長崎小品
芥川龍之介
1
薄暗き硝子戸棚の中。絵画、陶器、唐皮、更緲、牙彫、鋳金等種々の異国関係史料、処狭きまでに置き並べたるを見る。初夏の午後。遙にちやるめらの音聞ゆ。
2
久しき沈黙の後、司馬江漢筆の蘭人、突然悲しげに歎息す。
3
古伊万里の茶碗に描かれたる甲比丹、どうしたね? 顔の色も大へん悪いやうだが――
4
蘭人、いえ、何でもありませんよ。唯ちつと頭痛がするものですから――
5
甲比丹、今日は妙に蒸暑いからね。
6
唐皮の花の間に止まれる鸚鵡、※うそですよ。甲比丹! あの人のは頭痛ではないのです。
7
甲比丹かぴたん、頭痛ではないと云ふと?
8
鸚鵡あうむ、恋愛ですよ。
9
蘭人、鸚鵡を嚇おどしつつ余計よけいな事を云ふな!
10
甲比丹蘭人にまあ黙つてゐ給へ。鸚鵡にさうして誰に惚れてゐるのだい?
11
鸚鵡、あの女ですよ。ほら、あの阿蘭陀出来オランダできの皿の中にある。――
12
甲比丹、何時いつも扇を持つてゐる女か?
13
鸚鵡、ええ、あれです。あの女は顔こそ綺麗ですが、中々気位きぐらゐが高いものですからね。
14
蘭人、再び鸚鵡を嚇しつつこら、失礼な事を云ふな!
15
甲比丹、さうか? それは気の毒だな。金象嵌きんざうがんの小柄こづかの伴天連ばてれんにどうしたものでせう? パアドレ!
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伴天連ばてれん、さあ、婚礼はわたしがさせても好いいが、――何しろ阿蘭陀オランダ生れだけに、あの女の横柄わうへいなのは評判だからね。
17
蘭人、どうかもう御心配なさらずに下さい。やけ気味にいざとなればあの種たねが島しまに、心臓を射抜いぬいて貰ひますから。
18
種が島、残念さうに駄目だめだよ。僕は錆さびついてゐるから、――サアベル式の日本刀にほんたうにでも頼み給へ。
19
牙彫げぼりの基督キリスト、紫壇の十字架上に腕をひろげつつ無分別むふんべつな事をしてはいけない。ふだん云つて聞かせる通り、自殺などをしたものは波群葦増はらゐその門にはひられないからね。麻利耶マリヤ観音くわんのんにお母様かあさま! どうかしてやる訳には参りませんか?
20
麻利耶マリヤ観音、さうだね。ではわたしが頼んで見て上げようか?
21
伴天連、さう願へれば仕合せでございます。
22
甲比丹、どうか御尽力を願ひたいと存じますが、――蘭人に君からもおん母に御頼みし給へ。
23
蘭人、恥しげに何分なにぶんよろしく御願ひ申します。
24
鸚鵡、御恵おめぐみ深い麻利耶マリヤ様! わたしからもひとへに御願ひ致します。
25
麻利耶観音、阿蘭陀オランダの皿に描ゑがかれたる女にあなた!
26
阿蘭陀オランダの女、何か御用ですか?
27
麻利耶観音、はい、実はこの若い方かたがあなたを御慕ひ申してゐるのださうですが、――
28
阿蘭陀の女、まあ嫌いやです事。わたしはあの方かたは大嫌ひでございます。
29
麻利耶観音、それでも体さへ窶やつれる程、思ひ悩んでゐるやうですから、――
30
阿蘭陀の女、それはあの方の御勝手ごかつてではありませんか? 一体わたしは日本出来や支那出来の方かたは虫が好かないのです。
31
麻利耶マリヤ観音くわんのん、そんな事を云ふものではありません。あの方もあなたと同じやうに、西洋文明の命の火を胸の中に宿してゐるのですもの。云はば兄弟のやうなものではありませんか? どうかわたしたち親子も願ひますから、少すこしは可哀かはいさうだと思つてやつて下さい。
32
阿蘭陀オランダの女、腹立たしげに余計よけいな事は仰有おつしやらずに下さい。第一あなたさへ平戸ひらどあたりの田舎ゐなか生れではありませんか? 硝子ガラス絵の窓だの噴水だの薔薇ばらの花だの、壁にかける氈かもだの、――そんな物は見た事もありますまい。顔もあなたはわたしの国のおん母麻利耶マリヤとは大違ひです。ましてあの方かたを御覧なさい。成程なるほどあの方もこの国では、阿蘭陀オランダ人と云ふかも知れません。しかしほんたうは阿蘭陀人どころか、日本人とも西洋人ともつかない、つまりこの国の画描きの拵こしらへた、黒ん坊よりも気味の悪い人です。
33
蘭人、ああ、何と云ふ情なさけない言葉だ!涕泣ていきふす
34
阿蘭陀の女、なほ怒の静まらざる如くそれがわたしを慕つてゐる、――よくまあそんな事が云はれたものです。おまけにあの方の一家一族――長崎画ながさきゑに出て来る紅毛人こうまうじんも皆同じ事ではありませんか? あたしはあの人たちの顔を見てさへ胸が悪くなつて来る位です。
35
長崎画ながさきゑの英吉利イギリス人、法朗西フランス人、露西亜ロシヤ人等ら、驚きし如くおお! おお!
36
麻利耶観音、ではどうしてもあの方とは仲好く出来ないと云ふのですか?
37
阿蘭陀の女、当り前です。わたしはもう今日けふ限り、あなたとも御つきあひは御免ごめん蒙かうむりませう。古伊万里こいまりの甲比丹かぴたん、小柄こづかの伴天連ばてれん、亀山焼かめやまやきの南蛮女なんばんをんな、――いえ、いえ、それどころではありません。刀の鍔つばにゐる天使でさへ、二度と口を利きいて貰ひますまい。あの人たちとわたしとは生れも育ちも違ふのですから、――
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麻利耶観音、蘭人に聞いてゐたらうね? わたしの言葉さへ通らないのだから、所詮しよせんお前の願ひはかなはないよ。
39
蘭人、涕泣ていきふしつつはい、もう仕方はございません。
40
甲比丹かぷたん、男らしくあきらめるさ。亀山焼かめやまやきの南蛮女なんばんをんなにしかし憎い女だね。
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南蛮女なんばんをんな、ほんたうに高慢な人です事。――ようございますよ。これからはわたしがあの女の代りにこの方かたの世話をして上げますから。
42
伴天連ばてれん、お前さんは何時いつもやさしい人だ。
43
基督キリスト、静かに! 静かに! 誰か人間が来たやうだから、――
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鸚鵡あうむ、しつ! しつ!
45
この家の主人、数人の客と共に戸棚の外に立つ。
46
主人、これがわたしのコレクションです。
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客の一人ひとり、大分だいぶ沢山たくさんありますね。この江漢かうかんの蘭人は面白い。
48
主人、其処そこにあるのは亀山焼です。これはわたしの自慢の品ですが、――
49
客の一人、南蛮女ですね。阿蘭陀オランダ出来の皿の女より、余程よほど美人ではありませんか?
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主人、これですか?阿蘭陀の女のゐる皿を取り出すおや、何か濡れてゐるが、――
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客の一人、まさか阿蘭陀の女が泣いたと云ふ訳でもありますまい。
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客の他の一人、いや、悪口わるぐちを云はれたから、口惜くやし泣きに泣いたのかも知れません。笑ふ
53
客の一人、一体日本出来の南蛮物には西洋出来の物にない、独得な味がありますね。
54
主人、其処そこが日本なのでせう。
55
客の一人、さうです。其処から今日こんにちの文明も生れて来た。将来はもつと偉大なものが生れるでせう。
56
客の他の一人ひとり、この蘭人や南蛮女も亦以て瞑めいすべしですか。――おや!
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主人、どうしたのですか?
58
客の他の一人、何だかあの基督キリストが笑つたやうな気がしたのです。
59
客の一人、わたしは麻利耶マリヤ観音くわんのんが笑つたやうに見えた。
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主人、気のせゐでせう。
61
主客しゆかく静かに硝子ガラス戸棚の前を去る。再びかすかにちやるめらの音。
大正十一年五月
底本:「芥川龍之介作品集第四巻」昭和出版社
1965昭和40年12月20日発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
ファイル作成:野口英司
1999年1月26日公開
1999年8月1日修正
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●表記について
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※うそ
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第4水準2-88-74
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変更終了:平成13年11月