芥川龍之介
一 著書
1
芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞を好まぬ為だつたらしい。
「曲翠問、発句を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心なるべきや。翁曰、これ卑しき心より我上手なるを知られんと我を忘れたる名聞より出る事也。」
2
かう云つたのも一応は尤もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。
「集とは其風体の句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし[#「我俳諧撰集の心なし」に傍点]。しかしながら貞徳以来其人々の風体ありて、宗因まで俳諧を唱来れり。然ども我云所の俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水等に後見して『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」
3
芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!
4
しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
5
芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転に任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?
6
僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?
二 装幀
7
芭蕉は俳書を上梓する上にも、いろいろ註文を持つてゐたらしい。たとへば本文の書きざまにはかう云ふ言葉を洩らしてゐる。
「書やうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿簔』能筆なり。されども今少し大なり。作者の名大にていやしく見え侍る。」
8
又勝峯晉風氏の教へによれば、俳書の装幀も芭蕉以前は華美を好んだのにも関らず、芭蕉以後は簡素の中に寂びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日に生れたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布は木綿にするとか、考案を凝らしたことであらう。或は又ウイリアム・モリスのやうに、ペエトロン杉風とも相談の上に、Typography に新意を出したかも知れぬ。
三 自釈
9
芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌さへあげぬことはない。
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店。此句、翁曰、心づかひせずと句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生て出でけん初松魚と云ふこそ心の骨折人の知らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角なり。塩鯛の歯ぐきは我老吟なり。下を魚の店と唯いひたるもおのづから句なりと宣へり。」
10
まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何びとにもはつきりわかるものではない。いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。
四 詩人
「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を軽んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ当然の言葉である。
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しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど真剣になつた人は滅多にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
「土芳云、翁曰、学ぶ事は常にあり。席に臨んで文台と我と間に髪を入れず。思ふこと速に云出て、爰に至てまよふ念なし。文台引おろせば即反故なりときびしく示さるる詞もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子くふ口つき、三十六句みなやり句などといろいろにせめられ侍るも、みな巧者の私意を思ひ破らせんの詞なり。」
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この芭蕉の言葉の気ぐみは殆ど剣術でも教へるやうである。到底俳諧を遊戯にした世捨人などの言葉ではない。更に又芭蕉その人の句作に臨んだ態度を見れば、愈情熱に燃え立つてゐる。
「許六云、一とせ江戸にて何がしが歳旦びらきとて翁を招きたることあり。予が宅に四五日逗留の後にて侍る。其日雪降て暮にまゐられたり。其俳諧に、
人声の沖にて何を呼やらん 桃鄰
鼠は舟をきしる暁 翁
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予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句をかたり出し給ふに、予が云、さてさて此暁の一字ありがたき事、あだに聞かんは無念の次第也。動かざること、大山のごとしと申せば師起き上りて曰、此暁の一字聞きとどけ侍りて、愚老が満足かぎりなし。此句はじめは
須磨の鼠の舟きしるおと
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と案じける時、前句に声の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは気を廻し侍れども、一句連続せざると宣へり。予が云、是須磨の鼠よりはるかにまされり。暁の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん、これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のみにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるごとし、其夜此句したる時、一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども、此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る[#「唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のみにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるごとし、其夜此句したる時、一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども、此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る」に傍点]。」
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知己に対する感激、流俗に対する軽蔑、芸術に対する情熱、――詩人たる芭蕉の面目はありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に「この句にて腹を医せよ」と大気焔を挙げた勢ひには、――世捨人は少時問はぬ。敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。
「翁凡兆に告て曰、一世のうち秀逸三五あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」
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名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の説によれば、つまりは「生涯の道の草」である!
「十一日。朝またまた時雨す。思ひがけなく東武の其角来る。すぐに病床にまゐりて、皮骨連立したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ涙ぐみたまふ。
鬮とりて菜飯たたかす夜伽かな 木節
皆子なり蓑虫寒く鳴きつくす 乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな 丈艸
吹井より鶴をまねかん初時雨 其角
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一々惟然吟声しければ、師丈艸が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄れし声もて讃めたまひにけり。」
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これは芭蕉の示寂前一日に起つた出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚の僧に地獄の苦艱を訴へる後ジテの役を与へられたであらう。
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かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄を蒙つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
20
僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草の元政などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。
五 未来
「翁遷化の年深川を出給ふ時、野坡問て云、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七年も過なば一変あらんとなり。」
「翁曰、俳諧世に三合は出たり。七合は残たりと申されけり。」
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かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵へるものは自分の外にないと己惚れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄に街頭の売卜先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。
六 俗語
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芭蕉はその俳諧の中に屡俗語を用ひてゐる。たとへば下の句に徴するが好い。
洗馬にて
梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ
「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しみに溢れてゐる。かう云ふ例は芭蕉の句中、枚挙
「じだらくに居れば涼しき夕
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この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。
佐夜
命なり[#「命なり」に傍点]わづかの笠の下涼み
杜牧
中山にいたりて忽ち驚く
馬に寝て残夢月遠し[#「残夢月遠し」に傍点]茶のけぶり
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芭蕉の語彙
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しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕
七 耳
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芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
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俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執
夏の月御油
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これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套
年の市線香買ひに出でばやな
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仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年の市
秋ふかき隣は何をする人ぞ
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かう云ふ荘重の「調べ」を捉
八 同上
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芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element と Musical element との融合の上に独特の妙のあることである。これだけは蕪村
春雨やものかたりゆく蓑
春雨や暮れなんとしてけふもあり
柴漬
春雨やいざよふ月の海半ば
春雨や綱が袂に小提灯
西の京にばけもの栖
あれ果たる家有りけり。
今は其沙汰なくて、
春雨や人住みて煙
物種
春雨や身にふる頭巾
春雨や小磯の小貝濡るるほど
滝口
ぬなは生
夢中吟
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
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この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずる憾
春雨や蓬
赤坂にて
無性
33
僕はこの芭蕉の二句の中
九 画
34
東洋の詩歌は和漢を問はず、屡
涼しさやすぐに野松の枝のなり
夕顔や酔
山賤
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第一は純然たる風景画である。第二は点景人物を加へた風景画である。第三は純然たる人物画である。この芭蕉の三様の画趣はいづれも気品の低いものではない。殊に「山賤の」は「おとがひ閉づる」に気味の悪い大きさを表はしてゐる。かう云ふ画趣を表現することは蕪村さへ数歩を遜
粽
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芭蕉自身はこの句のことを「物語の体
十 衆道
37
芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道
38
しかし芭蕉の性慾を倒錯
十一 海彼岸の文学
「或禅僧、詩の事を尋ねられしに、翁曰
「正秀
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于鱗は嘉靖七子
「某新聞記者の西洋の詩のことを尋ねた時、芭蕉はその記者にかう答へた。――西洋の詩に詳
「……芭蕉はかう答へた。……さう云ふことは西洋の詩にもあるのかも知れない。この間森鴎外と話したら、ゲエテにはそれも多いさうである。又近頃の詩人の何とかイツヒの作品にも多い。実はその詩も聞かせて貰つたのだが、生憎
40
これだけでも返答の出来るのは当時の俳人には稀だつたかも知れない。が、兎に角海彼岸の文学に疎
「山里は万歳
41
これは一門皆学者だつた博覧多識の去来には徳山
42
芭蕉の海彼岸の文学に余り通じてゐなかつたことは上に述べた通りである。では海彼岸の文学に全然冷淡だつたかと云ふと、これは中々冷淡所ではない。寧ろ頗
「ある時翁の物がたりに、此ほど白氏
黄鳥
さみだれや飼蚕
43
斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪
44
白楽天の長慶集
一声
立石寺
閑
鳳来寺に参籠して
木枯
45
是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼
孤燈燃[#「燃」に白丸傍点]客夢 寒杵搗[#「搗」に白丸傍点]郷愁
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けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
鐘消えて[#「消えて」に傍点]花の香は撞く[#「撞く」に傍点]夕べかな
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僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山
紅稲[#「紅稲」に白丸傍点]啄残鸚鵡[#「鸚鵡」に白丸傍点]粒 碧梧[#「碧梧」に白丸傍点]棲老鳳凰[#「鳳凰」に白丸傍点]枝
48
上に挙げたのは倒装法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡[#「鸚鵡」に白丸傍点]啄残紅稲[#「紅稲」に白丸傍点]粒 鳳凰[#「鳳凰」に白丸傍点]棲老碧梧[#「碧梧」に白丸傍点]枝」と名詞の位置を顛倒
49
蕪村の海彼岸の文学に学ぶ所の多かつたことは前人も屡
[#以下本文より2字下げ、本文とのアキなし]
附記。芭蕉は夙
[#2字下げここまで]
十二 詩人
50
蕉風の付
51
芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖
52
念の為にもう一度繰り返せば、芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。最も切実に時代を捉へ、最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人である。この事実を知る為には芭蕉の付け合を一瞥
狩衣
わが稚名
宮に召されしうき名はづかし 曾良
手枕
殿守
兀
足駄
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉
上置
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
やさしき色に咲るなでしこ 嵐蘭
よつ折の蒲団
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是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とは聊
十三 鬼趣
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芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の好尚
小夜嵐
古入道は失せにけり露 桃青
から尻沈む淵はありけり 信徳
小蒲団に大蛇
気違
尾を引ずりて森の下草 似春
夫
一念の※
骨刀
痩せたる馬の影に鞭うつ 桃青
山彦嫁をだいてうせけり 其角
忍びふす人は地蔵にて明過
釜かぶる人は忍びて別るなり 其角
槌
今其
袖に入る※竜
55
是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは当時の怪談小説よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断
骸骨の画に
夕風や盆挑灯
本間主馬
鼓をかまへて能
壁に掛けたり
稲妻やかほのところが薄
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字
※ |
第3水準1-94-53 |
※竜 |
第3水準1-91-62 |
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成13年11月