有島武郎
1
その日も、明けがたまでは雨になるらしく見えた空が、爽やかな秋の朝の光となっていた。
2
咳の出ない時は仰向けに寝ているのがよかった。そうしたままで清逸は首だけを腰高窓の方に少しふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままに厠に立った。その帰りに空模様を見ようとして、一枚繰った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。
3
隣りの部屋は戸を開け放って戸外のように明るいのだろう。そうでなければ柿江も西山もあんな騒々しい声を立てるはずがない。早起きの西山は朝寝の柿江をとうとう起してしまったらしい。二人は慌てて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは悠々とゆうべの議論の続きらしいことを饒舌っている。やがて、
「おい、そのばか馬をこっちに投げてくれ」
4
という西山の声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに微笑んだ。
5
ゆうべ、柿江のはいているぼろ袴に眼をつけて、袴ほど今の世に無意味なものはない。袴をはいていると白痴の馬に乗っているのと同じで、腰から下は自分のものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山がいったのを、清逸は思いだしたのだ。
6
隣のドアがけたたましく開いたと思うと清逸のドアがノックされた。
「星野、今日はどうだ。まだ起きられんのか」
7
そう廊下から不必要に大きな声を立てたのは西山だった。清逸は聞こえる聞こえないもかまわずに、障子を見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分はどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考えてみねばならぬことが多かった。
8
けれども西山たちの足音が玄関の方に遠ざかろうとすると、清逸は浅い物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪にさえ思われることだった。で、自分を強いるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めている蝿に強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分の喉から老人のようにしわがれた虚ろな声の放たれるのを苦々しく聞いた。
「さあ園の奴まだいたかな」
9
そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階から降りてきた。
「星野、園はいたからそういっておいたぞ」
10
その声は玄関の方から叫ばれた。傍若無人に何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。
11
清逸の心はこのささやかな攪拌の後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために天井に向けた顔をまた障子の方に向けなおした。
12
十月の始めだ。けれども札幌では十分朝寒といっていい時節になった。清逸は綿の重い掛蒲団を頸の所にたくし上げて、軽い咳を二つ三つした。冷えきった空気が障子の所で少し暖まるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静かに動いていた。黄色く光る障子を背景にして、黒子のように黒く点ぜられたその蝿は、六本の脚の微細な動きかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番前の両脚と、一番後ろの両脚とをかたみがわりに拝むようにすり合せて、それで頭を撫でたり、羽根をつくろったりする動作を根気よく続けては、何んの必要があってか、素早くその位置を二三寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置に真白く光る像が残った。それが不思議にも清逸の注意を牽きつけたのだ。戸外では生活の営みがいろいろな物音を立てているのに、清逸の部屋の中は秋らしくもの静かだった。清逸は自分の心の澄むのを部屋の空気に感ずるように思った。
13
やはりおぬいさんは園に頼むが一番いい。柿江はだめだ。西山でも悪くはないが、あのがさつ[#「がさつ」に傍点]さはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山は剽軽なようで油断のならないところがある。あの男はこうと思いこむと事情も顧みないで実行に移る質だ。人からは放漫と思われながら、いざとなると大掴みながらに急所を押えることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。……
14
蝿が素早く居所をかえた。
15
俺はおぬいさんを要するわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性に眼を与えることなどは知らない。それだから平気でたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見る時、少し上気した皮膚の中から大きくつやつや[#「つやつや」に傍点]しく輝いて、ある羞みを感じながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼を信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切っている。おぬいさんは何にも知らないのだ。
16
蝿がまた動いた。軽い音……
17
おぬいさんのその眼のいうところを心に気づかせるのは俺にとっては何んでもないことだ。それは今までも俺にはかなりの誘惑だった。……
18
清逸はそこまで考えてくると眼の前には障子も蝿もなくなっていた。彼の空想の魔杖の一振りに、真白な百合のような大きな花がみるみる蕾の弱々しさから日輪のようにかがやかしく開いた。清逸は香りの高い蕊の中に顔を埋めてみた。蒸すような、焼くような、擽るような、悲しくさせるようなその香り、……その花から、まだ誰も嗅がなかった高い香り……清逸はしばらく自分をその空想に溺れさせていたが、心臓の鼓動の高まるのを感ずるやいなや、振り捨てるように空想の花からその眼を遠ざけた。
19
その時蝿は右の方に位置を移した。
20
清逸の心にある未練を残しつつその万花鏡のような花は跡形もなく消え失せた。
21
園ならばいい。あの純粋な園にならおぬいさんが与えられても俺には不服はない。あの二人が恋し合うのは見ていても美しいだろう。二人の心が両方から自然に開けていって、ついに驚きながら喜びながら互に抱き合うのはありそうなことであって、そしていいことだ。俺はとにかく誘惑を避けよう。俺はどれほど蠱惑的でもそんなところにまごついてはいられない。しかも今のところおぬいさんは処女の美しい純潔さで俺の心を牽きつけるだけで、これはいつかは破れなければならないものだ。しかしそれは誘惑には違いないが、それだけの好奇心でおぬいさんの心を俺の方に眼ざめさすのは残酷だ。……
22
清逸はくだらないことをくよくよ考えたと思った。そして前どおりに障子にとまっている一匹の蝿にすべての注意を向けようとした。
23
しかも園が……清逸が十二分の自信をもって掴みうべき機会を……今までの無興味な学校の課業と、暗い淋しい心の苦悶の中に、ただ一つ清浄無垢な光を投げていた処女を根こそぎ取って園に与えるということは……清逸は何んといっても微かな未練を感じた。そして未練というものは微かであっても堪えがたいほどに苦い……。清逸はふとこの間読み終ったレ・ミゼラブルを思いだしていた。老いたジャン・※ルジャンが、コーセットをマリヤスに与えた時の心持を。
24
階子段を規律正しく静かに降りてくる足音がして、やがてドアが軽くたたかれた。
25
その瞬間清逸は深く自分を恥じた。それまで彼を困らしていた未練は影を隠していた。
26
顔は十七八にしか見えないほど若く、それほど規則正しい若さの整いを持っているが、二十二になったばかりだと思えないくらい落ちつきの備わった園の小さな姿が、清逸の寝床近くきちんと坐ったらしかった。
27
清逸は園が側近く来たのを知ると、なぜともなく心の中が暖まるのを覚えて、今までの物臭さに似ず、急いで窓から戸口の方に寝返った。が、それまで眩ゆい日の光に慣れていた眼は、そこに瞳を痛くする暗闇を見出だすばかりだった。その暗闇のある一点に、見つづけていた蝿が小さく金剛石のように光っていた。
「学校は休んだの」
28
眼をつぶりながら、それと思わしい方に顔を向けて清逸はいってみた。
「一時間目は吉田さんだから……僕に用というのは何?」
29
低いけれど澄んだ声、それは園のものだ。
「そうか。吉田のペンタゴンか。カルキュラスもあんないい加減ですまされては困るな。高等数学はしっかり解っておく必要があるんだが……」
30
清逸は当面の用事をそっちのけにしてこんなことをいった。そんなことを言いながら、吉田教授をぺンタゴンという異名で呼んだのが園に対して気がひけた。吉田というのは、まだ若くって頭のいい人だったが、北海道というような処に赴任させられたのが不満であるらしく、ややともすると肝心な授業を捨てておいて、旧藩主の奥御殿に起ったという怪談めいた話などをして、学生を笑わせている人だった。そうした人に対しても、園は異名を用いて噂することなどは絶えてしなかった。
「ほんとに困る。しかしどうせ何んでも自分でやらないじゃならない学校だからかまわないといえばかまわないことだが……今日は少しはいいの」
31
澄んで底力のある声が、清逸の眼にだんだん明瞭な姿を取ってゆく園の方から静かに響いた。健康を尋ねられると清逸はいつでも不思議にいらだった。それに答える代りに、何んとなくいい渋っていた肝心の用事を切りだすほかはなくなった。清逸は首をもたげ加減にして、机の方に眼をやった。そしてその引き出しの中にある手紙を出してくれと頼んでしまった。
32
園はすぐ机の方に手を延ばして、引き出しを開けにかかった。その時清逸は、自分の瞳が光って、園の方にある鋭い注意を投げているのを気づかずにはいられなかった。園が手紙を取りだした時、星野とだけ書いてある封筒の裏が上になっていたので、名宛人が誰であるかはもとより判りようはずがないのに、園の顔にはふとある混乱が浮んだようにも思え、少しもそんなことがないようにも清逸には思えた。清逸はまたかかることに注意する自分を腑甲斐なく思った。そして思わずいらいらした。
「僕はたぶん明日親父に会いに千歳まで帰ってくる。都合ではむこうの滞在が少し長びくかもしれない。できるなら僕は秋のうちに……冬にならないうちに東京に出たいと思っているんだがね。そんなことは貧乏な親父に相談してみたところで埒は明くまいけれども、順序だから話だけはしてみるつもりなのだ。……でその手紙をおぬいさんにとどけてくれないか。僕は熱があるようだから行かれないと思うから……おぬいさんが聞いたら千歳の番地を知らせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙にも書いておいたが、僕の留守の間、おぬいさんの英語を君に見てもらうわけにはいかないかね」
33
いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを畳みかけるようにいって退けた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ち明けないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉の中に自分を苦しめたり鞭ったりする多くのものが潜んでいるのだ。
34
清逸は何んということなく園から眼を放して仰向けに天井を見た。白い安西洋紙で張りつめた天井には鼠の尿ででもあるのか、雲形の汚染がところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形、醜い女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪な形を清逸は順々に眺めはじめた。
35
さすがの園もいろいろな意味で少し驚いたらしかった。最後の瞬間までどんなことでも胸一つに納めておいて、切りだしたら最後貫徹しないではおかない清逸の平生を知らない園ではないはずだ。だがあの健康で明日突然千歳に帰るということも、おぬいさんに英語を教えろということも、すべてがあまりに突然に思えたらしかった。清逸が、象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形から醜い女の顔の形へ視線を移したころ、
「では君もいよいよ東京に行くの」
36
と園が言った。そしておぬいさんの手紙を素直に洋服の内衣嚢にしまいこんだ。
37
園はおぬいさんに牽きつけられている、おぬいさんについては一言もいわないではないか。……清逸はすぐそう思った。それともおぬいさんにはまったく無頓着なのか。とにかくその人の名を園の口から聞かなかったのは……それはやはり物足らなかった。園の感情がいくらかでも動くのを清逸は感じたかったのだ。
「西山君も行くようなことをいっていたが……」
38
園は間をおいてむりにつけ足すようにこれだけのことをいった。
39
西山がそんなたくらみをしているとは清逸の知らないことだった。清逸は心の奥底ではっと思った。自分の思い立ったことを西山づれに魁けされるのは、清逸の気性として出抜かれたというかすかな不愉快を感じさせられた。
「もっとも西山君のことだから、言いたい放題をいっているかもしれないが……」
40
清逸の心の裏をかくとでもいうような言葉がしばらくしてからまた園の唇を漏れた。清逸はかすかに苦しい顔をせずにはいられなかった。
41
二時間目の授業が始まるからといって園が座を立ったあと、清逸は溜息をしたいような衝動を感じた。それが悪るかった。自然に溜息が出たあとに味われるあの特殊な淋しいくつろぎは感ずることができなかった。園が出ていった戸口の方にもの憂い視線を送りながら、このだだ広い汚ない家の中には自分一人だけが残っているのだなとつくづく思った。
42
ふと身体じゅうを内部から軽く蒸すような熱感が萌してきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によって蝕まれていきつつあるということを思い知らせた。喀血の前にはきっとこの感じが先駆のようにやってくるのだった。
43
清逸はわざと没義道に身体を窓の方に激しく振り向けてみた。窓の障子はだいぶ高くなった日の光で前よりもさらに黄色く輝いていた。
44
しかしどこに行ったのか、かの一匹の蝿はもうそこにはいなかった。
* * *
45
"Magna est veritas,et praevalebit."
46
それが銘だった。園はその夜拉典語の字書をひいてはっきりと意味を知ることができた。いい言葉だと思った。
47
段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車や槓杆の簡単な機械が、どろどろに埃と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草のように叢がって細長く立っていた。それらの上には春の大空。光と軟かい空気とが小さな窓から犇めいて流れこんだ。
48
機械室から暗窖のように暗みわたった下の方へ向けて、太い二本の麻縄が垂れ下り、その一本は下の方に、一本は上の方に静かに動いていた。縄の末端に結びつけられた重錘の重さの相違で縄は動くのだ。縄が動くにつれて歯車はきりきり[#「きりきり」に傍点]と低い音を立てて廻る。
49
左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な鐘銘に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。"Magna est veritas,et praevalebit."……園にはどうしても最後の字の意味が考えられなかった。写真で見る米国の自由の鐘のように下の方でなぞえに裾を拡げている。その拡がり方といい勾配の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。
50
農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないでここまで昇る好奇心を起したことだろう。修繕師のほかには一人もなかったかもしれない。そして何年前に最後の修繕師がここに昇ったのだろう。
51
札幌に来てから園の心を牽きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣れていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。
52
ことに冬、真昼間でも夕暮れのように天地が暗らみわたって、吹きまく吹雪のほかには何の物音もしないような時、風に揉みちぎられながら澄みきって響いてくるその音を聞くと、園の心は涼しくひき締った。そして熱いものを眼の中に感ずることさえあった。
53
夢中になってシラーの詩に読み耽っていた園は、思いもよらぬ不安に襲われて詩集から眼を放して機械を見つめた。今まで安らかに単調に秒を刻んでいた歯車は、きゅうに気息苦しそうにきしみ始めていた。と思う間もなく突然暗い物隅から細長い鉄製らしい棒が走りでて、眼の前の鐘を発矢と打った。狭い機械室の中は響だけになった。園の身体は強い細かい空気の震動で四方から押さえつけられた。また打つ……また打つ……ちょうど十一。十一を打ちきるとあとにはまた歯車のきしむ音がしばらく続いて、それから元どおりな規則正しい音に還った。
54
あまりの厳粛さに園はしばらく茫然[#底本では「范然」の誤り、217-上21]としていた。明治三十三年五月四日の午前十一時、――その時間は永劫の前にもなければ永劫の後にもない――が現われながら消えていく……園は時間というものをこれほどまじまじと見つめたことはなかった。
55
心から後悔して園は詩集を伏せてしまった。この学校に学ぶようになってからも、園には別れがたい文学への憧憬があった。捨てよう捨てようと思いながら、今までずるずるとそれに引きずられていた。一事に没頭しきらなければすまない。一人の科学者に詩の要はない。科学を詩としよう。歌としよう。園は読みなれた詩集を燔牲のごとくに機械室の梁の上に残したまま、足場の悪い階子段を静かに下りた。
56
"Magna est veritas,et praevalebit."
57
その夜彼はこの鐘銘の意味をはっきり知った。いい言葉だと思った。「真理は大能なり、真理は支配せん」と訳してみた。一人の科学者にとってはこれ以上に尊い箴言はない。そして科学者として立とうとしている以上、今後は文学などに未練を繋ぐ姑息を自分に許すまいと決心したのだった。
* * *
58
札幌に来る時、母が餞別にくれた小形の銀時計を出してみると四時半近くになっていた。その時計はよく狂うので、あまりあてにはならなかったけれど、反射鏡をいかに調節してみても、クロモゾームの配列の具合がしっかりとは見極められないので、およその時間はわかった。園は未練を残しながら顕微鏡の上にベル・グラスを被せた。いつの間にか助手も学生も研究室にはいなかった。夕闇が処まだらに部屋の中には漂っていた。
59
三年近く被り慣れた大黒帽を被り、少しだぶだぶな焦茶色の出来合い外套を着こむともうすることはなかった。廊下に出ると動物学の方の野村教授が、外套の衣嚢の辺で癖のように両手を拭きながら自分の研究室から出てくるのに遇った。教授は不似合な山高帽子を丁寧に取って、煤けきったような鈍重な眼を強度の近眼鏡の後ろから覗かせながら、含羞むように、
「ライプチッヒから本が少しとどきましたから何んなら見にいらっしゃい」
60
と挨拶して、指の股を思い存分はだけた両手で外套をこすり続けながら忙しそうに行ってしまった。何んのこだわりもなく研究に没頭しきっているような後姿を見送りながら、園は何んとなく恥を覚えた。それは教授に向けられたのか、自分に向けられたのか、はっきりしないような曖昧なものであったが。
61
時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように彎曲していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。
62
芝生代りに校庭に植えられた牧草は、三番刈りの前でかなりの丈けにはなっているが、一番刈りのとはちがって、茎が細々と痩せて、おりからのささやかな風にも揉まれるように靡いていた。そして空はまた雨にならんばかりに曇っていた。何んとなく荒涼とした感じが、もう北国の自然には逼ってきていた。
63
園の手は自分でも気づかないうちに、外套と制服の釦をはずして、内衣嚢の中の星野から託された手紙に触れていた。表に「三隅ぬい様」、裏に「星野」とばかり書いてあるその封筒は、滑らかな西洋紙の触覚を手に伝えて、膚ぬくみになっていた。園は淋しく思った。そして気がついてゆるみかかった歩度を早めた。
64
碁盤のように規則正しい広やかな札幌の往来を南に向いて歩いていった。ひとしきり明るかった夕方の光は、早くも藻巌山の黒い姿に吸いこまれて、少し靄がかった空気は夕ベを催すと吹いてくる微風に心持ち動くだけだった。店々にはすでに黄色く灯がともっていた。灯がともったその低い家並で挾まれた町筋を、仕事をなし終えたと思しい人々がかなり繁く往来していた。道庁から退けてきた人、郵便局、裁判所を出た人、そう思わしい人人が弁当の包みを小脇に抱えて、園とすれちがったり、園に追いこされたりした。製麻会社、麦酒会社からの帰りらしい職工の群れもいた。園はそれらの人の間を肩を張って歩くことができなかった。だから伏眼がちにますます急いだ。
65
大通りまで出ると、園は始めて研究室の空気から解放されたような気持ちになった。そして自分が憚らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町にあまる広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落すことのできないのは、北二条と大通りとの交叉点にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、静かに、大きく、寂しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に鬱蒼と飾られて……園はこの樹を望みみると、それが経てきた年月の長さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。感激した時の癖として、園はその樹を見るごとに、右手を鍵形に折り曲げて頭の上にさしかざし、二度三度物を打つように烈しく振り卸ろすのだった。
66
その夕方も園は右手を振ろうとする衝動をどこかに感じたけれども、何かまたはばむものがあってそれをさせなかった。衝動はいたずらに内訌するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。
67
三隅の家の軒先で、園はもう一度衣嚢の手紙に手をやった。釦をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた硝子張りの格子戸を開けて、黙ったまま三和土の上に立った。
68
待ち設けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある紅緒の草履から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って珊瑚色に充血していた。
69
意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教えに来べき日なのだ。
「まあ……どうぞ」
70
といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り框に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。
71
いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。
72
客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたも[#「たも」に傍点]のちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。
73
けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。
74
けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。
「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」
75
簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。
「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」
「まあ……」
76
おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。
「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」
77
そういいながら園は内衣嚢から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温みがそれに沁みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。
78
何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
79
おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪の根にさした銀の平打の簪を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
80
おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
81
藍がかってさえ見える黒い瞳は素ばしこく上下に動いて行から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」
「そういっていました」
82
園もまともにおぬいさんを見やりながら。
「だいじょうぶでしょうか」
「僕も心配に思っています」
83
この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。
84
おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜くそして淫らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。
85
読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に添えてそれを机の上に戻した。そして両手で火照った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った肘がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。
86
園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。
「前略この手紙を園君に託してお届けいたし候連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて喀血いたし候ようの始末につき今日は英語の稽古休みにいたしたくあしからず御容赦くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても御知悉のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の畏友たるべく候とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の惰眠を貪り雌伏しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは甫めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの齢に達しながら碌々として何事をもなしえざること痛悔の至りに候ことに生来病弱事志と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから憫むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき節もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に屏息せず艱難して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候
87 一八九九年十月四日夜
星野生三隅ぬい様
88
どんな境遇をも凌ぎ凌いで進んでいこうとするような気稟、いくらか東洋風な志士らしい面影、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも偽らない親切心で物をいう先生らしい態度が、蒼古とでも評したいほど枯れた文字の背ろに燃えていると園は思った。
89
同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に無頓着でいられるだろうか。
90
園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する微笑ましい気持が顔へまで波及するかと思われた。園は愚かなはにかみを覚えた。
91
園は自分の前にしとやかに坐っているおぬいさんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の劇変しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。
92
星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……
93
園ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは瞬きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを気取ろうはずはもとよりなかった。
94
けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。
95
その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴え冴えと聞こえてきた。
96
おぬいさんの家の界隈は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。
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それは胸の底に沁み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄にもない啓蒙的な仕事に時間を潰そうとしていること。それらは呪うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく省みられた。
98
やがて園は懺悔するような心持で、努めて心を押し鎮めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。
「話が途切れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの宗旨で使う念仏の鉦の音は聞き慣れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」
99
ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気尤めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの無駄事の取りかえしをするようにと、
「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪しからず」
100
とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。
101
伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに震えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。
102
園は静かに茶を啜り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い毛繻子の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。
103
暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。
104
きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には霰が篠つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。
105
第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。
106
大通りまで来て園は突然足をとどめた。おぬいさんの家から遠ざかるにしたがって、小刻みに震う前髪がだんだんはっきりと眼につきだして、とうとうそのまま歩きつづけてはいられなくなったからだ。星野の行ってしまうということだけであの感じやすい心は十分に痛んでいるのだった。それは十分に察していた。察していながら、自分は断りをいうにしても断りのいいようもあろうに、あんな最後の言葉を吐いてしまったのだ。けれどもあんな最後の言葉を吐かせたのは誰の罪だろう。たんに英語を園に教えろといった星野にその罪はない。もとよりおぬいさんでもない。あの座敷にいた間じゅう、始終あらぬ方にのみ動揺していた自分の心がさせた仕業ではなかったか。自分自身を鞭たなければならないはずであったのに、その笞を言葉に含めて、それをおぬいさんの方に投げだしたのではなかったか。そういえば園は千歳の星野の番地をおぬいさんに教えることをせずにあの家を出た。おぬいさんはそれを尋ねはしなかった。尋ねなければ教えるには及ばないと星野はいっていた。だから園は平気でいてもいいようにも思われる。しかし園にあの最後の言葉を投げつけられたおぬいさんがそれを尋ねる余裕を持ちえられるかどうか。……それよりも園はおぬいさんがそれを尋ねるだろうと最後の瞬間まで待ち設けていたのだ。そのことは始めからしまいまで気にかけていたのだ……ある好奇心なしにではなく……しかもとうとう教えずにしまった。そうした仕打ちの後ろには何んにもないといいきることができるか。……園はぐっと胸に手を重くあてがわれたように思った。
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またのついでの時に知らせようか。……それではいけない。気がすまない。園は大通りの暗闇の中に立って真黒な地面を見つめながら、右の腕をはげしく三度振り卸ろした。
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園はそのままもと来た道に取って返した。
* * *
109
坂というものの一つもない市街、それが札幌だ。手稲藻巌の山波を西に負って、豊平川を東にめぐらして、大きな原野の片隅に、その市街は植民地の首府というよりも、むしろ気づかれのした若い寡婦のようにしだらなく丸寝している。
110
白官舎はその市街の中央近いとある街路の曲り角にあった。開拓使時分に下級官吏の住居として建てられた四戸の棟割長屋ではあるが、亜米利加風の規模と豊富だった木材とがその長屋を巌丈な丈け高い南京下見の二階家に仕立てあげた。そしてそれが舶来の白ペンキで塗り上げられた。その後にできた掘立小屋のような柾葦き家根の上にその建物は高々と聳えている。
111
けれども長い時間となげやりな家主の注意とが残りなくそれを蝕んだ。ずり落ちた瓦は軒に這い下り、そり返った下見板の木目と木節は鮫膚の皺や吹出物の跡のように、油気の抜けきった白ペンキの安白粉に汚なくまみれている。けれども夜になると、どんな闇の夜でもその建物は燐に漬けてあったようにほの青白く光る。それはまったく風化作用から来たある化学的の現象かもしれない。「白く塗られたる墓」という言葉が聖書にある……あれだ。
112
深い綿雲に閉ざされた闇の中を、霰の群れが途切れては押し寄せ、途切れては押し寄せて、手稲山から白石の方へと秋さびた大原野を駈け通った。小躍りするような音を夜更けた札幌の板屋根は反響したが、その音のけたたましさにも似ず、寂寞は深まった。霰……北国に住み慣れた人は誰でも、この小賢かしい冬の先駆の蹄の音の淋しさを知っていよう。
113
白官舎の窓――西洋窓を格子のついた腰高窓に改造した――の多くは死人の眼のように暗かったが、東の端れの三つだけは光っていた。十二時少し前に、星野の部屋の戸がたてられて灯が消えた。間もなく西山と柿江とのいる部屋の破れ障子が開いて、西山がそこから頭を突きだして空を見上げながら、大きな声で柿江に何か物を言った。柿江が出てきて、西山と頭をならべた。二人は大きな声をたてて笑った。そして戸をたてた。灯が消えた。
114
二階の園の部屋は前から戸をたててあったが、その隙間から光が漏れていた。針のように縦に細長い光が。
115
霰はいつか降りやんでいた。地の底に滅入りこむような寒い寂寞がじっと立ちすくんでいた。
116
農学校の大時計が一時をうち、二時をうち、三時をうった。遠い遠い所で遠吠えをする犬があった。そのころになって園の部屋の灯は消えた。
117
気づかれのした若い寡婦ははじめて深い眠りに落ちた。
* * *
「おたけさんのクレオパトラの眼がトロンコになったよ。もう帰りたまえ。星野のいない留守に伴れてきたりすると、帰ってから妬かれるから」
「柿江、貴様はローランの首をちょん切った死刑執行人が何んという名前の男だったか知っているか」
118
前のは人見が座を立ちそうにしながら、抱きよせたクレオパトラの小さな頭を撫でつつ、にやりと愛嬌笑いをしているおたけにいった言葉だが、それをおっ被せるように次の言葉は西山が放った。めちゃくちゃだった。けれども西山は愉快だった。隅の方で、西山が図書館から借りてきたカアライルの仏蘭西革命史をめくっていた園が、ふと顔を上げて、まじまじと西山の方を見続けていた。濛々と立ち罩めた煙草の烟と、食い荒した林檎と駄菓子。
119
柿江は腹をペったんこに二つに折って、胡坐の膝で貧乏ゆすりをしながら、上眼使いに指の爪を噛んでいた。
120
ほど遠い所から聞こえてくる鈍い砲声、その間に時々竹を破るように響く小銃、早拍子な流行歌を唄いつれて、往来をあてもなく騒ぎ廻る女房連や町の子の群れ、志士やごろつきで賑いかえる珈琲店、大道演説、三色旗、自由帽、サン・キュロット、ギヨティン、そのギヨティンの形になぞらえて造った玩具や菓子、囚人馬車、護民兵の行進……それが興奮した西山の頭の中で跳ね躍っていた。いっしょに演説した奴らの顔、声、西山自身の手振り、声……それも。
「おい、何とか言いな、柿江」
「貴様の演説が一番よかったよ」
121
柿江は爪を噛みつづけたまま、上眼と横眼とをいっしょにつかって、ちらっと西山を見上げながら、途轍もなくこんなことをいった。
122
猿みたいだった。少しそねんでいることが知れる。西山は無頓着であろうとした。
「そんなことを聞いているんじゃない。知らずば教えてつかわそう。サムソンというんだ」
123
綺麗な疳高い、少し野趣を帯びた笑声が弾けるように響いた。皆んながおたけの方を見た。人見がこごみ加減に何か話しかけていた。異名ガンベの渡瀬がすぐその側にいて、声を出さずに、醜い顔じゅうを笑いにしていた。
「皆んなちょっと聴けちょっと聴け、人見が今西山の真似をしているから……うまいもんだ」
124
ガンベが両手を高くさし上げて、手の先だけを「お出でお出で」のように振り動かした。部屋じゅうが一時静になった。
125
声の色はまるで違っていた。人見はしかし西山の癖だけは腹立たしいほどよく呑みこんでいた。
「けれどもです、仏国革命の血はむだに流されはしなかった。人間全体の解放ではなかったかしれない。商工業者のために一般の人民は利用されたのだったかしれない。けれどもです、貴族と富豪と僧侶とは確実にこの地面の上から、この……地面の上から一掃され……」
「ばか! 幇間じみた真似をするない」
126
西山は呶鳴らないではいられなかった。今日の演説を座興も座興、一人の女を意識に上せて座興にしようとしている人見の軽薄さにはまったく腹が立った。第一似すぎるほど似ているのが癪に障った。
「けれどもだ、まったくうまいもんだな」
127
ガンベがそういった。そうして一同が高く笑い崩れるにしたがって、片方の牡蠣のように盲いた眼までを輝かして顔だけでめちゃめちゃに笑った。
128
西山はせきこんでうっかり「けれどもだ」と言おうとしたが、危くそれを呑みこんだ。そしていった。
「俺は不愉快だよこの場合。俺は今日は練習のために演説をやったんじゃないからな。冗談と冗談でない時とはちっと区別して考えるがいいんだ」
129
園が西山のいきまくのを少し恥じるように書物の方に眼を移した。おたけはぎごちなさそうに人見から少し座をしざった。たった今までの愉快さは西山から逃げていった。西山自身があまりな心のはずみ方に少し不安を抱きはじめた時ではあったが……
「それはそうだ。ひとつ西山のいったことを話題にして話し合ってみよう」
130
いつも部屋の中でも帽子を取ることをしない小さな森村が、眉と眉との間をびくびく動かしながら、乾ききった唇を大事そうに開け閉てした。
「私もう帰りますわ」
131
おたけはきゅうにつつましくなった。肉感的に帯の上にもれ上った乳房をせめるようにして手をついていた。西山のけんまくに少し怖れを催したらしい。クレオパトラは七歳になったばかりの大きな水晶のような眼を眠そうにしばたたいて、座中の顔を一つ一つ見廻わしていた。
「誰か送ってやれ」
132
人見が送りたがっているのを知っているから西山はこういった。人見には送らせたくなかったのだ。西山にそういわれると人見はたった今の失敗で懲りたらしく自分を薦めようとはしなかった。
133
送り手の資格について六人の青年の間にしばらく冗談口が交わされた。六人といっても園だけは何んにもいわなかった。ガンベがいった。
「一番資格のない俺の発言を尊重しろ。人見の奴は口を拭っていやがるが貴様は偽善者だからなあ。柿江は途中で道を間違えるに違いないしと。西山、貴様はまた天からだめだ。気まぐれだから送り狼に化けぬとも限らんよ。おたけさん、まあ一番安全なのは小人森村で、一番思いやりの深いものは聖人園だが、どっちにするかい」
134
おたけは送ってもらわないでもいいといって、森村と園とを等分に流し眄で見やった。西山はもう万事そんなことに興味を失ってしまった。園が送ることになっておたけといっしょに座を立っていった。その時星野からの葉書を自分の側に坐っていた柿江に何かいいながら手渡した。
135
とにかく一人の娘の見送手などに選ばれるというのはブルジョア風の名誉にすぎない。
「園にはいやにブルジョア臭いところがあるね」
136
自分の言葉が侮蔑的に発せられたのを西山は感じた。
「そりゃ貴様、氏と生れださ。貴様のような信州の山猿、俺のようなたたき大工の倅には考えられないこった。ブルジョアといえば森村も生れは土百姓のくせにいやに臭いな」
137
ガンベはつけつけこういった。
138
けれどもおたけがいなくなると部屋の調子がいわば一オクターヴ低くなった。その代り誰も彼もが、より誰も彼もらしくなった。会話は自然に纏まって本筋に流れこんだ。人見は軽い機智の使いどころがなくなって蔭に廻った。西山の気分はまた前どおりの黙って坐ってはいられないような興奮に帰っていった。
「そうかなあ」
139
三時下ってから独語のような返事をして、森村は眠そうな薄眼をしながらすましていた。
140
マラーは彼が宮殿と呼ぶ襤褸籠のような借家の浴室で、湯にひたりながら書きものをしている。その眼の前の壁には、学校で使い古したらしい仏蘭西の大掛図が、皺くちゃのまま貼りつけてある。突然玄関の方で、彼の情婦が、聞き慣れない美しい声を持った婦人と烈しくいい争っているけはいがする。マラーはしばらくの間眉をひそめて聞耳を立てていたが、仰向に浴漕に浸っているままで大声に情婦を呼びたてる。そして聞き慣れない美しい声の持主というのはジロンド党員の陰謀を密告するために、わざわざカンヌから彼を訪れたのだといって、昨日以来面会を求めている年の若い婦人だと知れる。その婦人に対してある好奇心が動く。破格の面会を許す。
141
もうそこにはマラーはいない。醜い死骸になって、浴槽から半身を乗りだしたまま、その胸は短剣に貫かれて横わっている。カンヌから来たという美しい処女シャーロット・コルデーは血の気の失せた唇から「私は自分の仕事を仕遂げてしまった。今度はあなた方の仕事をする番が来た」と言いながら、悪魔のように殺気立った群衆に取り囲まれて保安裁判所に引かれていく……
142
仏国革命に現われでる代表的人物の中でことに気に入ったマラーの最後のありさまは、これだけ込み入った光景をただ一瞬間に集めて、ともすれば西山の頭にまざまざと浮びでた。それは西山にとってはどっちから見てもこの上なく厳粛な壮美な印象だった。西山はしばしばそれに駆りたてられた。
「そうかなあ」と森村が言ったあとに、言い合わしたような沈黙が来た。その時西山の頭をこの印象が強く占領した。
「西山は本当に東京に行くつもりなのか」
143
睫の明かなくなったような眼の上に皺を寄せながら森村は西山の方に向いた。それが部屋の沈黙をわずかに破った。西山は声よりも首でよけいうなずいた。今までのばか騒ぎに似ず、すべての顔には今までのばか騒ぎに似ぬまじめさと緊張さとが描かれた。
「学資はどうする」
144
渡瀬が泣きだすとも笑いだすともしれないような顔をした。稀にではあるが彼もその奇怪な性格の中からみごとなものを顔まで浮きださせることがある。その時の顔だ。
145
西山はそれを感ずると妙に感傷的にさせられていた。
「労働者になるつもりでいればどうにかなるだろう」
146
もう一度長い沈黙が来た。
「貴様は夢を見ているんじゃあるまいな」
147
と渡瀬がついに本気になって口を開き始めた。
「今日の演説を聞きながらもそう思ったんだが、社会運動なんてことは実際をいうと、余裕のある人間がすることじゃないかな。ブルジョア気分のものじゃないかな。俺なんかはそんなことは考えもしないがなあ。学問だって俺ゃ勘定ずくでしているんだ。むりでも何んでも大学程度の学問だけはしておかないと、これからはうそだと思うもんだから俺はこうやっているんで、学問の尊厳なんて、そんなものがあるもんかい。それは余裕のある手合いがいうことだ。照り降りなしに一生涯家族まで養おうというにはこれが一番元資のかからない近道なんだ。俺にはそれ以上を考える余裕はないよ。俺と同じ境遇の人間を救ってやるの、来るべき時代をどうするのというような余裕は俺には正直なところ出てこないよ。……貴様このカアライルにでもかぶれているととんだ間違いになるぜ。貴様の考えはばかに平民的だが、考え方……考えじゃない、考え方だ……その考え方にどこかブルジョア臭いところがあるんじゃないかなあ」
148
人見はおかしな男だった。西山には何んとなく気を兼ねていたが、西山がどうかすると受身になりたがるガンベの渡瀬に対してつけつけ[#「つけつけ」に傍点]と無遠慮をいった。つまり三人は三すくみのような関係にあったのだ。
「新井田の細君の所に行って酒ばかり飲んでうだっているくせに余裕がないはすさまじいぜ」
「貴様はそれだからいけねえ。あれも勘定ずくでやっている仕事なんだ。いまに御利益が顕われるから見てろ」
「じゃここに来て油を売るのも勘定ずくなのか」
「ばかあいえ。俺だって貴様、俺だって貴様……とにかく貴様みたいな偽善者は千篇一律だからだめだよ……なあ西山」
149
牡蠣のような片目が特別に光って西山の方に飛んできた。不思議だった。西山は涙を感じた。
150
森村が眠そうな顔をしながら会心の笑みのようなものを漏らした。そしてしびれでも切らしたようにゆっくり立ち上って、ろくろく挨拶もせずに帰っていった。十時近いことが知れた。森村はどんなことがあっても十時にはきっと寝る男だったから。西山の演説を主題にして論じようといっておきながら、知らん顔をして帰っていった。
「ガンベのいうことはそりゃあんまり偽悪的じゃないか。そうだろう。俺が今日いったような考えはすべての階級の人間が多少ずつは持ってるんだ。そう俺は思うな――というより断言できる。俺は何しろ星野に今日の演説を聞いてもらいたかった。とにかく俺はやってみる。こんな処で神妙に我慢していることはもう俺には、どうしてもできんよ。ちっとやそっとの横文字の読める百姓になったところで貴様、それが何んの足しになるかさ。東京に行ってひとつ俺は暴れ放題に暴れるだ。何をやったっても人間一生だ。手ごたえのある処にいって暴れてみないじゃ腹の虫が承知しないからな。けれどもだ。ペンタゴンなんか相手にしていたんじゃなあ……柿江なんぞも、田舎新聞にひとりよがりな投書ぐらい載せてもらって得意になっていないで、ちっと眼を高所大所に向けてみろ。……何んといってもそこに行くと星野は話せるよ」
151
ガンベは実際どこかに堅実なところがあって、それが言葉になるとうっかり矢面には立てなかった。今の言葉にも西山はちょっとたじろいたので、いっそう心の奥のありさまそのままを誰を相手ともなくいい放った。それはかえって彼の心をすがすがしくした。そして演壇に立って以来鎮まらずにいる熱い血液が、またもや音を立てて皮膚の下を力強く流れるのを感じた。
152
西山は奇行の多い一人の暴れ者として教師からも同窓からも取り扱われ、勉強はするが、さして独創的なところのない青年として見られているのを知っていた。彼は何んとなくその中に軽侮を投げられているような気がして、その裏書を否定するような言動をことさらに試みていたのだが、今日の演説と今の言葉とで、それをはっきり言い現わしたのを感じた時、心臓へのある力の注入を自覚せずにはいられなかった。生涯の進路の出発点が始めて定まったと思えた。彼の周囲が彼を見なおしたのは、彼が彼の周囲を見なおす結果になっていた。たとえばおたけだ。おたけが星野に対して特別な好意を示すのを見極めたある夜に、彼は一晩じゅう寝なかったことがあった。愚かな屈辱……ところが今日は人見がおたけを意識しながら彼の演説の真似をしたりするのを見ると、ある忌わしい羨望の代りに唾棄すべき奴だと思わずにはいられなくなっていた。女性――彼を待っている女性は一人よりいない。そしてその一人はおたけなどとどの点においても比較になるような人ではなかった。それがゆえに彼の未来を切り開いて、自分の立場に一日でも早く立ち上がろうとする焦躁は激しくなった。万事につけて彼の気持はそんな風に動いていった。
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突然柿江が能弁になった。彼が能弁になるのは一種の発作で、無害な犬が突然恐水病にかかるようなものだ。じくじくと考えている彼の眼がきゅうに輝きだして、湯気を立てんばかりな平べったい脂手が、空を切って眼もとまらぬ手真似の早業を演ずる。そういう時仲間のものは黙ってそれが自然に収まるのを待っているよりほかはない。彼は貧乏ゆすりをしながら園から受取った星野の葉書を手脂だらけにして丸めたり延ばしたりしていた。それを棒のように振り廻わし始めた。
154
高所大所とはいったい何を意味するつもりだというところから柿江は始めた。高所は札幌の片隅にもある、大所は女郎屋の廻し部屋にもあると叫んだ。よく聞けよく聞けといって彼はだんだん西山の方に乗りだしていった。西山は自分の机に腰をかけたまま受太刀になってあっけに取られてそれを眺めていなければならなかった。
「教授の手にある講義のノートに手垢が溜まるというのは名誉なことじゃない。クラーク、クラークとこの学校の創立者の名を咒文のように称えるのが名誉なことじゃない。当世の学問なるものが畢竟何に役立つかを考えてみないのは名誉なことじゃない。現代の社会生活の中心問題が那辺にあるかを知らないのは名誉なことじゃない。それを知って他を語るのはさらに名誉なことじゃない。日清戦争以来日本は世界の檜舞台に乗りだした。この機運に際して老人が我々青年を指導することができなければ、青年が老人を指導しなければならない。これでありえねばあれだ。停滞していることは断じてできない。……言葉は俺の方が上手だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは漫罵だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を大声疾呼したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……」
「何が軽薄だ。軽薄とは貴様のように自分にも訳の判らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴わないのを軽薄というんだ。けれどもだ、俺はとにかく実行はしているぞ。哲学はその後に生れてくるものなんだ」
155
西山は軽薄という言葉を聞くと癪にさわったが、柿江の長談義を打ち切るつもりで威かし気味にこういった。
156
けれども柿江はほとんど泥酔者のようになってしまっていた。その薄い唇は言葉を巧妙に刻みだす鋭い刃物のように眼まぐるしく動いた。人見はいつの間にかこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と二階の自分の部屋に行ってしまった。
157
そこに園が静かにはいってきた。夜寒で赤らんだ頬を両手で撫でながら、笑みかけようとしたらしかったが、少し殺気だったその場の様子にすぐ気がついたらしく、部屋の隅をぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と廻って窓の方に行って坐った。
158
柿江はまだ続けていた。西山はもう実際うるさくなった。自分の生活とは何んの関係もない一つの空想的な生活が石ころのようにそこに転がっているように思った。
「寒いか」
159
戸外の方を頤でしゃくりながら、柿江には頓着なく園に尋ねた。
160
その拍子に柿江がぷっつりと黙った。憑いていた狐が落ちでもしたように。そしてきまり悪るげにそこにいた三人の顔に眼を走らすと慌てて爪を噛みはじめた。
「渡瀬君まだいたんだね。僕はもし帰ってしまうといけないと思ってかなり急いだ」
「おたけさんから何か伝言があったろう」
「いいえ」
161
園はまるでおとなしい子供のようににこついた。
「柿江君さっきの葉書はどうしたろう。渡瀬君に見せてくれたの」
162
笑うべきことが持ち上っていた。星野の葉書は柿江の手の中に揉みくだかれて、鼠色の襤褸屑のようになって、林檎の皮なぞの散らかっている間に撒き散らされていた。
「困るなあ、それにね、三隅のおぬいさんの稽古を君に頼みたいからと書いてあったんだのに……それだから渡瀬君に渡してくれって頼んでおいたじゃないか」
「君にとは俺にかい」
163
園に顔を見つめられながら、半分は剽軽から、半分は実際合点がいかない風でガンベは聞き返した。法螺吹で、頭のいいことは無類で、礼儀知らずで、大酒呑で、間歇的な勉強家で、脱線の名人で、不敵な道楽者……ガンべはそういう男だったのだから、少なくとも人が彼をそう見ていることを知っていたから。
「そうだ、君にだ」
164
そう園のいうのを聞くと、ガンべは指の短かい、そして恐ろしく掌の厚ぼったい両手を発矢と打ち合せて、胡坐のまま躍り上がりながら顔をめちゃくちゃにした。
「星野って奴は西山、貴様づれよりやはり偉いぞ」
165
西山は日ごろの口軽に似ず返答に困った。西山が星野を推賞した、その矛を逆まにしてガンベは切りこんできた。星野が衆評などをまったく眼中におかないで、いきなり物の中心を見徹していくその心の腕の冴えかたにたじろいたのだ。しかたなしに彼は方向転換をした。そして、
「園君、君が最初に頼まれたんだろう」
166
と搦手からガンべの陣容を崩そうとした。
「いいえ別に、僕は手紙をおぬいさんにとどけるように頼まれただけだった」
167
それが園の落ち着いた答えだった。
「俺が札幌にいりゃ、この幕は貴様なんぞに出しゃばらしてはおかなかったんだが」
168
そういって西山は取ってつけたように傍若無人に高笑いするよりのがれ道がなかった。
169
柿江は三人の顔にかわるがわる眼をやりながら爪をかみ続けていた。あのままで行くと狂癲にでもなるんではないかとふと西山は思った。とにかく夜は更けていった。何かそこには気のぬけたようなものがあった。六年近く兄弟以上の親しさで暮してきたこの男たちとも別れねばならぬ四辻に立つようになった……その淡い無常を感じて、机からぬっくと立ち上りながら西山は高笑いを収めた。そして大きな欠伸をした。
* * *
170
その時清逸は茶の間に母といっしょにいたのだが、おせいの綿入を縫っていた母は針を置いて迎えに立っていった。清逸は膝の上に新井白石の「折焚く柴の記」を載せて読んでいた。年老いた父が今麦稈帽子を釘にひっかけている。十月になっても被りつづけている麦稈帽子、それは狐が化けたような色をしている。そしてそれは父が自分の家族のためにどれほど身をつめているかを人に見せびらかすシムボルなのだ。清逸はそれをまざまざと感ずることができた。そればかりではない。今日の父は用向きがまったく失敗に終ったこと、父が侮蔑だと思いこみそうなことを先方からいわれて胸を悪くして帰ってきたこと、それをも手に取るように感ずることができた。清逸にはその結果は前から分っていることだった。
171
わざとらしい咳払いを先立てて襖を開き、畳が腐りはしないかと思われるほど常住坐りっきりなその座になおると、顔じゅうをやたら無性に両手で擦り廻わして、「いやどうも」といった。それは父が何か軽い気分になった時いつでもいう言葉だ。しかしそれを今日はてれ隠しにいっている。
172
母が立ったついでにラムプを提げてはいってきた。そしてそれを部屋の真中にぶらさがっている不器用な針金の自在鍵にかけながら、
「降られはしなかったけえ」と尋ねた。
「なに」
173
といったぎりでまた顔を撫でた。と、思いだしたように探りを入れるような大きな眼を母の方にやりながら、
「時雨れた時分にはちょうど先方にいたもんだから何んともなかった」
174
とつけ加えた。父は一度も清逸の方を見ようとはしない。
175
札幌のような静かな処に比べてさえ、七里隔たったこの山中は滅入るほど淋しいものだった。ことに日の暮には。千歳川の川音だけが淙々と家のすぐ後ろに聞こえていた。清逸は煮えきらない部屋の空気を身に感じながら、その川音に耳をひかれた。こっちの方から話の糸口を引きだして、父の失敗が気にかけるほどのものではないのを納得させたものだろうか、それとも話の出ないのをいいことにしてうやむやにすましてしまったものだろうかと考えた。久しぶりで戸外に出た父は、むだ話の材料をしこたま持って帰っているに違いない。思出話ばかりを繰り返している反動に、それを一つ一つ持ちだされるのは清逸にはちょっと我慢のできないことらしかった。さらぬだにいらいらしがちな気分と、消耗熱のために我慢が薄くなっているのとで、清逸はそれを恐れた。清逸はつまらぬこととは思いながら白石の父の賢明さを思い浮べた。父子で身にしみじみと話しこんで顔にとまった蚊が血に飽きすぎて、ぽたり[#「ぽたり」に傍点]と膝の上に落ちるまで払いもせずにいたという、そういう父子の間柄であったのを思い浮べた。その挿話は前から清逸の心を強く牽いていたものだった。
176
父は煙草をのんではしきりに吐月峰をたたいた。母も黙ったまま針を取り上げている。
177
店の方に物を買いに来た人があった。母はすぐ立っていった。
「どうもやはり北海道米はなあ増えが悪るうて。したら内地米の方に……何等どこにしますかなあ」
178
買手の声は聞こえないけれども、母のそういう声ははっきりと聞こえた。父は例の探りを入れるような眼をちょっとそっちに向けた。そしてこの機会にと思ったか始めて清逸の眼をさけるようにしながら忙がしく話しかけた。
179
中島は会わないでその養子というのが会ったのだが、老爺が齢がいっているので、そんな話はうるさいと言って聞きたがらないし、自分の一存としていうと、当節東京に出ての学問は予想以上の金がかかるから、こちらは話によっては都合しないものでもないけれども、何しろ学問が百姓とはまったく縁のないことだし、長い間にはそちらが当惑なさるようにでもなると、せっかく今までの交際にひびが入ってかえっておもしろくないから、子息さんがそれほどの秀才なら、卒業の上採用されるという条件で話しこんだら、会社とか銀行とかが喜んで学資を出しそうなものだ。ひとつ校長の方からでもかけ合ってもらうのが得策だろうとの返辞だったと父は言った。
180
そこに母が前掛についた米の粉をはたきながらはいってきた。父は話を途切らそうか続けようかと躇らった風だったが、きゅうに調子を変えて、中島の養子というのを眼下扱いにして話を続けた。
「中島に養子にはいるについちゃあれはわしが口をきいてやったようなものだ。ろくな元資も持たず七年前に富山から移住してきた男だったが、水田にかけては経験もあるし、人間もばかではないようだったから、……その……何んとかいったなあもう一人の養子は……何んとかいった、それにわしが推薦したのがもとになったんだ。それをおみさ今日会うとな、『金でもありあまっていることならとにかく、さもなければ学問はまあ常識程度にしておいて、実地の方を小さい時から仕込むに限りまっさ』とこうだ」
181
そして惘れはてたという顔を母にしてみせた。
182
それはしかし父が清逸の弟について噂する時誰にでも言って聞かせる言葉ではないか。清逸の学資の補助を送金する時にも、父は母に向ってたまには同じようなことを言ったかもしれないのだ。
183
清逸はもうそのほかに何んにも聞く必要はなかった、札幌に学んでいることすらも清逸の家庭にとっては十二分の重荷であるのを清逸はよく知っている。弟の純次は低能に近いといっていいから尋常小学だけで学校生活をやめたのはまずいいとしても、妹のおせいに小樽で女中奉公をさせておかねばならぬというのは、清逸の胸には烈しくこたえていた。清逸が会社か銀行にでも勤めていたらおせい一人くらいを家庭に取りかえすのは何んでもないことだったろう。一人の妹、清逸がことに愛している一人の妹の身を長い間不自由な境界において我慢しているのは、清逸だからできるのだと清逸は考えていた。しかしどうかすると清逸はそのためにおそくまで眠りを妨げられることがあった。けれどもどんな時でも、清逸が学問をするために牽
184
清逸は小学校の三年を卒業する時から、自分は優れた天分を持って生れた人間だとの自覚を持ちはじめたことを記憶している。田舎の小学校のことだから、卒業式の時には尋常三年でも事々
185
清逸は上京の相談で家に帰りはしたが、自分の健康が掘りだしたばかりの土塊のような苛辣
186
父は自分が一種の怠け者で、精いっぱいに生活をしてこなかったのを気づいている。始終窮境に滅入りこむその生活は、だから不運ばかりの仕業
187
父が三里も道程
188
ラムプに黄色く灯がついてから、弟の純次は腰から下をぐっしょり濡らして、魚臭くなって孵化場から帰ってきた。彼は店の方に行って駄菓子を取ってきてそれを立ち喰いしながら、駄々子のように母に手伝わせて和服に着かえた。清逸に挨拶一つしなかった。清逸一人が都会に出て、手足にあかぎれ一つ切らさず、楽をしながら出世する。その犠牲になっているのだぞという素振
189
貧しい気づまりな食卓を四人の親子は囲んだ。父の前には見なれた徳利と、塩辛
「もう鮭はたくさん上
190
清逸はたまりかねて純次にこう尋ねてみた。
「うむ」
191
という答えが飯を頬張った口の奥から出るだけだった。
「今年は何台卵を孵
「知らねえ」
192
母がさすがに気をかねて、
「知らねえはずはあるめえさ」
193
と口添
「知らねえよ」
194
と言いながら持ち合わせた箸で食卓を二度たたいた。
195
大食の純次はまだ喰いつづけていたし、父はまだ飯にしないので、母も箸を取らずにいたが、清逸は熱感があって座に堪えないので、軽く二杯だけむりに喰うと、父の自慢の蓬茶
196
純次の部屋にあててある入口の側の独立した三畳の小屋にはいってほっ[#「ほっ」に傍点]とした。母がつづいてはいってきた。丸々と肥えた背の低い母は、清逸を見上げるようにして不恰好に帯を揺りあげながら、
「やっぱりよくないとみえるね」
197
と心配を顔に現わしていってくれた。
「寒さが増してくるとどうしてもよくないさ。けれどもそんなにひどいことはない。熱があるようだから先に寝かしてもらいます」
「そだそだ、それがいいことだ」
198
そして純次の床を部屋の上
199
清逸は一昨日ここに帰ってきてから割合によく眠ることができた。海岸のように断続して水音のするのはひどく清逸の心をいらだたせたが、昼となく夜となく変化なしに聞こえる川瀬の音は、清逸の神経を按摩
200
清逸は寝たまま含嗽
201
その夜はしかし思うようには寝つかれなかった。彼の疲労が恢復
202
ふと眼がさめた。清逸はやはりいつの間にか浅い眠りを眠っていたのだった。盗汗
203
川音がしていた。
204
何時ごろだろうと思って彼はすぐ枕許のさらし木綿
205
珍らしく月夜だった。夜になると曇るので気づかずにいたが、もう九日ぐらいだろうかと思われる上弦というより左弦ともいうべきかなり肥った櫛形
206
突然清逸の注意は母家
「中島を見ろ、四十五まであの男は木刀一本と褌
「じゃ何んで兄さんにばっか学問をさせるんだ」
「だから言って聞かせているじゃないか。清逸が学問で行くなら、お前は実地の方で兄さんを見かえしてやるがいいんだ」
207
純次は黙ってしまった。父は少し落ち着いたらしく、半分は言い聞かすような、半分は独語
「中島は水田をやっているうちに、北海道じゃ水が冷
208
そのあとは声が落ち着いていくので、かすれかすれにしか聞こえなくなった。
「兄さんは悪い病気でねえか」
209
しばらくしてから突然純次のこう激しく叫ぶ声が聞こえた。今度は純次は母と言い争いを始めたらしい。母も何か言ったようだったが、それは聞こえなかった。
「肺病はお母さんうつるもんだよ」
210
純次の声がまた。それは聞こえよがしといってよかった。
「そうしたわけのものでもあるまいけんど」
「うんにゃそうだ」
211
そのあとはまた静かになった。清逸は早く寝入ってしまうに限ると思って夜着の中に顔を埋めた。寝入りばなの咳がことに邪魔になった。
212
純次が鼻緒のゆるんだ下駄を引きずってやってくる音がした。清逸は今夜はもう相手になっていたくなかったので寝入ったことにしていようと思った。
213
思いやりもなく荒々しく引戸を開けて、ぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と締めきると、錠
214
やがて純次は、清逸の使いふるしの抽出
215
純次は博文館の日記を開いて鉛筆で何か書いているらしかったが、もぞもぞと十四五字も書いたと思う間もなく、ぱたんとそれを伏せて、吐きだすごとく、
「かったいぼう」
216
とほざいて立ちあがった。そして手取り早く巻帯を解くと素裸かになって、ぼりぼりと背中を掻
217
純次はすぐ鼾
218
清逸の耳にはいつまでも単調な川音が聞こえつづけた。
* * *
219
何んという不愛想な人たちだろうと思って、婆やはまたハンケチを眼のところに持っていった。
220
上りの急行列車が長く横たわっているプラットフォームには、乗客と見送人が混雑して押し合っていた。
221
西山さんは機関車に近い三等の入口のところに、いつもとかわらない顔つきをしていつもとかわらない着物を着て立っていた。鳥打帽子の袴なしで。そのまわりを白官舎の書生さんをはじめ、十四五人の学生さんたちが取りまいて、一人が何かいうかと思うと、わーっわーっと高笑いを破裂させていた。夜学校から見送りに来たらしい男の子が一人と女の子が二人、少し離れた所で人ごみに揉
222
婆やはもう一度西山さんをつかまえて何かもっと物をいいたいと思って、書生さんたちの後から隙をうかがっているけれども、容易にその機会は来そうもなかった。人の心も察しないで何んという不愛想な人たちだろうと思って腹立たしかった。その時軟かく自分の肩に手を置く人があった。振り向いてみるとおぬいさんだった。娘心はおびただしい群衆のぞよめきに軽く酔ったらしく頬のあたりを赤くしていた。
「あなたそんな所にいるとあぶのうございます。こちらにいらっしゃいな」
223
そういっておぬいさんは誘ってくれた。婆やはそれをしお[#「しお」に傍点]に諦
「星野さんはお留守だし、西山さんはきゅうに東京にな、お発
224
婆やは西山さんの口調を真似
「と涙の出るようなことをいうてだったが、ここに来たら最後、見なさるとおり、婆やなどは眼にも入らぬげでなもし」
225
婆やはそこにいる四人に万遍
226
おたけさんが我慢がしきれなくなったらしく、きゅうに口もとに派手
「あなたも年をとってみるとこの味は分ってきなさるが……」
227
皆まで聞かずにおたけさんはとうとう顔を真赤にして笑いだしてしまったが、ふと眼を西山の方にやると驚いたらしく、
「まあ新井田の奥さんが」
228
と仰山
229
ガンベさんが取りなすように三十恰好
230
婆やも驚いておたけさんに尋ねた。
「あれはどなただなもし」
「あなた知らないの。あれがそら渡瀬さんのよく行く新井田さんの奥さんなのよ」
231
とおたけさんは奥さんから眼を放さない。重そうな黒縮緬
232
駅夫
233
人波の上に頭だけは優
「じゃ行ってきます。万事ありがとうございました。さようなら。御大事に」
234
婆やはつくづく西山さんが恨
235
いきなり痛いほど婆やの左の肩を平手ではたくものがいた。それが西山さんだった。
「じゃ婆やいよいよお別れだ。寒くなるから体を大事にするんだ」
236
そういうわけだったのかと思うと婆やはありがたいほど嬉しくなって、西山さんの手を握って何んにもいわずにお辞儀をした。
「もういいから」
237
西山さんは手を振りきってどんどん列車の方に行く。婆やはそのすぐあとから楽々と跟
238
人見さんが列車の窓から、
「おいここだ、ここだ」
239
といって西山さんを招いていた。
「危
240
知らない学生が婆やを引きとめた。婆やは客車の昇降口のすぐそばまで来てまごついていたのだ。そこから人見さんが急いで降りてきた。
241
見ると人見さんの顔を出していた窓の所には西山さんの顔があった。がやがや[#「がやがや」に傍点]いい罵
242
三隅さんのお袋とおぬいさんとが親切に介抱してくれるので、婆やは倒れもせずに改札口を出たが、きゅうに張りつめていた気がゆるんで涙がこみあげてきそうになった。送りに来た書生さんたちはと見ると、まるでのんきな風で高笑いなどをしながら遠くから冗談口を取りかわしたりして、思い思いに散らばっていってしまった。何んの気で見送りに来たのか分らないような人たちだと婆やは思った。白官舎の人たちも、柿江さんは夜学校の生徒の手を引いて行ってしまうし、そのほかの人の姿はもうどこにも見えなかった。
243
停車場前のアカシヤ街道には街燈がともっていた。おたけさんとはぐれたので婆やは三隅さん母子と連れ立って南を向いて歩いた。
「星野さんがお帰りてから何んとかお便りがありましたか」
244
と大通り近くに来てからお袋が婆やに尋ねた。
「何があなた。皆んな鉄砲丸のような人たちでな」
245
婆やはそう不平を訴えずにいられなかった。
「私の方にもありませんのよ」
246
とおぬいさんがいった。
247
大通りから婆やは一人になった。これでようやく帰りついたと思うと、書生さんたちはとうの昔に帰ってきていて、早く飯にしろとせがみたてるに違いない。これから支度をするのにそう手早くできてたまることかなと婆やは思いながらもせわしない気分になって丸っこい体を転がるように急がせた。
248
きゅうに手の甲がぴりぴりしだした。見ると一寸
* * *
249
おぬいは手さぐりで夢中に母にすがりつこうとしていたらしかった。眼をさましてみると、母は背面向
250
ほっ[#「ほっ」に傍点]と安心はした。けれどもどうしてこんないやな夢ばかり見るのだろうとおぬいは情けなかった。枕紙に手をやってみるとはたしてしとどに濡れていた。夢の中で絶え入るように泣いてしまったのだから、濡れていると思ったらやはり濡れていた。眼のあたりを触ってみると、右の眼頭から左の眼に、左の眼尻から鬢
251
覚めてから覚えている夢も覚えていない夢も、母にはぐれたり、背
252
今のおぬいの身の上として、天にも地にも頼むものは母一人きりなのだ、その母がおぬいをまったく見忘れている夢らしかった。怖いものを見窮
253
母があれはおぬいではありませんときっぱり人々にいっていた。おかしなことをいう娘だといいそうな快活な笑いを唇のあたりに浮べながら。まわりにいる人たちもおぬいに加勢して、あれはあなたのお嬢さんですよといい張ってくれているのに母は冗談にばかりしているらしかった。おぬいはもしやと思って自分を見ると、たしかにいつものとおりの着物を着て、それは情けなそうな顔つきはしていたけれど自分の顔に相違なかった。
254
とにかくおぬいは死物狂いに苦しんだ。眼も見えないまでに心が乱れて、それと思わしい方に母恋しさの手を延ばしてすがり寄った。そして声を立ててひた泣きに泣いたのだった。
255
夢が覚めてよかったと安堵
256
おぬいは思わず肘
「お母さん」
257
と呼んでみないではいられなかった。十二時ごろ病家から帰ってきた母の寝息は少しもそのために乱れなかった。
258
もう一度呼んでみる勇気はおぬいにはなかった。自分の声におびえたように彼女はそっ[#「そっ」に傍点]と枕に頭をつけた。濡れた枕紙が氷のごとく冷えて、不吉の予覚に震えるおぬいの頬を驚かした。
259
おぬいの口からはまた長い嘆息が漏れた。
260
身動きするのも憚
261
何かに不安を感ずるにつけていつまでも思うのは、おぬいが十四の時に亡くなった父のことだった。細面で痩
262
父はおぬいの十二の時に脊髄結核
263
その父はいい父だった。少なくともおぬいにとっては汲みつくせない慈愛を恵んでくれた親だった。
「あれはどこからどこまであまり美しいから早死をしなければいいが」
264
そう父が母に言っているのを偸
265
それよりも何よりも、おぬいが父を思いだす時思いださずにはいられないのは、父が死ぬちょうど一週間前、突然おぬいに、部屋の中を一まわり歩いてみたいから肩を貸してくれといいだした時のことだった。おぬいももとより驚いたが、母はそれを思いもよらぬことだとさえいってとめて聴かなかった。父は母とおぬいとを静かに見やりながらいった。
「お前がたは分らないかもしれないが、男には、一生に一度、自分の力がどれほどあるものだか、それを出しきらなければ死ねないような気持が起るものだ。わしは今までお前がたに牽
266
父は歩いた。おぬいも自分の肩に思ったより軽い父の重みを感じながら歩いた。歩きながら父はいった。
「おぬい、お前はもう十四になるなあ。強い肩になった。立派にお父さんの力になってくれる。……お前もやがて人の妻になるのだが、なったら、今日の心持を忘れないで良人といっしょに歩くんだぞ。忘れちゃあいけないよ」
267
父の手がおぬいの肩でかすかに震えはじめた。
268
父が首尾よく部屋を一周して病床に腰を卸
「お前がたは何をそう泣くのだ。わしは喜んで涙を流しているのに。……今日のような嬉しい日はない。……だがこんなことは医者にさえいう必要はないことだよ。こんな嬉しいことはめいめいの心の中に大事にしまっておくべきことだからな」
269
苦しい呼吸の間から父はようやくこれだけのことをいって横になった。
270
この出来事については母もおぬいも父の言葉どおり誰にもいわないでいる。いわないでいるうちにおぬいにとっては、それがとても口には出せないほど尊いものになっていた。
271
おぬいは老境に来たのを思わせるような母の後姿を見つめながら、これを思いだすと、涙がまたもや眼頭から熱く流れだしてきた。啜泣
272
力の不足、自分一人ではどうしようもない力の不足――倚
273
おぬいはとうとうそっと起き上った。そして箪笥
274
涙がまた新たに流れはじめた。
275
二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した。
276
夜は深いのだろう。母の寝息は少しも乱れずに静かに聞こえつづけていた。おぬいはようこそ母を起さなかったと思った。
* * *
277
夜学校を教えるために、夜食をすますとすぐ白官舎を出た柿江は、創成川っぷちで奇妙な物売に出遇
278
その町筋は車力や出面
279
鉢巻の取れた子供の羅紗帽
280
その小旗が風に靡
281
柿江も二十五だった。彼は何んとなくその物売に話しかけたくなった。そしてつかつかとその方に寄っていこうとした。その時彼は先夜西山と闘
「貴様のように自分にも訳の判らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴わないのを軽薄というんだ」と西山の言った言葉がどうも耳の底に残っていて離れないでいた。それとこれとは何んの関係もないようだが、柿江にはきゅうにその物売に話しかけるのに気がひけだした。それゆえ彼は物売をやり過ごして創成川を渡ってしまった。
282
次の瞬間に、柿江は今夜の夜学校の修身の時間にはあの物売の話をして聞かせようと考えていた。実行家とはああいう人間のことをいうのだと教えてみよう。そしてもしうまく書けたら新聞の寄書としても十分役立つに違いないとも思いめぐらしていた。左手を深々と内懐から帯の下にさし入れて、右手の爪をぶつりぶつりと囓
* * *
283
柿江は自分でまた始まったなと思った。けれども何んといっても、その興奮が来ると、むりに抑
「いいか、その旗には『日本服を改良しましょう。すぐしましょう』と書いてあるんだ。とうとうその男は先生が一生懸命に介抱してやったにもかかわらず、だんだん気息
284
醜
285
とにかく柿江はまた一つのセンセーションを惹
「はははは、何もそう泣かんでもいいよ。……その男は気の毒な死に方をしたけれども、いわば自分の大切な使命のために死んだんだから、悔
「それだでなおのこと気の毒だ、わし」
286
と渡井が涙の中から無分別げな、自分の感情に溺れきったような声を出した。男の生徒たちは、「おおげさなまねをする奴だ」というように、柿江の笑いに同じた。
287
その時尋常四年生の教室――それは壁一重に廊下を隔てた所にあるのだが――がきゅうに賑やかになって、砂きしみのする引戸を開くとがやがや[#「がやがや」に傍点]と廊下に飛びだす子供らの跫音
「先生その人はそれからどうかして生き返るんだろう」
288
と一人の男生がその騒がしさの中から中腰に立ち上って柿江に尋ねた。
289
終業の拍子木が鳴った。
「いや死んでしまったんだ」
290
大半の生徒は拍子木の声に勇みを覚えたように、机の蓋
「先生、先生はどうしてその人を谷底から上に持ち上げた?」
「先生か、先生は持ち上げられなかったから、一人で崕
「先生、その旗を見せてくれえよ」
291
柿江は話の都合上、自分は一枚の珍らしい旗を持っている。その旗の持主がまた珍らしい人なのだと前置きをして、その夜の修身を語りはじめたのだった。
「よしよし次の晩旗も見せてやるし、先生がその男の死んだのを村の人に告げてからの話もしてやる。村の人がどれほどその男の偉さに感心したか……」
292
柿江はそういうと、耳を聾がえらせるような騒々しさの中で、今までの話を続けたい気持にされていた。自分でも思い設けぬような戯曲的な光景があとから口を衝いて出てきそうな気がした。その時突然、
「先生それは皆んな作り話だなあ」
293
というものがあった。柿江はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその声のする方を見ると、少し低能じみた、そんな見分けのつきそうにもない小柄な少年の戸沢だった。柿江は安心して大胆になった。
「いいや、本当も本当、先生が自分で遇ってきた出来事なんだ」
294
この会話で教室内の空気がちょっと鎮
「だって俺今夜こけへ来る時、その人に往来で遇ったもの」
295
柿江はしまった……と思ったが、思った瞬間に努力したのはそれを顔色に現さないことだった。そして咄嗟
「戸沢は夢でも見たんだろう。……あ、解った。戸沢はその男の似而非者
296
その少年はまだ疑わしそうな顔をしながら黙ってしまった。そしてそこにはもう、その問題をなお追究しようというような生徒はなかった。一同は立ったりいたりして帰り支度にせわしかったから。
297
柿江はとにかく戸沢が疑わしげながら納得
298
そこの貧民小学校の教師をして農学校に通う学生の二三人が自炊している事務所を兼ねた一室に来ると、尋常四年を受持っている森村が一人だけ、こわれかかった椅子に腰をかけて、いつでも疲れているような痩せしょびれた小さな顔を上向き加減にして、股火鉢をしていた、干からびた唇を大事そうに結びながら。
299
煤
「おい貴様この包を帰り途
300
と何げない風にいいながら、柿江はぼろぼろになった自分の袴を脱いで、それに書物包みをくるみ始めた。森村は見向きもせずに前どおりな無表情な顔を眼の前の窓の鴨居
「これからまたどこかに行くんか」
301
とぼんやりいった。柿江は、
「うむ」
302
と事もなげに答えるつもりだったが、自分ながら悒鬱
「そこにおいとけ」
303
ややしばらくして森村がこういった。
304まだ生徒たちは帰りきらないで、廊下で取組合いをするものもあるし、玄関に五六人ずつかたまって、教師といっしょに帰ろうと待ちながら、大声でわめいているものもあるし、煤掃
「それじゃ貴様頼むぞ」
305
と言い残して、留守番の台所口に乱雑に脱ぎ捨ててある教師たちの履物
306
戸外は寒く真暗らだった。するとそこで柿江は自分の顔がきゅうにあつくなって、酔った時のように赤らんだのを感じた。心臓が音を立てんばかりに強く打ちだしたのを感じた。なるべく生徒の眼に触れぬようにと、生垣に沿うて素早く歩きだしたが、小さな生徒たちの鋭い眼はもちろんそれを見のがしはしなかった。柿江の身のまわりには鈴なりに子供たちがからみついていた。
「ゆんべはおっかなかったよ、先生、酔っぱらいのおやじが、両手を拡げて追ってくるんだもの」
「なあ」
「先生は今夜わしの方へと廻っておくれよ」そのほかいろいろな言葉が一度に、不思議な後ろめたさに興奮している柿江の耳に騒々しく響いてきた。柿江はわざと例のとぼけたような声を取りだして、生徒たちからなるべく早くのがれようと試みつつ、暗い貧乏町の往来に出た。
307
自分にまつわりついている生徒たちのほかに、そこにもここにも子供がいて、ややともすると柿江に話しかけようとした。
「先生は今日は用事があるんだから、明日の晩……じゃない、明後日の晩には皆なを送ってやるから、今日はめいめいで帰ってくれ、な。おい、いかんよ、そんなにからまりついちゃ」
308
そんなことを言って柿江はとうとう子供たちから離れて夜道を西へ向いて急いだ。
309
創成川を渡ると町の姿が変ってきゅうに小さな都会の町らしくなっていた。夜寒ではあるけれども、町並の店には灯が輝いて人の往来も相当にあった。
310
ふと柿江の眼の前には大黒座の絵看板があった。薄野
311
ガンベだった、その奇怪な世界の中に柿江を誘っていったのは。おそらく彼は何んの意味もない酔興から柿江をそこに連れていったのだろう。しかし柿江にとっては、この上もない迷惑なことであって、この上もない蠱惑的
「どうだ、ありがたかろう」
312
床の正面に、半分枯れかかった樺色と白との野菊を生けて、駄菓子でこね上げたような花瓶のおいてあったのを、障子の隅におろしてしまって、その代りに自分の懐ろから制帽を取りだして恭
313
柿江は大黒座を左に折れて、遊廓の大門を大急ぎで通り越しながら、こんなことを不安に満たされた胸の中で回想していた。
314
柿江は自分が何の気なしにすることが、どうかすると人には頓狂
315
それでも柿江の足は依然として行くべき方に歩いていた。いつの間にか彼は遊廓の南側まで歩いてきていた。往来の少ない通りなので、そこには枯れ枯れになった苜蓿
316
何、かまうものか。ガンベは日ごろからちゃらっぽこばかりいっている男だから、あいつが何んといったって、俺がそんなことをしたと信ずる奴はなかろう。もしガンベが何か言いだしたら俺はそうだガンべのいうとおり昨夕薄野に行って女郎というものと始めて寝てみたと逆襲してやるだけのことだ。それを信ずる奴があったら「へえ柿江がかい」と愛嬌にしないとも限らないし、しかしたいていの奴は「ガンべのちゃらっぽこもいい加減にしろ」と笑ってしまうに違いない。こう柿江は腹をきめて何喰わぬ顔で教室に出てみた。ガンベも教室に来ていた。が彼は昨夜のことなどはまったく忘れてしまったようなけろり[#「けろり」に傍点]とした顔をしていた。柿江はガンべを野放図
「俺はその時、こんな経験は一度だけすればそれでいいと決めていたんだ。まったくそれに違いないのだ。これ以上のことをしたら俺はたしかに堕落
317
淋しい道路に折れ曲るときゅうに歩度をゆるめた柿江は、しんみりした気持になってこう自分にいい聞かせた。彼は始めて我に返ったように、いわば今まで興奮のために緊張しきっていたような筋肉をゆるめて、肩を落しながらそこらを見廻わした。夜学校を出た時真暗らだと思われていた空は実際は初冬らしくこうこうと冴えわたって、無数の星が一面に光っていた。道路の左側は林檎園
「そうだ、もう帰ろう」
318
柿江はかなり強い決心をもって、西の方を向いてゆるゆると歩みを続けた。そして道路の右側にはなるべく眼をやるまいとした。
319
しかしそれはできない相談だった。窓という窓には眼隠しの板が張ってあって、何軒となく立ちならんでいる妓楼
320
それなら行こう、と柿江が実際自分の体を遊廓の方にふり向けようとすると、まあ待ってくれと引きとめるものがどこかにいた。女に引きとめられたらそんな感じがするのだろうか、その力は弱いけれども、何かしら没義道
321
柿江はきゅうに頭から寒くなった。何んといってもそれは重大な問題だ。柿江は自分がどういう骨組で成り立っているかを知りぬいているのだから。彼奴は妙に並外れた空想家で、おまけに常識はずれの振舞いをする男だが、あれできまりどころは案外きまっていて、根が正直で生れながらの道徳家だ、そういう印象を誰にでも与えている。彼はそれを意識していた。そしてそれに倚
322
柿江はいつの間にか遊廓に沿うてその西の端れまで歩いてきてしまっていた。そこには新川という溝のような細い川がせせらぎを作って流れている、その川音が上
323
柿江は自分をそこに見出すと、また窃
324
突然柿江は橋の奥の路地をこちらに近寄ってくる人影らしいものに気がついた。はっ[#「はっ」に傍点]と思った拍子に彼は、たった今大急ぎでそこに来かかったのだというような早足で、驀地
「日本服を改良しましょう、すぐしましょう」と書いた旗が、どういうきっかけだったか、その瞬間に柿江の眼にまざまざと映って、それが見る間に煙のようにたなびいて消えていった。
* * *
「星野清逸兄。
「俺はやっぱり東京はおもしろい所だと思うよ。室蘭むろらん か、函館はこだて まで来る間に、俺は綺麗さっぱり北海道と今までの生活とに別れたいと思って、北海道の土のこびりついている下駄を、海の中に葬ってくれた。葬っても別に惜しいと思うほどの下駄ではむろんないがね。あれは柿江と共通にはいていたんだが、柿江の奴今ごろは困っているだろう。青森では夜学校の生徒の奴らが餞別せんべつ にくれた新しい下駄をおろして、久しぶりで内地の土を歩いた。けれどもだ、北海道に行ってから足かけ六年内地は見なかったんだが、ちっとも変ってはいない。貴様にはまだ内地は Virgin soilヴァージン ソイル なんだな。
「郷里にもちょっと寄ったがね、おやじもおふくろも、額の皺が五六本ふえて少ししなびたくらいの変化だった。相変らずぼそぼそと生きるにいいだけのことをして、内輪に内輪にと暮している。何をいって聞かせたってろくろく分りはしないのだから、俺は札幌の方を優等で卒業したから、これから東京に出て、もっとえらい大学で研みが きをかけるんだといい聞せておいた。何しろ英語を三つ四つ話の中にまぜれば、何をいっても偉いことのように聞こえるんだから、じつに簡単で気持がいいよ。たとえばこういう具合だ。
『おとうさまは知るまいが東京には Universityユニヴァーシティ という大学があって、象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができる。そこに行くと俺でも Studentステューデント という名前を貰って、Sociology and English grammar and Chinese literatureソシオロジイ アンド イングリッシュ グラマー アンド チャイニイズ リタラチャー というようなむずかしいものを習うだ。どうだね、もう二三年がところ留守にしてもいいずら』
『げえもねえことを……象山先生より偉くなったらどうする気だ』
俺の方では佐久間象山より偉い人間は出てこようがないとしてあるんだ。けれどもだ、おやじは俺が大の自慢で、長男は俺の後嗣あとつ ぎ相当に生れついているが、次男坊はやくざな暴れ者だで、よその空でのたれ死でもしくさるだろうと、近所の者をつかまえて眼を細くしている。おふくろは六年も留守にしていた俺がいとしくって手放しかねるようだが、何一つ口を出さない。そして土間の隅で洗いものなどをしながら、鼻水を盥たらい に垂らして、大急ぎですすり上げたりしていた。
「けれどもだ、何をいうにも東京なら近いからということで、俺はとうとう郷里を出た。 Student になると学資ぐらいは自分で働きだすのだといって聞かせたら感心していたようだった。
「東京は俺にとっては Virgin soil だ。俺は真先に神田の三崎町にあるトゥヰンビー館に行って円山さんに会った。ちょうど昼飯時だったが、先生、台所の棚の上に膳を載せて、壁の方に向いて立ったなりで飯を喰っていた。湯づけにでもしていたのだろう、それをかっこむ音が上り口からよくきこえた。東京にこんなことをやって生きている人間があろうとは俺は思わなかったよ。トゥヰンビー館といえば、札幌の演武場くらいを俺は想像していたんだが、行ってみたら、白官舎を半分にして黴かび を生やしたような建物だった。俺もやはり英語に出喰わすと、国のおやじにひけ[#「ひけ」に傍点]を取らない田舎者だと思って感心した。
『ダントン小伝』を寄稿したのは俺だといって自分を紹介したら、円山さんは仏頂面ぶっちょうづら に笑い一つ見せないで、そんなら上れといった。俺もそんなら上った。とにかく西洋館で、――とにかく西洋窓のついた日本座敷で、日曜学校で使いそうな長い腰かけと四角なテーブルがおいてあった。円山さんというのがいったい西洋窓のついた日本座敷みたいに、こちんこちんした無愛想な男だ。『何しに来た』、『修業に来た』、『何んの修業に来た』、『社会問題の修業に来た』、『学資がないんだろう』、『そうだ』、『俺に周旋しゅうせん しろというのか』、『まあそうだ』、『家は貧乏か』、『信州の土百姓だ』、『俺たちといっしょに働く気か』、『それはまだ分らない』、『その答はよし』なんだべらぼうめ――べらぼうという言葉は東京の書生がことごとに使う言葉で、俺はその後に使い覚えた。けれどもだ、この場合の俺の心持を現わすにはじつに都合がいい。本当は俺はその時、円山さんは恐ろしく高飛車に出たもんだなと、胸の中で長たらしく感心していたんだ 。円山曰いわ く『どこで修業するつもりだ』、『W専門学校に行って矢部さんの講義を聞こうとおもう』、『札幌から紹介状でも貰ってきたか』、『来ん』、『じゃ俺が書くからこれから行ってみろ』……辞儀を一つする……貰いものの下駄をはく……歩くここは長し ……早稲田という所は田圃たんぼ の多いところだ。名詮自称みょうせんじしょう だ。……大隈の大きな屋敷を外から見た。W専門学校に着いた……他の奇なし。
「矢部さんは円山さんよりよほど愛想がいい。写真で片眼のべっかんこ[#「べっかんこ」に傍点]なのは知っていたが、ひどい若白髪だ。これはだいぶクリスチャンらしかった。俺も相当鞠躬如きっきゅうじょ たらざるを得なかった。知合いの信者の家に空間があるかもしれないからいっしょに出かけてみようといって、学校から七八町くらいだ、表書きの家は、そこに連れていってくれた。そこのお内儀さんが矢部さんを見るとマルタが基督キリスト にでも出喰わしたように頭を下げるので、俺は困った。俺は白状すると矢部さんよりもマルタの方によけい頭が下げたいぐらいだったから。東京の女は俺の眼から見ると皆な天使のようだぞ。
「俺の部屋は四畳半で二階の西角だ。東隣りは大きな部屋だが畳を上げて物置になっていて、どういうものか鼠の奴がうん[#「うん」に傍点]といる。夜になると盛んに遊弋ゆうよく をやって賑にぎ やかでいい。けれどもだ、俺の所には喰うものはないからややもすれば足の先および耳鼻の類が危険だから、俺はかじられないだけの用心はしている。これより先、じつは俺は足の先をすでにかじられかかったんだ。けれどもだ、縁の先には大きな葡萄棚ぶどうだな があって、来年新芽を吹きだしたら、俺は王侯おうこう の気持になれそうだ。
「何しろ学校で袴はかま と草履ぞうり をはかないのは俺だけだ。足の裏が丈夫なら草履ははかなくともいいが袴ははかなければいかんといやがる。けれどもだ、袴をはけとは規則書に書いてないから勝手じゃないかと俺はいうた。足の裏はもとより丈夫だが、脛っぷし――というものがあるかないか、腕っぷしがある以上はありそうなものだ――だって丈夫だからな。俺はこれをサンキロティズムに対してサンバカミズムSansbakamism と呼ぶだ。
「矢部さんの講義は何んといっても異色だ。嶄然ざんぜん 足角を現わしている。経済学史を講じているんだが『富国論』と『資本論』との比較なんかさせるとなかなか足角が現われる。馬脚が現われなければいいなと他人ながら心配がるくらいだ。図書館の本も札幌なんかのと比べものにならない。俺は今リカードの鉄則と取っ組合をしている。
「さてこれからまた取っ組むかな。
「大事にしろよ。
西山犀川
325 十月二十五日夜
326
渡瀬は教えに行った旨
「おぬいさんって可愛いい方ね」
327
そういうだろうと思って、渡瀬は酒をふくみながらその答えまで考えていたのだから、
「あなたほどじゃありませんね」
328
とさそくに受けて、今度は「憎らしい」と来るだろうと待っていると、新井田の奥さんは思う壷どおり、やさ睨
「憎らしい」
329
といった。そこで渡瀬はおかしくなってきて、片眼をかがやかして鬼瓦
「この女は俺の顔の醜
330
渡瀬は真剣にそうおもうことがよくあった。そのくらい新井田の夫人は渡瀬に対して開けっ放しに振舞ったし、渡瀬は心の中で、ありえない誘惑に誘惑されていたのだ。この瞬間にも彼にはそうした衝動が来た。渡瀬は笑いからすぐ渋い顔になった。
「あら変ね、何がそんなにおかしいこと」
331
といいながら、銚子
「でもおぬいさんは星野さんに夢中なんですってね」
332
女郎
「焼けますかね」
333
渡瀬は額越しに睨
「それはお門違いでしょう」
334
今度は奥さんの方が待ち設けていたようにぴったりと迫ってきた。
「ははあん、この女はやはり俺をすっかり虜
335
渡瀬の胸の中でいたずら者がむずむずし始めた。奥さんが、ごくわずかの間であったけれども、苦界というものに身を沈めていて、今年の始に新井田氏の後妻として買い上げられたのだという事実は渡瀬の心をよけい放埓
「図星をさされたね」
336
渡瀬はまたからからと笑って、酒に火照
「ところが奥さん、あれは高根の花です。ピュリティーそのものなんです。さすがの僕もおぬいさんの前に出ると、慎
「そんなに後悔することがたくさんおありなさるの」
「ばかにしちゃいけません。ばかにしちゃあ……」
337
渡瀬はまたあとを高笑で塗りつぶした。この女は生れてから満足した男に出遇ったことがないに違いない。ずいぶんいろいろな男の手から手に渡ったらしいのに、それだからたまには不愉快なほど人擦れがしているくせに、どこかさぐり寄るような人なつっこいところも持っている。こういう女に限って若い男が近づくと、どんなにしゃん[#「しゃん」に傍点]としているように見えても、変に誘惑的な隙を見せる。おまけにこの女は少し露骨すぎる。星野に対してはあの近づきがたいような頭の良さと、色の青白い華車
「奥さん、あなたも杯を持ってきませんか。一人で飲んでるんじゃ気がひけますよ」
338
渡瀬はそう無遠慮に出かけてみた。
「私、飲めないもの」
339
酌をしながら、美しい眼が下向きに、滴り落ちる酒にそそがれて、上瞼の長い睫毛
「飲めないことがあるものか、始終晩酌の御相伴
「じゃそれで一杯いただくわ」
340
渡瀬はこりゃと思った。埒がゆさゆさと揺
「いいんですか」
「何がよ」
341
すぐこういう答えが出た。
「ははは、何がっていわれればそれまでだが、じゃいいんですね」
「だから何がっていってるじゃありませんか」
「だから何がっていわれればそれまでだが……それまでだから一つあげましょう。循環小数みたいですね」
342
もとよりそこに盃洗などはなかった。渡瀬は膳の角でしずくを切って……もう俺の知ったことじゃないぞ……胡座
「一人で飲んでいちゃ気が引けるとおっしゃられるとね」
343
と落着いた調子でいいながら奥さんは躇
「御同情いたみ入ります」
344
渡瀬は冗談じゃないぞと心の中でつぶやきながら急場で踏みこたえた。そして杯にちょっと黙礼するような様子をして手を引きこめた。
「あら」
「味が変っているといけないと思ってね、はははは……奥さん、僕はこれで己惚
「まったくあなたは己惚れが強いわねえ」
345
といいきらないうちに奥さんは口許に袖口を持っていって漣
346
ちょうどその時、渡瀬の後ろのドアがせわしなく開いたとおもうと、そこに新井田氏が小柄な痩せた姿を現わしたらしかった。渡瀬は前のように考えながらも、やはり奥さんに十分の未練を持っている自分を見出ださねばならなかった。なぜというと新井田氏がはいってきた瞬間に、その眼は思わず鋭くなって、奥さんが良人をどういう態度で迎えるかを観察するのを忘れなかったからだ。
「お帰りなさいまし」
347
と簡単にいうと、奥さんは体全体で媚
348
強い黄色い光を部屋じゅうに送る大きな空気ラムプの下にいても、新井田氏は血色の悪い人だった。一種の空想家らしくぎらぎら[#「ぎらぎら」に傍点]とかがやく大きな眼が、強度の眼鏡越しに、すわり悪く活き活きと動いた。
「どうも失礼。おはじめでしたか。え、どうぞ。ちょっと用が片づかなかったもんですからおそくなって。……日が短かくなりましたなあ。それに戸外はずいぶん寒うござんすよ」
349
新井田氏は蛇の皮のように上光りのする綿入の上
350
三十分ほどの後、新井田氏と渡瀬とは夕食をすませて、二人の間に研究室と呼びならされる暗室のような窓のない小部屋に、四角な粗末な卓を隔てて向いあっていた。小さなラムプのえがらっぽいような匂いと、今まで人気のなかったための寒さとが重くよどんでいた。
351
渡瀬は、代数の計算と下手な機械のダイヤグラムとが一面に書きつづられているフールス・キャップ四枚を自分の前において、イーグル鉛筆を固く握りしめながら新井田氏に項式の説明を試みているのだった。新井田氏はそのころ流行し始めた活動写真機に興味を持って、その研究なるものをやっていたのだ。自分の手で発声蓄音機を組立ててみたいというのが氏の野心だった。映画用のフィルムの運動の遅速によって蓄音機の方の速度が調節されるようにするのがあたり前だと渡瀬は考えた。しかし日本に来ている蓄音機は簡単な機械であるために、勢い蓄音機の方の改造は諦めて、それが有する速さに応じて写真機の方の速度を調節するように研究せねばならなかった。これならしかし割合に簡単なことで、渡瀬の工夫になる小さな中間機を使用すれば、実際においてある程度までの効果を挙げることができたのだ。新井田氏はその成功に喜び勇んで早く実用的な機械の製作にかかりたいとあせるのだけれども、渡瀬にとってはそれはさして興味のあることではなかった。渡瀬は蓄音機の機械をどれだけ複雑にすれば、最小限度の複雑化によって最大の効果を挙げうるかを数理的に解決したかったのだ。それゆえ彼は毎日その計算にばかり熱中して、新井田氏が機械の製作に取りかかろうというのを一日延ばしに延ばさせていた。始めの間こそは新井田氏もより進んだ発見が工作費用を節減するものと感じて根気よくその成就を待っているようだったが、計算の仕事がいつまで経っても片づかないのを知ると、そしてその問題が解決されても、日本ではそういう蓄音機を実際に製作するのが困難らしいということをほのめかされると、だんだん性急になってきた。計算計算といって長びいているのは、たんに仕事を長びかせるための渡瀬の魂胆
352
渡瀬は今日もまた新井田氏と罫紙
「これがシャッターの回転数と蓄音機の円盤の回転数との関係を示した項式です。こういう具合にシャッターの方をAとし、円盤の方をBとすると、AとTとの積は、一定時間におけるAのヴェロシティすなわちVだから、それからこの項式が出てくるのです。そこに持ってきてBの方はこうなるでしょう」
353
新井田氏は半分解らないながらも、中腰になったまま、卓によりかかって神妙に渡瀬の説明に耳を傾けているらしくみえた。渡瀬はできるだけ解りやすくと、噛みくだくようにものをいっていたが符号
354
渡瀬は説明を続けているうちに、だんだん一つの不安心な箇所
「奇体だなあ」
355
彼は思わず鉛筆を心もち紙の表面からもち上げて、自分に対して必死の抵抗を試みようとする項式をまじまじと眺めた。
「そこがどうなんです」
356
新井田氏が依然としてそこにいたのを渡瀬は知った。新井田氏の存在をおぼろげながら意識すると彼がその顧問
「変だなあ」
357
そう渡瀬の唇はおのずから言葉となった。そして鉛筆は堅くその手に握られたまま停止してしまった。
「そんなむずかしい計算をしなければこれは分らないのですか」
358
と新井田氏がそのきっかけをさらって口を入れた。すぐ癇癪
359
不断はいかにも平民的で、高等学府に学んでいる秀才を十分に尊敬しているといいたげな態度を示している新井田氏でありながら、こういう場合になると、にわかに顔つきまで変ってしまって、少し加減してみせるとすぐつけあがってきやがると言わんばかりの、傲慢
「それはできないことはありませんがね……ま、もう少し待ってください。じきです。これさえ解ければ完全なものになるんですから……」
360
といって、ふたたび罫紙に眼を落した。新井田氏はそれに対して別に何んともいわなかった。けれどもしぶとい奴だと言わんばかりな眼が、渡瀬の額の生えぎわのあたりを意地悪くさまよっているのは、明かに渡瀬の神経にこたえてきた。まだだいじょうぶと渡瀬は思った。そこで彼はふたたび新井田氏をそっちのけにして、行きづまった計算の緒口
361
今度こそはと意気組を新たにしてかかった。数字がだんだんとその眼の前で生きかえり始めた。彼は今度は同じ項式の分解を三角法によってなし遂
362
突然インスピレーションのように一つの定理が思いだされた。胸にこみ上げてくる喜びをじっと押し殺して、参謀の提出した方略を採用する指揮官のように、わざと落ちつき払いながら鉛筆を動かし始めた。今度こそはすべてが予期どおりに都合よく行きそうにみえた。一度分解した項式が結合をしなおして、だんだん単純化されていくところからみると、ついには単一の結論的項式に落ちつきそうにみえた。渡瀬は今まで口の中に入れていたゴムを所きらわず吐き捨てて、噛りつくように罫紙の上にのしかかった。
363
けれどもやはりむだだった。八分というところに来て、ようやく二つに纏
「畜生」
364
思わず渡瀬は鉛筆を紙の上にたたきつけてこう叫んだ。
「渡瀬さん、私はもう行きます」
365
その瞬間にこう鋭くいい放された新井田氏の声を聞いて、渡瀬はまたもや現実の世界に引き戻された。もうそこいらには新井田氏の癇癪
「どうも私はこういうことは困りますな。なるほど研究には違いなかろうけれども、私のは機械がともかくできてさえくれればそれでいいんです。君のなさるようなことを、ここでこうしてぼんやり眺めていたところが、何んの薬にもなりませんから、私はごめん蒙
「ははん、先生、腹立ちまぎれに明日から俺を抛
「やあすみませんまったく。こちらに来るまでに計算はこのとおりやっておいて、結果が出るばかりになっていたのだから、すぐできるとたかをくくっていたんですが、……これで計算という奴は曲者ですからなあ。今日はそれじゃ僕は失敬して家でうん[#「うん」に傍点]と考えてみます。作るくらいならあんまり不器用な……」
「そりゃそうですとも、作る以上は完全なものにしたいのは私も同じことじゃありますが、計算までここでやってるんじゃ、私は手持無沙汰
366
計算だって研究の一つだい。道具を家で研
「じつは僕もこの仕事は早く片をつけたいんです。学校のラボラトリーでやっている実験ですが、五升芋
367
新らしがりと、好奇心と、慾との三調子で生きているような新井田氏にこれが訴えていかないはずがない。渡瀬は新井田氏の顔が、今までの冷やかにも倨傲
「それもまあそれでしょうがね。それにつけてもこっちの方を片づけていただかないじゃあね」
368
渋い顔には相違なかったが、それは喉
369
渡瀬は計算用の原稿紙を一まとめにして懐ろにしまいこみながら、馬鈴薯から安価な焼酎
370
研究室はまったく寒い部屋だった。渡瀬は計算に夢中でいる間は少しも気がつかなかったが、これでは新井田氏が不平をこぼしたのもむりがないと思った。火鉢一つでは、こんな天井の高い家ではもう凌
371
玄関に来て帰りの挨拶をしかけると、新井田氏がきゅうに思いついたように、ちょっと待ってくれといってそそくさと奥にはいっていった。渡瀬はやむを得ずそこに突立って自分の下駄と新井田氏が脱ぎ捨てた履物
372
間もなく新井田氏が奥さんにつきまとわれるようにして出てきた。渡瀬が夕食の馳走になった部屋のドアが開けぱなしにしてあるので、生暖かい空気とともに、今まで女がいたらしいなまめかしい匂いが、遠慮なく寒い玄関の空気の中に漂いでてきた。
「どうもお待たせしてすみませんでした」
373
新井田氏の口調は、第三者の前でいつでも新井田氏が渡瀬に対してみせるあの尊大で同時に慇懃
「今月の何んです、今月のお礼ですが、都合がいいから今夜お渡ししておきます。で、と、明日はおいでのない日でしたな。ところが明後日は私ちょっとはずせない用があるんですが、どうでしょう明日に繰り上げていただいちゃ、おさしさわりになりますか」
「ははん、活動写真は明日から廃業だな。先生ウヰスキーで夢中になっているな。子供だなあ」
374
月末にはまだ三日もある今夜報酬
「ええ差支えありません。来ますとも」
「どうぞいらしってちょうだいね」
375
奥さんが……主人の加勢をするように主人には聞こえ、渡瀬を誘惑するように渡瀬には聞こえるそんな調子で。
「何しろ新井田は果報者だて」
376
渡瀬は往来に出て、寒い空気に触れるにつけて、暖かそうな奥さんの笑顔と肉体とを実感的に想像して、こう心の中で呟いた。けれども同時に、彼の懐ろの内も暖いのを彼は拒むことができなかった。あれだけをおっかあに渡して、あれだけを卯三公にやって、あれだけであの本を買って……と、残るぞ。二晩は遊べるな。……と、待てよ。きゅうにさっきまで考えつめていた計算のことが頭に浮んだ。ふむ……待てよ。渡瀬はたちまちすべてを忘れてしまった。数字の連なりが眼の前で躍りはじめた。渡瀬はしたり顔に一度首をかしげると、堅く腕を胸高に組合せて霜の花でもちらちら飛び交わしているかと冴えた寒空の下を、深く考えこみながら、南に向いてこつりこつりと歩いていった。
* * *
377
ガンベが「園にそうたびたびねだるのだけはやめろ、よ。あんなお坊ちゃんをいじめるのは貴様可哀そうじゃねえか。貴様ああんまりけち[#「けち」に傍点]だぞそれじゃ。俺なんざあこれで一度だって園にせびったことはないんだ。それに、まさかという時の用意に一人くらいとっときを作っておかないとうそだぞ貴様、はははは」といって笑ったことがあった。人見は隣りの園の部屋に行こうかと思って座を立ちかけた瞬間にこれを思いだした。しかし今の場合、園の所に行って話を持ちかけるほかに道がないのだ。
378
人見は痩せてひょろ長い体を机の前に立ちあがらせると、気持の悪い生欠伸
「園君いる?」
「ああ、はいりたまえ」
379
すぐこういう返事が小さく響いたが、机に向いたままでいっているらしく、声がゆがんで聞こえてきた。勉強をしているなとおもいながら、人見はそっと戸を開いた。
380
きちんと整頓
381
綺麗に掃除されたラムプの油壷は瑠璃色
「何を勉強しているの」
382
園に対してはどうもひとりでに人見は声を柔らげなければならなかった。
「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに"Mutual Aid"
「倫理学の問題でも取りあつかったものかい」
「著者は Prince P. Kropotkin という人で……」
「何、クロポトキン……それじゃ君、それは露西亜
383
人見は星野や西山たちが議論する座に加わって、この人の名はたびたび耳に入れたのだが、自分は学校で「農政および農業経済科」を選んでいるくせに、その人にどんな著書があるかをさえ調べてみたことはなかったのだ。
「そうだってね。僕にはその無政府主義のことはよく分らないけれども、この本の序文で見るとダーウヰン派の生物学者が極力主張する生存競争のほかに、動物界にはこの mutual aid ……何んと訳すんだろう、とにかくこの現象があって、それはダーウヰンもいっているのだそうだ。……そうだ、いってはいるね。『種の起源』にも『旅行記』にも僕は書いてあったと思うが……。それがこの本の第一編にはかなり綿密に書いてあるようだよ」
「科学的にも価値がありそうかい」
「ずいぶんダータはよく集めてあるよ」
384
そういいながら園はそこにあった葉書をしおりにはさんで書物を伏せた。柿江――彼は驚くべき多読者だが――などが書物を読んでいるのを見ても、そうは思わないが、園の前に書物があるのを見ると、人見はある圧迫を感じないわけにはいかなかった。園はあの落ち着いた態度で書物の言葉の重さを一つずつ計りながら、そこに蓄えられている滋養分を綺麗に吸い取ってしまいそうに見えた。そして読み終えられた書物には少しの油気も残ってはいまいと思わされた。実際園が書物に見入っているところを傍から見ていると、一刻一刻園が成長してゆくのが見えるようで、人見はおいてきぼりを喰いそうで、不安になるくらいだった。といって彼の書見に反対を称
385
話題が途切れると、園は静かな口調で、今まで読んだところを人見に話し始めたが、人見にとっては初耳で珍らしい事実が次から次へと語りだされるのだった。そして園は著者の提供した議論に対しても相当に見識があると思われる批評を下すのを忘れなかった。生娘のように単純らしく思われる園の頭がよくこれだけのことを吸収しうるものだ。つまりあいつの頭は学者という特別な仕事に向くようにできているんだと人見は
386
人見の顔からは興味の薄らいでゆくのを見て取ってか、園はやがて話を途中で切って黙ってしまった。それがしかし人見を軽蔑しての上のことでないのはその顔色にもよく窺
387
この辺でこっちが今度は切りだす番だ。ちょうどいい潮時だと人見は思ったが、園に向っていると変にぎごちない気分が先き立った。彼は自分を促
388
人見は星野の真似をして襟首に巻いていた古ぼけたハンケチに手をやって結びなおしながら上眼で園を見やった。
「時に園君どうだろう。君の所に少しでもよぶんの金はないだろうか。
389
園は人見の眼に射られると、かえって自分で恥じるように視線をそらして、火鉢の火のあたりを見やったが、じっとそれを見やってしばらく考えているらしく、返事をしなかった。
390
人見は園が格別裕福な書生であるとは思われなかった。が、少なくとも白官舎にまがりこまねばならぬほどの書生ではなく、ここに来たのは星野がいっしょにいようと勧めたからのことであるのを知っていた。それにしても、足りないながらも国許から毎月自分に送ってくる学資をよそに消費しておいて――消費するというと大きく聞こえるが、ほんの少しばかりをおたけとクレオパトラのために消費するだけなのだ――不足を園にぶちかけるのは少し虫がよすぎるようだ。しかしこの場合金がいることだけはたしかなのだ。園が何んと返事をするかと人見はそれに興味をさえかけた。
「だいぶ切迫して必要なの」
391
とややしばらくして園がはじめて顔を上げて静かに人見を見た。これはまた園があまり真剣に考えすぎたなと思うと、人見には即座に返事をするのが躊躇
「もっともこれだけはあるんだが、これは何んの足しにもならないが、僕の君に対する借金の返済の一部とするつもりで取っておいたんだ。ところが昨日本屋の奴が来やがって、いやに催促がましいことをいうもんだから、ひとまず君にはすまないが――そっちを綺麗にして鼻をあかしてやれという気になったのさ。で、これをまず君の方に納めて、あらためて五円にして貸してくれるわけにはいくまいかな」
「いいとも」
392
園はその長口上を少しまどろこしそうに聞いているらしかったが、人見の言葉が終るとすぐにこういって、机の方に向きなおった。園は例のとおり、ポッケットの中から、机の抽出しから、手帳の間から、札びらや銀貨を取りだした。あの几帳面
「どうもすまないよ。どうもありがとう」
393
人見は思わずせきこんでこういったが、何か自分の言葉が下品に響いたようだった。
394
戸外では寒いからっ風が勢いこんで吹きすさんでいるらしく、建てつけの悪るい障子が磨
「こりゃいよいよ冬が来るんだよ。また今年も天長節
395
と園の心を占めているらしくみえる名前の方に漕ぎ寄せていった。
「星野君からは昨日手紙を貰ったっけ。すっかり冬が来るまでは千歳にいるのだそうだ。別に健康が悪いというのでもなさそうだが、気候の変り目はあの病気にやはりよくないのだろうね」
396
そういって園は静かに人見を見上げたが、その眼は人見を見ているというよりも、遠い千歳の方を見すかしているように見えた。人見は人見で、今蟇口をしまいこんだポッケットの中に、おたけから来た手紙が二つに折ってしまいこまれてあるのを意識していた。彼はそれを撫
「君はこのごろはどうなの」
397
園がしばらくしてからこういった。園の眼は今度はまさしく人見を見やっていた。人見は不意を衝かれたように思って、ちょっと尻ごみをしていたが、慌て気味に手が襟巻のところに行ったと思うと、今まで少しも出なかった咳が軽く喉許を擽
「なあに、僕のはたいしたことはないんだよ」
398
まったく医者が見てくれるたびごと、たいしたことはないというのだが、それが何か物足らないのだけれども、この場合やはり医者がいうようにいうのが恰好だと人見は思ったのだ。そして園という男は変にストイックじみた奴だなと思った。
* * *
399
紺の上っぱりを着て、古ぼけた手拭で姉さんかぶりをした母が、後ろ向きに店の隅に立って、素麺
「またこの寒いにお前どこかに出けるのけえ」
400
というのを聞き流しにして清逸は家を出た。
401
夕方だった。道を隔てて眼の前にふさがるように切り立った高い崕
402
風は死んだようにおさまっている。それだのに枝頭を離れて地に落ちる木の葉の音は繁かった。かさこそと雑木の葉が、ばさりと朴
403
自分の家からやや一町も離れた所まで来ると、清逸は川べりの方に自分で踏みならした細道を見出して、その方へと下りていった。赤に、黄に、紫に、からからに乾いて蝕まれた野葡萄
404
どこもここも住み憂い所のようにこのごろ清逸は感ずるのだった。札幌にいて、入らざる費用をかけていながら学校に出ないのはばからしいし、学校に出るのもばからしかった。彼が専門に研究している農政の講義などは、一日引籠って読書すれば、半月分の講義の材料ができるほど稀薄
405
といって彼は即刻
「俺は世話を焼くのも嫌いだ。世話を焼かれるのも嫌いだ。……俺はエゴイストに違いない。ところが俺のエゴイズムは、俺の頭が少し優れているというところから来ていると誰もが考えそうなことだが、そんな浅薄なものではないんだ。たとえ頭は少しは優れていようとも、俺は貧乏でしかも死病に取りつかれているんだから、喜んで世話を焼いてもらう資格は十分にあるんだ。それにもかかわらず、俺は世話を焼かれるのはいやだ。……俺はもっと自然に近くありたいのだ。自然は俺をこんなに生みつけた、こんなに病気にした。しかもそれは自然の知ったことじゃないんだ。自然というものは心憎い姿を持っている」
406
清逸はどんどん流れてゆく河の水を見つめながらこんなことを考えた。そしてそのとたん、気がついたように眼をあげてあたりを眺めまわした。実際清逸に見やられる自然は、清逸とは何んのかかわりもないもののように、ただ忙がしく夜につながろうとしていた。河は思い存分に流れていた。空は思い存分に暗くなりまさっていた。木の葉は思い存分に散っていた。枯枝は思い存分に強直していた。その間には何らの連絡もないもののように。清逸は深い淋しさを感じた。同時に強いいさぎよさを感じた。長く立ちつづけていた彼の足は少ししびれて、感覚を失うほど冷えこんでいた。それに反してその頭は勇ましい興奮をもって熱していた。
407
昂奮
「兄さんでねえか」
408
道の方から木叢
409
やがて咳をしるべに純次が小道を下りてきた。孵化場
「今ごろ何んだってこんな所に来るだ。病気が悪るくなるにきまってるに。兄さんはまるで自分の病気を考えねえからだめだよ。皆んな迷惑するだ」
410
いかにも突慳貪
「背中をさすってくれ」
411
清逸はきれぎれな気息の中からそういった。ごつごつした手がぶきっちょうに清逸の背中を上下に動いた。清逸はその手の下でしばらくの間咳きつづけた。
412
咳がやんでも純次はやはりさすり続けていた。清逸は喀痰
413
純次はまだ懸命に兄の背中をさすり続けていた。清逸は一種の親しみを純次に感じて、
「もうよくなった。さあ帰ろう。お前は仕事が終えるとずいぶん疲れるだろうな」
414
といってやった。
「あたりまえよ」
415
純次の答えはこうだった。そして河岸
416
弟が泥靴のままでぬかるみの中をかまわず歩いてゆく間に、清逸は下駄をいたわりながら、遅れがちに続いた。たそがれというべき暗らさになって、行く手には清逸の家の灯だけが、枯れた木叢の間にたった一つ見やられた。純次は時々立ち停っては、もどかしそうに兄の方を顧みた。先に帰れと清逸がいってもそうはしなかった。
「兄さん、お前はまた札幌に帰るのか」
417
とある所で純次は兄を待ちながら突然にいった。清逸はそうだと答えた。
「死んでしまうぞ。帰らねえがいい」
418
それがいつか、母に向って、「肺病はうつるもんだよ」といった弟の言葉だった。純次はどうせ辻褄
419
純次は兄の近づくのを待ってまたこういった。
「お前は偉くなろうとそんなことばかり思っているから肺病に取りつかれるんだ。田舎にいろよ、じきなおるに」
「そうだなあ、俺もこのごろは時々そう思う。おせいにも可哀そうだしな」
「そんだとも、皆んな可哀そうだな。姉さん泣いてべえさ」
420
清逸は不思議にも黙って考えこみたいような気分になった。そしてすべての人から軽蔑されているだらし[#「だらし」に傍点]ない純次の姿が、何となくなつかしいものに眺めやられた。その上彼の偶然な言葉には一つ一つ逆説的な誠があると思った。純次はどことなく締りのない風をして、無性に長い足をよじれるように運ばせながら、両手を外套の衣嚢
421
その夜清逸は純次の部屋でおそくまで働いた。純次の机の上からつまらぬ雑誌類やくだらぬ玩具
422
清逸は手のあたたまる間、それを熟視して、また原稿紙に向った。清逸は白石は徳川時代における傑出
423
白石文集、ことに「折焚
424
アイヌと、熊と、樺戸監獄の脱獄囚との隠れ家だとされているこの千歳の山の中から、一個の榴弾
425
ふとラムプの光が薄暗くなった。見ると、小さな油壷の中の石油はまったく尽きはてて、灯は芯
426
純次は何事も知らぬげに寝つづけていた。
427
石油を母屋
428
もうだめだ。清逸は思いきって芯を下げてからホヤの口に気息
「おい純次起きろ。起きるんだ、おい」
429
と清逸は弟の蒲団に手をかけてゆすぶった。しばらく何事も知らずにいた純次は気がつくといきなりがばと暗闇の中に跳び起きたらしかった。
「純次」
430
返事がない。
「おい純次。お前母屋
「ラムプをどうする?」
「このラムプに石油をさしてくるんだ。行ってこい」
431
清逸は我れ知らず威丈
「お前、行ってくればいいでねえか」
432
薄ぼんやりと、しかもしぶとい声で純次がこう答えた。清逸は夜気に触れると咳が出るし、石油のありかもよく知らないから、行ってきてくれと頼むべきだったのだ。しかしそんなことをいうのはまどろしかった。
「ばか、手前は兄のいうことを聞け」
433
弟は何んとも答えなかった。少しばかりの沈黙が続いた。と思うと純次はいきなり立ち上って、清逸の方に近づくが早いか、拳を固めて清逸の頭から顔にかけてところきらわず続けさまになぐりつけた。それは思わず清逸をたじろがすほどの意外な素早さだった。
「出ていけ、これは俺の部屋だい。出ていかねばたたき殺すぞ」
434
やがて牛のうめき声のような口惜し泣きが、立ったままの純次の口からおめきだされた。
435
清逸は体じゅうがしびれるのを覚えて、俯向
「出ていかねえか」
436
純次は泣きじゃくりの中から、こう叫んでいらだちきったように激しく地だんだを踏んだ。次の瞬間には何をしだすか分らないような狂暴さが清逸に迫ってきた。
437
清逸はしん[#「しん」に傍点]とした心の中で、孵化場
438
純次は何か手ごろの得物をさぐっているのらしくごそごそと臥床
「待て純次、俺は母屋に行くから待て」
439
清逸は不思議な恐怖に襲われ、不意の襲撃に対して用心をしながら座を立って二三歩入口の方に動かねばならなかった。しかしその瞬間に、しかけていた仕事のことを考えると、慌
440
部屋の中では純次が狂暴に泣きわめいていた。清逸は誰のともしれない下駄を突っかけて、身を切るような明け方近い空気の中に立った。
441
その時清逸はまたある一種の笑いの衝動を感じた。しかし彼の顔は笑ってはいなかった。
* * *
442
隣りの間で往診の支度をしていた母が、
「ぬいさん」
443
と言葉をかけた。おぬいはユニオンの第四読本からすぐ眼を放して、母のいる方に少し顔を向け気味にして、
「はい」
444
と答えたが、母はしばらく言葉をつがなかった。
「今日は渡瀬さんがいらっしゃる日ね」
445
やがてそういった。おぬいは母が何か胸に持ちながらものをいっているのをすぐ察することができた。
「あなたはあの方をどう思ってだえ」
446
おぬいがそうだと答えると、母はまたややしばらくしてからいった。
447
おぬいは変なことを尋ねられるとおもった。そして渡瀬さんに対する自分の考えをいおうとしているうちに、母は支度をすまして茶の間にはいってきた。いつものとおり地味すぎるような被布を着て、こげ茶のショールと診察用の器具を包んだ小さい風呂敷包とを、折り曲げた左の肘
「どう思うの」
448
ともう一度静かに尋ねた。
「快活なおもしろい方だと思いますわ」
449
とおぬいは平気で思ったとおりを答えた。
「あなたにあっては誰でもいい方になってしまうのね」
450
ほほえみながらそういって母はちょっと言葉を途切らしたが、
「私もほんとはあなたの思ってるとおりに思うのだけれども、世間ではそうはいっていないらしい。中にも教会の方などには聞き苦しいとおもうほどひどい評判をなさるのもあって、どうして星野さんが、あんな人を推薦
451
おぬいは遊廓という言葉を母の口から聞くと、身がすくみそうに恥じらわしくなって、顔の火照
「そうね、私は星野さんや渡瀬さんを信ずるよりあなたを信じましょうね。渡瀬さんに用心するより、あなたが真直な心をさえ持っていれば少しもこわいことはありませんよ。どんなことがあっても人様を疑うのはよくないものね。正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です。……ではこれから出かけてきますからね、渡瀬さんがいらしったらよろしく」
452
こういい残して母はかいがいしく、雪のちらちら降る中を病家へと出かけていった。
453
母を送りだして茶の間に帰ったおぬいは、ストーヴに薪
454
そんなことを思っていると、ふとおぬいは心の中に不思議な警戒を感じた。彼女は緋鹿
455
ややしばらくしてから、格子戸が力強く引き開けられた。それは渡瀬さんに違いなかった。おぬいは別に慌てることもなく、すなおな気持で立ち上って迎いに出ようとしたが、部屋の出口の柱に、母とおぬいとの襷がかけてあるのを見ると、派手な色合いの自分の襷を素早くはずして袂の中にしまいこんだ。
「いつものとおり胡坐
456
渡瀬さんはそういって、片眼をかがやかしながら、からからと笑って膝を崩した。からからといっても、渡瀬さんの笑いには声は出なかった。
「茶なんざあ、あとでいいですよ。さあやりましょう」
457
おぬいは渡瀬さんのいうとおりにして、その人と向合いに坐った。渡瀬さんの気息はいつものように酒くさかった。飲んだばかりの酒の匂いではなく、常習的な酒癖のために、体臭になったかと思われるような匂いだった。おぬいはそのすえたような匂いをかぐと、軽い嘔気
「さてと、今日はどこから……おや、あなた僕の顔を見ていますね。はははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
458
渡瀬さんはいきなりそのこね固めたような奇怪な顔を少し突きだすようにした。おぬいは大変な悪いことをしたとおもった。人の醜
459
すると渡瀬さんは途轍
「失礼、あなたはいくつになりますね」
460
と尋ねた。素直に十九だと答えると感心したように、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
461
と嘆息するようにいいながら、今度は渡瀬さんがしげしげとおぬいの顔を見た。おぬいは軽い羞恥と、さらにかすかな恐れをも感ぜずにはいられなかった。けれどもその場合、恥かしがることも恐れることも少しもないはずだと思うと、すぐに不断のとおりの気持に帰ることができて、
「それでは始めていただきます」
462
といいながら、書物を机の真中の方に持っていった。渡瀬さんもそのつもりらしく、上体を机の上に乗りだした。
463
おぬいは何もかも忘れて、懸命にこの前教えられたところを復習した。第四読本は少し力にあまるのだけれども、書いてあることが第三読本よりはるかに身があるので、読むには励
464
今日その章を声を出して読むことは、おぬいにはかなり苦しいことだった。もしもこの前のように感情が書いてあることに誘いこまれたら、どうしようと危ぶまずにはいられなかった。どこまでも作り話だと思って読もうと勉めながら、おぬいは始めの方から意訳していった。けれども冒頭からもう涙ぐましい気持にされていた。おぬいはかねてから、自分の身の上にも、いつかは恋愛が来るだろうとは覚悟していた。けれどもそれは、本当に来るのだろうかと疑わねばならぬほど遠いところにあるもので、しかもそれに襲われたが最後、知りながら否応なしに、苦しみと悲しみとに落ちこんでいかねばならぬものとなぜとはなく思いこんでいた。彼女の心の底をゆり動かす怖れといっては実際それだけだった。今おぬいの眼の前には、彼女の心の怖れを裏書きするような事実が語られているのだ。読んでゆくうちにおぬいの心は幾度となく悲しさと悩ましさとのために戦
「そこですか。それは何んでもないじゃありませんか」
465
と渡瀬さんは無遠慮にいって、頭のいい人らしくはっきり解るように教えてくれた。おぬいはその間にようやく感情を抑えつけて、また先きを読みつづけてゆくことができた。そしてこういうことが二度三度と重なっていった。おぬいはまた烈しい感情で心を揺り動かされて、胸のところに酸
「ええと、それは……どこでしたかね」
466
といいながら、やきもき[#「やきもき」に傍点]と顔を書物の方につきだした。
467
おぬいはその時はからず母のいいおいていった言葉を思いだしていた。そして渡瀬さんに対して、恐ろしい不安を感じないではいられなくなった。渡瀬さんと向い合って人気のない家にいるのがたまらないほど無気味になった。おぬいは思わず「天にある父様」と念じながら
「正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です」……その母の言葉、それがまた思いだされた。おぬいは眼がさめたように自分の今までの卑怯
468
読み終えるとおぬいは眼に涙をためていた。もうそれを渡瀬さんに隠そうとはしなかった。
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が分らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの。作り話ではどんな悲しいことが書いてあっても、私そんなに悲しいとは思いませんけれども、こんな本当のお話を読みますと……」
469
ハンケチで涙を拭いながら何事も打ち明けてこういった。
「これは本当の話ですか」
470
渡瀬さんは恥かしげもなくこう聞き返した。
「星野さんがそういうようにおっしゃってでしたけれども」
「本当であったところが要するに作り話ですよ。文学者なんて奴は、尾鰭
471
渡瀬さんはこだわりなさそうに笑ったが、やがていくらかまじめになって、
「今日はお母さんは……お留守ですか」
「診察に出かけました……よろしくと申していました」
472
正しい心がけで……おぬいは怖れることは露ほどもないと心を落ちつけた。
「じゃ先をやりますかな……」
473
渡瀬さんは書物を手に取り上げて、しばらくどこともなく頁
「おぬいさん」
474
といった。渡瀬さんから自分の名を呼ばれるのはおぬいには始めてだった。
「はい」
475
おぬいもまじろがずに渡瀬さんを見た。
「やあ困るな、そうまじめに出られちゃ……あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
「いいえ」
476
おぬいはここぞと思って、きっぱりと答えた。
「それで泣くというのは変ですねえ」
477
渡瀬さんは少し大ぎょうにこういいながら、立ち上ってストーヴに薪をくべに行こうとした。おぬいも反射的に立ち上ってその方に行きかけたが、二人が触れあわんばかりに互に近寄った時、渡瀬の全身から何か脅
478
渡瀬さんは薪をくべると手をはたき合せながら机の向うに帰った。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
479
この二の句を聞くと、おぬいはあまりに押しつけがましいと思った。噂のとおり少し無遠慮すぎると思った。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののように思います。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと、今から悲しゅうございます。だもんですから、ああいうお話を読みますと、つい自分のように感じてしまうのでございましょうか」
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
480
おぬいはもうこの上我慢がしていられなかった。母がいてくれさえすればと思った。口惜涙を抑えようとしても抑えることができなかった。そしてハンケチを取りだす暇もないので、両方の中指を眼がしらのところにあてて、俯向
481
渡瀬さんはしばらくぼんやりしていたが、きゅうに慌てはじめたようだった。
「悪かったおぬいさん。僕が悪かった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないものだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は、我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」
482
おぬいは眼をふさいでいたけれども、渡瀬さんが坐りなおって、頭を下げているのがよくわかった。そして切れ切れにいいだされた今の言葉がけっして出まかせでないのが一つ一つ胸にこたえた。
483
しかしおぬいが一たび受けた感じは容易に散りそうにはなかった。で、しかたなしにはずみ上る言葉をようやく抑えつけながら、
「ええもう何んとも思ってはいませんから……いませんから、私をこそお許しくださいまし。けれども今日は、もうこれで、お帰りを願いとうございますの」
484
とだけようやくいって退
「え、……帰ります」
485
渡瀬さんはそういったなり、立ち上って部屋を出た。おぬいは何かもっと和解の心を現わして、渡瀬さんの心をやすめたいと思ったけれども、何かいうのがどうしても不自然だったので何もいわないことにして、上り口まで送ってでた。
「どうか許してください」
486
下駄をはくと、渡瀬さんはこっちを向いてこう挨拶した。おぬいも好意をもって眼を上げた。渡瀬さんはにこにこしていた。そして意外だったのは、つぶれていない方の眼に涙がたまっているのではないかと思えたことだった。
487
たった一人になるとおぬいはほっ[#「ほっ」に傍点]と溜息が出た。何か自分が思いもかけない結果を渡瀬さんに与えたのではないかと思うと、自分というものが怖ろしいようだった。彼女の知らない力があって、ともすると願いもしないところに彼女を連れこんでいこうとするかにさえ感じられた。そういう時に父のいないのがこの上なく淋しかった。おぬいは障子を半ば締めたまま、こんこんと大降りになりだした往来の雪を、ぼんやりと瞬
488
ややしばらくして、何という弱々しいことだと自分をたしなめて、おぬいは立ち上ると、障子を締め、その足でラムプを茶の間に運んで火をともした。時計はもう五時半近くになっていた。夕方の支度がおそくなりかけていた。
489
おぬいは大急ぎで書物をしまい、机を片づけ、台所に出て、白いエプロンを袂ごと胸高に締め、しばられた袂の中からようようの思いで襷
490
おぬいはそうしたまま、灯もともさない台所の隅で、しばらくの間慄
* * *
491
創成川を渡る時、一つ下
492
行ってみるとおぬいさん一人らしかった。脱ぎ取った帽子の雪をその人が丁寧
「いつものとおり胡坐をかきますよ。敲
493
といって思いきり彼らしい調子を上げて笑い崩した。おぬいさんはその時立って茶棚の前に行っていたが、肩越しにこちらを振り返って、別に驚きもしないようににこにこしながら「どうぞ」といった。
494
茶なんぞ飲むよりもおぬいさんと一分でも長く向い合っていたかった。茶はいらないというと、せっかく茶器を取りだしかけていたおぬいさんは素直にそのままそれをそこにおいて、机の座に戻ってきた。ここで彼は新井田の奥さんとおぬいさんとを眼まぐるしく心の中で比較していた。とてもだめだ、比べものなんぞになるものか。二十近い年までこんなに色気というものなしに育ってきた娘がいったいあるものだろうか。新井田の奥さんの方が顔の造作は立ち勝っているかもしれないが……待てよそういちがいにはいえないぞ。第一こっちはまるで化粧なしだ。おまけにコケトリなしだ。それだのにこの娘から滴
495
まず作戦はあと廻わしにして、
「さてと、今日はどこから……」
496
といいながらおぬいさんを見ると、書物に見入っているとばかり思っていたその人は、潤
「おやあなた僕の顔を見ていますね。ははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
497
そういって彼は剽軽
498
似而非物
「失礼、あなたはいくつになりますね」
499
と尋ねてみた。さすがにおぬいさんは少し顔を赤らめたが、少しも隠し隔
「もう十九になりますの」
500
とおとなしやかに答えた。Xはつねに滴り落ちている。しかしながら渡瀬は容易にそこに近寄れないのを知らねばならなかった。そして感歎のあまり、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
501
と口に出してしまった。実際考えてみると、渡瀬が今まで交渉を持ったのは、多少の程度こそあれ男というものを知った娘ばかりだった。本当に男を知らない女性が、こんなに不思議なものを秘していようとはまったく思いもかけなかった。渡瀬にはその宝に触れてみる資格が取り上げられているようにさえみえた。彼は少しあっけに取られた。
「それでは始めていただきます」
502
そうおぬいさんが凛々
503
色慾の遊戯に慣れた渡瀬には、恋愛などというしゃら[#「しゃら」に傍点]臭いものは、要するに肉の接触に衣をかけたまやかしものにすぎない。男女の間の情愛は肉をとおして後に開かれるのだと、今までの経験からも決
504
いつの間にかおぬいさんの声がしなくなっていた。それに気づくとさすがに渡瀬は我れに返った。そしてさすがに自分を恥じた。おぬいさんは渡瀬が今まで妄想していたところよりあまりかけ離れた清いところにいた。彼は書物の方に顔を寄せながら、ともかく、
「ええと、それは」
505
といったが、どこに不審の箇所があるのか皆目
「どこでしたかね」
506
自分ながら薄のろい声で彼はこう尋ねねばならなかった。
507
おぬいさんはきっとした、少し恨
508
復習を終えたおぬいさんはひどく顔色を青くしていた。しかも眼には涙がたまっていた。渡瀬はそれを見ると自分の心持が気取
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が解らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの」
509
といって、少し恥じらうようにこちらに瞳
「文学者なんて奴は、尾鰭
510
といった。もちろんそれだけでは復讐がし足りなかった。何らの手管
511
渡瀬は茶の間を見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に目論見
「今日はお母さんはお留守ですか」
512
と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを
513
ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、
「診察に出かけました……よろしく申していました」
514
と他意なく母の留守を披露
515
けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は無恥
516
彼はおぬいさんを見やりながら、
「おぬいさん」
517
と呼んだ。彼はばかばかしい嫉妬
「あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
518
今度はとっちめてみせるぞ。
519
即座に、
「いいえ」
520
と答えた彼女の答えは、少しの隠しだてもなく、きっぱりとしたものだった。渡瀬は明かにそれを感じないではいられなかった。何んという、簡単な敗北を見なければならないだろう。あまりに簡単だ。しかしあまりに明快だ。何もかも素直に投げだして、背水
521
かまうものか、もっといじめてやれ。渡瀬は何んとなしに残虐なことをしてみたい心になっていた。そして自分で自分をけしかけるように、大ぎょうな表情を見せながら、
「それで泣くというのは変じゃありませんか」
522
とむりに追窮した。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
523
彼は自分ながら皮肉な気持の増長するのを感じた。
524
おぬいさんはほっ[#「ほっ」に傍点]と小さく気息
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののようにおもいます。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと今から悲しゅうございます。だもんですからああいうお話を読みますと、つい自分のことのように感じてしまうのでございましょうか」
525
この女は俺の説でも承
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
526
このくらいいっても応えないか。
527
と、今まで素直に素直にとしていたらしいおぬいさんの顔色がさっ[#「さっ」に傍点]と変って、死んだもののように青ざめた。俯向けた前髪が激しく震えだした。今度こそは真から腹を立てて、貞女らしい口をきくだろう、そう渡瀬が思っていると、おぬいさんは忙
528
渡瀬は不意を喰ってきょとん[#「きょとん」に傍点]とした。……はじめて彼は今まで自分が何をしていたかを知った。彼は自分がこれほど酷
「悪かったおぬいさん、僕が悪るかった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないもんだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」
529
そういって、彼は几帳面に坐りなおると、膝の上に両手をついて、頭をちょっと下げた。彼はまったくそうした気持にされていたのだ。
530
何をどういったか、そのあとはよく分らなかったが、渡瀬はとにかく居心地がいやに悪くなって、尻から追いたてられるように急いでおぬいさんの家を飛びだした。
531
とっぷりと日が暮れて、雪は本降りに降りはじめていた。北海道にしては大粒の雪が、ややともすると襟頸に飛びこんで、そのたびごとに彼は寒けを感じた。
532
彼はとっと[#「とっと」に傍点]と新井田氏の家の方を指して歩いた。「ああいけねえ」と独りごちた。何んだか打ちのめされたようだった。力が抜けてしまった。ばかばかしく淋しかった。寒いように淋しかった。
「新井田の方はあと廻わしだ」そう彼はまた独りごちて、狸
533
しかし渡瀬は酔いがすぐ覚めそうで不安だった。で酒屋の店に出喰わすと、そのたびごとに立ち寄って盛切
「何、俺は結局おぬいさんとどうしようというのではなかった。ただ何んとしてもおぬいさんが可愛いいんだ。可愛いい犬ころをいじくり廻わして、きゃんといわさなければ、気がすまなくなるあれなんだ。いわばあれなんだな。だが待てよ、そうでもないのかな」
534
ある酒屋では小僧がからかうように、
「学生さん、お前さん酔っていますね」
535
といった。ふむ、俺の酔ってるのが分るのは感心な小僧だ。
「お前はまだ女郎買いはしめえな」
「冗談じゃないよ、学生さん」
536
渡瀬は十三四らしいその小僧の丸っこい坊主頭を撫でまわした。
「お前は俺が酔ったまぎれに泣いてるとでも思うんか。……よし、泣いてると思うなら思え。涙は水の一種類で小便と同じもんだ」
537
こういいながら彼は、またふらふらとその店を出た。
538
彼は人通りの少ないアカシヤ通の広い道を、何んだか弱りしょびれた気持になって、北の空から吹きつける雪に刃向って歩いていった。彼は自分が忠義深い士のような心持だった。伏姫にかしずく八房のようでもあった。ああ俺はまったくあの畜生だな。まったく涙がほろりと流れてきた。何んだかばかばかしいと彼は思った。
539
新井田氏の玄関によろけこむと、渡瀬は拳固
「奥さあん」
540
と大声を立てて、式台にどっか[#「どっか」に傍点]と尻餅をついた。
541
奥さんはすぐドアを開けて駈けだしてきた。
「あら大変。あなた、戸も締めないで雪が吹きこむじゃないの」
542
といいながら、そこにあった下駄を片方の足だけにはいて、斜に身を延ばして、玄関の戸を締めた。股
「無礼者……とは、かく申す拙者
543
奥さんのしなやかな手が、渡瀬の肩の雪を軽く払っていた。
「いた、……いた、……痛いですよ、奥さん」
「あなた今日は本当にどうかしているわね……さあお上りなさいな」
544
渡瀬は奥さんの手のさわったところをさすりながら、情けなくなって、そのあでやかな、そのくせ性
「情けないねまったく……あなたの顔を見るとガンベは……まあいい、……それはそれとして、と……奥さん、僕は今日は、こんなへべれけの酔っぱらいになっちまったから、レコ……じゃないあなたにだ……あなたのいう『あなた』さ……はははは、その『あなた』に、ヘベれけの酔っぱらいになっちまったから、今日は休む……休むといってください。さようなら」
545
渡瀬はやおら腰を上げにかかったが、また酔のさめるのが不安になった。彼は腰をすえた。
「奥さん、ウヰスキーを一杯後生だから飲ませてください」
「あなた、そんなに飲んでいいの」
546
奥さんは本当に心配らしく、立ちながら、眉を寄せて渡瀬の顔を覗きこむようにした。渡瀬は確信をもって黙ったまま深々とうなずいた。物をいうと泣き声になりそうだった。
「いけませんよ……じゃあ待っていらっしゃいよ」
547
待っている間、涙がつづけさまに流れ落ちた。
548
渡瀬の眼の前につきだされたのは、なみなみと水を盛った大きなコップだった。渡瀬はめちゃくちゃに悲しくなってきた。それを一呑みに飲み干したい欲求はいっぱいだったが、酔いがさめそうだから飲んではならないのだ。
「や、さようなら」
549
あっけに取られて、コップを持ったまま見送っている奥さんに胸の中で感謝しながら、渡瀬は玄関を出て往来に立った。
550
雪はますます降りしきっていたが、渡瀬はどうしても自分の家に帰る気にはなれなかった。薄野
「おぬいさん……僕は君を守る……命がけで守るよ……守ってくれなくってもいいって……そんなことをいうのは残酷
551
いつの間にか彼は白官舎の入口に立っていた。
552
暗いラムプの下のチャブ台で五人ほどの頭が飯を食っていた。渡瀬はいきなりそれらの間に割りこんで坐った。
「ガンべか。ただ今食事中だ、あすこの隅にいって遠慮していろ。今夜はばかに景気がいいじゃないか」
553
といったのは人見だった。そこには園もいた。あとは誰と誰だかよく解らなかった。
「貴様は誰だ。
「森村と石岡じゃないか。西山の代りに今度白官舎にはいったんだよ。臭いなあ……貴様はまた石岡にやられるぞ。そっちにいってろったら」
554
とまた人見がいった。渡瀬は動かなかった。
「何をいうかい。今日は石岡も石金もあるもんか……酔ったぐらいで人をばかにしやがると承知しないぞ、ははは……おい人見、ここには酒はないのか、酒は。……ねえ? ねえとくりゃ買うだけだ。おい婆や……もっとよく顔を見せろ。ふむ、お前も末座ながら善人の顔だ……酒を買ってきてくれ。誰かそこいらに金を持っている奴はないか。俺の寿命を延ばすとおもって買ってきてくれ。飯なんぞもぞもぞ[#「もぞもぞ」に傍点]と食ってる奴があるかい、仙人みたい奴らだな」
555
柿江がそうそうに飯をしまって立とうとした。それを見ると渡瀬はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪
「柿江……貴様あ逃げかくれをするな。俺は今日は貴様の面皮
「俺に用がなければ行くぞ」
556
石岡が顔色も動かさずにそういいながら座をはずしかけた。
「石岡、貴様はクリスチャンじゃねえか。一人の罪人が……貴様はいつでも俺のことをそういうな。いんやそういう。……罪人が泣いてもらいたいといっているのが聞こえなかったんか。……たとえ俺がだめだといったところが、貴様の方で……まあ坐れ、坐ってくれ。……一人でも減ると俺はおもしろくないんだ……坐れえおい。俺が命令するぞ」
557
婆やが何かいいながらチャブ台を引いた。壁ぎわに行ってばらばらにそれに倚
「園君じゃねえ、園はいるか園は。それか。君……君はじゃねえ貴様はおぬいさんに惚
「おいガンべ、そんなに泣き泣き物をいったって貴様のいうことはよく分らんよ。今日はこれだけにして酔っていない時にあとを聞こうじゃないか」
558
それが石岡の声らしかった。
「ばかいえ貴様、そうきゅうにわかってたまるものか。飲んだくれ本性たがわずということを知らんな。……婆や、酒はどうした、酒は……。けれどもだ……貴様のけれどもだ、おい西山……ふむ、西山はもういねえのか。とにかくけれどもだ、貴様たちは俺が罪人なることを悲しんでいないと思うと間違ってるぞ。……はははそんなことはどうでもいい。それは第一貴様たちの知ったこっちゃないや、なあ。……とにかく……皆んな貴様たちはおぬいさんを知ってるな。けれども、貴様たちは一人だって、どれほどあの娘が天使
「わからないな」
559
それは人見だった。申し合わせたように二三人が笑った。
「ははは……
560
園はほほえみながら静かに頭をふった。
「そんなことはない」
「じゃ惚れろ。断じて惚れろ。いいか。俺は万難
「ガンベはだめだよ。貴様いつでも独りぎめだからなあ。他人の自由意志を尊重しろ、園君には園君の考えがあるだろう」
561
帽子を被ったままのが言ったんで、森村だと渡瀬にも分った。
「ふむ、そうか。……そんなものかなあ……」
「園君、君はもうあっちに行くといい……。そしてガンベもう帰れ、俺が送っていってやるから。今夜は雪だからおそくなると難儀だ」
562
そう人見がとりなし顔にいったけれども、園は座を立とうともしなかった。渡瀬はどうしてもうん[#「うん」に傍点]といわせたかった。園が不断から言葉少なで遠慮がちな男だとは知っていたけれども、これだけいうのに黙っていられるのは、癪
「園、貴様何んとかいってもいいじゃないか。俺は酔っぱらっているさ。……酔っぱらっているからって渡瀬作造は渡瀬作造だ。それとも渡瀬作造なるものに……まあいい園、俺と握手をしろ。そうだもっと握れ。俺が貴様の自由意志を尊重していないとしたらだな……俺はあやまる……。どうだ」
563
澄んだ眼を持った園の顔はすぐ眼の前にあった。それを涙がぼやかしてしまった。園の手が堅く渡瀬の手を握ったかと思うと、
「僕は君の言葉をありがたくさっきから聞いていたんだよ。よく考えてみよう」
「考えてみよう?……好男子、惜しむらくは兵法を知らず……まあいい、もう行け」
「僕も人見君といっしょに君を送ろう」
「酔不成歓惨欲別か……柿江、貴様ははじめから黙ったまま爪ばかり噛んでいやがるな……皆な聞け、あいつは偽善者だ。あいつは俺といっしょに女郎を買ったんだ」
「おいおいガンベ、酔うのはいいが恥を知れ」
564
それはすべてを冗談にしてしまおうとするような調子だった。
「恥を知れ? はははは、うまいことを言いやがるな。……」
565
まだいい募りたかったが、その時渡瀬は酔のさめてくるのを感じた。それは何よりも心淋しかった。寝こんでしまって自然に酔いがさめるのでなければ、酔ざめの淋しさはとても渡瀬には我慢ができなかった。彼は立ち上った。
「便所か」
566
と人見も同時に立ってきた。廊下に出るときゅうに刺すような寒気が襲ってきた。婆やまでが心配そうにして介抱しに来た。渡瀬は用を足しながら、
「婆や、小便は涙の一種類で、水と同
567
といってしいて笑ってみたが、自分ながら少しもおかしくはなかった。何しろ酒にありつかなければもういられなくなった。
568
彼は人見と園とにつき添われて、白官舎から、真白に雪の降りつもった往来へとよろけでた。
* * *
569
どうしても気の許せないようなところのある男だった。それが、ともかく表向は信じきっているように見える父の前に書類をひろげてまたしゃべりだした。
「こうした依頼を受けているんです。土地としては立派なもんだし、このとおり七十三町歩がちょっと切れているだけだから、なかなかたいしたものだが、金高が少し嵩
570
そういう間にも、その男は金縁
「で、その金を借りだしてどうなさろうというのかな」
571
父は書類を取り上げながらこう尋ねた。待っていたと言わんばかりに、その男はまた折鞄の中から他の書類を取りだした。
「それがこれになろうと言うんです。これがまた偉いもんですぜ。胆振
572
と、まともにおせいの方を見て、
「あなたが三十におなんなさる時を思やあ、むこうはやっと四十九だ。ちょうどいいつり合いになりまさあ。どうも男って奴は、これで五十やそこらのうちに細君が四十だ四十一だなんてことになると、つい浮気になりたがるものですよ。……ねえお父さん、お互にまんざら覚えのないことでもないしさ」
573
おせいはこんなことをいわれるのを聞いていると、とてもこの話は承諾はできないと思った。聞いているうちに、その人が憎らしくなって、いっそ帰ってしまおうかと思った。父は袖の下に腕を組んでじっと考えこむようにしていた。おせいは二日前に兄の清逸から届いた手紙のことを心の中で始終繰り返していた。お父さんは家のものに何んにも相談しないが、お前の結婚のことを考えているらしい。昨日も浅田という元孵化場
「どうでしょうな」
574
五つ紋の古い紬
「どうだな、おせい」
575
父はまたその男の眼を避けるようにおせいを見るのだった。おせいは身がすくむような気がして、恨めしそうに父を見かえした。
「浅田さんもさっきからこれほど事をわけて話してくださるんだから、お前、何んとか御挨拶をしないじゃならんぞ。お父さんもそうたびたび千歳からかけて足を運ぶわけにはいかないしよ」
576
と父は、いっそう腕を固く組んで、顔を落して説き伏せるように一語一語に力を入れた。
577
それでもおせいは何んと答えようもなかった。ようやくのことで唾を呑みこんで、居住まいをなおしながら下を向いた。
「いや、こりゃ私がいちゃかえって御相談がまとまりますまい。私は勧業の方の人に用もありますししますから、これでひとまずお暇とします。……じゃお嬢さん、ひとつよくお考えなすって。仲人口
578
そしてその人は父と簡単な挨拶を取り交わすと、そこにあった書類をいちいち綿密に鞄の中にしまいこんで座を立った。おせいが父のあとについて送りだそうとすると、浅田は、
「お嬢さん、もうようございます。何、星野さんちょっとお顔を」
579
いったので、おせいはわざと遠慮した。二人は部屋の外の階子段の上で、あれこれ十分ほどもほそぼそと話をしていた。なぜともなく五体が震えるのを、寒さのせいかと思って、腰を折って火鉢の上に手をかざした。壁が崩れ落ちたと思うところに、日章旗
580
父はやがて小むずかしい顔をして帰ってきた。「寒い家だどうも」とあたりを見まわしているのが、千歳の家を知りぬいているおせいには気恥かしいくらいだった。
「どうだ」
「私はいやです」
581
おせいは即座に答えた。父はむっ[#「むっ」に傍点]としたらしかったが、やがてしいて言葉を和らげながら、
「そう膠
「先様は何んという人です」
「先方はお前、今も浅田さんがいうとおりなかなか○持ちで、自分が貧乏から仕上げたのだから、嫁は学問がなくてもやはり苦労して育ったしとやかなのが欲しいと、まず当世に珍らしい……」
「何という人なんです」
「名か、名はその、梶といって、札幌では……」
582
はたして兄からいってきたとおりだった。おせいはあまりといえば父もあまりだと思った。
「そんなら私はどうしてもいやです。幾人も妾
583
といううちに、彼女は胸が熱くなって涙ぐんでしまった。兄さんですら、小さい時、あれほど自分を可愛がってくれた兄さんですら、まるで自分の事しか考えてはいないし、お父さんはお父さんで、自分の娘だか、他人の娘だか区別のないような仕向け方をする、と思うと、おせいは誰にたよる的
584
おせいは水月
585
二人はお互の間に始めてこんな気づまりな気持を味いながら、顔を見合せるのも憚
「どうしてもお前はいやというのか」
586
おせいはもう涙も出なかった。乾いたままで唇が無性に震えた。
「お父さん、それだけはどうか勘忍してください」
587
父は地声になって口をとがらした。
「勘忍してくださいといったところが、これはお前のことだからお前の勝手にするがいいのだが、どういう訳だか訳を言わにゃ、ただ許してくれではお父さんも困るじゃないか」
「お父さんは私を……私を高利貸の……妾
「とんでもないことを……お前はさっきから高利貸高利貸と言うが、それは働きのない人間どもが他人の成功を猜
「けれども、あの人にはちゃんと奥さんがあるんじゃありませんか」
「そ、それだが……先方では妻にくれろというのだから、今の細君をどうするとかこうするとかそれはむこうに思わくがあってのことに違いないとお父さんは思ってるがどうだ。何しろこっちは先方の言い分を信用して……」
588
おせいは惘
「お前は何んでも世間の見るとおりに物を見ようとするからいけない。高利貸といえばすぐ鬼のような無慈悲な奴、妾を持つといえばすぐ※々
589
おせいはそれを聞くと身がすくむようだった。体がかたくなった。肩が凝りきった時のように、頸筋
「お前見たことはないか」
「いいえ」
590
おせいの眼は父の手から辷
591
気まずい沈黙がそのあとに続いた。
592
いっそ……ああ若様と私とは身分がちがう。
593
すぐ見棄てられるにきまっている。その時の苦しさを思うとどうしても今までどおりにしているほかはない……といって、私はきっといつかは敗けてしまうに決っている……たとえ、見棄てられても、一度だけでも……おせいは切羽
「お父さんはたってと勧めるんじゃない……が、お前はどうしても気が向かないというのだな……」
594
おせいはびくりとして夢のようなところから没義道
「まあお父さんの胸の中もひととおり聞いてくれ。俺も五十二になる。昔なら殿様に隠居を願いでて楽にくつろぐ時分だが、時世とはいい条
595
こういう不平をきっかけに父は母が少しも甲斐性のないことや、純次がますます物わかりが悪くなって、親を睨
「愚痴
596
おせいはそれが崇
「もっともあれはあれで親切人だから、そのことを根に持つような人柄ではないが、俺は頑固な昔気質だから、どうも寝ざめがようないのだ。俺は困っとるよ……」
597
と父は膝のまわりを尋ねまわして、別々になっている煙草入と煙管とを拾い上げると、慌
598
力がなえきってみえた父は、最後の努力でもするように、おせいの方に向きなおって、膝の上に両肱
「おせい……」
599
鼻をすすりながらそれを横撫でにした。
「甲斐性のないおやじと下げすんでくれるなよ。俺も若い時に、なまじっかな楽な暮しをしたばかりに、この年になっての貧乏が、骨身にこたえるのだ。俺一人が楽をしようというではけっしてないがな、何しろ、今日日々の米にも困ってな……この四年あまりというもの、お前のしてきた苦労も、俺は胸の中でよっく察している。親というものは子にかけちゃ神様のように何んでも分る。お前は小さい時から素直な子だったが、素直であればあるほど……」
「お父さんそんなことをいうのはもうよしてください……」
600
おせいはほとんど憤
601
とにかく二三日中にはっきりした返事をすると約束しておせいはようやく父の宿を出た。
602
もうまったく日が暮れていた。ショールに眼から下をすっかり包んで、ややともすると足をさらおうとする雪の坂道を、つまさきに力を入れながらおせいはせっせと登っていった。港の方からは潮騒のような鈍い音が流れてきた。その間に汽船の警笛が、耳の底に沁
603
主家の大きな門の前に来た。朋輩たちがおせいの帰りの遅いのをぶつぶつ言いながら、彼女の分までも働いているだろうと思うと気が気でなかった、大急ぎで門を駈けこんだ。
604
こちらから挨拶もしないうちに、台所で働いてる女中の一人が、
「早かったわね。奥さんがお待ちかねよ」
605
といった。
「若様もお待ちかねよ」
606
ともう一人のがいった。おせいは何んともいえない淫
607
おせいは取りあえず奥の間に行って、講談物か何かを読み耽
「ただいま戻りました。おそくなりまして相すみません。父がよろしくと申されました」
608
というと、いつもの癖の眼鏡の上の方から眼を覗かせて、睨むようにこっちを見ていた奥様は、
「父がよろしくと申されましたかね。あの
609
と憎さげにまた書物を取り上げた。どうかすると気味が悪るいほど親切で、どうかするとこちらがヒステリーになりそうに皮肉なのがこの人の癖だとは知りながらおせいは涙ぐまずにはいられなかった。
610
奥様に釘を打たれて、その夜おせいは食事を取らなかった。実際喰べたくもなかった。
611
けれども夜中になると、何んとしても我慢ができないほど餓
612
その瞬間におせいはどっと悲しくなった。そしてそこに体を倚
* * *
613
父が死んだという電報を受け取ったのは、園がおぬいさんの所に教えに行って、もう根雪になった雪道を、灯がともってから白官舎に帰ってきた時だった。
614
隣りの人見の部屋には柿江と森村とが集っているらしく、話声で賑わっていたが、園はそこを覗いてみる気持にもなれないで、そっと素通りして自分の部屋にはいった。
615
渡瀬がひどく酔払って白官舎に訪ねてきた翌日から、どうしてもおぬいさんを教えるのはいやだといいだしたので、そしてしきりに園に教えに行けといって聴かないので、彼は已
616
幾度も玄関に出てその帰りを待っていたという婆やが、何か不吉の予感らしいものを顔に現わして園にその電報を手渡した時、園も一種の不安を覚えないではなかったが、まさかあの頑丈な父が死ぬものとは思っていなかった。文言を読んだ時でも父が死んだようには考えられなかった。ただ眼の前に自分の家の様子が普段のままな姿で明かに思いだされたばかりだった。
617
何か変ったことがあったのではないかと婆やが尋ねるのに対しても、はっきりしたことは告げ知らせもしないで、自分の部屋に帰ってきたのだった。
618
不思議なことには……と園がふと思ったほど……自分の部屋は何んの変化もない自分の部屋だった。机の側には婆やのいけておいてくれた炭火がかすかに光っていた。園はいつものとおり、ドアの蔭になっている釘に、外套と帽子とをかけて、本箱の隅におきつけてあるマッチを手探りに取りだしてラムプに灯をともした。机の上には二三通の手紙がおいてあった。その中の一つは明かに父からの手紙だった。園は坐りも得せず、その手紙を取り上げてみた。たしかに父の手蹟に相違なかった。ちびた筆で萎縮
619
園は手紙と電報とを机の上に戻しながら始めて座についた。そしてしばらくは手紙を開封することもなく、人さし指を立てて机の小端
620
園は父の手紙をわざと避けて、他の一通を取り上げてみた。それは絶えて久しい幼友だちの一人から送られたもので、園にとってはこの場合さして興味あるものではなかった。他の一通は書体で星野から来たものであるのが明かだった。園はせわしく封を破って、中から細字で書きこまれてある半紙三枚を取りだした。長い手紙であればあるほどその場合の園には便りが多かった。園は念を入れてその一字一句を読みはじめた。
「皚々がいがい たる白雪山川を封じ了んぬ。筆端のおのずから稜峭りょうしょう たるまた已や むを得え ざるなり」
とそれは書きだしてあった。
「昨夜二更一匹の狗子くし 窓下に来ってしきりに哀啼あいてい す。筆硯ひっけん の妨げらるるを悪にく んで窓を開きみれば、一望月光裡いちぼうげっこうり にあり。寒威惨かんいさん として揺ゆる がず。かの狗子白毛にて黒斑こくはん 、惶々乎こうこうこ とし屋壁に踞跼きょきょく し、四肢を側立て、眼を我に挙げ、耳と尾とを動かして訴えてやまず。その哀々あいあい の状じょう 諦観視するに堪えず。彼はたして那辺なへん より来れる。思うに村人ことごとく眠り去って、灯影の漏るるところたまたま我が小屋あるのみ。彼行くに所なくして、あえてこの無一物裡に一物を庶幾しょき し来れるにあらざらんや。庭辺一片の食なし。かりに彼を屋内に招かば、狂弟の虐殺するところとならんのみ。我れの有するものただ一編の文章のみ。文章は畢竟ひっきょう 彼において何するところぞ。我れついに断じて窓を閉ず。翌、かの狗子くし 命を我が窓下に絶ちぬ。
ああ何んぞ独ひと り狗子を言わんや。自然の物を遇するすべてまさにこのごとし。我が茅屋の中つねにかの狗子にだに如し かざるものを絶たず。日夜の哭啾こくしゅう 聞こえざるに聞こゆ。筆を折って世とともに濁波を挙げて笑いかつ生きんとしたること幾度なりしを知らざるは、たまたま我が耿々こうこう の志少なきを語るものにすぎずといえども、あるいは少しく兄の憐みを惹ひ くものなきにしもあらじ。しかも古人の蹟を一顧すれば、たちまち慚汗ざんかん の背に流るるを覚ゆ。貧窮ひんきゅう 、病弱びょうじゃく 、菲才ひさい 、双肩そうけん を圧し来って、ややもすれば我れをして後しり えに瞠若どうじゃく たらしめんとすといえども、我れあえて心裡の牙兵を叱咤しった して死戦することを恐れじ。『折焚く柴の記と新井白石』はかろうじて稿を了おわ るに近し。試験を終らば兄は帰省せん。もししからば幸いに稿を携たずさ え去って、四宮霜嶺先生に示すの機会を求むるの労を惜しまざれ。先生にして我が平生忖度そんたく するところのごとくんば、この稿によって一点霊犀れいさい の相通ずるあるを認めん。我が東上の好機もまたこれによって光明を見るに至らんやも保しがたし。さらに兄に依嘱いしょく しえべくんば、我が小妹のために一顧を惜しまざれ。彼女は我が一家の犠羊ぎよう なり。兄の知れるごとく今小樽にありてつぶさに辛酸しんさん を嘗な めつつあり。もしさらに一二年を放置せば、心身ともに萎靡いび し終らんとす。坐視ざし するに忍びざるものあり。幸いにして東京に良家のあるありて、彼女のために適所を供さば、たんに心身の更生こうせい を僥倖ぎょうこう しうるのみならず、その生得しょうとく の才能を発揮するの機縁に遇いうるやも計るべからず。我が望むところは、彼女が東上して円山氏につき、勤労に服するのかたわら、現代的智識の一班に通ずるを得ば、きわめて幸いなり」
621
園はこれだけのことを読む間にも、幾度も自家の方のありさまを想像していた。想像したというよりは自分がずっと育ってきた東京郊外の田舎じみた景色や、父、母、兄などの面影
622
あるかないかに薄い眉の上に、深い横皺を一本たたんで、黒白半ばするほどの髪毛のまだらに生え残った三分刈りの大きな頭を少し前こごみにして、じろりと横ざまに眼を走らしながら人の顔を見る父の顔……今年の夏休暇の終に見たその時の顔……その時、父と兄との間にはもう大きな亀裂
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しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の印象
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園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の木端
「とにかく今夜すぐ帰ろう」
625
ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。
626
しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が火照
「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」
627
しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に抛
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隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は森閑
629
隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し頓狂
630
園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。肘
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ただし、残された一つのことは、自分の気持をゆがめずに三隅母子に伝える時機と方法とをつくることだけだった。しかしそれさえ園にとっては格別むずかしいことではなくみえた。父死亡の電報を見た時でも、この場合その問題をどう片づけるかさえ考えはしなかったのだが、欠席届を書き終えた時、保証人なる槍田氏は三隅の小母さんの知り合いだから、通知かたがた三隅家に立ち寄ってその判を貰うように頼もうと思いつくと同時に、自分の心持もそのついでにいってしまおうと決心したのだ。
632
園は往来を歩きながら、不思議な力が、徐
633
さっきのとおりに小母さんもおぬいさんも家にいて、台所で夕食の支度をしているところだった。二人はさっき帰ったばかりの園が、不意にまた訪ずれてきたのを驚きながらも喜ぶように、もつれ合って入口に走りでた。毎日同じようなことを繰り返しながら、淋しく暮している母子二人にとっては、これほどいささかな不意なことも、これほどに気を引き立たせるのだろう。少なくとも園がこの家で邪魔物あつかいにされていないのを知るのは彼にとっても限りなく快いことだった。
634
おぬいさんは慌て気味に襷
「その鞄は」
635
と小母さんは怪しむように尋ねた。
「今お話します」
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園は小母さんの怪訝
「どうなすったのです……明りのせいかしらん、……お顔の色がお悪いようですが……」
637
火鉢のわきに小母さんが、園からずっと離れて茶箪笥
638
いつものとおりの落ち着いたしとやかさでおぬいさんが茶を入れていた。小母さんは茶を飲み終るまでも、大事な問題は延ばしておこうとでもするように、途中が寒かったろうなどと、世間なみの口をきいていた。園は自分の気持が何んとなく小母さんに通じているのだなと思った。長い生活の経験と、親というものの力が美しく働いているらしいのを感じて、その月並な会話にもけっして不快は感じなかった。
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園はおぬいさんが進めてくれた茶を静かにすすった。少しそれは熱すぎた。彼は冷えた両手でほとぼりの沁
「こんなことをいうのはまだ早すぎはしないかと思いますのですけれども、事情がこれ以上躊躇
640
園は両手に握っている茶碗を感じた。そしてその茶碗の中にさらに一杯の茶を欲した。けれども彼は続けた。
「僕は自分としてはこれ以上は考えられないというところまで考えたつもりです。もし失礼に当ったら許してくださいまし。僕はおぬいさんとお約束をすることができたらと思うんです……そう願っています」
641
園はおぬいさんに向っても同じことをいいたかったのだ。しかしそれを聞きつつあるおぬいさんの苦痛を察すると、どうしてもそちらに眼をやることができなかった。それにもかかわらずおぬいさんが処女らしい羞
642
小母さんは切れ切れな園の言葉を聞くと、思わずはっと胸をつかれたらしく、かすかに口をゆるめて、鋭い色を眼にひらめかしたが、やがて、というほどもなく、園をしげしげと見やりながら黙ったままで深くうなずいてみせた。そしてかすかな血の気をその疲れたような頬に現わした。自分は今答えようにも答えられないから、もっと何んとかいえとその顔は促がしていた。園は何か言おうとした。しかしそこには言うべき何事も残ってはいなかった。それ以上をいうのは冒※
643
園と小母さんとは無言のままで互いの眼から離れて下を向いてしまった。ストーヴの中の薪
644
と、おぬいさんが無言のままで立ち上って、間の襖を開けて静かに隣の部屋に去った。小母さんはそのきっかけにおぬいさんに何かいおうとしたらしかったが、思い返したか、心許
645
襖が静かに締まった。
646
園はもう一つ言っておかねばならぬものを思いついた。それゆえふたたび顔を上げて小母さんを見た。小母さんは園を避けながら、いらだっているような風で火鉢の炭をせせっていた。しかしそれはいらだっているのではなく、少し心の落ち着きを失っているのだということが園にはよく解った。彼は小母さんの引きしまった横顔を見やりながら口を切った。
「僕ははじめこのことをあなただけの所で申しあげようか、おぬいさんだけに聞いていただこうかと迷いました……しかし結局お二人の前で申しあげるのが一番いいとおもいました。……本当は槍田さんにでもお願いするのがいいのかもしれません……けれども、そうお願いして万一僕の気持がそのまま現われないようなことがあると……苦しいことだと思ったものですから……どうか僕を信じてくださいまし。僕はどんな御返事をいただいても……それは十分に覚悟しています……」
647
そういいだしてみると、今度は言っておきたいことが後から後からと無限にあるように感じられた。どこまで行っても果てしがあろうとは思われなかった。園は少し自分に惘
648
ややしばらく思案しているらしかった小母さんは、きゅうに居住まいをなおして園の方にまともに顔を向けた。
「園さん。おっしゃることはいちいち私にもよく解りました。それだけおっしゃってくださるのを私は親として誠にありがたく存じますけれども、娘は不束
649
小母さんの声は意外にも曇って震えていた。園はもとより今夜の告白からすぐ結果を望もうとなどはしていなかったのだ。心の中では、もちろんそんなことを即座に伺おうなどとは思っていませんといいたかったけれども、それが言葉にはならなかった。
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隣の部屋でおぬいさんが忍び泣きをしている……それを園ははっきり感じた。彼は身の内が氷のように引き締まるのを覚えた。強い緊張のために、肩の凝りきった時のような感じが体全体に漲
「何んだか僕は自分のしたことが乱暴すぎたかとも思いもします……もしそうでしたら、ごめんください。僕はけっしてどんな結果をも恐れてはいませんから、どうか十分自由なお気持で今までのことをお聞きくださいまし。……僕は今夜きゅうに東京に帰らなければなりません。少し思いがけない不幸に遇いましたから。そのことはいずれ手紙で申しあげます。……それではもう時間がありませんからお暇します。……英語の方をまた休まなければならなくなって……」
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とできるだけ冷静な言葉で言おうとしたが、自分ながら意気地なく声が震えを帯びた。もし事が破れたら、この家にはもう来られないのだ。ふと彼はそう思うと限りなく淋しかった。
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園は欠席届書を小母
「ぬいさん、園さんがお帰りだからお見送りなさいな。東京の方にお帰りだというから――」
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小母さんは立ち上って園を入口に送りだしながら、奥の方にこう声をかけた。けれどもおぬいさんの出てきそうな様子はなかった。園はそれがおぬいさんらしいと思った。そう思いはしたものの、言いようのない物足らなさが胸の奥底に濃く澱
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園が編上靴を穿
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園は格子戸を立ててから、未練だとは思いながらもちらっとおぬいさんを見た。おぬいさんは、畳についた両手をしゃんと延ばして寄せ合わせて、肩さえいつもより細々と見えるのに、襟足がのぞかれるまで顔を重く伏せていた。眼上のものに心から詫び入る姿のように。かと思うと死ぬほどの口惜しさをじっと堪らえる形のように。園にはもどかしいほどに、そのいずれであるかがどうしても分らなかった。
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園は歩きながら、我にもなくややともすると、熱い涙が眼に迫るのを感じた。そして振り払うように眼を瞑
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思いもかけぬ重い苦痛と疑惑とが、若い心を老いしめると思うほどに押し寄せてきた。彼は自分の腑甲斐
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そうだったと眼が覚めるように思い上る瞬間もあった。同時に、玄関で別れぎわに見たいたいたしいおぬいさんの姿が、手を延ばせば掴めそうに眼の前にちらついて離れない瞬間もあった。しまいには園は自分を憐みたくさえなった。しかもそれが父の死を知ったばかりの悲しみの中にあるべき身でありながら――園はさながら魍魎
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停車場には白官舎の書生だけが三人で送りに来ていてくれた。柿江は夜学校の日だというので顔を見せなかった。婆やも来てはいなかった。人見が「東京に行くとおもしろい議会が見られるね。伊藤が政友会を率いてどう元老輩をあやつるかが見ものだよ」といっていた。その言葉が特別に園に縁遠い言葉としてかえっていつまでも耳底に残った。
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三等車の中央部にあるまん丸な鋳鉄製のストーブは真赤に熱して、そのまわりには遠くから来た旅客がいぎたなく寝そべっていた。八時に札幌を発
[#「ウヰスキー」および「ダーウヰン」の「ヰ」は、底本ではポイントを下げた小さな「ヰ」をあてているが、そのまま「ヰ」を使用した。]
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字
ジャン・※ルジャン |
第3水準1-7-82 |
粗※ |
第3水準1-14-76 |
※々 |
|
※ |
第3水準1-90-51 |
冒※ |
第3水準1-87-29 |
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成14年8月