明暗(51〜100)
                夏目漱石


        五十一

 彼女が叔父叔母のあといて、継子といっしょに、二階の片隅かたすみにある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間のちであった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹いとこに小声でいて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
 こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧あいまいになってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母ちちははに遠慮があるのかも知れなかった。また自分はなんにも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
 鋭い一瞥いちべつの注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢であう多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然こつぜんお延の頭に彼女と自分との比較がひらめいた。姿恰好すがたかっこうは継子にまさっていても、服装なり顔形かおかたちで是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥はにかんでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々ういういしく出来上った、処女としては水のしたたるばかりの、この従妹いとこを軽い嫉妬しっとの眼でた。そこにはたとい気の毒だという侮蔑ぶべつこころが全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我ひがの地位をえて立って見たいぐらいな羨望せんぼうの念が、いちじるしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準めやすにおかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、にぎやかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁あいしゅうに打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質たちのものであった。そうして今嫉妬しっとの眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握りめたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私がうらやましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛をつなぐために、そのたっとい純潔な生地きじを失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたにつらくあたるかも知れません。私はあなたがうらやましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままのうつわが完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母ふぼ膝下しっかを離れると共に、すぐ天真の姿をきずつけられます。あなたは私よりも可哀相かわいそうです」
 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人にさえぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ひとかたならぬ恩顧おんこを受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、あたかぎりの愛嬌あいきょうと礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなのあといて食堂に入った。

        五十二

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標まとにするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談たちばなしをしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側にみ出している大々だいだいした夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いをみなぎらしていた夫人の方でも、すぐひとみをお延の上に移した。しかし咄嗟とっさの電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶あいさつかわすまで、ついに互を認め合わなかった。
 夫人に投げかけた一瞥いちべつについで、お延はまたそのそばに立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻さっき廊下で継子といっしょになって、冗談じょうだん半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなのうしろに立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好みよしさんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人なんびとであるかを知らずにしまった。
 席に着くとき、夫人は叔父の隣りにすわった。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子いすへ腰をろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇ちゅうちょした。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」
 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。せんすつもりでいたのに、かえって先を越されたというまずい感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心うぶらしい様子を、食卓越テーブルごしに眺めた時、ますます強固にされた。
 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口もかないで、下ばかり向いている彼女の態度のうちには、ほとんど苦痛に近い或物が見透みすかされた。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌あいきょうのある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑ちぎしているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
 ちょうど叔母と話を途切とぎらしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸ドイツを逃げ出した話でもするがいい」
 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となくかえすんでね、近頃はもうひとよりも自分の方が陳腐ちんぷになってしまいました」
「あなたのような落ちついたかたでも、少しは周章あわてたでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。

        五十三

 三好を中心にした洋行談がひとしきりはずんだ。相間あいま相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際てぎわを、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和おだやかというよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車くちぐるまに乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
 彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言ひとことも口をさしはさむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、ごうも技巧の臭味くさみなしに、着々成功して行く段取だんどりを、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんがあきれていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
 お延は不意を打たれて退避たじろいだ。津田の前でかつて挨拶あいさつに困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間のきょたした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌あいきょうに過ぎなかった。
「いいえ、大変面白くうかがっております」とあとから付け足した時は、お延自分でももう時機のおくれている事に気がついていた。またやりそくなったというにがい感じが彼女の口の先までいて出た。今日こそ夫人の機嫌きげんを取り返してやろうという気込きごみが一度にえた。夫人は残酷に見えるほど早く調子をえて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前ひとむかしまえの事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦せいれき……」
 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
普仏戦争ふふつせんそう時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様だんなさまを案内して倫敦ロンドンを連れて歩いて上げたおぼえがあるんだから」
「じゃ巴理パリ籠城ろうじょうした組じゃないのね」
「冗談じゃない」
 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭のろくさいバスがまだ幅をかしていた時代だよ」
 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨をき起すらしく見えた。継子と三好を見較みくらべた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終しじゅうその子のそばに坐っていらっしったら好いでしょう」
 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」といた。叔母がそんな呑気のんきな人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はおじいさまお爺さまって云われる時機が、もう眼前がんぜんせまって来たんだ。油断はできません」
 継子が顔をあかくして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯としを計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たらなんにも反省器械はんせいきかいを持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」
 みんなが声を出して笑った。

        五十四

 彼らほど多人数たにんずでない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群いちぐんを折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲コヒーも飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布ナプキンほうす訳に行かなかった。またそんな世話しない真似まねをする気もないらしかった。芝居をに来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイにいた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧ていねいに答えた。
「ただ今きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
 叔父はすぐ皮付のとりももを攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着とんじゃくしないらしかった。彼はすぐ叔父のあとへついて、劇とは全く無関係な食物くいもの挨拶あいさつをした。
「君は相変らずうまそうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車かたぐるまへ乗った話をお聞きですか」
 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞がいぶんの好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人がそばから口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人をつぶしたんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦ロンドンの群衆の中で、大男の肩の上へかじりついていたんだ。行列を見るためにね」
 叔父おじはまだ笑いもしなかった。
「何を捏造ねつぞうする事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式たいかんしきの時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈せいが高過ぎるもんだから、苦しまぎれにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
 叔父の弁解はむしろ真面目まじめであった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人イギリスじんが大きいたって、どうも君じゃ辻褄つじつまが合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小わいしょうだからな」
 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっとに落ちたらしい言葉遣ことばづかいをして、なおその当人の猿という渾名あざなを、一座をにぎわせる滑稽こっけい余音よいんのごとくかえした。夫人はなかば好奇的で、半ば戒飭的かいちょくてきな態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏ひょうりなく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、おんなじ事です」
 こんな他愛たわいもない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前わけまえを取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまでっても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒いっけん置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹いとこを、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力のあとさえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部そとに示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望せんぼう漣※さざなみが立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてそのあとからあん人馴ひとなれない継子をあわれんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮けいぶの念がいつもの通り起った。

        五十五

 彼らの席を立ったのは、男達のくゆらし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くもたまった頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時なんじだろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間をとらえた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
 いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐそのあとを自分で云い足した。
先刻さっきから伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
 この云訳いいわけをお延は腹の中でうそらしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠こんきょのある推定であった。彼女は食堂へ這入はいって夫人に挨拶あいさつをした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、うやうやしく頭を下げて、「毎度津田が御厄介ごやっかいになりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言ひとことも口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前にさんちまえ津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
 お延は夫人のこの挙動を、自分がきらわれているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振そぶりを、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負ひいきにしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目としてはばかられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然ひとに好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一ゆいいつの共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸につかえていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際まぎわになって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、うそらしいという疑をいだくだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。おかげさまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日こんち
今日きょう? それであなたよくこんな所へ来られましたね」
「大した病気でもございませんものですから」
「でも寝ていらっしゃるんでしょう」
「寝てはおります」
 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。ひとに対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入おはいりになって」
「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階がいておるので、五六日ごろくんちそこへおいていただく事にしております」
 夫人は医者の名前と住所ところとをいた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、なおるまでよく養生するように、そう云って下さい」
 お延は礼を云った。
 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。

        五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾はらんも来なかった。ただ褞袍どてらを着て横臥おうがした寝巻姿ねまきすがたの津田の面影おもかげが、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那せつなに、「いや疳違かんちがいをしちゃいけない、何をしているかちょっとのぞいて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。だまされたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打したうちをしたくなった。
 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後ゆうめしごに起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後二様にようの自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前をかえさない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓テーブル晩餐ばんさんを共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、このにがい酒をかも醗酵分子はっこうぶんしとなって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかとかれると、彼女はとても判然はっきりした返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸ふめいりょうな材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念けねんいだかない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女はすべての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
 芝居がねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑ごたごたした間際まぎわに、そんな機会の来るはずもないと、始めからあきらめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念のかげから、ちょいちょい首を出した。
 茶屋は幸にしてちがっていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。えりに毛皮の付いた重そうな二重廻にじゅうまわしを引掛ひっかけながら岡本がコートにそでを通しているお延をかえりみた。
「今日はうちへ来て泊って行かないかね」
「え、ありがとう」
 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶あいさつをしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にもあきれますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着むとんじゃくなのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目まじめな調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮はらないから」
「泊っていけったって、あなた、うちにゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」
 そんならすが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介ごやっかいになった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正のいたりだね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦おそろいで、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極きょうえつしごく
 先刻さっき聞いた役者の言葉を、小さな声であとへ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さにあきれたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口かどぐちの方へ歩いて行った。みんなもそのあといて表へ出た。
 車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前うちへ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にさんちじゅうにね。少しきたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日あしたにでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
 四人の車はこの英語を相図あいずした。

        五十七

 津田のうちとほぼ同じ方角に当る岡本の住居すまいは、少し道程みちのりが遠いので、三人のあといたお延の護謨輪ゴムわは、小路こうじへ曲る例のかどまでいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女はほろの中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女のくるまはもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種のさみしさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知われしらず調子をはずして、一人圏外けんがいにふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分のうちの玄関を上った。
 下女は格子こうしの音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶てつびんさえいつものように快い音を立てなかった。今朝けさ見たと何の変りもないへやの中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁ほうようし始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体からだを、長火鉢ながひばちの前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛たわいなく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然はっきりして立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、くずれかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬかたへ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽ろうばいさせた。
 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我ひがの比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母たのもしかった。
「早く玄関をめてお寝。くぐりのかきがねはあたしがかけて来たから」
 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢ひばちの前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭をした。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯をかした。しかし夜更よふけに鳴る鉄瓶てつびんの音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなくせまってくる孤独の感が、先刻さっき帰った時よりもなおはげしくつのって来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起すさびしみに比べると、はるかに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、なつかしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」
 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日あしたは何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸にくっついていなかった。二人の間に何だかはさまってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間ちゅうかんにあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。なかば意地になった彼女の方でも、そんならよろしゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈えしゃくなく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じをいだかずにすんだろうにという気ばかり強くした。
 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜ゆうべ書きかけた里へやる手紙のつづきを書こうと思って、筆をりかけた彼女は、いつまでっても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭をまとめる事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟しげきするので、彼女はらされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。

        五十八

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時なんじだか分らない朝の光で眼をました。雨戸の隙間すきまから差し込んで来るその光は、明らかにいつもより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕ゆうべの衣裳を見た。上着と下着と長襦袢ながじゅばんと重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上にくずれているので、そこには上下うえした裏表うらおもての、しだらなく一度に入り乱れた色のかたまりがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いたはじを出した金糸入りの檜扇模様ひおうぎもようの帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
 彼女はこの乱雑な有様を、いささかあきれた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面きちょうめん女徳じょとくの一つと心がけて来た自分の所作しょさかと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田にとついで以後、かつてこんな不体裁ふしだらを夫に見せたおぼえのない彼女は、その夫が今自分と同じへやの中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、いつもの通りうちにいたならば、たといどんなに夜更よふかしをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼がめると共にね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑けいべつしない訳に行かなかった。
 それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕ゆうべの不首尾をつぐなうためか、自分の知らないに起きてくれたお時の足音が、先刻さっきから台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
 そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだんゆるんで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支さしつかえなかろうと考え直すようになった。彼女の関節ふしぶしが楽々しだした。彼女はいつにないのんびりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟ひっきょう夫が留守のおかげだと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起ねおきを共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒かくせいは無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕ゆうべの自分をあざけるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
 彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗きれいに片づけた。津田がいないので、だいぶはぶける手数てすうを利用して、下女もわずらわさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞みじまいをして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
 彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先にえらばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥おうが状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期ははずれなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦にき返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌きげんを悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損しぞんをさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕ゆうべ吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口でらしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」
 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけえて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口ひとくち報告的に通じただけで、またうちへ帰った。

        五十九

 お時の御給仕で朝食兼帯あさめしけんたいひるぜんに着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王クイーンらしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反してむさぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女をとらえた。身体からだのゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
旦那様だんなさまがいらっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋おさむしゅうございます」
 お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、よろしゅうございましょう」
「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がでございます」
「お前がさ」
「飛んでもない」
 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味にこたえた。彼女はすぐ黙ってしまった。
 三十分ほどって、お時の沓脱くつぬぎそろえたよそゆきの下駄げた穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女をかえりみた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」
 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」
 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」
 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
 岡本の住居すまいは藤井の家とほぼ同じ見当けんとうにあるので、途中までは例の川沿かわぞいの電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日にさんち前の晩、酒場バーを出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来るもつった感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父おじうちへ行くには是非共のぼらなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
昨日さくじつは」
「どこへ行くの」
「お稽古けいこ
 去年女学校を卒業したこの従妹いとこは、余暇ひまに任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
 彼らはこんな楽屋落がくやおち笑談じょうだんをいうほど親しい間柄あいだがらであった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心かんじんの当人には、いっこう諷刺ふうしとしての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」
 彼女はただこう云って機嫌きげんよく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすからいやよ」
「また何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播でんぱんしたこの悪口わるくちは、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とをぜたその人に対するいつもの感じが起った。

        六十

 岡本の邸宅やしきへ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出みいだした。羽織も着ずに、兵児帯へこおびをだらりと下げて、その結び目の所に、うしろへ廻した両手を重ねた彼は、そばくわを動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」
 植木屋の横には、大きな通草あけびつるが巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へわせようというんだ。ちょっと好いだろう」
 お延は網代組あじろぐみの竹垣の中程にあるその茅門かやもんを支えているちょうななぐりの柱と丸太のけたを見較べた。
「へえ。あの袖垣そでがきの所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代りあすこへは玉縁たまぶちをつけた目関垣めせきがきこしらえたよ」
 近頃身体からだに暇ができて、自分の意匠いしょう通り住居すまいを新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急にえていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答あしらっているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。おなかいて」
笑談じょうだんじゃない、叔父さんはまだ午飯前ひるめしまえなんだ」
 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「すみ、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」
「だから先刻さっきみんなといっしょに召上めしやがれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一もの区切くぎりのあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶あいさつも相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対いっついの老夫婦と、結婚してからまだ一年とたない、云わば新生活の門出かどでにある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達もながの月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終すえしじゅうまで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気あぶらけが抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来によこたわる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢つやを持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、しんに恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸にいているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前にえられたぜんに向って胡坐あぐらきながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」
 飯櫃おはちがあいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭パンだからできないよ」
 下女が皿の上に狐色にげたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんはなさけない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想かわいそうだろう」
 糖尿病とうにょうびょうの叔父は既定の分量以外に澱粉質でんぷんしつ摂取せっしゅする事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐がなまのままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとするなさけなさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」
 叔父は叔母をかえりみた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」

        六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没しゅつぼつするこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
 肥った身体からだに釣り合わない神経質の彼には、時々自分のへやに入ったぎり、半日ぐらい黙って口をかずにいる癖がある代りに、ひとの顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時かたときもいられないといった気作きさくな風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的なおもいやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰てもちぶさたを避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効せいこうに少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上きわめて有利な彼のこの話術は、その所有者の天からけた諧謔趣味かいぎゃくしゅみのために、一層派出はでな光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼のそばにいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌きげんのいい時に、彼を向うへ廻して軽口かるくちくらをやるくらいは、今の彼女にとって何の努力もらない第二の天性のようなものであった。しかし津田にとついでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初つつしみのために控えた悪口わるくちは、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫をあざむいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこにむかしの自由をおもい出させる或物があった。彼女は生豆腐なまどうふを前に、胡坐あぐらいている剽軽ひょうきんな彼の顔を、過去の記念のようになつかし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込しこみじゃないの。津田に教わったおぼえなんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくにきらう叔母の方を見た。はたから注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知そしらぬ顔をして取り合わなかった。すると目標あてはずれた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなにしらばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目まじめくさっておきになるの」
「少しこっちにも料簡りょうけんがあるんだ、返答次第では」
「おおこわい事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶くどいのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、あごでしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどおあつらえむきかも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸をでた。彼女は急に悲しい気分にとらえられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分からかいはんぶんの叔父の笑談じょうだんを、ただ座興から来た出鱈目でたらめとして笑ってしまうには、お延の心にあまりすきがあり過ぎた。と云って、その隙をくまでつくろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中にまろうとしたところを、彼女はまたたきでごまかした。
「いくらおあつらえむきでも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢つやのある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

        六十二

 親身しんみの叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛かわいがられているという信念を常にもっていた。洒落しゃらくでありながら神経質に生れついた彼の気合きあいをよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分たがわず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢としの若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作しょさを眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効せいこうするに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間にこなしつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間にそそがれた。こんな時に、叔父ならうれしがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一ちくいち叔父に話してしまえと命令した。その命令にそむくほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
 こうして叔父夫婦をあざむいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念けねんもなく彼女のためにだまされているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体ありてい見透みすかした叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間によこたわる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密ちみつな、無頓着むとんじゃくのようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田をきらっていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」とかれた裏側に、「じゃおれのようなものはきらいだったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味きまずせきを通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮はらないから」と親切に云ってくれた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分にれなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯せいいっぱい愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口わるくちが始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬しっとから来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚おのぼれは、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌あいづちを打ってくれた。……
 叔父の前に坐ったお延は自分のうしろにあるこんな過去をおもい出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談じょうだんのうちに、何か真面目まじめな意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」
 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

        六十三

 感傷的の気分を笑にまぎらした彼女は、その苦痛からのがれるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
昨日きのうの事は全体どういう意味なの」
 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」
 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣めづかいをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。やぶから棒にそんな事いたって。ねえ叔母さん」
 叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気がいてるからっておっしゃるんだよ」
 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論朧気おぼろげながらある臆測おくそくがあった。けれどもいられないのに、悧巧りこうぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉はすはでなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まああてて御覧。たいてい見当けんとうはつくだろう」
 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色けしきを見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
 お延の推測を首肯うけがう前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方がすみより悧巧だね」
 こんな事で、二人のに優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評ひやかした。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」
「お前も御賞おほめにあずかったって、あんまりうれしくないだろう」
「ええちっともありがたかないわ」
 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋あっせんぶりがまたえがいだされた。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終しじゅう継子さんと、それからあの三好さんてかたを、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事おびただしいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋かんぶくろかぶった猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしてもとくだよ。少くとも当世向とうせいむきだ」
いやにしゃあしゃあしているからでしょう。何だかめられてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効ふせいこうに終った、昨夕ゆうべの会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従姉いとこじゃないか」
 ただ親類だからというのが唯一ゆいいつの理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」
 叔父の目的中には、昨夕ゆうべの機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切はっきり聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性きしょうがそこに現われているように思って、あんに彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかとうらんだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしそのあとから、吉川夫人と自分との間によこたわる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟ひっきょうどうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕かんじょの念も起って来た。

        六十四

 お延はその問題をそこへほうしたまま、まだ自分のに落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味あいだったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値ねうちは充分あるだろう」
「ええ、有るには有るわ」
 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物いちもつを胸にしまんでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利めききをしてもらおうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」
 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目まじめな相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目をうけたまわったのね。光栄の至りだ事」
 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子をおさえた。
「あたしのようなものが眼利めききをするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だからみんながきたがるんだよ」
冷評ひやかしちゃいやよ」
 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分にびる一種の快感を味わった。それは自分が実際ひとにそう思われているらしいという把捉はそくから来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面てきめんの事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日こんにちに至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違かんちがい痕迹こんせきで、すでにそこここよごれていた。畢竟ひっきょう夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父にあおられてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際つきあって見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男のぐさだろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよくうまい事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
 叔母はいつものようにお延に加勢かせいしなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言をいる気色けしきを見せない代りに、叔父の悪強わるじいもとめなかった。始めて嫁にやる可愛かわいい長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打ねうちは充分あるといった風も見えた。お延はあたさわりのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」
 そのあとを待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するようにいた。
「それっきりかね」
「だって、あたしあのかた一軒いっけん置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言ひとことで、ずばりと向うの急所へあたるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」
「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚がらされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚どんかくだけよ」

        六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪こうおを改めるはずがないという事もよく承知していた。だからむつましそうな津田と自分とを、彼は始終しじゅう不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損みそくなったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳ようえいするために、彼の心に下層にいつも沈澱ちんでんしているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃しつこく聴こうとするのだろう」
 お延はしかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、あんに叔父から目指めざされているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延をいて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様だんなさまの感化かな。不思議なもんだな」
「あなたがあんまりいじめるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
 叔母の態度は、叔父をたしなめるよりもむしろお延を庇護かばう方に傾いていた。しかしそれをうれしがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫をえらんだ当時の事をおもい起さない訳に行かなかった。津田を見出みいだした彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもととつぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡りょうけんをよそにして、他人の考えなどを頼りたがったおぼえはいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」
肝心かんじんの当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」
「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸によこたわる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理ロジックがすぐ彼女の頭にひらめいた。「自分の結婚だって畢竟ひっきょうは似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、あきれたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「とにかくつぎが是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧りこうだと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところがまたそれはいやだというんだ。是非黙っててくれというんだ」
「なぜでしょう」
 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父はさえぎった。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心せいしんがあっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
 お延は初めて叔父にいられる意味を理解した。

        六十六

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性にもとづ牽引性けんいんせい以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味にちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でもに受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起ねおきを共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇ふこの心から、柔軟性じゅうなんせいに富んだこの従妹いとこを、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」
 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやりおおせるだけの活きた眼力がんりきを自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、うらやみから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まぎわまで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘のほのおのごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外にしている未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えはごうも変らなかった。彼女はくまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福をける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜ひょうぼうしていた。
 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台におどらせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、つらいよりもむしろ快よくなかった。それはんなが寄ってたかって、今まで糊塗ことして来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」
 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向ってたたきつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾しそうして、自分に当擦あてこすりをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
 ぜんを引かせて、叔母の新らしくれて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんなったわだかまりが蜿蜒うねくっていようと思うはずがなかった。造りたての平庭ひらにわを見渡しながら、晴々せいせいした顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になったや石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へかえでを一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴がいてるようでおかしいからね」
 お延は何の気なしに叔父のしている見当けんとうを見た。隣家となり地続じつづきになっている塀際へいぎわの土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪もうそうやぶをこんもりしげらした根のあたりが、叔父のいう通りまばらにいていた。先刻さっきから問題を変えよう変えようと思って、あんに機会を待っていた彼女は、すぐ気転をかした。
「本当ね。あすこをふさがないと、さもさもやぶこしらえましたって云うようで変ね」
 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

        六十七

 それは叔父が先刻玄関先でくわを動かしていた出入でいりの植木屋に呼ばれて、ちょっと席をはずしたあと、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子ゆりこはじめうわさに始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方にすべり込みつつあった。
慾張屋よくばりやさん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子のけた渾名あざなで継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちではくまで放恣ほうしなくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たようにすくんでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭というかごの中で、さも愉快らしくさえずる小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古けいこに行ったの」
 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹いとこの多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝しゅしょうらしい顔をしてなるほどと首肯うなずかなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人りょうじんに対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古けいこがいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女をくするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦まさつするには相違なかった。しかし怜悧れいりすますものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のおかげでそれを今日こんにちに発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」
 従妹いとこのどこにも不平らしい素振そぶりさえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。いて解釈しようとすれば、彼らはめいと娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜くやしくなった。そういう考えがまた時々発作ほっさのようにお延の胸をつかんだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えないそでを顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けないなぞのように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性しんぱいしょうでないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただうちにいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前とつぎとは……」
 中途でめた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸どうきがしたからである。
昨日きのうの見合に引き出されたのは、容貌ようぼうの劣者としてあんに従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火せっかのようなこの暗示がひらめいた時、彼女の意志も平常へいぜいより倍以上の力をもって彼女にせまった。彼女はついに自分をおさえつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんはとくかたね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々すきずきだからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側えんがわへ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。

        六十八

 すると今までおさえつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。くまで機嫌きげんの好い、飽くまで元気にちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟しげきした。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
 彼女はやぶから棒にこう云わなければならなかった。今日こんにちまで二人の間に何百遍なんびゃっぺんとなく取り換わされたこの常套じょうとうな言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻さっきからお延の腹の中にどんなうしお満干みちひがあったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草きざみ雁首がんくびへ詰めた。
「おれの留守るすにまた叔母さんから何かいたな」
 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌ふんどしのミツへはさんでいるか、または胴巻どうまきへ入れてへその上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
 叔父の笑談じょうだんはけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いてまゆ睫毛まつげをいっしょに動かした。その睫毛の先には知らないに涙がいっぱいたまった。勝手を違えた叔父の悪口わるくちもぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管きせる灰吹はいふきを叩いた。叔母も何とかその場を取りつくろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
 叔母の小言こごとは、義理のある叔父の手前を兼た挨拶あいさつとばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女のくちびるふるえた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まできとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしをいじめなくったって……」
 叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれをみんかげで感心しているんだ。だから……」
「そんな事うかがわなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
 沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯からかかたが悪かったのかい」
「いいえ。んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないからくんだ」
「だからみんなあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
 お延はなお泣き出した。叔母は苦々にがにがしい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。うちにいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那だんなから大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
 お延はくちびるんで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評ひやかし過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
 ようやく発作ほっさの去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、ばつの悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。

        六十九

 ところへ何にも知らない継子つぎこが、語学の稽古けいこから帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出みいだした人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶あいさつを返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻さっきから待ってたのよ」
「いや大変なお待兼まちかねだよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁かいかつであった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上にさかさまに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
 しかし下女が襖越ふすまごしに手を突いて、風呂のいた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話せわしない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別にうれしいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
 叔母は婉曲えんきょくに自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃすか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
 お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙ごめんこうむってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行してかえりみない叔母の態度は、お延にとってうらやましいものであった。またいまわしいものであった。女らしくないいやなものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯こうさくした。
 立って行く叔母の後姿うしろすがたを彼女がぼんやり目送もくそうしていると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
 二人は火鉢ひばちや茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

        七十

 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井てんじょうにも残っていた。硝子戸ガラスどめた小さいたなの上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇ばらの花を刺繍ぬいにした籃入かごいりのピンクッションもそのままであった。二人しておついに三越から買って来た唐草からくさ模様の染付そめつけ一輪挿いちりんざしもそのままであった。
 四方を見廻したお延は、従妹いとこと共に暮した処女時代のにおいを至る所にいだ。甘い空想にちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然こつぜんあざやかなほのおに変化した自己の感情の前に抃舞べんぶしたのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯ガスがあったから、ぱっと火がいたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。かえりみるとその時からもう半年はんとし以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいはきわめて現実化されにくいものらしくなって来た。お延の胸のうちにはかすかな溜息ためいきさえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
 彼女はこういう観念の眼で、自分の前にすわっている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期にはずれた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否のさいが、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
 お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤みくじを引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れてもらいたい様子がありありと見えた。お延は従妹いとこよろこばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのはいやであった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
 お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
 神籤みくじに何の執着もなかったお延は、突然こうして継子とたわむれたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女におもい起させる媒介なかだちであった。弱いもののきょくために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌かっぱつにした。抑えられた手をね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱みくじばこを継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声をはばかりなく出して、遊技的ゆうぎてきな戦いに興を添えた。二人はついに硯箱すずりばこの前に飾ってある大事な一輪挿いちりんざしかえした。紫檀したんの台からころころと転がり出したその花瓶かびんは、中にある水を所嫌ところきらわずけながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意にほうされた可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。

        七十一

 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾ぞうきんを取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたがこぼしたんだから、あなた取っていらっしゃい」
 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャンけんよ」と云い出したお延は、ほそい手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
狡猾ずるいわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
 しまいにお延が負けた時にはこぼれた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗きれいに吸い込まれていた。彼女は落ちつき払ってたもとから出した手巾ハンケチで、れた所を上からおさえつけた。
「雑巾なんかりゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
 彼女は転がった花瓶はないけを元の位置に直して、くだけかかった花を鄭寧ていねいにその中へし込んだ。そうして今までの頓興とんきょうをまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
 発作ほっさが静まった時、継子は帯の間に隠した帙入ちついり神籤みくじを取り出して、そばにある本箱の抽斗ひきだしへしまいえた。しかもその上からぴちんとじょうおろして、わざとお延の方を見た。
 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹いとこより早くめてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
 彼女はこう云って継子を見返した。あたさわりのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされるかねての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
 二人は年齢としが違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定かんじょうに入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様だんなさまくなして、未亡人びぼうじんになるとか」
 継子は少し怪訝けげんな顔をしてお延を見た。
「延子さんはうちにいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
 お延は口籠くちごもった。継子は彼女に返答をこしらえる余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃかなわないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

        七十二

 だんだん勾配こうばいの急になって来た会話は、いつのにか継子の結婚問題にすべり込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女なんにょ関係に一日いちじつの長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差しさわりのないきわどい筋の上を婉曲えんきょくに渡って歩いた。
「そりゃ駄目だめよ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、ひとの事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
 お延は答える前にしばらくをおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄てがらをするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯しょうがいにそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返いっぺんも来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目めくら同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目おかめはちもくって云うじゃありませんか。はたにいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりはあらたまった態度で口をき出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
 お延はそこで句切くぎりをおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後をした。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫をえらぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口からほとばしり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好みよしの影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少しあきれたようにお延の顔を見た。「昨夕ゆうべお目にかかったあのかたの事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
 平生つつかくしているお延の利かない気性きしょうが、しだいに鋒鋩ほうぼうあらわして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつあと退さがった。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女はかすかな溜息ためいきさえいた。するとお延が忽然こつぜんまた調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事をうたぐっていらっしゃるの。本当よ。あたしうそなんかいちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯うけがわせた彼女は、後からまたひとごとのように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡りょうけん一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然ばくぜんと自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。

        七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音のぬしががらりとへやの入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶あいさつした。
 彼女の机をえた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手のすみであった。お延が津田へ片づくや否や、すぐそのあとへ入る事のできた彼女は、従姉いとこのいなくなったのを、自分にとって大変な好都合こうつごうのように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴のきそうになった黒い靴足袋くつたびの親指の先を、手ででていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少しをおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相かわいそうだと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
 こう云った百合子は年上の二人と共に声をそろえて笑った。そうしてはかまも脱がずに、火鉢ひばちそばへ来てその間にすわりながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子もちがしを食べ出した。
「今頃おツ? このお皿を見ると思い出すのね」
 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自めいめいの前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。うまそうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫おっくうだし、そうかってうちに何かあっても、むかしのようにおいしくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
 二人が話しているうちに、百合子は綺麗きれいに木皿をからにした。そうして木に竹をいだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
 お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
 百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
 薄赤くなった継子は急にいもとの方へかかって行った。百合子は頓興とんきょうな声を出してすぐそこを退いた。
「おお大変大変」
 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人でへやを逃げ出して行った。

        七十四

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それからもなくであった。
 一家のものは明るい室に晴々はればれした顔をそろえた。先刻さっき何かにねて縁の下へ這入はいったなり容易に出て来なかったというはじめさえ、機嫌きげんよく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹いとこから、彼がぱくりと口をいて上から鼻の先へ出された餅菓子もちがしに食いついたという話を聞いたのであった。
 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星ほうきぼしが出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問がひらけたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬ローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
 はじめはそれで納得なっとくして黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面はおっこちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨ようしであった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、はたのものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そううまくは行かないよ」
 女連おんなれんが一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕このうちが軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅ならつぶれるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻さっき藤井を晩餐ばんさんに招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一にいて見たくなった。
「一さん藤井の真事まことさんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力でにぎわった。
 みんなを笑わせた真事の逸話のうちに、しものようなのがあった。
 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴をのぞき込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢はいのう背負しょって、尨犬むくいぬの皮でこしらえたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつるすべりそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急にこわくなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへりにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終しじゅう足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂しとげて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧こりこうのようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。

        七十五

 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。いやでも顔を合せなければならない祝儀しゅうぎ不祝儀ぶしゅうぎの席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才じょさいなさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面おうだんめんもあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向くらしむきに不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜ふそんの誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味にかな模細工モザイックで毎日めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
 これらの原因が困絡こんがらがって、叔父は時々藤井のうちへ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義りちぎに叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼をいやがる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。そこまで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶うかつなものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云ってひとをごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟りくつもてあそんでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながらいた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥くたびれた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あらいやだ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
 お延と叔母はこもごもあきれたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこのうちでも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
 親身しんみの叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目まじめになった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終しじゅう引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしてもたす訳に行かないんだ」
 お延の興味は急に退きかけた。叔父の云う事は、自分のうに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合いんようわごうっていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟りくつよ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟へりくつよ」
 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのはいやであった。

        七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏じょうぶつする通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度ひとたび夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏しにくくなる。今までの牽引力けんいんりょくがたちまち反撥性はんぱつせいに変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志ということわざを永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実をげるのは、やがてきたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売うけうりで、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目まじめで、どこからが笑談じょうだんなのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つすべを知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒しんぼうがあると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、あぶらが乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとてもかないっこないからおしよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和をかもすように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切とぎれるのを待って、おもむろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したでよろしい。けたものを追窮ついきゅうはしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものをあわれむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔をよそおって立ち上がった。障子しょうじを開けてへやの外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日あしたにでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女はひろよみにぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽こっけいなもんだ。洒落しゃれだとか、なぞだとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩がらなくってね」
「なるほど叔父さんむきのものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支さしつかえあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
 お延が礼を云って書物をひざの上に置くと、叔父はまた片々かたかたの手に持った小さい紙片かみぎれを彼女の前に出した。
「これは先刻さっきお前を泣かした賠償金ばいしょうきんだ。約束だからついでに持っておいで」
 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よくく薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒へいゆする妙薬だ」
 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体からだはいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱいたまった。

        七十七

 お延は叔父の送らせるというくるまを断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁かわべりの方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
 肥っていて呼息いきが短いので、坂をのぼるときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
 二人は途々夜のけた昨夕ゆうべの話をした。仮寝うたたねをして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父のうちにいたという縁故で、新夫婦二人ふたりぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守るすなんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だがひとりで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯としが年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこのおもいやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日きのうの結果を、今度はかえさせたくないという主意からであった。
 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人がかろうじて別れの挨拶あいさつを交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
 車内のお延は別にまとまった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日きのうからの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩めまぐるしい影像イメジを一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調こんちょうで、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定ねんていしなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効せいこうをもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いているくしを見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
 玄関の格子こうしを開ける音と共に、台所の方からけ出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧ていねいな頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切はっきりした態度を、さも自分の手柄てがらででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女にいた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰もやしなかったろうね」
 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高ちょうしだかな返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口をいた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套がいとうを取りにいらっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延がけば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生よみがえった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作ほっさのようにげてくる滑稽感こっけいかんに遠慮なく自己を託した彼女は、電車のうちから持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

        七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へてて手紙を書いた。一昨日おととい昨日きのうも書きかけてめにしたその音信たよりを、今日は是非ぜひとも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
 彼女は落ちつけなかった。不安からのがれようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻さっきからの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持をまとめて見る事ができそうに思えたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶あいさつから始めて、無沙汰ぶさたの申し訳までを器械的に書きおわった後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息をまとにおかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家せいか父母ふぼに知らせなくってはすまない事項であった。それを差しいて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄あいだがらは、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母ふぼに報知する必要にせまられてはいなかった。けれどもある男にとついだ一個の妻として、それを見極みきわめておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、しかとしたところは手につかめなかった。
 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻さっき電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像イメジは、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根おおね辿たどりついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
今日こんにち解決ができなければ、明日みょうにち解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日みょうごにち解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
 これが彼女の論法ロジックであった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人をくまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
 彼女の気分は少しかろくなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母ふぼの喜こびそうな津田と自分の現況をはばかりなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人のおもむきが、それからそれへと描出びょうしゅつされた。感激にちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
 しまいに筆をいた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削てんさくの必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海げんかいを引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取りつくろっただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。うそや、気休きやすめや、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人をにくみます、軽蔑けいべつします、つばきを吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部うわかわの事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方をあざむいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙あざむきの手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目めくらです。その人こそ嘘吐うそつきです。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
 お延は封書を枕元へ置いて寝た。

        七十九

 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母ちちははの顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日にさんちして、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙いっちつ唐本とうほんを持って、彼女は五六町へだたった津田のうちまで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然つれづれなぐさめるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立ついたてが立ててあった。白い紙の上におどっているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立のうしろから取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都のうちへ来ていた由雄であった。
 二人はもとよりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただうわさで由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
 由雄はその時お延から帙入ちついり唐本とうほんを受取って、なぜだか、明詩別裁みんしべっさいといういかめしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作しょさに違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父あての手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意をいた。彼の遣口やりくち不作法ぶさほうであった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野がさつとか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用いりようの書物を探しに奥へ這入はいった。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延をむなしく引きとめておいたわびを述べた。指定していの本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日あしたにでも取りに来るからと約束してうちへ帰った。
 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手にげた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗さらさの風呂敷に包んで、あたかも鳥籠とりかごでもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人にはえられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩ごばいそんしという四文字よもじあてに、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人べつにんではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方にきつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はそのうたがいぬぐい去るために、その事実をり返さなければならなかった。

        八十

 強い意志がお延の身体からだ全体にち渡った。朝になって眼をました時の彼女には、怯懦きょうだほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起ねおきの悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を退けて、床を離れる途端とたんに、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒あささむ刺戟しげきと共に、まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰たぐった。戸外そとの模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日きのうに引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女にはうれしかった。なまけて寝過した昨日のつぐない、それも満足の一つであった。
 彼女は自分で床を上げて座敷をき出した後で鏡台に向った。そうしてってから四日目になる髪をいた。油でよごれた所へ二三度くしを通して、癖がついて自由にならないのを、無理にひさしつかげた。それが済んでから始めて下女を起した。
 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、ぜんに着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様だんなさまのお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日きのう行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
 お延の言葉遣ことばづかいは平生より鄭寧ていねいで片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。たすきはずして盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になったおぼえのあるその家族は、お時にとっても、興味にちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物のけものにされたような変な結果におちいるからであった。ふとした拍子からそんな気下味きまずい思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴ふいちょうしたがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてそのむねを言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急せっかちだから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好きりょうよしだしね」
 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞せじを受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でそのあとをつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧りこうでも、気がいていても、顔が悪いと男にはきらわれるだけね」
「そんな事はございません」
 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
 お時はあきれた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外そとから誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴ベルが鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声のぬしを判断しようとして首を傾けた。

        八十一

 そでを口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へけ込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさをみ殺そうとして、お延の前でもだえ苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯をめかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取かけとりでも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見すがたみの前にすくんだ彼女は当惑のまゆを寄せた。仕方がないので、今がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更まんざら知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌しんしゃくだの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人にひけを取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間がせまっているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支さしつかえないものとひとりで合点がてんしているらしかった。
 彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵にけられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指めざされているのだろうという説明までして聴かせた。
 彼の談話には気の弱い女に衝撃ショックを与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々こわごわながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかにみちがなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕ゆうべお延とお時をさんざ笑わせた外套がいとうの件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体からだに合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
 お延はすぐ入用いりようの品を箪笥たんすの底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡ためらった彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性きしょうをよく知っていた。着古した外套がいとう一つがもとで、他日細君の手落呼ておちよばわりなどをされた日にはたまらないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったにちがいないんだから。うそなんかきやしませんよ」
 出してやらないと小林を嘘吐うそつきとしてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気はたしかなんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
 お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面きちょうめんですね」と云って小林は笑った。けれどもお延のあんに恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
 お時が自働電話へけつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話でつないだ。ところがその談話は突然なひらめきで、何にも予期していなかったお延の心臓をおどらせた。

        八十二

「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
 お時が出て行くや否や、小林はやぶからぼうにこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、あたらずさわらずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
 小林の云い方があまり大袈裟おおげさなので、お延はかえって相手を冷評ひやかし返してやりたくなった。しかし彼女の気位きぐらいがそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮こりょする男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛とっぴにここかしこをめぐる代りに、時としては不作法ぶさほうなくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力にはかないませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
 お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当けんとうのつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
ひとりものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
 お延は細い眼のうちに、かしこそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをおもらいになるのが、一番捷径ちかみちじゃありませんか」
 小林は頭を真似まねをした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
 お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くてはげしい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これからおちをしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
 駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人なんにょふたり道行みちゆきをお延におもい起させた。そうした濃厚な恋愛をかたどるなまめかしい歌舞伎姿かぶきすがたを、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、ひとの着古した外套がいとうを貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
駈落かけおちをなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰もれていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
 小林はこう云ったなりかしこまった。その態度が全くお延の予期にはずれていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目まじめであった。しばらくをおいてからひとごとのような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界さんがいまで駈落のお供をしてくれるような、じつのある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどうなしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人のいもとがあるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしてもれて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
 お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫からのがれようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果におちいった。

        八十三

 特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うからき返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
 お延は巧みに相手を岐路わきみちに誘い込んだ。
「あなた先刻さっきおっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
 小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
 お延はちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠しょうこでも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終しじゅう薄笑いの影が射していた。けれどもそれはついに本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯からかわれる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気おぼろげながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調しきちょうの階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部そとからのぞいてもとうていわかりこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐ごうりの変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
 小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚そらッとぼける事が上手だから、僕なんざあとてもかなわない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういううまいお手際てぎわをもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
 お延はわざと取り合わなかった。と云って別にうるさい顔もしなかった。愛嬌あいきょうを見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。おびされると知りながら、彼女はついこういってき返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
 小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露ひろうするらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
 お延はさも軽蔑けいべつした調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々にがにがしい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女をなだめるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去にさかのぼって行った。

        八十四

 自分のまだ知らない夫の領分に這入はいり込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心かんじんのところはわざと略してしまった。たとえば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深よふかしをしていたかの点になると、彼は故意にぼかしさって、全く語らないという風を示した。それをけば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥じらしているのではなかろうかという気さえ起した。
 お延は平生から小林を軽く見ていた。なかば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑ぶべつの裏には、まだひとに向って公言しない大きな因子ファクトーがあった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯へんしゅう、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍むせきもののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴ぐちこぼして、いやがらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
 しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物つきものであった。ことにそういう階級にらされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本のうち出入ではいりをするそれらの人々は、みんなその分をわきまえていた。身分には段等だんとうがあるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体あくたいくものにはけっして会った事がなかった。
 お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余るれッらしじゃなかろうか」
 軽蔑けいべつの裏にひそんでいる不気味な方面が強く頭を持上もちやげた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠しょうこにか、またはそれに全くの無頓着むとんじゃくでか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度いちどきに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気をませて、歇斯的里ヒステリでも起されると、あとでまた僕の責任だなんて、津田君にうらまれるだけだから」
 お延はうしろを向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当けんとうに、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児まいごになる気遣きづかいはないから大丈夫です」
 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶をえるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえさえぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌たいくつしのぎに幾らでも先刻さっきの続きを話しますよ。しゃべってつぶすのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰ごくつぶしにゃ、おんなし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊たんぱくでないからね」
 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯うけがわない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法ぶさほうな男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あってもよろしいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」

        八十五

 小林の顔には皮肉のうずみなぎった。進んでも退しりぞいてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振そぶりさえ示した。
「何という陋劣ろうれつな男だろう」
 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼とにらめっくらをしていた。すると小林の方からまた口をき出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたにかせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでもわたしの方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑けいべつされていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻さっきからいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。ごうも変らないのです。これだけはいくら怜悧りこうな奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体ありていに云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
 小林の眼はわっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶんひがんでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能やくざに生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰をうらむ訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像のつばささえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人にいやがられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑けいべつされても存分な讐討かたきうちができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでもはまって、ごうもとらないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
吃驚びっくりしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
 小林は多少溜飲りゅういんの下りたような顔をした。
「奥さんは先刻さっきから僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭なやつだと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
 小林はまた大きな声を出して笑った。

        八十六

 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目まじめさが疑がわれた。反抗、畏怖いふ、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪けんお、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯こうさくしたいろいろなものはけっして一点にまとまる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいにいた。
「じゃあなたは私をいやがらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套がいとうを貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望ほんもうかも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
 お延の細い眼から憎悪ぞうおの光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性きしょうがありありと瞳子ひとみうちに宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡りょうけんから敵打かたきうちをしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になってひとを厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
 小林の筋の運び方は、少し困絡こんがらかり過ぎていた。お延は彼の論理ロジック間隙すきを突くだけに頭がれていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口にまとめて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっしてわないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をしたおぼえがあるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
 小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草たばこを吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高をくくったように落ちついている小林の態度がまたしゃくさわった。そこへ先刻さっきから心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延のわだかまりは、一定した様式のもとに表現される機会の来ない先にまたくずされてしまわなければならなかった。

        八十七

 お時は縁側えんがわへ坐って外部そとから障子しょうじを開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延にみ込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終しじゅう相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸ふめいりょうであった。それから判切はっきり聞こえるところも辻褄つじつまの合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとうあきらめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのままうちへ帰るのがいやだったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
 お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざんいやな思いをさせられたのだと思うと、気をかした下女がかえってうらめしくもあった。
 彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこにえられたあかの金具の光るかさ箪笥だんすの一番下の抽斗ひきだしを開けた。そうして底の方から問題の外套がいとうを取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを繰返くりかえした。
「思ったよりだいぶよごれていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。えりを返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それがいちじるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢ぜいたくも云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
 小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうなそでへ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しいたたじわが幾筋もお延の眼にった。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまたぎゃくった。
「ちょうど好いようですね」
 彼女は誰も自分のそばにいないので、せっかく出来上った滑稽こっけい後姿うしろすがたも、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐あぐらをかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元をめた。
「奥さんのようなこまった事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
 小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭おかげでこの冬も生きていられます」
 彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側えんがわへ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけてひとに笑われないようにしないといけませんよ」

        八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端とたん、小林がうしろを向いた拍子ひょうし、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
 その時小林の太いまゆが一層際立きわだってお延の視覚をおかした。下にある黒瞳くろめはじっと彼女の上にえられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受けるおぼえがないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたはもとより立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
 小林は応じなかった。問答が咫尺しせきの間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
 鋭どい稲妻いなずまがお延の細い眼からまともにほとばしった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
 お延は歯をんだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側えんがわを二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
 小林はのっそり立ちどまった。そうしてゆきの長過ぎる古外套ふるがいとうを着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻さっき云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
 小林はわざと空々そらぞらしい様子をした。はてなと考える態度までよそおって見せた。お延は詰責きっせきした。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。さいの前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗きれいに説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時にはじを恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたにあやまりましょう。そうしたらいいでしょう」
 お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。もし社会にそういう特別な階級が存在するならば
 お延は依然として下を向いたまま口をかなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もそのあとを話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。あわせて取消します。その他もし奥さんの気にさわった事があったら、すべて取消します。みんな僕の失言です」
 小林はこう云った後で、沓脱くつぬぎそろえてある自分の靴を穿いた。そうして格子こうしを開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
 かすかに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段はしごだんけ上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

        八十九

 幸いにお時が下からあがって来なかったので、お延ははばかりなく当座の目的を達する事ができた。彼女はひとに顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
 れた手巾ハンケチたもとへ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗ひきだしを開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用いりようの手荷物をまとめるため、二三日前にさんちまえすでにそこをさがしたのである。彼女は残された封筒だの、物指ものさしだの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧ていねいそろえた。パナマや麦藁製むぎわらせいのいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏しょかの夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤まっかに咲いた日比谷公園の躑躅つつじだの、突当りにかすみせきの見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去のにおいのように、聯想れんそうとしてつきまつわっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机をてたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手をかんにかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応てごたえのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらにまわした。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底にひそんでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。じょうおろさない秘密をそこいらへほうしておくには、あまりにこまぎるのが彼の持前であった。
 お延は戸棚とだなを開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多がらくたが、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。
 再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差じょうさしの中から、津田あてで来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意をいざないつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実のもとに、それへ手を出さなければならなくなった。
 封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置にもどした。
 突然疑惑のほのおが彼女の胸に燃え上った。一束ひとたばの古手紙へ油をそそいで、それを綺麗きれいに庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片かみきれを、津田は恐ろしそうに、竹の棒でおさえつけていた。それは初秋はつあきの冷たい風がはだえを吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分とたないうちに起った光景であった。はしを置くと、すぐ二階から細いひもからげた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火をけていた。お延が縁側えんがわへ出た時には、厚い上包がすでにげて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかといた。津田はかさばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故ほごにして、自分達の髪をう時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙がうずを巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙にむせぶ顔をお延からそむけた。……
 お時が午飯ひるめしの催促にあがって来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。

        九十

 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕でひとぜんに向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張こわばっていた。そのくせ心はまとまりなく動いていた。先刻さっき出かけようとして着換えた着物まで、平生ふだんと違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介なかだちとなった。
 もし今の自分に触れる問題が、お時の口かられなかったなら、お延はついに一言ひとことも云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのがいやさに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳ではしを置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」といた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
 彼女は自分の専断で病院へ行ったわびを述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
 お延はうたぐりの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口いとくちで先へ進んだ。
旦那様だんなさまは驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどいやつだって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判じきだんぱんを始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
 お延は軽蔑さげすんだ笑いをかすかにらした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊おききになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変いやな顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換めしかえをしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評ひやかされました」
 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、ひとうちへお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんなうそだと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまもそばで笑っていらっしゃいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

        九十一

 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼びますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛かわいがりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界きょうがいに達せられるもののように考えていた。人世観といういかめしい名をつけてしかるべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温なまぬるく触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。なんにも執着しない事であった。呑気のんきに、ずぼらに、淡泊たんぱくに、鷹揚おうように、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆるつうであった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟こうせいせきがますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
 器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩ほうとうの酒で臓腑ぞうふを洗濯されたような彼のおもむきもようやく解する事ができた。こんなに拘泥こうでいの少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目まじめに云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味をさとる前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上にそそがなければならなくなった。
 お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯しんしょたいが夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、ひとの知らない気苦労をしなければならなかった。
 器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまでっても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳よっつの子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情のもとに、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりもけていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染しょたいじみたのである。
 こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母ちちははの味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことにあによめ気下味きまずい事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生からつつしんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好はでずきな女と結婚しなかったならばという気が、始終しじゅう胸の底にあった。そうしてそれは身贔負みびいきに過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
 お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦からけむたがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人がいやがるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延がきらいだという一点にまとめられてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢ぜいたくのできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀にはしゅうとがあった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯かんれんしてこの相違すら考えなかった。
 お秀がお延から津田の消息を電話でかされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套がいとうを受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。

        九十二

 前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれたぜんにちょっと手を出したぎり、また仰向あおむけになって、昨夕ゆうべの不足を取り返すために、重たい眼をつぶっていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態にりかけた間際まぎわだったので、彼はふすまの音ですぐ眼をました。そうして病人に斟酌しんしゃくを加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
 こういう場合に彼らはけっして愛嬌あいきょうを売り合わなかった。うれしそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ちんぷすぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹きょうだいでなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用しにくい黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部うわべ所作しょさだけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手にだまし合う手数てかずはぶいて、良心にそむかない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、とりなおさず、愛嬌あいきょうのない顔という事に過ぎなかった。
 第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄あいだがらであった。だから遠慮のらないという意味で、不愛嬌ぶあいきょう挨拶あいさつが苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それがわざわいの元で、互の顔を見ると、互にはじいたくなった。
 ふと首を上げてそこにお秀を見出みいだした津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精ぶしょうと不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着とんじゃくなく、言葉もかけずに、そっとへやの内に入って来た。
 彼女は何より先にまず、枕元にあるぜんを眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しにかえされた牛乳のびんの下に、鶏卵たまごからが一つ、その重みで押しつぶされているそばに、歯痕はがたのついた焼麺麭トースト食欠くいかけのまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗きれいに皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
 お秀はまゆをひそめて、膳を階子段はしごだんあがくちまで運び出した。看護婦の手がかなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食あさめし残骸なきがらは、掃除の行き届いた自分のうちを今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
 今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐようと思ったんですけれども、あいにく昨日きのうは少し差支さしつかえがあって――」
 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄あいだがらを考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟りくつとおらない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、あんに希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振そぶりを見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振そぶりを見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
 津田は後をかずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だってねえさんが、もしひまがあったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。

        九十三

 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口きずぐちの周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏みゃくはくのように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
 彼は一昨日おとといの午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾きょだくを彼から得たお延が、階子段はしごだんを下へ降りて行った拍子ひょうしに起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心のうちで叫んだ。するとにがい記憶をわざと彼のためにかえしてみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉がちぢむ、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉をすられた気持がする、次にそれがだんだん緩和かんわされて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端とたんに一度引いたなみがまたいそへ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶりかえしてくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。めさせようと焦慮あせれば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼はかごの中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分のそばに引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、はげしく鳴らした号鈴ベルの音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受けるいやな筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟しげきに帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のおかげにほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作しょさに対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合あんごうでない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡りょうけんで、二つの間にある関係をこしらえた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
 お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末てんまつを思い起させた。彼はにがい顔をした。
 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「おいやなら病院をおになってから後にしましょうか」
 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しんしゃくしなければならなかった。
「どこか痛いの」
 津田はただ首肯うなずいて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。ねえさんはどうしたんでしょう。昨日きのうの電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のおかげで痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々だだらしく見えて来た。上部うわべはとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのがずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
 津田はゆうに自分をいつわる事ができた。しかしその時の彼は偽るのがいやであった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だからろくな事じゃないのよ。よくって」
 津田にも大よその見当けんとうはついていた。

        九十四

「またあの事だろう」
 津田はしばらくをおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもういつもの通りきたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻さっきから用は今度こんだの次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんないやな顔をなさるんですもの」
 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈えしゃくを加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へとおした。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
 津田の所へは父の方から、お秀のもとへは母のがわから、京都の消息がおもに伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無うむを心のうちで気遣きづかっていたのである。兄妹きょうだいの間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末つきずえの仕払や病院の入費の出所でどころに多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡こんがらかって、離す事のできない事情のもとにある意味合いみあいを、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただかすかに薄笑の影をしまりの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田にはしゃくだった。平生は単に妹であるという因縁いんねんずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟しげきした。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計ひとの感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯しょうがい自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
 お秀はやがてきちりと整った眼鼻をそろえて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
 津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっともうちへはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当けんとうがついて」
 津田は何とも答えなかった。お延のこしらえてくれた※袍どてらえり手探てさぐりに探って、黒八丈くろはちじょうの下から抜き取った小楊枝こようじで、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻さっきからいてるじゃないか」
 お秀はわざと眼をらして縁側えんがわの方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作しょさの代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」

        九十五

 津田はようやくお秀あてで来た手紙の中に、どんな事柄ことがらが書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚さいかくするなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根のつくろいだとか家賃のとどこおりだとかいうのはうそでなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
 彼は沈吟ちんぎんして考えた。山羊髯やぎひげやして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪そくはつきらってまげにばかりいたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場をひとからも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
 お秀には自分の良人おっとの堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
良人うちでも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見をひるがえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作むぞうさにそれを引き受けた堀は、物価の騰貴とうき、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説くどおとしたのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分をいて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極しごく呑気のんきな男であった。約束の履行りこうなどという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行すいこうの時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責きっせきに近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗きれいに消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
 同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪をめた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮こりょに打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。
 不断から派手過はですぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末てんまつを京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫をそそのかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解からのがれる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろあによめのお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったいねえさんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃねえさんが一番気楽でいいわね」
 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、あざやかに見えた。

        九十六

「いったいどうしたらいいんでしょう」
 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑をらす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝なしゅうとさえその奥には控えていた。
「そりゃ良人うちだって兄さんに頼まれて、口はいたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人うちへ対して困るだけだわ」
 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡りょうけんがどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前にはなはだ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
 兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
 津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面くめんするに違ないとでも思っているのか知ら」
「そこなのよ、兄さん」
 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
 かすかな暗示が津田の頭にひらめいた。秋口あきぐちに見る稲妻いなずまのように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質たちのものであった。心のうちで劈頭へきとうに「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、しものような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初にていよく送金を拒絶する。津田が困る。今までのいきがかりじょう堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応いやおうなしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟りくつもあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊たんぱくさがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭きつねくさ狡獪こうかいな所も少しはあった。小額の金に対する度外どはずれの執着心が殊更ことさらに目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口やりくちに感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じようにまゆひそめなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫やしゅうとへの義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度そんたくから成立った父の料簡りょうけんは、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。

        九十七

 感情と理窟のもつった所をごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈じれったくした。しかし彼らは兄妹きょうだいであった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊さっぱりしないところをあんに非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁ふていさいは演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点にくく手際てぎわをお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたっておんなじ事だがね」
「あら、ねえさんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
 お秀の兄を冷笑あざけるような調子が、すぐ津田の次の言葉をおこした。
「できなければ死ぬまでの事さ」
 お秀はついにきりりとしまった口元を少しゆるめて、白い歯をかすかに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯をいじくっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
 津田にとってそれほど容易たやすい解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、またとりなおさず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角いっかくにおいて突きくずすのは、自分で自分に打撲傷だぼくしょうを与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をとひとから笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余ありあまるほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。おのれを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質たちに父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」とほうすように云った後で、彼はまだお秀の様子をうかがっていた。腹の中に言葉通りの断乎だんこたる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤てんびんを働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量しょうりょうした。そうしていっそ二つのうちで後の方をおかしたらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのをあきたらなく思った。兄のうしろに御本尊のお延が澄まして控えているのをにくんだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚みなして、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹ごうはらであった。そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見えいて来たあとでも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心にちていた。彼は成上なりあがりものに近いある臭味しゅうみを結婚後のこの妹に見出みいだした。あるいは見出したと思った。いつか兄といういかめしい具足ぐそくを着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえどもみだりにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人のこしらえかけていた局面を、一度にくずしてしまったのである。

        九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段はしごだんの途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」とき返した。薬局生はりながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶あいさつが、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着おうちゃくにした。芝居へ行ったぎり、昨日きのう今日きょうも姿を見せないお延の仕うちをあんに快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
 彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日あしたの朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方にき着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振そぶりから推して見ると、この類測に満更まんざらな無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛しとやかに自分を驚ろかしに這入はいって来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那いっせつなひらめかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今までこたえに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。ほうっておけ」
 この挨拶あいさつがまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラをむ兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前をはばかって、不断の甘いところを押し隠すために、わざとあによめに対して無頓着むとんじゃくよそおうのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口いとくちを取り上げた時、一方では急込せきこんだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話をてて電車に乗ったのである。それから十五分とたないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅るすたくに押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套がいとうをやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかしひとの外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛とっぴがあった。自暴やけがあった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択せんたくされる恐れがあった。平生から彼を軽蔑けいべつする事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地したじを作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖がいた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
 お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父おじの前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸マッチ一本だって、大きなうちを焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸マッチを抱え込んでいたって。ねえさんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

        九十九

 津田はお秀の口から出た下半句しもはんくを聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとそのあとを待っていた。しかし彼の聞こうとするそのあとはついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取けどられないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作しょさから来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑ひやかされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
 同時に先刻さっきから催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念けねんに制せられた。
 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口いとくちを失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったいねえさんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜくんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
 津田は答えなかった。お秀は穴のくようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃかないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子ひょうしを抜く必要があったので、彼は判然はっきりした返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕けんまくだね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡泊たんぱくでないから駄目よ」
 津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違かんちがいをしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴あいつは僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
 お秀は急にあてはずれたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守るすに誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
 二人は黙らなければならなかった。

        百

 しかし二人はもう因果いんがづけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸からたたき出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座にせまる金の工面くめん、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢におちいっていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
 時間がちょうどこんな愛嬌あいきょうをいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせうちへ帰ったって用はないんだろう」
 お秀は津田のいう通りにした。話は容易たやすく二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹きょうだいらしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹のたしにならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へもぐもうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用いりようのものを」
「そうかい」
 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金をえばにして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄をらす事に帰着した。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻さっきもうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕をらすためにかい、または僕にくれるためにかい」
 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱいめた。津田にはそれが口惜涙くやしなみだとしか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
 今度はあきれた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事はひとかなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌きげんを取り返した方がとくか、またはくしゃりと一度に押しつぶした方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼はおもむろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少しをおいた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのおなかの中には、あたしが京都へ告口つげぐちをしたという事が始終しじゅうあるんでしょう」
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしをかたきにしていらっしゃるんです」
「誰が」
 不幸な言葉は二人の間に伏字ふせじのごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明たいまつのように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。ねえさんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」


底本:「夏目漱石全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1988昭和63年6月28日第1刷発行
親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971昭和46年4月から1972昭和47年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
1999年7月17日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jpで作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。

漣※さざなみ
かきがね
ほのお
※袍どてら



■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
  ルビ処理(ルビの表記を<RUBY>タグに変更)
  行間処理(行間180%)
  段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)
変更作業:里見福太朗
変更終了:平成13年9月