明暗(151〜188)
夏目漱石
百五十一
けれども自然は思ったより頑愚であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
それは昂奮したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」
「ここを出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合がよさそうだから」
「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」
津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」
気の緩んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
「ね、行ってもいいんでしょう」
「そうだね」
「いけないの」
「いけない訳もないがね……」
津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑の眸が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻の波瀾から来た影響は彼にもう憑り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提さげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」
「ああ嬉しい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
お延は厭な顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅はどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ」
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。津田は拒めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」
この辺で話を切り上げようとした津田は的が外れた。お延は掴んだ袖をなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ」
せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳を思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
津田はまた行きつまった。そうしてまた危い血路を開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
お延は固より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼を満足させるため、かつはいったん約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴さ。しようのない奴には違ないけれども、あいつがこうなった因りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現にここへ来て公言して威張ってるんだからね、実際始末に了えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」
ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない」
こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」
二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。
百五十三
津田の辛防しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極好い具合です。出血も口元だけです。内部の方は何ともありません」
六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止まりませんか」
「いや、もうほとんど止まりました」
出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損なったらどうなるんでしょう」
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
「出るのは明後日ぐらいで差支えありません」
津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽な遣口であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです」
津田はその晩から粥を食い出した。久しく麺麭だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを対照に置く薄粥の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜る事ができた。
療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体の楽になった彼は、寝転ろんでただ退院の日を待つだけであった。
その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「宅の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵えてくれた※袍で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」
お延は笑いながら夫を冷嘲した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞が旨くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」
お延は問題の※袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞りの模様の入った縮緬の兵児帯をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作であった。それほど軽く※袍の中味を見ていた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる※袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」
無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動していた。※袍は何かの象徴であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯の先をこま結びに結んだ。
やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
百五十四
目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ止した方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお逢いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」
お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談に押すと、押したこっちがかえって手古摺らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目な方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固より本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね」
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
この好い加減な無駄口の前に、お延は微かな溜息を洩らした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって駄目だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」
苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴むような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、いつか一度このお肚の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」
「いつか一度?
だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」
「いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
真面目なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄り廻していた鳥の翅が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
こう云って立ち上がった彼の後を送って玄関に出たお延は、帽子かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
百五十五
小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒を彼に与えるに足りなかった。有体に云えば、彼は小林に対して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客の位地をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。
停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
もうだいぶ待ち草臥れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地は津田の降りた舗床と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。のみならず小林は真面にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。
二人の後には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事ができた。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まない※々たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵を回らした。そうして二人の立っている舗道を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出されなかった。それにもかかわらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな襟飾を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉を供えた品の好い食堂であった。
大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原で、四五遍食いに来た因縁を措くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
彼は容赦なく扉を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰ででもあるような風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
百五十六
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐っている食卓の傍まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉の火の色が、白いものの目立つ清楚な室の空気に、恰好な温もりを与えた。
津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅は。ちょっと綺麗で心持が好いじゃないか」
小林は気がついたように四辺を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装をしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確だろう。僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉るな」
津田は少し悪い気色を外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
津田は空っ惚ける事の得意なこの相手の前に、真面目な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰わしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談じゃない」
「本当に笑談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障らず話を傍へ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕まらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味いかい」
「不味かない、旨いよ」
「そりゃ好い案配だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵わないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜もあるもんかね」
津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
百五十七
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物は、あらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草があるんだ。僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」
この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※には、わざと酔の力を藉ろうとする欝散の傾きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」
「ありがとう」
「いや嘘じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの」
胡散臭いなという眼が小林の眉の下で輝やいた。
「へええ。本当かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」
津田は黙って懐へ手を入れた。小林はその所作を眺めながら、わざとそれを止めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇した。その代り話頭を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
津田は逆らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
津田は薄笑いをした。小林は真面目であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
津田は心の中でその幾分を点頭いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終君に軽蔑される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
小林はここまで来て少し昂奮したような気色を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕の好意に対して、僕はまた留別のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒も、どっちも無差別に旨いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田はてんから相手を見縊っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
百五十八
しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴されながら、前後の勢ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明な君を煩わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ?
なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩においてをやだ」
彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目なんだからおかしいや」
小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊かれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚りながらここまで来るには相当の修業が要るんだからね。いかに痴鈍な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ」
津田は小林の得意が癪に障った。此奴が狗のような毒血を払ってはたして何物を掴んでいる?
こう思った彼はわざと軽蔑の色を面に現わして訊いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
小林は嬉しそうに身体を椅子の背に靠せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
津田は厭な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ」
津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」
津田は一気に洋盃を唇へあてがって、ぐっと麦酒を飲み干した小林の様子を、少し呆れながら眺めた。
百五十九
小林は言葉を継ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴の客のうち、一組の相手は洗指盆の中へ入れた果物を食った後の手を、袂から出した美くしい手帛で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻から時々自分達の方を偸むようにして見る二十五六の方は、※※茶碗を手にしながら、男の吹かす煙草の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」
津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎しんでくれ、こんな所へ来て」
「厭に小心だな。おおかた場末の酒場とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅い男だな」
小林はむっとした津田の顔を覗き込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶の坊と同なじ事だって」
「そうだそうだ。世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ」
何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴の方を一順見廻した後で、云った。
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」
小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人も給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」
小林は出て行く女伴の後影を見送った。
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」
彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事ができずに、糞と味噌をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹の問題だという顔をして高を括っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」
津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻がえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
百六十
小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変淡泊りしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙に気取って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ」
津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
小林は相手の調子と顔つきを、噛んで味わいでもするように、しばらく間をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云つけられたって」
「心配しない?
そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」
彼は給使の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人怒る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太を踏んで口惜しがる」
「いつそんな様を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟られている所以だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」
「そう頭から自分の拵えた型で、他を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。観察の下卑て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野なところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以なんだ」
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから畢竟口先じゃ駄目なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ」
津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭になるだけだから」
小林は新らしい十円紙幣の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
百六十一
小林は受け取ったものを、赤裸のまま無雑作に背広の隠袋の中へ投げ込んだ。彼の所作が平淡であったごとく、彼の礼の云い方も横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰ってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下すような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の寝言見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻から攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
小林は眼をぱちぱちさせた後でこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子よだ」
小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋を、わざとらしく軽く叩いた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送りに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行しないよ」
津田はほぼ小林の言葉を、意解する事ができた。しかし事解する事はできなかった。したがって半醒半酔のような落ちつきのない状態に陥った。そこへ小林の次の挨拶がどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁を首肯するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩手古摺らされた酒場の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例えばだね、君がこの間僕の留守へ外套を取りに行って、そのついでに何か妻に云ったという事も――」
津田はこれだけ云って暗に相手の様子を窺った。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度する事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割くような悪戯をしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚はないよ」
「しかし先刻……」
「先刻は笑談さ。君が冷嘲すから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊き糺して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍に立った。
百六十二
それが先刻大通りの角で、小林と立談をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗にこの男を待ち受けていた期待も交っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
実を云うと、自働車の燭光で照らされた時、彼の眸の裏に映ったこの人の影像は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際ってるのかな」
こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後なので、新来者に対する彼の態度も自ずから明白であった。彼は突然胡散臭い人間に挨拶をされたような顔をした。
上へ反っ繰り返った細い鍔の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雑して起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭な気持になった。小林は青年に向って云った。
「おいマントでも取れ」
青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽をすぽりと脱いで、それを椅子の背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」
小林は始めて青年を津田に紹介せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨く行ったかね」
これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」
小林はたちまちナイフを倒さまにして、やけに食卓を叩いた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
やがて原の前にあった洋盃の中に麦酒がなみなみと注がれた。
この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家へ持って行って見せる事にしたら」
津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
青年は傷けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
津田はだんだん辛防し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止めながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」
津田はこの問答を聴いてほっと一息吐いた。
百六十三
二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派とか未来派とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処にも興味を見出だし得なかった彼は、会談の圏外へ放逐されるまでもなく、自分から埒を脱け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田は厭がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見の上へ、乙に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉で突き差した手を止めた。
「どうぞお構いなく」
津田が軽く会釈を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐らなくっちゃ」
仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂から煙草を出して火を点けた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸でもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑もうとする一本も、三分経つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻から云ってるじゃないか」
小林は右の手で背広の右前を掴んで、左の手を隠袋の中へ入れた。彼は暗闇で物を探るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠めて過ぎた。
「此奴は懐から短銃を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
芝居じみた一刹那が彼の予感を微かに揺ぶった時、彼の神経の末梢は、眼に見えない風に弄られる細い小枝のように顫動した。それと共に、妄りに自分で拵えたこの一場の架空劇をよそ目に見て、その荒誕を冷笑う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻放り込んだ札でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片と違って活きてるから。こうやって、手で障って見るとすぐ分るよ。隠袋の中で、ぴちぴち跳ねてる」
小林は減らず口を利きながら、わざと空しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
彼は左胸部にある表隠袋へ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮み出したものは皺だらけになった薄汚ない手帛だけであった。
「何だ手品でも使う気なのか、その手帛で」
小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
彼の洋袴の隠袋から引き摺り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳ゃないやね、少し長いけれども」
封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
百六十四
ペンで原稿紙へ書きなぐるように認められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。のみならず宛名は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴いた事もない全く未知の人であった。津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。けれども冷やかな無関心の傍に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて飽っぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜が不用心だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画を習いに行くがいい。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家の始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻まで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「宅の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極めて冷やかな極めて吝嗇な人達です。だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家へ帰って飯を食わして貰いました。兵糧が尽きて焼芋や馬鈴薯で間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦りを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎をかけたりします。
こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻窮りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟ってくるんです。それを他に話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐くなって来るのです。土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮ぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管の中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷もないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
手紙はここで終っていた。
百六十五
その時先刻火を点けて吸い始めた巻煙草の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙の上に落ちた。津田は竪横に走る藍色の枠の上に崩れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
彼はそこでとまった。そうして※徊した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
津田はまた躊躇した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止そう」
津田は先刻の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終せた上で、後からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく?
ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
こう云った小林は、手紙を隠袋へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
彼はこう云って原の方を見た。
百六十六
小林の所作は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍った。憎悪の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体を通過した。
同時に聡明な彼の頭に一種の疑が閃めいた。
「此奴ら二人は共謀になって先刻からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
こう思うのと、大通りの角で立談をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後三人の間に起った談話の遣取とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火のようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺れッ枯らしの拵え上げた狂言の落所だったのか。馬鹿奴、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
彼は傷けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨くどさりと引繰り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間にか狼狽の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇があった。掴みかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々真その物の発現であった。作りもの、え事、馴れ合いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後から継いで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥ぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白い青年が、ついに紙幣の方へ手を出さないとすると、小林の拵えたせっかくの狂言も半分はぶち壊しになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕うのには便宜な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷の望を抱いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財だ。拾ったものが功徳を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
忌々しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁の好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
表へ出た三人は濠端へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜を仰いだ。
百六十七
間もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場へ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合のない事夥だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日から旅行するんだから」
「旅行?
どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物だ。僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるよりも、事実その物に戒飭される方が、遥かに覿面で切実でいいだろう」
これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
明る朝は風が吹いた。その風が疎らな雨の糸を筋違に地面の上へ運んで来た。
「厄介だな」
時間通りに起きた津田は、縁鼻から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午ぐらいから晴れるかも知れないわね」
お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後れると一日徒為になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥の抽斗から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅にいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥を駆って宅を出る事ができた。
周囲の混雑と対照を形成る雨の停車場の佗しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶をした。
「あいにくなお天気で」
それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
書生は手に持った果物の籃を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
汽車が出る時、黙って丁寧に会釈をした書生に、「どうぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
百六十八
お延の気を利かして外套の隠袋へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外の空模様はだんだん悪くなって来た。先刻まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す眼の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄まじく感ぜられた。
雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒した時、彼は荒涼なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較べた。身体を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝いて外部へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独り肩を竦めた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子を打つたびに、点滴の珠を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好の男が少し上半身を前へ屈めて、向側に胡坐を掻いている伴侶に話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路が壊れやしないかね」
彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
これが相手の答であった。相手というのは羅紗の道行を着た六十恰好の爺さんであった。頭には唐物屋を探しても見当りそうもない変な鍔なしの帽子を被っていた。煙草入だの、唐桟の小片だの、古代更紗だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
この挨拶のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
中折に駱駝の外套を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介だよ。あの軽便へ雨曝しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室の中へ入れて貰う事にしよう」
二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶へ穴が開いて動けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫えちまわあね」
津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数を省いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
百六十九
汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後から後からと、あたかも前に行くものを追かけるように、隙間なく詰め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻会った二人伴の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝しになるのを苦に病んだほどの大嵩なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊いてみるんだ。だが大体間違はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶を顧みた。中折の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
この天眼通に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食を認ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貪ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼っていた。彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
基点に当る停車場は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
爺さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝かけを敷く余地を拵えてくれた。
「今日は空いてて結構です」
爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月に渉って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
彼は自分の傍に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。
百七十
軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡から叩き起した。
「まだ仮橋のままでやってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
本式の橋が去年の出水で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構の家を指して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着をきめ込みやがって、掛けかえねえんでさあ」
津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物の籃もあった。その葢を開けて、二人の伴侶に夫人の贈物を配とうかという意志も働いた。その所作から起る手数だの煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々と点綴していた。
「あいつは旨そうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗だよ」
比較的嶮しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場でもないそこに見えるものは、多少の霜に彩どられた雑木だけであった。
「どうしたんだ」
爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
急に予言者らしい口吻を洩らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家を出る時に、水盃は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後にして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後れちまったよ、大将、お蔭で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐がないだろう」
「全くだ」
津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮の空気の中に出た。
百七十一
靄とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾むきかかった藁屋根、黄色い幌を下した一頭立の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊の配合を、なおの事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗、――すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟馬鹿だから?
いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
この感想は一度に来た。半分とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分の猶予なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乗るか俥にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦して退けた。
彼はやがて否応なしにズックの幌を下した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の目指している宿屋の手代であった。
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて御者台の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
「夜中はもうだいぶお寒くなりました」
御者台を背中に背負ってる手代は、位地の関係から少しも風を受けないので、この云い草は何となく小賢しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強いて向うから口を利こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭さまで」
「何人ぐらい」
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ですな、繁昌するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍を塞いでいた。台上から飛び下りた御者はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌ぐほどの高い樹が聳えていた。星月夜の光に映る物凄い影から判断すると古松らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経つ今日まで、いまだこの女の記憶を失くした覚がなかった。こうして夜路を馬車に揺られて行くのも、有体に云えば、その人の影を一図に追かけている所作に違なかった。御者は先刻から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止せばいいと思うのに、濫りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人?
いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身?
この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため?
会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため?
あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓の存在を憶い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を跟けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者は馬の轡を取ったなり、白い泡を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電灯がすぐ津田の眸に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火だ。それを目標に辿りつくよりほかに途はない」
詩に乏しい彼は固よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家はどれだい」
「へえ、もう一丁ほど奥になります」
ようやく馬車の通れるくらいな温泉の町は狭かった。おまけに不規則な故意とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑としていた。夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室へ案内された彼は、好時季に邂逅せてくれたこの偶然に感謝した。性質から云えばむしろ人中を択ぶべきはずの彼には都合があった。彼は膳の向うに坐っている下女に訊いた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」
下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね」
彼は清子のいる見当を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでもございません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、ちょっと見せて貰いたいな」
「お湯にいらっしゃる時、この室の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」
「拝見できるのか、そいつはありがたい」
津田は女のいる方角だけ教わって、膳を下げさせた。
百七十三
寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気がついた。意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、目的の湯壺を眼の前に見出した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった。
「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために擦硝子の篏った戸をがらがらと開けてくれた。中には誰もいなかった。湯気が籠るのを防ぐためか、座敷で云えば欄間と云ったような部分にも、やはり硝子戸の設けがあって、半分ほど隙かされたその二枚の間から、冷たい一道の夜気が、※袍を脱ぎにかかった津田の身体を、山里らしく襲いに来た。
「ああ寒い」
津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「ごゆっくり」
戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。
「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」
来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下がまだあろうとは思えなかった。
「いったい何階なのかね、この家は」
下女は笑って答えなかった。しかし用事だけは云い残さなかった。
「ここの方が新らしくって綺麗は綺麗ですが、お湯は下の方がよく利くのだそうです。だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます」
湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「ありがとう。じゃ今度そっちへ入るから連れてってくれたまえ」
「ええ。旦那様はどこかお悪いんですか」
「うん、少し悪いんだ」
下女が去った後の津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事ができなかった。
「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」
彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。どっち本位で来たのか、それは彼の心がよく承知していた。けれども雨を凌いでここまで来た彼には、まだ商量の隙間があった。躊躇があった。幾分の余裕が残っていた。そうしてその余裕が彼に教えた。
「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放り出そうとするのか。では自由を失った暁に、お前は何物を確と手に入れる事ができるのか。それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前しないのだよ。お前の過去にあった一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」
津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
彼には最初から三つの途があった。そうして三つよりほかに彼の途はなかった。第一はいつまでも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三すなわち彼の目指すところは、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。
この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、煙の出る湯壺に漬けられ、いよいよ目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日からでも実行に取りかかれるという間際になって、急に第一が顔を出した。すると第二もいつの間にか、微笑して彼の傍に立った。彼らの到着は急であった。けれども騒々しくはなかった。眼界を遮ぎる靄が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。
思いのほかに浪漫的であった津田は、また思いのほかに着実であった。そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。だから自己の矛盾を苦にする必要はなかった。彼はただ決すればよかった。しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭だ、そうだ馬鹿になるはずがない。――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
人のいない大きな浴槽のなかで、洗うとも摩るとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉をざぶざぶ使った。
百七十四
その時不意にがらがらと開けられた硝子戸の音が、周囲をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込んでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
生れてからまだ一度も顔を合せた覚のないその婦人は、寝掛と見えて、白昼なら人前を憚かるような慎しみの足りない姿を津田の前に露わした。尋常の場合では小袖の裾の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢の派手な色が、惜気もなく津田の眼をはなやかに照した。
婦人は温泉煙の中に乞食のごとく蹲踞る津田の裸体姿を一目見るや否や、いったん入りかけた身体をすぐ後へ引いた。
「おや、失礼」
津田は自分の方で詫まるべき言葉を、相手に先へ奪られたような気がした。すると階子段を下りる上靴の音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空いてるだろう」
「勝さんはいないかしら」
津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰わなかった。彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据えて、また浴槽の中へ身体を漬けた。
彼は背の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉の中で上下へ動かしながら、透き徹るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢を得意に眺めた。
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
勝さんのこの挨拶には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古はお済みですか」
「お済みって訳でもないが」
次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞がってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵えたのはないの」
「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」
二人を案内したらしい風呂場の戸の開く音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽の入口ががらりと鳴った。
「今晩は」
四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那流しましょう」
彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶へ湯を汲んだ。津田は否応なしに彼に背中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今聴いたばかりだ」
「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」
「そうだ」
勝さんは何時の下りだの、上りだのという言葉を遣って、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅のお上さんは長唄が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取も直さず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸の外へ出た。しかし濡手拭をぶら下げて、風呂場の階子段を上って、そこにある洗面所と姿見の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
百七十五
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻下女に案内されて通った路なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈すだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室らしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。
「はてな、もっと後かしら。もう少し先かしら」
電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにも聴えなかった。用事で往来をする下女の姿も見えなかった。手拭と石鹸をそこへ置いた津田は、宅の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事はどこからも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女の溜りのある見当を知らなかった。個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在は、すべて彼にとっての秘密と何の択ぶところもなかった。
手を鳴らす所作を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興も手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
廊下はすぐ尽きた。そこから筋違に二三度上るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所を彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶さに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。
あたりは静かであった。膳に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯って、おおかたこのくらいだろうと暗に想像したよりも遥かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈なく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。
胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。
百七十六
するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異なるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮ぎる壁を目標に置いて、大凡の見当をつけると、畳一枚を竪に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上らない津田の想像で判断するよりほかに途はないとして、今聴えた障子の音の出所は、一番階段に近い室、すなわち下たから見える壁のすぐ後に違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」
彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心が有心に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
彼女は普通の湯治客のする通り、寝しなに一風呂入って温まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入を裸のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那の光景を辿るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻風呂場で会った婦人ほど縦ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞が綺麗に通っている派手な伊達巻を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製の上靴を突かけた素足の甲を被っていた。
清子の身体が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。
百七十七
その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川が軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇に響がないし、谿川としては勢が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥か重大な主題のために悩まされていた。
彼は室に帰ると、いつの間にか気を利かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出したので、すぐその中へ潜り込んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽ったのである。
彼はこの宵の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者のような気がした。彼の行為は、目的もなく家中彷徨き廻ったと一般であった。ことに階子段の下で、静中に渦を廻転させる水を見たり、突然姿見に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌を逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違なかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
彼は実際廊下をうろうろ歩行いているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当だと心得てさえいたならば、ああ不意打を食うんじゃなかったのに」
こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上り口の案内を閉塞した所作、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴の音、これらのものを綜合して考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡に予期があり、彼女には突然の中にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面に感じてはいないだろうか。
彼女は蒼くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋いだ。今の自分に都合の好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返して、反対の側からも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚は、胸の中にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎の区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具わっているらしく見えた。結果は分明であった。彼は叱りながら己惚の頭を撫でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌んだ。
かくして互いに追つ追われつしている彼の心に、静かな眠は来ようとしても来られなかった。万事を明日に譲る覚悟をきめた彼は、幾度かそれを招き寄せようとして失敗ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返りの数を重ねるだけであった。
彼は煙草へ火を点けようとして枕元にある燐寸を取った。その時袖畳みにして下女が衣桁へかけて行った※袍が眼に入った。気がついて見ると、お延の鞄へ入れてくれたのはそのままにして、先刻宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の※袍に対してお延に使ったお世辞をたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」
※袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然であった。※袍を見較べると共に、細君を前に置いて、内々心の中で考えた当時の事が再び意識の域上に現われた。
「お延と清子」
独りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴いたなり、すぐ夜具を頭から被った。
強いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。
百七十八
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛うじて持続した。室の四角が寝ていられないほど明るくなって、外部に朝日の影が充ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼はまだ重かった。彼は楊枝を使いながら障子を開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に拵えて、その周囲に稚い松だの躑躅だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。彼の室に近い築山の間から、谿水を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜彼の睡眠を悩ました細工の源を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推し移った。大根を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。
彼が銜え楊枝のまま懐手をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻から高箒で庭の落葉を掃いていた男が、彼の傍へ寄って来て丁寧に挨拶をした。
「お早う、昨夜はお疲れさまで」
「君だったかね、昨夕馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」
「へえ、お邪魔様で」
「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家だね」
「いえ、御覧の通り平地の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児になって弱ったよ」
「はあ、そりゃ」
二人がこんな会話を取り換わせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。黄葉と枯枝の隙間を動いてくる彼らの路は、稲妻形に林の裡を抜けられるように、また比較的急な勾配を楽に上られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代はじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田を放り出した現金な彼は、すぐ岡の裾まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶を与えた。
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕艶めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違なかった。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷をいつの間にか崩して、尋常の束髪に結い更えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。彼はさらに声を聴いただけで顔を知らなかった伴の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影を宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰めて当人のしばしば用いる堀庄という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染みていはしまいかと思われた。瞥見のついでに纏められた津田の想像はここにとどまらなかった。彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中に置いた。したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。彼は楊枝で歯を磨りながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
女は番頭に訊いた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに今朝ごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」
「じゃちょっと伺って参りましょう」
「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう真面目くさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」
二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中をいっぱいにしながら、また昨夜の風呂場を探しに廊下へ出た。
百七十九
しかし探すなどという大袈裟な言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。路に曲折の難はあったにせよ、一足の無駄も踏まずに、自然昨夜の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧いて出た。
風呂場には軒下に篏めた高い硝子戸を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸越に岩だか土堤だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉に浸けながら、いかに浴槽の位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。そうしてこの崖と自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半乃至二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中に幾層もあるはずだという事に気がついた。
崖の上には石蕗があった。あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。山茶花の花の散って行く様も湯壺から眺められた。けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡に違なかった。けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆った。すぐ崖の傍へ来て急に鳴き出したらしい鵯も、声が聴えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで遥かそれ以上気にかかる事件を捏ね返していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々のうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出さなかった彼は、万事君の跋扈に任せるといった風に寂寞を極めた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄ててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉て切られた戸にかかった時、彼は急に躊躇した。彼は固より無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。仕方なしに外部から耳を峙てたけれども、中は森としているので、それに勢を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。
すでに裸になって、湯壺の中に浸った後の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕と今朝の間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
それは主のないスリッパーに唆のかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起に横浜の女と番頭の噂さに上った清子の消息を聴かされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止めた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上って行くように思われた。彼はその源因を想像した。他の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌した。
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽の外側に聞いた。それは彼が石蕗の花を眺めた後、鵯鳥の声を聴いた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、崖の上は幾坪かの平地で、その平地を前に控えた一棟の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙かされた庇の下の硝子戸が今日は閉て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖の上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非受け応えの挨拶が出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室に帰って朝食の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外した。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人にしちゃあんまり粋過ぎるじゃないか」
下女は答える代りに、突然清子を引合に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄です」
間取の関係から云って、清子の室は津田の後、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出した彼はようやく首肯いた。
「するとちょうど真中辺だね、ここは」
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑なもんですから。昨日も公園へいっしょにお出かけでした」
津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体がお悪いんです」
「旦那さんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽たように話を外らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺さんです。こんなに白い髯を生やして」
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗にこの老先生の用向と自分の用向とを見較べた。無事に苦しんで義太夫の稽古をするという浜の二人をさらにその傍に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極めなければならない季節に、この家へ入り込んでくる客の人数を挙げた。
百八十一
食後の津田は床の脇に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛を記した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝だの、ルナ公園だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親宛の分がまたたく間に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚の方へ逆戻りをして、甥の真事だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他の意味は別として、ただ在所を嗅ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙だてた。するといったん緒口の開いた想像の光景はそこでとまらなかった。彼を拉してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」
「どういう理由で」
「理由も糸瓜もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、いつまで経ってもどこへ行っても、ただ追かけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然拳を固めて小林の横ッ面を撲らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室の真中へ踏ん反り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中の視聴を脅かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸な想像の一幕を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬の内側が熱って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他に対して面目を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢に横わっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴はただ小林になった。
「おれに何の不都合がある。彼奴さえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々しくっていけない、昨夜会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当り障りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違い棚の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸した。彼は果物籃の葢の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿し込んだ後で、下女を呼んだ。
「宅に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解く好い方便に違なかった。単に彼と応接する煩わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑を避けようとするのが彼女の当体であったにしたところで、果物籃の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層苦にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面へ手を延ばして見たりした。やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴えた時に、わざと取り繕った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪を結って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
津田は女の髷がそんなに雑作なく結える訳のものでないと思った。
「銀杏返しかい、丸髷かい」
下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」
やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分に駄目を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭だからね」
「旦那様はずいぶん疑り深い方ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
兵児帯を締め直した津田の後ろへ廻った下女は、室を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。夢遊病者として昨夕彷徨った記憶が、例の姿見の前へ出た時、突然津田の頭に閃めいた。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊き返した。
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
客商売をする宿に対して悪い洒落を云ったと悟った津田は、賢こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段の途中で始まったこの会話は、上り口の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。
「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を睨めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利きますね。猟犬よりたしかですよ」
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞していた。
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は外部から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子をすうと開けてくれた。
「御免下さい」
一言の挨拶と共に室の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
百八十三
室は二間続きになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床のない控えの間の方であった。黒柿の縁と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞の厚い座蒲団を据えて、その傍に桐で拵らえた小型の長火鉢が、普通の家庭に見る茶の間の体裁を、小規模ながら髣髴せしめた。隅には黒塗の衣桁があった。異性に附着する花やかな色と手触りの滑こそうな絹の縞が、折り重なってそこに投げかけられていた。
間の襖は開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立らしい寒菊の花を見た。前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶に染めた縮緬のなかに、牡丹か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席につかない先にまず直感した。
「すべてが改まっている。これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう」
突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
しかしこの距離はどこから起ったのだろう?
考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。では、なぜそれを忘れていたのだろう?
考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
津田がこんな感想に囚えられて、控の間に立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅から現わした。それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解せなかった。また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。あるいは室を片づけてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚りかかりでもして、山に重なる黄葉の色でも眺めていたのかも知れなかった。それにしても様子が変であった。有体に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢ほど彼の気色に障らなかった。というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。
津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠していた。どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がえす燕のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」
疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。もし津田が室に入って来た時、彼の気合を抜いて、間の合わない時分に、わざと縁側の隅から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。
「また何か細工をするな」
彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作が演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」
緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚しい早技で取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。
その上清子はただ間を外しただけではなかった。彼女は先刻津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃を両手でぶら提げたまま、縁側の隅から出て来たのである。どういうつもりか、今までそれを荷厄介にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛にならないのは明かであった。それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違なかった。少くとも不器用であった。何だか子供染みていた。しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。
「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」
重そうに籃を提げている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。
百八十四
すると清子はその籃をすぐ下女に渡した。下女はどうしていいか解らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。しかし普通の場合に起る手持無沙汰の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来ずにすんだ。彼はただ間の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜の記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼らない人が、どうしてあんなに蒼くなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産をありがとう」
これが始めて彼女の口を洩れた挨拶であった。話頭はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘を吐く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴になったお爺さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」
「あらどうして」
津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中始終手にでも提げていらしったの」
津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴えた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同なじ人間ですもの」
この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら逢わせてやってもいいがね」
「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
彼女は人指指を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様のこれにはとても敵いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭で嗅ぎ分ける方なんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
下女はこう云って立ち上った。しかし室を出がけにまた一句の揶揄を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
日当りの好い南向の座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干を背にして日に背いて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞が、幾段にも重なり合って、日向日裏の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩どる黄葉の濃淡がまた鮮やかな陰影の等差を彼の眸中に送り込んだ。しかし眼界の豁い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子と、その障子の一部分を遮ぎる津田の影像だけであった。彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
彼女の顔は、昨夕と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅かった。しかしそれは強い秋の光線を直下に受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。
百八十五
こんな場合にどっちが先へ口を利き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分の寛ぎさえ残しておく事のできない性質に生れついていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。勢い津田は始終受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞めなければならなかった。
ところが清子を前へ据えると、そこに全く別種の趣が出て来た。段取は急に逆になった。相撲で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。
二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間にか蘇生していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違ないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。しかも昔しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰をしていっこうお目にかかりませんが」
津田は何の気もつかなかった。会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日まで自分ら二人の間に起った感情の行掛り上から考えても、またそれらの纏綿した情実を傍に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案しなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念さえなく、ただ無雑作に話頭に上せた津田は、まさに居常お延に対する時の用意を取り忘れていたに違なかった。
しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶ぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂を致しております」
「ああそうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」
「良人も同なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
「そうですね」
こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊いて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵れていた。
しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出した。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具っていた。それを口にして苦にならないほどの淡泊さが現われていた。ただそれは津田の暗に予期して掛ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」
津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張っていた。そうしてその自分に「私」という名を命ける事のできなかった津田は、飽くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人に対する黒人であった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。
表で認めて裏で首肯わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。
百八十六
「昨夕は失礼しました」
津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘いどころであった。
「私こそ」
清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」
もしそれを憶い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。
「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」
「じゃ止して下さればよかったのに」
「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」
「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」
「そうですか知ら」
故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻が、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」
「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」
津田は水盤に溢れる水を眺めていたに違なかった。姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛を取って頭まで梳いてぐずぐずしていたに違なかった。
「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」
「なるほど、そりゃそうね」
清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
単純なこの一言は急に津田の機鋒を挫いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止します」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴かせて下さればいいんです」
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」
今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑に落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」
「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃいけません」
「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」
「なるほど」
津田は腕を拱いて下を向いた。
百八十七
しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目を押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕階子段の上で、あなたは蒼くなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから硬くなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん吃驚したわ」
「それで」と云いかけた津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。滴るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐるぐると剥けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎を剥いてくれたんだっけ」
ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝下女が結ってやったというその髪は通例の庇であった。何の奇も認められない黒い光沢が、櫛の歯を入れた痕を、行儀正しく竪に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊きたいのはですね――」
清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
清子は俯向いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息を吐くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑えつけた。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」
冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
百八十八
津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」
清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊いた。
「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」
津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」
二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」
津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退き方を見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女はどこまでも逼らなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。
眼で逃げられた津田は、口で追かけなければならなかった。
「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
津田はつい「こっちでもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。しかし何にもそこに頓着していないらしい清子の質問は正直であった。
「それであなたもどこかお悪いの」
津田は言葉少なに病気の顛末を説明した。清子は云った。
「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」
「関君こそ酔興なんだから仕方がない」
「可哀想に、まさか」
「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」
「まあ、お上手だ事」
この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻とは違った下女がそこへ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」
「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。
「ありがとう。時にもうお午なのかい」
「ええただいま御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。
――未
完――[#行末より2字上げ]
1988年6月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971年4月から1972年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
1999年7月17日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
本文中の※は、底本では次のような漢字が使われている。
※袍 |
|
※々たる髪の毛 |
|
気※ |
|
※※茶碗 |
|
※徊 |
|
落※ |
|
■上記ファイルを、里実文庫が次のように変更しました。
変更箇所
ルビ処理(ルビの表記を<RUBY>タグに変更)
行間処理(行間180%)
段落処理(形式段落ごとに<P>タグ追加、段落冒頭の一字下げを一行下げに変更)
変更作業:里見福太朗
変更終了:平成13年9月