているんじゃないか」
26
「ええ」
27
「なぜ帰らないんです」
28
「どうしても落第点しか取れない学科があるんでいやになったんです。‥‥それから少し都合もあって」
29
「君は絵をやる気なんですか」
30
「やれるでしょうか」
31
そう言った時、君はまた前と同様な強情らしい、人に迫るような顔つきになった。
32
私もそれに対してなんと答えようもなかった。専門家でもない私が、五六枚の絵を見ただけで、その少年の未来の運命全体をどうして大胆にも決定的に言い切る事ができよう。少年の思い入ったような態度を見るにつけ、私にはすべてが恐ろしかった。私は黙っていた。
33
「僕はそのうち郷里に――郷里は岩内です――帰ります。岩内のそばに硫黄を掘り出している所があるんです。その景色を僕は夢にまで見ます。その絵を作り上げて送りますから見てください。……絵が好きなんだけれども、下手だからだめです」
34
私の答えないのを見て、君は自分をたしなめるように堅いさびしい調子でこう言った。そして私の目の前に取り出した何枚かの作品をめちゃくちゃにふろしきに包みこんで帰って行ってしまった。
35
君を木戸の所まで送り出してから、私はひとりで手広いりんご畑の中を歩きまわった。りんごの枝は熟した果実でたわわになっていた。ある木などは葉がすっかり[#「すっかり」に傍点]散り尽くして、赤々とした果実だけが真裸で累々と日にさらされていた。それは快く空の晴れ渡った小春びよりの一日だった。私の庭下駄に踏まれた落ち葉はかわいた音をたてて微塵に押しひしゃがれた。豊満のさびしさというようなものが空気の中にしんみり[#「しんみり」に傍点]と漂っていた。ちょうどそのころは、私も生活のある一つの岐路に立って疑い迷っていた時だった。私は冬を目の前に控えた自然の前に幾度も知らず知らず棒立ちになって、君の事と自分の事とをまぜこぜ[#「まぜこぜ」に傍点]に考えた。
36
とにかく君は妙に力強い印象を私に残して、私から姿を消してしまったのだ。
37
その後君からは一度か二度問い合わせか何かの手紙が来たきりでぱったり[#「ぱったり」に傍点]消息が途絶えてしまった。岩内から来たという人などに邂うと、私はよくその港にこういう名前の青年はいないか、その人を知らないかなぞと尋ねてみたが、さらに手がかりは得られなかった。硫黄採掘場の風景画もとうとう私の手もとには届いて来なかった。
38
こうして二年三年と月日がたった。そしてどうかした拍子に君の事を思い出すと、私は人生の旅路のさびしさを味わった。一度とにかく顔を合わせて、ある程度まで心を触れ合ったどうしが、いったん別れたが最後、同じこの地球の上に呼吸しながら、未来永劫またと邂逅わない……それはなんという不思議な、さびしい、恐ろしい事だ。人とは言うまい、犬とでも、花とでも、塵とでもだ。孤独に親しみやすいくせにどこか殉情的で人なつっこい私の心は、どうかした拍子に、このやむを得ない人間の運命をしみじみと感じて深い悒鬱に襲われる。君も多くの人の中で私にそんな心持ちを起こさせる一人だった。
39
しかも浅はかな私ら人間は猿と同様に物忘れする。四年五年という歳月は君の記憶を私の心からきれいにぬぐい取ってしまおうとしていたのだ。君はだんだん私の意識の閾を踏み越えて、潜在意識の奥底に隠れてしまおうとしていたのだ。
40
この短からぬ時間は私の身の上にも私相当の変化をひき起こしていた。私は足かけ八年住み慣れた札幌――ごく手短に言っても、そこで私の上にもいろいろな出来事がわき上がった。妻も迎えた。三人の子の父ともなった。長い間の信仰から離れて教会とも縁を切った。それまでやっていた仕事にだんだん失望を感じ始めた。新しい生活の芽が周囲の拒絶をも無みして、そろそろと芽ぐみかけていた。私の目の前の生活の道にはおぼろげながら気味悪い不幸の雲がおおいかかろうとしていた。私は始終私自身の力を信じていいのか疑わねばならぬかの二筋道に迷いぬいた――を去って、私には物足らない都会生活が始まった。そして、目にあまる不幸がつぎつぎに足もとからまくし上がるのを手をこまねいてじっ[#「じっ」に傍点]とながめねばならなかった。心の中に起こったそんな危機の中で、私は捨て身になって、見も知らぬ新しい世界に乗り出す事を余儀なくされた。それは文学者としての生活だった。私は今度こそは全くひとりで歩かねばならぬと決心の臍を堅めた。またこの道に踏み込んだ以上は、できてもできなくても人類の意志と取り組む覚悟をしなければならなかった。私は始終自分の力量に疑いを感じ通しながら原稿紙に臨んだ。人々が寝入って後、草も木も寝入って後、ひとり目ざめてしん[#「しん」に傍点]とした夜の寂寞の中に、万年筆のペン先が紙にきしり込む音だけを聞きながら、私は神がかりのように夢中になって筆を運ばしている事もあった。私の周囲には亡霊のような魂がひしめいて、紙の中に生まれ出ようと苦しみあせっているのをはっきり[#「はっきり」に傍点]と感じた事もあった。そんな時気がついてみると、私の目は感激の涙に漂っていた。芸術におぼれたものでなくって、そういう時のエクスタシーをだれが味わい得よう。しかし私の心が痛ましく裂け乱れて、純一な気持ちがどこのすみにも見つけられない時のさびしさはまたなんと喩えようもない。その時私は全く一塊の物質に過ぎない。私にはなんにも残されない。私は自分の文学者である事を疑ってしまう。文学者が文学者である事を疑うほど、世に空虚なたよりないものがまたとあろうか。そういう時に彼は明らかに生命から見放されてしまっているのだ。こんな瞬間に限っていつでもきまったように私の念頭に浮かぶのは君のあの時の面影だった。自分を信じていいのか悪いのかを決しかねて、たくましい意志と冷刻な批評とが互いに衷に戦って、思わず知らずすべてのものに向かって敵意を含んだ君のあの面影だった。私は筆を捨てて椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら、自分につぶやくように言った。
41
「あの少年はどうなったろう。道を踏み迷わないでいてくれ。自分を誇大して取り返しのつかない死出の旅をしないでいてくれ。もし彼に独自の道を切り開いて行く天稟がないのなら、どうか正直な勤勉な凡人として一生を終わってくれ。もうこの苦しみはおれ一人だけでたくさんだ」
42
ところが去年の十月――と言えば、川岸の家で偶然君というものを知ってからちょうど十年目だ――のある日雨のしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]と降っている午後に一封の小包が私の手もとに届いた。女中がそれを持って来た時、私は干し魚が送られたと思ったほど部屋の中が生臭くなった。包みの油紙は雨水と泥とでひどくよごれていて、差出人の名前がようやくの事で読めるくらいだったが、そこにしるされた姓名を私はだれともはっきり[#「はっきり」に傍点]思い出すことができなかった。ともかくもと思って私はナイフでがんじょうな渋びきの麻糸を切りほごしにかかった。油紙を一皮めくるとその中にまた麻糸で堅く結わえた油紙の包みがあった。それをほごすとまた油紙で包んであった。ちょっと腹の立つほど念の入った包み方で、百合の根をはがすように一枚一枚むいて行くと、ようやく幾枚もの新聞紙の中から、手あかでよごれ切った手製のスケッチ帳が三冊、きりきりと棒のように巻き上げられたのが出て来た。私は小気味悪い魚のにおいを始終気にしながらその手帳を広げて見た。
43
それはどれも鉛筆で描かれたスケッチ帳だった。そしてどれにも山と樹木ばかりが描かれてあった。私は一目見ると、それが明らかに北海道の風景である事を知った。のみならず、それは明らかにほんとうの芸術家のみが見うる、そして描きうる深刻な自然の肖像画だった。
44
「やっつけたな!」咄嗟に私は少年のままの君の面影を心いっぱいに描きながら下くちびるをかみしめた。そして思わずほほえんだ。白状するが、それがもし小説か戯曲であったら、その時の私の顔には微笑の代わりに苦い嫉妬の色が濃くみなぎっていたかもしれない。
45
その晩になって一封の手紙が君から届いて来た。やはり厚い画学紙にすり切れた筆で乱雑にこう走り書きがしてあった。
[#ここから1字下げ]
「北海道ハ秋モ晩クナリマシタ。野原ハ、毎日ノヨウニツメタイ風ガ吹イテイマス。
46
日ゴロ愛惜シタ樹木ヤ草花ナドガ、イツトハナク落葉シテシマッテイル。秋ハ人ノ心ニイロイロナ事ヲ思ワセマス。
47
日ニヨリマストアタリノ山々ガ浮キアガッタカト思ワレルクライ空ガ美シイ時ガアリマス。シカシタイテイハ風トイッショニ雨ガバラバラヤッテ来テ道ヲ悪クシテイルノデス。
48
昨日スケッチ帳ヲ三冊送リマシタ。イツカあなたニ絵ヲ見テモライマシテカラ故郷デ貧乏漁夫デアル私ハ、毎日忙シイ仕事ト激シイ労働ニ追ワレテイルノデ、ツイコトシマデ絵ヲカイテミタカッタノデスガ、ツイカケナカッタノデス。
49
コトシノ七月カラ始メテ画用紙ヲトジテ画帖ヲ作リ、鉛筆デニ向カッテミマシタ。シカシ労働ニ害サレタ手ハ思ウヨウニ自分ノ感力ヲ現ワス事ガデキナイデ困リマス。
50
コンナツマラナイ素描帳ヲ見テクダサイト言ウノハタイヘンツライノデス。シカシ私ハイツワラナイデ始メタ時カラノヲ全部送リマシタ。
51
私ノ町ノ知的素養ノイクブンナリトモアル青年デモ、自分トイウモノニツイテ思イヲメグラス人ハ少ナイヨウデス。青年ノ多クハ小サクサカシクオサマッテイルモノカ、ツマラナク時ヲ無為ニ送ッテイマス。デスガ私ハ私ノ故郷ダカラ好キデス。
52
イロイロナモノガ私ノ心ヲオドラセマス。私ノスケッチニ取ルベキトコロノアルモノガアルデショウカ。
53
私ハナントナクコンナツマラヌモノヲあなたニ見テモラウノガハズカシイノデス。
54
山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイモノダト思ッテイマス。私ノスケッチデハ私ノ感ジガドウモ出ナイデコマリマス。私ノ山ハ私ガ実際ニ感ジルヨリモアマリ平面ノヨウデス。樹木モドウモ物体感ニトボシク思ワレマス。
55
色ヲツケテミタラヨカロウト考エテイマスガ、時間ト金ガナイノデ、コンナモノデ腹イセヲシテイルノデス。
56
私ハイロイロナ構図デ頭ガイッパイニナッテイルノデスガ、ナニシロマダカクダケノ腕ガナイヨウデス。オ忙シイあなたニコンナ無遠リョヲカケテタイヘンスマナク思ッテイマス。イツカオヒマガアッタラ御教示ヲ願イマス。
十月末」
[#ここで字下げ終わり]
57
こう思ったままを書きなぐった手紙がどれほど私を動かしたか。君にはちょっと想像がつくまい。自分が文学者であるだけに、私は他人の書いた文字の中にも真実と虚偽とを直感するかなり鋭い能力が発達している。私は君の手紙を読んでいるうちに涙ぐんでしまった。魚臭い油紙と、立派な芸術品であるスケッチ帳と、君の文字との間には一分のすきもなかった。「感力」という君の造語は立派な内容を持つ言葉として私の胸に響いた。「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイ」‥‥山が地上から空にもれあがる‥‥それはすばらしい自然への肉迫を表現した言葉だ。言葉の中にしみ渡ったこの力は、軽く対象を見て過ごす微温な心の、まねにも生み出し得ない調子を持った言葉だ。
58
「だれも気もつかず注意も払わない地球のすみっこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」
59
私はそう思ったのだ。そう思うとこの地球というものが急により美しいものに感じられたのだ。そう感ずるとなんとなく涙ぐんでしまったのだ。
60
そのころ私は北海道行きを計画していたが、雑用に紛れて躊躇するうちに寒くなりかけたので、もういっそやめようかと思っていたところだった。しかし君のスケッチ帳と手紙とを見ると、ぜひ君に会ってみたくなって、一徹にすぐ旅行の準備にかかった。その日から一週間とたたない十一月の五日には、もう上野駅から青森への直行列車に乗っている私自身を見いだした。
61
札幌での用事を済まして農場に行く前に、私は岩内にあてて君に手紙を出しておいた。農場からはそう遠くもないから、来られるなら来ないか、なるべくならお目にかかりたいからと言って。
62
農場に着いた日には君は見えなかった。その翌日は朝から雪が降りだした。私は窓の所へ机を持って行って、原稿紙に向かって呻吟しながら心待ちに君を待つのだった。そして渋りがちな筆を休ませる間に、今まで書き連ねて来たような過去の回想やら当面の期待やらをつぎつぎに脳裏に浮かばしていたのだった。
三
63
夕やみはだんだん深まって行った。事務所をあずかる男が、ランプを持って来たついでに、夜食の膳を運ぼうかと尋ねたが、私はひょっと[#「ひょっと」に傍点]すると君が来はしないかという心づかいから、わざとそのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった。大きな男の姿が部屋からのっそり[#「のっそり」に傍点]と消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来て見ると、物でも人でも大きくゆったり[#「ゆったり」に傍点]しているのに今さらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。
64
渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕やみはどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスのむこうは雪と闇とのぼんやりした明暗になってしまった。自然は何かに気を障えだしたように、夜とともに荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがってうん[#「うん」に傍点]ともたれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた。自然が粉雪をあおりたてて、所きらわずたたきつけながら、のたうち回ってうめき叫ぶその物すごい気配はもう迫っていた。私は窓ガラスに白もめんのカーテンを引いた。自然の暴威をせき止めるために人間が苦心して創り上げたこのみじめ[#「みじめ」に傍点]な家屋という領土がもろく小さく私の周囲にながめやられた。
65
突然、ど、ど、ど‥‥という音が――運動が天地に起こった。さあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立て直した。同時に自然は上歯を下くちびるにあてがって思いきり長く息を吹いた。家がぐらぐらと揺れた。地面からおどり上がった雪が二三度はずみを取っておいて、どっと一気に天に向かって、謀反でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと部屋の中にすくんでいる私の想像に浮かべられた。だめだ。待ったところがもう君は来やしない。停車場からの雪道はもうとうに埋まってしまったに違いないから。私は吹雪の底にひたりながら、物さびしくそう思って、また机の上に目を落とした。
66
筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものは時々起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかった。こうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう。農場の男がまたのそりと部屋にはいって来て客来を知らせたのは。私の喜びを君は想像する事ができる。やはり来てくれたのだ。私はすぐに立って事務室のほうへかけつけた。事務室の障子をあけて、二畳敷きほどもある大囲炉裏の切られた台所に出て見ると、そこの土間に、一人の男がまだ靴も脱がずに突っ立っていた。農場の男も、その男にふさわしく肥って大きな内儀さんも、普通な背たけにしか見えないほどその客という男は大きかった。言葉どおりの巨人だ。頭からすっぽりと頭巾のついた黒っぽい外套を着て、雪まみれになって、口から白い息をむらむらと吐き出すその姿は、実際人間という感じを起こさせないほどだった。子供までがおびえた目つきをして内儀さんのひざの上に丸まりながら、その男をうろん[#「うろん」に傍点]らしく見詰めていた。
67
君ではなかったなと思うと僕は期待に裏切られた失望のために、いらいらしかけていた神経のもどかしい感じがさらにつのるのを覚えた。
68
「さ、ま、ずっとこっち[#「こっち」に傍点]にお上がりなすって」
69
農場の男は僕の客だというのでできるだけ丁寧にこういって、囲炉裏のそばの煎餅蒲団を裏返した。
70
その男はちょっと頭で挨拶して囲炉裏の座にはいって来たが、天井の高いだだっ広い台所にともされた五分心のランプと、ちょろちょろと燃える木節の囲炉裏火とは、黒い大きな塊的とよりこの男を照らさなかった。男がぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]湿った兵隊の古長靴を脱ぐのを待って、私は黙ったまま案内に立った。今はもう、この男によって、むだな時間がつぶされないように、いやな気分にさせられないようにと心ひそかに願いながら。
71
部屋にはいって二人が座についてから、私は始めてほんとうにその男を見た。男はぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]に、それでも四角に下座にすわって、丁寧に頭を下げた。
72
「しばらく」
73
八畳の座敷に余るような※を帯びた太い声がした。
74
「あなたはどなたですか」
75
大きな男はちょっときまり[#「きまり」に傍点]が悪そうに汗でしとどになったまっかな額をなでた。
76
「木本です」
77
「え、木本君!?[#「!?」は第3水準1-8-78]」
78
これが君なのか。私は驚きながら改めてその男をしげしげと見直さなければならなかった。疳のために背たけも伸び切らない、どこか病質にさえ見えた悒鬱な少年時代の君の面影はどこにあるのだろう。また落葉松の幹の表皮からあすこここにのぞき出している針葉の一本をも見のがさずに、愛撫し理解しようとする、スケッチ帳で想像されるような鋭敏な神経の所有者らしい姿はどこにあるのだろう。地をつぶしてさしこ[#「さしこ」に傍点]をした厚衣を二枚重ね着して、どっしり[#「どっしり」に傍点]と落ち付いた君のすわり形は、私より五寸も高く見えた。筋肉で盛り上がった肩の上に、正しくはめ込まれた、牡牛のように太い首に、やや長めな赤銅色の君の顔は、健康そのもののようにしっかり[#「しっかり」に傍点]と乗っていた。筋肉質な君の顔は、どこからどこまで引き締まっていたが、輪郭の正しい目鼻立ちの隈々には、心の中からわいて出る寛大な微笑の影が、自然に漂っていて、脂肪気のない君の容貌をも暖かく見せていた。「なんという無類な完全な若者だろう。」私は心の中でこう感嘆した。恋人を紹介する男は、深い猜疑の目で恋人の心を見守らずにはいられまい。君の与えるすばらしい男らしい印象はそんな事まで私に思わせた。
79
「吹雪いてひどかったろう」
80
「なんの。……温くって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、しあわせよく水車番に会ったからすぐ知れました。あれは親身な人だっけ」
81
君の素直な心はすぐ人の心に触れると見える。あの水車番というのは実際このへんで珍しく心持ちのいい男だ。君は手ぬぐいを腰から抜いて湯げが立たんばかりに汗になった顔を幾度も押しぬぐった。
82
夜食の膳が運ばれた。「もう我慢がなんねえ」と言って、君は今まで堅くしていたひざをくずしてあぐらをかいた。「きちょうめん[#「きちょうめん」に傍点]にすわることなんぞははあねえもんだから。」二人は子供どうしのような楽しい心で膳に向かった。君の大食は愉快に私を驚かした。食後の茶を飯茶わんに三杯続けさまに飲む人を私は始めて見た。
83
夜食をすましてから、夜中まで二人の間に取りかわされた楽しい会話を私は今だに同じ楽しさをもって思い出す。戸外ではここを先途とあらしが荒れまくっていた。部屋の中ではストーブの向かい座にあぐらをかいて、癖のように時おり五分刈りの濃い頭の毛を逆さになで上げる男ぼれのする君の顔が部屋を明るくしていた。君はがんじょうな文鎮になって小さな部屋を吹雪から守るように見えた。温まるにつれて、君の周囲から蒸れ立つ生臭い魚の香は強く部屋じゅうにこもったけれども、それは荒い大海を生々しく連想させるだけで、なんの不愉快な感じも起こさせなかった。人の感覚というものも気ままなものだ。
84
楽しい会話と言った。しかしそれはおもしろいという意味ではもちろんない。なぜなれば君はしばしば不器用な言葉の尻を消して、曇った顔をしなければならなかったから。そして私も苦しい立場や、自分自身の迷いがちな生活を痛感して、暗い心に捕えられねばならなかったから。
85
その晩君が私に話して聞かしてくれた君のあれからの生活の輪郭を私はここにざっ[#「ざっ」に傍点]と書き連ねずにはおけない。
86
札幌で君が私を訪れてくれた時、君には東京に遊学すべき道が絶たれていたのだった。一時北海道の西海岸で、小樽をすら凌駕してにぎやかになりそうな気勢を見せた岩内港は、さしたる理由もなく、少しも発展しないばかりか、だんだんさびれて行くばかりだったので、それにつれて君の一家にも生活の苦しさが加えられて来た。君の父上と兄上と妹とが気をそろえて水入らずにせっせ[#「せっせ」に傍点]と働くにも係わらず、そろそろと泥沼の中にめいり込むような家運の衰勢をどうする事もできなかった。学問というものに興味がなく、従って成績のおもしろくなかった君が、芸術に捧誓したい熱意をいだきながら、そのさびしくなりまさる古い港に帰る心持ちになったのはそのためだった。そういう事を考え合わすと、あの時君がなんとなく暗い顔つきをして、いらいらしく見えたのがはっきり[#「はっきり」に傍点]わかるようだ。君は故郷に帰っても、仕事の暇々には、心あてにしている景色でもかく事を、せめてもの頼みにして札幌を立ち去って行ったのだろう。
87
しかし君の家庭が君に待ち設けていたものは、そんな余裕の有る生活ではなかった。年のいった父上と、どっちかと言えば漁夫としての健康は持ち合わせていない兄上とが、普通の漁夫と少しも変わりのない服装で網をすきながら君の帰りを迎えた時、大きい漁場の持ち主という風が家の中から根こそぎ無くなっているのをまのあたりに見やった時、君はそれまでの考えののんき過ぎたのに気がついたに違いない。充分の思慮もせずにこんな生活の渦巻の中に我れから飛び込んだのを、君の芸術的欲求はどこかで悔やんでいた。その晩、磯臭い空気のこもった部屋の中で、枕につきながら、陥穽にかかった獣のようないらだたしさを感じて、まぶたを合わす事ができなかったと君は私に告白した。そうだったろう。その晩一晩だけの君の心持ちをくわしく考えただけで、私は一つの力強い小品を作り上げる事ができると思う。
88
しかし親思いで素直な心を持って生まれた君は、君を迎え入れようとする生活からのがれ出る事をしなかったのだ。詰め襟のホックをかけずに着慣れた学校服を脱ぎ捨てて、君は厚衣を羽織る身になった。明鯛から鱈、鱈から鰊、鰊から烏賊というように、四季絶える事のない忙しい漁撈の仕事にたずさわりながら、君は一年じゅうかの北海の荒波や激しい気候と戦って、さびしい漁夫の生活に没頭しなければならなかった。しかも港内に築かれた防波堤が、技師の飛んでもない計算違いから、波を防ぐ代わりに、砂をどんどん港内に流し入れるはめになってから、船がかりのよかった海岸は見る見る浅瀬に変わって、出漁には都合のいい目ぬきの位置にあった君の漁場はすたれ物同様になってしまい、やむなく高い駄賃を出して他人の漁場を使わなければならなくなったのと、北海道第一と言われた鰊の群来が年々減って行くために、さらぬだに生活の圧迫を感じて来ていた君の家は、親子が気心をそろえ力を合わして、命がけに働いても年々貧窮に追い迫られ勝ちになって行った。
89
親身な、やさしい、そして男らしい心に生まれた君は、黙ってこのありさまを見て過ごす事はできなくなった。君は君に近いものの生活のために、正しい汗を額に流すのを悔いたり恥じたりしてはいられなくなった。そして君はまっしぐらに労働生活のまっただ中に乗り出した。寒暑と波濤と力わざと荒くれ男らとの交わりは君の筋骨と度胸とを鉄のように鍛え上げた。君はすくすくと大木のようにたくましくなった。
90
「岩内にも漁夫は多いども腕力にかけておらにかなうものは一人だっていねえ」
91
君はあたりまえの事を言って聞かせるようにこう言った。私の前にすわった君の姿は私にそれを信ぜしめる。
92
パンのために生活のどん底まで沈み切った十年の月日――それは短いものではない。たいていの人はおそらくその年月の間にそういう生活からはね返る力を失ってしまうだろう。世の中を見渡すと、何百万、何千万の人々が、こんな生活にその天授の特異な力を踏みしだかれて、むなしく墳墓の草となってしまったろう。それは全く悲しい事だ。そして不条理な事だ。しかしだれがこの不条理な世相に非難の石をなげうつ事ができるだろう。これは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。特異な力を埋め尽くしてまでも、当面の生活に没頭しなければならない人々に対して、私たちは尊敬に近い同情をすらささげねばならぬ悲しい人生の事実だ。あるがままの実相だ。
93
パンのために精力のあらん限りを用い尽くさねばならぬ十年――それは短いものではない。それにもかかわらず、君は性格の中に植え込まれた憧憬を一刻も捨てなかったのだ。捨てる事ができなかったのだ。
94
雨のためとか、風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なす事なく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまに来る。そういう時に、君は一冊のスケッチ帳と一本の鉛筆とを、魚の鱗や肉片がこびりついたまま、ごわごわにかわいた仕事着のふところにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。
95
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっ[#「じっ」に傍点]とこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくり[#「しっくり」に傍点]おら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです。その心持ちがかいてみたくって、あんな下手なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちをかいた絵があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持ちのいい日にうん[#「うん」に傍点]と力こぶを入れてやってみたらと思うけんど、暮らしも忙しいし、やってもおらにはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」
96
と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになった。その時はあぐらにした両脛を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。
97
私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った。仁王のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や敵愾心から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る事に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。
98
次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちん[#「かちんかちん」に傍点]に凍った兵隊長靴をはいて、黒い外套をしっかり[#「しっかり」に傍点]着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。なごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身にかれこれと君をいたわった。すっかり[#「すっかり」に傍点]頭巾をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は素朴なはばかりから帽子もかぶらずに、重々しい口調で別れの挨拶をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た。
99
私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。
100
そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。
101
私がそこを発って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった。
四
102
今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解の水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立った波をあげて、岸を目がけて終日攻めよせているだろう。それにしてももう老いさらぼえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天秤棒をになって、無理にも春をよび覚ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽や秋田へんから集まって来た旅雁のような漁夫たちが、鰊の建網の修繕をしたり、大釜の据え付けをしたりして、黒ずんだ自然の中に、毛布の甲がけや外套のけばけばしい赤色をまき散らす季節にはなったろう。このころ私はまた妙に君を思い出す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く。君はまざまざと私の想像の視野に現われ出て来て、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢と現との閾はないと言っていい。彼は現実を見ながら眠っている事がある。夢を見ながら目を見開いている事がある。私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみる事を君は拒むだろうか。私の鈍い頭にも同感というものの力がどのくらい働きうるかを私は自分でためしてみたいのだ。君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう。
103
君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出て来るのは、なんと言ってもさびしく物すさまじい北海道の冬の光景だ。
五
104
長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇の亡骸のようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤の牙が、小休みもなくその胴腹に噛いかかっている。砂浜に繁われた百艘近い大和船は、舳を沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のお櫃とを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗い闇の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらり[#「ぎらり」に傍点]と光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥が鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって灯一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。汀まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん[#「ざぶんざぶん」に傍点]砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。
105
漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお内儀さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
106
やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない闇の中から、硫黄が丘の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。
107
模範船の船頭が頭をあつめて相談をし始める。どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った烏
108
「出すべ」
109
そのさざめきの間に、潮で※
110
漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に夫
111
この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱
112
船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは百足虫
113
どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。猫
114
私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄
115
夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの界
116
帆がおろされる。勢いで走りつづける船足は、舵
117
今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急にさっ[#「さっ」に傍点]と薄曇ると、どこからともなく時雨
118
すっと空が明るくなる。霰
119
きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。
120
寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。配縄
121
漁夫たちは口を食物で頬張
122
とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒で炊
123
こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり舵座
六
124
それはある年の三月に、君が遭遇した苦
125
「またはあ銭
と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて配縄
126
海の上はただ狂い暴
127
雪と浸水
128
「おも舵っ」
129
「右にかわすだってえば」
130
「右だ‥‥右だぞっ」
131
「帆綱をしめろやっ」
132
「友船は見えねえかよう、いたらくっつけ[#「くっつけ」に傍点]」やーい
133
どう吹こうとためらっていたような疾風がやがてしっかり[#「しっかり」に傍点]方向を定めると、これまでただあて[#「あて」に傍点]もなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤
134
「来たぞーっ」
135
緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、艫
136
ほっ[#「ほっ」に傍点]と安堵
137
「あぶねえ」
138
「ぽきりっ[#「ぽきりっ」に傍点]」
というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根もとから折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。
139
君は咄嗟
140
第一の紆濤
141
雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い波頭
142
はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその時おそく、君らはもうまっ白な泡
143
割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そして君は、着込んだ厚衣
144
君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷
145
「それ今ひと息だぞっ」
146
君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
147
おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面
148
すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒
149
舷
150
吹き落ちる気配
151
薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
152
「死にはしないぞ」――そんなはめ[#「はめ」に傍点]になってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
153
君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳※
154
こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかり[#「すっかり」に傍点]無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも納
155
残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
156
船! ‥‥船!
157
濃い吹雪
158
それを見ると何かが君の胸をどきん[#「どきん」に傍点]と下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎
159
白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪
160
ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は傾
161
怒濤
162
生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚
163
さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
164
漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
165
「死にはしないぞ」
166
不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
167
君たちがほんとうに一艘
168
着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
169
やがて行く手の波の上にぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と雷電峠の突角が現われ出した。山脚
170
「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵
171
そう言う声がてんでん[#「てんでん」に傍点]に人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪
172
陸地に近づくと波はなお怒る。鬣
173
その猛烈な力を感じてか、断崕
174
君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵
175
それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた。岸から打ち上げる目標の烽火
176
船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになった。やがてあらしの間にも大砲のような音が船まで聞こえて来た。と思うと救助縄
177
二三人の漁夫がよろけころびながらその縄のほうへ駆け寄った。
178
音は聞こえずに烽火
179
船は縄に引かれてぐんぐん陸のほうへ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ波濤
180
君は始めて気がついたように年老いた君の父上のほうを振り返って見た。父上はひざから下を水に浸して舵座
181
「あなたが助かってよござんした」
182
「お前が助かってよかった」
183
両人の目には咄嗟
184
君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち列
185
なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、艪
186
唖
187
岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した感じに襲われて来た。
188
君はもう一度君の父上のほうを見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
189
やがて船底にじゃりじゃり[#「じゃりじゃり」に傍点]と砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
190
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった。‥‥君はそのあとを知らない。
七
191
君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらい[#「かっぱらい」に傍点]のように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶる[#「しゃぶる」に傍点]けれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行く。ある者は死があまり無頓着
192
世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とは言うまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二三百万円の富を祖先から受け嗣
193
その人たちは他人眼
194
「今夜ははあおまんま[#「おまんま」に傍点]がうめえぞ」
と言って、飯茶わんをちょっと押しいただくように目八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんと言っても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活を決して悔やんでいるわけではないのだ。それにも係わらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。
195
「絵がかきたい」
196
君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかきいだいているのだ。その望みをふり捨ててしまえる事なら世の中は簡単なのだ。
197
恋――互いに思い合った恋と言ってもこれほどの執着はあり得まいと君自身の心を憐
198
雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、配縄
199
またある時は沖に出て配縄をたぐり上げるだいじな忙
200
これらの場合はっ[#「はっ」に傍点]と我れに返った瞬間ほど君を惨
201
「なんというだらし[#「だらし」に傍点]のない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭
202
そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしり[#「どっしり」に傍点]と男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。
203
やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらで擦
204
西に舂
205
三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁
206
君たちの船は、海風が凪
207
これも牛乳のような色の寒い夕靄
208
だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯の灯
209
帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんと汀
210
漁夫たちは艪
211
しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、忙
212
こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
213
夕焼けもなく日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れて、雪は紫に、灯
214
しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長わずらいの後に夫に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが執念
215
人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、鰊
216
それでも敷居
217
小気味のよいほどしたたか夕餉
218
「親方さんお休み」
と挨拶
219
「おらはあ寝まるぞ」
220
わずかな晩酌
221
時が静かにさびしく、しかしむつまじくじりじりと過ぎて行く。
222
「寝ずに」
223
針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。
224
「先に寝れ、いいから」
225
あぐらのひざの上にスケッチ帳を広げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にそう答える。
226
「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」にっ[#「にっ」に傍点]と片頬
227
「なんの」
228
「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。みんなよって笑っとるでねえか、※
229
君は思わず顔をあげる。
230
「だれが言った」
231
「だれって‥‥みんな言ってるだよ」
232
「お前もか」
233
「私は言わねえ」
234
「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわかんねえやつさなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」
235
「見たよ。‥‥荘園
236
「さし出口はおけやい」
237
そして君たち二人は顔を見合って溶けるように笑
238
今度は君が発意する。
239
「おい寝べえ」
240
「兄
241
「お前寝べし‥‥あしたまた一番に起きるだから‥‥戸締まりはおらがするに」
242
二人はわざと意趣
243
君はスケッチ帳を枕
244
それもやがて疲労の夢が押し包む。
245
今岩内の町に目ざめているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだ惰
八
246
君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いてわいて来る。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のない事だけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれをたよってさらに書き続けて行く。
247
鰊
248
朝晩の凍
249
鱈
250
家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん[#「でめん」に傍点]
251
「はれ兄
252
「うんにゃ」
253
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人
254
「口はばったい事べ言うと鰊様
255
「婆様だ!?[#「!?」は第3水準1-8-78] 人聞
256
実際この内儀さんの噪
257
「そだ。そだ。兄
258
君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっ[#「どっ」に傍点]と笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
259
「春が来るのだ」
260
君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
261
やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌
262
その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのない抉
263
「どこに」
264
君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
265
「君はきょうは出られまい」
266
君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
267
「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいか忙
268
「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」
269
「僕は今これを読んでいたが
270
そう言って君の友は、悒鬱
271
「じゃ行って来るよ」
272
「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
273
この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。
274
南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥
275
雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ爪先上
276
なんという広大なおごそかな景色だ。胆振
277
君はただいちずにがむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見える楡
278
ちょうど親しい心と心とが出あった時に、互いに感ぜられるような温
279
そして懐中からいつものスケッチ帳を取り出して切り株の上に置いた。開かれた手帖と山とをかたみがわり[#「かたみがわり」に傍点]に見やりながら、君は丹念に鉛筆を削り上げた。そして粗末な画学紙の上には、たくましく荒くれた君の手に似合わない繊細な線が描かれ始めた。
280
ちょうど人の肖像をかこうとする画家が、その人の耳目鼻口をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つの皺
281
そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチができあがって、軽い満足のため息とともに、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帳を取り上げて目の前に据
282
しかしながら狐疑
283
自分が満足だと思ったところはどこにあるのだろう。それはいわば自然の影絵に過ぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた塊的
284
この悲しい事実を発見すると君は躍起となって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ謙遜
285
しかしとてもそこを立ち去る事はできないほど、自然は絶えず美しくよみがえって行く。朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。山の姿は、その線と陰日向
286
昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催して来た。それとともに肌身
287
君は思わずため息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、ばたん[#「ばたん」に傍点]と音を立ててスケッチ帳を閉じて、鉛筆といっしょにそれをふところに納めた。凍
288
いつのまにか君は町に帰って例の調剤所の小さな部屋
289
「寒かったろう」
とKが言う。君はまだほんとうに自分に帰り切らないような顔つきで、
290
「うむ。‥‥寒くはなかった。‥‥その線の鈍っているのは寒かったからではないんだ」
と答える。
291
「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駆けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。きょうのはみんな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」
292
「実際の山の形にくらべて見たまえ。‥‥僕は親父
と君は急いで言いわけをする。
293
「なんで?」
294
Kはけげんそうにスケッチ帳から目を上げて君の顔をしげしげと見守る。
295
君の心の中には苦
296
君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、兄妹
297
君は理屈ではなんら恥ずべき事がないと思っている。しかし実際では決してそうは行かない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事がらが君自身に関係して来ると、思わず知らず足もとがぐらついて来るのだ。
298
「おれが芸術家でありうる自信さえできれば、おれは一刻の躊躇
299
平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「親父
300
「どうして?」と言ったKも、君もそのまま黙ってしまった。Kには、物を言われないでも、君の心はよくわかっていたし、君はまた君で、自分はきれいにあきらめながらどこまでも君を芸術の捧誓者
301
君ら二人の目は悒鬱
302
そうやって黙っているうちに君はたまらないほどさびしくなって来る。自分を憐
303
ふとすすけた天井からたれ下がった電球が光を放った。驚いて窓から見るともう往来はまっ暗になっている。冬の日の舂
304
「飯だぞ」
305
Kの父の荒々しいかん走った声が店のほうからいかにもつっけんどんに聞こえて来る。ふだんから自分の一人むすこの悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつてきげんのいい顔を見せた事のないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、きぱきぱ[#「きぱきぱ」に傍点]と盾
306
君は長座をしたのがKの父の気にさわったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。
307
「じゃ僕は昼の弁当を食わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済まして来たまえ」
と君は言わなければならなかった。
308
Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言う事を非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君をかえすのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心に染
309
それでも夕飯という声を聞き、戸のすきから漏れる焼きざかなのにおいをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーブに寄り添いながら、椅子
310
北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにへぎ[#「へぎ」に傍点]で包んだ大きな握り飯はすっかり[#「すっかり」に傍点]凍
311
君の目からは突然、君自身にも思いもかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。じっ[#「じっ」に傍点]とすわったままではいられないような寂寥
312
君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帳をふところにねじこむと、こそこそと入り口に行って長靴
313
雪は燐
314
「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」
315
君は自分の遠い過去をのぞき込むようにさびしい心の中にもこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。
316
デパートメント・ストアのある本通りに出ると打って変わってにぎやかだった。電灯も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影が綾
317
しかし君の家が見えだすと君の足はひとりで[#「ひとりで」に傍点]にゆるみがちになって、君の頭は知らず知らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな目を時々上げて、見知り越しの顔にでもあいはしないかと気づかった。しかしこの界隈
318
「だめだ」
319
突然君はこう小さく言って往来のまん中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずぞっ[#「ぞっ」に傍点]として異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。
320
しばらく釘
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君は自分でもどこをどう歩いたかしらない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は海産物製造会社の裏の険しい崕
322
全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――その壊
323
君はその平地の上に立ってぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]あたりを見回していた。君の心の中にはさきほどから恐ろしい企図
324
君の心は妙にしん[#「しん」に傍点]と底冷えがしたようにとげとげしく澄み切って、君の目に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりに過ぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほどさびしく恐ろしい事に思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星のまたたきも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い遠い末梢
325
君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分を警
326
足の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いて来る。
327
ただ一飛びだ。それで煩悶
328
「家
329
君はまたたきもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]崖
330
不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音なども少しずつかすか[#「かすか」に傍点]になって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わず瞼
331
突然君ははね返されたように正気に帰って後ろに飛びすざった。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。
332
ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]と驚いて今さらのように大きく目を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖の縁
333
鋭い音響は目の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山のほうからその汽笛の音はかすかに反響
334
もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて涯
九
335
君よ!![#「!!」は第3水準1-8-75]
336
この上君の内部生活を忖度
337
君よ。しかし僕は君のために何をなす事ができようぞ。君とお会いした時も、君のような人が――全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過量な人為的知見にわずらわされず、強健な意力と、強靱
338
それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただひとりで忍ばなければならない煩悶
339
地球の北端――そこでは人の生活が、荒くれた自然の威力に圧倒されて、痩地
340
君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
341
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じい疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。このせつなる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中にことに激しく強まった。
342
ほんとうに地球は生きている。生きて呼吸している。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生まれ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみと君によって感ずる事ができる。それはわきいで跳
343
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿
344
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。
[#20字下げ、地より2字上げで]
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字
※ ※ |
第3水準1-93-39 |
※ |
第3水準1-93-80 |
顳※ |
第3水準1-94-6 |
※々 |
第4水準2-93-26 |
※ |
|
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年8月