明暗(1〜50)
             夏目漱石


        一

 医者はさぐりを入れたあとで、手術台の上から津田つだおろした。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。このまえさぐった時は、途中に瘢痕はんこん隆起りゅうきがあったので、ついそこがきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日きょう疎通を好くするために、そいつをがりがりき落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑のうちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言うそく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯をめ直して、椅子いすの背に投げ掛けられたはかまを取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、なおりっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活溌かっぱつにまた無雑作むぞうさに津田の言葉を否定した。あわせて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただいままでのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまでっても肉のあがりこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思ひとおもいにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
切開せっかいです。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然てんねんしぜんかれためんの両側が癒着ゆちゃくして来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭うなずいた。彼のそばには南側の窓下にえられた洋卓テーブルの上に一台の顕微鏡けんびきょうが載っていた。医者と懇意な彼は先刻さっき診察所へ這入はいった時、物珍らしさに、それをのぞかせてもらったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったようにあざやかに見える着色の葡萄状ぶどうじょうの細菌であった。
 津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入をふところに収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇ちゅうちょした。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細いみぞを全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わずまゆを寄せた。
わたしのは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上にえた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察た様子で分ります」
 その時看護婦が津田のあとに廻った患者の名前をへやの出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

        二

 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革つりかわにぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛とうつうがありありと記憶の舞台ぶたいのぼった。白いベッドの上によこたえられた無残みじめな自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分のうなり声が判然はっきり聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気をしぼすような恐ろしい力の圧迫と、された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われないはげしい苦痛とが彼の記憶をおそった。
 彼は不愉快になった。急に気をえて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤あらかわづつみへ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛とうつうについて、彼は全くの盲目漢めくらであった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時なんどきどんなへんに会わないとも限らない。それどころか、今げんにどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっとうしろから突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心のうちで叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」
 彼は思わずくちびるを固く結んで、あたかも自尊心をきずつけられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣めづかいに対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道レールの上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日にさんち前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上にめて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼をうしろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動についてひとから牽制けんせいを受けたおぼえがなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれがもらおうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながらうちの方へ歩いて行った。

        三

 かどを曲って細い小路こうじ這入はいった時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白いほそい手を額の所へかざすようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐそばへ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚びっくりした。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上にそそぎかけた。それから心持腰をかがめて軽い会釈えしゃくをした。
 なかば細君の嬌態きょうたいに応じようとした津田はなか逡巡しゅんじゅんして立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれすずめよ。雀が御向うのうちの二階のひさしに巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
洋杖ステッキ
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸こうしどを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫のあといて沓脱くつぬぎからあがった。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢ひばちの前にすわるか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入しゃぼんいれ手拭てぬぐいに包んで持って出た。
「ちょっと今のうち一風呂ひとふろ浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫おっくうになるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭てぬぐいを受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。
「湯は今日はやめにしようかしら」
「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしにまた立ち上った。へやを出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。
「今日帰りに小林さんへ寄ってて貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもうなおってるんでしょう」
「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、あとを聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦のあいだに戻って来たのは晩食ゆうめしが済んで津田がまだ自分の室へ引き取らないよいくちであった。
いやね、切るなんて、こわくって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好かっこうの好いまゆを心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたようにいた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものをことわっちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭おいや?」
 津田は細君の顔を見て苦笑をらした。

        四

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女のまゆ一際ひときわ引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌あいきょうのない一重瞼ひとえまぶちであった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子ひとみ漆黒しっこくであった。だから非常によく働らいた。或時は専横せんおうと云ってもいいくらいに表情をほしいままにした。津田は我知らずこのちいさい眼から出る光にきつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光からね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那せつな的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断しゃだんされた。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
うそよ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中にさんちじゅう端書はがきを出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私もしにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術についてなおくわしい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物できものうみを出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤げざいをかけてまず腸を綺麗きれいに掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口きずぐちへガーゼをめたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜をり上げて明日あしたにしたところで、明後日あさってにしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」
 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着むとんじゃくであると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢ながひばちふちに右のひじたせて、その中に掛けてある鉄瓶てつびんふたを眺めた。朱銅しゅどうの葢の下では湯のたぎる音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川よしかわさんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生ふだんからあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日あしたからすぐ入院しろって云うかも知れない」
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階がいてるもんだから、そこへいる事もできるようになってるんだ」
綺麗きれい?」
 津田は苦笑した。
自宅うちよりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。

        五

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢ひばちりかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれにびようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれからのがれたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊みくびった自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙ってあいふすまを開けて次のへやへ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後うしろから声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配こうばいの急な階子段はしごだんをぎしぎし踏んで二階へあがった。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折しおりはさんであるページ目標めあてにそこから読みにかかった。けれども三四日さんよっか等閑なおざりにしておいたとがたたって、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気のした彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらとひるがえして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠りょうえんという気がおのずから起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日こんにちまでにもう二カ月以上もっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物ぐぶつのように細君の前でののしっていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心をくすぐった。
 しかし今彼が自分の前にひろげている書物から吸収しようとつとめている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多めったに実際の役に立ったためしのない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力としてたくわえておきたかった。他の注意を粧飾しょうしょくとしても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気おぼろげながら見えて来た時、彼は彼の己惚おのぼれいて見た。
「そううまくは行かないものかな」
 彼は黙って煙草たばこを吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早あしばやに階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。

        六

「おいおのぶ
 彼は襖越ふすまごしに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙からかみを開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢ながひばちわきに坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯のいたへやのぞいた彼の眼にそれが常よりも際立きわだって華麗はなやかに見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出はでやかな模様もようとを等分に見較みくらべた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇ひおうぎ模様の丸帯のはじを膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍もめた事がないんですもの」
「それで今度こんだその服装なり芝居しばやに出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延はなんにも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒いまゆをぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作しょさは時として変に津田の心をそそのかすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側えんがわへ出てかわやの戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前をふさぐようにしていた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢ながじゅばんよりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
郵便函ゆうびんばこの中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」
「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」
 御延は玄関の障子しょうじを開けて沓脱くつぬぎへ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」
 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻さっき飯を食う時に坐った座蒲団ざぶとんが、まだ火鉢ひばちの前に元の通りえてある上に胡坐あぐらをかいた。そうしてそこに燦爛さんらんと取り乱された濃い友染模様ゆうぜんもようの色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着ゆきぎの荒い御召おめし縞柄しまがらを眺めながらひとりごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄みえの強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。

        七

「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の間際まぎわになって、こんな事を云って来て……」
「いったいどういう訳なんでしょう」
 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出してひざの上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末にいちまったんだそうだ。それからふさがってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根のつくろいだので、だいぶ臨時費がかさんだから今月は送れないって云うんだ」
 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢ひばちの向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞあてにしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦れんがへいを一丁もこしらえやしまいし」
 津田の言葉にいつわりはなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月まいげつ息子むすこ夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出はで好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達わたしたちが要らない贅沢ぜいたくをして、むやみに御金をぱっぱっとつかうようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」
「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計くらしを覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯としに変りはないかも知れないが、周囲ぐるりはまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだとくから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」
 津田は平生ふだんからお延が自分の父を軽蔑けいべつする事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉をらさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」
 夫の手前老人に対する批評をはばかった細君の話頭わとうは、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語ひとりごとのように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなからちかないよ」
「でもほかにあてがなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
 その時津田はともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」

        八

いやよ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何のよどみもなかった。遠慮と斟酌しんしゃくを通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然められた時のような衝撃ショックを受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃいて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かなけれども落ちついた夫の言葉を、すくって退けるようにさえぎった。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計くらしに困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼をしりぞけたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄みえに制せられたのだという事がようやく津田のに落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴ふいちょうしちゃ困るよ。買いかぶられるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴したおぼえなんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
 津田は追窮ついきゅうもしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切とぎらした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別ふんべつも出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女はきんの入った厚い帯のはじを手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光にかざした。津田にはその意味がちょっとみ込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段さんだんを、嫁に来たての若い細君が、くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑さげすむような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」
 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑げび真似まねをさせたくなかった。お延は弁解した。
ときが知ってるのよ。あのおんなうちにいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書はがきさえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとってうれしい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫のほこりをきずつけるという意味において彼は躊躇ちゅうちょした。
「まあよく考えて見よう」
 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へあがって行った。

        九

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段はしごだんの途中で吉川に出会った。しかし彼はくだりがけ、むこうのぼりがけだったので、ちがい叮嚀ていねい御辞儀おじぎをしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯ひるめしに間もないという頃、彼はそっと吉川のへやの戸をたたいて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草たばこを吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田はもとより表向の用事で、この室へ始終しじゅう出入しゅつにゅうすべき人ではなかった。ばつの悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんならあとにしてくれたまえ。今少し差支さしつかえるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸をめた津田はまた自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返にへんばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使きゅうじいた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻さっき御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入でいりの番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれがれて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務をった。
 時間になった時、彼はほかの人よりも一足おくれて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋ポッケットから時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅うちへ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、うちまで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門をくぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負しょって見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかもみずから重んずるといった風の彼の平生の態度をごうくずさずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえってひとに見せたがるのと同じような心理作用のもとに、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身はくまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

        十

 いかめしい表玄関の戸はいつもの通りまっていた。津田はその上半部じょうはんぶすかぼりのようにまれた厚い格子こうしの中を何気なくのぞいた。中には大きな花崗石みかげいし沓脱くつぬぎが静かに横たわっていた。それから天井てんじょうの真中から蒼黒あおぐろい色をした鋳物いもの電灯笠でんとうがさが下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだためしのない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐそばにある内玄関ないげんかんから案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉こくらはかまを着けて彼の前にひざをついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものとみ込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返していた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生はいやな顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆たばこぼんも運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶あいさつに軽い会釈えしゃくをしたなり席に着いた細君はすぐこういた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまりうちへいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下とししたの男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下めしたの男であった。
「まだうれしいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳はんとしと少しになります」
「早いものね、ついこのあいだだと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもううれしいところは通り越しちまったの。うそをおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊さっぱりとおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定かんじょうです」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

        十一

 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯からかった。機嫌きげんの好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談じょうだんとも真面目まじめとも片のつかない或物がひらめく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質たちに出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥こだわった。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根をじって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的にたかぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮にちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつのにかそこへり込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」
「どうして? あなたがた御年歯おとしを伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないようなき方をしておいて、わざとそのあとをおっしゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物きんもつよ。あなたがその癖をやめると、もっと人好ひとずきのする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭にこたえる痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下みくだしていた。細君は微笑した。
うそだと思うなら、帰ってあなたの奥さんにいて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」
 津田の顔が急に堅くなった。くちびるの肉が少し動いた。彼は眼を自分のひざの上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
 細君は彼の顔をのぞき込むようにしていた。彼はもとよりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気はごうもなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言のうちに何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気にさわったら堪忍かんにんしてちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復かいふくした。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱりとくなのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方がけてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成ろうせいよ。本当に怜悧りこうかたね、あんな怜悧な方は滅多めったに見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。

        十二

 その時二人の頭の上にさがっている電灯がぱっといた。先刻さっき取次に出た書生がそっとへやの中へ入って来て、音のしないようにブラインドをろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉ガスだんろの色のだんだん濃くなって来るのを、最前さいぜんから注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送もくそうした。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬レモン一切ひときれけるようにしてその余りを残りなくすすった。そうしてそれを相図あいずに、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事はもとより単簡たんかんであった。けれども細君の諾否だくひだけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合くりあわせさえつけば」
 彼女はさも無雑作むぞうさな口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日あしたから休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分がひとのために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌きげんのいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのがうれしかった。自分の態度なり所作しょさなりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのをいていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中をやされた刹那せつなに受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己をゆたかにもっていた。彼はその自己をわざとかくして細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君からなぶられる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁にりかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子いすを離れようとした時、細君は突然口をひらいた。
「また子供のように泣いたりうなったりしちゃいけませんよ。大きななりをして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙からかみ開閉あけたてが局部にこたえて、そのたんびにぴくんぴくんと身体からだ全体が寝床ねどこの上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度こんだは大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅くちはばったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞みまいに来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯からかうのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠くちごもって躊躇ちゅうちょした。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

        十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇よいやみの町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうにぎらつく肌合はだあい七宝しっぽう製の花瓶かびん、その花瓶のなめらかな表面に流れる華麗はなやかな模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒あおぐろの中に茶の唐草からくさ模様を浮かした重そうな窓掛、三隅みすみ金箔きんぱくを置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟しげきが、すでに明るい電灯のもとを去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論このうずまく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻さっき彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆いりまめを口に入れた人のように、咀嚼そしゃくしつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸のうちで自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露ばくろした人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯からかうため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来ひとに調戯う事のすきな女であった。そうして二人の間柄あいだがらはその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼をらす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮のらちを平気でまたぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負ひいきにし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端ほりばたを沿うて走るその電車の窓硝子まどガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上にわだかまる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅かたすみに席を取った彼は、窓をすかしてこのさむざむしい秋の景色けしきにちょっと眼を注いだあと、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕ゆうべはそのままにしておいた金の工面くめんをどうかしなければならない位地いちにあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
先刻さっき事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気をかしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干らんかんの下に蹲踞うずくまる乞食こじきを見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套がいとうを着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉ガスだんろの温かいほのおをもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔けんかくは今の彼の眼中にはほとんどはいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

        十四

 津田は同じ気分で自分のうちの門前まで歩いた。彼が玄関の格子こうしへ手を掛けようとすると、格子のまだかない先に、障子しょうじの方がすうといた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚びっくりしたように、薄化粧うすげしょうを施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫のせんを越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気のいた証拠しょうこをもげた。日常瑣末さまつの事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作しょさを、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀ナイフの光のように眺める事があった。小さいながらえているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟とっさの場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳をく気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢ひばちの前には黒塗の足のついたぜんの上に布巾ふきんを掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくにえてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
 津田が一定の時刻にうちへ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。いきおい津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧あいまいなものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
 今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子ようすで解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜ゆうべ吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、あたしあてるわ」
「そうか。偉いね」
 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面くめんをしなければならないという屈託くったくがあった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方ちょうだつかたの胸に浮ばない彼を、なおいらつかせた。
 彼は神田にいるいもとの事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨脹ぼうちょうという名義のもとに、毎月まいげつの不足を、京都にいる父から填補てんぽしてもらう事になった一面には、盆暮ぼんくれの賞与で、その何分なんぶんかを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行りこうしなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初からいさぎよしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重ておもに書くのが得策だろうとも考えた。父母ふぼに心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢つやを着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜ゆうべお前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へあがって机の前に坐った。

        十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗ひきだしからラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆ペンや万年筆でだらしなくつづられた言文一致の手紙などを、自分のせがれから受け取る事は平生ひごろからあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆をいた。手紙を書いてやったところでとうてい効能ききめはあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯やぎひげを生やした細面ほそおもての父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。ふすまを開けて、二階のあがぐちの所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽こっけいに聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前にいきな模様入の半切はんきれひろげて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
 津田は真面目まじめな顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影がした。
ときをちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
 津田は生返事なまへんじをした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがてくぐいて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草たばこを吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方かみがた悪口わるくちを云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意をらした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがたが解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手いってに引き受けたような自信にちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだあとで、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月まいげつ正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」
 彼が父の機嫌きげんそこねないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文でしたため出したのは、それから約十分であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げたあとで、もう一遍読み返した時に、自分の字のまずい事につくづく愛想あいそを尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちでる期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函とうかんさせたあと、彼は黙って床の中へもぐり込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」

        十六

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
昨日きのううちへ来たってね」
「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そうよく病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子こようじを口から吐き出した。それから内隠袋うちがくしさぐって莨入たばこいれを取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸マッチった。あまり気をかそうとしていたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章あわてて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」
 津田は礼を云ってへやを出ようとした。吉川はけむりの間からいた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、あわせをして貰う事にしてあります」
 佐々木は彼の上役うわやくであった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だめだ」
 吉川の言葉はよく彼の気性きしょうを現わしていた。
「都合がよければ明日あしたからにしたまえ」
「へえ」
 こう云われた津田は否応いやおうなしに明日から入院しなければならないような心持がした。
 彼の身体からだが半分戸の外へ出かかった時、彼はまたうしろから呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
 ふり返った津田の鼻を葉巻の好いにおいが急におかした。
「へえ、ありがとう、おかげさまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕ゆうべも岡本と或所で落ち合って、君のお父さんのうわさをしたがね。岡本もうらやましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇ひまになったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
 津田は自分の父がけっしてこれらの人からうらやましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それはもとより自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後じせいおくれですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶あいさつに窮した。向うの口の重宝ちょうほうなのに比べて、自分の口の不重宝ぶちょうほうさが荷になった。彼は手持無沙汰てもちぶさたの気味で、ゆるく消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
 津田はこの子供に対するような、笑談じょうだんとも訓戒とも見分みわけのつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外にのがた。

        十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所からにぎやかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾のれんだの碁会所ごかいしょの看板だのとびかしらのいそうな格子戸作こうしどづくりだのを左右に見ながら、彼は彎曲わんきょくした小路こうじの中ほどにある擦硝子張すりガラスばりの扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴ベルが鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないそのへやは狭いばかりでなく実際暗かった。外部そとから急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅かたすみへ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢ひばち周囲まわりを取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢のふちに片手をかざしたまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へめるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体からだを横にして洋袴ズボン膝頭ひざがしらを重ねたまま。
 電鈴ベルの鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥いちべつのちまた申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛をはばかって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
 この陰気な一群いちぐんの人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろはなやかにいろどられたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ちすくむようにしてこもっているのである。
 津田は長椅子の肱掛ひじかけに腕をせて手を額にあてた。彼は黙祷もくとうを神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
 その一人は事実彼の妹婿いもとむこにほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚びっくりした。そんな事に対して比較的無頓着むとんじゃくな相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶あいさつに窮したらしかった。
 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気にかかっているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、セックスラヴという問題についてむずかしい議論をした。
 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりであとのなさそうに思えた友達と彼との間には、その異常な結果が生れた。
 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃ショックを受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
 すると診察所からこんセルの洋服を着た三十恰好がっこうの男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋かくしから紙入を出して金を払おうとする途端とたんに、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知りごしの津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生にいて下さい。明日あした明後日あさって手術を受けに来て好いかって」
 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗いへやの戸口に現わした。
「今ちょうど二階がいておりますから、いつでも御都合のよろしい時にどうぞ」
 津田はのがれるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張すりガラスばりの大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯がいた。

        十八

 津田のうちへ帰ったのは、昨日きのうよりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚ひあしくに傾いて、先刻さっきまで往来にだけ残っていた肌寒はださむの余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今かどの車屋の軒灯けんとうを明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子こうしを開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段はしごだんを踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方からけ出して来た。
「何をしているんだ」
 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言のうちに自分をきつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭てぬぐいを例の通り彼女の手から受け取って火鉢ひばちそばを離れようとする夫を引きとめた。彼女はうしむきになって、かさ箪笥だんすの一番下の抽斗ひきだしから、ネルを重ねた銘仙めいせん褞袍どてらを出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだおしが好くいていないかも知れないけども」
 津田はけむに巻かれたような顔をして、黒八丈くろはちじょうえりのかかった荒い竪縞たてじま褞袍どてら見守みまもった。それは自分の買った品でもなければ、こしらえてくれとあつらえた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装なりをしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかりうちけなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前にさんちまえの事であった。その上彼はその日から今日きょうに至るまで、ついぞ針を持って裁物板たちものいたの前にすわった細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
きれは買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古おふるよ。この冬着ようと思って、洗張あらいはりをしたまま仕立てずにしまっといたの」
 なるほど若い女の着るがらだけに、しまがただ荒いばかりでなく、色合いろあいもどっちかというとむしろ派出はで過ぎた。津田はそでを通したわが姿を、奴凧やっこだこのような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日あした明後日あさってやって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょにいて行っちゃいけないの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

        十九

 津田のあくあさ眼をましたのはいつもよりずっと遅かった。家のなかはもう一片付ひとかたづきかたづいた後のようにひっそりかんとしていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子しょうじを開けた彼は、そこの火鉢のそばにきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶てつびんが鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊ねぼうをするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、こよみの上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所をしていた。
 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗のぜんに向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥くたびれたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾ふきんろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっといてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚びっくりして夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散けちらす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁はんちょうほど右へ行った所にある自動電話へけつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口がまぐちでも好い」
なんになさるの」
 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
 彼はお延から受取った蟇口を懐中ふところほうんだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分で、もうひるに間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
 津田はそう云いながらわきに抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
 お延は細かい事にまで気をつかわないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かみいどこかと思ったけれども」
 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持ばんの小さい彼の帽子が、かぶるたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日きのうの朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
 彼は蟇口の悪口わるくちばかり云えた義理でもなかった。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶のかんと、麺麭パン牛酪バタを取り出した。
「おやおやこれしゃがるの。そんならときを取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
 やがて好いにおいのするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯あさめしとも午飯ひるめしとも片のつかない、きわめて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田はひとりごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞ぶさたみまいに、ちょっと朝の内藤井の叔父おじの所まで行ってようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

        二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のようにめぐる不便と不利益とにいたく頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父おいいきを通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄あいだがらを説明するものであった。
 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終しじゅう動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
緩慢かんまんなる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳にはさんだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日こんにちまでその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然はっきりしなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面ほそおもてあごの下に、売卜者うらないしゃ見たような疎髯そぜんを垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路へんろみ果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸でついやしたあと、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請ふしんをして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らないに、この閑静かんせいな古い都が、彼の父にとって隠栖いんせいの場所と定められると共に、終焉しゅうえんの土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へしわを寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金がたまったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
 しかし金の重みのいつまでってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終しじゅう東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰ったおぼえのない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来たあとでも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑けいべつされるだけで、いっこうとくにはならないという事をよく承知しているからでもあった。
 実際の世の中に立って、端的たんてきな事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶うかつな人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉をえていうと、彼は迂濶の御蔭おかげ奇警きけいな事を云ったりたりした。
 彼の知識は豊富な代りに雑駁ざっぱくであった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地いちが彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこにおさえつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手ふところでをしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者ぶしょうものに生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。

        二十一

 こういう人にありがちな場末生活ばすえせいかつを、藤井は市の西北にしきたにあたる高台の片隅かたすみで、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々ねんねん建て増される大小の家が、年々彼の眼からあおい色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆ペンを走らす手をめて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅をこしらえて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢かんまんなる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
 津田のうちからこの叔父の所へ行くには、半分道はんぶんみちほど川沿かわぞいの電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関のたすけに依らない方が、彼の勝手であった。
 一時少し前にうちを出た津田は、ぶらぶら河縁かわべりつたって終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所にちていた。向うの高みをおおっている深い木立こだちの色が、浮き出したように、くっきり見えた。
 彼は道々今朝けさ買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対なにぎやかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違すじかいに切断されていた。彼は残酷に在来の家屋をむしって、無理にそれを取り払ったような凸凹でこぼこだらけの新道路のかどに立って、その片隅かたすみかたまっている一群いちぐんの人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
 小肥こぶとりにふとったその男は双子木綿ふたこもめんの羽織着物に角帯かくおびめて俎下駄まないたげた穿いていたが、頭にはかさも帽子もかぶっていなかった。彼のうしろに取り残された一本の柳をたてに、彼は綿めんフラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。このからっぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」
 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風おうふうな言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握ったこぶしをまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」とだまさないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間にはさんで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
 津田は軽蔑けいべつに嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然うしろから彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃ショックを受けた彼はほとんど反射作用のようにうしろをふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧いたずらこぞうらしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章きしょうの着いた制帽と、半洋袴はんズボンと、背中にしょった背嚢はいのうとが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。

        二十二

「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変らずかね」
「どうだか知らない」
 自分がとおぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣てずまつかいの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜いちや作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
 彼は例の袋を片手でぐっと締扱しごいて、再び何か投げ込む真似まねを小器用にしたあと麗々れいれいと第二の玉子を袋の底から取り出した。それでもき足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ないめんフラネルの縞柄しまがらを遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧ていねいに地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個いくつでも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度こんだは一つ生きたとりを出そう」
 津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事まこともう行こう。小父おじさんはこれからお前のうちへ行くんだよ」
 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃうそだよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘をいていつまでも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼のたもとつらまえた。
「小父さん何か買ってさ」
 宅で強請ねだられるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父おじさんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐うそつきじゃないか」
「あいつは玉子は出すがとりなんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」
「じゃキッドの靴さ」
 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事まことの足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのをうちでお父さんが染めたんだよ」
 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄ことがらが、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないでこしらえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策きゅうさく滑稽こっけい的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際てぎわくすぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。

        二十三

「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多めった穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」
「だってみんなが尨犬むくいぬの皮だ尨犬の皮だって揶揄からかうんだもの」
 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみはかすかな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な――靴さ」
 津田はもし懐中が許すならば、真事まことのために、望み通りキッドの編上あみあげを買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算むなざんで自分のふところにある紙入の中を勘定かんじょうして見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替かわせが届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心せけんしんも起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度こんだうちへ来た時、小母おばさんに買ってお貰い。小父おじさんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」
 彼はすかすようにまたなだめるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物はきもので絶えず踏み堅められる結果として、四五年このかた町並まちなみが生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ばすえものとして馬鹿にできないような品が綺麗きれいに飾り立てられていた。真事はその間を向う側へけ抜けて、朝鮮人の飴屋あめやの前へ立つかと思うと、また此方こちら側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立たたずんだ。彼の馳け出す時には、隠袋ポッケットの中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
 彼は隠袋の中へ手をぐっとし込んでてのひらいっぱいにそのビー玉をせて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子ガラス玉がほとばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章あわててそれを追いかけた。そうしてうしろを振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋おもちゃやり込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
すずめならいいが、むやみに人をねらっちゃいけないよ」
「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」
「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これからうちへ行って」
 好い加減をいうとすぐあとから実行をせまられそうな様子なので、津田は生返事なまへんじをしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端かたっぱしから批評し始めた。
「あの岡本ってやつ、そりゃ狡猾ずるいんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」
 話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心のうちで比較した。

        二十四

御前おまい近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「また喧嘩けんかしたな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じゃなぜ行かないんだ」
「どうしてでも――」
 真事まことの言葉にはあとがありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」
「ううん、そんなにくれない」
「じゃ御馳走ごちそうするだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃからかったよ」
 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのがいやになった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
 津田は小首を傾けた。叔父おじが子供を岡本へやりたがらない理由わけは何だろうと考えた。肌合はだあいの相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終しじゅう机に向って沈黙の間に活字的の気※きえんを天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼はあんにその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少頑固かたくなにした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、ひとから馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分いちぶでも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんにいて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」
「僕いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
 真事は少し羞恥はにかんでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切くぎりを置くような重い口調くちょうで答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でもはじめさんの持ってるものをね、うちへ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」
 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向くらしむきは、彼らの子供が持つ玩具おもちゃの末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請ねだるんだな。みんなはじめさんの持ってるのを見て来たんだろう」
 津田は揶揄からかい半分手をげて真事の背中を打とうとした。真事はばつの悪い真相を曝露ばくろされた大人おとなに近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
うそだよ。嘘だよ」
 彼は先刻さっき津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃をかついだままどんどん自分のうちの方へ逃げ出した。彼の隠袋かくしの中にあるビー玉が数珠じゅずはげしくむように鳴った。背嚢はいのうの中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
 彼は曲り角の黒板塀くろいたべいの所でちょっと立ちどまっていたちのように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路こうじのうちに隠した。津田がその小路を行き尽してきあたりにある藤井の門をくぐった時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣いけがきの間から大事そうに彼を狙撃そげきしている真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。

        二十五

 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子こうしの間から一足の客靴をのぞいて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側えんがわの方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切しきりもないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻えんばなまで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿のの下をくぐった津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出みいだした。障子しょうじ篏入硝子はめガラスに映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部そとから声を掛けた。
「叔母さん」
 叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想あいそというものがなかった。その代り時と場合によると世間並せけんなみの遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんどセックスの感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢としのそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じをひとに与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂きちがいだわ」
 津田は縁側えんがわへ腰をかけた。叔母はあがれとも云わないで、ひざの上にせた紅絹もみきれへ軽い火熨斗ひのしを当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たおきんさんという女が津田にお辞儀じぎをしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団ざぶとん縁側えんがわへ持ってようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
 気のなさそうな生返事なまへんじをした叔母は、お金さんが生温なまぬるい番茶を形式的に津田の前へいで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄よしおさんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切でうそかない人だから」
 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞せじじゃありません、本当の事です」
 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳ききみみを立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラだまを入れて打つと危険あぶないから」
 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りのとりを打つに違ないから。構わないからたまだけ取り上げて来て下さい」
 お金さんはそれを好いしおに茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢ひばちし込んだこてをまた取り上げた。しわだらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗きれいに平たく延びて行くのを何気なくながめていた津田の耳に、客間の話し声が途切とぎれ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」

        二十六

 津田は客間にいる声の主を、すわったまま突き留めようとつとめて見た。やがて彼は軽く膝をった。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
 叔母は嫣然にこりともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んでいやにお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
 想像の眼で見るにはあまりに陳腐ちんぷ過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の服装なりもおのずと思い出された。白縮緬しろちりめんえりのかかった襦袢じゅばんの上へ薩摩絣さつまがすりを着て、茶の千筋せんすじはかま透綾すきやの羽織をはおったそのこしらえは、まるで傘屋かさや主人あるじが町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯こわめしの折でもふところに入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
 津田は微笑しながら叔母にいた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云いにくい事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目まじめな話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、あとを引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「おきんさんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあうまく行きそうなのさ」
 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥はしゃぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯ふざけ空虚からっぽうな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡りょうけんで貰ったの」
 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当けんとうがつかなかった。
「そんな料簡りょうけんって、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づけるほうの身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」
 藤井は四年ぜん長女を片づける時、仕度したくをしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談がまとまるとすれば、それは正に三人目の出費ものいりに違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向くらしむきに多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。

        二十七

 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事まこと穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合ふところつごうで見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通をあおいで、彼らの経済に幾分の潤沢うるおいをつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替かわせが届いてくれればいいという期待にしばられて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄よしおさん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんをもらったの、お前さんは」
「まさか冗談じょうだんに貰やしません。いくら僕だってそうふわついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相かわいそうだ」
「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等だんとうがあるもんだからね」
 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避たじろぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目まじめなところもありますからね」
「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」
 こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあしましょう。今さら云ったって始まらない事だから」
 叔母は先刻さっき火熨斗ひのしをかけた紅絹もみきれ鄭寧ていねいに重ねて、濃い渋を引いた畳紙たとうの中へしまい出した。それから何となく拍子抜ひょうしぬけのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢ぜいたく過ぎるよ」
 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終しじゅうこう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
服装なりや食物ばかりじゃないのよ。心が派出はでで贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走ごちそうはないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食こじきじゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目まじめさが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」
 この時津田の胸をかすめて、自分の従妹いとこに当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、そののち夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓まゆみが今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
 この二人の従妹いとこのどっちも、貰おうとすれば容易たやすく貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云ってましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄しなかばんふたを開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。

        二十八

 奥の四畳半で先刻さっきからおきんさんに学課の復習をしてもらっていた真事まことが、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語フランスごの読本をさらい始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切くぎりを置いて読み上げる小学二年生の頓狂とんきょうな声を、いつもながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐたもとに入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音にうながされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居いずまいを直して叔父に挨拶あいさつをしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服をこしらえたじゃないか」
 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合じあい背広せびろを着ていた。いつもと違ってその洋袴ズボンの折目がまだ少しもくずれていないので、誰の眼にも仕立卸したておろしとしか見えなかった。彼は変り色の靴下をうしろへ隠すようにして、津田の前にすわり込んだ。
「へへ、冗談じょうだん云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子まどガラスの中に飾ってあるぞろいくくりつけてあった正札を見つけて、その価段ねだん通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢ぜいたくやから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
 津田は叔母の手前重ねて悪口わるくちを云う勇気もなかった。黙って茶碗ちゃわんを借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作しょさを眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
 今日こんにちまで病気という病気をしたためしのない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病しっぺいとほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩ごましおだらけのひげでた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々じじむさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病わくびょう同源どうげんだの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事をおもい出すと、それが病気にかからない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽こっけいに感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現にわたくしなんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃかからないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理ふろんりな断案は、云い手が真面目まじめなだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
 薄暗くなったへやの中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチをねじった。

        二十九

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢さらこばちの音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
 津田は明日あしたの治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走ごちそうが足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、またしりえた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君のうちへ行ってくわしい話をするがね」
「しかし僕は明日あしたから入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしくいた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの掘さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへかよったのを小林はよく知っていたのである。
 彼のくわしい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻さっき叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心をそそられた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母のこしらえてくれた肉にもさかなにも、日頃大好な茸飯たけめしにも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭パンと牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間にはさまるここいらの麺麭に内心辟易へきえきしながら、また贅沢ぜいたくだと云われるのが少しこわいので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿うしろすがたを見送った。
 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの今度こんだの縁がまとまるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
 叔父はのなさそうな返事をした。
至極しごくよさそうに思います」
 小林の挨拶あいさつも気軽かった。黙っているのは津田と真事まことだけであった。
 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父のうちで会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口はいた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田はこういってしかるべき理窟りくつが充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
 叔父は少し機嫌きげんを損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

        三十

 それでも座はしらけてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急にき止められたように、誰も津田の言葉をいで、順々にあとへ送ってくれるものがなくなった。
 小林は自分の前にある麦酒ビール洋盃コップして、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事にいた。
真事まことさん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
にがいから僕いやだよ」
 真事はすぐねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それをしおにははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
 すぐ立って奥の四畳半へけ込んだ彼が、そこから新らしい玩具おもちゃを茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母もうれしがっているわが子のために、一言いちごん愛嬌あいきょうを義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺おやじを責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうかあきらめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手にります」
「見て来たような事を云うな」
 空気銃の御蔭おかげで、みんながまた満遍まんべんなく口をくようになった。結婚が再び彼らの話頭にのぼった。それは途切とぎれた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前とちがった気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁ふえんになるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終すえしじゅう和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て来た世の中を正直にまとめるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅いちぐうにお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目まじめさを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢ぜいたくな事を、我々風情ふぜいが云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目ふまじめという疑念を塗りつぶすために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首をひねって考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易たやすく考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出てようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろごのみをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
 先刻さっきから肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。

        三十一

「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母おばおいの対話とは思えないよ」
 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はそのじつ行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心てきがいしんをもって云い合ってるようだが、喧嘩けんかでもしたのかい」
 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事まことを相手にビーだまを転がしていた小林がぬすむようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来にくいかも知れないがね、叔母さんはうそいてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来たあとと同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱ほてった顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃コップを取り上げて麦酒ビールをぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日きょうまでまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
 津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれにがあったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男ぶおとこなんぞあるもんですか」
 津田も小林も吹き出した。ひとりきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
 叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうにで廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だってみんな笑うじゃないか」
 この問答の途中へおきんさんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間ねまの方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃむかしだって恋愛事件はあったよ。いくらおあさこわい顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男にれたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
 叔母は真事の立ったあとへ坐って、さっさと松茸飯まつだけめし手盛てもりにして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達はひとの娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
 津田はかえし半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母ふぼから独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくられたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女あれを愛したおぼえがない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味まず食麺麭しょくパンをにちゃにちゃんだ。

        三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心にまとめようと努力するもののないのに気が付いた。
 餉台ちゃぶだいの上に両肱りょうひじを突いた叔父が酔後すいごあくびを続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物ざんぶつを勝手へ運ばした。先刻さっきから重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月のおもてを過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒ビールの泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終しじゅう自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快もひそんでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
 半日以上の暇をつぶしたこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌かっぱつな吉川夫人とその綺麗きれいな応接間とを記憶の舞台におどらした。つづいて近頃ようやく丸髷まるまげに結い出したおのぶの顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立とうとして小林をかえりみた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇おいとましよう」
 小林はすぐ吸い残した敷島しきしまの袋を洋袴ズボン隠袋かくしへねじ込んだ。すると彼らのぎわに、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰ごぶさたをしている。よろしく云ってくれ。お前の留守にゃひまで困るだろうね、おんなも。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急にあとからつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落しゃれにそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
芝居しばやはどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
 芝居場しばいばなどを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭をいて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
 叔父は笑うだけであった。
兄貴あにきは怒ってるんだろう」
「いったいおひでがまた余計な事を云ってやるからいけない」
 津田は少し忌々いまいましそうに妹の名前を口にした。
「お秀にとがはありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺おやじから送って貰った金を、きちんきちん返すやつがあるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
 津田はとてもかなわないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、うながすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。

        三十三

 戸外そとには風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人のほおに冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明なつゆがしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套がいとうの肩をでた。その外套の裏側にみ込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林をかえりみた。
日中にっちゅうあったかだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
 小林は新調のぞろいの上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先つまさきを厚く四角にこしらえたいかつい亜米利加型アメリカがたの靴をごとごと鳴らして、太い洋杖ステッキをわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者にことならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋くつたびまで新らしくしている男が、ひとの着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活によこたわる、不規則な物質的の凸凹たかびく証拠しょうこ立てていた。しばらくしてから、津田は小林にいた。
「なぜその背広せびろといっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君とおんなじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷てきびし過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷をへだててむこうに見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみをしたたらした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子をうかがった。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝こんもりした竹藪たけやぶが一面にかぶさっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるそのささの葉のこずえは、季節相応な蕭索しょうさくの感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうしてほうってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
 津田はこういって当面の挨拶あいさつをごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいてめないと身体からださわるからね」
 自分に都合の好い理窟りくつを勝手にこしらえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶つれであった。彼は冷かし半分にいた。
「君がおごるのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
 二人は黙って坂の下まで降りた。

        三十四

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直まっすぐに行かなければならなかった。しかしていよく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林はのぞき込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場バーめいた店の硝子戸ガラスどが、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等のうちはここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
冗談じょうだん云うな。いやだよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調くちょう追究ついきゅうした。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部そとへ現わした。
「じゃ飲もう」
 二人はすぐ明るい硝子戸ガラスどを引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅かたすみえらんで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲あたりへ向けた。
 服装から見た彼らの相客中あいきゃくちゅうに、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、しま半纏はんてんの肩へ手拭てぬぐいを掛けたのだの、木綿物もめんもの角帯かくおびめて、わざとらしく平打ひらうちの羽織のひもの真中へ擬物まがいもの翡翠ひすいを通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛はらがけ股引ももひきも一人まじっていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
 小林は津田の猪口ちょくへ酒をぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出はでな彼の背広せびろが、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でもそろっているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶あいさつをする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然とうぜんとしているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
 津田は昂然こうぜんとして両者の差違をかなかった。それでも小林は少しも悄気しょげずに、ぐいぐいさかずきを重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑けいべつしているね。同情にあたいしないものとして、始めから見くびっているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強くっきょう頸筋くびすじを曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐさかずきをそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

        三十五

 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏はんてん角刈かくがりと入れ違に這入はいって来て、二人から少しへだたった所に席を取った。ひさしを深くおろした鳥打とりうちかぶったまま、彼は一応ぐるりと四方あたりを見廻したあとで、ふところへ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまでっても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりとほかの客を、見ないようにして見始めた。その相間あいま相間には、ちんちくりんな外套がいとうの羽根の下から手を出して、薄い鼻の下のひげでた。
 先刻さっきから気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向まむきになって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢をくずさなかった。ほとんど返事にあたいしないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵たんていだぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口ちょくを干した。小林はすぐそれへなみなみといだ。
「あの眼つきを見ろ」
 薄笑いをした津田はようやく口をひらいた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取りつくろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られてしかるべきだかよく考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地きじをうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃ほこりよごれているだけなんだ。つまり湯に入れないからきたないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家じかの弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面をきずつけられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなおおっかけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜ロシアの小説を読んだろう」
 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤げせんであろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取りつくろわない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生にくと、先生はありゃうそだと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣なうつわに盛って、感傷的に読者を刺戟しげきする策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢としを取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
 小林の言葉はだんだんせまって来た。しまいに彼は感慨にえんという顔をして、涙をぽたぽた卓布テーブルクロースの上に落した。

        三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外らちがいからこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙のあとを、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵たんていとして物色ぶっしょくされた男は、ふところからまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広せびろの腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装なりをすると、汚ないと云って軽蔑けいべつするだろう。またたまに綺麗きれいな着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生ごしょうだから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんかこしらえたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸はだかで往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落しゃれだと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気しゃれけはあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田はもとより知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装なりを見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々きんきん都落みやこおちをやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻さっきから苦になっていた襟飾えりかざりの横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
 長い間叔父の雑誌の編輯へんしゅうをしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終しじゅう忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防しんぼうしていたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際いやだよ」
 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口もいた。
「要するに僕なんぞは、生涯しょうがい漂浪ひょうろうして歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者かけおちものになるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢ぜいたくだからさ。僕のは死ぬまで麺麭パンおっかけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
 小林は津田の言葉から何らの慰藉いしゃを受ける気色けしきもなかった。

        三十七

 先刻さっきから二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓テーブルの上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会をとらえてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口きんぐちを一本出してそれに火をけた。行きがけの駄賃だちんらしいこの所作しょさが、煙草たばこの箱を受け取ってたもとへ入れる津田の眼を、皮肉にくすぐったくした。
 時刻はそれほどでなかったけれども、秋のの往来は意外にけやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河のふちをつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へいっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然はっきりした事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
 彼の返事は少し曖昧あいまいであった。津田がそれを追究ついきゅうもしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃしたらいいじゃないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟りくつなだけに、同情にえていそうな相手の気分を残酷に射貫いぬいたと一般であった。数歩ののち、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕はさむしいよ」
 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床かわどこの真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭はしぐいの下で黒く消えて行く時、かすかに音を立てて、電車の通る相間あいま相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
 彼の語気は癇走かんばしっていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯としさえ若くって身体からださえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効せいこうできるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねてばつを合せる態度に出た。
「君が行ったらおきんさんの結婚する時困るだろう」
 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相かわいそうだけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴あにきをもったのが不仕合せだと思って、あきらめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生のうちで使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまたひとごとのように云った。
「旅費は先生から借りる、外套がいとうは君から貰う、たった一人の妹はいてきぼりにする、世話はないや」
 これがその晩小林の口から出た最後の台詞せりふであった。二人はついに分れた。津田はあとをも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

        三十八

 彼の門はいつもの通りまっていた。彼はくぐへ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまたかなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しいかきがねの抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立たたずんだ。新らしい世帯を持ってから今日こんにちに至るまで、一度も外泊したおぼえのない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
 今日きょうの彼は灯点ひともし頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろおのぶ面影おもかげを心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火ともしびを慕って、それを目標めあてに足を運んだのと一般であった。彼の身体からだ土塀どべいに行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
 彼は手をげてかないくぐをとんとんと二つたたいた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜめた」といって詰問するような音が、わたりつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声のぬしは、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側こちらがわで耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチをひねる音が明らかに聞こえた。格子こうしがすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだててない事はたしかであった。
「どなた?」
 潜りのすぐ向う側まで来た足音がまると、お延はまずこう云って誰何すいかした。彼はなおの事き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
 お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊ごめんあそばせ」
 ごとごと云わしてかきがねはずした後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少しあおい顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶てつびんが約束通り鳴っていた。長火鉢ながひばちの前には、例によって厚いメリンスの座蒲団ざぶとんが、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたそのむこうには、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱すずりばこが出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿らでんふたわきけられて、梨地なしじの中にんだ小さな硯がつやつやとれていた。持主が急いで座を立った証拠しょうこに、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨をにじませて、七八寸書きかけた手紙の末をけがしていた。
 戸締とじまりをして夫のあとから入ってきたお延は寝巻ねまきの上へ平生着ふだんぎの羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまりさむしくってたまらなくなったから、とうとううちへ手紙を書き出したの」
 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得なっとくができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒ぶっそうだからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だってげんに締まっていたじゃないか」
とき昨夕ゆうべ締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女のまゆを動かして見せた。日中用のないくぐかきがねを、朝はずし忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻さっき寝かしてやったわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、くぐの事をそのままにして寝た。

        三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜ゆうべ寝るまで全く予想していなかった不意の観物みものによって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟あでやか盛粧せいそうしたお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起ねおきの顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑をらした。
「今御眼覚おめざめ?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡てがらをかけた大丸髷おおまるまげと、派出はで刺繍ぬいをした半襟はんえりの模様と、それからその真中にある化粧後けしょうごの白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼のはかまも羽織も、畳んだなり、ちゃんと取りそろえて、渋紙しぶかみの上へせてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
 津田はまた改めて細君の服装なり吟味ぎんみするように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟おおげさだからね」
 彼はすぐ心のうちでこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群ひとむれとこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だってあたし……」
 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装なりをして、あのお医者様へ夫婦おそろいで乗り込むのは、少し――」
辟易へきえき?」
 お延の漢語が突然津田をくすぐった。彼は笑い出した。ちょっとまゆを動かしたお延はすぐ甘垂あまったれるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍かんにんしてちょうだいよ、ね」
 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女にくるまを二台云いつけるお延の声を、あたかも自分がてられでもするように世話せわしなく聞いた。
 普通の食事を取らない彼の朝飯あさめしはほとんど五分とかからなかった。楊枝ようじも使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものをまとめなくっちゃ」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分のうしろにある戸棚とだなを開けた。
「ここにこしらえてあるからちょっと見てちょうだい」
 よそ行着ゆきぎを着た細君をいたわらなければならなかった津田は、やや重い手提鞄てさげかばんと小さな風呂敷包ふろしきづつみを、自分の手で戸棚とだなからり出した。包の中には試しにそでを通したばかりの例の褞袍どてら平絎ひらぐけ寝巻紐ねまきひも這入はいっているだけであったが、かばんの中からは、楊枝だの歯磨粉はみがきだの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙しょかんようしだの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さいはさみだの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張かさばった大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折しおりはさんであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書ドイツしょを重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部たいぶの書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれがるんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのをってちょうだい」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へめ込んだ。

        四十

 天気が好いのでほろたたました二人は、かばんと風呂敷包を、各自めいめいくるまの上に一つずつ乗せて家を出た。小路こうじの角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入ねんいり身仕舞みじまいをした若い女の口から出る刺戟性しげきせいに富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒かじぼうを握ったまま、等しくおのぶの方へ好奇の視線を向けた。そばを通る往来の人さえ一瞥いちべつの注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。ちゅうぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、はげしい速力でまた彼の待っている所までけて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製のくさりを出して長くぶら下げて見せた。その鎖のはじにはがあって、環の中には大小五六個のかぎが通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作しょさと共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥たんすの上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人そろって外出する時の用心に、大事なものにじょうおろしておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手ひらてでぽんとその上をたたきながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再びけ出した。
 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少しおくれていた。しかしひるまでの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作ぞうさもなく笑いながら津田にお辞儀じぎをしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀くじゃくはどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延がせんを越して、「御厄介ごやっかいになります」とこっちから挨拶あいさつをしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取ったかばんを看護婦に渡して、二階のあがくちの方へ廻った。
「お延こっちだ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中をのぞき込んでいたお延は、すぐ津田のあといて階子段はしごだんあがった。
「大変陰気なへやね、あすこは」
 南東みなみひがしいた二階はさいわいに明るかった。障子しょうじを開けて縁側えんがわへ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干ものほしを見ながら、津田をかえりみた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳はよごれているけれども」
 もと請負師うけおいしか何かの妾宅しょうたくに手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなくいきな昔の面影おもかげが残っていた。
「古いけれどもうちの二階よりましかも知れないね」
 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少くすぶった天井てんじょうだの床柱とこばしらだのを見廻した。

        四十一

 そこへ先刻さっきの看護婦が急須きゅうすへ茶をれて持って来た。
「今仕度したくをしておりますから、少しの間どうぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物はものの音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたしこわいわ、そんなものを見るのは」
 お延は実際怖そうにまゆを動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台のそばまで来て、きたないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄みよりのものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
 津田は真面目まじめなお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人たちあいにんなんか呼んで来るやつがあるものかね」
 津田は女にきたないものを見せるのがきらいな男であった。ことに自分の穢ないところを見せるはいやであった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃしましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「おひるまでに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだっておんなじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 お延は後を云わなかった。津田もかなかった。
 看護婦がまた階子段はしごだんの上へ顔を出した。
支度したくができましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気についていもとの事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山ぎょうさん過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手にがてであった。
 お延は中腰ちゅうごしのまま答えた。
「でもあとでまた何か云われると、あたしが困るわ」
 いてとめる理由も見出みいだし得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延はかすかな声で階下したはばかるような笑い方をした。しかし彼女のあらわした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽こっけいだという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのはすから」
 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。ひるまでにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
 前後して階子段はしごだんを下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

        四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田にいた。
「飲みましたが思ったほど効目ききめがないようでした」
 昨日きのうの津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤げざいから受けた影響は、ほとんど精神的にゼロであったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸かんちょうしましょう」
 浣腸の結果も充分でなかった。
 津田はそれなり手術台にのぼって仰向あおむけに寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わずひやりとした。堅いくくまくらに着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度もまばたきをして、何度も天井てんじょうを見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼をかすめて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらにぬすみ見たのだという心持がなおのことつのった。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
 局部魔睡きょくぶますいは都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。にぶい抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒ぶどうしゅなどを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事はいやであった。
「大丈夫です」
「そうですか。もうじきです」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際てぎわひらめいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
 切物きれものの皿に当って鳴る音が時々した。はさみで肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇いかくした。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼でなまぐさそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むずかゆい虫のようなものが、彼の身体からだを不安にするために、気味悪く血管の中をい廻った。
 彼は大きな眼をいて天井てんじょうを見た。その天井の上には綺麗きれいに着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのしたあとで、医者はまた云った。
瘢痕はんこんが案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
 最後の注意と共に、津田はようやく手術台からろされた。

        四十三

 診察室を出るとき、うしろからいて来た看護婦が彼にいた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――あおい顔でもしているかね」
 自分自身に多少懸念けねんのあった津田はこう云ってき返さなければならなかった。
 創口きずぐちにできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、ひとが想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段はしごだんあがる時には、かれた肉とガーゼとがこすってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずにへやの中に這入はいった。そこには彼の予期通り、白いシーツにつつまれた蒲団ふとんが、彼の安臥あんがを待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地ねずみじのネルを重ねた銘仙めいせん褞袍どてらうしろから着せるつもりで、両手でえりの所を持ち上げたお延は、拍子抜ひょうしぬけのした苦笑と共に、またそれを袖畳そでだたみにしてとこすその方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
 彼女はそばにいる看護婦の方を向いていた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支さしつかえないのでございます。お食事の方はただいまこしらえてこちらから持って参ります」
 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
 お延は躊躇ちゅうちょした。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
 時計のふたを開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上でまないたへ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井てんじょうの上で、時計とにらめっくらでもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再びいた。
「今からうちへ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
 お延の返事はいつまでっても捗々はかばかしくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟しげきを避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼をかなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐあとを云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞にあがりますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作しょさが一度にひらめいた。病院へいて来るにしては派出過はですぎる彼女の衣裳いしょうといい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向ってそそまれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。とこの上に取りそろえて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙しょかんようしだのはさみだの書物だのが彼の眼についた。それは先刻さっきかばんへ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。

        四十四

 津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、むきを変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階のゆかが、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速じんそくに働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢わからずやね」
 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究ついきゅうしていいか見当けんとうがつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
 彼女のまゆがさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変なところが明暸めいりょうに云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格にかかわるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つのが我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延はかすかな溜息ためいきらしてそっと立ち上った。いったんった障子しょうじをまた開けて、南向の縁側えんがわへ出た彼女は、手摺てすりの上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干ものほし隙間すきまなくつるされたワイ襯衣シャツだのシーツだのが、先刻さっき見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声でひとりごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然かごの中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分のそばしばりつけておくのが少し可哀相かわいそうになった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂つぎほのないのに困った。お延も欄干らんかんに身をせたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 そこへ看護婦が二人の食事を持って下からあがって来た。
「どうもお待遠さま」
 津田のぜんには二個の鶏卵けいらんと一合のソップと麺麭パンがついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這はらばいになったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙フォークの手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返いっぺん断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日のひるまでに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
 二人はこういう会話と共に午飯ひるめしを済ました。

        四十五

 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶおくらせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口ひとくち劇場の名を云ったなり、すぐくるまに乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
 小路こうじを出た護謨輪ゴムわは電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただにぎやかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方かけかたが、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体からだうわつきながら早くうごくと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後にふんとして活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
 車上の彼女はうちの事を考える暇がなかった。機嫌きげんよく病院の二階へ寝かして来た津田の影像イメジが、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支さしつかえないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好しこうを始めからもっていない彼女は、時間がおくれたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟しげきであると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
 俥は茶屋の前でとまった。挨拶あいさつをする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯ちょうちんだの暖簾のれんだの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜さくそうした、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間すきまから遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入しゅつにゅうしたがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇くらやみを通り抜けて、急に明海あかるみへ出た人のように眼をました。そうしてこ氛囲気ふんいき片隅かたすみに身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作きょしどうさ共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子つぎこは、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣きづかうように、うしろを向いて筋違すじかい身体からだを延ばしながらお延にいた。
「見えて? 少しこことかわってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
 お延は首を振って見せた。
 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子ゆりこ左利ひだりききなので、左の手に軽い小さな象牙製ぞうげせいの双眼鏡を持ったまま、そのひじを、赤いきれつつんだ手摺てすりの上にせながら、うしろをふり返った。
「遅かったのね。あたしうちの方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶あいさつかたがたお延に何か云うほどの智慧ちえをもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻さっきから姉妹きょうだいの母親が傍目わきめもふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木ひょうしぎの鳴るまでついに一言ひとことも口をかなかった。

        四十六

「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻さっきつぎと話してたの」
 幕が引かれてから、始めてうちくつろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってそのあとを云い足した。
「あたしお母さまとかけをしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤おみくじを引いて」
 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書てんしょの金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙ぞうげを平たくけずった精巧の番号札が数通かずどおり百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入こようじいれを取り扱うような手つきで、短冊形たんざくがたの薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入もんくいり折手本おりでほんりひろげて見た。そうしてそこに書いてあるはえの頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重はぶたえの裏をつけた更紗さらさの袋から取り出して、もったいらしくその上へかざしたりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具おもちゃとしては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的ゆうぎてきに着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時としてちつ入のままそれを机の上から取って帯の間にはさんで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
 お延は調戯半分からかいはんぶん彼女にいて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母がそばから彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤みくじじゃないのよ。お神籤よりもっとえらい予言なの」
「そう」
 お延は後が聞きたそうにして、母子おやこを見比べた。
つぎはね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被おっかぶせるようにとめた。
してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
 今まで黙って三人の会話をいていた妹娘の百合子ゆりこが、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノをさらって上げないから」
 母は隣りにいる人の注意をかないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳がきたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
 百合子はわざとあごを前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
 こう云いながら立つと、継子はうしろの戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
 年歯としの六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それをうまく利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態をくずしていたので、お延の慫慂しょうようは何の効目ききめもなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負しょわなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母たのもしく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
 お延は弱い感投詞かんとうしをむしろさみしそうに投げた。

        四十七

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕あさゆう尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一ゆいいつの責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
良人おっとというものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿かいめんに過ぎないのだろうか」
 これがお延のとうから叔母おばにぶつかって、ただして見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位きぐらいがあった。見方次第では痩我慢やせがまんとも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制けんせいした。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲すもうを取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、ていよく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へさらすような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届ふゆきとどきからでも出たように、はたから解釈されてはならないと日頃から掛念けねんしていた。すべてのうわさのうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍かむずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人おっとあやなして行けないのは、畢竟ひっきょう知恵ちえがないからだ」
 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心をきずつけたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼をそらせた。
 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目つぎめの少し切れた間から誰かが見物の方をのぞいた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。すわったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったりくずしたりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭がうずのように見えた。彼らの或者の派出はで扮装つくりが、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
 土間どまから眼を放したお延は、ついに谷をへだてた向う側を吟味ぎんみし始めた。するとちょうどその時うしろをふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当けんとうへつけて、そこに容易たやすく吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻さっきから知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええみんな知ってるのよ」
 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたしいやだわ。あんなにして見られちゃ」
 お延は隠れるように身をちぢめた。それでも向側むこうがわの双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
 お延はすぐ継子のあとおっかけて廊下へ出た。

        四十八

 そこから見渡した外部そとの光景も場所柄ばしょがらだけににぎわっていた。裏へぬきを打ってはずしのできるようにこしらえたすかしの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下のはじに立って、なかば柱に身をたせたお延が、継子の姿を見出みいだすまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指めざす人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
 うしろからのぞき込むようにしていたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんどれ擦れになって、微笑ほほえみ合った。
「今困ってるところなのよ。はじめさんが何かお土産みやげを買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにくなんにもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
 疳違かんちがいをして、男の子の玩具おもちゃを買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のあるもんなどを着けた花簪はなかんざしだの、紙入だの、手拭てぬぐいだのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口をいてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃ピストルとか木剣ぼっけんとか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんないきな所にあろうはずがないわ」
 売店の男は笑い出した。お延はそれをしおに年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまたのちほど」
 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下のはじまで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱のきばしらたてに立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件ひとじけんであった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間いっけん取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
 継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にもかなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似てまねまでして見せた。
「こうやってともに向けるんだから、かなわないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、うちのお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっとうれしがってよ。延子さんはハイカラだって」
 二人が声を出して笑い合っているそばに、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫ともぬいもんを付けて、セルの行灯袴あんどんばかま穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶あいさつでもして通り過ぎるように、鄭重ていちょうな態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子はあかくなった。
「もう這入はいりましょうよ」
 彼女はすぐお延をうながして内へ入った。

        四十九

 場中じょうちゅうの様子は先刻さっき見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女なんにょの姿が、まるで人の頭の上を渡っているようにわずらわしくながめられた。できるだけ多くの注意をこうとする浮誇ふこの活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾ふんしょくであった。
 比較的静かな舞台ぶたいの裏側では、道具方の使う金槌かなづちの音が、一般の予期をそそるべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕のうしろ拍子木ひょうしぎを打つ音が、まわされた注意を一点にまとめようとする警柝けいたくように聞こえた。
 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間まくあいを、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟しげきを盛って、他愛たわいなく時間のために流されていた。彼らは穏和おだやかであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の呼息いきに酔っ払った彼らは、少しめかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
 席に戻った二人は愉快らしく四辺あたりを見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らをねらっていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたしさがしてあげましょうか」
 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へてがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ににんまえぐらいふとってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗きれい友染模様ゆうぜんもようの背中が隠れるほど、帯を高く背負しょった令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさをこらえるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹をたしなめた。
「百合子さん」
 妹は少しもこたえなかった。例の通りちょっと小鼻をふくらませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度のかたわらに、お延が年相応の分別ふんべつを出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶ごあいさつをして来ましょうか。ましていちゃ悪いわね」
 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちをきらっているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気おぼろげな理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信もともなっていた。先刻さっき双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶あいさつに行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易たやすく果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかとあんに願っていた。
 叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ごめんこうむってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上めしやがるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」

        五十

 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けてもらった戸の隙間すきまから中をのぞいた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談たちばなしを、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がそのあとへ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体からだの位置をかえるのさえ臆劫おっくうそうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後うしろを向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前をふさいで邪魔だろう」
 一夜作いちやづくりの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺あたりへ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けたためしのない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつきあいだと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色のなまちろい変な男が柳の下をうろうろしていた。荒いしまの着物をぞろりと着流して、博多はかたの帯をわざと下の方へめたその色男は、素足に雪駄せった穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳のそばにある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。しかるに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、せき一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分うしろを向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらにいた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居しばやへ行くなんて不埒千万ふらちせんばんだとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
 小声でさえ話をするものが周囲あたりに一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌ごきげんを損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
 お延はうるさそうにまゆを動かした。面白半分調戯からかって見た岡本は少し真面目まじめになった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居しばやを見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
 お延の眼は急に舞台を離れた。
理由わけっていったい何」
「今ここじゃ話しにくいがね。いずれ後で話すよ」
 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食ばんめしを食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
 先刻さっきまで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部クラブから」
 二人の会話はそこで途切とぎれた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっとうしろの戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語ささやいた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間まくあいにどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
 叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
 男はまた戸をそっとてて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。


底本:「夏目漱石全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1988昭和63年6月28日第1刷発行
親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971昭和46年4月から1972昭和47年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
1999年7月17日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字JIS外字が使われている。

ほのお
気※きえん
き※むしって
かきがね



■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
  ルビ処理(ルビの表記を<RUBY>タグに変更)
  行間処理(行間180%)
  段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)
変更作業:里見福太朗
変更終了:平成13年9月