芥川龍之介
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自分が中学の四年生だった時の話である。
2
その年の秋、日光から足尾へかけて、三泊の修学旅行があった。「午前六時三十分上野停車場前集合、同五十分発車……」こう云う箇条が、学校から渡す謄写版の刷物に書いてある。
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当日になると自分は、碌に朝飯も食わずに家をとび出した。電車でゆけば停車場まで二十分とはかからない。――そう思いながらも、何となく心がせく。停車場の赤い柱の前に立って、電車を待っているうちも、気が気でない。
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生憎、空は曇っている。方々の工場で鳴らす汽笛の音が、鼠色の水蒸気をふるわせたら、それが皆霧雨になって、降って来はしないかとも思われる。その退屈な空の下で、高架鉄道を汽車が通る。被服廠へ通う荷馬車が通る。店の戸が一つずつ開く。自分のいる停車場にも、もう二三人、人が立った。それが皆、眠の足りなそうな顔を、陰気らしく片づけている。寒い。――そこへ割引の電車が来た。
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こみ合っている中を、やっと吊皮にぶらさがると、誰か後から、自分の肩をたたく者がある。自分は慌ててふり向いた。
「お早う。」
6
見ると、能勢五十雄であった。やはり、自分のように、紺のヘルの制服を着て、外套を巻いて左の肩からかけて、麻のゲエトルをはいて、腰に弁当の包やら水筒やらをぶらさげている。
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能勢は、自分と同じ小学校を出て、同じ中学校へはいった男である。これと云って、得意な学科もなかったが、その代りに、これと云って、不得意なものもない。その癖、ちょいとした事には、器用な性質で、流行唄と云うようなものは、一度聞くと、すぐに節を覚えてしまう。そうして、修学旅行で宿屋へでも泊る晩なぞには、それを得意になって披露する。詩吟、薩摩琵琶、落語、講談、声色、手品、何でも出来た。その上また、身ぶりとか、顔つきとかで、人を笑わせるのに独特な妙を得ている。従って級の気うけも、教員間の評判も悪くはない。もっとも自分とは、互に往来はしていながら、さして親しいと云う間柄でもなかった。
「早いね、君も。」
「僕はいつも早いさ。」能勢はこう云いながら、ちょいと小鼻をうごめかした。
「でもこの間は遅刻したぜ。」
「この間?」
「国語の時間にさ。」
「ああ、馬場に叱られた時か。あいつは弘法にも筆のあやまりさ。」能勢は、教員の名前をよびすてにする癖があった。
「あの先生には、僕も叱られた。」
「遅刻で?」
「いいえ、本を忘れて。」
「仁丹は、いやにやかましいからな。」「仁丹」と云うのは、能勢が馬場教諭につけた渾名である。――こんな話をしている中に、停車場前へ来た。
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乗った時と同じように、こみあっている中をやっと電車から下りて停車場へはいると、時刻が早いので、まだ級の連中は二三人しか集っていない。互に「お早う」の挨拶を交換する。先を争って、待合室の木のベンチに、腰をかける。それから、いつものように、勢よく饒舌り出した。皆「僕」と云う代りに、「己」と云うのを得意にする年輩である。その自ら「己」と称する連中の口から、旅行の予想、生徒同志の品隲、教員の悪評などが盛んに出た。
「泉はちゃくい[#「ちゃくい」に傍点]ぜ、あいつは教員用のチョイスを持っているもんだから、一度も下読みなんぞした事はないんだとさ。」
「平野はもっとちゃくい[#「ちゃくい」に傍点]ぜ。あいつは試験の時と云うと、歴史の年代をみな爪へ書いて行くんだって。」
「そう云えば先生だってちゃくい[#「ちゃくい」に傍点]からな。」
「ちゃくい[#「ちゃくい」に傍点]とも。本間なんぞは receive のiとeと、どっちが先へ来るんだか、それさえ碌に知らない癖に、教師用でいい加減にごま化しごま化し、教えているじゃあないか。」
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どこまでも、ちゃくい[#「ちゃくい」に傍点]で持ちきるばかりで一つも、碌な噂は出ない。すると、その中に能勢が、自分の隣のベンチに腰をかけて、新聞を読んでいた、職人らしい男の靴を、パッキンレイだと批評した。これは当時、マッキンレイと云う新形の靴が流行ったのに、この男の靴は、一体に光沢を失って、その上先の方がぱっくり口を開いていたからである。
「パッキンレイはよかった。」こう云って、皆一時に、失笑した。
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それから、自分たちは、いい気になって、この待合室に出入するいろいろな人間を物色しはじめた。そうして一々、それに、東京の中学生でなければ云えないような、生意気な悪口を加え出した。そう云う事にかけて、ひけをとるような、おとなしい生徒は、自分たちの中に一人もいない。中でも能勢の形容が、一番辛辣で、かつ一番諧謔に富んでいた。
「能勢、能勢、あのお上さんを見ろよ。」
「あいつは河豚が孕んだような顔をしているぜ。」
「こっちの赤帽も、何かに似ているぜ。ねえ能勢。」
「あいつはカロロ五世さ。」
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しまいには、能勢が一人で、悪口を云う役目をひきうけるような事になった。
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すると、その時、自分たちの一人は、時間表の前に立って、細い数字をしらべている妙な男を発見した。その男は羊羹色の背広を着て、体操に使う球竿のような細い脚を、鼠の粗い縞のズボンに通している。縁の広い昔風の黒い中折れの下から、半白の毛がはみ出している所を見ると、もうかなりな年配らしい。その癖頸のまわりには、白と黒と格子縞の派手なハンケチをまきつけて、鞭かと思うような、寒竹の長い杖をちょいと脇の下へはさんでいる。服装と云い、態度と云い、すべてが、パンチの挿絵を切抜いて、そのままそれを、この停車場の人ごみの中へ、立たせたとしか思われない。――自分たちの一人は、また新しく悪口の材料が出来たのをよろこぶように、肩でおかしそうに笑いながら、能勢の手をひっぱって、
「おい、あいつはどうだい。」とこう云った。
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そこで、自分たちは、皆その妙な男を見た。男は少し反り身になりながら、チョッキのポケットから、紫の打紐のついた大きなニッケルの懐中時計を出して、丹念にそれと時間表の数字とを見くらべている。横顔だけ見て、自分はすぐに、それが能勢の父親だと云う事を知った。
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しかし、そこにいた自分たちの連中には、一人もそれを知っている者がない。だから皆、能勢の口から、この滑稽な人物を、適当に形容する語を聞こうとして、聞いた後の笑いを用意しながら、面白そうに能勢の顔をながめていた。中学の四年生には、その時の能勢の心もちを推測する明がない。自分は危く「あれは能勢の父だぜ。」と云おうとした。
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するとその時、
「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」
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こう云う能勢の声がした。皆が一時にふき出したのは、云うまでもない。中にはわざわざ反り身になって、懐中時計を出しながら、能勢の父親の姿を真似て見る者さえある。自分は、思わず下を向いた。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。
「そいつは適評だな。」
「見ろ。見ろ。あの帽子を。」
「日かげ町か。」
「日かげ町にだってあるものか。」
「じゃあ博物館だ。」
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皆がまた、面白そうに笑った。
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曇天の停車場は、日の暮のようにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そっとそのロンドン乞食の方をすかして見た。
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すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫と斜めにさしている。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のように蔽っている。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁のない洋服を着た、この現代と縁のない老人は、めまぐるしく動く人間の洪水の中に、これもやはり現代を超越した、黒の中折をあみだにかぶって、紫の打紐のついた懐中時計を右の掌の上にのせながら、依然としてポンプの如く時間表の前に佇立しているのである……
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あとで、それとなく聞くと、その頃大学の薬局に通っていた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しょに修学旅行に行く所を、出勤の途すがら見ようと思って、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来たのだそうである。
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能勢五十雄は、中学を卒業すると間もなく、肺結核に罹って、物故した。その追悼式を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶった能勢の写真の前で悼辞を読んだのは、自分である。「君、父母に孝に、」――自分はその悼辞の中に、こう云う句を入れた。
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