博士問題とマードック先生と余・マードック先生の『日本歴史』・博士問題の成行
夏目漱石
博士問題とマードック先生と余
上
1
余が博士に推薦されたという報知が新聞紙上で世間に伝えられたとき、余を知る人のうちの或者は特に書を寄せて余の栄選を祝した。余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしくは未知の或ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取った。伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の報知を聞いて今度は辞退の方を目出たく思ったそうである。貰っても辞してもどっちにしても賀すべき事だというのがこの友の感想であるとかいって来た。そうかと思うと悪戯好の社友は、余が辞退したのを承知の上で、故さらに余を厭がらせるために、夏目文学博士殿と上書をした手紙を寄こした。この手紙の内容は御退院を祝すというだけなんだから一行で用が足りている。従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手数が掛った訳である。
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しかし凡てこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感じなかったものばかりである。ただ旧師マードック先生から同じくこの事件について突然封書が届いた時だけは全く驚ろかされた。
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マードック先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠で今日まで打ち過ぎたのである。けれどもその当時は毎週五、六時間必ず先生の教場へ出て英語や歴史の授業を受けたばかりでなく、時々は私宅まで押し懸けて行って話を聞いた位親しかったのである。
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先生はもと母国の大学で希臘語の教授をしておられた。それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、余らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語を使って講義やら説明やら談話やらを見境なく遣られた。それがため同級生は悉く辟易の体で、ただ烟に捲かれるのを生徒の分と心得ていた。先生もそれで平気のように見えた。大方どうせこんな下らない事を教えているんだから、生徒なんかに分っても分らなくても構わないという気だったのだろう。けれども先生の性質が如何にも淡泊で丁寧で、立派な英国風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併したような特殊の人格を具えているのに敬服して教授上の苦情をいうものは一人もなかった。
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先生の白襯衣を着た所は滅多に見る事が出来なかった。大抵は鼠色のフラネルに風呂敷の切れ端のような襟飾を結んで済ましておられた。しかもその風呂敷に似た襟飾が時々胴着の胸から抜け出して風にひらひらするのを見受けた事があった。高等学校の教授が黒いガウンを着出したのはその頃からの事であるが、先生も当時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子か何かのガウンを法衣のように羽織ていられた。ガウンの袖口には黄色い平打の紐が、ぐるりと縫い廻してあった。これは装飾のためとも見られるし、または袖口を括る用意とも受取れた。ただし先生には全く両様の意義を失った紐に過ぎなかった。先生が教場で興に乗じて自分の面白いと思う問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣も忘れてしまう。果はわがいる所が教場であるという事さえ忘れるらしかった。こんな時には大股で教壇を下りて余らの前へ髯だらけの顔を持ってくる。もし余らの前に欠席者でもあって、一脚の机が空いていれば、必ずその上へ腰を掛ける。そうして例のガウンの袖口に着いている黄色い紐を引張って、一尺程の長さを拵らえて置いて、それでぴしゃりぴしゃりと机の上を敲いたものである。
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当時余はほんの小供であったから、先生の学殖とか造詣とかを批判する力はまるでなかった。第一先生の使う言葉からが余自身の英語とは頗る縁の遠いものであった。それでも余は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研究者であったから、分らないながらも出来得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生の家までも出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣と先生の帽子――先生はくしゃくしゃになった中折帽に自分勝手に変な鉢巻を巻き付けて被っていた事があった。――凡てこれら先生の服装に調和するほどに、先生の生活は単純なものであるらしかった。
中
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その頃の余は西洋の礼式というものを殆んど心得なかったから、訪問時間などという観念を少しも挟さむ気兼なしに、時ならず先生を襲う不作法を敢てして憚からなかった。ある日朝早く行くと、先生は丁度朝食を認めている最中であった。家が狭いためか、または余を別室に導く手数を省いたためか、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食ったかと聞かれた。先生はその時卵のフライを食っていた。なるほど西洋人というものはこんなものを朝食うのかと思って、余はひたすら食事の進行を眺めていた。実は今考えるとその時まで卵のフライというものを味わった事がないような気がする。卵のフライという言葉もそれからずっと後に覚えたように思われる。
8
先生はやがて肉刀と肉匙を中途で置いた。そうして椅子を立ち上がって、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁を朗々と読み始めた。しばらくすると、本を伏せてどうだと聞かれた。正直の所余には一言も解らなかったから、一体それは英語ですかと聞いた。すると先生は天来の滑稽を不用意に感得したように憚りなく笑い出した。そうしてこれは希臘の詩だと答えられた。英国の表現に、珍紛漢の事を、それは希臘語さというのがある。希臘語は彼地でもそれ位六ずかしい物にしてあるのだろう。高等学校生徒の余などに解るはずは無論ない。それを何故先生が読んで聞かせたのかというと、詳しい理由は今思い出せないが、何でも希臘の文学を推称した揚句の事ではなかったかと思う。とにかく先生はそういう性質の人なのである。
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先生の作った「日本におけるドン・ジュアンの孫」という長詩も慥か聞かされたように思う。けれどもそのうちの或行にアラス、アラック、という感投詞が二つ続いていたと記憶するだけで、あとはまるで忘れてしまった。
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ベインの『論理学』を読めといって先生が貸してくれた事もあった。余はそれを通読するつもりで宅へ持って帰ったが、何分課業その他が忙がしいので段々延び延びになって、何時まで立っても目的を果し得なかった。ほど経て先生が、久しい前君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし読んでしまったなら返してくれといわれた。その本は大分丹念に使用したものと見えて裏表とも表紙が千切れていた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心に羨ましかった。
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あるときどんな英語の本を読んだら宜かろうという余の問に応じて、先生は早速手近にある紙片に、十種ほどの書目を認めて余に与えられた。余は時を移さずその内の或物を読んだ。即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得る度にこれを読んだ。どうしても眼に触れなかったものは、倫敦へ行ったとき買って読んだ。先生の書いてくれた紙片が、余の袂に落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の挙げた凡てを読む事が出来たのである。先生はあの紙片にそれほどの重きを置いていなかったのだろう。凡てを読んでからまた十年も経った今日から見れば、それほど先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑しい気がする。
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外国から帰った当時、先生の消息を人伝に聞いて、先生は今鹿児島の高等学校に相変らず英語を教えているという事が分った。鹿児島から人が出てくる度に余はマードックさんはどうしたと尋ねない事はなかった。けれども音信はその後二人の間に全く絶えていたのである。ただ余が先生について得た最後の報知は、先生がとうとう学校をやめてしまって、市外の高台に居を卜しつつ、果樹の栽培に余念がないらしいという事であった。先生は「日本における英国の隠者」というような高尚な生活を送っているらしく思われた。博士問題に関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音を破る価ありと信じて、とくに余のために認めてくれたものと見える。
下
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手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、真率に余の学位辞退を喜こぶ旨が書いてあった。その内に、今回の事は君がモラル・バックボーンを有している証拠になるから目出たいという句が見えた。モラル・バックボーンという何でもない英語を翻訳すると、徳義的脊髄という新奇でかつ趣のある字面が出来る。余の行為がこの有用な新熟語に価するかどうかは、先生の見識に任せて置くつもりである。
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先生はまたグラッドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あるといわれた。これには恐縮した。余が博士を辞する時に、これら前人ぜんじんの先例は、毫ごうも余が脳裏のうりに閃ひらめかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかったからである。尤もっとも先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたまでで、これら知名の人を余に比較するためでなかったのは無論である。
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先生いう、――われらが流俗以上に傑出しようと力つとめるのは、人として当然である。けれどもわれらは社会に対する栄誉の貢献によってのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上権利は、凡すべての時において、われらの人物如何いかんとわれらの仕事如何によってのみ決せらるべきである。
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先生のこの主義を実行している事は、先生の日常生活を別にしても、その著作『日本歴史』において明あきらかに窺うかがう事が出来る。自白すれば余はまだこの標準的スタンダード述作ウォークを読んでいないのである。それにもかかわらず、先生が十年の歳月と、十年の精力と、同じく十年の忍耐を傾け尽して、悉ことごとくこれをこの一書の中に注ぎ込んだ過去の苦心談は、先生の愛弟子まなでし山県五十雄やまがたいそお君から精くわしく聞いて知っている。先生は稿を起すに当って、殆んどあらゆる国語で出版された日本に関する凡すべての記事を読破どくはしたという事である。山県君は第一その語学の力に驚ろいていた。和蘭語オランダごでも何でも自由に読むといって呆あきれたような顔をして余に語った。述作じゅっさくの際非常に頭を使う結果として、しまいには天を仰あおいで昏倒こんとう多時にわたる事があるので、奥さんが大変心配したという話も聞いた。そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆ぎりょうを疑って、六むずかしい漢字を先生に書かして見たら、旨うまくはないが、劃かくだけは間違なく立派に書いたといって感心していた。これらの準備からなる先生の『日本歴史』は、悉ことごとく材料を第一の源みなもとから拾い集めて大成したもので、儲もうからない保証があると同時に、学者の良心に対して毫ごうも疚やましからぬ徳義的な著作であるのはいうまでもない。
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「余は人間に能あとう限りの公平と無私とを念じて、栄誉ある君の国の歴史を今になお述作しつつある。従って余の著書は一部人士じんしの不満を招くかも知れない。けれどもそれはやむを得ない。ジョン・モーレーのいった通り何人なんびとにもあれ誠実を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐると一般であって、その真正なる日本の進歩は余の心を深くかつ真面目まじめに動かす題目に外ならぬからである。」
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余は先生の人となりと先生の目的とを信じて、ここに先生の手紙の一節をありのままに訳出した。先生は新刊第三巻の冒頭ぼうとうにある緒論しょろんをとくに思慮しりょある日本人に見てもらいたいといわれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一読して満足な批評を書き得るならば、そうして先生の著書を天下に紹介する事が出来得るならば余の幸さいわいである。先生の意は、学位を辞退した人間としての夏目なにがしに自分の著述を読んでもらって、同じく博士を辞退した人間としての夏目なにがしに、その著述を天下に紹介してもらいたいという所にあるのだろうと思うからである。
――明治四四、三、六―八『東京朝日新聞』――
マードック先生の『日本歴史』
上
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先生は約やくの如く横浜総領事を通じてケリー・エンド・ウォルシから自著の『日本歴史』を余に送るべく取り計はからわれたと見えて、約七百頁の重い書物がその後日ひならずして余の手に落ちた。ただしそれは第一巻であった。そうして巻末に明治四十三年五月発行と書いてあるので、余は始めてこの書に対する出版順序に関しての余の誤解を覚さとった。
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先生はわが邦くに歴史のうちで、葡萄牙ポルトガル人が十六世紀に始めて日本を発見して以来織田、豊臣、徳川三氏を経て島原の内乱に至るまでの間、いわゆる西欧交通の初期とも称して然しかるべき時期を択えらんで、その部分だけを先年出版されたのである。だから順序からいうと、第二巻が最初に公おおやけにされた訳になる。そうして去年五月発行とある新刊の方は、かえって第一巻に相当する上代じょうだい以後の歴史であった。最後の巻、即ち十七世紀の中頃から維新の変に至るまでの沿革えんかくは、今なお述作中にかかる未成品みせいひんに過ぎなかった。その上去年の第一巻とこれから出る第三巻目は、先生一個の企てでなく、日本の亜細亜アジア協会が引き受けて刊行するのだという事が分った。従って先生の読んでくれといった新刊の緒論は、第三巻にあるのではなくて、やはり第一巻の第一篇の事だと知れた。それで先ず寄贈された大冊子だいさっしの冒頭にある緒言しょげんだけを取り敢あえず通覧した。
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維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然てんねんしぜんに何の苦もなく今日まで発展して来たと同様に、明治の歴史もまた尋常じんじょう正当に四十何年を重かさねて今日まで進んで来たとしか思われない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙こうむる評価には、案外な点もあるいはあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路けいろや因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟さしはさむ余地がちっともない。ただかくの如く生れ、かくの如く成長し、かくの如き社会の感化を受けて、かくの如き人間に片付いたまでと自覚するだけで、その自覚以上に何らの驚ろくべき点がないから、従って何らの好奇心も起らない、従って何らの研究心も生じない。かかる理の当然一片の判断が自己を支配する如くに、同じく当り前さという観念が、やはり自己の生息する明治の歴史にも付け纏まとっている。海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未いまだかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試ためしがない。必竟ひっきょうわれらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡すべてが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑うたがいの起る余地が天てんで起らないのである。丁度葉裏はうらに隠れる虫が、鳥の眼を晦くらますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着とんじゃくすべき所以いわれがない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。
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マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆きょうたんである。維新前は殆んど欧洲の十四世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。僅か五隻のペリー艦隊の前に為なす術すべを知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。
下
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先生はこの驚嘆の念より出立しゅったつして、好奇心に移り、それからまた研究心に落ち付いて、この大部たいぶの著作を公けにするに至ったらしい。だから日本歴史全部のうちで尤もっとも先生の心を刺戟したものは、日本人がどうして西洋と接触し始めて、またその影響がどう働らいて、黒船着後に至って全局面の劇変を引き起したかという点にあったものと見える。それを一通り調べてもまだ足らぬ所があるので、やはり上代じょうだいから漕こぎ出して、順次に根気よく人文発展の流ながれを下って来ないと、この突如たる勃興ぼっこうの真髄が納得なっとく出来ないという意味から、次に上代以後足利あしかが氏に至るまでを第一巻として発表されたものと思われる。そうは断ってないけれども、緒論を読むとその辺の消息が多少窺うかがわれるような気もする。
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従って緒論に現われた先生は、出来得る限りの範囲において、われらが最近五十年間の豹変ひょうへんに対する説明を、箇条かじょうがきの如くに与えておられる。その内にはちょっとわれらの思い設けぬ解釈さえある。西洋人が予期せざる日本の文明に驚ろくのは、彼らが開化という観念を誤まり伝えて、耶蘇ヤソ教的カルチュアーと同意義のものでなければ、開化なる語を冠かんすべきものでないと自信していたからであるというが如きはその一例である。西洋の開化と耶蘇教的カルチュアーと密切みっせつの関係のある事は誰でも知っているが、耶蘇教的カルチュアーでなければ開化といえないとは、普通の日本人にどうしても考え得られない点である。けれどもそれが西洋人一般の判断だと、先生から注意されて見ると、なるほどと首肯しゅこうせざるを得ない。こういう意味において、先生の著述は日本を外国に紹介する上に非常な利益があるばかりでなく、研究心に富んだ外国人が、われら自身を如何に観察しているかを知る便宜もまた甚はなはだ少なくないのである。
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西洋の雑誌を見ると、日本に関した著述の広告は、一週に一、二冊はきっと出ている。近頃ではこれらの書籍を蒐集しゅうしゅうしただけでも優ゆうに相応の図書館は一杯になるだろうと思われる位である。けれども真の観察と、真の努力と、真の同情と、真の研究から成なったものは極めて乏しいと断言しても差支はあるまい。余よはこの乏しいものの一として、先生の歴史をわれら日本人に紹介する機会を得たのを愉快に思う。
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歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所に※徊ていかいして、われらが歩んで来た道を顧みる暇いとまを有もたない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙じゅうりんせられつつある。われらは歴史を有せざる成なり上あがりものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸かけ隔へだたった国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向まともに圧迫するからである。
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われらはただ二つの眼めを有もっている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜ちゅうやともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮あせりに焦慮あせって、汗を流したり呼息いきを切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇はげしき病毒を社会に植付けつつある。夜番よばんのために正宗まさむねの名刀と南蛮鉄なんばんてつの具足ぐそくとを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵たくあんの尻尾しっぽを噛かじって日夜齷齪あくせくするにもかかわらず、夜番の方では頻しきりに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身こんしんの気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃たおれるまで前進するのである。しかもわれらが斃れる時、われらの烟突えんとつが西洋の烟突の如く盛んな烟けむりを吐はき、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌てっきを走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬いけいを以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚うぬぼれても大いなる疑問である。マードック先生がわれらの現在に驚嘆してわれらの過去を研究されると同時に、われらはわれらの現在から刻々に追い捲まくられて、われらの未来をかくの如く悲観している。余はわれらの過去に対する先生の著書を紹介するのついでを以て、われらの運命に関しての未来観をも一言いちごん先生に告げて置きたいと思う。
――明治四四、三、一六―一七『東京朝日新聞』――
博士問題の成行
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二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日きょうに至るまで、当局者と余よとは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図はからずも上田万年うえだかずとし、芳賀矢一はがやいち二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原ふくはら専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾いかんとする旨を述べ合って別れた。
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翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左さの書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
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「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀ぎ御辞退相成あいなりたき趣おもむきの御申出相成あいなり候処そうろうところ已すでに発令済はつれいずみにつき今更いまさら御辞退の途みちもこれなく候間そうろうあいだ御了知相成たく大臣の命により別紙学位記がくいき御返付おかえしつけかたがたこの段申進もうしすすめ候そうろう敬具」
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余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。
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「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故ゆえ、小生しょうせいの希望通り取計らいかぬる旨むねの御返事を領りょうし、再応さいおうの御答を致します。
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「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。
34
「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫ごうも小生の意志を眼中がんちゅうに置く事なく、一図いちずに辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲ここに言明致します。
35
「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆さからって、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。
36
「最後に小生は目下我邦わがくににおける学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒かんがみて、現今の博士制度の功こう少くして弊へい多き事を信ずる一人なる事を茲ここに言明致します。
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「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許もとまで御返付致します。敬具」
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要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施ほどこす解釈に依って極きまるのである。ただし余は文部省の如何いかんと、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通どおりに認むるの自由を有している。
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余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従くつじゅうを強しいざる限りは、この問題はこれより以上に纏まとまるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
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博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉ことごとく博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与ふよしたならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握しょうあくし尽すに至ると共に、選に洩もれたる他は全く一般から閑却かんきゃくされるの結果として、厭いとうべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西フランスにアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
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従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾てっとうてつび主義の問題である。この事件の成行なりゆきを公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。
――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
1986昭和61年10月16日第1刷発行
1998平成10年7月24日第26刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
ファイル作成:野口英司
1999年8月5日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。
※徊ていかい
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第3水準1-84-31
|
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理:ルビの記述を<RUBY>タグに変更
行間処理:行間180%
段落処理:形式段落ごとに<P>タグ追加
:段落冒頭の一字下げを一行下げに変更
:段落番号の追加
変更作業:里実福太朗
変更終了:平成13年11月