芥川龍之介
一
1
天保二年九月のある午前である。神田同朋町の銭湯松の湯では、朝から相変らず客が多かった。式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇、釈教、恋、無常、みないりごみの浮世風呂」といった光景は、今もそのころと変りはない。風呂の中で歌祭文を唄っている嚊たばね、上がり場で手拭をしぼっているちょん髷本多、文身の背中を流させている丸額の大銀杏、さっきから顔ばかり洗っている由兵衛奴、水槽の前に腰を据えて、しきりに水をかぶっている坊主頭、竹の手桶と焼き物の金魚とで、余念なく遊んでいる虻蜂蜻蛉、――狭い流しにはそういう種々雑多な人間がいずれも濡れた体を滑らかに光らせながら、濛々と立ち上がる湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊として動いている。そのまた騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使う音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木の音がする。だから柘榴口の内外は、すべてがまるで戦場のように騒々しい。そこへ暖簾をくぐって、商人が来る。物貰いが来る。客の出入りはもちろんあった。その混雑の中に――
2
つつましく隅へ寄って、その混雑の中に、静かに垢を落している、六十あまりの老人が一人あった。年のころは六十を越していよう。鬢の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはいるものの骨組みのしっかりした、むしろいかつい[#「いかつい」に傍点]という体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残っている。これは顔でも同じことで、下顎骨の張った頬のあたりや、やや大きい口の周囲に、旺盛な動物的精力が、恐ろしいひらめきを見せていることは、ほとんど壮年の昔と変りがない。
3
老人はていねいに上半身の垢を落してしまうと、止め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗いはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹が何度となく上をこすっても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢というほどの垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであろう。老人は片々の足を洗ったばかりで、急に力がぬけたように手拭の手を止めてしまった。そうして、濁った止め桶の湯に、鮮かに映っている窓の外の空へ眼を落した。そこにはまた赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、疎らに透いた枝を綴っている。
4
老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。いわばこの桶の中の空のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅の意識であった。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならば――無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに悦ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……
5
老人は憮然として、眼をあげた。あたりではやはり賑かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。柘榴口の中の歌祭文にも、めりやす[#「めりやす」に傍点]やよしこの[#「よしこの」に傍点]の声が加わった。ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、微塵もない。
「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも曲亭先生が朝湯にお出でになろうなんぞとは手前夢にも思いませんでした。」
6
老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の傍には、血色のいい、中背の細銀杏が、止め桶を前に控えながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑っている。これは風呂から出て、ちょうど上がり湯を使おうとしたところらしい。
「相変らず御機嫌で結構だね。」
7
馬琴滝沢瑣吉は、微笑しながら、やや皮肉にこう答えた。
二
「どういたしまして、いっこう結構じゃございません。結構と言や、先生、八犬伝はいよいよ出でて、いよいよ奇なり、結構なお出来でございますな。」
8
細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張り上げて弁じ出した。
「船虫が瞽婦に身をやつして、小文吾を殺そうとする。それがいったんつかまって拷問されたあげくに、荘介に助けられる。あの段どりが実になんとも申されません。そうしてそれがまた、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖じゃございますが、この近江屋平吉も、小間物屋こそいたしておりますが、読本にかけちゃひとかど通のつもりでございます。その手前でさえ、先生の八犬伝には、なんとも批の打ちようがございません。いや全く恐れ入りました。」
9
馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは聡明な彼にとって、当然すぎるほど当然なことである、が、不思議なことには逆にその評価が彼の好意に影響するということもまたほとんどない。だから彼は場合によって、軽蔑と好意とを、まったく同一人に対して同時に感ずることが出来た。この近江屋平吉のごときは、まさにそういう愛読者の一人である。
「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中というところでございますな――いや、これはとんだ失礼を申し上げました。」
10
平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。側で湯を浴びていた小柄な、色の黒い、眇の小銀杏が、振り返って平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰を吐いた。
「貴公は相変らず発句にお凝りかね。」
11
馬琴は巧みに話頭を転換した。がこれは何も眇の表情を気にしたわけではない。彼の視力は幸福なことにもうそれがはっきりとは見えないほど、衰弱していたのである。
「これはお尋ねにあずかって恐縮至極でございますな。手前のはほんの下手の横好きで今日も運座、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしゃしゃり出ますが、どういうものか、句の方はいっこう頭を出してくれません。時に先生は、いかがでございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」
「いや私は、どうもああいうものにかけると、とんと無器用でね。もっとも一時はやったこともあるが。」
「そりゃ御冗談で。」
「いや、まったく性に合わないと見えて、いまだにとんと眼くらの垣覗きさ。」
12
馬琴は、「性に合わない」という語に、ことに力を入れてこう言った。彼は歌や発句が作れないとは思っていない。だからもちろんその方面の理解にも、乏しくないという自信がある。が、彼はそういう種類の芸術には、昔から一種の軽蔑を持っていた。なぜかというと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむためには、あまりに形式が小さすぎる。だからいかに巧みに詠みこなしてあっても、一句一首のうちに表現されたものは、抒情なり叙景なり、わずかに彼の作品の何行かを充すだけの資格しかない。そういう芸術は、彼にとって、第二流の芸術である。
三
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彼が「性に合わない」という語に力を入れた後ろには、こういう軽蔑が潜んでいた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然そういう意味が通じなかったものらしい。
「ははあ、やっぱりそういうものでございますかな。手前などの量見では、先生のような大家なら、なんでも自由にお作りになれるだろうと存じておりましたが――いや、天二物を与えずとは、よく申したものでございます。」
14
平吉はしぼった手拭で、皮膚が赤くなるほど、ごしごし体をこすりながら、やや遠慮するような調子で、こう言った。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をそのまま語通り受け取られたということが、まず何よりも不満である。その上平吉の遠慮するような調子がいよいよまた気に入らない。そこで彼は手拭と垢すりとを流しへほうり出すと半ば身を起しながら、苦い顔をして、こんな気焔をあげた。
「もっとも、当節の歌よみや宗匠くらいにはいくつもりだがね。」
15
しかし、こう言うとともに、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥ずかしく感ぜられた。自分はさっき平吉が、最上級の語を使って八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかったとは思っていない。そうしてみれば、今その反対に、自分が歌や発句を作ることの出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思うのは、明らかに矛盾である。とっさにこういう自省を動かした彼は、あたかも内心の赤面を隠そうとするように、あわただしく止め桶の湯を肩から浴びた。
「でございましょう。そうなくっちゃ、とてもああいう傑作は、お出来になりますまい。してみますと、先生は歌も発句もお作りになると、こうにらんだ手前の眼光は、やっぱりたいしたものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」
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平吉はまた大きな声を立てて、笑った。さっきの眇はもう側にいない。痰も馬琴の浴びた湯に、流されてしまった。が、馬琴がさっきにも増して恐縮したのはもちろんのことである。
「いや、うっかり話しこんでしまった。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」
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妙に間の悪くなった彼は、こういう挨拶とともに、自分に対する一種の腹立たしさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、おもむろに立ち上がった。が、平吉は彼の気焔によってむしろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなったように、感じたらしい。
「では先生そのうちに一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしゅうございますか。お忘れになっちゃいけませんぜ。じゃ手前も、これで失礼いたしましょう。おせわしゅうもございましょうが、お通りすがりの節は、ちとお立ち寄りを。手前もまた、お邪魔に上がります。」
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平吉は追いかけるように、こう言った。そうして、もう一度手拭を洗い出しながら、柘榴口の方へ歩いて行く馬琴の後ろ姿を見送って、これから家へ帰った時に、曲亭先生に遇ったということを、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考えた。
四
19
柘榴口の中は、夕方のようにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめている。眼の悪い馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、やっとそこへ皺だらけな体を浸した。
20
湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸をして、おもむろに風呂の中を見廻した。うす暗い中に浮んでいる頭の数は、七つ八つもあろうか。それが皆話しをしたり、唄をうたったりしているまわりには、人間の脂を溶かした、滑らかな湯の面が、柘榴口からさす濁った光に反射して、退屈そうにたぶたぶと動いている。そこへ胸の悪い「銭湯の匂い」がむんと人の鼻をついた。
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馬琴の空想には、昔から羅曼的な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描こうとする小説の場景の一つを、思い浮べるともなく思い浮べた。そこには重い舟日覆がある。日覆の外の海は、日の暮れとともに風が出たらしい。舷をうつ浪の音が、まるで油を揺するように、重苦しく聞えて来る。その音とともに、日覆をはためかすのは、おおかた蝙蝠の羽音であろう。舟子の一人は、それを気にするように、そっと舷から外をのぞいてみた。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空にかかっている。すると……
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彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本の批評をしているのが、ふと彼の耳へはいったからである。しかも、それは声といい、話しようといい、ことさら彼に聞かせようとして、しゃべり立てているらしい。馬琴はいったん風呂を出ようとしたが、やめて、じっとその批評を聞き澄ました。
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝の引き写しじゃげえせんか。が、そりゃまあ大目に見ても、いい筋がありやす。なにしろ先が唐の物でげしょう。そこで、まずそれを読んだというだけでも、一手柄さ。ところがそこへまたずぶ京伝の二番煎じと来ちゃ、呆れ返って腹も立ちやせん。」
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馬琴はかすむ眼で、この悪口を言っている男の方を透して見た。湯気にさえぎられて、はっきりと見えないが、どうもさっき側にいた眇の小銀杏ででもあるらしい。そうとすればこの男は、さっき平吉が八犬伝を褒めたのに業を煮やして、わざと馬琴に当りちらしているのであろう。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。それが証拠にゃ、昔のことでなけりゃ、書いたというためしはとんとげえせん。お染久松がお染久松じゃ書けねえもんだから、そら松染情史秋七草さ。こんなことは、馬琴大人の口真似をすれば、そのためしさわに多かりでげす。」
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憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。馬琴も相手の言いぐさが癪にさわりながら、妙にその相手が憎めなかった。その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいという欲望がある。それが実行に移されなかったのは、おそらく年齢が歯止めをかけたせいであろう。
「そこへ行くと、一九や三馬はたいしたものでげす。あの手合いの書くものには天然自然の人間が出ていやす。決して小手先の器用や生かじりの学問で、でっちあげたものじゃげえせん。そこが大きに蓑笠軒隠者なんぞとは、ちがうところさ。」
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馬琴の経験によると、自分の読本の悪評を聞くということは、単に不快であるばかりでなく、危険もまた少なくない。というのは、その悪評を是認するために、勇気が、沮喪するという意味ではなく、それを否認するために、その後の創作的動機に、反動的なものが加わるという意味である。そうしてそういう不純な動機から出発する結果、しばしば畸形な芸術を創造する惧れがあるという意味である。時好に投ずることのみを目的としている作者は別として、少しでも気魄のある作者なら、この危険には存外おちいりやすい。だから馬琴は、この年まで自分の読本に対する悪評は、なるべく読まないように心がけて来た。が、そう思いながらもまた、一方には、その悪評を読んでみたいという誘惑がないでもない。今、この風呂で、この小銀杏の悪口を聞くようになったのも、半ばはその誘惑におちいったからである。
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こう気のついた彼は、すぐに便々とまだ湯に浸っている自分の愚を責めた。そうして、癇高い小銀杏の声を聞き流しながら、柘榴口を外へ勢いよくまたいで出た。外には、湯気の間に窓の青空が見え、その青空には暖かく日を浴びた柿が見える。馬琴は水槽の前へ来て、心静かに上がり湯を使った。
「とにかく、馬琴は食わせ物でげす。日本の羅貫中もよく出来やした。」
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しかし風呂の中ではさっきの男が、まだ馬琴がいるとでも思うのか、依然として猛烈なフィリッピクスを発しつづけている。ことによると、これはその眇に災いされて、彼の柘榴口をまたいで出る姿が、見えなかったからかも知れない。
五
28
しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでいた。眇の毒舌は、少なくともこれだけの範囲で、確かに予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、いちいち彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。そうして、それが、いかなる点から考えてみても、一顧の価のない愚論だという事実を、即座に証明することが出来た。が、それにもかかわらず、一度乱された彼の気分は、容易に元通り、落ち着きそうもない。
29
彼は不快な眼をあげて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでいる。だから「諸国銘葉」の柿色の暖簾、「本黄楊」の黄いろい櫛形の招牌、「駕籠」の掛行燈、「卜筮」の算木の旗、――そういうものが、無意味な一列を作って、ただ雑然と彼の眼底を通りすぎた。
「どうして己は、己の軽蔑している悪評に、こう煩わされるのだろう。」
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馬琴はまた、考えつづけた。
「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」
31
彼は、こう思って、自分の気の弱いのを恥じた。実際彼のごとく傍若無人な態度に出る人間が少なかったように、彼のごとく他人の悪意に対して、敏感な人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に思われる二つの結果が、実は同じ原因――同じ神経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。
「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」
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ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。
「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反撥[#底本は「てへん」に「発」]するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」
33
馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶の声が、日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に軽くなって来ることを意識した。
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」
34
彼は恢復した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。
六
35
うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄が一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思い起した。
「今日も朝のうちはつぶされるな。」
36
こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、
「和泉屋さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。
37
彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百は。」
「御仏参においでになりました。」
「お路もいっしょか。」
「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」
「伜は。」
「山本様へいらっしゃいました。」
38
家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎の襖を開けた。
39
開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管をくわえながら、端然と座敷のまん中に控えている。彼の書斎には石刷を貼った屏風と床にかけた紅楓黄菊の双幅とのほかに、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えたのであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破れ芭蕉の大きな影が、婆娑として斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした服装が、いっそうまた周囲と釣り合わない。
「いや、先生、ようこそお帰り。」
40
客は、襖があくとともに、滑らかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅の版元を引き受けていた、和泉屋市兵衛という本屋である。
「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」
41
馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。
「へへえ、朝湯に。なるほど。」
42
市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末な事件にも、この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような顔をする人間は、稀である。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」
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市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。
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馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。
「原稿と言ったって、それは無理だ。」
「へへえ、何かおさしつかえでもございますので。」
「さかつかえるどころじゃない。今年は読本を大分引き受けたので、とても合巻の方へは手が出せそうもない。」
「なるほどそれは御多忙で。」
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と言ったかと思うと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のように、今までの話はすっかり忘れたという顔をして、突然鼠小僧次郎太夫の話をしゃべり出した。
七
46
鼠小僧次郎太夫は、今年五月の上旬に召捕られて、八月の中旬に獄門になった、評判の高い大賊である。それが大名屋敷へばかり忍び込んで、盗んだ金は窮民へ施したというところから、当時は義賊という妙な名前が、一般にこの盗人の代名詞になって、どこでも盛んに持てはやされていた。
「何しろ先生、盗みにはいったお大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分だというのだから驚きます。盗人じゃございますが、なかなかただの人間に出来ることじゃございません。」
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馬琴は思わず好奇心を動かした。市兵衛がこういう話をする後ろには、いつも作者に材料を与えてやるという己惚れがひそんでいる。その己惚れはもちろん、よく馬琴の癇にさわった。が、癇にさわりながらも、やっぱり好奇心には動かされる。芸術家としての天分を多量に持っていた彼は、ことにこの点では、誘惑におちいりやすかったからであろう。
「ふむ、それはなるほどえらいものだね。私もいろいろ噂には聞いていたが、まさかそれほどとは思わずにいた。」
「つまりまず賊中の豪なるものでございましょうな。なんでも以前は荒尾但馬守様のお供押しか何かを勤めたことがあるそうで、お屋敷方の案内に明るいのは、そのせいだそうでございます。引き廻しを見たものの話を聞きますと、でっぷりした、愛嬌のある男だそうで、その時は紺の越後縮の帷子に、下へは白練の単衣を着ていたと申しますが、とんと先生のお書きになるものの中へでも出て来そうじゃございませんか。」
48
馬琴は生返事をしながら、また一服吸いつけた。が、市兵衛はもとより、生返事くらいに驚くような男ではない。
「いかがでございましょう。そこで金瓶梅の方へ、この次郎太夫を持ちこんで、御執筆を願うようなわけには参りますまいか。それはもう手前も、お忙しいのは重々承知いたしております。が、そこをどうかまげて、一つ御承諾を。」
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鼠小僧はここに至って、たちまちまた元の原稿の催促へ舞い戻った。が、この慣用手段に慣れている馬琴は依然として承知しない。のみならず、彼は前よりもいっそう機嫌が悪くなった。これは一時でも市兵衛の計に乗って、幾分の好奇心を動かしたのが、彼自身ばかばかしくなったからである。彼はまずそうに煙草を吸いながら、とうとうこんな理窟を言い出した。
「第一私がむりに書いたって、どうせろくなものは出来やしない。それじゃ売れ行きにかかわるのは言うまでもないことなのだから、貴公の方だってつまらなかろう。してみると、これは私の無理を通させる方が、結局両方のためになるだろうと思うが。」
「でございましょうが、そこを一つ御奮発願いたいので。いかがなものでございましょう。」
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市兵衛は、こう言いながら、視線で彼の顔を「撫で廻した。」そうして、煙草の煙をとぎれとぎれに鼻から出した。
「とても、書けないね。書きたくも、暇がないんだから、しかたがない。」
「それは手前、困却いたしますな。」
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と言ったが、今度は突然、当時の作者仲間のことを話し出した。やっぱり細い銀の煙管を、うすい唇の間にくわえながら。
八
「また種彦
52
市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと思った。この軽薄な、作者を自家
「それから手前どもでも、春水
「ははあ、さようかね。」
53
馬琴の記憶には、いつか見かけたことのある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、艶物
「ともかくあれで、艶っぽいことにかけては、たっしゃなものでございますからな。それに名代
54
こう言いながら、市兵衛はちょいと馬琴の顔を見て、それからまたすぐに口にくわえている銀の煙管へ眼をやった。そのとっさの表情には、おそるべく下等な何者かがある。少なくとも、馬琴はそう感じた。
「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分くらいなら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」
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馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の旺盛
「時と場合でね。早い時もあれば、また遅
「ははあ、時と場合でね。なるほど。」
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市兵衛は三度
「でございますが、たびたび申し上げた原稿の方は、一つ御承諾くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」
「私と為永
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馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐ろしい勢いで左へまがった。
「まあ私は御免をこうむろう。――杉、杉、和泉屋さんのお履物
九
58
和泉屋市兵衛を逐
59
日の光をいっぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉
60
彼は、この自然と対照させて、今さらのように世間の下等さを思い出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩わされて、自分もまた下等な言動を余儀なくさせられるところにある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐い払った。逐い払うということは、もちろん高等なことでもなんでもない。が、自分は相手の下等さによって、自分もまたその下等なことを、しなくてはならないところまで押しつめられたのである。そうして、した。したという意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑しくしたというのにほかならない。つまり自分は、それだけ堕落させられたわけである。
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ここまで考えた時に、彼はそれと同じような出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼のところへ弟子
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自分はあなたの八犬伝といい、巡島記といい、あんな長たらしい、拙劣な読本を根気よく読んであげたが、あなたは私のたった六冊物の読本に眼を通すのさえ拒まれた。もってあなたの人格の下等さがわかるではないか。――手紙はこういう文句ではじまって、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝
63
馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情けなさと、彼自身に対する情けなさとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれはまた彼を、言いようのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀
十
64
独
65
仏参
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それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿
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しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作
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この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強
69
馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。
「今日
70
崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹
「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」
「おお、さっそく、拝見しましょう。」
71
崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。絵は蕭索
72
馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得
「いつもながら、結構なお出来ですな。私は王摩詰
十一
「これは昨日
73
崋山は、鬚
「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが――とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」
「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」
74
馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。
「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描
「古人は後生
75
馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬
「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」
「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎
「さよう、それが何よりも肝腎です。」
76
主人と客とは、彼ら自身の語
「八犬伝は相変らず、捗
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やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。
「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」
「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」
「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死
78
こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。
「たかが戯作
「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」
「お互いに討死ですかな。」
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二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。
「しかし絵の方は羨
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今度は馬琴が、話頭を一転した。
十二
「それはないが――御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」
「いや、大いにありますよ。」
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馬琴は改名主
「改名主などいうものは、咎
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崋山は馬琴の比喩
「それは大きにそういうところもありましょう。しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。改名主
「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件
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馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。
「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」
「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」
「そうですかな。私にはそうも思われませんが。」
「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。焚書坑儒
「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」
「私が心細いのではない。改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」
「では、ますます働かれたらいいでしょう。」
「とにかく、それよりほかはないようですな。」
「そこでまた、御同様に討死ですか。」
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今度は二人とも笑わなかった。笑わなかったばかりではない。馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。それほど崋山のこの冗談のような語
「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。討死はいつでも出来ますからな。」
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ほどを経
十三
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崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。
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すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。彼は最初それを、彼の癇
「今の己
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そう思って、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽
「このもう一つ前はどうだろう。」
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彼はその前に書いたところへ眼を通した。すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然
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しかし読むに従って拙劣な布置
「これは始めから、書き直すよりほかはない。」
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彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘
「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。が、それもやはり事によると、人なみに己惚
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こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫
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彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。もしこの時、彼の後ろの襖
「お祖父様ただいま。」
「おお、よく早く帰って来たな。」
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この語
十四
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茶の間の方では、癇高
「あのね、お祖父
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栗梅
「よく毎日
「うん、よく毎日
「御勉強なさい。」
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馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語
「それから?」
「それから――ええと――癇癪
「おやおや、それっきりかい。」
「まだあるの。」
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太郎はこう言って、糸鬢奴
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんなことがあるの。」
「どんなことが。」
「ええと――お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」
「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。
「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」
「誰がそんなことを言ったのだい。」
「それはね。」
99
太郎は悪戯
「だあれだ?」
「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」
「違う。」
100
断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音
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こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉
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馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那
「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」
103
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。
十五
104
その夜のことである。
105
馬琴は薄暗い円行燈
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始め筆を下
「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」
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馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。
108
彼の耳にはいつか、蟋蟀
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頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々
「根かぎり書きつづけろ。今己
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しかし光の靄
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この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉
× × ×
112
その間も茶の間の行燈
「お父様
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やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
114
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
115
お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀
[#18字下げて、地より1字上げで]
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字
磅※ |
第3水準1-89-18 |
蹲※ |
第3水準1-91-62 |
※弱 |
第3水準1-47-62 |
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成13年11月