芥川龍之介
一 猫
1
彼等は田舎に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黒猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。
2
半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに気づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?」「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は塩の味を覚えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。
3
しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の横着を憎み出した。が、それは横着ではなかつた。猫は目に見えて痩せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都会的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。
4
そのうちに彼等はもう一度田舎住ひをすることになつた。けれども猫は不相変少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、気の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。
5すると或晩秋の朝、彼は雑木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を発見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする気色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を噛み砕いてゐた。
二 河鹿
6
或温泉にゐる母から息子へ人伝てに届けたもの、――桜の実、笹餅、土瓶へ入れた河鹿が十六匹、それから土瓶の蔓に結びつけた走り書きの手紙が一本。
7
その手紙の一節はかうである。――「この河鹿は皆雄に候。雌はあとより届け候。尤も雌雄とも一つ籠に入れぬやうに。雌は皆雄を食ひ殺し候。」
三 或女の話
8
わたしは丁度十二の時に修学旅行に直江津へ行きました。その時始めて海と云ふものを見ました。それから又汽船と云ふものを見ました。汽船へ乗るには棧橋からはしけ[#「はしけ」に傍点]に乗らなければなりません。私達のゐた棧橋にはやはり修学旅行に来たらしい、どこか外の小学校の生徒も大勢わいわい言つてゐました。その外の小学校の生徒がはしけ[#「はしけ」に傍点]へ乗らうとした時です。黒い詰襟の洋服を着た二十四五の先生が一人、いきなりわたしを抱き上げてはしけ[#「はしけ」に傍点]へ乗せてしまひました。それは勿論間違ひだつたのです。その先生は暫くたつてから、わたしの学校の先生がわたしを受けとりにやつて来た時、何度もかう言つてあやまつてゐました。――「どうもうち[#「うち」に傍点]の生徒にそつくりだもんですから。」
9
その先生がわたしを抱き上げてはしけ[#「はしけ」に傍点]へ乗せた時の心もちですか? わたしはずゐぶん驚きましたし、怖いやうにも思ひましたけれども、その外にまだ何となく嬉しい気もしたやうに覚えてゐます。
四 或運転手
10
銀座四丁目。或電車の運転手が一人、赤旗を青旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。が、間違ひに気づくが早いか、途方もないおほ声に「アヤマリ」と言つた。僕はその声を聞いた時、忽ち兵営や練兵場を感じた。僕の直覚は当たつてゐたかしら。
五 失敗
11
あの男は何をしても失敗してゐた。最後にも――あの男は最後には壮士役者になり白瀬中尉を当てこんだ「南極探険」と云ふ芝居へ出ることになつた。勿論それは夏芝居だつた。あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山の間を歩いてゐた。そのうちに烈しい暑さの為にとうとう悶絶して死んでしまつた。
六 東京人
12
或待合のお上さんが一人、懇意な或芸者の為に或出入りの呉服屋へ帯を一本頼んでやつた。扨その帯が出来上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百円の帯を百五十円にをさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。
13
お上さんは金を払つた後、格別その帯を芸者にも見せずに箪笥の中にしまつて置いた。が、芸者は暫くたつてから、「お上さん、あの帯はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帯を見せ、実際は百五十円払つたのに芸者には値段を百二十円に話した。それは芸者の顔色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた為だつた。が、芸者も亦何も言はずにその帯を貰つて帰つた後、百二十円の金を届けることにした。
14
芸者は百二十円と聞いたものの、その帯がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帯をしめさせることにした。何、莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由来かう云ふ莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。
七 幸福な悲劇
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彼女は彼を愛してゐた。彼も亦彼女を愛してゐた。が、どちらも彼等の気もちを相手に打ち明けるのに臆病だつた。
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彼はその後彼女以外の――仮に3と呼ぶとすれば、3と云ふ女と馴染み出した。彼女は彼に反感を生じ、彼以外の――仮に4と呼ぶとすれば、4と云ふ男に馴染み出した。彼は又急に嫉妬を感じ、彼女を4から奪はうとした。彼女も彼と馴染むことは本望だつたのに違ひなかつた。しかしもうその時には幸福にも――或は不幸にもいつか4に愛を感じてゐた。のみならず更に幸福だつたことには――或はこれも不幸だつたことには彼もいざとなつて見ると、冷かに3と別れることは出来ない心もちに陥つてゐた。
17
彼は3と逢ひながら、時々彼女のことを思ひ出してゐる。彼女も亦4と遠出をする度に耳慣れない谷川の音などを聞き、時々彼のことを思ひ出してゐる。……
八 実感
18
或殺人犯人の言葉。――「わたしはあいつを殺しました。あいつが幽霊に出て来るのは尤も過ぎる位尤もです。唯わたしが殺した通りの死骸になつて出て来るならば、恐ろしいことも何もありません。けれどもあいつが生きてゐる時と少しも変らない姿をして立つてゐたり何かするのが恐しいのです。ほんたうにどうせ幽霊に出るならば、死骸になつて出て来やがれば好いのに。」
九 車力
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僕は十一か十二の時、空き箱を積んだ荷車が一台、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」とおほ声に叱りつけた。僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。
20
それから五六日たつた後、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。今度は積んであるのは炭俵だつた。が、僕は「勝手にしろ」と思ひ、唯道ばたに佇んでゐた。すると車の揺れる拍子に炭俵が一つ転げ落ちた。この男はやつと楫棒を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。それは僕には何ともなかつた。が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生、いやに気を利かしやがつて。車から下りるのはまだ早いや」と言つた。僕はそれ以来この男に、――この黒ぐろと日に焼けた車力に或親しみを感ずるやうになつた。
十 或農夫の論理
21
或山村の農夫が一人、隣家の牝牛を盗んだ為に三箇月の懲役に服することになつた。獄中の彼は別人のやうに神妙に一々獄則を守り、模範的囚人と呼ばれさへした。が、免役になつて帰つて来ると、もう一度同じ牝牛を盗み出した。隣家の主人は立腹し、今度も亦警察権を借りることにした。彼等の村の駐在所の巡査は早速彼を拘引した上、威丈高に彼を叱りつけた。
「貴様は性も懲りもない奴だな。」
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すると彼は仏頂面をしたまま、かう巡査に返事をした。
「わしはあの牛を盗んだから、三箇月も苦役をして来たのでせう。して見ればあの牛はわしのものです。それが家へ帰つて見ると、やつぱり隣の小屋にゐましたから、わしの小屋へ曳いて来ただけですよ。それがどこが悪いのです?」
十一 嫉妬
「わたしはずゐぶん嫉妬深いと見えます。たとへば宿屋に泊まつた時、そこの番頭や女中たちがわたしに愛想
十二 第一の接吻
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彼は彼女と夫婦になつた後
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それから二三年たつた後
十三 「いろは字引」にない言葉
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彼はエデインバラに留学中、電車に飛び乗らうとして転
「うちの息子は学問をして日本語はすつかり知り悉
十四 母と子と
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彼は近頃彼の母が芸者だつたことを知るやうになつた。しかも今は彼の母が北京
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彼はその料理屋へ尋ねて行き、未
28
彼女は彼の帰つた後
29
彼はその日も暮れかかつた頃、京漢鉄道
十五 修辞学
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東海道線の三等客車の中。大工らしい印絆纒
●表記について
本文中の/″\は濁点付きの二倍の踊り字
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成13年11月