三

 三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞せきばくの感はあるが、幸い人間に知己ちきが出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人のもとへ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産吉備団子きびだんごをわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己おのれが猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつのにか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合きゅうごうして二本足の先生と雌雄しゆうを決しようなどとう量見は昨今のところ毛頭もうとうない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑けいべつする次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くはいきおいのしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語をろうして人を罵詈ばりするものに限って融通のかぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子[#「三毛子」に傍点]や黒[#「黒」に傍点]の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位きぐらいで彼等の思想、言行を評隲ひょうしつしたくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児びょうじの毛のえたものくらいに思って、主人が吾輩に一言いちごんの挨拶もなく、吉備団子きびだんごをわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだって送らぬ容子ようすだ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然ことなるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆にのぼりにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免こうむる事に致そう。

 今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩のそば筆硯ふですずりと原稿用紙を並べて腹這はらばいになって、しきりに何かうなっている。大方草稿を書きおろ序開じょびらきとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太ふでぶとに「香一※[#「主」に「火へん」が付く、93-6]こういっしゅ」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一※[#「主」に「火へん」が付く、93-7]とは、主人にしては少し洒落しゃれ過ぎているがと思う間もなく、彼は香一※[#「主」に「火へん」が付く、93-8]を書き放しにして、新たにぎょうを改めて「さっきから天然居士てんねんこじの事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首をひねったが別段名案もないものと見えて筆の穂をめだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想あいそが尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまたぎょうを改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録かなんかになるだろうとただあてもなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋やきいもを食い、鼻汁はなを垂らす人である」と言文一致体で一気呵成いっきかせいに書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁はなを垂らすのは、ちとこくだから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線へいこうせんく、線がほかのぎょうまでみ出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨ててひげひねって見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕けんまくで猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君さいくんが出て来てぴたりと主人の鼻の先へわる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼どらたたくような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとくながめている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭パン御食おたべになったり、ジャムを御舐おなめになるものですから」「元来ジャムは幾缶いくかん舐めたのかい」「今月は八つりましたよ」「八つ?

 そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入ったていで、ふっと吹いて見る。粘着力ねんちゃくりょくが強いので決して飛ばない。「いやに頑固がんこだな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君はおおいに不平な気色けしきを両頬にみなぎらす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色がまじる中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴のくほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪しらがだ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入はいる。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士てんねんこじに取りかかる。

 鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうとあせていであるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食う[#「焼芋を食う」に傍点]も蛇足だそくだ、割愛かつあいしよう」とついにこの句も抹殺まっさつする。「香一※[#「主」に「火へん」が付く、93-11][#「香一※」に傍点]もあまり唐突とうとつだからめろ」と惜気もなく筆誅ひっちゅうする。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃おはいしにして、銘だけにしろと、筆を十文字にふるって原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間をきわめ、空間に死す。空たり間たり天然居士てんねんこじああ」と意味不明な語をつらねているところへ例のごとく迷亭が這入はいって来る。迷亭は人のうちも自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然ひょうぜんと舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼きがね、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また巨人引力[#「巨人引力」に傍点]かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力[#「巨人引力」に傍点]ばかり書いてはおらんさ。天然居士[#「天然居士」に傍点]の墓銘をせんしているところなんだ」と大袈裟おおげさな事を云う。「天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うなあやはり偶然童子[#「偶然童子」に傍点]のような戒名かね」と迷亭は不相変あいかわらず出鱈目でたらめを云う。「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当けんとうだろうと思っていらあね」「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士[#「天然居士」に傍点]なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎そろさきの事だ。卒業して大学院へ這入って空間論[#「空間論」に傍点]と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作しょさだい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほどな名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘ぼひめいと云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間をきわめ、空間に死す。空たり間たり天然居士ああ」と大きな声で読みあげる。「なるほどこりゃあい、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘ぼめい沢庵石たくあんいしり付けて本堂の裏手へ力石ちからいしのようにほうり出して置くんだね。雅でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極しごく真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然ふうぜんと出て行く。

 計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想ぶあいそな顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌あいきょうを振りいてひざの上へあがって見た。すると迷亭は「イヨー大分だいぶふとったな、どれ」と無作法ぶさほうにも吾輩の襟髪えりがみつかんで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠ねずみは取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りのへやの妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮おぞうにを食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪をあばく。吾輩は宙乗ちゅうのりをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩をおろしてくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好そうごうですぜ。昔むかしの草双紙くさぞうしにある猫又ねこまたに似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君さいくんに話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶をえて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人につらまっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向いっこう頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減がいんですか」「能いか悪いかとんと分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかりめては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻せんこくの不平をあんに迷亭にらす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸だいこおろしを無暗むやみに甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸だいこおろしの中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害をつぐなおうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君のうったえを聞いておおいに愉快な気色けしきである。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸だいこおろしを……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前にさんちまえには中の娘を抱いて箪笥たんすの上へあげましてね……」「どう云う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆おてんばな事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防しんぼうは出来ませんわ」と細君はおおい気焔きえんを揚げる。「まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれればじょうぶんですよ。苦沙弥君くしゃみくんなどは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向しょたいむきに出来上った人でさあ」と迷亭はがらにない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然ひょうぜんとふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗むやみに読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計みはからって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のがたまって大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然ぶぜんとしている。「それじゃ、訳を話して書籍費しょじゃくひを削減させるさ」「どうして、そんなことを云ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者のさいにも似合わん、毫ごう書籍しょじゃくの価値を解しておらん、昔むか羅馬ローマにこう云う話しがある。後学のため聞いておけと云うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心にられている。「何んでも昔し羅馬ローマ樽金たるきんとか云う王様があって……」「樽金たるきん

 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人とうじんの名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金はふるってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬ローマの七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべていてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しはも減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出してあまりの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがたが分ったろう、どうだと力味りきむのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答をうながす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂たもとからハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って矢鱈やたらに詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君くしゃみくんの評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥君の文は行雲流水こううんりゅうすいのごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えばたちまち消え、逝いてはとこしなえに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈へんくつでしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套がいとうも脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳おぜん火燵櫓こたつやぐらの上へ乗せまして――私は御櫃おはちかかえて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並つきなみでない」とせつないめ方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と云うと――さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧あいまいなものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人にょにん一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう」と細君はわれ知らず穿うがった事を云う。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と云うのはね、まず年は二八か二九からぬ[#「年は二八か二九からぬ」に傍点]と言わず語らず物思い[#「言わず語らず物思い」に傍点]のあいだに寝転んでいて、この日や天気晴朗[#「この日や天気晴朗」に傍点]とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ[#「一瓢を携えて墨堤に遊ぶ」に傍点]連中れんじゅうを云うんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分らんものだからいい加減な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」とついにを折る。「それじゃ馬琴ばきんの胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな手数てすうのかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首をひねったまま納得なっとくし兼ねたと云う風情ふぜいに見える。
「君まだいるのか」と主人はいつのにやら帰って来て迷亭のそばわる。「まだいるのかはちとこくだな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と細君は迷亭をかえりみる。「今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭をでてくれる。「君は赤ん坊に大根卸だいこおろしをめさしたそうだな」「ふむ」と主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊やからいのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月かんげつはもう来そうなものだな」「寒月が来るのかい」と主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに苦沙弥くしゃみうちへ来いと端書はがきを出しておいたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月を呼んで何をするんだい」「なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うから、そりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろうと云うのでね。そこで君のうちへ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに君はひま人だからちょうどいいやね――差支さしつかえなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と迷亭はひとりで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と主人は少々迷亭の専断せんだんいきどおったもののごとくに云う。「ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]と云う脱俗超凡だつぞくちょうぼんな演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首をくくくなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で悪寒おかんがするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。妻君はホホと笑って主人をかえりみながら次の間へ退く。主人は無言のまま吾輩の頭をでる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。

 それから約七分くらいすると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演舌えんぜつをするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟カラーそびやかして、男振りを二割方上げて、「少しおくれまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむを得ず「うむ」と生返事なまへんじをする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠うちがくしから草稿を取り出しておもむろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚おさらいを始める。
「罪人を絞罪こうざいの刑に処すると云う事はおもにアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代にさかのぼって考えますと首縊くびくくりは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中ユダヤじんちゅうっては罪人を石をげつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食えじきとする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人ユダヤじんはエジプトを去る以前から夜中やちゅう死骸をさらされることを痛くみ嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付くぎづけにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人ペルシャじんは……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入はいるところですから、少々御辛防ごしんぼうを願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑にははりつけを用いたようでございます。但し生きているうちに張付はりつけに致したものか、死んでから釘を打ったものかそのへんはちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸あくびをする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君くしゃみくん」とまた迷亭がとがだてをすると主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じます[#「弁じます」に傍点]なんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品なことばを使って貰いたいね」と迷亭先生またぜ返す。「弁じます[#「弁じます」に傍点]が下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、交ぜ返しているのか判然しない。寒月君そんな弥次馬やじうまに構わず、さっさとやるが好い」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然ひょうぜんたる事を云う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ております。即すなわのテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するというくだりでございます。希臘語ギリシャごで本文を朗読してもよろしゅうございますが、ちとてらうような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々うんぬんはよした方がいい、さも希臘語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床おくゆかしくて好い」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人りょうにんごうも希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。

 この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼のテレマカスがユーミアス及びフヒリーシャス[#「ヒ」は下付き小文字]のたすけりて縄の一端を柱へくくりつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方のはじをぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へくくり付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女のくびを入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾なわのれんの先へ提灯玉ちょうちんだまを釣したような景色けしきと思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればそのへんのところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。
「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首をつないでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6[#数字は下付き小文字]を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6[#数字は下付き小文字]を縄の各部が受ける力と見做みなし、T7[#下付き小文字]=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論もちろん女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」

 迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人りょうにんが勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下しものごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2……(1)T2cosα2=T3cosα3……(2)……[#添字の数字は下付き小文字]」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけはって伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮のていに見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。
「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架こうしゅかすなわちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度ふたたび同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令たとい兇漢でも二度める法はないと云う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。千七百八十六年に有名なフヒツ・ゼラルド[#「ヒ」は下付き小文字]と云う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生おうじょうさしたと云う話しです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死にぞこないだな」と主人まで浮かれ出す。「まだ面白い事があります首をくくるとせい一寸いっすんばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません」「それは新工夫だね、どうだい苦沙弥くしゃみなどはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ」と迷亭が主人の方を向くと、主人は案外真面目で「寒月君、一寸くらいせいが延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「それは駄目にきまっています。釣られて脊髄せきずいが延びるからなんで、早く云うと背が延びると云うよりこわれるんですからね」「それじゃ、まあめよう」と主人は断念する。

 演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、迷亭が無暗に風来坊ふうらいぼうのような珍語をはさむのと、主人が時々遠慮なく欠伸あくびをするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は寒月君がいかなる態度で、いかなる雄弁をふるったか遠方で起った出来事の事だから吾輩には知れよう訳がない。

 二三日にさんちは事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また迷亭先生は例のごとく空々くうくうとして偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「君、越智東風おちとうふうの高輪事件たかなわじけんを聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「知らん、近頃はわんから」と主人は平生いつもの通り陰気である。「きょうはその東風子とうふうしの失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ」「またそんな仰山ぎょうさんな事を云う、君は全体不埒ふらちな男だ」「ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒むらちの方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と主人はうそぶいている。純然たる天然居士の再来だ。「この前の日曜に東風子とうふうしが高輪泉岳寺たかなわせんがくじに行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに――第一今時いまどき泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない、田舎者いなかもののようじゃないか」「それは東風の勝手さ。君がそれを留める権利はない」「なるほど権利はまさにない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。君知ってるか」「うんにゃ」「知らない?

 だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない?

 こりゃ驚ろいた。道理で大変東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのはなさけない」「知らなくても教師はつとまるからな」と主人はいよいよ天然居士になる。「そりゃ好いが、その展覧場へ東風が這入はいって見物していると、そこへ独逸人ドイツじんが夫婦づれで来たんだって。それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれがわざわいもとさね」「それからどうした」と主人はついに釣り込まれる。「独逸人が大鷹源吾おおたかげんご蒔絵まきえ印籠いんろうを見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子くんしばかりだから到底とうてい駄目だと云ったんだとさ。その辺は大分だいぶ景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好かっこうな通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗むやみに問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口とびぐちや掛矢[#「掛矢」に傍点]の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢[#「掛矢」に傍点]は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだからわらあね」「もっともだ」と主人は教師の身の上に引きくらべて同情を表する。「ところへ閑人ひまじんが物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。仕舞しまいには東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢に引きえて先生大弱りのていさ」「結局どうなったんだい」「仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいなら[#「さいなら」に傍点]と日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいなら[#「さいなら」に傍点]は少し変だ君の国ではさよなら[#「さよなら」に傍点]をさいなら[#「さいなら」に傍点]と云うかって聞いて見たら何やっぱりさよなら[#「さよなら」に傍点]ですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいなら[#「さいなら」に傍点]にしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然ぼうぜんと見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。それをわざわざ報知しらせに来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草まきたばこの灰を火桶ひおけの中へはたき落す。折柄おりから格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。

 主人のうちへ女客は稀有けうだなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬ちりめんの二枚重ねを畳へり付けながら這入はいって来る。年は四十の上を少ししたくらいだろう。抜け上ったぎわから前髪が堤防工事のように高くそびえて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配こうばいで、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とはくじらより細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へえ付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社しょうこんしゃ石灯籠いしどうろうを移した時のごとく、独ひとりで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻かぎばなで、ひとたびは精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜けんそんして、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇をのぞき込んでいる。かくいちじるしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子はなこ鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居おすまいですこと」と座敷中をめ廻わす。主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草たばこをふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩あまもりか、板の木目もくめか、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人をうながす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中でいきどおる。しばらくは三人鼎坐ていざのまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷かどやしきなんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田かねだと云う標札ひょうさつが出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合どあいは前と同様である。「実は宿やどが出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少しいたろうという眼付をする。主人は一向いっこう動じない。鼻子の先刻さっきからの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在ぞんざい過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。元来ここの主人は博士[#「博士」に傍点]とか大学教授[#「大学教授」に傍点]とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧をこうむる事は覚束おぼつかないとあきらめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶うかつで、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念はごうも起らんのである。鼻子の方ではあめしたの一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分だいぶ接して見たが、金田のさいですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんなくすぶり返った老書生においてをやで、私わたしうちは向う横丁の角屋敷かどやしきですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作むぞうさに迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵まきやまだんしゃくさ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か云おうとして云わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬おおしまつむぎに古渡更紗こわたりさらさか何か重ねてすましている。「おや、あなたが牧山様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。牧山様には始終御世話になると、宿やどで毎々御噂おうわさを致しております」と急に叮嚀ていねいな言葉使をして、おまけに御辞儀までする、迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。主人はあっに取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の縁辺えんぺんの事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちと唐突とうとつ過ぎたと見えてちょっと魂消たまげたような声を出す。「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多めったとこへも片付けられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急に存在ぞんざいな言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月みずしまかんげつという男が度々たびたび上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」「寒月の事を聞いて、何なんにするんです」と主人は苦々にがにがしく云う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月君の性行せいこう一斑いっぱんを御承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が気転をかす。「それが伺えれば大変都合がよろしいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を参らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と主人も躍起やっきとなる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。迷亭は双方の間に坐って、銀煙管ぎんぎせるを軍配団扇ぐんばいうちわのように持って、心のうち八卦はっけよいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも云ったのですか」と主人が正面から鉄砲をくらわせる。「貰いたいと云ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人はこの婦人鉄砲に限るとさとったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだって満更まんざら嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に恋着れんちゃくしたというような事でもありますか」あるなら云って見ろと云う権幕けんまくで主人はり返る。「まあ、そんな見当けんとうでしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気おもしろげ行司ぎょうじ気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言いちごんに好奇心を挑撥ちょうはつされたものと見えて、煙管きせるを置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんにぶみでもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つえて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子はおつにからまって来る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気ばかげた調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜けんそんする。「いえ御両人共おふたりとも御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったらわたしから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋あずまばしで何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と金剛石ダイヤ入りの指環のはまった指を、膝の上へならべて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。

 主人は無論、さすがの迷亭もこの不意撃ふいうちにはきもを抜かれたものと見えて、しばらくは呆然ぼうぜんとしておこりの落ちた病人のように坐っていたが、驚愕きょうがくたががゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と云う感じが一度に吶喊とっかんしてくる。両人ふたりは申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人をにらみつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥くしゃみ君、全く寒月はお嬢さんをおもってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と主人は云ったままである。「本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね」と鼻子はまた得意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていてはらちがあかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見ろけんするからな。――しかし不思議と云えば不思議ですねえ、金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と迷亭は一人で喋舌しゃべる。「私わたしの方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋のかみさんからです」「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は眼を丸くする。「ええ、寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃひどい」と主人は大きな声を出す。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんの事だけですよ」「寒月の事だって、誰の事だって――全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ」と主人は一人おこり出す。「しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃもっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ御這入おはいんなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新道しんみち二絃琴にげんきんの師匠からも大分だいぶいろいろな事を聞いています」「寒月の事をですか」「寒月さんばかりの事じゃありません」と少しすごい事を云う。主人は恐れ入るかと思うと「あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「憚はばかさま、女ですよ。野郎は御門違おかどちがいです」と鼻子の言葉使いはますます御里おさとをあらわして来る。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへ行くと迷亭はやはり迷亭でこの談判を面白そうに聞いている。鉄枴仙人てっかいせんにん軍鶏しゃも蹴合けあいを見るような顔をして平気で聞いている。

 悪口あっこうの交換では到底鼻子の敵でないと自覚した主人は、しばらく沈黙を守るのやむを得ざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「あなたは寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、私わたしの聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ迷亭君」と迷亭の救いを求める。「うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって――何だか譫語うわごとをいったように聞いたね」「なにそんな事はありません」と金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。「それでも寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと云っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと云う決心ですかね」と迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく手障てざわりのあらい言葉を使う。「いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥君――奥さん、私わたしでも苦沙弥でも寒月君に関する事実で差支さしつかえのない事は、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」

 鼻子はようやく納得なっとくしてそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも迷亭に対してはまたもとのごとく叮嚀になる。「寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院では地球の磁気の研究[#「地球の磁気の研究」に傍点]をやっています」と主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が鼻子には分らんものだから「へえー」とは云ったが怪訝けげんな顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければやれないとおっしゃるんですか」と主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と鼻子は平気で答える。主人は迷亭を見ていよいよいやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「二三日前にさんちまえは首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]と云う研究の結果を理学協会で演説しました」と主人は何の気も付かずに云う。「おやいやだ、首縊り[#「首縊り」に傍点]だなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊り[#「首縊り」に傍点]や何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首をくくっちゃあむずかしいですが、首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は主人の方を見て顔色をうかがう。悲しい事に力学[#「力学」に傍点]と云う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で八卦はっけを立てて見る。主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分りやすいものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって団栗のスタビリチーを論じて併せて天体の運行に及ぶ[#「団栗の」から「及ぶ」まで傍点]と云う論文を書いた事があります」「団栗どんぐりなんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も素人しろうとだからよく分らんが、何しろ、寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と迷亭はすまして冷かす。鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸しいたけを食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに空也餅くうやもちがくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内なわばりうちだと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって楊子ようじを使わないんでしょう」「今度ったら注意しておきましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯のしょうが悪いと思われますが、如何いかがなものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないがちょっと愛嬌あいきょうがあるよ。あれぎり、まだめないところが妙だ。今だに空也餅引掛所ひっかけどころになってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣こづかいがないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成まえばかけなりを名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書はがきなら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのをってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸たぬきだよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦のとし、山の狸が園遊会をやってさかんに舞踏します。その歌にいわ、来いさ、としので、御山婦美おやまふみまいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平のていである。「この天女てんにょは御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣はごろもを着て琵琶びわいている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔むかしある所に一人の天文学者がありました。あるいつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身にむ寒さも忘れて聞きれてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸しがいしもが真白に降っていました。これは本当のはなしだと、あのうそつきのじいやが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟ほかけぶねが印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべのとまりの十六小女郎じゅうろくこじょろ、親がないとて、荒磯ありその千鳥、さよの寝覚ねざめの千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何いかがです」と迷亭は無暗むやみに出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮やぼでないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問をえたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手えてかってな要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人ふたりが席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君がこらえ切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなかふるっていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」

 主人は不満な口気こうきで「第一気に喰わん顔だ」とにくらしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取っておつに構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背ねこぜだね。猫背の鼻は、ちと奇抜きばつ過ぎる」と面白そうに笑う。「夫おっとこくする顔だ」と主人はなお口惜くやしそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝たなざらしに逢うと云うそうだ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥のから出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋のかみさんにいつけ[#「いつけ」に傍点]られますよ」と注意する。「少しいつけ[#「いつけ」に傍点]る方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴ざんそなどをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまりひどいわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌ようぼうも間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分だいぶ引きかれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見ふりょうけんさ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君をかえりみる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑けいべつするな。貴様なぞは知るまいがむかしアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶しわくちゃ黒木綿くろもめんの羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召おめしはござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物のとがじゃございません」と細君うまく責任をがれる。

 主人は伯父さん[#「伯父さん」に傍点]と云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついにうわさをした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物がんぶつでねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日こんにちまで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷まげを頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子をかぶれってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっとていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢ぜいたくの沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしてもねむたくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境しょきょうってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜へちまったものじゃないのに当人は全く克己こっきの力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇てっせんをもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君があいのない返事をする。「此年ことしの春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会しゅくしょうかいがあるからそれまでにに合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸だいまるへ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋しろきやと間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇てっせんを持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候くだされそうらえども少々大きく候間そろあいだ、帽子屋へ御遣おつかわしの上、御縮め被下度候くだされたくそろ。縮め賃は小為替こがわせにて此方こなたより御送おんおくり可申上候もうしあぐべきそろとあるのさ」「なるほど迂濶うかつだな」と主人はおのれより迂濶なものの天下にある事を発見しておおいに満足のていに見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴してかぶっていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「そのかたが男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂せいどう朱子学しゅしがくか、何かにこり固まったものだから、電気灯の下でうやうやしくちょん[#「ちょん」に傍点]髷まげを頂いているんです。仕方がありません」とやたらにあごで廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭はわけもなく笑う。「そりゃうそですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺ほらが御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方がでさあ」「あなただって御負けなさる気遣きづかいはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰いわく付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧さるぢえから割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目ふしめになって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。

 吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷かどやしきの金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人のうちで実業家が話頭にのぼった事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻はからずも鼻子の訪問を受けて、余所よそながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美えんびを想像し、またその富貴ふうき、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側えんがわに寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋のかみさんやら、二絃琴にげんきん天璋院てんしょういんまで買収して知らぬに、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔のうちに安置している女の事だから、滅多めったな者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりにぜにがなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月にたすけを与える便宜べんぎすくなかろう。して見ると可哀相かわいそうなのは首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者のうち寄寓きぐうする猫で、世間一般の痴猫ちびょう、愚猫ぐびょうとは少しくせんことにしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心はもとより尻尾しっぽの先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂けっきそうきょうの沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴あっぱれな美挙だ。人の許諾をずして吾妻橋あずまばし事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴ふいちょうする以上は、車夫、馬丁ばてい、無頼漢ぶらいかん、ごろつき書生、日雇婆ひやといばばあ、産婆、妖婆ようば、按摩あんま、頓馬とんまに至るまでを使用して国家有用の材にはんを及ぼしてかえりみざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解しもどけは少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側えんがわへ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三おさんの迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日あすとも云わずこれから出掛けようと勇猛精進ゆうもうしょうじんの大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉のどの構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌しゃべれない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心かんじんの寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石ダイヤモンドの日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これはだ、やめようかしらんと上り口でたたずんで見た。

 しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨ゆうだちが来るかと待っている時黒雲とも隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死むだじにをやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足をよごすくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果いんがで寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭ぜっとうに相互の思想を交換する技倆ぎりょうはないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就じょうじゅするのはそれ自身において愉快である。吾われ一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。

 向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面かどじめん吾物顔わがものがおに占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢ごうまんに構えているんだろうと、門を這入はいってその建築をながめて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並つきなみとはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯おおくまはくの勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入はいり込む。見ると漆喰しっくいで叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋のかみさんが立ちながら、御飯焚ごはんたきと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑けんのんだと水桶みずおけの裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚めしたきが云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈かいわいで金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪かたわだあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供のとしさえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木とうへんぼく。構かまこたあねえ、みんなで威嚇おどかしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあひどい事を云うんだよ。自分のつら今戸焼いまどやきたぬき見たような癖に――あれで一人前いちにんまえだと思っているんだからやれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、手拭てぬぐいげて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と苦沙弥先生は飯焚にもおおいに不人望である。「何でも大勢であいつの垣根のそばへ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と神さんは悪口の三分の一を引き受けると云う意味を示す。なるほどこの手合が苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ這入る。

 猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中にけいを打つがごとく、洞裏とうりしつするがごとく、醍醐だいごの妙味をめて言詮ごんせんのほかに冷暖れいだん自知じちするがごとし。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の神さんも、権助ごんすけも、飯焚も、御嬢さまも、仲働なかばたらきも、鼻子夫人も、夫人の旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾しっぽって、髭ひげをぴんと立てて悠々ゆうゆうと帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能かんのうである。草双紙くさぞうしにある猫又ねこまたの血脈を受けておりはせぬかとみずから疑うくらいである。蟇がまひたいには夜光やこう明珠めいしゅがあると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教しんぎしゃっきょう恋無常こいむじょうは無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝いっかそうでんの妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬに横行するくらいは、仁王様が心太ところてんを踏みつぶすよりも容易である。この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝らいはいしてニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当けんとうが違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へけ出す。なるほど天地玄黄てんちげんこうを三寸に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾をめぐる事七度ななたび半にして草臥くたびれたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子のうちで鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息をらす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」と例の金切かなきごえを振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちとらしめのためにいじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「津木つきピン助すけ福地ふくちキシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」吾輩は金田君の生国しょうごくは分らんが、妙な名前の人間ばかりそろった所だと少々驚いた。金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって云います」「どうせろくな教師じゃあるめえ」あるめえ[#「あるめえ」に傍点]にもすくなからず感心した。「この間ピン助にったら、私わたしの学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶[#「番茶」に傍点]は英語で何と云いますと聞かれて、番茶[#「番茶」に傍点]は Savage tea であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと云ったが、大方おおかたあいつの事だぜ」「あいつにきまっていまさあ、そんな事を云いそうな面構つらがまえですよ、いやにひげなんかやして」「怪しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返はねっかえりなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事をに受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句いちごんはんくも出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事がきまって念頭にないものか、そのへん懸念けねんもあるが仕方がない。しばらくたたずんでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後おくれぬ先に、とその方角へ歩を向ける。

 来て見ると女がひとりで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもってすと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水みすいじゅすいをあえてせしめたる代物しろものだろう。惜哉おしいかな障子越しで玉の御姿おんすがたを拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合そうごうして考えて見ると、満更まんざら人の注意をかぬ獅鼻ししばなとも思われない。女はしきりに喋舌しゃべっているが相手の声が少しも聞えないのは、噂うわさにきく電話というものであろう。「御前は大和やまとかい。明日あしたね、行くんだからね、鶉うずらの三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない?

 おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない?

 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談ごじょうだんをだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉ちょうきちだ?

 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに?

 私わたくしで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾あたしを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓ごひいきにあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物ぐぶつだね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪かんしゃくを起してやけにベル[#「ベル」に傍点]をジャラジャラと廻す。足元でちんが驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶うかつに出来ないと、急に飛び下りてえんの下へもぐり込む。

 折柄おりから廊下をちかづく足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突けんつくを食わせる。「ちょっと用があるからじょうを呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気をかして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜へちま戸迷とまどいをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪そくはつったの」小間使はほっと一息ついて「今日こんにち」となるべく単簡たんかんな挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟はんえりを掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体もったいないと思って行李こうりの中へしまっておきましたが、今までのがあまりよごれましたからかけえました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶うぐいすちゃ相撲すもう番附ばんづけを染め出したのでございます。妾あたしには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾あたしにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突けんつくは留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きなちんが顔の中心に眼と口を引き集めたようなかおをして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険はまず十二分の成績せいせきである。

 帰って見ると、奇麗なうちから急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟どうくつの中へはいり込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖ふすま、障子しょうじの具合などには眼も留らなかったが、わが住居すまいの下等なるを感ずると同時にのいわゆる月並つきなみが恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾しっぽに伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣ごたくせんがあった。座敷へ這入はいって見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草まきたばこの吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐おおあぐらで何か話し立てている。いつのにか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩あまもりを余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。
「寒月君、君の事を譫語うわごとにまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支さしつかえないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織のひもをひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調てんぽうちょうだな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底とうてい日露戦争時代のものではないな。陣笠じんがさ立葵たちあおいの紋の付いたぶっき羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入むこいりをするとき頭の髪を茶筌ちゃせんったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これはじじいが長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のようなたちをするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性にょしょうなんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏おだぶつめ込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここからいぬいの方角にあたる清浄しょうじょうな世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠くおん女性にょしょうの御母堂様だ」「へえー」「金田のさいという女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子をうかがって見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有ぬしでね……」迷亭がなかば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩はいたいしを考えているんだがね」と木に竹をいだような事を云う。隣のへやで妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気のんきだなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭り[#「この顔に鼻祭り」に傍点]と云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供え[#「この鼻に神酒供え」に傍点]というのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなり[#「穴二つ幽かなり」に傍点]と付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えず[#「奥深く毛も見えず」に傍点]はいけますまいか」と各々おのおの出鱈目でたらめを並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼いまどやきたぬき今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣のすきからすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなかふるっていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑いっぱん披瀝ひれきして、御両君の清聴をわずらわしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非うけたまわりたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうもしかと分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風おうふうに真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様かようにせり出して参ったか」と自分の鼻をつまんで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個のあなならんでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予あらかじめ御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁はなをかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯いつわりのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入そうにゅうする。「御承知の通り鼻汁はなをかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第にかたくなります。ついにって骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔でべ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁はなは出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右がけずり取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴てんてきの石を穿うがつがごとく、賓頭顱びんずるの頭がおのずから光明を放つがごとく、不思議薫ふしぎくん不思議臭ふしぎしゅうたとえのごとく、斯様かように鼻筋が通って堅くなります。「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護かいごの恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となくおそろしくて近づき難いものであります。あの鼻梁びりょうなどは素晴しいには違いございませんが、少々峻嶮しゅんけん過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌あいきょうがございます。鼻高きが故にたっとからず、奇なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話げせわにも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただいままで弁じましたのは――」「先生弁じました[#「弁じました」に傍点]は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐ふくしゅうをやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡けんこう一言いちごん論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山くらまやまで展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻をはさみでちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩たとえにも猫のひたいと云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀とっこつとしてそびえたら、碁盤の上へ奈良の大仏をえ付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正まさしく英姿颯爽えいしさっそうたる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞いにょうする顔面的条件は如何いかがな者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病てんかんやみの御かめ[#「御かめ」に傍点]のごとくまゆの根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端とたん、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突ごうつばりだろう」と云う声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転えんてんたる嬌音きょうおんをもって、乾燥なる講筵こうえんに一点の艶味えんみを添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女かじんしゅくじょ眷顧けんこそむかざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢いきおい御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防ごしんぼうを願います」寒月君は力学と云う語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律[#「黄金律」に傍点]を失していると云う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹えんえきして御覧に入れようと云うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が云う。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥くしゃみはとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐かいがないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪ついばいして起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時なんどき気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟とっさかん膨脹ぼうちょうするかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿ねこまたどのにも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪えんざいと云うわけだ」主人だけはおおいにむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘ならろくな者でないにきまってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢ごうまんな奴だ」とひとりでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木とうへんぼくだ」と云うと一人が「もっと大きなうち這入はいりてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶かげべんけいだ」と大きな声をする。主人は椽側えんがわへ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんなへいの下へ来て」と怒鳴どなる。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々にののしる。主人はおおい逆鱗げきりんていで突然ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手をって「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐をひねってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっときつねつままれたていである。

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)吾輩《わがはい》は猫である

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一番|獰悪《どうあく》な種族であった

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)へっつい[#「へっつい」に傍点]
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底本:「夏目漱石全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月に刊行
入力:柴田卓治
校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
1999年9月17日公開
2001年1月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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2001年1月29日変更
変更内容:テキストファイルをHTMLファイルに変換、形式段落ごとに空白行を1行追加、ルビの表示
変更作業:里実福太郎